堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

民間ユネスコ活動と世界遺産・地域遺産

2021-03-01 00:07:22 | ユネスコ

アイデンティティーの仕掛けとしての歴史・文化遺産活動

 堺の歴史遺産を例として

前田秀一 プロフィール

 

 

 2019年7月月6日、大阪の永年の念願であった百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しました。

 来る2019年10月5日(土)から6日(日)にかけて、「近畿ユネスコ活動研究会 in 大阪」が堺市(堺市総合福祉会館)で開催され、事例発表、分科会報告およびエクスカーションの全てが近畿にある三つの世界文化遺産に関連した内容で行われます。

 堺にとって記念すべき7月6日、副題「民間ユネスコ活動と世界遺産・地域遺産」と設定して、第2回「ESD・SDGsと民間ユネスコ活動」研修会が開催され、堺の歴史遺産を例として「アイデンティティーの仕掛けとしての歴史・文化遺産活動」について報告しました。

 40年前、我が家の隣にフランス人J.M.Cambou一家4人が引っ越してきて、その後3年間我が家の家族とパントマイム交じりのボディー・ランゲージで心の通ったお付き合いをしました。

 カンブーCambouさんが勤めるフランスのエンジニアリング会社が北海油田採掘リグを受注し、その製造を堺の臨海工業地帯にあった日立造船違船に発注され、設計技術者として家族ともども来堺されました。

 家族は、ご夫婦と、当時小学校2年生(通信教育)の長男・クリストフChristophと近くの幼稚園年少組に通った長女・キャロリーンCarolineの4人でした。

 カンブーさんは、仕事がら英語会話ができましたが、奥様以下子供たちは、当初、フランス語しか話せず、歓迎の意を表して受け入れた我が家の家族とは、ボディー・ランゲージで、むしろ心を通わせた交流がはじまり、その中で相互に忌憚なく異文化を学び合いました。

 身近に見る我が家の生活文化をはじめ、堺に所在する百舌鳥古墳群、大阪城、京都・奈良の神社仏閣など日本の歴史や文化に驚くほど強く関心を持たれ、さすが文化の国の人と感じることがありました。

 3年後帰国する際には、我が家で馴染んだ酒徳利・盃や食器一式と義父の水墨画を所望され堺在住記念品として持ち帰えりました。

 1986年、フランスのカンブーさんから「クリストフが高校卒業を機会に、カンボジアへ旅行に出かけ、その後、堺に行くのでよろしく」と電話があり、「政情不安なカンボジアへ?」、「堺へ直行すればよいのに?」と思いながら期待して待ちました。

 しかし、その後、2週間経っても連絡がなく、カンブーさんに彼の動静を訊ねたところ、当時は携帯電話もなく所在不明になっているとのことで、結局、彼は我が家へ来ることはありませんでした。

 2001年、40年間務めたDIC株式会社を退職後、かねての誘いを受けて妻と二人でパリ近郊のカンブーさん宅を訪ね、1週間ホームステイの歓迎を受けました。

「フランス ホームステイの旅」  

 改めて、クリストフから、当時フランスではアンコール・ワット遺跡の荒廃が話題になっており実際に見てみたかったこと、現地では調査団に人手が足りず、請われてボランティア活動に参加したことなど堺に行けなかった事情の説明をうけました。

 1970年、親米のロン・ノル将軍がクーデターを起こしシアヌーク国王を追放して内戦が始まり、政情不安定の中、1989年5月、上智大学の石澤良昭教授が第1回ユネスコ調査団長としてアンコール遺跡の破壊状況を調査し、ユネスコ、カンボジア政府、日本政府へ報告書を提出されました。

 1990年、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場「カンボジアに関する東京会議」が開催され、1991年「カンボジア和平パリ協定」が調印されて20年に及ぶ内戦が終結しました。

 1992年、新憲法発布のもとシアヌーク国王が再即位してカンボジア王国が再興し、世界の支援を受けてアンコール・ワット遺跡が世界文化遺産として登録されました。

 石澤良昭教授をはじめ上智大学の献身的な活動により、日本でも世界文化遺産アンコール・ワット遺跡の修復保存活動の話題が大きくなり、2007年12月アンコール・ワット遺跡を訪ね、新カンボジア国家および国民のアイデンティティーとしてアンコール・ワット遺跡が位置付けられ、その修復に世界が協働していることを目の当たりにしました。

「アンコール遺跡 人類の創造的才能の傑作」

 

 我が家の隣人・フランス人家族が関心を持ったアンコール・ワット遺跡の意義が、その後20年を経た今、改めて私のユネスコ活動の動機づけとなっています。

 我がまち・堺では、「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録が実現し積年の念願を果たしました。

 「百舌鳥古墳群」は、堺のランドマークであり、以来1600年間、堺の歴史と文化風土を意義づける多くの文化財が蓄積し市民の誇りの礎となっています。

 堺ユネスコ協会では、堺市民のアイデンティティーの仕掛けとして歴史および文化遺産を未来へつなぎ、併せて異文化の相互理解と交流を育む心の醸成に取り組みます。

堺の誇り再発見・実地見聞 「堺まち歩き」

 2015年9月、国連は、2030年を目指してSDGs「持続可能な開発目標」を設定し、「だれ一人取り残さない」平和な社会を持続する新たな価値の体系を示しました。

 堺の誇りである「行基」の幾多の事績には、SDGsの理念に重なる点が多くあります。

 堺ユネスコ協会では、SDGsの視座を通して「行基」の事績を考察し、「行基」のテーマの未来への発展性を展望して、身近な「モデル」として示し堺市民がSDGsの意義を共有して持続可能な社会の形成を目指す助けとします。

 

歴史を未来へ! 「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」

活動趣旨   取り組みの成果

 

 

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世界文化遺産登録の摘要基準「古都・京都の文化財」

2021-03-01 00:06:09 | ユネスコ

歩いて見た「世界文化遺産」登録の適用基準
詳しくは こちらから

前田秀一 プロフィール

「古都・京都の文化財」への適用基準と事例 

世界文化遺産登録の適用基準 ⇒ 評価
「2」.ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に 関し、人類の価値の重要な交流を示すもの
⇒(2) 京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとって主要中心地であった。そのように、京都は日本の文化的伝統の創出において決定的な役割を果たし、特に庭園の場合にお いて、それは19世紀以降世界の他の地域において意義深い影響を与えた。

「4」.人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
⇒(4) 京都の現存文化財における建築と庭園設計の集積は前近代における日本の物質文化のこの側面に関する最高の表現である。

実地訪問事例:
 上賀茂神社 (正式名称:賀茂別雷神社)
 下鴨神社 (正式名称:賀茂御祖神社)
 比叡山 延暦寺
 平等院 鳳凰堂 (正式名称:朝日山平等院阿弥陀堂)
 臨済宗 天龍寺 (正式名称:霊亀山天龍資聖寺)
 浄土真宗本願寺派 西本願寺(正式名称:龍谷山 本願寺)

上賀茂神社 (正式名称:賀茂別雷神社)
 神武天皇の御代に、本殿の北北西にある秀峰神山に祭神が御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。
 「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社、伊勢神宮に次ぐ全国神社の筆頭
 賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代氏族の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭り(通称:葵祭)で有名である。
 「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社

 

「細殿」の目の円錐状の二つの砂の山「立砂」はご神体で、神山を模したもの。鬼門、裏鬼門に「清めの砂」をまく起源となっている。

 

新古今和歌集 「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしずくに 立ちてぬれまし」 紫式部

 

 

  賀茂祭り(葵祭)」(5月15日)巡航路
        京都御所(10:30発)  ⇒  下鴨神社(11:40着)  ⇒  上賀茂神社(15:30着)

 

下鴨神社 (正式名称:賀茂御祖神社)
 神武天皇の御代に御蔭山に祭神が御降臨になったと伝えられる。
 「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社、
 上賀茂神社とともに、奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになった。

 

 

 

 

比叡山 延暦寺
 比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。

 最澄は、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となったが、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。

 延暦7年(788)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた草庵を立てたのがはじまりである。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

 

根本中堂(国宝)              大講堂(重文)-1964年、東麓坂本の東照宮賛仏堂を移築

 延暦23年(805)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、遣唐使船で唐に渡り、霊地・天台山におもむき、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。

 

左・常行堂、右・法華堂(中央府県境-左・京都府、右・滋賀県)   「にない堂」(弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだ伝説あり)

 

 延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。

 

平等院 鳳凰堂 (正式名称:朝日山平等院阿弥陀堂)
 平等院は、永承7年(1052)関白・藤原頼通によって開創され、鳳凰堂は、その翌年の天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立された。

 


 鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をモデルにし、中堂・左右の翼廊・尾廊から成る、他に例を見ない建物となっている。堂内には、平安時代を代表する仏師・定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像、本尊阿弥陀如来座像をはじめ、雲中供養菩薩像52体、9通りの来迎を画いた壁扉画など、平安時代・浄土教美術の頂点が集約されている。

 

庭園は、浄土式の借景庭園として史蹟名勝庭園に指定されている。

 平成24年9月3日~平成26年3月31日までの18ヶ月間、56年ぶりの修理に入る。阿弥陀堂(通称:鳳凰堂)の屋根のふき替えおよび堂の壁や柱を赤く塗り、屋根にある鳳凰に金メッキを施し平安時代の彩色を再現する。長期間の拝観停止を前にして午後7時よりライトアップによる特別拝観が行われた。

 

天龍寺 (正式名称:霊亀山天龍資聖禅寺)
 臨済宗天龍寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来。
 開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石。
 足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山(禅寺:天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の第一位とされてきた。

 
 

史跡名勝 曹源池 当寺開山・夢想国師の作庭(1339年) 中国唐宋時代の枯墨山水画と洲浜形の大和絵風ととの調和による秀れた庭園

 

西本願寺 (正式名称:龍谷山 本願寺)
 西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。
 親鸞聖人の廟堂(墓地)が京都東山に創建されたのが始まりで、各地に寺基を移転した後、1591(天正19)年に七条堀川の地を豊臣秀吉より寄進され、1633(寛永10)年には、ほぼ今日に近い姿となった。
 建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。寛永13年(1636年)に建立された御影堂は、「寛政の大修復」寛政12年(1800年)及び「平成大修復」(1999年 - 2008年12月)と2回の大修復を経ている。

  境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、平成6年(1994年)に国の史跡に指定された。

 

  

阿弥陀堂門               国宝 唐門

  

重要文化財 御影堂 内陣

重要文化財 阿弥陀堂(本堂)

 

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堺ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修会

2021-03-01 00:05:42 | ユネスコ

彦根ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修交流会


                                日時:平成29年7月2日(日) 午前10時~午後4時
                                場所:堺市博物館、百舌鳥古墳群、さかい利晶の杜
                                指導:堺市・世界文化遺産推進室、堺市博物館
                                参加者:彦根ユネスコ協会 会員 計18名(バス訪問)
                                     堺ユネスコ協会  会員 計  6名

前田秀一 プロフィール

 

1.「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録について 午前10時~11時30分
 1)VR映像「百舌鳥古墳群 ― 時を超えて ―」上映鑑賞(シアター)

 

   2)解説・講義 講師:堺市世界文化遺産推進室 

 

  ①「歴史・文化のまち 堺」
          古代⇒中世⇒近代⇒現代⇒未来、「大阪」は昔は海だった、もののはじまりなんでも堺
  ②「百舌鳥・古市古墳群」について
     百舌鳥古墳群の概要、古市古墳群の概要、宮内庁との連携(百舌鳥古墳群、古市古墳群、
     同時調査・現場見学会開催(御廟山古墳、ニサンザイ古墳)
  ③世界文化遺産登録実現に向けて
     経過説明、体制づくり、役割分担、シンポジウム開催(大阪、東京)
    堺市独自の取組
     堺まつり、市内各区民まつり、世界文化遺産講演会開催
    市民主体の取組
     「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産を登録応援する堺市民の会」設立(平成27年6月)現在会員2万人
     「仁徳陵をまもり隊」(平成18年以降、年2回古墳周囲清掃活動)
    民間企業・団体などの取組
     大阪府立工科高等学校(ペットボトルキャップアート制作、いたすけ古墳水質浄化)
     金融機関・南海電車PRポスター制作展示
  ④「百舌鳥・古市古墳群」の推薦書原案について
    概要
     〇古墳時代中期(4世紀後半~5世紀後半)に築造され、多様な形と大小さまざまな規
      模の古墳が密集して造られる。
     〇列島最大級の前方後円墳が築造され、全国各地の古墳づくりの見本とされた。
     〇古墳は葺石や埴輪で飾られた。また、墳丘を掘り込んで埋葬施設が造られた。
      墳丘そのものが埋葬の祭りの舞台であった。
    構成資産について
     〇現存89基から古墳時代中期に属し、かつ保存状況の良好な古墳49基45件(百舌
      鳥エリア23基21件、古市エリア26基24件)の古墳を選択
    顕著な普遍的価値
     〇二つの基準を適用
      基準(ⅲ):文化の物証
        ◆古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
        ◆百舌鳥・古市古墳群 各地の古墳築造の中心
      基準(ⅳ):歴史上重要な建築物の顕著な見本
        ◆巨大かつ整美な墳丘=土製モニュメント、儀礼の舞台、大規模な労働力、
     高度な技術
                 ◆百舌鳥・古市古墳群 古代応募の顕著な見本
  ⑤来訪者を迎える「おもてなし」について
    〇古墳を身近に体感してもらえるよう、履中天皇陵北側にビュースポット(視点場)を整備(平成29年5月末完成)
    〇「古墳」の価値や雄大きさを知ってもらうために、「(仮称)百舌鳥古墳群がダンス施設」を建設(平成31年会館を目指す)
    〇堺市博物館に百舌鳥古墳群ガイダンスコーナーを開設
      迫力ある映像で、世界最大級の墳墓・仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群の雄大さを体感していただけるよう
      大型スクリーンで上映する百舌鳥古墳群シアター、百舌鳥古墳群展示コーナーなどを設置
    〇みんなが快適で安心・安全に使えるおもてなしトイレを整備(だれでもトイレ・キッヅトイレ)
    〇さかい利晶の杜や由緒ある神社仏閣のある旧市街地エリアと世界文化遺産登録を目指す仁徳天皇陵古墳や博物館のある大仙公園
      エリアを乗り換えなしで巡ることができる。

2.堺市博物館常設展示視察 午前11時30分~

 

3.昼食交流 Café IROHA(大仙公園内) 12時~13時

   

歓迎の挨拶 堺ユネスコ協会 今堀副会長           会食 自己紹介を兼ねて交流会

4.百舌鳥古墳群視察 午後1時~3時
  基本コース:(A班、B班 各班逆廻り)
   仁徳天皇陵⇒履中天皇陵視点場⇒いたすけ古墳⇒仁徳天皇陵正面(記念写真撮影)

   
仁徳天皇陵 正面 概要説明              履中天皇陵 視点場

  
   いたすけ古墳(タヌキのお出迎え)

 昭和30年(1955年)頃、土砂の採集と住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪(堺市博物館所蔵)は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
 この工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われた。伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となった。橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。タヌキが住んでいるが、暑い為か今日はお出迎えなし。


 
大阪府立堺工科高等学校生徒によるいたすけ古墳堀の水質浄化システム研究説明


参加者 

5.さかい利晶の杜企画展「FUN FUN KOFUNTEN」視察 午後3時30分~

 

 

 

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世界遺産登録を目指して 百舌鳥・古市古墳群 発掘調査

2021-03-01 00:05:05 | 堺のアイデンテlティ―

一般公開:平成24年12月1日(土)~2日(日)午前9時~午後4時
主催:堺市  協力:宮内庁

前田秀一 プロフィール

 

関連ページ(リンク先)歩いて見た世界遺産の登録基準          百舌鳥古墳群

                   堺市市政要覧「堺NOW」2003、4頁(堺市長公室、2003年3月)より

                              現地案内板

広瀬和雄「巨大古墳の環大和政権配置」『百舌鳥野の幕開け発表資料集』108頁(堺市、2010年)

 「ニサンザイ」は「ミサンザイ」すなわち「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地」に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが規模が小さいために、こちらを反正天皇陵とする説がある。〔ウイキペディア「土師ニサンザイ古墳」〕

一般公開現地説明資料より(説明文字拡大追記)

 

「墳丘」(宮内庁管理)領域の表示                宮内庁・堺市管理境界(水際)   

<発掘調査の経緯>
 宮内庁では、東百舌鳥陵墓参考地(ニサンザイ古墳)の裾周りで水の浸食により崩落が進んでいるため、護岸整備工事を行うに当たり、工事の工法などを検討するための事前調査が計画された。
 堺市は、ニサンザイ古墳のより適切な保存と活用を図るため、宮内庁管理外の墳丘裾や濠内の遺構・遺物の状況を確認する目的で発掘調査を計画した。
 両者が同時に調査を行い、その成果を共有することで、ニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地)に理解をより深めることができるなどのメリットがあるため、平成24年10月から同時に調査を実施している。
 宮内庁と自治体の同時調査は、2008年の「御廟山古墳」(堺市)に次いで2例目で、同古墳の「墳丘」や「裾」を発掘するのは初めてである。

 

」 表示箇所 「造出し」部               「須恵器 甕」  「埴輪列」 (拡大)

 

            「くびれ」部           表示板(左から) 「一段目斜面」 「転がり落ちた埴輪」 「造出し斜面」

 宮内庁は、管理する「墳丘」部分の19ヶ所を発掘し、「墳丘」最下段の一段目「テラス」や「墳丘」くびれ付近につきだした「造出し」に直径35cmの埴輪の列が検出され、二段目斜面の「下端」や「葺石」が確認された。一段目「テラス」の全周は約1kmと見込まれ、検出された「円筒埴輪」の状況から換算すると約2,800本が並んでいることが推定される。

                                 「」 表示箇所 「墳丘」部

「表示」板(上から) 「二段目テラス」、「二段目斜面」、「位置表示②」、「葺石」、「一段目テラス」、「埴輪列」

 

」 「葺石」拡大                       「埴輪列」拡大

「葺石」事例(五色塚古墳-神戸:ウイッキペディア)

注釈「葺石」:
 古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いた。その祖形は弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数をしめる。〔ウイキペディア「葺石」〕

 「墳丘」から突き出した「造出し」からは、円筒形埴輪や朝顔形、蓋(きぬがさ)形があり、須惠器の甕(かめ)や土師器(はじき)の小型壺、ミニチュア土器などが出土し、テラス状の「造出し」を祭祀場として祭り用具に使われたと見られる。
 これら出土物は、形や製作技術などから5世紀後半のものと考えられる。

  

  

           「」 表示箇所 「墳丘」埴輪列(上部)と「裾」(下部)発掘              「墳丘」テラスの埴輪(上部、拡大)
 

 堺市が所有する周濠の調査区では、濠の底で本来の墳丘「裾」を確認した。そこは、従来の「墳丘」長を計測した地点から5m以上離れており、未調査の前方部でも同等以上の間隔を想定した場合、「墳丘」長が300m(290m+5m×2)を超えるものと見込まれる。

 宮内庁と堺市の調査結果を合わせると「前方」部から「造出し」にかけての状況がほぼ復元できる。「墳丘」二段目の斜面の「下端」から「濠」にかけての古墳築造時の計上を検討することの可能性が得られた。
 従来、「ニサンザイ古墳」は、天理市の渋谷向山古墳(景行天皇陵、全長300m)に次ぐ全国8番目の大きさとされていたが、全国で第7番目の規模であることが分かった。
 百舌鳥古墳群では、全長200mを超える古墳としては大仙(仁徳稜)古墳(全長486m)、石津丘(履中陵)古墳(全長365m)に次いで土師ニサンザイ古墳が第3番目の規模である。

 

<筆者コメント>

 主要な古墳が、天皇陵と伝承されている百舌鳥古墳群において、「墳丘」は宮内庁の管理下にあり一般人は立ち入り禁止区域となっています。
 この伝統的な事実は、「顕著に普遍的な価値を有していることを大前提」としている世界遺産登録の趣旨に対して越えなければならない課題となっています。
 また、世界遺産登録を観光資源として考えた場合、訪問者への公開は必然的条件であり、前方後円墳という日本独特の形式墓をどのように見せるのかを含めて、古墳の見せ方の問題が問われています。
 
今後、堺市と宮内庁では、お互いの調査結果を共有して検討を進め、ニサンザイ古墳の規模や形状などを明らかにされる予定ですが、この協働が百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録に向けてBreakthroughとなることを願っております。

 

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