神佛の加護をいただく

神佛の
ご加護をいただくには・・・
密教修行を通じて体験したことを書き続けたいと思います。

信心できることがお答えです

2013年10月27日 16時52分10秒 | 秘密の教え・密教とは

佛心とは 大慈悲心 これなり

大いなる 慈しみの心であり

大いなる 哀れみの心でもあります


佛さまは 私たちの呼びかけに対して

どのように お答え下さるのでしょうか。


悩み苦しむ 私たちが 教えを 信じて

南無大日遍照金剛と 信じて 唱え

南無大日遍照金剛を 心に 念じて

行をしておりましても 何か 反応がないと

本当に これで善いのかと

寂しい思いがする時があります。

私自身 拝み終わった後で

あまりにも 無反応なことに

拍子抜けした ことがありました、が。

信心が 足りないのか、と。 真剣さが 足りないのか、と。

でも それでも 拝むのを 止めたりはしませんでした。

何か 原因があるから その原因は 何かと考えました。

あるいは すでに反応があるのに 気づかないだけなのか。

佛教書を 読み続け その答えを 探して見ようと思いました。


現実の世界に 生きている 私たちは

やはり 善い現象として 念じ拝んだ 結果として 現象として 

目に見えてこないと なかなか 納得することができません。

決して 疑っているのではないのです、が。

例えば 病気を治して下さいとの 願いには

やはり 病気が 快方しているとか

病気が 治ったとかいう結果がでれば

信じて善かったと思うものです。

ああ お答え下さった、と。

つまり 願いが叶ったということが

私たちが 念じ拝んだ 結果だということです。

ご利益をいただいた、とか。

そのように 思えることが 佛さまからの お答えなのです、が。

 

とある本に 無所得(むしょとく) 無所悟(むしょご)とありました。

密教の教えでは 自らの人格を完成して

即身成佛することが 最終目的ですが

信じて 念じて 行じても 何もない、のでは

身も蓋もありません。し、何のために 信心するのか、と。


信じられる 大いなる存在を知っています。

そして 信じる 私たちがいる。

救いをもたらす 大いなる存在に

救われる 私たちがいる。


これは 信心する 私たちが 慢心しないようにとの 計らいなのです。

信心しているから 自分は 私は 偉いのだ、と。

勘違いを してしまうからです。

信心していない人たちを 見下してしまう。

その人たちに ダメな人間なんだと レッテルを張ってしまう。

区別してしまう。差別してしまう。

思い上がりの心です。このことを 戒めているのです。

こうなってしまうと 後は 堕落する一方です。

そのように 成ってはいけないとの 佛さまの配慮なのです。


信心とは 感謝することなり。

佛さまに 感謝することであり

教えに 感謝することでもあり

すべての ものごとに対して 感謝する心を 育むことなのです。


信とは 澄みきった 清らかな心であり

慢心 思い上がりとは 心を穢す 働きなのです

佛法に対立なしです。

佛さまと 私たちは 対立すべきではありません。

思い上がりや 慢心は 佛さまと対立することなのです。


正身端座して 合掌する。

口に 南無大日遍照金剛を唱え

心は 大日遍照金剛さまを念じる。

教えを信じて 念じて 行じることができることが

すでに救いなのであり 佛さまからの お答えなのです


信心すれば 身の上にも 心の中にも やがて 変化が起こってきます。

これは 今は分からなくとも 無反応ではないかと 思っていても

後から しみじみと 省みた時に 理解できるように成ります。

感応(かんのう)という言葉があります。

私たちの信心が 真心が 神佛に通じること。

私たちの心が ものごとに触れて 動くこと。

つまり 佛さまの み心と 私たちの心が 通じ合うこと、です。

行じている最中に 閃くことがあり そのことが

佛さまからのメッセージとなって 気づかされるものなのです


最後まで 読んでいただき 誠に 有難うございます。

このブログを 読んでいただいた方々に

神佛のご加護が顕れますように

合掌

 

コメント
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