神佛の加護をいただく

神佛の
ご加護をいただくには・・・
密教修行を通じて体験したことを書き続けたいと思います。

教えを覚え瞑想しましょう

2013年10月30日 18時46分09秒 | 秘密の教え・密教とは

理論上 私たちは 大日遍照金剛さま ということになります。

我は 大日遍照金剛なり、です。

我は 佛なり、です。


私たちは 信じると 信じないとに関わらず

佛性(ぶっしょう)を具えております。

佛性とは 佛さまに成れるという性質がある

佛さまに成れるという 可能性を具有しているのです。

それは 佛さまと同じ命を いただいているからです。

決して 私たちは大日遍照金剛さま(佛さま)と

無関係の存在ではありません。

私たちが 教えの如く修行すれば

成佛できるということです、が


南無大日遍照金剛

合掌することによって 私と佛さまは 一体であると。

佛さまと 私が一体であるということは

私は 佛なり。私は 佛さま そのものなのだということです

まずは このことを理解することです。

我は 佛なりとの自覚する

次に 教えを知ること。覚えることです。

知識として理解することです。

理解したならば 今度は 現実と照らし合わせてみる。

思索を重ねます。考えてみるのです。

教えと現実との関わりあいを思うのです。

そして そのことを実行してみる。

実証することによって 身につけるのです。

体得するといいます。

以上のことを こういう教えがあるということを

とにかく 覚えておいてください。


とりあえずは 健康方法のひとつとして 瞑想してみましょう。

座布団を二枚用意して 耳栓もあるといいでしょう。

座布団を敷いた上に もう一枚 二つ折りにして置きます。

二つ折りにした座布団の上に 腰を下ろします。

まず、正しく坐ります。足を組みます。

あぐらをかくようにして 左の足の上に

右の足を重ねるようにのせます。

次に 背筋をピンと伸ばします。

正しい姿勢を保ちます。

両手は 掌を上にして 左の手の上に 右の手をのせて

左右の親指の先をつけ合わせます。

そして おへその下あたりに置きます。

この姿形こそが お釈迦さまが おさとりを開かれた時の

お姿なのです。この姿を 真似することが大切です。

これが 座禅ということです。

あごを引き気味にして 目は 鼻先を見るようにします。

次に 腹式呼吸をします。

吐く息が先です。ゆっくりと息を吐きだします。

この時 お腹がへこむようにします。

身体の中の悪い気を 吐く息とともに 吐きだします。

吐き切ったならば、次に息を吸い込みます。

ゆっくりと吸い込みます。

この時 お腹が膨らむようにします。

清い気を お腹に充満させるようにイメージします。

息を吐き出し 息を吸い込む このことを一回とみなして

十回くらいしてみましょう。

身も心も リフレッシュしてください。

心の中のわだかまりや 嫌な思い イライラ もやもやしたものを

吐きだして 頭の中を空っぽにして 何も考えず 何も思わない

ただ ただ 静かに呼吸することに 専念するのです。

呼吸している自分を 心臓の鼓動を

座禅・瞑想している自分を 感じてください。

そして 南無大日遍照金剛と 自分の耳に聞こえる程度の

声の大きさで唱えます。唱え続けます。

そして 今度は 我は佛なり、と念じ続けます。

そして ただ ただ 静かに呼吸することに専念する。

このことを 何度か 順番に 繰り返します。

そして 感謝の気持ちを念じて 終わりにします。

終わった後で 頭の中がスッキリとしたり

心が軽くなったり 気持ちが楽になったり

何となく身体が温かく感じられたり

何かしら 変化を 感じとられることでしょう。

以上のことは 自分のためになることです。

まずは 自分のためになることから 始めましょう。

南無大日遍照金剛

南無大日遍照金剛

南無大日遍照金剛

あなたに 神佛のご加護がありますように

有難うございます。有難うございました。

合掌

 


信心できることがお答えです

2013年10月27日 16時52分10秒 | 秘密の教え・密教とは

佛心とは 大慈悲心 これなり

大いなる 慈しみの心であり

大いなる 哀れみの心でもあります


佛さまは 私たちの呼びかけに対して

どのように お答え下さるのでしょうか。


悩み苦しむ 私たちが 教えを 信じて

南無大日遍照金剛と 信じて 唱え

南無大日遍照金剛を 心に 念じて

行をしておりましても 何か 反応がないと

本当に これで善いのかと

寂しい思いがする時があります。

私自身 拝み終わった後で

あまりにも 無反応なことに

拍子抜けした ことがありました、が。

信心が 足りないのか、と。 真剣さが 足りないのか、と。

でも それでも 拝むのを 止めたりはしませんでした。

何か 原因があるから その原因は 何かと考えました。

あるいは すでに反応があるのに 気づかないだけなのか。

佛教書を 読み続け その答えを 探して見ようと思いました。


現実の世界に 生きている 私たちは

やはり 善い現象として 念じ拝んだ 結果として 現象として 

目に見えてこないと なかなか 納得することができません。

決して 疑っているのではないのです、が。

例えば 病気を治して下さいとの 願いには

やはり 病気が 快方しているとか

病気が 治ったとかいう結果がでれば

信じて善かったと思うものです。

ああ お答え下さった、と。

つまり 願いが叶ったということが

私たちが 念じ拝んだ 結果だということです。

ご利益をいただいた、とか。

そのように 思えることが 佛さまからの お答えなのです、が。

 

とある本に 無所得(むしょとく) 無所悟(むしょご)とありました。

密教の教えでは 自らの人格を完成して

即身成佛することが 最終目的ですが

信じて 念じて 行じても 何もない、のでは

身も蓋もありません。し、何のために 信心するのか、と。


信じられる 大いなる存在を知っています。

そして 信じる 私たちがいる。

救いをもたらす 大いなる存在に

救われる 私たちがいる。


これは 信心する 私たちが 慢心しないようにとの 計らいなのです。

信心しているから 自分は 私は 偉いのだ、と。

勘違いを してしまうからです。

信心していない人たちを 見下してしまう。

その人たちに ダメな人間なんだと レッテルを張ってしまう。

区別してしまう。差別してしまう。

思い上がりの心です。このことを 戒めているのです。

こうなってしまうと 後は 堕落する一方です。

そのように 成ってはいけないとの 佛さまの配慮なのです。


信心とは 感謝することなり。

佛さまに 感謝することであり

教えに 感謝することでもあり

すべての ものごとに対して 感謝する心を 育むことなのです。


信とは 澄みきった 清らかな心であり

慢心 思い上がりとは 心を穢す 働きなのです

佛法に対立なしです。

佛さまと 私たちは 対立すべきではありません。

思い上がりや 慢心は 佛さまと対立することなのです。


正身端座して 合掌する。

口に 南無大日遍照金剛を唱え

心は 大日遍照金剛さまを念じる。

教えを信じて 念じて 行じることができることが

すでに救いなのであり 佛さまからの お答えなのです


信心すれば 身の上にも 心の中にも やがて 変化が起こってきます。

これは 今は分からなくとも 無反応ではないかと 思っていても

後から しみじみと 省みた時に 理解できるように成ります。

感応(かんのう)という言葉があります。

私たちの信心が 真心が 神佛に通じること。

私たちの心が ものごとに触れて 動くこと。

つまり 佛さまの み心と 私たちの心が 通じ合うこと、です。

行じている最中に 閃くことがあり そのことが

佛さまからのメッセージとなって 気づかされるものなのです


最後まで 読んでいただき 誠に 有難うございます。

このブログを 読んでいただいた方々に

神佛のご加護が顕れますように

合掌

 


南無 帰依の心 信じます

2013年10月19日 17時50分33秒 | 秘密の教え・密教とは

すべての ものごとに対して 感謝できる人間になりましょう。

そのことが 自分のために成り やがて 他人のために成るのです。

善業 因縁 自業自得 善因善果です。


念佛というと 南無阿弥陀佛 (なむ あみだぶつ)と

唱えることが一般的ですが

南無釈迦牟尼佛 (なむ しゃかむにぶつ)

南無薬師瑠璃光如来 (なむ やくしるりこうにょらい)

南無大聖大悲不動明王 (なむ だいしょう だいひ ふどうみょうおう)と

唱えることも 念佛の部類に入ります。

佛さまを 念じながら 唱える。

ちなみに 南無妙法蓮華経と唱えるのは お題目を唱えるといいます。

南無大日遍照金剛 (なむ だいにち へんじょう こんごう)と

唱えることも 念佛を唱えること になります。

高野山真言宗の開祖 弘法大師 (こうぼうだいし)

空海さまの大師信仰の ご寶号(ほうごう)である

南無大師遍照金剛 (なむ だいし へんじょう こんごう)から

南無大日遍照金剛 (なむ だいにち へんじょう こんごう)に

してみました。

南無大師遍照金剛ですと 弘法大師

空海さまに限定されているような感があります。

弘法大師 空海さまは 即身成佛されましたし さとりを開かれました。

すでに 大日如来さまと 一体に成られました。

ですから 南無大日遍照金剛と

唱えることを 勧めております。

決して 大師と大日と 誤植ではありません。

それと 私は天台密教を信奉していますので

大師寶号(だいし ほうごう)には ちょっと抵抗があります。

もちろん 大師信仰には 素晴らしいものがあります。

南無大師遍照金剛 即 南無大日遍照金剛 です。


南無とは 神佛や お経に 絶対的に信頼をあらわすこと。

帰依とは 一身に神佛に任せて 信仰すること。


南無阿弥陀佛とは 阿弥陀さま どうかお救い下さいませ。

南無釈迦牟尼佛とは 釈迦族の聖者であられる佛陀(ぶっだ)さまの

教えを信じます。

南無薬師瑠璃光如来とは お薬師さまを信じます。

南無大聖大悲不動明王とは お不動さまを信じます。

南無妙法蓮華経とは 妙法蓮華経を信じます。

南無大師遍照金剛とは 弘法大師 空海さまを信じます。



信じることは 感謝することです。

このブログを 最後まで読んでくださり 誠に 有難うございます。

読んでいただいた方々に ご利益がありますように

合掌

 

 


不可思議な働きに感謝する

2013年10月14日 16時28分16秒 | 秘密の教え・密教とは

私たち人間には 見ることの出来ない存在を どう信じるのか。

大日遍照金剛(だいにちへんじょうこんごう)さまの 存在を知るには

何を信じたら よいのでしょうか。


私たち人間には 五体があります。

五体とは 頭 頚(くび) 胸 手 足であります。

そして 目 耳 鼻 舌 身 意が 具わっています。


目は  ものを見ることが出来ます。 景色を見たり 絵画映画ドラマを見たり 等


耳は  音を聞くことが出来ます。 音楽を聴いたり 声を聞いたり 等

他人の言葉 鳥のさえずり 犬の鳴き声 猫の鳴き声 等


鼻は  におい。良い匂い 悪い臭いを 嗅ぐことが出来ます。

花の匂い 美味しそうな料理の匂い LPガスや灯油のにおい 等

快・不快を嗅ぎ分けることが出来ます。

息を吐いたり 吸ったり出来ます。


舌は  食べ物や飲み物の味を 味わうことが出来ます。

甘い 辛い にがい しょっぱい等 味覚ですね。


身は  ものに触ることが出来る。 行動 運動 ジョギング ウオーキング 等

身体を動かすことが出来る。旅行することが出来る。


意は  意識は心です。 気持ち 考えること 思うこと 疑うこと 等

意思 感情があるということ。 喜怒哀楽のことです。


そして 一番大事なことは 人間には 命があるということです。

もちろん 動植物 昆虫 爬虫類 等に至るまで 命があるということ。

自然の中にも 命があり 宇宙にも 命があります。

命によって支えられている 世界であります。

心臓が動いている 生きている事実を どう考えるか。

これらの働きは 私たち人間が

自ら勝手に 行っているように 錯覚しがちですが

そうでは ありませんね。


眠っている時も 生命維持の為に

無意識のうちに 働いているのです。

この不可思議な働き このことを 働かしめている力というか。

全ての 生きとし 生けるものたちの 生活する原動力というか。

このことを 生きている人間ならば

当たり前のことであると 考えるか。

このことに 感謝できる 感謝できないか。


この不可思議な働きを 現象を 事実を 現実を 真実を 信じる。

このことが 私たち人間の目には 見えない存在を 信じることであり

大日遍照金剛(だいにち へんじょう こんごう)さまの存在を

信じることに なるのです。


密教は スケールの大きい 教えです。

私たち人間は 大宇宙である 一大生命体の 一部であると。

大自然と 一体であると。

天地と我と同根であり 万物と我と一体であると。

なかなか 想像しにくいでしょうが このように 自覚するのは

難しいのでしょうが 自覚している 自覚していないに 関わらず

信じる 信じないに 関わらず

このことは 厳然とした 真理としてあるのです。


たとえば 湖水。シンと静まりかえった 鏡面のような湖の水面に

一滴の水が 滴り落ちます。そうすると 四方八方に波紋が広がり

一体となり もとの静けさに戻りますね。

湖の水と 一滴の水が 一体になる。

これが 大宇宙と自分とが 一体であるという イメージです。


合掌することは

右手は 大日遍照金剛さまであり 大日遍照金剛さまを表わし

左手は 私自身であり 私自身を表わし

左右の掌を合わせることによって

大日遍照金剛さまと 私は 一体であると 表現しています。

このことを 自らの身体でもって 示しているのです。


正身端座することは

足を組み 背筋を伸ばし 座ることは

この姿形こそが 佛さまの姿形 そのものです。


腹式呼吸することは

呼吸することは 息は命です。

息することによって 生きていられる。

息ながらえて いけるのです。

自らの命を 実感できるのです。


口に 南無大日遍照金剛(なむだいにちへんじょうこんごう)

唱えることは

大日遍照金剛さまへの 呼びかけであります。


心に 大日遍照金剛さまを 念ずることは

大日遍照金剛さまの み心 と

私自身の心を ひとつにする為です。

み心 と 心が 繋がりあうことです。



最後まで 読んでいただきまして 誠に 有難うございます。

このブログを 読んでいただいた方々に

ご利益(りやく)がありますように

合掌

 

 


密教はスケールの大きい教え

2013年10月09日 18時30分08秒 | 秘密の教え・密教とは

神佛の ご加護をいただくためには 条件があります。

教えを信ずること。信心することです。

以前ブログに書いた 業・因縁の教え。

自業自得・善因善果・悪因悪果の教え。

このことを よく理解しておくことです。

前回の不足分を補います。

まず 場所です。どこで行をしたらよいのか。

自宅に佛間 佛壇があれば その前で構いません。

現在の住宅事情からして 無い場合は 机の前に坐るか

自分の部屋の中に 坐れるスペースを作るようにします。

あるいは ベッドの上でも構いません。

自分にとって やり易いようにしてください。

静かな環境が理想ですが 雑音など気になる場合は

耳栓を使いましょう。ある程度は 雑音を遮ってくれます。

どれくらいの時間 坐ればいいのか。

最初は 五分くらいから 徐々に時間をかけるようにしましょう。

もちろん 慣れてきてからで結構です。

それと 自分の時間が許す範囲でいいでしょう。

要は あまり負担にならないように です。

ストレス解消のつもりで 身心の健康のために

悩み解消のため きっかけは どのような理由でもいいのです。

とにかく 長続きできるようにします。

次に 坐り方ですが 座布団の上に坐る場合は

まず あぐらざに坐り 右足のくるぶしを 左足のくるぶしの上にのせます。 

お尻の下に 二つ折りにした座布団を敷いて坐ると

背筋が ピンと伸びます。そして 胸の前で合掌します。

視線は 鼻先に 合掌の指先が見えるようにします。

次に 腹式呼吸をします。吐く息が先です。

息を吐き切ります。お腹がへこむようにします。

息を吸います。お腹が膨らむようにします。

お腹をポンプのようにして お腹を へこましながら 息を吐いて

お腹を 膨らましながら 息を吸います。

このことを何回か続けます。

椅子に坐って 行う場合も お尻の下に敷物をします。

クッションか 座布団でも 椅子の形状にあった

坐るのに支障ないようなものでいいでしょう。

ベッドの上では 二つ折りの座布団の上にお尻を置きます。 

肝心なことは 背筋をしっかりと伸ばして坐ることです。

猫背は 身体によくありません。この点は注意してください。

それと 何か 佛さまの お姿が必要とあらば

誠に申し訳ありませんが インターネットで

大日如来さまで検索していただき 

画像をプリントアウトしてみてください。

以上で だいたい補足できたと思います。

私が信奉していますのは 密教の教えです。

密教の教えは 人格の完成 即身成佛することです

そして 悟りながら 生かされて生きる

人生を全うすることが テーマです。

大宇宙 大自然と 私は一体である。

大日遍照金剛さまと一体である。

行為と 言葉と 想いを一致させる。

正身端座して 合掌する。

南無大日遍照金剛と唱えます。 

心に大日遍照金剛さまを想う 念じ続けるのです。

佛さまの教えに出遭い 佛さまの教えを実践して

佛さまのように成る。

常に上昇志向もって 人格を向上させるのです。

これが 神佛の加護がいただける 人間になることです。

これが 神佛の加護がいただける 生活をすることです。

信じて 念じて 行じる。

以前にブログにて 性善説 性悪説のことを書きましたが

私たち人間は 佛性(ぶっしょう)を具えております。

佛性(ぶっしょう)とは 佛さまに成れる性質を有しております。

が、そのままでは 無きに等しいのです。

やはり 修行しなければ 佛性(ぶっしょう)は耀いてこないのです。

行をすることによって 閃き 佛さまからメッセージをいただく。

そのことを体得する。いろいろと教えていただき 心の糧とする。

日常生活の中で 教えを実行することによって

大日遍照金剛さまの 大慈大悲の み心により お力により

信心することによって 成佛させていただくのです。

このことが 人間としての正しい生き方です。

あとは 自らが 信じ 念じ 行ずることによって

実感するしかありません。

このことは 言葉では言い表せないのです。

書き記すことができないのです。

実体験するしか方法はありません。



最後まで 読んでいただき 誠に有り難うごさいます。

このブログを読んでいただいた方々に

神佛のご加護がありますように

合掌

 

 


信心とご利益(りやく)

2013年10月06日 16時50分01秒 | 秘密の教え・密教とは

天地と我と同根 万物と我と一体なり。


信じられる者と 信じる者との一体感を 得る。

救う者と 救われる者との一体感を 得る方法とは


合掌すること とは

まず 正身端座します。 合掌の仕方は

座布団を二枚用意します。

一枚敷いた上に もう一枚は二つ折りにして 上に置きます。

二つ折りにした座布団の上に 胡坐に坐ります。

左足のくるぶしの上に 右足のくるぶしをのせます。

姿勢は まず背筋を まっすぐ伸ばします。

顎を引き気味にして 肩の力を抜いて 胸の前で合掌します。

視線は鼻先を見るようにして 合掌の指先が見えるようにします。

そして 腹式呼吸をします。吐く息が先です。

まず 息を吐き切ります。この時 お腹を吐く息と共にへこませます。

次に 息を吸います。お腹が膨らむようにします。

お腹で呼吸しているように 心がけてください。

右手と 左手を 合わせることによって

一体感の境地に至ることを 意味しています。

これは人間の身体で 行う行為です。

次に 言葉です。

南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛

自分の耳に 声が聞こえる程度の 声の大きさで唱えます。

耳栓を使うと よろしいかと思います。

私自身も 耳栓を愛用しています。集中しやすくなります。

これは信心の表明です。 私は 大日遍照金剛さまを 信じます。

悩み苦しみがある場合

大日遍照金剛さま どうか助けてくださいと 心の中で願ってください。

願いながら 南無大日遍照金剛 と唱え続けます。

次に は 想い 信心です。

そして 心の中で 念じ 続けます。

私は 宇宙と一体であり。私は 自然と一体であり。

大日遍照金剛さまと 私は 平等平等にして 無別無異なり。

どうして 心は 念じ続けなければならないのかというと

心は コロコロ コロコロと 簡単には 落ち着いてはくれないからです。

つまり 雑念にとらわれたり 妄想が浮かんだりします。

いろいろと あーでもない こーでもないと 考えがちです。

その散乱する心を 集中させるために 念ずるのです。

正身端座して 合掌する。

口に 南無大日遍照金剛と 唱えながら

心では 大日遍照金剛さまを信じます、と。

あるいは 悩み苦しみから 助けてくださいと願いながら でもいいのです。

合掌することによって 救う者と 救われる私は

一体であると表現しているのですから

一心に 南無大日遍照金剛と 唱えながら

一心に 南無大日遍照金剛と 念ずるのです。

これは 行為と 言葉と 想いを ひとつにするための 行です。

では こうすることによって どうなるのでしょうか。

これは 実際に 教えを信じて 大日遍照金剛さまを信じて

行わなければ 得られないことです。

信じて 念じて 行ずる。

このことが 善因であり 善果を得るための方法です。

私の場合 問題意識をもって 拝みますると

ときどき 閃くことがあります。気づかされるというか。

頭で理解しても 心から納得しなければ

実感しなければ 本物には なりません。

知識ではなく 智慧を得る。

例えば 天地と我と同根 万物と我と一体なり。

これは どういうことなのか。

どうして 私が 天と地と一体なのか。

どうして 私が 万物と一体なのか。

このような問題意識を 心のどこかにもちながら

念じていますと フト ああこのことは

こういうことだったのかと 気づかされます。

これが 閃きであり 大日遍照金剛さまからのメッセージなのです。

毎日 この行をすることによって

必ず 何か 変化があるはずです。

その人によって 差はありますが 些細なことかも知れませんが

何となく 気分が善くなったとか 心がスッキリしたとか

身体が軽くなったような気がするとか 気持ちのもちようが違うとか

ものの見方 考え方が変わってきたとか

いろいろとありましょうが これが ご利益(ごりやく) です。

現世利益(げんぜりやく) といいます。

このブログを書いている 私自身 実際 いろいろと

気づかされましたし 教えられました。

ご利益を 得ております。ご利益を 実感しております。

これは 本当に有難いことなのです。

決して 嘘でも 偽りでも ありません。

最後まで読んでいただき ありがとうございました。

この記事を読んでいただいた方々に

神佛のご加護がありますように

合掌