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日中戦争はいつ、なぜ始まったのでしょうか?

2018-10-22 06:05:31 | 近現代史関連
まず「日中戦争」の定義をする必要がありそうです。

日中戦争については

満州事変からはじまる「15年戦争説」

盧溝橋事件を発端とする説
(通説)

第二次上海事変を開始点とする説
(少数説)

があります。

これは

そもそも日中の戦争は、どこからが出発点だったか?

日中戦争の直接のきっかけとなった事件は何か?

日中両国の政府が「全面武力衝突」となり、事実上の戦争に入ったのはいつか?

などについて、それぞれの論者に見解の相違があり、統一がなされていないためです。

ただし、「日中歴史共同研究」による日本側の研究者がまとめた「日本語論文」を読むと

日本語論文PDF
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf

>「 1937 年 7 月に勃発した日中間の衝突事件は、全面戦争に発展したにもかかわらず、双方とも 41年の太平洋戦争の開始まで宣戦布告を避けたという特徴がある。主な理由は、宣戦布告がアメリカ中立法の適用を受け、経済制裁と同様の効果をもたらす恐れがあったからである。さらに日本では、「戦争」への格上げは事態の早期収拾の妨げとなる、と判断された。日中紛争の長期化は、本来の敵と想定されたソ連や英米との対決に備えるためにも避けねばならなかった。こうして日本は、この戦争を当初「北支事変」と呼び、戦火が拡大した 37 年 9 月以降は「支那事変」と正式に呼称した。
もう一つの特徴は、全期間に及ぶ無数の和平工作が様々なルートで日本側から試みられたことである。それは早期収拾への期待と焦慮の反映でもあった。しかし、早期収拾への焦慮とは裏腹に戦闘は 8 年を越え、宣戦布告による戦争以上に熾烈なものとなり、両国国民に大きな負担と犠牲を強いることになった。


→明示はしていませんが、盧溝橋事件を発端とする説を採用している事がわかります。

ここに至ったのは、とにかく当時の我が国政府に、軍に対する統制力が欠如していたという事。

特に現場の軍人達が、政府どころか軍中央の命令にさえ従おうとせず、個人プレイによる独断専行を勝手気ままに行った事で、和平交渉が潰されていったというのが原因である、というべきでしょう。

満州事変はもとより

昭和天皇の反対さえ無視した熱河作戦しかり

現地軍の独断専行により「トラウトマン和平工作」を潰した南京攻略戦しかり

盧溝橋事件も、元はと言えば「銃声が聞こえた」というだけの小事件であり、停戦協議も成立、中国軍は盧溝橋城から撤退しているにもかかわらず、全面戦争のきっかけとなるまでに発展したのは「愉快なことが起ったね」などて言い放った「拡大派」の人々に責任があります。
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/kakudai.html

ただし、第二次上海事変までは、確かに「全面戦争」を回避しようとする努力が日中双方からなされていました。

が、それを片っ端から潰していったのも、主として日本側の中央の意向を無視した人々です。
(公平を期して言うと、中国側にも事変の拡大を望む勢力は存在しました)

さて基本的な話として

中央政府の指示命令を元に動くはずの軍人が、勝手なスタンドプレーにはしるようでは、収拾がつかなくなるのは当たり前です。

では、どうすればよかったのか?

私は満州事変の時点で、首謀者である石原莞爾らを軍刑法により処刑し、比較的我が国にとっても有利な提案であったリットン調査団の報告を受け入れていれば、その後の悲劇は避けられたと思っています。

命令違反の軍人を法により処罰するのは当たり前。

その当たり前の事ができず、またその後「命令違反」など当たり前、と言わんばかりの風潮を作り出してしまった事が、日中戦争の悲劇につながったのだと思っています。

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