第3回 古墳時代(仁徳天皇陵)と幕末・明治維新の「堺」
「堺まち歩き」実施経過(第1回、第2回)はこちらから
前田秀一 プロフィール
<開催要領>
・日時:2018年11月11日(日)
・集合:9時45分 JR阪和線百舌鳥駅改札前
・会費:中学・高校生1,000円、大人1,500円
・開催協力:NPO法人堺観光ボランティア協会
「1」世界文化遺産登録を目指す百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)1~5) 堺市博物館はこちらから
世界文化遺産登録概要1)
◆百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録構成
百舌鳥古墳群:23基+古市古墳群:26基= 計49基
◆世界文化遺産登録 顕著な普遍的価値 適用基準(計10評価基準の内)
評価基準(ⅲ)
・古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
・百舌鳥・古市古墳群=王墓群 各地の古墳築造の中心 ⇒ 古墳時代の文化の稀有な物証
評価基準(ⅳ)
・巨大かつ整備な墳丘=儀礼の舞台、大規模な労働力、高度な技術
・百舌鳥・古市古墳群=古代王墓 ⇒ 古代王権の形成発展期を象徴する墳墓
◆仁徳天皇陵概要(一般呼称:大山古墳、大仙古墳)
・墳丘長:486m、高さ:35m、全長:840m、周囲:2.85km⇒日本最大規模古墳
・円筒形ほか埴輪:約29,000体
・築造労力(大林組試算):1日2,000人×15年8ヶ月=約680万人
・エジプトクフ王のピラミッド、中国秦の始皇帝陵とともに世界三大古墳の一つに数えられている。詳しくはこちらから
百舌鳥古墳群築造の立地的環境3)
百舌鳥古墳群は地理的に石津川流域に築かれていることに特徴がある。
弥生時代には、石津川の左岸の四ッ池遺跡があり、和泉地域を代表する集落が営まれ、多数の住居跡、土器、石器が確認されている。集落の周囲には溝や河川がめぐらされ、水耕稲作が伝わり食糧生産の体制が整い外側には方形周溝墓群が点在している。
また、浜寺昭和町・下田町・高尾付近・家原寺町付近・陶器北付近では銅鐸が出土しており、この地で農耕祭礼が行われていたことが推測されている。
古墳時代に大阪湾に面する台地上に百舌鳥古墳群が築造される際には、人や石材など古墳築造に必要とした資材の運搬に便利な環境が整っていた。
上流の丘陵地には、上質の粘土があり、丘陵の雑木を燃料として朝鮮半島からの渡来人の技術を導入して須恵器の生産が始まり、東西15㎞、南北9㎞にわたる日本国内最大数の須恵器生産拠点として平安時代までの約500 年の間に600~1,000 基の窯が築かれ継続した。
前方後円墳の出現と終末4~5)
倭国(日本)全土の政治連合の安定的な発展を守護してくれることを願って、最初の倭国王・卑弥呼の死(死去240年代)後、王のために大きな前方後円墳(箸墓古墳)を造営した。墓石、壺型・円筒型埴輪など埋葬品を含めてその後の各地の大王の墓の事例となった。
5世紀に、倭国の五人の王が、相次いで南朝の宋に使いを送っていることが『宋書』倭国伝に記されている。その五人の王「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」を「倭の五王」と言っており、それぞれ日本側の正史である『日本書紀』のどの天皇に当たるかが考察されている。
590年、隋の台頭による中国・南北朝の再統一と東方への進行が朝鮮半島諸国や倭国(日本国)王に大きな衝撃を与えた。推古朝(593~628年)初め、大王を中心とした中央集権国家への整備を急ぐため前方後円墳の造営を停止し、新しい国家体制を整備して国内外に強い意志表示した。
PDF版はこちらから4)
引用文献
1.堺市・世界文化遺産推進室「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて」(2017.7.2.堺・彦根ユネスコ協会研修交流会講演資料)
2.堺市「広報さかい」平成30年10月1日号
3.堺市立埋蔵文化センター2002『四つ池遺跡 弥生時代編』堺市教育委員会
4.白石太一郎2018.5.20.『大阪府近津飛鳥博物館 館長承継記念講演会』講演要旨集 1(公財)大阪府文化財センターほか
5.笠井倭人1973『研究史 倭の五王』吉川弘文館
6.白石太一郎2012「日本の古墳の中の百舌鳥・古市古墳群」『世界文化遺産登録推進国際シンポジウム』34~35大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市
「9」、「10」幕末 ⇒ 明治維新 堺の歴史的な出来事
開国
2018年(平成30年)は、明治維新から数えて150年に当たる。
鎖国中の日本が、幕末から明治維新にかけていち早く封建社会から近代国家へ転換を果たした背景には、18世紀後半から19世紀中ごろにかけてロシア帝国、イギリス、フランスおよびアメリカ合衆国など外国艦船が来航し、鎖国政策を維持していた日本に開国を迫った圧力に対する危機感があった。
1853年(嘉永6年)7月8日、アメリカ合衆国政府の任務を受けた東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀へ来航して開国を迫り、1854年(安政元年)日米和親条約を締結させ1639年(嘉永16年)以来215年にわたる徳川幕府政権下の鎖国(海禁政策)が終わった。
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大阪湾 ロシア軍艦渡来事件1)
一方、1854年(安政元年)9月エフィーミー・プチャーチン提督率いるロシアの軍艦ディアナ号が箱館(現函館)から摂海(現大阪湾)に回航し、和田岬(神戸)、西宮、尼崎沖を経て天保山沖に投錨した。
アメリカ艦隊が江戸湾に来航したのは、当時日本の政権を担っていた江戸幕府の近くにあり威嚇するのに都合がよかったからであった。これに対してロシアは、当時、クリミア戦争(1853~1856年)で、イギリス・フランスと交戦しており、極東海域ではイギリス・フランスの連合艦隊と遭遇することを避けなければならない状況にあった。その状況の下、プチャーチン提督は、むしろ天皇が所在する都に近く、しかも大阪湾には外国船は来ないという先入観の不意をつき日本との交渉を早期に、且つ有利に進めようと企てた。
ロシアの軍艦が突如大阪湾に侵入してきた事件は、幕府や藩、さらに朝廷に大きな衝撃を与えることとなった。孝明天皇は、有力な神社7社・寺院7寺に対してロシア艦隊の速やかな退散と「天下泰平」を祈祷するように命じた。幕府は、危機意識を強め朝廷に対し、京都と大坂湾の防備強化を約束した。
来航した国々とその背景 鎖国(海禁政策) ⇒ 開国
・アメリカ
1854年3月31日 日米和親条約締結 1858年7月29日 日米修好通商条約締結
北太平洋捕鯨(潤滑油、ランプ灯油)業補給基地確保、クリミヤ戦争国(英・仏対露)に余裕なく日本への主導権確立
・イギリス
1854年10月14日 日英和親条約締結 1858年8月26日 日英修好通商条約締結
産業革命(1760~1830年代)、アヘン戦争(1840~1842年)、クリミヤ戦争後新たな植民地政策、工業製品の市場開発を目指す
・ロシア
1855年2月7日 日露和親条約締結 1858年8月19日 日露修好通商条約締結
クリミヤ戦争(1853~1856年)敗北後東アジア指向、イギリス、フランスに目立たず都に近い大阪湾へ、日本を驚かす
・フランス
日仏和親条約締結せず 1858年10月9日 日仏修好通商条約締結
日米修好通商条約締結情報、ロシアの極東への影響力警戒し東アジアに注力。イギリスと薩摩に対抗して幕府に接近
大阪湾の防衛 堺台場築造1)
大阪湾内では、奉行所のある幕府直轄地「堺」の防備がいち早く取り組まれた。
当初、「堺は遠浅にて異国船の渡来は先づこれ有る間敷」と異国船の接近する危険性を否定しつつも、万一、異国船が大阪湾内に来航した場合、幕府直轄地が手薄では近隣の大名たちに示しがつかず、「御国威」を落としてしまうと堺奉行が主体となって大阪湾の他の箇所に先駆けて1850年代に堺北台場(1855年完成)と堺南台場(1858年完成)の築造が進められた。
1860年(万延元年)、桜田門外の変で政治的立場を失った彦根藩が1863年(文久3年)6月から堺台場の警備を命じられ前任地の神奈川から新式の大砲を回送するなど備えを尽くした。
公武合体と尊王攘夷派志士の行動(「天誅組」堺港上陸、堺事件)
開国か攘夷(外敵を撃ちはらう)か、尊王(天皇を尊び、天皇中心に考える)か公武合体(朝廷と幕府の合体)か、佐幕(幕府補佐)か、開国以来弱体化した幕府に代わって朝廷の動向が注目され、急進的な尊王攘夷派(長州藩、土佐藩など)と公武合体派(薩摩藩、会津藩)を中心として大政奉還(1867年)後も日本国内の政治は大きく揺れ動いた。
「天誅組」堺港上陸2)
1863年(文久3年)8月、孝明天皇の神武天皇陵(奈良橿原)攘夷祈願行幸の先鋒となるべく土佐脱藩浪士・吉村寅太郎ら40人(天誅組)が京都・伏見から淀川を下り大坂から海路を経て堺港へ上陸し、狭山、天領・五条経て橿原を目指した。
しかし、8月18日天誅組の後ろ盾となっていた長州藩が会津藩・薩摩藩(公武合体派)と蛤御門の変(禁門の変)で敗れ、孝明天皇攘夷親政を目的とした大義名分を失ったため社会的にも天誅組は「暴徒」とみなされ公武合体派に追討された(「公武合体」後の最初の事件)。
「堺事件」3)
1868年3月8日(慶応4年2月15日)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)戦いで敗走する幕兵が堺のまちを混乱に陥れた。やがて、薩摩・長州・土佐藩を主体とする諸藩兵が堺の治安維持に当たり、土佐藩士が市中取り締まりを命じられた。
1868年3月8日(慶応4年2月15日)午前中、兵庫領事館駐在のフランス副領事と日本艦隊司令官2名が宇和島藩士とともに大阪から陸路大和川橋まで来たが、状況を聞いていなかった箕浦猪之吉、西村佐平次率いる警備隊に食い止められた。
その日の午後、堺港付近の測量を目的としてフランス軍艦デュプレス号が堺港沖に現れ、乗組員数十名が2艘の船に分乗して入港し、その内の1艘が大浜海岸に横付けして上陸し動き回ったので、状況報告を受けてなかった警備隊をもとより市民の騒ぎが大きくなった。
箕浦警備隊長がフランス兵に帰艦させようとしたが言葉が通じず、反抗したフランス兵が隊旗を奪うなど無礼を働き逃亡したため発砲、交戦に至りたちまち11名を殺傷した。
当時京都において外国との和親協議の準備中であり、また1ヶ月前(2月4日)に神戸で警備にあたっていた備前藩士によるフランス兵発砲負傷事件(神戸事件)があったため重大な外交問題となった。
明治新政府は江戸征途に注力しており、外交交渉を難しくすることを避けるため事件に関わった土佐藩士を日仏両国立会いのもと刑に処するフランスの要求を受け入れた。
箕浦猪之吉、西村佐平次両小隊司令以下20人が妙国寺において切腹を命じられ、11人が終わったところで、立ち会っていたフランス側から切腹の悲壮な状況は見るに堪えなく死亡したフランス兵と同数になったことを理由に切腹処刑は中止された(「公武合体」後最大の事件)。
切腹した11人の土佐藩士は、妙国寺の隣の宝珠院に埋葬され、土佐藩主・山内豊範が11基の石碑を一列に建て弔った。その後、妙国寺境内に堺事件で亡くなった土佐藩士とフランス兵の慰霊碑が建立された。
「堺県」誕生4)
1868年8月10日(慶応4年6月22日)、大阪府から堺役所を分割して「堺県」が発足した。
当初、和泉の国の旧幕府領・旗本領を管轄するために成立したが、最盛期には大阪府の一部と旧幕府領・旗本領が多かった奈良県全域を含めて県域とし、1881年(明治14年)に大坂府に再編入されるまで先進的な地方行政を行った。
1871年の廃藩置県に先立って「堺県」が成立したのは、旧幕府直轄知行(所領)の明治新政府への上地(返上)受皿など統治上の重要拠点と位置付けられたためであった。
初代堺県令(知事)として薩摩藩に近い豊後岡藩士・小河一敏が就任した。廃藩置県に際しては、2代目県令として大久保利通、西郷隆盛とともに薩摩の三傑と称された税所 篤が就任し、他府県に先駆けて中央集権化、税収、土地管理に貢献した。
堺県⇒大阪府営「浜寺公園」開園5~6)
1873年(明治6年12月)、当時の内務卿・大久保利通が浜寺を訪れ、名勝松林が伐採により廃れていることを慨嘆し、県令・税所 篤に善処を強く要望した。税所県令はただちに松の伐採停止を命じ、太政官より同地を日本で最初の公立公園と許可し「浜寺公園」として開園した。
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
祐子内親王家紀伊(百人一首)
↓
音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり
大久保利通
日露戦争〔1904年(明治37年)2月8日~1905年9月5日〕の際、両国は戦争捕虜を博愛処遇するハーグ国際条約を守り、日本に連れて来られたロシア人捕虜をあたたかく迎え、浜寺一帯から泉大津市にかけて捕虜収容所が造られ3万2000人余の捕虜を収容した。所内には信仰の自由を認めて教会、パン工場が置かれた。
日露戦争100年を迎えた2002年5月21日に「泉州21世紀協会」をはじめ多くの有志によって公園内に「日露友好の像」が建てられた。横には、当時の小泉純一郎首相とプーチン大統領の銘文が刻まれた碑が建てられた。
堺県⇒堺市営「大浜公園」開園と第5回内国勧業博覧会7)
明治(1868年)以降、堺南北両台場は陸軍の所管となったが、「堺県」(1868年誕生)が南台場敷地を陸軍から借用し、1879年(明治12年)に「大浜公園」として開園した。
北台場は1872年(明治4年)の暴風雨で大きく崩れ遺構は失われた。
19世紀、欧米では文化、産業振興の大規模な万国博覧会が盛んに開催され、江戸幕府も1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に正式に参加した。
1877年(明治10年)、政府は殖産興業を目的として東京上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催し多くの来会者を得て大成功をおさめた。
その後、引き続き東京上野で第2回と第3回を開催し、第4回は、平安遷都1100年を記念して京都岡崎公園で開催された。第5回は堺商業会議所のメンバーの尽力もあり、大阪市天王寺を第1会場に、堺大浜公園を第2会場(水族館)として1903年(明治36年)に開催された。 第2会場には東洋一と謳われ我が国初の本格的水族館が建てられ、2階建ての本館下に大養魚槽を設け天井をガラス張りにして魚を見上げるようにするなどの工夫がされた。
博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、1912年には阪堺電気軌道が大浜海岸までの路線(大浜支線)を開業し、公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などが建てられ関西有数のレジャー地として賑わった。
第6回は、万国博覧会にという声も上がったが、日露戦争ののち財政難に陥ると産業振興の費用対効果を疑問視され中止となり国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の大阪万博まで待つこととなった。
PDF版は、こちらから7)
引用資料
1.後藤敦史・髙久智広・中西祐樹編2018『幕末の大阪湾と台場 海防に沸き立つ列島社会』戎光祥出版
2.小葉田 篤編集代表1971「天誅組」『堺市史続編第1巻』1157 堺市役所
3.三浦周行監修1930「堺事件」『堺市史本編第三』771 清文堂出版(著作権:堺市役所)
4.矢内一磨2018「堺県とその時代-近代地方行政のさきがけ」、企画展「堺県とその時代」学芸講座」、堺市博物館
5.小葉田 篤志編集代表1971「浜寺公園」『堺市史続編第1巻』1223 堺市役所
6.高石市教育委員会生涯学習課「ロシア捕虜収容書」『大阪あちこち-高石散策(羽衣コース)』
7.堺市「むかしの堺港と大浜」
https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/sakaikoutooohama/kyo_digi_nai.htm
8.堺市・大浜公園事務所「大浜公園の見どころ」『大浜公園施設案内図』
SDGs魅力情報 「堺から日本へ、世界へ!」は、こちらから