彼女は、何を憎悪「していた」のだろうか。
「フランスの民を救うため 神(キリスト)のために 信仰のために 戦い続けた私達の事の何が判る!!」
豊久の問いとジャンヌの答えは噛み合っていない。豊久は彼女の「現在」にしか問いを発していない。彼女の憎悪そのものに全く関心が無い。
そして、彼は彼女の「価値」すら認めなかった。
ジャンヌ・ダルク。彼女はフランスはルーアン、ヴィエ・マルシュ広場に於ける火刑にて最期を迎えている。その最期は伝えられている事柄だけでも相当に屈辱的な、陵辱という形容すら妥当か考えるような酷いものだったのが伺える。
そこで彼女は乙女として死ぬ事すら許されなかった。
フランスの為に戦った彼女をフランスの民は助けなかったのか。神は助けなかったのか。彼女は英雄ではなかったのか。魔女の汚名に異議を唱える市民はいなかったのか。信仰とはなんなのか。信仰。信仰とはなんだ。
ここで二つの問いが生まれる。
何が判る、と言った言葉が示すのは、すなわち未だ彼女の中には「信仰」が残っているのではないか。
オルレアンの乙女、と呼ばれた時点の彼女の「信仰」、そして廃棄物としての彼女に「信仰」が残っていたとしてそれは同じなのか異なるのか。
問いを発していながらではあるのだが、実際には結論の出る問いではない。
フランスの民も神も、外的(神、奇跡を存在するもの、物理的に有り得るもの、介在するもの、という前提に置けばだが)な要因なのに対し、信仰は内的な要素である。
信仰とは言葉より始まる。神父、教主、住職、神主、指導者、カリスマ、アイコン、宗教に限らず、「信じ、仰がれる者」は沢山居る。「教え」は言葉となく文書となく教え導き、学んだ者は自らの経験と気づきにより信仰に理解を深め、確信の強度を強めてゆく。
そうなのだ。信仰とはあくまで個人的なものであり、他者と同じである事など有り得ないのだ。それはその個人の人生から逆引きされるものであり、例え双子が同じ環境で同じ教育を受け、同じ趣味、同じ娯楽を楽しんだとしても信仰が相似形になる事があっても同一化する事など有り得ない。
彼女の絶望がここにある。
彼女の「信仰」は伝わらなかった。誰からも棄てられた彼女は憎悪の化身となる。彼女を救う要素はあった筈なのだ。フランスの王も。民衆も。
だがそれでも、それでもなお彼女の中に残ったのか。信仰は。ならば彼女が世界を焼いて落とす事で得られる境地とは何なのか。
豊久はそれを知ってか知らずかその絶望を打ち砕く。希望を与えるのではない。再三書いている気もするが豊久達の思想の基本にあるのは無常である。もしかしたら豊久がジャンヌを殺す事が逆説的に彼女の救いになったかもしれない。だがそれすら豊久は許さなかった。「女である事」。その一点で彼女を敵ですらないと断じ、「「帰って紅でもつけろ」と彼女を只の女でしかないと切って捨て去るのだ。これは考えようによっては、とても恐ろしい事である。
ジル・ド・レは「地獄で待つ」「良い旅を」と彼女に言い残し滅んだ。だが彼女は素直に死ぬ事すら赦されないのではないか。
漂流者と廃棄物の戦い。これは単なる殺し合いだけではない、存在意義そのものの戦いなのかもしれない。
遂に北壁組と廃城組が出揃った。新たな局面を迎える。
以下次号。
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