Shpfiveのgooブログ

主にネットでの過去投稿をまとめたものです

本当に大正天皇は自らの判断で意思決定を行う能動君主だったのでしょうか?

2018-08-21 21:10:16 | 近現代史関連
Yahoo!知恵袋では、よく

対米戦争の開戦を天皇の命令と言う形で、阻止する(軍を押さえる。)ことはできなかったのでしょうか?

みたいな質問を見かけます。

また、その時に例えば
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11194379186


(残念ながら本記事の下書き段階では存在していた当該URLは、知恵袋運営により取り消し、または削除されたようです)

>明治憲法下で天皇は国の意思決定に大きく関与しています。よく言われる御前会議など重要な会議でただ聞いていただけなど全くデタラメでただ無知なだけなのです。

大正天皇は大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒したりして意思決定には大きく関与していた。

→という主張が見られたりします。

実際、帝国憲法下の天皇は確かに「意見を述べる」ことは出来ましたし、御下問などにより自らの意思を伝えることも出来ました。

それに間違いはないのですけど、こうした大正天皇に対する評価はいかにも過大であるように見えます。

大正天皇は大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒した


本当に大正天皇はそこまでの能動君主だったのでしょうか?

では、その具体的な内容を確認してみましょう。

以下、歴史学者である古川隆久氏の『大正天皇』(吉川弘文館)より引用します。

>大隈内閣はこのあたりから政界で次第に評判を落としはじめた。特に貴族院の反感が強く、山県ら元老の協力でようやく大正五年初頭の議会を乗り切った。大隈はその代償として同年六月二十四日、内閣総辞職を決意し、その旨を天皇に内奏(非公式に意思を伝えること)した。大正天皇は元老山県に後任選考を当たらせたが、後任に同志会総裁加藤高明を推したい大隈に対し、山県は寺内正毅を推して譲らず、七月二十六日に大隈は天皇に寺内では満足できないとして辞意を取り消す旨を内奏し、天皇も「然ラハ汝其ノ儘滞任セヨ(「大隈首相トノ交渉顛末」)」とこれを受け入れてしまった。(「大正天皇と山県有朋」)
面子を潰された山県は、「君主ノ一言ハ甚ダ重クシテ国家ニ至大ナル関係ヲ及ホスヘキモノナレバ、常に慎重ニ慎重ヲ重ネテ軽々シク事ヲ即断シ給フ可カラサル(中略)斯クテハ 陛下登極ノ際賜リタル勅語ノ御趣旨ニモ背クニ至リ、老臣等補(輔)翼ノ責ヲ尽スコトヲ能ハサル」(「大隈首相トノ交渉顛末」)、つまり、軽率に決断しないこと、元老にいったん委任したからには筋を通すべきことを再び諫言した。直接的には大正天皇の厚い信任を得ていた大隈への警戒心から出た言葉であろうが、君主の判断に誤りがあったと広く認識されることになれば君主制の存続にかかわる以上、山県の諫言は一般論としては妥当である。もっとも、大正天皇の践祚直後に、自己の政治的な都合で、不適任な人物を内大臣にした山県に諫言する資格があるか、という議論は成り立ちえるが。
ただし、大隈は、次の議会でも内閣が貴族院を乗り切ることができる見通しは立たず、十月四日、後任首相に加藤高明を推薦することを明記した辞表を出した。後任人事を明記した辞表は異例であり、辞表の文面が直ちに新聞に掲載されたのも異例である。


(『大正天皇』P176~177)

つまり、この問題は

例えば、首相の進退について「元老」と内閣(あるいは、そのトップである首相)が対立した場合、帝国憲法の建前論から言えば「首相の任命」は天皇の大権事項ではあるものの

それについて意見を述べる権利がある人々、つまり元老、内大臣、首相などが、それぞれ別の人物を「推薦」してきた場合、それを「天皇がそれらの意見を退け、一方的に自らの決断を周囲に認めさせることができたのか?」


というのが、ことの本質なわけです。

具体的には大隈首相にも、元老山県にも「大正天皇に対する意見を述べる資格」はあり、そのどちらかを「大正天皇が本当に自らの意思で選択できたのか?」ということです。

では、結果的にはどうなったのでしょうか?

>しかし、大正天皇は今の言葉で言えば非民主的政治家の象徴として世論からの悪評高く政治的影響力も衰えつつあった元老山県の判断を鵜呑みにし、世論が望まない寺内首相を任命したのである。大正天皇はまたしても広く社会から政治的な威信を獲得することはできなかった

(『大正天皇』P178)


この顛末から見ても、大正天皇について

大隈の全閣僚辞表を元老に聞かずに却下して元老の山県は激怒したりして意思決定には大きく関与していた。

という評価は、少なく行っても過大でしょう。

大正天皇は、あくまでも「天皇に意見を述べることができる立場である」元老と、首相との間で板ばさみにあい、最終的には「自らの意思に反して」元老山県の「意見」(要求)を受け入れたわけですから。

これが帝国憲法下における「天皇大権」の、いわば実態でした。

なお、その後の大正天皇について

1921年(大正10年)に長男の皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)の摂政就任時に「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと、病状について新聞発表がされていますが


研究者である原武史氏は著書『大正天皇』(朝日選書)で、大正天皇は最終的には政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、「病弱な天皇イメージ」というのは政治的な思惑を含んで流布された根拠に欠けるものであると主張しています。

>天皇は自らの意思に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって強制的に「押し込め」られたというのが私見である。
(原武史『大正天皇』P251)


原武史氏の、この見解について議論はあるようですけど、私には

大正天皇の病状悪化そのものが、様々な政治勢力の板ばさみにあい、苦労された結果のように思えてなりません。

そして、そんな父の苦しむ様を、昭和天皇もよく見られていたのだと感じます。



帝国憲法下の天皇の役割と、長州藩における藩主と藩士の関係は類似したものである

2018-08-16 19:17:18 | 近現代史関連
これは、アメリカの歴史学者であるデイビッド・タイタスが『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』(サイマル出版会)の中で述べていることです。

>天皇はその役割をはたすにあたって、助言者たる「側近」によって補佐されていた。長州の大名が重臣たちから補佐されていたのとまことによく似ている。
この場合にも、助言者の性質上の相違があるとはいえ、そのはたした役割はおどろくほど似ているのである。
長州の重臣たちは、大名の家臣の中で最も位の高い人たちであり、家柄によってその地位を保持する人間である。
しかしながら、1968年から1945年にかけて王座に近似した人たちのほとんどすべては、「勲功」-宮廷外の官界における指導者としての成功-の結果、その地位を保持した人間なのである。すでにみたごとく、右の点は、天皇の栽可機能を守護すること、そして、政治における聖意の基盤となるべきコンセンサスの形成プロセスの中で、触媒として働くことを、集団としての第一義的役割とした例の四人の指導的宮中役職者についても当てはまる。

(上掲書P342)

>長州の大名と同様、天皇も、主として助言者たちの集団としての「世論」によって「影響」された。その助言者たちは、長州の重臣同様、自分たちの主君の行動を、その行動が実際になされる前に承認した。1930年代になると、首相任命のような基本的な政治任命、国家間条約といった基本的な政策決定に関して、天皇への助言機能をはたすのは、元老(西園寺公)、重臣(かつて首相をつとめた人たち)、枢密院議長、それに内大臣というグループになっていた。天皇による栽可プロセスの中で、筆頭的調整交渉者だったのがこの人たちである。

(上掲書P342~P343)

>しかし西園寺も残りの側近たち(四人の宮中要職者も含まれる)も、天皇の超越的役割を危険におとしいれると判断されるような政策には固執しようとはしなかったのである。
これが本質的に何を意味していたかといえば、調整交渉者とはその時々の「情勢の処理」に最も秀でた人物を首相に任命するよう天皇に助言し、あるいはその時点での「時流に即した」最良の政策を栽可するよう助言する存在だったということである。助言にあたっての彼らは、個人的な政策上の好みのほかにも、彼らなりの「世論」評価によって影響されていた。天皇の助言者たちは、長州の重臣たち同様「もっと広い範囲の意見に感応」してもいたのである。


(上掲書P343)

→さて、帝国憲法下の天皇は形式上は、確かに大権を持っているかのように書かれています。

Yahoo!知恵袋あたりだと、こんな意見も見られます。

net********さん2018/5/2220:23:43回答より

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11190723406


>明治憲法上、天皇です。総理大臣も陸海軍の軍令部も各師団長も最高裁判官も天皇に任命権,罷免権があります。

また、天皇は国会の頭越しに勅令で法律を布告できます。つまり行政・司法・立法・軍事の大権を握っているのです。

御前会議は天皇の裁可で開かれ、議事決定されます。

→が、当時における実際の天皇陛下の権力なるものは、そのような絶対的なものではなかったということは、まさにデイビッド・タイタスが長州藩主になぞらえながら指摘した通り

長州の大名と同様、天皇も、主として助言者たちの集団としての「世論」によって「影響」された。


というのが本当のところです。

実際にも天皇が、これらの「助言者」を無視して、独断専行で決定をくだすことは事実上できませんでした。

なぜなら、これは明治維新によって徳川政権に代わって「天下をとった」長州閥の人たちが、自らの出身である長州藩を真似て作り上げたシステムだったからです。

そのエッセンスは

形式上の「天皇大権」のもと、自分たちが(長州藩のように)実質的な権限を掌握し、政治を動かしていこう。

そこに至るまでに薩摩閥などとの暗闘などもあり、それが西南戦争などにもあらわれていますが、それはおきます。

また長州出身者だけが、この「システム」を利用したわけでもありません。

というより、維新の元勲たちが次第に世を去るなどして長州閥が影響力を失った後も、そのシステム自体は、ほとんどそのままの状態で残りました。

賛否は別として、例えば久野収氏は、それが「天皇制」というシステムの「顕教」と「密教」だったと述べています。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/02/23/231611

>注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤(注:伊藤博文)の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された。

→そして、皮肉なことに

このシステムにより育った次世代の人々が、このシステムを自ら動かすようになったことで

政当時の我が国は破局に向かって突き進むことになっていったということです。

「慰安婦問題」の、いわゆる否定論について

2017-07-09 14:56:05 | 近現代史関連
「慰安婦問題」について、日本軍による「不法な強制」があった事は、すでに「史実」として確定しています。


この問題についていかなる立場に立つとしても、まず「事実とは何か」という視点から考えるべきであり、また様々の考え方の人たちが事実関係を共有することで「コンセンサス」を作らないことには、問題の解決はおろか、我が国は国際社会において、ますます不利な立場に立たされるのではないでしょうか?

ただし、少なくとも現時点では「特定の価値観」により、この問題を考えるのは困難である、と考えます。

ここでは、あくまでもネットで見られる「おかしな主張」に対する、事実関係はどのようになっているのか?

という点のみを指摘したいと思います。

以下、「否定派の主張」と、それに対する「反論」という形で記していきたいと思います。

※なお「否定派による意図的なトリミング」がされやすい個所は太字にしました。


「否定派の主張」
「慰安婦問題」についての「強制」はありませんでした。
旧植民地だった朝鮮半島や台湾において『「軍による慰安婦狩り」の史料が発見されていないだけの話』と矮小化して言いますが、その事実だけで「強制はなかった」と言うべきです。

「反論」
むしろ動員後の苛酷な人権蹂躙に問題の本質があります。

米国下院「慰安婦」謝罪決議(H.Res.121)全文より抜粋
http://wam-peace.org/ianfu-mondai/intl/resol/us20070730/

>日本政府による強制軍事売春たる「慰安婦」制度は、その残酷さと規模において前例のないものであるとされ、集団強かん、強制中絶、屈従、そして身体切除、死、結果的自殺に至った性暴力を含む、20世紀でも最大の人身取引事件の一つ

そもそも慰安婦問題の論点は「強制連行」だけではありません 。

が、仮に「強制連行があったかなかったか」という点に話を限定するとしても、中国や東南アジアなどで強制連行があった事は日本国政府も認めています。

例えば、オランダ政府からインドネシアにおける日本軍による慰安婦強制連行・売春強要の文書資料が提供されていますし、1999年度には法務省に埋もれていた中国等における日本軍による慰安婦強制連行・売春強要を示す文書資料が国立公文書館に移管されています。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130526/1369543851

「否定派の主張」
朝日新聞などのサヨク勢力がデマ記事を書くなどしてさんざん騒ぎを大きくしておきながら、強制を示す史料が発見されないので困った彼らは、「狭義の強制性と広義の強制性」と定義を拡大し始めました。

「反論」
「狭義の強制性と広義の強制性」についてですが、まず中国や東南アジアなどで強制連行があった事は上述のとおりですので、強制を示す史料が発見されないという主張自体が成り立ちません。

次に定義を拡大したという指摘についてですが、例えばアメリカ下院で可決された非難決議を見ても、どこにも強制連行という言葉は使われていません。
問題が取り上げられたきっかけよりも、現在どのように認識されているのかを理解する方が先決ではないでしょうか?

あと朝日新聞などのサヨク勢力がデマ記事を書くについては、いわゆる「吉田清治氏の証言」の事を指しているのだと思いますが、例えば吉田氏は平成4年(1992年)1月23日の朝日新聞で連行した朝鮮人女性は950人と証言しています。
(1992年1月26日の「赤旗」では連行した女性は1000人以上と証言)

これについては日韓双方の追跡調査により、創作であることが判明し、本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B8%85%E6%B2%BB_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

一部に疑義を主張する向きもあるようですが、いずれにしても信頼性はない、と断定していいでしょう。

ただし、問題の本質はそこにはありません。

まず「吉田清治証言」を根拠に自説を主張する歴史学者は存在しません、

次に吉田氏一人が朝鮮半島に限らず、台湾、あるいは中国、東南アジアなど広範囲の「慰安婦の強制連行」をしたわけではありません、

したがって吉田清治氏の証言を否定することで慰安婦問題全体を否定しようとしても意味はありません。


「否定派の主張」
リンク先の史料はすべて1975年以降の史料ですね。
こういうのは史料価値が極めて低く、これだけで『業者を介さず、軍が直接、慰安婦を徴集していました。』と言い切れるバランス感覚が不思議です。

「反論」
史料の発掘などにより、研究が進んだのがその時期から、というだけの話。

なお日本国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題についての本格的調査を行い、1992年7月6日、93年8月4日にそれぞれ調査結果を発表しています。
その結果である『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』(全5巻、龍溪書舎出版)復刻版については、こちらのリンクで確認できます。

デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金 慰安婦関連歴史資料
http://www.awf.or.jp/6/document.html


「否定派の主張」
慰安所の存在が戦争犯罪だったというのでしょうか?

「反論」
当時の国内法・国際法に照らしても違法です。

例えば当時慰安婦にされて日本から戦地に送られた女性の中には、実際の「仕事」の内容を知らされずに「良い仕事がある」などと騙されて連れていかれた人が多数見られますが、これは旧刑法226条「帝国外に移送する目的を以て人を略取又はしたる者は二年以上の有期懲役に処す 帝国外に移送する目的を以て人を売買し又は被拐取者若くは被買者を帝国外に移送したる者亦同じ」とに違反しており、国外移送誘拐罪・国外移送人身売買罪等に該当します。

また、日本は1925年に「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」に加入しており、未成年女性の場合はたとえ本人が同意していても売春に従事させてはならないし、成人女性の場合なら詐欺や脅迫など、本人の自由意志を無視して売春に従事させれる事も罰せられることになっていました。

詳しくは、こちらをどうぞ
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1266.html


「否定派の主張」
「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」について、「日本はたしかにこの条約に署名したが、年齢に関する第5条条項(21歳未満を禁止)については留保している。
さらに、条約が朝鮮半島、台湾、関東租借地を包括しない旨を宣言している。ようするに朝鮮半島は除外しているのだ。
ちなみにイギリスはこの条約に調印しながらも当時独立国でなかった植民地での適応を含まない旨の留保を宣言している。
条約に署名したのは事実だが、日本は「朝鮮半島は除外している」

「反論」
こちらから抜粋します。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-1266.html

>本来この「植民地除外規定」(第十一条)は、当時の植民地において結婚する時に家族に贈られる「花嫁料」など「近代」以前の長年の習慣・伝統が残っていた為に挿入されたものであり、条約の意図は売春のために女性を国外へ連れて行くことを容認することではありませんでした。
「国際法律家委員会(ICJ)」は見解で「朝鮮女性に加えられた処遇について、その責任を逃れるためにこの条文(規定)を適用することはできない」と述べています。
(吉見義明『従軍慰安婦』p169)

さらに、植民地から連れて行くことは、国際法上まったく自由だったのかというと、そうではないと国際法学者の阿部浩己教授は次のように指摘しています。
朝鮮人の慰安婦の多くは、朝鮮半島から鉄道で移送される以外は、日本の船を使用して南方や中国南部などへ移送されました。誘拐などの起点が植民地であったとしても、日本の船舶は「国際法的には日本の本土とみなすことができる」ので、条約は適用される、と述べています。また、台湾の場合、移送は船舶以外は考えられず、かりに日本の飛行機で移送されたとしても飛行機も日本本土とみなされる、と述べています。
(引用ここまで)
次の資料からは、実際内務省は慰安婦の集め方が国際条約に照らして相当にヤバイことを自覚していた事がわかる。
http://nippon-senmon.tripod.com/hantou/rekishi/juugun_ianfu.htmlより


「否定派の主張」
現在の警察が「性風俗店」と定義して呼んでいるソープランドやデリヘルを、「民間の施設であるはずがありません、警察の施設に決まっている」とでも言うのでしょうか?
こりゃたまげた

「反論」
こちらから抜粋します。
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfukihon.html

「従軍慰安婦」問題の根幹とは何か? それはズバリ、国家自らが管理売春に乗り出したこと、そのものに他なりません。
即ち、日中戦争・アジア太平洋戦争における日本軍は、内部に売春施設を設置し、そこで売春に従事する女性の徴集を行ったのでした。
このことを日本軍は組織ぐるみで行い、内務省、外務省など他の国家機関もこれに協力しました。
国家が管理売春に乗り出したこと、このことの是非が何よりも先ず問われるのです。


「否定派の主張」
それは韓国が海外で運動を展開しているからで、「sex slave」という実態と全く異なるイメージを流布しているからこそなのです。

「反論」
マクドゥーガル報告書では

「慰安婦」が「自主性を著しく奪われていたこと」

「したがって日本軍による彼女たちの扱いが人的財産に近かったこと」

をもって「奴隷」状態にあったとしています。「慰安婦」を「性奴隷」と呼ぶのは実態を充分に反映しており、誇張ではありません。

参考までに
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8

なお、奴隷制の歴史を紐解けば、奴隷が必ずしも「鎖に繋がれて」いたわけではなく、給料も支払われていた(時代によっては金を支払うことで奴隷の身分から解放されたり、他の奴隷を「所有」することもできた) こと、休暇さえ得ている例があることがわかりますが 、それをもって「歴史上『奴隷制』は存在しなかった 。歴史家の捏造だ」などと言ってもまともに相手をされることはないでしょう。

その呼称が妥当かどうかは別にして、反論するなら必要なのは具体的な根拠だとおもいます。


「否定派の主張」
それにしても、どうして「親や恋人の借金を返すために風俗で働く女性」を使用する風俗業者の営業を許可している警察を告発しないのでしょうか?

「反論」
1996年に、国際労働機関(ILO)の条約勧告適用があり、専門家委員会は被害者女性たちの慰安所での状態が1930年の「強制労働条約 第29号」(我が国は1932年に批准)に違反していると認定しています。

ちなみに同委員会からは以降、数回にわたって、日本政府に対し被害者に適切な対応をするよう求める勧告が出されています

それを知った上で、「風俗業者の営業を許可している警察」と同一視する、というなら、正気ではない、としか言いようがありません。


「否定派の主張」
スマラン事件を「慰安婦の強制連行があった証拠」としているようです。
「語るに落ちる」とはこのことです。
強制連行などしてはいけないとしていた軍の通達を無視したから事件になったのです。

「反論」
そもそもこの事件を「唯一」とか「例外的」な事件とする主張自体が間違いです。

そうでないことは、オランダ政府の調査報告書を読むだけでも明らかで、スマラン事件の現場でもある「スマラン倶楽部」(軍慰安所)でさえ、閉鎖を前にして別の事件が発生しました。
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20120225/p1

例えばフロレス(フローレス)島事件

1944年4月中旬、憲兵と警察がスマランで数百人の女性を検束し、「スマラン倶楽部」で選定を行い、20名の女性が憲兵によってスラバヤに移送されましたが、そのうち17名(20名のうち2人は逃亡、1人は病気で残留)がさらにフロレス島の慰安所に移送され、そこで売春を強制されたという報告事例がありますが、この時に憲兵はいい関与どころか、女性が逃亡しないよう監視しています。

「強制連行したことが事件になった」のは、「強制連行はしないように軍が通達していた」というい事実の証明でしかないというなら、にもかかわらず、強制連行が多発しているのは、なぜ?
という疑問にもつながります。

裁かれたようなケースは氷山の一角に過ぎないことは留意しておくべきでしょう。

追記
当然ですが、軍による直接的な「強制徴集」の多発については、業者は介在していません。
朝鮮・台湾はともかく、中国や東南アジア・太平洋地域の占領地においては、業者を介さず、軍が直接、慰安婦を徴集していました。
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)137頁
ところが、四五年三月、艦隊の帰国の直前に、慰安所の復活が計画され、特警隊と政務隊が現地警官を使って女性の徴集に乗り出した。元売春婦や志願者や日本人の愛人(チンタ)を対象とする建前であったが、近くの島から女を連れていく時に「住民がどんどんやってきて〝返せ〟と叫び、こぶしをふりあげ、思わず腰のピストルに手を」と禾中尉が書いているくらいだから、拉致まがいの徴集もあったにちがいない。


「否定派の主張」
軍隊に娼婦がついて回るのは十字軍以来世界中で「アタリマエのこと」だったのですよ。(Professional Camp Follower)
そして朝鮮半島の「軍慰安所」は戦後韓国に引き継がれ利用され朝鮮戦争時には米兵も利用していた。
これを問題にするということの意味をわかっているのでしょうかね。

「反論」
必ずしも「日本だけが責められている」というわけではありません。
例えば戦時下の性犯罪・性暴力について、旧ユーゴスラビアやルワンダにおける民族浄化や集団的な強姦の問題などが取り上げられていますし、ナチスドイツによる強制売春の問題は長らくタブーとされていましたが、近年になって実態が解明されつつあります。

なお韓国軍慰安婦については、こちらの記事が参考になります。
http://hogetest.exblog.jp/6749030/

「軍慰安婦は日・米・韓にまたがる問題。米兵の慰安所利用実態も明らかにしたい」と話す金貴玉さん=京都市北区の立命館大学で

金さんは96年、離散家族のインタビューの中で、「50年10月、韓国軍の捕虜になり、軍慰安隊の女性と出会った」という男性の証言を得た。以後5年間インタビューを重ね、「直接慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8人の証言を聞いた。

さらに金さんは、韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所−特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。

証言と併せ、軍隊が直接経営していた慰安所があった、と金さんは結論づけた。

軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある


どんな人が慰安婦になったかは明らかではないが、朝鮮戦争時に娼婦(しょうふ)が急増し、30万人にも及んだことから、金さんは「戦時の強姦(ごうかん)や夫の戦死がきっかけで慰安婦になった民間人も少なくない」と見ている。

金さんは「設置主体だった陸軍の幹部の多くは日本軍の経験者だった。韓国軍の慰安婦が名乗り出るためには、日本軍慰安婦問題の解決が欠かせない。韓国政府と、当時軍統帥権を握っていた米国の責任も追及したい」と話している。


なお、例えばソ連軍兵士による日本女性の強姦などはあまり取り上げられません。

ただ、こうした問題ももちろん実態解明と被害者救済がなされるべきである、という主張ならともかく、だから日本軍慰安婦の問題が免責される、という主張をするわけにはいかないでしょう。

それは結局、ソ連軍兵士による日本女性の強姦などを免責することにもつながると思います。


「否定派の主張」
当時の新聞報道を見ると、悪徳業者を軍や警察が必死で取り締まっているとしか思えません。 また、売春と強姦を一緒くたにすること自体女性をバカにしているとしか思えない。

「反論」これについては京都大学文学研究科教授である永井和氏の論文が参考になります。
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html

以下に一部抜粋します。

以上をまとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。

大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。

残念ながら、悪徳業者を軍や警察が必死で取り締まっているとは思えません。

なお慰安婦の徴集のやり方について、間に業者が介在したことが多かったの で、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もあります。

しかし、それならば軍慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志 であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、帰すべきです。
しかし、そのような事例は史料からみても、極めて少なかったと考えられます。

少なくとも軍には「監督責任」が発生します。

また、慰安婦を強制的に集めるために、「看護婦にする」とか「工場で働かす」 とかの甘言で遠くへ連れだし、無理やり慰安婦にしてしまった事例も、確認されています。


なお、過去は水に流して共に許す、というのは、「否定」とは別な考え方です。

あえて言いますが、過去を振り返ってばかりだとそこから得られるものは何もありません。

基本的には歴史というのは、過去から学び、未来を科学するものである、と考えます。

私達がすべきことは、今後過ちを犯さない事であると思いますし、それには認めるべきことはきちんと認め、その上で未来を志向した建設的な考え方をすることではないでしょうか?

「あったことを認めない」というのは、その事実以上に恥ずかしいことである、と考えます。

「あった事をなかった」と強弁する人達が多数存在する、という事が、国際社会から非難されている理由の一つである、という事を、私たちはきちんと認識する必要があります。


個人的に言うと、日本側に都合の悪い事実もちゃんと記載し、公平な立場から書かれた書籍等を英文翻訳して出版するなりして、国際社会に向けて発信し、判断を仰ぐべきだと思います。


なお「ライダイハン問題」につきましては、別の記事がありますのでそちらもご覧ください。

佐藤和男氏論文『南京事件と戦時国際法』 の疑問点について

2017-07-09 14:26:09 | 近現代史関連
「南京事件」について、いわゆる「戦時合法説」を主張する論者に、国際法学者の佐藤和男氏がいます。

では、佐藤氏が「南京事件」についてどのような主張をしているか、内容について確認しておきましょう。

なお前提として、いわゆる佐藤和男氏の論文というのは、『南京事件と戦時国際法』
、つまり「正論」平成13年3月号 に掲載されたものを指します。

こちらのサイトで紹介されています。
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html

サイトの作者の方による様々な解釈が別コンテンツとして存在しますが、ここではあくまでも佐藤氏の論文についてだけ考察することにします。

以下、気になった部分に注釈を入れます。
(なお、文字数の関係で、以下は部分引用としています)

>南京事件についていえば、右の(1)として、わが国の幾多の研究者の積年の努力によって、大虐殺論はほぼ完全に否認される状況に立ち至っていると、筆者は認識する。

※実際には我が国の「歴史学会」において「大虐殺論はほぼ完全に否認」されている状況、というのは存在しません。
犠牲者数を少なく見積もる論者でも2万人程度の「不法殺害」は認めていますし、犠牲者数10数万~20万人という笠原十九司氏の説が「学術的に否定された」という話も聞いたことがありません。


>鈴木明、田中正明両氏の先駆的研究に続き諸調査が発表され、わけても財団法人・偕行社による『南京戦史(同資料集Ⅰ・Ⅱ』(初版は平成元年、増補改訂版は平成五年の刊行)が画期的といえる実証的かつ総合的な調査成果を世に示し、これらの業績を踏まえつつ、板倉由明、東中野修道、日本会議国際広報委員会等のそれぞれ特徴ある労作が公にされている。(P308-P309)
 本稿で筆者が試みるのは、右の(2)の考察であり、国際法の観点から、今日なお論議の余地ありとされている事件関連の問題点について、検討することとしたい。(P309)

二、支那事変と国際法の適用
 昭和十二年七月七日夜、盧溝橋畔の日支両軍の武力衝突に端を発した支那事変(九月二日、北支事変から改称)は、昭和十六年十二月九日に支那政府(中華民国、蒋介石・国民党政権)が対日宣戦布告を行って、事変が大東亜戦争に包含されるまでの間、日支いずれの側も国際法上の正式の戦争意思(アニムス・べリゲレンディ)を表明しない「事実上の戦争」として性格づけられ、国際社会も、例えばアメリカやイギリスも、それを正規の(法律上の)戦争とは認めなかった。
 しかし、一般的に国際武力衝突を規律する規範とされている戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。

※当時の日本国政府の見解は「支那事変」には「交戦法規」をそのまま適用しないという方針でした。

○交戦法規の適用に関する陸軍次官通牒

交戦法規の適用に関する件
陸支密一九八号 昭和拾弐年八月五日
 次官より駐屯軍参謀長宛(飛行便)
今事変に関し交戦法規等の問題に関しては左記に準拠するものとす
右依命通牒す
   左記
一、現下の情勢に於て帝国は対支全面戦争を為しあらさるを以て「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を悉[ことごと]く適用し行動することは適当ならす
<二、 三、省略>
四、軍の本件に関する行動の準拠前述の如しと雖帝国か常に人類の平和を愛好し戦闘に伴ふ惨害を極力減殺[げんさい]せんことを顧念しあるなるか故に此等の目的に副ふ如く前述「陸戦の法規慣例に関する条約其の他交戦法規に関する諸条約」中害敵手段の選用等に関し之れか規定を努めて尊重すへく又帝国現下の国策は努めて日支全面戦争に陥るを避けんとするに在るを以て日支全面戦争を相手側に先んして決心せりと見らるゝか如き言動(例えは戦利品、俘虜等の名称の使用或は軍自ら交戦法規を其の儘[まま]適用せりと公称し其の他必要己むを得さるに諸外国の神経を刺戟するか如き言動)は努めて之を避け又現地に於ける外国人の生命、財産の保護、駐屯外国軍隊に対する応待等に関しては勉めて適法的に処理し特に其の財産等の保護に当たりては努めて外国人特に外交官憲等の申出を待て之れを行ふ等要らさる疑惑を招かさるの用意を必要とすへし
<五、六、省略>
追て右諸件堀内総領事にも伝へられ度外務省諒解済

偕行社『南京戦史資料集1』P457-458

佐藤氏の

>戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。

という文は、当時の日本国政府の見解と、明白に矛盾します。

>戦時国際法は、国際法全般の場合と当然ながら同様に、時代の進展に伴ってその内容を(比較的に急速に)変遷せしめている法体系であり、しかもその法源中の条約の持つ特殊性(締約国のみを拘束する)により、諸国が遵守すべき規範内容に差異が生じ得るものなのである。


>三、捕虜の取扱いに関する法規
 "南京事件″では「捕虜」にかかわる諸問題が格別に重視されているので、国際法上の捕虜の取扱いについて概観しておく。
 捕虜の待遇は、近代国際法の交戦法規の中で特別の関心が払われてきたが、一八七四年のブリュッセル宣言(発効しなかった)の十二箇条が捕虜に関する法制を構想し、以後の関係条約中において具現されることになった。
 一八九九年と一九〇七年のハーグ平和会議を機に、一八九九年ハーグ第二条約と一九〇七年ハーグ第四条約(前出の陸戦条約)との双方の付属規則に、捕虜に関する十七箇条の規定が設けられ、さらに他の一九〇七年ハーグ諸条約中の若干のものにも多少の関連規定が置かれた。
 第一次世界大戦の経験を通じて右のハーグ規則十七箇条の不備と不明確性が明らかとなり、その欠陥は一九一七年、一九一八年に諸国間で結ばれた諸条約によって、一部是正された。一九二一年にジュネーブで開かれた第十回国際赤十字会議は、捕虜の取扱いに関する条約の採択を勧告し、一九二九(昭和四)年にスイス政府は、そのような条約の採択(および戦地軍隊の傷者・病者に関する一九〇六年ジュネーブ条約の改正)のために外交会議を招集して、「俘虜(捕虜)ノ待遇二閑スル条約」を同年七月に正式に採択せしめるに 至った。
 この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。(P310)
 右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。(P310-P311)
 ちなみに、大東亜戦争が開始された直後の一九四一(昭和十六)年十二月二十七日の連合国側の問合わせに対して、日本政府は翌年一月二十九日に、未 批准の一九二九年捕虜条約の規定を準用すると回答している。準用とは「必要な変更を加えて適用する」との意味である。しかし、連合国側は、あえて準用を批准 とほぽ同義に解釈したのである。
 以上見た限りにおいても、捕虜に関する国際法上の規範の内容が時代の進展とともに変化(おおむね改善)せしめられていることが理解されよう。その規範の法源は十九世紀後半に至って慣習法から条約へと徐々に転換して成文化の道を辿ることになるのであ るが、各時代・各国家間関係に対応して現実に適用される関係法規の実体の認定に際して、厳密な注意が要求されることは、いうまでもない。
 現在では「法規認定の補助手段」として国際裁判に際しても重要視されている卓越した国際法学者の「学説」を参照する場合にも、このことは忘れられては ならないのである。例えば、わが国で比較的に良く知られていて引用されることも多い『オッペンハイム国際法論』第二巻(永きにわたり戦時国際法の専門的な解説書として高く評価されてきた) にしても、原著者L・F・L・オッペンハイムの死去(一九一九年)の後、異なる改訂責任者による改訂版として、記述内容も必要に応じた訂正を加えて継続的に刊行されており、支那事変当時の戦時国際法状況を知るために適当と考え られる第三版(一九二一年)、第四版(一九二六年)、第五版(一九三五年)は、それぞれR・F・ロックスバーグ、A・D・マックネア、H・ラウターパハトという異なる改訂者の手に成るところの、内容に変化が見られるものであることに、留意すべきであろう。
 以下、捕虜に関する実定法規の主要なものを簡略に説明する。
 まず初めに、捕虜の定義であるが、支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、具体的に示されてはいない。ここでは、両国間に適用されなかったものの国際的な意味が少なくなかった一九二九年捕虜条約の第一条(1)が掲げている「一九〇七年ハーグ陸戦規則第一条、第二条、第三条二掲クル一切ノ者ニシテ敵二捕へラレタル者」を便宜上念頭に 置くこととする。(P311)
 右のハーグ規則三箇条は、交戦者の資格を、軍隊の構成員のみならず、(1)部下ノ為二責任ヲ負フ者其ノ頭二在ルコト、(2)遠方ヨリ認識シ得へキ固著ノ特殊 徽章ヲ有スルコト、(3)公然兵器ヲ携帯スルコト、(4)其ノ動作二付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト、の四条件を具備する場合、民兵と義勇兵 団とにも認め(第一条)、敵侵入軍の接近に際して「抗敵スル為自ラ兵器ヲ操ル」群民蜂起を行う占領されていない地方の住民にも、「公然兵器ヲ携帯シ、且戦争ノ法規慣例ヲ遵守スル」ことを条件に同様に認め(第二条)、また兵力を編成する 戦闘員と非戦闘員とが両者等しく捕虜の待遇を受ける権利を有することを認めており(第三条)、交戦者としての正当な資格を有するこれらの者が、国際法が認める捕虜としての待遇を享受し得ると定めるものであった。(P312-P313)
 ハーグ陸戦規則第四条は「俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内二属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内二属スルコトナシ」と規定するが、往昔、捕虜が捕獲者たる将兵の個々の権内に属して、彼等に生殺与奪の権を握られることがあったのである。
 「敵ニ捕へラレタル者」が交戦者としての適法の資格を欠く場合には、単なる被捕獲者に過ぎず、国際法上正当な捕虜であり得ないことは理論上明白であるが、現実の戦場でのこの点についての識別が実際上困難な場合もあり、紛糾を生ずる原因ともなり易い。
 第二次世界大戦の経験に鑑みて、一九二九年捕虜条約をさらに大幅に改善し拡大した一九四九年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第五条は、「本条約は、第四条に掲げる者〔捕虜の待遇を受ける資格のある者〕に対し、それらの者が 敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ送還される時までの間、適用する」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。

※佐藤氏は
>」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。

としています。

例えば「幕府山事件」、つまり第十三師団所属の山田支隊(歩兵第六十五連隊、山砲兵第十九連隊など)が起した、「南京事件」でも最大規模の「捕虜虐殺」として伝えられる事件において、当時の日本軍の認識でも明らかに「捕虜」としているにも関わらず、これを「合法」とする見解が成立するとは、ここからは読み取れません。

詳しくは、こちらをどうぞ。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen6.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen7.html

ネット上などの独自解釈ではなく、佐藤氏自身による説明が期待されるところです。

>一九四九年捕虜条約は、一九二〇~三〇年代の捕虜に関する国際法規に比較して飛躍的に進歩した内容を示していて、もちろん支那事変当時の関連諸問題に直接影響を与えるものではないが、少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。(P312)

※ここでは

>「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。

と、されています。

では、どのようなケースが「例外」とみなされるのでしょうか?
具体例がほしいところです。


>四、"南京事件"関連の重要法規
 戦時国際法上、戦闘に際して、正当な資格を有する交戦者は各種交戦法規の遵守を義務づけられているが、軍隊構成員または民間人が敵国に対して交戦法規に違反する行為をすれば、それは戦争犯罪と認められて、相手方の交戦国は、当該行為者を捕えた場合に処罰できるものとされてきた。
 戦争犯罪を構成する行為としては、(1)軍隊構成員による一般的交戦法規の違反行為、(2)軍隊構成員ではない個人の武力による敵対行為、 (3)間諜(スパイ)と戦時反逆、(4)剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)の四種類に伝統的に大別されてきた。
 右の諸行為のうち、間諜と戦時反逆が特殊な性格を持つものであることは、留意されなければならない。両方の行為はいずれも交戦国が実行する権利を国際法上認められており、しかも相手方の交戦国がその行為者を捕えた場合にこれを処罰する権利もまた認められているのである。
 違法ではない行為が処罰されるのは、一見法理的に矛盾しているが、それらの行為の害敵手段としての有効性とそれに基づく交戦諸国の現実的要求の前に法規が譲歩したものと考えられる。
 前記四種類の戦争犯罪のうち、戦時反逆については多少の解説をしておく必要がある。それは、交戦国の権力下にある占領地、作戦地帯、その他の場所において、当該交戦国に 害を与えその敵国を利するために、私人たる敵国国民、中立国国民、または変装した敵国軍人が行う行為を指している。

※南京戦当時、中国軍の「便衣兵戦術」によるゲリラの存在は確認されていません。
http://www.nextftp.com/tarari/sonzaisinai.htm

安全区内で不法なゲリラ活動をしていた便衣兵というものの史料を提示いただきたいものです。

>この種の有害行為は、敵国軍人が正規の軍服を着用して行う場合には戦時反逆にならないが、民間人に変装して行えば戦時反逆となる。その具体的内容はきわめて多岐にわたるが、 敵側への情報の提供、軍・軍人に対する陰謀、軍用の交通機関・資材の破壊、諸手投による公安の妨害、敵兵の蔵匿隠避、出入禁止区域への出入、強盗なども含まれている。
 戦争犯罪は、それを実行した個人が責任を問われるというのが原則であり、軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのが常である。(P313)

※軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのであるなら、逆に例えば「司令官が逃亡したら、捕虜を殺しても良くなる」という論法は成立しないように思われます。

ちなみに「南京事件」について、一部の方による、このような主張があります。

南京陥落当時の中国兵は
・交戦資格が無かった。
・「捕虜」ではなかった。
・それでも審問は行われていた。

では、司令官である「唐生智が逃亡したから交戦資格はなかった」と言うのは、どの国際法学者も採用しない「俺様ルール」ではないのでしょうか?


>各国軍隊は、軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった。(P313-P314)

※軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった、とするなら、審判機関(軍律法廷)を通さずに処刑するのは、明確に「違法」ということになります

>軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。
 軍律法廷の法的根拠は、国内法上は憲法に定める統帥権に、また国際法上は軍が行使する交戦権、わけても「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」(ハーグ陸戦規則第三款)に存する。


>次に、ハーグ陸戦規則第二十三条(ハ)は「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」を禁止し、同条 (ニ)は「助命セサルコトヲ宣言スルコト」を禁止している。
 しかし、激烈な死闘が展開される戦場では、これらの規則は必ずしも常に厳守されるとは限らない。
 『オッペンハイム国際法論』第二巻の第三版一九二一年)は「戦闘に伴う憤怒の惰が個々の戦士にこれらの規則を忘却、無視させることが多い」と嘆いているが、このまったく同一の言葉が、同書の第四版(一九二六年)にも、さらには弟六版(一九四〇年)にも、第七版(一九五二年)にさえも繰り返されている。
 学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。(P314)
 第一は、敵軍が降伏の合図として白旗を掲げた後で戦闘行為を続けるような場合である。一般に、交戦法規は交戦国相互の信頼に基づいて成立しているので、相手方の信頼を利用してそれを裏切ることは、「背信行為」として禁止されている。具体的には、休戦や降伏をよそおって相手方を突然に攻撃すること、戦闘員が民間人の服装をして攻撃すること、赤十字記章や軍使旗を不正に使用すること、などがその代表的な ものである。(P314-P315)
 なお、優勢に敵軍を攻撃している軍隊に対して、敵軍が降伏の意思を示すペき白旗を掲げた場合、攻撃軍の指揮官は、 白旗が真に敵指揮官の降伏意思を示すものであると確信できるまでは、攻撃を続行することが法的に許されており、攻撃を停止しなければならない義務はなく、戦場における自己の安全の確保のために交戦者の主体的判断が尊重される事例となっている。

※一般に「戦数」と呼ばれる理論です。

『国際法辞典』国際法学会編、鹿島出版会(昭和50年3月30日発行)
P400 戦数より

ドイツ語のクリーグスレゾンの訳語で、戦時非常事由または交戦条理ともいわれ、戦争中に交戦国が戦争法規を遵守すべき義務から解放される事由の一として主張されてきたものである。
個人の場合に緊急状態の違法行為がその違法性を阻却されるのと同様に、戦争の場合に交戦国が戦争法規を守ることによって自国の重大利益が危険にさらされるような例外的な場合には、戦争法の拘束から解放される、すなわち、戦争の必要が戦争法に優先する、と主張される。
この理論は、とくに第一次大戦前のドイツの国際法学者たちによって主張されたものであるが、イギリスやアメリカの学者たちはこぞって反対している。

要するに、この理論についてのコンセンサスは国際社会にはありません。


>第二に、相手側の交戦法規違反に対する戦時復仇としての助命拒否であり、相手方の助命拒否に対する復仇としての助命拒否の場合もある。
 一般に戦時復仇とは、交戦国が敵国の違法な戦争行為を止めさせるために、自らも違法な戦争行為に訴えて敵国に仕返しをすることをいう。前出『オッペンハイム国際法論』第二巻(第四版・一九二六年)は「捕虜が、敵 側の行った違法な戦争行為への復仇の対象にされ得ることには、ほとんど疑いがない」と述べている。一九二九年捕虜条約は新機軸を打ち出して、捕虜を復仇の対象とすることを 禁止した。
 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要がある例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが知られている。


>一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるペきであるという見解は、今日でも存在しているのである。(P315- P316)
 なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。(P316)

※極東国際軍事裁判において「重慶爆撃」について、このような議論があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83

>さらに戦後には、戦略爆撃を始めた側として東京裁判で弾劾されたほか、非人道的行為をおこなった当事者「日本」を非難する活動に材料として利用され、また重慶爆撃と同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別攻撃である東京や広島・長崎への爆撃が、重慶爆撃への報復であるとして正当化され、同じく非戦闘員を無差別に攻撃した、東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を相対化させる状況を与える要素ともなった。

単純に解釈して、つまり佐藤氏はこれを認める、ということでしょうか?

なお、これは私が「重慶爆撃」が、東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を相対化させることが、国際法上「合法」である、と主張しているという意味ではありません。

佐藤氏の論理を突き詰めると、これと同様になる、と指摘しているだけです。


>なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。

※佐藤氏は第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実を、どのように考えているのでしょうか?

以上、個人的に「問題点」と思われる点についてコメントを入れてみました。

「為替差益」による「慰安婦高給説」について

2017-06-25 19:36:32 | 近現代史関連
「慰安婦問題」について、ネットでは

例え 慰安婦の人達がビルマで王宮のような暮らしで有ったとしても
奴隷の様な暮らしであっても
そこで得た報酬を祖国に持ち帰れば幾らになるのか?・・(為替)

そのお金で 家が買えたのか? タバコ1箱しか買えなかったのか?・・(物価指数)

「為替」を検証することは彼女達の「報酬」であり
「物価指数」を検証することは時代を考えることになる。
東京の銀行頭取は「高給取り」ですが 
戦時中は物価狂乱と物不足で生活困窮したから
「銀行頭取は高給取りでは無い」とは結論が出せないと言う事

というように「慰安婦高給説」ともとれる発言をする方もいらっしゃるようですので、ここでは専門家の見解を紹介した上で、あえて皆様のご判断に任せたいと思います。

経済学者である堀和生氏の論文より
http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html

>日々書かれたこの日記には、慰安婦と慰安所従業員・経営者の貯金、預金、送金の話が頻繁に出てくる。この件に関して、経済史研究者として若干コメントしておく必要を感じる。というのは、慰安婦の経済的地位について、「将軍以上のより高収入」とか、「陸軍大臣よりも、総理大臣よりも、高収入であった慰安婦のリッチな生活」いう俗説が流布されているからである。
この日記には慰安婦や従業員が野戦郵便局(軍隊酒保内部に設けられた軍専用の郵便局で、郵便、貯金、軍事郵便為替を業務とする)で貯金や送金をする話がよく出てくる。金額は200~600円が多いが、1,000円を越える例もある。慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局の対象が軍人と軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦と慰安所従業員は軍属待遇であったことを確認できる。
そもそも、日本占領時代の南方(東南アジア地域)において円は全く使われていなかったにもかかわらず、この日記中の貨幣単位はすべて円である。このことがもつ意義を理解するには、あらかじめ戦時期南方の通貨決済システムを理解しておく必要がある。

(中略)

1941年11月「南方外貨表示軍票」が決定され、日本軍は円表示ではない、占領現地通貨表示の軍票を発行した。たとえばマラヤ・シンガポールであれば海峡ドル、ビルマはルピー、フィリピンはペソ等、多種類の軍票が使用された。1942年設立の南方開発金庫はこの軍票発行業務を受け継いだが、ここで発行された南発券も現地通貨表示である。券面のどこにも円やYENの表示はないが、日本人はこれらを皆「円」とよんでいた。日本側が代価となる物資を提供することなく、日本軍や日本商社がこの軍票によって現地物資を「買収」調達したので、経済の原則どおりすぐにハイパーインフレーションが起こった。1941年12月を100とした物価指数は、44年末にシンガポールは10,766、ラングーンは8,707まで急騰した。東京126、京城132のような日本帝国の中心地域とは全く異なる、異次元の経済空間がつくりあげられた(日本銀行調査『日本金融史資料』第30巻)。このようなハイパーインフレが日本内地・朝鮮に波及しないようにするには、先述のように資金移動を完全に遮断する必要がある。
1942年6月南方総軍軍政部総監部「本邦向送金取締規則」では、「南方占領地域に在りては軍政部の許可を得くるに非らざれば本邦(内地、朝鮮……)への送金を為すことを得ず。」として、南方と日本との貿易以外の資金移動を厳格に遮断する制度を設けた。しかし、この占領地通貨システムにはいくつも問題点があった。その一つは、この資金移動を管理するのは軍政当局であったが、資金移動に関わる主体も軍なのであった。軍の財政は臨時軍事費特別会計であり、一律円によって処理される。物資調達のみでなく将兵の給与も円で支払われる。ところが、支払われる円は南方現地では使えない。朝鮮・台湾・満州では問題にならないが、ハイパーインフレが起こっている地域では、様々な不都合が出てくる。まず、現地物資を調達するために、帳簿上の日本円を、急激に価値が下落している現地通貨(軍票・南発券)に換えねばならない。一方で、現地軍当局は現地の運営は現地通貨(軍票・南発券)を使っておこなう。他方で、日本が南方から資金移動を制限するといっても、軍将兵・軍属が日本内地の留守家族に送金したいという要求を抑えることはできない。1945年8月時点に南方に展開した日本軍将兵は83万人、満州を除く中国では122.4万人という膨大なものになった(旧厚生省援護局調)。このハイパーインフレ地域から、日本への資金移動を制限管理するのが軍であり、送金という資金移動を求めるのも軍人・軍関係者であった。制度上の送金制限額はしだいに圧縮されたが、許認可が軍当局であれば実際には軍関係者の送金は止められない。1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。その内実はつまびらかではないが、軍上層部も関わった合法・非合法の送金も相当に含まれていたと想像される。許可する主体が送金するのならば、当事者の規制はあまり意味を持たない。将兵の給与額自体は変化がないのであるが、乱発された軍票を、為替レートが導入されていないので、1軍票単位(ビルマはルピー・シンガポールは海峡ドル)は日本1円という原則を利用して、大もうけしようとする軍関係者もでてくることは必然である。こうしてインフレが日本に流入する道が開かれた。
この事態に直面した大蔵官僚は、これらインフレ資金の内地流入を防ぐべく知恵を尽くしてさまざまな制度を設けて対応した。占領地からの資金流入の封殺措置として、送金額の制限圧縮、強制現地預金制度、送金額に一定比率の負担を課する調整金徴収制度、預金凍結措置等が次々と導入された。最後の預金凍結とは、送金分を外貨表示内地特別措置預金と内地特別預金に分割し、そのうえ内地特別預金でも月々の引き出し額を厳しく規制するものであった。1945年5月華中華南の事例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨現地預金とさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示地預金のわずか1/69にすぎなかった。南方地域についても、内地(朝鮮を含む)に送金しようとする資金については、一部は外貨表示内地特別預金として凍結され、残りを内地特別措置預金としてその引き出しを管理する措置が実施された。このように日本に流入した資金を封鎖することで、資金の「浮動化」の阻止がはかられた。(東京銀行編『横浜正金銀行全史』第5巻(上) 1983年 第7部。柴田善雅『占領地通貨金融政策の展開』日本経済評論社 1999年 第15章)。ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない。このように占領地域から日本への送金には様々な規制があり、預金凍結措置によってその引き出しには厳しい制限が加えられていたことだけは確かである。
このような日本占領地におけるハイパーインフレの実態、内地送金の規制、日本円との交換制限等の問題は、多くの旧軍人や引き揚げ者が実際に体験しており、終戦直後には広く知られていたことであった。また、学問的には1970年代に原朗氏(原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会 2013年、第3章。論文の初出は1976年)によってそのメカニズムが明らかにされ、近年は柴田善雅氏や山本有造氏の精緻な研究(柴田善雅 前掲書、山本有造『「大東亜共栄圏」経済史研究』名古屋大学出版会、 2011年 第Ⅱ部)によって、両地域間の物価乖離の中で固定相場を維持した運用の実態が解明されてきている。ところが、そのような研究成果による知見は、南方の従軍慰安婦問題を考えるときには活かされていない。

この日記が作成された慰安所は、軍兵站部酒保の管理下にあったが、完全な軍機関ではなく軍組織と民間にまたがる領域に存在していた。性サービスの提供については軍が管理していたが、日々の生活で慰安所は市場に依拠しなければならない面もあった。慰安婦や慰安所経営者・従業員はハイパーインフレのなかで生きているのであり、そこは軍事費特別会計の円や物資配給が支配する領域ではない。このように慰安所は、日本帝国内で将兵の給与はどこでも同一であるごとく完全に統一されている軍の内部経済と、ハイパーインフレが進行している外部経済にまたがって存在していた。慰安所が兵士から受け取る花代は日記史料では円と書かれているが、実際はすべてルピーや海峡ドル表示の軍票(あるいは南発券)であった。そして、日本内地の円貨表示の水準でルピーや海峡ドル軍票を支払われても、それでは現地では到底生きていけない。これが、インフレ下で生きる慰安婦達の名目上の収入膨張が発生するメカニズムである。この日記によっても、慰安婦達の個別の収入全体は把握できない。ビルマにいた慰安婦の収入を確実に補足できる史料は、先に名前の出た文玉珠さんの事例である。1992年文玉珠さんが来日し日本政府に強く要求した結果、熊本貯金事務センター(現在、戦前の軍事郵便貯金を管理している機関 現在はゆうちょう銀行に移管)は、彼女の軍事郵便貯金通帳の貯金実績一覧を公表した(帳簿自体ではない)。これによって、ビルマにいた慰安婦の収入状態が明らかになった。文さんの場合、1943年3月6日からビルマの日本統治が崩壊する45年5月23日までに25,846 円が貯金されている。マンダレー駐屯慰安所規定」(1943年5月26日 駐屯地司令部)の遊興料金表は、兵士30分1円50銭であった。彼女が先の収入をこの遊興料金(花代)で稼ごうとすると、稼働日や経営主の取り分を考慮すると、1日平均100人をこえる兵士を相手にしなければならない計算になる。もちろん、それはあり得ないことである。慰安所にも休業日もあり、将兵が全く来ない日もあったことは日記によく出てくる。連日フル稼働などということは不可能である。それが意味するとことはただ一つ、文さんの貯金は日本内地の円貨ではない、ハイパーインフレで価値が暴落しているルピー建ての収入であったということである。それが具体的にどのように彼女の手にはいったのかまではわからない。南方の慰安所は、日本軍の内部経済とハイパーインフレのなかにある軍外の現地経済にまたがって存在していたために、慰安婦達の収入にはこのような名目上の膨張が生じた。このようなハイパーインフレ下の見かけの収入額をもって、秦郁彦氏(2013年06月13日TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」)のように慰安婦が「日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたと評価することは、過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている。

慰安婦が慰安所での稼働で一定の収入を得ていたことは事実である。しかし、この収入の成果を享受する条件があったかどうかは別の問題である。

(引用ここまで)

私見として言わせてもらうと

そもそも「為替差益」により利益を得ることが出来るのは
「送金を受けとることが出来た側」であって、慰安婦自身は、その恩恵を受けることは(その時点では)出来ません。

そして、慰安婦が「高給」を得られたかどうかも別の話です。

百歩譲っても、その収入は名目上の膨張であり、かつ送金という資金移動も、その多くは軍人・軍関係者でした。

仮に慰安婦本人が恩恵を受けたとしても、それこそイレギュラーなケースだったと見ていいでしょう。

この件をもって「慰安婦高給説」というのは筋違いのように思います。