日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

コアラの命を守れ!オーストラリアに「生類憐みの令」を導入せよ!

2015年06月02日 12時00分00秒 | 国際情勢
コアラを安楽死=反対世論盛り上がらず―豪

時事通信 5月31日(日)14時42分配信

 【シドニー時事】オーストラリア南東部ビクトリア州政府は、ケープオトウエイ国立公園でコアラが増え過ぎ餓死の恐れがあるとして、31日までに少なくとも48頭の間引きを実施した。豪メディアが報じた。
 動物保護団体は「国のシンボル、コアラを救え」と反対していた。ただ、反捕鯨では結束する豪国民も、コアラ処分反対の世論は盛り上がらなかった。豪各地では、カンガルーの大規模な間引きも定期的に行われている。
 州政府は25日、コアラの健康調査を近く実施する方針を説明していた。これまでに226頭を調べたところ、48頭は健康状態が悪く、「これ以上の苦痛を避けるため」安楽死させたという。食べるユーカリの種類が異なるため、別の森や動物園へのすみ替えはすぐには難しい。
 州政府は2013~14年にも、コアラ約700頭を極秘に殺処分した。コアラは国内の大半の地域では絶滅が危惧され、手厚く保護されている。 

【この記事に対するコメント】
mat*****
7時間前(2015/05/31 14:53)

私には、コアラOKで
クジラNGの基準が分からないんですが・・(笑)


はぁ
7時間前(2015/05/31 14:45)

シーシェパードさんは何してるんですか?


No Name。
7時間前(2015/05/31 14:58)

こういう時こそJAZAの出番ではないですか?


kik*****
7時間前(2015/05/31 14:47)

クジラはダメ
コアラはOK
意味不明


SUP
7時間前(2015/05/31 14:45)

イルカ・クジラがだめでコアラが良い理由が全く分からないのだが?


紫苑
7時間前(2015/05/31 14:53)

クジラは可哀想でコアラやカンガルーはOKなんだ。
なんで?意味がわからん。


oga*****
7時間前(2015/05/31 15:06)

イルカや鯨はダメでコアラは良いと言う事なのだろうか?? 


下朝鮮は世界の盲腸
7時間前(2015/05/31 15:16)

アボリジニーも迫害するくらいだから

コアラなんて屁の河童なんかな?


通りがかり
6時間前(2015/05/31 15:38)

間引きではなく、海外の動物園に寄付するという考えは無いの
だろうか?

後になって、間引きしなければ良かったなんて、勘弁して欲しい。


hus*****
2時間前(2015/05/31 19:39)

とんでもない二重基準もあったもんだ。

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【桜井誠】白人の残酷なイルカ漁は問題なし!?&統一教会の広告塔


オーストラリアの白人はタスマニア人を絶滅させました。

ブラック・ウォー

ブラック・ウォー(Black War)は、ヴァン・ディーメンズ・ラント(今のタスマニア)で1800年代前半に起こったイギリス植民者とタスマニアン・アボリジニーの争いである。タスマニアン・アボリジニーは小島に移住させられ、ほぼ絶滅させられた。


(ブラック・ウォー中に制作された布告ポスター。友好的かつ平等な統治を行うことを宣伝している。)

経過
この戦争は公式な宣戦布告無しで開始されたため、その継続期間についてはいくつかのとらえ方がある。1803年にタスマニア島に最初にヨーロッパ人が入植した時に始まったとする見方もある。 最も激しい衝突があったのは1820年代で、特にこの時期をブラック・ウォーと呼ぶことが多い。

1820年代の激しい衝突後、1830年にイギリス人の副総督ジョージ・アーサー(en:Sir George Arthur, 1st Baronet)は、タスマニア島内のアボリジニーを一掃する計画を立てた。この作戦はブラック・ラインとして知られ、流刑者まで含めた島内全ての男性入植者が動員された。入植者は横列を組んで南と東に向け数週間かけて進み、タスマン半島へとアボリジニーを追い込もうとした。しかし、ほとんどアボリジニーを捕捉することはできなかった。

もっとも、ブラック・ラインの実行は、アボリジニーを動揺させ、フリンダーズ島への移住を受け入れさせることにつながったと一般に考えられている。約300人の残存タスマニアン・アボリジニーの大半は、1835年末までにジョージ・ロビンソン(en:George Augustus Robinson)の提案に従いフリンダーズ島へ移住して、事態の鎮静化までの「保護」を受けることになった。そして、この移住完了をもってブラック・ウォーについて戦争終結と見るのが一般的である。

結果
フリンダーズ島への移住後、劣悪な生活環境とヨーロッパ人がもたらした疫病によりタスマニアン・アボリジニーの人口は激減し、1847年にタスマニア島のオイスター湾保護区に再移送されるまでにタスマニアン・アボリジニーは約40人となっていた[1]。その固有の文化も失われた。民族浄化というブラック・ラインの目的は、フリンダーズ島移住によって代わりに実現されたことになる。

ジョージ・ロビンソンは、1839年にポート・フィリップ地区の主席アボリジニー保護官に任命された。彼の下でオイスター湾の保護区は運営され、1849年末に閉鎖された。

文学上での言及

H・G・ウェルズの『宇宙戦争』の序文ではこの戦いについて、次のように触れられている。

(訳注:火星人の侵略について考えるに際して)われわれ人間は、自らが行ってきた無慈悲で徹底した破壊という所業を思い起こす必要がある。それも、バイソンやドードーといった動物を絶滅させただけでなく、われわれの劣等な近縁種たちまでも手にかけてきたことを。タスマニア人たちは、われわれ人とよく似ていたにも関わらず、ヨーロッパからの移民が行った駆除作戦によって、50年のうちに絶滅させられてしまったのだ。(原文:"We must remember what ruthless and utter destruction our own species has wrought, not only upon animals such as the vanished bison and dodo, but also upon its own inferior races. The Tasmanians, in spite of their human likeness, were entirely swept out of existence in a war of extermination waged by European immigrants, in the space of fifty years." )

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このように人の命すら軽視する連中なんですから、コアラやカンガルーの命を顧みる訳がありません。

こいつらには徳川綱吉公の爪の垢を煎じて飲ましてやりたいところです。

よく綱吉公の「生類憐みの令」は悪法だと評価されますが、実際はとても人道的な法律だったのです。



なぜ「生類憐れみの令」は誤解されているのか

中略

よくある誤解

・「生類憐れみの令」の被害者は何千、何万、何十万といる。民衆は苦しめられた
→実際は、重罪扱いだったのはせいぜい一年に数人で、武士階級中心でした。しかも、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰でした。

・生類憐れみの令で殺生は全国で厳しく取り締まられた
→実際の摘発者はほとんどいません。地方においてはほとんど無視されていたという見解もあります。たとえば名古屋の武士の日記では、生類憐れみの令に配慮しておおっぴらにせず魚釣りをしていて、その程度の配慮だけで特に問題にならず、他の処罰者の話も皆無です。当時の処罰記録でも、ごく少数の武家階級に対して厳罰が下された事例しか発見できません。

・生類憐れみの令で民衆は皆おびえていた
→法令を皮肉る行動をしたり、犬を殺して見せしめにしたりと、法律に反抗する動きが減らないため、その後、法令が複雑化していくことになりました。

・生類憐れみの令の目的は、綱吉の跡継ぎ誕生のための願掛け
→薦めたという僧侶隆光がそのころ江戸にいないし、全くのデマなのはほぼ確実です。また、他の当時の記録で何箇所も綱吉本人が、国民のモラル向上のためという目的を語っています。

・法令に嫌悪感を抱いた水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を送りつけるという皮肉を実行した。
→明確な出典が確認されず後世の創作の可能性が高いです。



まずは『生類憐れみの令』の本筋は何であったかと言う事ですが、これは犬を始めとする動物の保護などではなく本当の憐れみは捨て子にかけれれたモノでした。 つまり本筋は「捨て子保護政策」であり、動物保護はその“おまけ”でしかなかったのです。



出典
1月20日、『生類憐みの令』廃止 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)


生類憐れみの例といえば犬のイメージが目立ちますが、実際には「人間の子供、老人、病人などの保護」の方が全国的にはより重要な扱いでした。なお綱吉本人は特に犬好きではなかったようです。犬関連の法令が増えたのは、江戸などの都市部で、野犬や飼い犬に関する問題が多かったための模様。


六代将軍家宣が将軍職を引き継いだ時に廃止をしたのはこの“おまけ”の方であり本筋の「捨て子保護」は継続され続けた。



出典
1月20日、『生類憐みの令』廃止 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)



継続された結果、その後「当たり前」になったため、生類憐みの令の一環と意識されなくなってしまいました。


綱吉は、戦国以来の殺伐とした社会風潮を、このへんで改めて「文治国家」に変えていきたいと願っていたのです。大名も庶民も力ずくで押さえ込もうとしたのが、父・家光時代の政策です。これを転換し、学問を奨励し、人の心を優しくしようと努力します。何事も「力づく」が横行し武士も町人も何かと言うと喧嘩で殺しあうような気風を、改めようとしていたのです。



出典
もし実際に水戸黄門様が、「生類憐みの令なぞ天下の大悪法、直ぐに止められよ!... - Yahoo!知恵袋



この時より人々から戦国期のような猛々しさがなくなり、「江戸期全体で起こった事件の数より今の東京で一年間に起こる事件の方が断然多い」と史家に言わせる超安全国家が出来上がったのです。



出典
1月20日、『生類憐みの令』廃止 - 彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)


綱吉の時代に江戸の治安は劇的によくなったというのは紛れもない事実です。

「人を殺すなんてとんでもない」という風潮ができたのは、この法律ができたあとのことです。人を殺すのはとんでもない悪事であるという意識の中に、われわれ現代人は生きています。我々の日常的な倫理の中に、そうした意識は深く根を下ろしています。ところが戦国時代は、人を殺すことが功名だという意識をもって、世の中は動いていました。日本人の意識の大転換が起こったのは、実は綱吉の時代なのです。



出典
綱吉はバカ殿? 歴史の通説は実はウソだらけ!/井沢元彦 | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所


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生類憐みの令によって戦国時代の生命軽視の風潮から、生き物の命を大切にするようになったのです。

オーストラリア人の意識改革の為に、コアラやカンガルーの命を守る為に生類憐みの令をオーストラリアに導入しましょう。







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