堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

<活動趣旨>「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」

2021-02-25 00:54:33 | SDGs

歴史を未来へ!「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」

         

結果の報告「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」こちらから

前田秀一 プロフィール

<調査研究趣旨>

 およそ1600年にわたる堺の歴史において貴重な有形・無形の文化財が多く築き上げられ、その代表例として百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されました(2019年7月)。  

 これら堺に固有の文化財は、堺市民が市民としてのアイデンティティ―を築く仕掛けであり、世に誇り、その自覚の上に異文化を受け入れ、共生の価値観を醸成する貴重な財産です。  

 2015年9月開催の国連サミットにおいて、2030年を年限として「誰一人取り残さない」を基本理念のもと持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現に向け17の新たな国際目標が設定されました。  

 私は、「持続可能な開発目標(SDGs)」17」項目の内、「4.質の高い教育をみんなに」を基盤として「5.ジェンダー平等を実現しよう」、「10.人や国の不平等をなくそう」、「11.住み続けられるまちづくりを」、「16.平和と公正をすべての人に」、「17.パートナーシップで目標達成しよう」を重点としてその達成貢献します。  

 

 今を遡る1300年前、郷土(堺市および大阪狭山市)が誇る僧・行基は、「大宝律令」制定のもと発布された「僧尼令」(701年)をきっかけとして、法興寺(現飛鳥寺)を辞して帰郷し、生家を「家原寺」と改称(704年)して郷里の人々をはじめ民衆の教化と救済に乗り出しました。

 705年には郷里の人々に請われて大須恵院(現高蔵寺)を建立し斜陽化しつつあった地元の須恵器産業を再生し平安時代までの約500年間にわたり日本の代表的な須恵器生産地として繁栄へ導きました。

 723年、開墾田の三世代私有が認められた「三世一身の法」が発布されると、これを契機として行基は多くの知識(*1)を集め750年までに次表に示す多くの社会的事業を成し遂げました。

 727年には、民衆が特別な技術がなくても自分にできる奉仕の力で土を盛り上げ信仰の神髄としての塔「土塔」を造り上げ、福田(ふくでん)思想(*2)による利他行(*3)のシンボルとして国の史跡に指定され(1953年)、堺市の総合的な発掘調査を経て整備復元されました(2008年)。
 *1:行基を通して仏縁を望む人々  *2:善い行為の種をまいて功徳を得る *3:自分の利益より他人の利益を優先する

 行基の行くところ追随する民衆は後を絶たず、時には1,000人にも及んでいたと伝わり、反社会的人物と警戒もされましたが、遂には知識集団とともに利他行をなす人物として評価され聖武天皇から国家のみならず民衆社会の安寧を祈願する盧舎那仏金銅(大仏像)の建立に協力しました。  

 このような行基の幾多の社会的事績は、2030年に向け「誰一人取り残さない」を理念として導入されたSDGs(持続可能な開発目標)の概念に重なることが多く、SDGsの視座から可能性を考察し、市民の身近な事例としてSDGsへの理解を助けるに相応しいと考えます。

< 調査研究概要 >

1.文献・資料調査

2.テーマ「歴史を未来へ! SDGsモデルとしての行基事績の考察」に関する意見交換

    関連諸団体および一般市民とプロジェクト結成のあり方を検討

3.SDGs(持続可能な開発目標)事例勉強会 相談窓口:堺市・環境政策課

4.行基事績の勉強会  相談窓口:堺市・文化財課

5.SDGs(持続可能な開発目標)モデルとしての行基事績の考察

   広く市民との情報・意見交換、SDGs視座からの行基事績の考察 シンボルとして「土塔」の顕彰

6.活動成果物(「SDGs堺モデル」)のまとめ、報告

   近畿ブロックユネスコ活動研究会、近畿ESDコンソーシアム発表会、堺ユネスコ協会(HP投稿,説明会開催等)

 

SDGsモデルとしての行基事績の再評価 結果はこちらか

 

 

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<市民提案> 歴史を未来へ、国史跡「土塔」の活用について

2021-02-25 00:53:19 | SDGs

歴史を未来へ、国史跡「土塔」の活用について

前田秀一 プロフィール

 

 堺が誇る人物・行基が民衆の力を結集して築造した「土塔」は、仏教思想を背景としたものではありますが、民衆が各自の力量に応じて参画し、自発的に利他行(他人に対する善行)の目的意識をもって参加した作善行(善行を積む)の「塔」です。
 このように歴史的背景を有する堺市固有の文化財「土塔」は、国史跡として立派に再生され、現代社会においては、ボランティア精神や第3の公共として市民の社会的貢献の意義を形にした貴重な文化財として輝いています。
 「誰一人取り残さない」ことを理念としてSDGs(持続可能な開発目標)未来都市の実現に取り組む「堺」の市民の立場で、堺の歴史を未来に活かすシンボル・モニュメントとして「土塔」を顕彰し活用すべくブログを通して提案活動を行い賛同の輪を広げたいと考えております。

堺市より「SDGs未来都市・堺」ロゴマーク使用承認済(令和元年度第001号)

 行基の仏教思想の背景をなすものは、衆生に対する慈悲の社会的実践であり、「福田(ふくでん)思想」といわれています。

 「行基の思想は福田思想とよばれ、これは善い行為の種子をまいて功徳の収穫を得る田地の意味で、仏教社会福祉の理念を知る語である。大乗仏教では菩薩(求道者)の智恵と慈悲に基づく利他行が重視されたので、福田思想は仏教徒の社会的実践の基本となったのである。行基の行った社会事業はまさに、自ら事業に参加することで民衆のために力を尽くす福田そのもので、これにより多くの知識たちは仏教の功徳を得ることを希求したのであろう。ひいては、この行基の知識の原理は、聖武天皇の東大寺盧舎那仏建立の際にも引用され、行基にとっては、知識活動の集大成といっても過言ではなかろう。」
                          「福田(ふくでん)思想」について、近藤康司氏(堺市文化財課学芸員)の記述(「中外日報」2018.9.5 7頁)より

 福田思想においては、塔の建立が第一義であり、庶民が労働力を提供し、瓦一枚一枚を寄進し、土を盛って仏教信仰の真髄である塔を建立しました。それは天空に聳える木造の大塔ではなく、民衆の力によってできる土塔を築き、瓦に氏名を刻し、仏縁に連なった法悦を感じました。
 そのほか、1.仏図(塔)・僧坊・堂閣を興立す、2.園化・浴地・樹木・清涼、3.常に医薬を施して衆病を療救す、4.牢堅なる船を造りて人民を済度す、5.橋梁を安施して羸弱を過渡す、6.道を近くし、井を造りて渇望に飲を得さしむ、7.厩を造作して便利の処を施すことなどが挙げられ、具体的な事業実績として以下の業績が挙げられています。

<引用文献> 
  1.近藤康司2018「土塔発掘調査からみる行基の活動」 『中外日報』2018年9月5日号 7頁
  2.網干善教(関西大学名誉教授)「行基の仏教と土塔の建立」
  3.堺市教育委員会2004『史蹟 土塔-文字瓦聚成-』121頁

<関連情報>
1.国指定史跡「土塔」に関する堺市のホームページ
  国指定史跡「土塔」のページはこちらから
  「土塔について」のページへはこちらから
  「土塔の文字瓦」のページへはこちらから
2.行基に関る情報
  「現代に生きる僧・行基の伝承伝説」のページはこちらか
  行基生誕1350年記念講演会「堺から仏教を変えた行基さん」のページはこちらから

 

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歴史を未来へ! SDGsモデルとしての行基事績の再評価

2021-02-25 00:52:42 | SDGs

歴史を未来へ!
「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」

前田秀一 プロフィール

 

 行基の幾多の歴史的事績は、2030年に向け地球上の「誰一人取り残さない」を理念として設定されたSDGs「持続可能な開発目標」の概念に重なる点が多く、ここに、身近な行基の事績を事例としてSDGs17目標に照らし再評価することは、堺市民に広く「SDGs」の趣旨を知らしめ、その理解を促し、問題意識を高め、一人一人が「自分ごと」としてSDGsに取り組むきっかけづくりに繋げることが出来るのではと考え取り組みました。

研究結果「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」 詳しくはこちらから

研究趣旨 詳しくはこちらか

研究資料「行基活躍の時代背景と事績」 詳しくはこちらから

 

「SDGs(持続可能な開発目標)」について

<SDGs基本理念>
 先進国と開発途上国が共通に取り組むべき国際社会全体の普遍的な目標

地球上の「誰一人取り残さない」

<コンセプト>
 SDGs(持続可能な開発目標)とは、2015年9月、ニューヨークで開かれた国連総会(参加国:193)で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の中核をなすもので、2016年から2030年までの15年間に、貧困や不平等・格差、気候変動、資源の枯渇、自然破壊などの様々な問題を根本的に解決し、私たちの世界をよりよくすることをめざす、世界共通の17の目標(ゴール)です。その目標達成のためターゲット169と指標232があります。
 「2030年の世界のあるべき姿=様々な課題が解決された、持続可能な社会」を実現するために、未来の目線で今できること、なすべきことを掲げて取り組むことが求められています(バック・キャストの手法)


<キー・ワード>(環境と開発の規定に人間尊重を位置付け)
 人間(People)、地球(Planet)、繁栄(Prosperity)、平和(Peace)、連帯(Partnership)の「5つのP」を掲げています。
<目標達成のあるべき姿>(重要な枠組みの共有)
 SDGsは、経済面、社会面、環境面を統合的に達成することや、一つの行動によって複数の側面における利益(マルチ・べネフィット)を生み出すことをめざします。


<SDGs達成に向けたポイント>
1.市民組織が重要な役割を担っている(重要な気づき「自分ごと化」)
  国連が世界の市民組織との協働で課題解決をめざして取り組んできた
  学び手の意識改革を重視し(ESD)、価値観の育み、考え方・生き方の改革(生涯学習)
2.「つなぐ」、「つながり」を大事にする多様な体験を通しての気づき)
  異質、多様なものをつなぎ合わせることによって新しいものを生み出す
3.世界を変える(世界平和の実現)
  自己変革した私たちのつながりによる地球の変革

<マララ・ユフザイさん(パキスタン人)ノーベル平和賞受賞講演>から(要旨)
 私は、すべての子どもたちが質の高い教育を受けることが出来ることや、女性が平等な権利をもてること、そして世界の隅々まで平和であることを願う熱心で、頑固な人間です。 
 教育は人生の恵みの一つであり、生きるうえで欠かせないものです。私たちは教育を渇望しています。なぜなら、私たちの未来はまさに教室の中にあったのです。ともに座り、学び、読みました。大きな夢を抱きながら教室に座っていました。両親に誇らしく思ってもらいたかったし、優れた成績を挙げたり何かを成し遂げるといった、一部の人からは男子にしかできないと思われていることを、女子でもできるのだと証明したかったのです。

<参考情報>
 国際連合広報センター「持続可能な開発目標(SDGs)とは」:
   https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/2030agenda/
 外務省 「持続可能な開発目標SDGsとは」:
  https://www.unic.or.jp/activities/economic_social_development/sustainable_development/2030agenda/

 


「誰一人取り残さない」 八世紀 行基の世界

1.『行基年譜』行基七十四歳 聖武十八年 天平十三年(741年)三月掩留山城国の条

 行基74歳の時、泉橋院に行幸した聖武天皇を迎えて終日対談し、「大国(唐)には給孤獨園があり孤独の徒を養育するが、吾が日本国には給孤獨園はない。このため為名野(猪名野)を請うて給孤獨園となしたい。」と申し出て天皇の宣命を得た。

「給孤獨園(きっこどくおん)
  「給孤獨田」=「身寄りのない老若に給する施設」:孤:父なきなり⇒孤児、獨:老いて子の無き者

『日本後紀』弘仁三(812)年八月条
 「大僧正行基法師が孤独を救うために摂津国に置いた惸独田(けいどくでん)一百五十町を国司に耕種させよ」と勅をもって命じている。
 少なくとも、弘仁の頃には、行基集団の地に150町歩(45万坪)の経済基盤を有した給孤獨園を創建し、国家(朝廷)も公認する存在であった。

   (引用資料:尾田栄章2017『行基と長屋王の時代 行基引用資料集団の水資源開発と地域総合整備事業』238頁現代企画室)

2.給孤獨園(きっこどくおんについて
 お経は、お釈迦さま(=仏)が一人一人に説かれた教えをまとめたもので、その数84,000もの数があると言われている。
 その基本のお経の一つ『仏説阿弥陀経』の冒頭に「祇樹給孤獨園」という言葉が出てくる。給孤獨園は、略して「祇園」ともいう。
 祇樹は、祇陀(ジェータ)太子の所有であった林地をいい、給孤獨(きっこどく)とは身寄りのない者たちに食を与え養っている人ということ。
 舎衛城の南にあった園林(精舎)で、祇陀太子の所有であった土地を、須達(スダック)長者が大使より買いうけて仏陀(お釈迦様)に献上したのでこの名がつけられた。
「仏説阿弥陀経経(冒頭部分)」の大意引用資料:瓜生津隆真1997『聖典セミナー浄土三部経Ⅲ 阿弥陀経』12頁 本願寺出版社)
 「次のように、私はお釈迦様の説法を聞かせていただきました。
 ある時、仏(お釈迦様)は舎衛城の祇園精舎においでになり、優れた修行僧たち1,250人とご一緒でありました。・・・」

3.すべて道は猪名野に通じる
 当時の人口集積地(大和、難波、和泉、淀川中・下流域、猪名の)から給孤獨園を目指す道路・橋が整備され、布施屋が位置していた。

「SDGs再評価」資料の拡大版は こちらか           14.海の豊かさを守ろう 新情報はこちらから

< 解 説 > 
SDGs(持続可能な開発目標)
 先進国と開発途上国がともに取り組むべき国際社会全体の普遍的な目標(2015年国連採択)
 地球上の「誰一人取り残さない」ことを基本理念として、2030年までに、貧困や不平等・格差、気候変動、資源の枯渇、自然破壊などの様々な問題を根本的に解決し、私たちの世界をよりよくすることをめざす世界共通の17の目標。


◆八世紀、行基の世界       
 8世紀の時代背景の中で、行基は、貧困、不平等・格差、気候変動、水資源開発ほか身寄りのない人々の救済施設など国家的社会事業を「自分ごと」として成し遂げた。
 「7.エネルギー」、「12.つくる責任・つかう責任」、「14.海の豊かさを守ろう」等21世紀との環境変化の時代格差が大きい項目を除くと、SDGsの17項目の内、経済、社会およびガバナンスのカテゴリーに属する13項目に顕著な事績があり、給孤獨園の建設までSDGsの基本理念に沿う多くの社会的事業を成し遂げた。

   

 701年(大宝元年)、大宝律令が施行され国家体制が確立した一方に、民衆は納税(米、地域産物等)と強制労役(都城造営など)に苦しみ、生活は疲弊し、戸籍地からの浮浪逃亡者や路上行き倒れ死など悲惨な状況が頻発していた。
 行基は、福田思想(よい行為の種を蒔いて功徳の収穫を上げる)など分かりやすい言葉で仏法を説き、疲弊した民衆を精神的に救済し、布施行の思想や積善行為としての技術の意義を教え多くの民衆や技術集団が帰依し知識集団として組織化した。
 知識集団の能力を活かして、国家的な多くの社会事業(*)を成し遂げ、疫病や地震・災害の多発する社会不安の中、国家から行基集団へ大仏建立への参加が求められ、国家の社会統合のあり方を法的官僚制から仏教社会へ変化する橋渡しをした。
  *:橋6、道1、池15、溝(用水路)6、樋3、船息(港)2、堀(放水路)4、布施屋9、〔院(修行道場)49〕

  741年(天平3年)、行基は泉橋院に行幸した聖武天皇に身寄りのない民衆を養育する施設(給孤獨園)の建設を申し出て許され、猪名野に経済基盤も含め用地約150町歩(45万坪)を与えられ、水資源(池・池溝)を敷設して新しい水田を開発した。
 当時の人口集積地(大和、難波、和泉、淀川中・下流域、猪名野)から給孤獨園(きっこどくえん)を目指して道路や橋が整備され、布施屋が位置して、身寄りのない民衆救済(養育、安住)の社会体制として完成した。    

  

< 引用文献 > 発行年順記載
1.吉田靖雄1987『行基と律令国家』吉川弘文堂
2.井山温子1987「和泉地方における行基集団の形成」『史泉』20頁、第66号 関西大学
3.千田 稔1994『天平の僧 行基 異能僧をめぐる土地の人びと』中央公論社
4.大阪府教育委員会1995『泉州における遺跡の調査Ⅰ陶邑Ⅷ』大阪府文化財調査研究センター
5.井上 薫編1997『行基事典』図書刊行会
6.瓜生津隆真1997『浄土三部経Ⅲ阿弥陀経』12頁 本願寺出版社
7.浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編纂委員会1998『日常勤行聖典』106頁 本願寺出版社
8.井上 薫編1998『行基菩薩-千二百五十年御遠忌記念誌』行基菩薩ゆかりの寺院
9.堺市博物館1998『行基-生涯・事跡と菩薩信仰』堺市博物館
10.勝浦令子2000『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館
11.堺市・文化財課編2010『史跡土塔整備記念講演会記録集 堺の誇り土塔と行基』堺市
   土塔発掘開始:1998年〔神亀4年(727年)記入文字瓦出土〕、復元:2003年~完成2008年〕
12.吉田靖雄2013『行基 文殊師利菩薩の反化なり』ミネルヴァ書房
13.近藤康司2014『行基と知識集団の考古学』清文堂出版
14.溝口優樹2015『日本古代の地域と社会統合』吉川弘文館
15.角田洋子2016『行基論 大乗仏教自覚史試み』専修大学出版局
16.尾田栄章2017『行基と長屋王の時代 行基集団の水資源開発と地域総合整備事業』現代企画室
17.堺市・市長公室企画部政策企画担当、環境局環境都市推進部環境政策課
       2018「持続可能な開発目標SDGs~わたしたちの世界を変革する17のゴール~」
18.舘野和己(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)「太鼓古墳群と土師氏の関わり-墳墓造りを担った古代氏族」2019『中外日報』2019年8月30日号
19.「行基さん大感謝祭」実行委員会2019「行基さん大感謝祭2019」案内資料(令和元年10月26日)
20.森 明彦「諸国より京への運脚夫日数」2020『堺行基の会会報』第47号、1頁、堺行基の会

 

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行基活躍の時代背景と事績

2021-02-25 00:51:25 | SDGs

歴史を未来へ!
行基活躍の時代背景と事績

「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」 詳しくはこちら
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前田秀一 プロフィール

1.八世紀以前、在地の支配と土師氏の出自
 5世紀前後、葛城地域の豪族集団と紀伊地域の豪族集団が結びつき、泉北丘陵に居住した中小の豪族勢力を配下に取り込みつつ、渡来人を配して「陶邑」が形成された。
 「陶邑」が日本列島各地へ技術移転の役割を担っていたが、神直(みわのあたい)など三輪系氏族の三輪祭神祭祀に用いる神酒の容器に関しては王権が直接関わるなど制約もあり、6世紀後半から7世紀前葉には三輪系氏族に移譲された。
 河内、和泉地域では、渡来系氏族や中央豪族氏族など在地に基盤の無い氏族集団は、農業生産を基盤としておらず、特定の職務をもって奉仕する代わりに生活の基盤は王権に依存していた。
 古代氏族の一つである土師氏は、天皇や高官たちの墳墓造りや喪葬儀礼への関与という重要な職掌を担っており、百舌鳥古墳群や古市古墳群の造営にも関わっていたと考えられている。
 『日本書紀』によると、土師氏の祖先は天穂日命(あめのほひのみこと)だが、直接の祖となったのは野見宿禰(のみのすくね)であった。
 垂仁天皇32年に皇后が亡くなると、野見宿禰が、出雲国の土部100人を呼び寄せ、彼らを使って土で人や馬など様々な物の形を作り天皇に献上した。天皇は喜んで、それらを埴輪と名づけ皇后の墓に立てて殉葬の風習を止め、天皇は野見宿禰を土部職に任じた。
 これが、土部連らが天皇の喪葬をつかさどるようになった由縁であり、野見宿禰は土部連らの始祖であると伝えられることになった。土部連は後には土師連と書かれるようになった。 
 野見宿禰の野見は、石を削る工具であるノミにも通じ、土部を率いて埴輪を作るだけでなく、石棺、さらには墳墓そのものの造営にも携わることを職掌としていた。 

 

 6世紀後半になると、巨大古墳群の築造は下火になり、土師氏の仕事は大幅に減って、伝統的な土師器の生産や陵墓管理だけでは豪族としての地位を保つことが難しくなってきた。
 その対策として、寺院建築に乗り出し、仏像の造立、仏教祭事の取り仕切りなどこれまでとは
違った難しい局面を乗り越えるため地元で抜きんでた豪族として中央行政府のお墨付きを得る努力が必要であった。

 土師氏は、全部で四腹(四つの血統)あり、8世紀末桓武天皇の代に、喪葬や陵墓管理からくるイメージを変えるため居住地に因んて改名を願い出て許された。
   ① 毛受(もず)氏:百舌鳥古墳群地区に居住
   ② 秋篠氏:佐紀古墳群(4世紀中頃~5世紀後半の大型古墳)地区に居住
   ③ 菅原氏:垂仁天皇地区に居住
   ④ 道明寺(土師氏氏寺):古市古墳群地区に居住

道明寺天満宮 土師氏由緒

2.行基の出自と修業 
 行基(668~749)は、749年(天平21年)2月平城京の菅原寺で82歳で生涯を終えた。
 行基墓誌『大僧正舎利瓶記』に「人慈悲を仰いで世に菩薩と称す」とあり、行基は生前から慈悲の深さや民衆利益の活動に感銘を受けた人々から菩薩とよばれていた。
 奈良時代の国家編集歴史書『続日本紀』(797年)は、210余字を費やして行基の伝記を記し褒めたたえた。行基より文字数の多い伝記を持つ僧侶は、道昭(700年没)・鑑真(763年没)・道鏡(772年没)の三人にすぎず、否定的評価の道鏡を除けば、行基は鑑真とともに奈良時代の高僧の代表例として人々に意識されていた。
 行基は和泉国大鳥郡蜂田郷家原村(現堺市西区)の生まれで、父・高志才智(こしのさいち)は百済から来た王仁博士の子孫にあたり、母は蜂田首(はちたのおびと)虎身の娘・古爾比売(こにひめ)といった(『舎利瓶記』)。後に、寺に改造した家原寺は、行基の母方の実家であった。
 行基は、生まれつき優れた才能を持ち人の手本となる徳風があったと伝わり(『続日本紀』天平勝宝元年二月二日の条)、渡来人系の中級氏族として出家するには恵まれた環境にあり、15歳で出家して沙弥になり、24歳で葛城山の中腹・山林修業地にある高宮山寺の戒師・徳光から比丘戒を受戒した(『行基菩薩伝』)。
 受戒した行基は、戒師徳光のもとで比丘戒の研究と戒律を具体化した威儀行儀の修得に励む一方、山林修業に関する知識技能を学んだ。
 比丘戒を学んだ後、戒律・禅定・智慧の三学研究のため平城京の元興寺(飛鳥寺)に入寺し、経典の解説と研究に励んだ。元興寺には、三蔵法師・玄奘のもとで禅学『瑜伽唯識論』を学んで持ち帰った道昭がおり師事した。大乗仏教の修業者は山林の生活を捨て、在家者への布教活動に従事すべきであると主張する教えに触れ戦慄するとともに深い疑義にとらわれた。
 山林修業の価値を全面的に否定する教えとの出会いは、十余年にわたる山林修業の生活を否定された行基は、慶雲元(704)年、37歳にして自分の生き方に疑念を抱き故郷・大鳥郡へ帰り、生家を改めて家原寺とし母への孝養を尽くす生活を初めた。
 郷里の人々は、行基を偉大な修業者として迎え入れ、請われて行基は須恵器生産の斜陽化しつつあった大村里に大須恵院(現・高倉寺)の建設に貢献し「衆生の仏教」へ踏み出した。
 
3.行基が活躍した八世紀前半の社会的環境
 皇極天皇4年(645年)6月14日、「大化の改新」によりそれまで豪族支配の国政を天皇を中心とした国政に改革が行われ、これを機会に、国号を「日本」と称し、年号が「大化元年」と制定され、以後今日まで年号制が継続している。
 唐の律令の法体系に習って(1) 公地公民制,(2) 国郡里という行政区画の制定,(3) 造籍,班田収授法(*1)の実施,(4) 租・庸・調制(*2)の実施などを基礎とする中央集権的官僚制の導入が検討された。
     *1:「班田収授法」:土地の分け与え(男子6歳以上2反、女子男子の2/3)
    *2:「租」:口分田(土地)の広さに応じてイネを納める。「庸」:労役またはその代わりに一定量の布を納める。
    「調」:その土地の特産物を納める。「租」は地方の財源,「調」と「庸」は中央政府の財源として使われる。
 大宝元 (701) 年、刑罰(律)を備えた行政法(令)として大宝律令(『大宝令』 (11巻) ,『大宝律』 (6巻))が施行され、奈良~平安時代の国家体制を確立した。
 律令制の施行が強力に推進され、それまでの社会慣習・社会規範との間に種々の軋轢を引き起こし、庶民の生活にも大きな労苦を生じていた。特に、和銅元(708)年前後に開始された平城京の本格的な建設は、短期間に大規模な数の役民を酷使して多くの逃亡者を生んだばかりか、その徴発によって畿内外の戸に過重な負担を強い、結果として戸籍地よりの浮浪逃亡を引き起こすことになった。

 畿内周辺の要路では、「調」を都まで運んできた運脚夫や造京の任を終えた役民たちが、帰国途中に飢え疲れて不慮の死という悲惨な状況が頻発していた。
 行基は慶雲2(705)年、病気を患った母親を伴って土師氏ゆかりの大和国添下郡佐紀郷に移り佐紀堂に安居して孝養を尽くした。慶雲4(707)年、平城京造営に伴う立ち退き命により母とともにさらに大和国平群郡生駒仙房へ移り住んだ。母の死後も仙房に留まって服喪の生活の中「衆生の仏教」への思索を深めていた。
 山林苦修業への懐疑の苦しみを乗り越え、「衆生の仏教」へ路線変更した行基は、行路民救済のために周辺交通路沿いに休養・看護施設として布施屋や初期道場(恩光寺、隆福院)を相次いで建立していった。
 郷里を離れた行路民の信仰心は、救済者・行基へ集中し、官の許しも得ず私人として得度し行基の活動に協力する者があらわれ、後に平城京にて盛んな托鉢行を展開する行基集団の母体となった。
 「布施屋」は、交通の要地に設置された簡易宿泊施設で、「調」、「庸」という税物を背負い都に届けに行く農民たちに一夜の宿と飲食物を供給する施設であった。
 「院」は、民衆のための寺院であり修業の道場でもあったが、寺院を私的に建設することは法律で禁止されていたので「院」を名乗っていた。
 施設を建設する資材の調達のため、出家の弟子に乞食修業(*3)を勧め、在家の弟子に罪とがを滅ぼす布施行を勧め活発な活動を始めた。
   *3:乞食(こつじき):比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。
 717年(養老元年)、行基らの活発な布教活動は行政府の注目するところとなり、元正天皇は詔を発して「小僧行基ならびに弟子ら」は僧にあるまじき非行(弟子と徒党を組む、釈迦の教えに違反し法令を犯す、報酬を強要する)を犯しているものとして、行基の名前をあげて糾弾した。
 平城京では下級官吏層を支持者として加え、721年(養老5年)彼らの一人・寺史乙丸(てらのふとまる)から平城京内の屋敷地の布施を受け菅原寺を建設して布教活動の根拠地とした。
 722年(養老6年)、民間布教を行う在京の僧尼に対して実刑を伴う極めて厳しい太政官符が発せられ、行基は民衆の強制送還を避けるため在京の知識集団を解散して一時的に故郷・和泉へ撤退した。
 722年(養老6年)、行政府はそれまでの土地の公有制を改めて、土地の開墾促進を目的として太政官符「良田百万町開墾計画」を発し、723年に「三世一身法」(*4)を施行した。
   *4:「三世一身法」:灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合、三世(本人・子・孫)所有を許す。
            既設の灌漑施設を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す 
 私有耕地の拡大は、農民たちの望むところであった。
 行基は地元の農民や帰依者の力を結集して灌漑用のため池・用水路を造り、これの建設および維持管理のために院を建設して用水路の利用者を知識(*5)に結集させ院と池の永続性を図った。
   *5:「知識」:仏道に帰依するために財物や労力を提供する者、団体、その行為、また寄進された財物。
 溜池・用水路にはじまる土木工事は、さらに堀川・橋・道路へと拡大し、本来、公権力がなすべき事業を行基とその弟子たち(知識)が代行して実行したことにより行政府の抑圧は軽減した。
 731年(天平3年)、行政府は、行基知識集団に対する警戒を解き(官の政策転換)、行基に帰依する知識集団の内、男61歳、女55歳以上の高齢者について、国家による調査・試験を経ることなく出家することを許可し、出家者としての特権(課税免除、刑罰軽減等)を許した。
 734年(天平6年)、大地震が発生し、つづく735年(天平7年)、聖武天皇が朝鮮半島の新羅や唐に派遣した使節団が道中で天然痘に感染し、緊急帰国上陸した大宰府管内で大流行し多数の死者を出した。737年(天平9年)使節団が平城京に帰ると、国政を担っている藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)百官の官人に蔓延、病死するなど行政府を閉鎖するほど大きな被害が発生した。
 聖武天皇は、災害を収め国家を安寧ならしめるため仏教への帰依を深め、宮中と大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺の四つの寺に『大般若経』を読み上げる法要を実施させた。
 740年(天平12年)、聖武天皇は、難波宮行幸の際、河内国大県郡智識寺にあった盧舎那仏に礼拝し、知識集団や民衆によって建立、運営されていた智識寺のあり方に印象を強く持たれ、後の大仏造立に詔に反映された。

 741年(天平13年)、聖武天皇が恭仁京に繋がる泉大橋(木津川)近くの泉橋院に行幸され行基と会見し、摂津猪名野の地を与え給孤獨園(*6)とすることを許し、さらに泉橋架設に参加した優婆塞ら750人に得度を許すなど、行基に対する国家の姿勢が大きく変わった。
   *6:「給孤獨田」-孤:父なきなり⇒孤児、獨:老いて子の無き者⇒「身寄りのない老若に給する施設」

 

 743年(天平15年)、聖武天皇は盧舎那仏造立の詔(*7)を発令し、行基は知識集団を率いて参加し勧進役を命じた。
   *7:「・・・自ら当に念を存し、各廬舎那仏を造るべし。もしさらに人の一枝の草、
       一把の土を以て像を助け造らんを情(こころ)に願う者有らば、ほしいままにこれを聴(ゆる)せ。」
 聖武天皇は、知識という僧侶、俗人をまじえた喜捨集団による行基の活動のあり方を認め、知識の一人として国民へ大仏造立への参加を呼び掛けた(*8)。
   *8:『東大寺要録』縁起章第二所引「造寺材木智識記」
       ◆利波志留志(献物叙位にあずかる大口の布施)    
        ・材木智識(五萬一千五百九十人)、・役夫知識(一百六十六萬五千七十一人)、・金知識(参十七萬二千七十五人)、・役夫(五十一萬四千九百二人) 
       
 人口が増加する一方耕地不足が生じ、さらに私有化期限が迫ると耕作意欲が落ち荒れ地が広がり問題化してき墾田永年私財法を制定し、新たに開墾した土地の永久私有化を認め労働意欲を促した。結果的には、開墾資力に恵まれた貴族や寺社など有力者の耕地集約(荘園)や豪族の配下支配(自衛武士発生)に繋がった      
 745年(天平17年)、聖武天皇は、行基を「僧正」の位を超え、初めての「大僧正」に補任した。

4.行基の事績
第Ⅰ期:704年(慶雲元年)~710年(和銅3年)
 母への孝養の生活と、山林における苦修行への疑念に苦しむ時期
 山林苦修行を断念し故郷・堺へ帰り生家を家原寺に改修して和泉を中心に小規模活動を始めた。
 郷里の人々は、行基を偉大な修業者として迎え入れ、請われて行基は須恵器生産の斜陽化しつつあった大村里に大須恵院(現・高倉寺)を建立し「衆生の仏教」へ踏み出した。
 特に、光明地区では、瓦のほかに仏鉢型土器(托鉢)、硯、舎利瓶器型小壺(火葬後の骨壺)が生産され、民衆は和泉地方における行基の活動を支え、行基に帰依し在地の行基知識集団の母体となった。
 大須恵院では、これら須恵器の生産に携わっている人びとや階級、身分を無視して広く民衆に根差した布教を目的とした。
 707年(慶雲4年)、母親の病気療養と看病のため、ともに土師氏ゆかりの大和国添下郡佐紀郷に移り佐紀堂で孝養を尽くす。その後、平群郡生馬仙房に移り住み、710年に母親没しても仙房にとどまり喪に服していた。 

 

第Ⅱ期:710年(和銅3年)~723年(養老7年) 
 疑念から解放されて大和へ布教(乞食修業、布施行)を始め、行政府から抑圧の始まった時期
 平城京の建設が本格化するに従い酷使から逃亡する役民が増え、「調」を都まで運んできた運脚夫および造京の任を終えた役民たちが、帰国途中に飢え疲れて不慮の死という悲惨な状況が頻発し溢れた行路民の救済のために周辺交通路沿いに休養・看護施設として布施屋や初期道場(恩光寺、隆福院、石凝院、菅原寺)を相次いで建立した。
 施設を建設する資材の調達のため、出家の弟子に乞食修業を勧め、在家の弟子に罪とがを滅ぼす布施行を勧め活発な活動を始め、717年(養老元年)、元正天皇より「小僧行基」と行基名指しで糾弾され、行基は、民衆の強制送還を避けるため在京の知識集団を解散し一時的に故郷・和泉へ撤退した。

第Ⅲ期:724年(神亀元年)~729年(天平元年) 
 良田計画と三世一身法の成立を受け和泉地域の開墾事業に注力
 民間・衆生への布教に確信を持ち、女性のために院と尼院を分け(清浄土院・尼院、大野寺・尼院)、道場(久修園院、檜尾池院)と併せて溜池や用水路、山崎橋などを造営した。
特に、山崎橋の架設は、師・道昭の先行事業を継承し、淀川三川(木津川、宇治川、桂川)合流地点に架設する本格的事業として、その後の淀川流域における事業展開の準備期間と位置付けるものであった。
 糾弾を受けて帰郷の中、行基は、地元での民衆布教の拠点として大野寺(*9)の建設に取り組み、その南方に百舌鳥古墳群の築造に貢献した地元の大檀越・土師氏の協力のもと和泉、河内を主体とする在地の行基知識集団を結集して一辺約53.1mの四角形の基壇に13段の階層を有する国家安寧・鎮護および祖先追善供養など祈りの象徴として土製の作善行の塔・土塔を築造した。
   *9:四十九院の内、「寺」の呼称は、2.恩光寺、5.菅原寺、10.大野寺のみで、その他は「院」の呼称とした。
    「僧尼令」で寺を私的に建設することを禁じられていたので、民衆のための修業道場として垣根をめぐらした建物という意味で「院」を名乗った。

第Ⅳ期:730年(天平2年)~749年(天平勝宝元年):行基死亡
 畿内全域の大規模な開墾事業が展開された期間-行政府、事業成果目録「天平十三年記」確認
 国家の支配理念と実態の乖離の中で、本来、国家がなすべき多くの社会・土木事業を、行基知識集団が成し遂げ社会矛盾を解決していった。
 これら知識集団とともにある行基の事績が評価され、731年(天平3年)行基に帰依する高齢者(男61歳、女55歳以上)への出家の許可、741年(天平13年)泉橋院で聖武天皇と会見し給孤獨(きゅうこどく)園(えん)(身寄りのない老若に給する園=理想郷)建設の許可、また、当時の行政府は行基の起用に当たって行基知識集団が取り組んだ社会的事業の記録(公文書「天平十三年記」)の提出を求め、行基の布教実践活動は高揚し、さらに淀川中下流域へ開発事業が展開していった。

 


 

5.行基活躍の特徴と功績
1)行基は、大乗的菩薩道(*10)に立って布教と社会的活動を積極的に実践、展開した。
    *10:菩薩道:すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えとする道
 「利他行」(*11)を実践することも悟りに結実する修行であるとし、行基の各種社会事業はまさにこの菩薩道の実践そのものであった。 
    *11:利他行:仏に絶対的に帰依し,それを体現することを目ざして,他人に対する善きはからいを第一の眼目とする考え。
 最澄(767~822年)が『顕戒論(けんがいろん)』巻上(820年)に行基を理想とし、菩薩僧の養成を天台宗の目的とした、と説いた。
 「恐らく、奈良時代を通じ、行基ほど多数の弟子を養成した僧は皆無であったと言って過言ではないと思わる。」書いている。
2)民衆が行基の布教を受け止め帰依した。
 ①行基は高度な教義をなまの形で説いたのではなく耳目に入りやすい平易な説教を行った。
  この世において善行(利他行)を積めば、現生で報いを受け富を築くことが出来ると説き現実の生活に悩む民衆を引き付けた。
  社会的、経済的な問題と絡み合い、行基の教えへの傾倒が深まり、菩薩行の貫徹が民衆の心の中に強く浸透して帰依していった。
 ②豪族や上層農民には貯富の可能性を認め、仏や経典の力に頼り、功徳を積みながら生産に励むことを説き、その生産活動を内面的に支えた。
  仏教による精神的な救済のみならず、自ら達成した社会・土木事業(作善行為)の現実的効果を認めた。⇒灌漑施設、交通
 ③行基の施設造りと開発における持続性・計画性・合理性は豪族の経済的活動に結びつき豪族や上層農民が行基活動の担い手となった。
3)仏縁に結集する民衆(知識*5)組織化のシンボルとして「土塔」を築造し、その後の社会的事業推進の体制づくりに結び付けた。
 土を使って建築の専門的な技術を必要としない「塔」の築造を企画し、広く民衆が協力して自らの手で「塔」を築き上げ行基への帰依のもと団結力を高めた。
 「利他行」に通じる善行の種をまいて功徳の収穫を得る福田思想の一方、祖先追善供養、極楽往生や国家安寧(天皇尊霊)など願いを込めた行基知識集団の象徴となった。 
 発掘調査により(平成10年度~、復元整備工事:平成15年~平成20年)、多くの文字瓦が出土し(約1,250点)、中に、軒丸瓦当面に「神亀四年□<丁>卯年二月□□□<三日起>」(□:欠損、< >:復元)と記されたものが2点あって、安元元(1175)年に記された『行基年譜』に記載された大野寺の創建年代に記載と合致し、文献資料の記載と考古学的な資料の内容の一致により大野寺と土塔御建立が神亀四(727)年と確定し、『行基年譜』が一級史料であることを証明された。
 出土した人名瓦を精査すると、僧尼関係(優婆塞、優婆夷、童子)、姓を持つ氏族、持たない氏族に分類され、臣や連、宿禰などを有する有力氏族のほかに女性の参加も確認された。
4)女性の立ち位置、役割に配慮し男女同等の扱いをした。
 従来、農業や祭祀等において女性の活動が一定程度確保されていたが、律令制の導入によって男性中心制(税制、戸籍法、儒教的家族道徳強制等)になり女性の地位が大きく変化して、女性たちは家族や共同体を離れ行基の大乗的菩薩道に帰依し個人的な救済を求めた。
 行基は、故郷・和泉国に撤退するきっかけとなった太政官符〔722年(養老6年))「・・・聚宿を常となし、妖訛群をなす。初めは修道に似て、終には姦乱を挟めり。永くその弊っを言うふに、特に禁断すべし、と。」を踏まえ、誤解を避けるため、帰郷後、最初に建立した道場「清浄土院」には、別途、女性専用の「尼院」を建立し、道場四十九院の内十三院に女性専用の尼院を併設し、宿泊の設え、食事準備、看病、衣類繕い等身の回りの世話など女性の役割を確保した。
 女性に大乗菩薩道への参加の道を開いた。
      722年(養老6年)清浄土院に、別途、女性専用の「尼院」を建立した(合計四十九院の内尼院十三)。
   727年(神亀4年)仏縁と功徳を求め、作善行を目的とした土塔の築造に女性知識の参加が認められた。
   730年(天平2年)和泉国大鳥郡日下部首麻呂智識『瑜伽師地論』写経に433人の女性が参加した(男276人、計709人)。
   731年(天平3年)聖武天皇詔「行基法師に隋遂せる優婆塞(男)61歳以上、優婆夷(女)55歳以上ならば、みな入道をゆるせ。」により女性の 出家を公認させた。

5)根源的な水資源開発を推し進め、渇水と洪水両様を講じ大規模水田開発を推し進めた。
 天平13(741)年、行政府に提出した行基知識集団が取り組んだ社会的事業(公文書「天平十三年記」)8種類のうち、6種類〔橋、池、溝(用水路)、樋(水門、樋菅)、船息(港)、堀(運河)〕が水に関わる事業であった。
 慶雲元(704)年、行基は山林修行から新たに「衆生の仏教」へ目覚め、民衆の救済に軸足を置いて故郷へ帰郷し畿内全体を視野に入れながら身近な問題に取り組んだ。
 当初は、地元民に乞われて蜂田郷に灌漑用茨城池を造り、百万町歩開墾計画に基づく「三世一身法」の施行後、丘陵ごとに小さな池を造り地域の農民救済のなかで池造りの技術を蓄積した。
 最終的には、溝、樋を活用した河道外貯留ダム方式による技術で大きな池(狭山池、久米田池、昆陽池)を補修し、開発した。
 神亀2(725)年、税物(調、租)を運ぶ運脚夫等の便宜を図って、師・道昭に習い淀川三川(宇治、木津、桂川)合流地点に苦労しながら山崎橋を架設した。
 この経験を活かして高瀬大橋(730年)、泉大橋(740年)、淀川下流部3カ所(745年:長柄、中河、堀江)など淀川中・下流域の重要拠点に架橋した。

 「堀」と「溝」については、「天平十三年記」に示された仕様数字から(上表参照)、「堀」は運河(通常幅20~30m)ではなく、その使途は「洪水対策放水路」(幅:60m~200m、長さ:300m~2,100m)と考えるのが妥当で、「溝」は水資源を新たに産みだすための施設で配水施設ではないとの土木技術専門家の意見に説得力がある。
 従って、行基集団の淀川中・下流域の開発事業は、これら地域を干陸化して新たに水資源を産みだし水田にすることが目的であると考えられる。
6)氏族層の乱立によって郡司の支配が機能しづらい状況の中で、行基らの媒介で氏族が相互依存関係で協力し合う流れが出来た。
 土塔の築造に土師氏を中心として周辺氏族が参加し、それを機縁として自らに地域の道場(院)や灌漑、交通施設などの造営に支援を求めた。 
 異なる氏族・技術者を包含して移動し、各地に「院」(私設道場)を設けることによってネットワークを構築し、さらに活発化、大規模化して人、物、技術の相互支援体制が整った。
  ⇒勤労奨励、資富蓄財の肯定、生産転換(現状離脱の自助努力)、ネットワークづくり規模拡大・相互支援(氏族間、技術者間)を促した。
7)行基集団は国家の社会統合のあり方を法的官僚制(大宝律令制)から仏教的社会へ橋渡しし、国家の社会統合のあり方を誘導した  
 8世紀には、国家(聖武天皇)は仏教を利用した社会統合を企図し、律令に基づく官僚制のみならず仏教を社会統合の要と位置付けた。
 王権と支配者層のみが仏教を占有する「僧尼令」(*12)的な仏教観を一歩脱して、衆生救済の大乗仏教を思想上容認した点で画期的であった。
    *12:僧尼の禁止すべき行為と,それを犯した場合の罰則や,僧綱(そうごう)任命の原則などを規定。
 天平13(741)年、聖武天皇が泉橋院に行幸し行基との会見で摂津・猪名野の地を与え給孤獨田(*:13)とすることを許し、さらに泉橋の架設に参加した優婆塞ら750人に得度をゆるし、国家に奉仕し財政を支える存在として民衆に仏教的救済の必要性を認めた。
    *13:「給孤獨田」-孤:父なきなり⇒孤児、獨:老いて子の無き者⇒「身寄りのない老若に給する田」
 行基は惸独田(けいどくでん)150町の収穫をもって孤(親のない子)・独(子のない親)に施した施設(昆陽施院:日本後紀、弘仁3(812)年8月癸丑条)を建立した。 
 743年(天平15年)、聖武天皇は盧舎那仏造立の詔を発令し知識力によって成し遂げることを理念として掲げ、「一枝草一把土」をもって造像に協力するよう呼び掛けた。
 

6.引用文献・資料  発行(発表)年順に記載
1. 吉田靖雄1987『行基と律令国家』吉川弘文堂
2. 井山温子1987「和泉地方における行基集団の形成」『史泉』20頁、第66号 関西大学
3. 千田 稔1994『天平の僧 行基 異能僧をめぐる土地の人びと』中央公論社
4. 大阪府教育委員会1995『泉州における遺跡の調査Ⅰ陶邑Ⅷ』大阪府文化財調査研究センター
5. 井上 薫編1997『行基事典』図書刊行会
6. 瓜生津隆真1997『浄土三部経Ⅲ阿弥陀経』12頁 本願寺出版社
7. 浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編纂委員会1998『日常勤行聖典』106頁 本願寺出版社
8. 井上 薫編1998『行基菩薩-千二百五十年御遠忌記念誌』行基菩薩ゆかりの寺院
9. 堺市博物館1998『行基-生涯・事跡と菩薩信仰』堺市博物館
10.  勝浦令子2000『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館
11.  堺市・文化財課編2010『史跡土塔整備記念講演会記録集 堺の誇り土塔と行基』堺市
   土塔発掘開始:1998年〔神亀4年(727年)記入文字瓦出土〕、復元:2003年~完成2008年〕
12. 吉田靖雄2013『行基 文殊師利菩薩の反化なり』ミネルヴァ書房
13. 近藤康司2014『行基と知識集団の考古学』清文堂出版
14. 溝口優樹2015『日本古代の地域と社会統合』吉川弘文館
15. 角田洋子2016『行基論 大乗仏教自覚史試み』専修大学出版局
16. 尾田栄章2017『行基と長屋王の時代 行基集団の水資源開発と地域総合整備事業』現代企画室
17. 堺市・市長公室企画部政策企画担当、環境局環境都市推進部環境政策課
         2018「持続可能な開発目標SDGs~わたしたちの世界を変革する17のゴール~」
18. 舘野和己(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)「太鼓古墳群と土師氏の関わり-墳墓造りを担った古代氏族」2019『中外日報』2019年8月30日号
19.「行基さん大感謝祭」実行委員会2019「行基さん大感謝祭2019」案内資料(令和元年10月26日)
20.森 明彦「諸国より京への運脚夫日数」2020『堺行基の会会報』第47号、1頁、堺行基の会


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行基生誕1350年記念講演会「堺から仏教を変えた行基さん」

2021-02-25 00:50:43 | 堺のアイデンテlティ―

 

文責 前田秀一 プロフィール

 

 堺市民が敬愛し誇りとする「行基さん」の生誕1350年を記念して公開講演会(主催:NPO法人堺観光ボランティア協会)が開催され聴講しました。
 講師は、行基さん入寂のお寺「菅原寺(喜光寺)」(奈良)より副住職・高次喜勝師をお迎えし、併せて行基さんが民衆の力を結集して築造した作善行の塔「土塔」の発掘調査および復元の業績をもとに学位記「博士(文学)」を取得された近藤康司氏が務められました。
 行基入寂のお寺の内側から貴重な資料に基づくお話しであり新鮮味を感じました。

関連情報:『現代に生きる僧・行基の伝承伝説』こちらから

堺から仏教を変えた行基さん

法相宗別格本山 喜光寺(奈良市) 副住職 高次喜勝

◆668年、和泉国大鳥郡蜂田郷家原村(現堺市西区)で生まれ、十五歳にて出家し「瑜伽唯識論」(法相宗の教え)を学び理解したと伝わる(『続日本紀』)。
◆691年、葛城山高宮寺野徳光より具足戒を受ける(24歳)。
◆700年、師事していた道昭師(遣唐使として法相宗を導入)が法興寺(現飛鳥寺)で入寂(33歳)。
701年、『僧尼令』(僧尼の寺院外での活動や在家信者との関わりを禁じた法律)の施行に悩む。
704年、37歳で法興寺を辞して帰郷し、生家を家原寺と名付け地元の民衆との関わりを深める。
      病弱であった母親を生駒山東陵・草野仙房に転地させ介護に励む(40歳)

 
奈良・本興寺(現飛鳥寺)           行基の生家・家原寺(堺)
   

710年、母死去、その後も草野仙房に住み苦行する(45歳)。
     母思いの和歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かと思ふ母かと思ふ」
◆716年、大和国平群郡に恩光寺を起工(49歳)
◆717年、元正天皇、行基と弟子等を糾弾(50歳)。
721年、寺史乙丸から平城京の寺地貴信を受ける(54歳)
722年、菅原寺(後の喜光寺)を起工、開創(55歳)
     太政官民間布教を糾弾、行基は和泉に蟄居
723年、「三世一身の法」が発布され、開墾田の三代私有を許す
     衆生の教化に乗り出し、橋、道場、池、用水路、港、運河、僧院、尼院など
            740年まで民衆の生活に利する活動に取り組み、行基の慈悲を仰ぎ、菩薩と称し慕うものが増えてきた(『続日本紀』)。

724年、聖武天皇即位(57歳)。
727年、民衆の力による作善行為の塔「土塔」を大野寺の境内に建立(60歳)

     民衆が特別な技術がなくても自分にできる奉仕の力で土を盛り上げ信仰の神髄として塔(土塔)を造り上げた。
 行基の福田(ふくでん)思想(善い行為の種子をまいて功徳を得る)による菩薩(求道者)の知恵と慈悲に基づく利他行(自分の利益よりも他人の利益を優先する行い)のシンボルとなった。
741年、泉川泉橋寺にて行基と聖武天皇が会談(74歳)       
743年、聖武天皇、大仏建立の詔。行基勧進元を仰せつかる(76歳)。
          「もし、さらに人の一枝の草、一把の土をもって像を助け造らんをこころに願うものあらば、ほしいままにこれを許せ」(『大仏像率の詔』

 

  
    大仏様を造った人々(『東大寺二月堂過去帳』):合計2,603,638人
     材木関係工人51,590人+労働者1,665,071人+金工372,075人+国の労働者514,902人
    当時の全人口:500~600万人、平城京人口:50~10万人
   大仏様にいきる精神:「小さなことからコツコツと」
745年、聖武天皇、行基を日本で最初の大僧正に補任(78歳)。
748年、行基病に臥す。聖武天皇、菅原寺に行幸(『喜光寺縁起』)。
749年、行基、菅原寺(現喜光寺)にて入寂(82歳)。遺命により生駒山東陵にて荼毘にふし(師・道昭に続いて日本で二人目)、現竹林寺に埋葬。

  
法相宗別格本山 喜光寺(当初・菅原寺)

1235年、僧寂滅、生駒山中で行基が発掘され、舎利瓶・『舎利瓶記』発見。


土塔発掘調査からみる行基の活動

堺市文化財課 学芸員 近藤康司 博士(文学)

行基はなぜ塔を土で造ったか
 木造の「塔」というのは、建築の専門的な知識が必要だが、土であれば建築の専門的な知識がなくても、誰もが参加できる。まさに、知識全員が建立に参加できる形態の「塔」(十三重の塔)の建立を目指した。

     

発掘窟調査出土瓦から判明したこと
 文字を記したものがあり、大きく2種に大別できる。
 まず一つは、軒丸瓦の瓦当面(蓮の紋様が描かれる正面にあたるところ)に「神亀四年□〈丁〉卯年二月□□□〈三日起〉」(□は文字が欠けている部分。〈〉は復元)と記されたものが2点出土した。行基の事績を記した記録の大野寺の創建年代の記載と合致し、文献資料に記された記事と、発掘調査で出土した考古学的な資料の内容が一致したことで、大野寺・土塔の建立年が727年に確定した。
 もう一つは、瓦への文字の記載は、焼成前の丸瓦、平瓦にヘラ書きで人名が記されたもの約1250点が出土し、僧尼関係、姓を持つ氏族、持たない氏族などで有力な臣や連、宿禰などもあった。女性も知識として参加していた。

なぜ瓦に名前を書いたのか
 行基が土塔を建立する際に、参加した人々が協力した証しとして名前を記したと考える。要は、土や瓦を運ぶといった労働力の提供、あるいは食料や金銭などを寄進した人々もいたであろう。仏道に寄進を行い、結縁を結ぶことを仏教用語で知識という。
やはり土塔が建立された和泉国(建立時は和泉監)大鳥郡の氏族が多く、摂津国北部といった遠方の氏族名もみえる。このことから、土塔建立にあたっては、近隣だけでなく、遠方からも集まり、または土塔建立以前に、すでに各地から大鳥郡に集って来ていた知識集団の結集が考えられる。


土塔の建立で、行基と知識たちは何を求めたのか
 文字を記した瓦の中に、先祖を追善する内容のものがある。当時の寺院建立は、先祖の追善というのが人々の大きな目的であった。
 このほかに文字の書かれた状況や歴代天皇の霊の安穏や極楽往生を願ったものがあり貴族クラスの人物かと解釈されるものがあった。
  土塔建立には、このような願いが込められていたと思われる。


土塔建立の意義について
 「塔」を建立することで寿命延長、天人界に生まれることができる、無間の罪を滅ぼすことができる、菩提を得ることができるといったことが記されており、知識たちは土塔建立に参加することで、このような功徳を得ることを求めたのであろう。
 行基は、平城京近辺での活動が「僧尼令」違反として弾圧されたため、京を出て郷里の和泉へ戻り、衆生救済のために最初の社会事業として土塔の建立に取り組んだ。
これから始まる行基と彼を支える知識集団の活動のいわばシンボルと位置づけられた。
 土塔を建立した大鳥郡土師郷は、土師氏の本拠地で古墳時代以来古墳の築造など土木技術に長けており、行基の土木技術を伴う社会事業においては知識の中でも大檀越だった土師氏の助力は大きかったと考えられる。

「土塔公園」正門より史跡「土塔」を望む


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誇りを知る 1600年の歴史と文化に出会う「堺」!

2021-02-25 00:49:30 | 堺のアイデンテlティ―

1600年 堺の歴史(”光もの”)と文化

堺 その名前の起源 詳しくはこちらから

前田秀一 プロフィール

 

 大宝元年(701)、大宝律令の完成にともない、はじめは「摂津国」と「河内国」が置かれ、天平宝字元年(757)に「河内国」から大鳥、和泉、日根の3郡が分離して「和泉国」が設置された。
 「摂」、「河」、「泉」(「摂河泉」)三国の境界(「三国山」、「三国丘」)にある“まち”の位置づけから、特に、熊野詣が盛んになった平安時代より「境」⇒「さか井」(1045年)⇒「堺」(1081年)と私称が展開し、後に、固有の地名として「堺」が国境の“まち”の同義語として語られるようになった。

詳しくは、こちらから

堺の“光もの”

 日本が、初めて国家を形成したのは5世紀の百舌鳥古墳群一帯であり「河内王国」と提唱され、「大和王権」国家に先立つことであり歴史的に注目されている。第2の国家形成は、織田信長による全国統治の時期であり、それは、豊臣秀吉によって引き継がれ南蛮文化によって花開いた中世の国家となった。その後、徳川家康によって江戸幕府が開府し、首都が関西から関東へ移動して第3の国家が始まった。近代国家の始まりは明治維新であり、第2次世界大戦後は現代国家としてさらに生まれ変わった。
 これらの過程にあって、堺は、その時代に応じて重要な位置づけにあったが、特に、第1次および第2次国家形成の時代にあっては、その中心にあったことが注目されている。
 また、中世から近世においては、堺の港がキリシタン文明到来の玄関口となり、外国のみならず国内諸国からの文化の窓口として、人、もの、情報の集まる商業都市として世界的に注目され、「ものの始まりなんでも堺」とうたわれ文化、技術の発信地となった。

旧石器・縄文・弥生時代 集落・水耕稲作遺跡「四ツ池遺跡」(国指定史跡)

   

 石津川流域下流左岸に四ツ池集落遺跡が存在し、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「国」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、大、中規模の墓が存在し整備されたムラであり、水田稲作により食糧の大量生産体制が整い、さらに、銅鐸も発見され金属器の使用が考証されている。
 古墳時代に向けた社会的基盤の構築にむけた足掛かりを築いていた。

古墳時代(5世紀) 世界文化遺産「百舌鳥古墳群」

 仁徳天皇が高津の宮を営み、在位中から百舌鳥の地に巨大な大仙古墳が築造された。そのほかに履中陵(百舌鳥陵山古墳)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、反正陵(田出井山古墳)など大型古墳群が集中して築造された。これらの築造に携わった人々、食糧、物資の集中は、それまでに例を見なかった賑わいと想像される。
 また、5世紀前半ごろ、陶邑で、朝鮮半島南部渡来の工人による須恵器の生産が始り、平安時代まで約500年間続いた。新技術によって作られた硬い須恵器は、全国の需要を招き、列島住民の生活をも改変した。1962年には、泉北地域の開発に先立った発掘調査の結果、陶器山、高倉寺、栂、光明池地区などで600基以上の登り窯が発見された。
 堺市では、大阪府、羽曳野市、藤井寺市と協働で、古市古墳群と併せて百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の早期実現をめざした取り組みを進めている。
 すでに、平成20年に世界遺産暫定一覧表に記載が適当と評価を受け、堺を含めた4自治体が連携し、登録に向けた事務の調整やユネスコへ提出する推薦書(案)の作成、登録気運の醸成に向けた事業などを進めている。

大和朝廷時代(7~8世紀) 「誰一人取り残さない」(民衆の救済)SDGsに一生をささげた「行基」

  

 15歳で出家して奈良・薬師寺に入り法相宗を学んだ。その後、仏教が、国家の統制下におかれていた奈良時代、国に奉仕する仏教にあきたらず"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻さなければと活動を起こした。
 まちへ出て民衆に教えを説き、旅人の行き倒れを助けることから始まった。
 行基の説教を支持する多くの民衆の協力を得て、道や池、溝、港、布施屋など社会事業施設を造り、狭山池や昆陽池なども造った。また、民衆のために、家原寺はじめ、49ものお寺を造った。
 行基菩薩と呼ばれ民衆の絶大な信仰を集めたため、無視することも出来なくなり、国も東大寺大仏建立事業に行基の力を借りることになった。そして天平17年(745)に、聖武天皇から我が国最初の大僧正の位に任ぜられた。
 衆生に対する慈悲を説く僧・行基の教えは、その後、遣唐使として唐に学んだ最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)に大きく影響を与え日本の大乗仏教実践の規範となり、方年、親鸞、一遍、日連など鎌倉仏教の教祖を生み出し浄土思想の普及に発展した。

「SDGsのモデルとしての行基事績の再評価」は、こちらから

 

中世(16世紀) 茶道を大成した侘び茶の祖「千利休」

 

  堺市今市町(現・堺区宿院町西)で、納屋衆・魚屋千与兵衛の長男として生れ、幼名を与四郎と言った。後に、禅の道に精進して、南宗寺の高僧・大林宗套から「宗易」の名を与えられた。
 当初、北向道陳に書院台子の茶を学び、19歳の時に武野紹鴎に茶の湯を学んだ。道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界「草庵の茶室」を創り出した。宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化した。
 後年、織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われた。1585年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、1587年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰した。
 1591年、不遜の行いがあったとして秀吉の怒りを買い、堺で自刃しその生涯を終えた。
 現代に伝わる3千家(武者小路、表、裏)は、娘婿・少庵の孫・宗旦の子供たちによって子々孫々継承されている。

近世(19~20世紀) 近代の先駆者「河口慧海」(仏教学)と「与謝野晶子」(歌人)

 

 明治に入ると廃藩置県により堺が明治政府の直轄地となり、1868年「堺県」として、現在の奈良県を含む大きな近代行政区域に昇格し、1881年2月に大阪府に編入されるまで続いた。
 1897年、早くから仏教に傾倒した河口慧海(堺区北旅籠町生れ)は、宇治・黄檗山万福寺塔頭で漢文大蔵経を読み、仏教の原典を求めてチベット行きを決意し、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越え膨大なチベット語経典や民俗資料を収集して日本の仏教学の発展に尽くした。
 1901年、与謝野晶子(堺区甲斐町生れ)が第一歌集『乱れ髪』を刊行して脚光を浴び、以後、近代日本文学史のジャンルを開き、女性の経済的自立を訴えて活動し近代の「新しい人間像」として黎明期を担った。

 

堺の文化

中世 世界の商業都市「堺」の歴史と文化

  

 「海」は、古代からヒト、モノ、情報の遠隔交流の場として重要な役割を果たしてきた。
 堺の繁栄は、応仁・文明の乱の影響を受けて、堺港へ遣明船が入港した1469年から大坂夏の陣で堺のまちが壊滅的に戦火焼失する1615年までの約150年の間であった。
 その間、堺は、鉄砲の伝来、フランシスコ・ザビエルをはじめキリスト教宣教師の行き交うまちとなり、時の為政者・三好一族との相互支援のもと町人による自治・自由都市、国際貿易都市として栄え、日本の政治、経済、軍事戦略上重要な地位を築いた。


    堺の“まち”文化の再発見、再生、創造
     ☆文化財公開
    ☆茶の湯  利休のふるさと「堺大茶会」
            茶の湯におけるキリシタン受容の構図
    ☆「堺まつり」 1600年の歴史に出会うまつり
    ☆堺の造り酒とその変遷
    ☆堺のお土産 逸品と名産

歴史と文化の共有による政令都市間交流の絆 “仙臺すずめ踊り“

 

 慶長5年(1600)、堺の茶人で有力な商人・今井宗薫は、陸奥の武将・伊達政宗の要請を受けて身近に住む堺の石工など上方職人の世話をした。
 慶長8年(1603)、念願の仙台城築城を目の前にして、伊達政宗は新築移転の儀式で宴席を設けて堺の石工たちを“もてなし”した。そのお礼のしるしに石工たちが即興的に飛んだり跳ねたり、その“慶び”を踊りに託して表現し、石工たちが踊る姿が伊達家の家紋「竹に雀」に記されている雀がえさをついばむ姿に似ていることから“すずめ踊り”と名付けられたと今に伝えられている。
 平成17年(2005)、第32回「堺まつり」に招聘し紹介されて以来、“仙臺すずめ踊り”を絆として堺と仙台の歴史と文化を共有した市民交流へと発展している。

     ☆仙臺すずめ踊り 泉州・堺の石工 活躍の背景
     ☆“すずめ踊り”黒田家四百年の伝承
     ☆シンポジウム「“すずめ踊り”を絆とした地域コミュニティづくり」
     ☆すずめ踊り普及日記

2022年10月16日(日) 第49回 堺まつり 「なんばん市ストリート」ステージ

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」再発見・実地見聞

2021-02-25 00:48:45 | 堺のアイデンテlティ―

 堺ユネスコ協会では、堺市(主管:堺市博物館)と大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)共同主催企画プロジェクト「日本と世界が出会うまち・堺」の趣旨に賛同し、「堺」をテーマとして研究参加される中学生・高校生の皆さんが体験の中から今に生きる題材および研究情報に巡り合うお手伝いを目的として「堺のまち歩き-堺の誇り再発見・実地見聞-」を企画主催しました。
 身近な体験の中で、堺のアイデンティティーに興味を持ち、関心を高めて研究テーマを発見し、自ら考え、友だちと協力しながら解き明かし、未来への提言および展望づくりに挑戦しましょう!
 参加者の皆さんが堺に愛着と誇りを持ち、自己実現を果たし「生きる力」を育まれることを応援します。

地球上の「誰ひとり取り残さない」

SDGs(持続可能な開発目標)を「自分ごと」として取り組みます!
     

 

「堺まち歩き」 堺の「誇り」再発見・実地見聞 実施経 
〇内の番号はタイトル地図内に示された場所を表します

前田秀一 プロフィール


 第1回 堺のミュージアムと南宗寺 2016年9月22日(秋分の日) 詳しくはこちらから
  ①堺市博物館・仁徳天皇陵、②利晶の杜(千利休・与謝野晶子)、③臨済宗大徳寺派「龍興山・南宗寺」

    


 第2回 堺の町屋歴史館と妙国寺 2017年9月18日(敬老の日) 詳しくはこちらから
  ④「清学院」、⑤旧鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門居宅」、⑥水野鍛錬所、⑦「山口家住宅」、⑧日蓮宗本山「廣普山・妙國寺」

     

 

 第3回 古墳時代と幕末・明治維新の「堺」 2018年11月11日(日)  詳しくはこちらから
  ①堺市博物館・世界文化遺産登録を目指す「仁徳天皇陵」、⑨堺南台場・大浜公園、⑩天誅組・堺事件碑

     

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第1回仁徳天皇陵・千利休・与謝野晶子

2021-02-25 00:46:30 | 堺のアイデンテlティ―

第1回 堺のミュージアム(堺市博物館、仁徳天皇陵、利晶の杜)と南宗寺

「堺まち歩き」実施経過(第2回、第3回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                         <開催要領>
                          ・日時:2016年9月22日(秋分の日)
                          ・集合:10時 堺市博物館
                          ・解散:15時30分 堺市立少林寺地域会館「桐栄荘」
                          ・会費:中学・高校生 1,000円、大人1,500円(昼食は各自)
                          ・開催協力:NPO法人堺観光ボランティア協会

 

  
「1」堺市博物館    堺の歴史と仁徳天皇陵   詳しくはこちらから 
 堺の歴史と文化を一目瞭然に理解できます。古代から近代までの歴史の流れを紹介、企画展・特別展は毎回違ったテーマの展示が楽しめます。
博物館のロビーに設置された「百舌鳥古墳群シアター」は約200インチの大型スクリーンを有し、コンピュータ・グラフィックス(CG)技術を駆使して制作した迫力ある映像で、百舌鳥古墳群の雄大さを体感していただくことができます。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が賛助する「アジア太平洋無形文化遺産研究センター(略称IRCI)」が2011年(平成23年)10月、堺市博物館内に開設されました。
 堺市博物館はセンターと連携して、市民を対象に、アジア太平洋地域の無形文化遺産の保護・継承を中心とする民族芸能・音楽公演や展覧会、国際シンポジウム・セミナー・ワークショップなどの事業を実施しています。

 

 

 仁徳天皇陵  詳しくはこちらから
 エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。
 日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。
 前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。

  

「2」さかい利晶の杜   詳しくはこちらから 
 堺が生んだ茶の湯の大成者「千利休」と、日本近代文学を切り拓いた歌人「与謝野晶子」の生涯や人物像などを通じて、堺の歴史・文化の魅力を発信する文化観光施設です。

 

「3」臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺   詳しくはこちらから      
 1557年三好長慶が父の菩提を弔うため大林宗套を開山に建立。夏の陣で焼失後沢庵宗彭らが再建、国の名勝枯山水の庭、重要文化財仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休好みの茶室実相庵などがあります。

 
 南宗寺金堂                        千利休供養塔

参考資料:「堺市内禅宗寺院宗派別一覧」はこちらから 

振り返りミーティング

 

                                    堺市立少林寺地域会館「桐栄荘」                               

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第2回鉄砲・刃物・古寺・町屋

2021-02-25 00:45:40 | 堺のアイデンテlティ―

 

第2回 堺の町屋歴史館(清学院、鉄砲鍛冶屋敷、打ち刃物鍛錬所、山口家住宅)、妙国寺

「堺まち歩き」実施経過(第1回、第3回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                     <開催要領>
                      ・日時:2017年9月18日(敬老の日)
                      ・集合:10時 南海高野線堺東駅西出口改札前
                      ・解散:15時 ちんちん電車「妙国寺前」駅
                      ・会費:中学・高校生 500円、大人1,000円(昼食は各自)
                      ・開催協力:堺ちん電の会、NPO法人堺観光ボランティア協会

   

「4」堺市立町屋歴史館 清学院  詳しくはこちらから

 

 「山伏清学院」の名前で、元禄2年(1689)「堺大絵図」に記され、修験道の寺院として歴史を持っています。また、江戸後期から明治初期にかけては「清光堂」の名で寺子屋としても使われていました。北旅篭町で生まれ、日本人で初めてヒマラヤ山脈を超えチベットに入った河口慧海もここで学んでいました。

    
                        南海本線 七道駅前銅像

「5」旧鉄砲鍛冶屋敷 井上関右衛門居宅  詳しくはこちらから

 

 江戸時代から続く鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗。町家建築として最古の部類に属し、鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして市の指定有形文化財になっています。
    鉄砲の制作工程(出所:堺市自転車博物館サイクルセンター展示より 詳しくはこちらから )

 

「6」水野鍛錬所  詳しくはこちらから
 

 

 鞴(ふいご)のある古い工房が現役活動している庖丁・日本刀鍛造工房。
 明治5年(1872年)創業の日本刀・庖丁を鍛える工房です。戦後の法隆寺の大改修の時、国宝五重塔九輪の四方にかかっている「魔除け鎌」を鍛造し昭和27年(1952年)に奉納しました。
 「魔除け鎌」は200~300年に一度かけかえられるとのことですが、1300年前のものも含まれる法隆寺の古釘を集めて作られています、この「魔除け鎌」と心柱の釘が店内で実際に手にもつことが出来ます。
 また、全日本学生相撲選手権優勝者に贈られる日本刀の鍛刀もしており、元横綱輪島関や元大関朝潮関なども持っておられます。

   


「7」堺市立町屋歴史館 山口家住宅  詳しくはこちらから

 

 山口家住宅の主屋(おもや)は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられた、国内でも現存する数少ない江戸時代初期の町家のひとつとして重要文化財に指定されています。

 

「8」日蓮宗本山 廣普山 妙國寺  詳しくはこちらから
 正親町天皇の永禄年間(1558~1570年)に、当時四国の阿波より兵を起こして畿内を支配していた三好四兄弟の一人である三好義賢(実休)が、仏教を深く信奉して開山となられた日珖上人に帰依し、大蘇鉄を含む東西3兆南北5丁の敷地と寺領5百石を寄進しました。
   

 
慶応4年(1868)2月、堺で起きた土佐藩士とフランス兵との衝突、幕府没落と明治維新政府樹立の狭間で起きた事件で「堺事件」と呼ばれています。
<引用資料> 「廣普山 妙国寺 案内パンフレット」

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第3回古墳時代と幕末・明治維新の「堺」

2021-02-25 00:45:03 | 堺のアイデンテlティ―

 

第3回 古墳時代(仁徳天皇陵)と幕末・明治維新の「堺」

「堺まち歩き」実施経過(第1回、第2回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                       <開催要領>
                            ・日時:2018年11月11日(日)
                            ・集合:9時45分 JR阪和線百舌鳥駅改札前
                            ・会費:中学・高校生1,000円、大人1,500円
                            ・開催協力:NPO法人堺観光ボランティア協会

「1」世界文化遺産登録を目指す百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)1~5)   堺市博物館こちらから  

     

世界文化遺産登録概要1)
  ◆百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録構成 
    百舌鳥古墳群:23基+古市古墳群:26基= 計49基
  ◆世界文化遺産登録 顕著な普遍的価値 適用基準(計10評価基準の内)
    評価基準(ⅲ)
     ・古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
     ・百舌鳥・古市古墳群=王墓群 各地の古墳築造の中心 ⇒ 古墳時代の文化の稀有な物証
    評価基準(ⅳ)
     ・巨大かつ整備な墳丘=儀礼の舞台、大規模な労働力、高度な技術
     ・百舌鳥・古市古墳群=古代王墓 ⇒ 古代王権の形成発展期を象徴する墳墓

  ◆仁徳天皇陵概要(一般呼称:大山古墳、大仙古墳)
     ・墳丘長:486m、高さ:35m、全長:840m、周囲:2.85km⇒日本最大規模古墳
     ・円筒形ほか埴輪:約29,000体
     ・築造労力(大林組試算):1日2,000人×15年8ヶ月=約680万人
     ・エジプトクフ王のピラミッド、中国秦の始皇帝陵とともに世界三大古墳の一つに数えられている。詳しくはこちらから

百舌鳥古墳群築造の立地的環境3)
 百舌鳥古墳群は地理的に石津川流域に築かれていることに特徴がある。
 弥生時代には、石津川の左岸の四ッ池遺跡があり、和泉地域を代表する集落が営まれ、多数の住居跡、土器、石器が確認されている。集落の周囲には溝や河川がめぐらされ、水耕稲作が伝わり食糧生産の体制が整い外側には方形周溝墓群が点在している。
 また、浜寺昭和町・下田町・高尾付近・家原寺町付近・陶器北付近では銅鐸が出土しており、この地で農耕祭礼が行われていたことが推測されている。
 古墳時代に大阪湾に面する台地上に百舌鳥古墳群が築造される際には、人や石材など古墳築造に必要とした資材の運搬に便利な環境が整っていた。
 上流の丘陵地には、上質の粘土があり、丘陵の雑木を燃料として朝鮮半島からの渡来人の技術を導入して須恵器の生産が始まり、東西15㎞、南北9㎞にわたる日本国内最大数の須恵器生産拠点として平安時代までの約500 年の間に600~1,000 基の窯が築かれ継続した。

 

前方後円墳の出現と終末4~5)
 倭国(日本)全土の政治連合の安定的な発展を守護してくれることを願って、最初の倭国王・卑弥呼の死(死去240年代)後、王のために大きな前方後円墳(箸墓古墳)を造営した。墓石、壺型・円筒型埴輪など埋葬品を含めてその後の各地の大王の墓の事例となった。
 5世紀に、倭国の五人の王が、相次いで南朝の宋に使いを送っていることが『宋書』倭国伝に記されている。その五人の王「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」を「倭の五王」と言っており、それぞれ日本側の正史である『日本書紀』のどの天皇に当たるかが考察されている。
 590年、隋の台頭による中国・南北朝の再統一と東方への進行が朝鮮半島諸国や倭国(日本国)王に大きな衝撃を与えた。推古朝(593~628年)初め、大王を中心とした中央集権国家への整備を急ぐため前方後円墳の造営を停止し、新しい国家体制を整備して国内外に強い意志表示した。

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引用文献
 1.堺市・世界文化遺産推進室「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて」(2017.7.2.堺・彦根ユネスコ協会研修交流会講演資料)
 2.堺市「広報さかい」平成30年10月1日号
 3.堺市立埋蔵文化センター2002『四つ池遺跡 弥生時代編』堺市教育委員会
 4.白石太一郎2018.5.20.『大阪府近津飛鳥博物館 館長承継記念講演会』講演要旨集 1(公財)大阪府文化財センターほか
 5.笠井倭人1973『研究史 倭の五王』吉川弘文館
 6.白石太一郎2012「日本の古墳の中の百舌鳥・古市古墳群」『世界文化遺産登録推進国際シンポジウム』34~35大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市    


「9」、「10」幕末 ⇒ 明治維新 堺の歴史的な出来事
開国
 2018年(平成30年)は、明治維新から数えて150年に当たる。
 鎖国中の日本が、幕末から明治維新にかけていち早く封建社会から近代国家へ転換を果たした背景には、18世紀後半から19世紀中ごろにかけてロシア帝国、イギリス、フランスおよびアメリカ合衆国など外国艦船が来航し、鎖国政策を維持していた日本に開国を迫った圧力に対する危機感があった。
 1853年(嘉永6年)7月8日、アメリカ合衆国政府の任務を受けた東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀へ来航して開国を迫り、1854年(安政元年)日米和親条約を締結させ1639年(嘉永16年)以来215年にわたる徳川幕府政権下の鎖国(海禁政策)が終わった。

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 大阪湾 ロシア軍艦渡来事件1)
 一方、1854年(安政元年)9月エフィーミー・プチャーチン提督率いるロシアの軍艦ディアナ号が箱館(現函館)から摂海(現大阪湾)に回航し、和田岬(神戸)、西宮、尼崎沖を経て天保山沖に投錨した。
 アメリカ艦隊が江戸湾に来航したのは、当時日本の政権を担っていた江戸幕府の近くにあり威嚇するのに都合がよかったからであった。これに対してロシアは、当時、クリミア戦争(1853~1856年)で、イギリス・フランスと交戦しており、極東海域ではイギリス・フランスの連合艦隊と遭遇することを避けなければならない状況にあった。その状況の下、プチャーチン提督は、むしろ天皇が所在する都に近く、しかも大阪湾には外国船は来ないという先入観の不意をつき日本との交渉を早期に、且つ有利に進めようと企てた。
 ロシアの軍艦が突如大阪湾に侵入してきた事件は、幕府や藩、さらに朝廷に大きな衝撃を与えることとなった。孝明天皇は、有力な神社7社・寺院7寺に対してロシア艦隊の速やかな退散と「天下泰平」を祈祷するように命じた。幕府は、危機意識を強め朝廷に対し、京都と大坂湾の防備強化を約束した。

来航した国々とその背景 鎖国(海禁政策) ⇒ 開国
 ・アメリカ
    1854年3月31日 日米和親条約締結  1858年7月29日 日米修好通商条約締結
    北太平洋捕鯨(潤滑油、ランプ灯油)業補給基地確保、クリミヤ戦争国(英・仏対露)に余裕なく日本への主導権確立
 ・イギリス
     1854年10月14日 日英和親条約締結  1858年8月26日 日英修好通商条約締結
     産業革命(1760~1830年代)、アヘン戦争(1840~1842年)、クリミヤ戦争後新たな植民地政策、工業製品の市場開発を目指す      
 ・ロシア
    1855年2月7日 日露和親条約締結   1858年8月19日 日露修好通商条約締結
    クリミヤ戦争(1853~1856年)敗北後東アジア指向、イギリス、フランスに目立たず都に近い大阪湾へ、日本を驚かす
 ・フランス
        日仏和親条約締結せず         1858年10月9日 日仏修好通商条約締結
    日米修好通商条約締結情報、ロシアの極東への影響力警戒し東アジアに注力。イギリスと薩摩に対抗して幕府に接近

大阪湾の防衛 堺台場築1)

 

 大阪湾内では、奉行所のある幕府直轄地「堺」の防備がいち早く取り組まれた。
 当初、「堺は遠浅にて異国船の渡来は先づこれ有る間敷」と異国船の接近する危険性を否定しつつも、万一、異国船が大阪湾内に来航した場合、幕府直轄地が手薄では近隣の大名たちに示しがつかず、「御国威」を落としてしまうと堺奉行が主体となって大阪湾の他の箇所に先駆けて1850年代に堺北台場(1855年完成)と堺南台場(1858年完成)の築造が進められた。
 1860年(万延元年)、桜田門外の変で政治的立場を失った彦根藩が1863年(文久3年)6月から堺台場の警備を命じられ前任地の神奈川から新式の大砲を回送するなど備えを尽くした。

公武合体と尊王攘夷派志士の行動(「天誅組」堺港上陸、堺事件)
 開国か攘夷(外敵を撃ちはらう)か、尊王(天皇を尊び、天皇中心に考える)か公武合体(朝廷と幕府の合体)か、佐幕(幕府補佐)か、開国以来弱体化した幕府に代わって朝廷の動向が注目され、急進的な尊王攘夷派(長州藩、土佐藩など)と公武合体派(薩摩藩、会津藩)を中心として大政奉還(1867年)後も日本国内の政治は大きく揺れ動いた。

 

「天誅組」堺港上陸2)
 1863年(文久3年)8月、孝明天皇の神武天皇陵(奈良橿原)攘夷祈願行幸の先鋒となるべく土佐脱藩浪士・吉村寅太郎ら40人(天誅組)が京都・伏見から淀川を下り大坂から海路を経て堺港へ上陸し、狭山、天領・五条経て橿原を目指した。
 しかし、8月18日天誅組の後ろ盾となっていた長州藩が会津藩・薩摩藩(公武合体派)と蛤御門の変(禁門の変)で敗れ、孝明天皇攘夷親政を目的とした大義名分を失ったため社会的にも天誅組は「暴徒」とみなされ公武合体派に追討された(「公武合体」後の最初の事件)。 

 

「堺事件」3)
 1868年3月8日(慶応4年2月15日)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)戦いで敗走する幕兵が堺のまちを混乱に陥れた。やがて、薩摩・長州・土佐藩を主体とする諸藩兵が堺の治安維持に当たり、土佐藩士が市中取り締まりを命じられた。
 1868年3月8日(慶応4年2月15日)午前中、兵庫領事館駐在のフランス副領事と日本艦隊司令官2名が宇和島藩士とともに大阪から陸路大和川橋まで来たが、状況を聞いていなかった箕浦猪之吉、西村佐平次率いる警備隊に食い止められた。
 その日の午後、堺港付近の測量を目的としてフランス軍艦デュプレス号が堺港沖に現れ、乗組員数十名が2艘の船に分乗して入港し、その内の1艘が大浜海岸に横付けして上陸し動き回ったので、状況報告を受けてなかった警備隊をもとより市民の騒ぎが大きくなった。
 箕浦警備隊長がフランス兵に帰艦させようとしたが言葉が通じず、反抗したフランス兵が隊旗を奪うなど無礼を働き逃亡したため発砲、交戦に至りたちまち11名を殺傷した。
 当時京都において外国との和親協議の準備中であり、また1ヶ月前(2月4日)に神戸で警備にあたっていた備前藩士によるフランス兵発砲負傷事件(神戸事件)があったため重大な外交問題となった。
 明治新政府は江戸征途に注力しており、外交交渉を難しくすることを避けるため事件に関わった土佐藩士を日仏両国立会いのもと刑に処するフランスの要求を受け入れた。
 箕浦猪之吉、西村佐平次両小隊司令以下20人が妙国寺において切腹を命じられ、11人が終わったところで、立ち会っていたフランス側から切腹の悲壮な状況は見るに堪えなく死亡したフランス兵と同数になったことを理由に切腹処刑は中止された(「公武合体」後最大の事件)。
 切腹した11人の土佐藩士は、妙国寺の隣の宝珠院に埋葬され、土佐藩主・山内豊範が11基の石碑を一列に建て弔った。その後、妙国寺境内に堺事件で亡くなった土佐藩士とフランス兵の慰霊碑が建立された。
 
「堺県」誕生4)
 1868年8月10日(慶応4年6月22日)、大阪府から堺役所を分割して「堺県」が発足した。
 当初、和泉の国の旧幕府領・旗本領を管轄するために成立したが、最盛期には大阪府の一部と旧幕府領・旗本領が多かった奈良県全域を含めて県域とし、1881年(明治14年)に大坂府に再編入されるまで先進的な地方行政を行った。
 1871年の廃藩置県に先立って「堺県」が成立したのは、旧幕府直轄知行(所領)の明治新政府への上地(返上)受皿など統治上の重要拠点と位置付けられたためであった。
 初代堺県令(知事)として薩摩藩に近い豊後岡藩士・小河一敏が就任した。廃藩置県に際しては、2代目県令として大久保利通、西郷隆盛とともに薩摩の三傑と称された税所 篤が就任し、他府県に先駆けて中央集権化、税収、土地管理に貢献した。

堺県⇒大阪府営「浜寺公園」開園5~6)
 1873年(明治6年12月)、当時の内務卿・大久保利通が浜寺を訪れ、名勝松林が伐採により廃れていることを慨嘆し、県令・税所 篤に善処を強く要望した。税所県令はただちに松の伐採停止を命じ、太政官より同地を日本で最初の公立公園と許可し「浜寺公園」として開園した。

音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
            祐子内親王家紀伊(百人一首) 

音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり
大久保利通

 

 日露戦争〔1904年(明治37年)2月8日~1905年9月5日〕の際、両国は戦争捕虜を博愛処遇するハーグ国際条約を守り、日本に連れて来られたロシア人捕虜をあたたかく迎え、浜寺一帯から泉大津市にかけて捕虜収容所が造られ3万2000人余の捕虜を収容した。所内には信仰の自由を認めて教会、パン工場が置かれた。
 日露戦争100年を迎えた2002年5月21日に「泉州21世紀協会」をはじめ多くの有志によって公園内に「日露友好の像」が建てられた。横には、当時の小泉純一郎首相とプーチン大統領の銘文が刻まれた碑が建てられた。
 
堺県⇒堺市営「大浜公園」開園と第5回内国勧業博覧会7)
 明治(1868年)以降、堺南北両台場は陸軍の所管となったが、「堺県」(1868年誕生)が南台場敷地を陸軍から借用し、1879年(明治12年)に「大浜公園」として開園した。
 北台場は1872年(明治4年)の暴風雨で大きく崩れ遺構は失われた。
 19世紀、欧米では文化、産業振興の大規模な万国博覧会が盛んに開催され、江戸幕府も1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に正式に参加した。
1877年(明治10年)、政府は殖産興業を目的として東京上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催し多くの来会者を得て大成功をおさめた。

 

 その後、引き続き東京上野で第2回と第3回を開催し、第4回は、平安遷都1100年を記念して京都岡崎公園で開催された。第5回は堺商業会議所のメンバーの尽力もあり、大阪市天王寺を第1会場に、堺大浜公園を第2会場(水族館)として1903年(明治36年)に開催された。 第2会場には東洋一と謳われ我が国初の本格的水族館が建てられ、2階建ての本館下に大養魚槽を設け天井をガラス張りにして魚を見上げるようにするなどの工夫がされた。
 博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、1912年には阪堺電気軌道が大浜海岸までの路線(大浜支線)を開業し、公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などが建てられ関西有数のレジャー地として賑わった。
 第6回は、万国博覧会にという声も上がったが、日露戦争ののち財政難に陥ると産業振興の費用対効果を疑問視され中止となり国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の大阪万博まで待つこととなった。

PDF版は、こちらから7)

引用資料
 1.後藤敦史・髙久智広・中西祐樹編2018『幕末の大阪湾と台場 海防に沸き立つ列島社会』戎光祥出版
 2.小葉田 篤編集代表1971「天誅組」『堺市史続編第1巻』1157 堺市役所
 3.三浦周行監修1930「堺事件」『堺市史本編第三』771 清文堂出版(著作権:堺市役所)
 4.矢内一磨2018「堺県とその時代-近代地方行政のさきがけ」、企画展「堺県とその時代」学芸講座」、堺市博物館
 5.小葉田 篤志編集代表1971「浜寺公園」『堺市史続編第1巻』1223 堺市役所
 6.高石市教育委員会生涯学習課「ロシア捕虜収容書」『大阪あちこち-高石散策(羽衣コース)』
 7.堺市「むかしの堺港と大浜」
     https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/sakaikoutooohama/kyo_digi_nai.htm 
 8.堺市・大浜公園事務所「大浜公園の見どころ」『大浜公園施設案内図』

 

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