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【昭和:その2】

2008-09-10 14:40:48 | 2 IT用語集
【昭和:その2】

高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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日本の歴史



大正時代
【昭和時代 :その2】
平成




[編集] 戦後復興と高度経済成長

[編集] 概観
太平洋戦争降伏後、1952年(昭和27年)まで連合国軍の軍事占領下におかれたが、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄・奄美諸島・トカラ列島の下7島・歯舞諸島・千島列島・樺太・小笠原諸島を除き日本政府がおこなう間接統治がおこなわれた。連合国軍最高司令官総司令部はプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米感情を統御した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。

1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。このため現在日本では徴兵制は憲法違反として実施されない。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政への関与は禁じられた。

またGHQの主導により農地改革、財閥解体、労働組合結成の促進、教育基本法制定などの戦後改革が実施された。

太平洋戦争によって著しく落ち込んだ経済は、朝鮮戦争・ベトナム戦争をきっかけとして回復し、さらに1960年(昭和35年)から1970年代初頭まで高度経済成長を遂げ、アメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、農地改革や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場におかれていた労働者や農民が大消費者層として解放され、国内市場が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、家電、自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人びとが豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたるオイルショックを境に高度経済成長時代は終焉し、安定成長時代を経てバブル景気へと突入した。

また、日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年(昭和26年)に日本国との平和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ合衆国軍の駐留をそのまま継続するとともに、事実上の再軍備をおこなった。冷戦期には米国と同盟してソ連に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。


[編集] GHQによる占領
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南樺太、南洋群島・千島列島を失った。このうち、千島列島については、様々な説があるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。

1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国(GHQ)に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続をおこなっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放および被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。

連合国 の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。

日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張をおこなったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、1951年(昭和26年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。

占領期間中の制定だが(後の押し付け憲法説に)、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊が日本国憲法の平和原則に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。

大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理もおこなわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動をおこなった。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージがおこなわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。

文化面においては、映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語については1946年(昭和21年)の現代かなづかい・当用漢字の制定や、新聞の検閲などがおこなわれ、制限されることとなった。


[編集] 講和後~昭和後期

東京タワー、1958年(昭和33年)竣工自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年代半ばから1970年代初頭まで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、日本万国博覧会(大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。

この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、駐留国負担(近年は思いやり予算と呼ばれることがある)の出費も大きく、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。

急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。

一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、当時流行した新左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となるなかで、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。

戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。

一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしにおこなわれたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。

大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。

しかしオイル・ショックを境に、円高問題の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、低成長の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前のバブル景気に突入した。だが、その繁栄はやがて到来するデフレ(マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。

以上のように、戦争そして敗戦と民主化、経済成長など、昭和の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉のときには新聞をはじめ、さまざまな方面から激動の昭和と評された。


[編集] 略年表

[編集] 昭和前期
1927年(昭和2年):昭和金融恐慌
1928年(昭和3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施
1929年(昭和4年):世界恐慌
1930年(昭和5年):金輸出解禁
1931年(昭和6年):柳条湖事件、満州事変
1932年(昭和7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件
1933年(昭和8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退
1935年(昭和10年):天皇機関説問題
1936年(昭和11年):二・二六事件、日独防共協定締結
1937年(昭和12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。
1938年(昭和13年):国家総動員法制定
1939年(昭和14年):ノモンハン事件、ドイツがポーランドに侵攻
1940年(昭和15年):日独伊三国軍事同盟締結、大政翼賛会結成
1941年(昭和16年):12月8日 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)、日ソ中立条約
1945年(昭和20年):3月9日-10日 東京大空襲(他に12日名古屋大空襲、13-14日大阪大空襲、17日神戸大空襲等)
同年:4月1日 米軍が沖縄本島に上陸(沖縄戦)、地上戦となる。6月23日、日本軍の組織的戦闘が終わる(慰霊の日)
同年:広島市(8月6日)長崎市(8月9日)に原子爆弾投下、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告(8月9日)、千島・樺太に侵攻

[編集] 昭和中期
1945年(昭和20年):ポツダム宣言受諾、8月15日 玉音放送。終戦(終戦記念日)。
1946年(昭和21年):1月1日 天皇の人間宣言。11月3日、日本国憲法公布
1947年(昭和22年):5月3日 日本国憲法施行、地方自治法成立
1948年(昭和23年):4月3日 朝鮮の済州島で大量虐殺(済州島四・三事件)が発生。島民が日本に多数流入。6月28日、福井地震発生
1949年(昭和24年):ドッジ・ライン実施
1950年(昭和25年):朝鮮戦争が発生。日本は朝鮮特需により経済復興が加速
1951年(昭和26年):サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印
1952年(昭和27年):日米行政協定
1953年(昭和28年):テレビの本放送開始
1954年(昭和29年):3月1日 ビキニ環礁で水爆実験、第五福竜丸の乗組員が被曝する
1955年(昭和30年):自由党と民主党が合併し自由民主党、右派と左派が合併した日本社会党が設立(55年体制)。神武景気
1956年(昭和31年):日ソ共同宣言、12月18日 国際連合加盟
1957年(昭和32年):なべ底不況
1958年(昭和33年):岩戸景気
1959年(昭和34年):皇太子明仁(のちの今上天皇)が正田美智子と結婚
1960年(昭和35年):2月23日 徳仁親王(のちの皇太子)誕生。6月19日 日米安全保障条約改定
1961年(昭和36年):農業基本法制定
1962年(昭和37年):オリンピック景気
1963年(昭和38年):国産初の30分テレビアニメである鉄腕アトム放映開始
1964年(昭和39年):10月1日 東海道新幹線開通。10月10日~10月24日 東京オリンピック開催

[編集] 昭和後期
1965年(昭和40年):日韓基本条約を結ぶ
1966年(昭和41年):日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気
1968年(昭和43年):12月10日 三億円事件
1969年(昭和44年):サザエさん放映開始
1970年(昭和45年):3月14日~9月13日、日本万国博覧会開催。よど号ハイジャック事件
1971年(昭和46年):環境庁設置。
1972年(昭和47年):札幌オリンピック開催。 2月19日 あさま山荘事件。3月15日 山陽新幹線・新大阪~岡山間開通。5月15日 沖縄返還。9月29日 日中共同声明
1973年(昭和48年):第一次オイルショック
1975年(昭和50年):3月10日 山陽新幹線・岡山~博多間開通。
1976年(昭和51年):ロッキード事件
1978年(昭和53年):日中平和友好条約
1979年(昭和54年):第二次オイルショック。ドラえもん(第2作)放映開始
1982年(昭和57年):東北新幹線・上越新幹線開通
1983年(昭和58年):東京ディズニーランド開園・日本海中部地震発生
1985年(昭和60年):日本電信電話公社・日本専売公社が民営化、日本電信電話(NTT)・日本たばこ産業(JT)の発足。日本航空123便墜落事故。プラザ合意。
1987年(昭和62年):この年からバブル景気(平成景気)が始まる。国鉄が分割民営化、JRグループの発足。ルーブル合意。仙台市営地下鉄南北線開業
1988年(昭和63年):リクルート事件
1989年(昭和64年/平成元年):昭和天皇崩御。平成に改元。激動の昭和が幕を閉じる。


[編集] その他
大正天皇が崩御して、東京日日新聞(現:毎日新聞)が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され、大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている(光文事件参照)。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)12月8日時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「」を参考とする最終案が決定していた事が明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年(昭和51年)9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」[1] )。
昭和の「昭」の漢字は今でこそ誰でも知っているポピュラーな漢字だが、当時はほとんど使用されることのない、誰も見たこともない漢字であったという。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「章和」とする変更意見が出された程である。しかし「章和」は過去漢と高昌で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある(ただ、ソニーの創立者の一人、盛田昭夫は1921年(大正10年)生まれである)
干支を見て分かるように、史上還暦を迎えた元号は日本の昭和と中国の康熙だけである(昭和は丙寅で『還暦』している)。
1926年(大正15年)12月25日に出生した新生児は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年の1927年(昭和2年)生)ケースが多発した。植木等、関根潤三らがこうしたケースに当たる。

[編集] 現代における「昭和」
2007年(平成19年)から毎年4月29日(昭和天皇の誕生日で、崩御後はみどりの日と呼ばれていた)は昭和の日に変更された。

大正デモクラシーの影響を受けた政治的、文化的に自由な、民主的時代から、軍国主義的な雰囲気に満ちた戦中、そして敗戦。日本国憲法、民主主義が成立し、戦後の焼け野原から、高度経済成長を経た世界で最も豊かな国へというまさに激動の六十余年であった昭和時代は様々な世代に様々な印象となって残っている。例えば「昭和」と聞いて戦争を連想する者もいれば、高度経済成長時代の希望に満ちた雰囲気を連想する者もいる。

現代、昭和時代(主に昭和30年~40年代、つまり1955年~1975年)にノスタルジアを抱く人が増えていると言われている(昭和ノスタルジー。詳細は#関連項目からリンク先を)。時代の変化が進んだ事や、人とのつながりが希薄になり、また未来へ希望を抱けない時代背景があると思われる。昭和の古い町並みを活かし、観光地化を進めている町もある。




最終更新 2008年8月29日 (金) 00:48。Wikipedia®


















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【昭和】その1

2008-09-10 14:23:32 | 2 IT用語集
【昭和】その1

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この項目では日本の元号について記述しています。長渕剛の音楽アルバムについては昭和 (アルバム)をご覧ください。
日本の歴史


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表示・ノート・編集・履歴

昭和天皇昭和(しょうわ)は、20世紀の日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間であった1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日までの期間を指す。昭和64年まで続き、これは日本の元号のなかでは、最も長い。ただし、実際の期間は昭和元年と64年が共に1週間のみであったため、厳密には62年2週間である。

目次 [非表示]
1 改元
2 出典
3 時代の流れ
3.1 昭和初期
3.2 太平洋戦争
  【昭和:その1】はここまで





【昭和:その2】はここから 

3.3 戦後復興と高度経済成長
3.3.1 概観
3.3.2 GHQによる占領
3.3.3 講和後~昭和後期
4 略年表
4.1 昭和前期
4.2 昭和中期
4.3 昭和後期
5 西暦との対照表
6 その他
7 現代における「昭和」
8 昭和を冠するもの
8.1 企業・団体
8.2 教育・学校
8.3 地名
8.4 公園
8.5 曲
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク



[編集] 改元
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚のため改元。この際、東京日日新聞が『新元号は光文』と誤報した(光文事件を参照)
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御。皇太子明仁親王(今上天皇)即位のため、元号法の規定に基き元号を改める政令(昭和64年1月7日政令第1号)が公布、翌1月8日施行され、平成に改元された。

[編集] 出典
「昭和」の由来は、四書五経のひとつ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者吉田増蔵の考案。なお江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。

国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。


[編集] 時代の流れ
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。もっとも、政党政治を嫌ったのは官僚勢力だったとする説もある。


[編集] 昭和初期
第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻禮次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。

一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。

田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤高明内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一はみずから外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議がおこなわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。

そのような状況下の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因のひとつとなった。

1930年(昭和5年)、米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。

1931年(昭和6年)には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。政府の戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満州建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。 また1932年(昭和7年)には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年(昭和11年)に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。 1937年(昭和12年)には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、日中戦争(支那事変)が始まった。日中戦争(支那事変)がはじまると、中国では蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立し、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。ヨーロッパでは1939年(昭和14年)9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。

戦線の拡大に従って広田内閣・林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。

国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。


[編集] 太平洋戦争
日中戦争開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年(昭和15年)10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯国昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年(昭和16年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。

アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・イタリア王国と日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争とした)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。 アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。

1941年(昭和16年)12月8日(アメリカ時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。

1942年(昭和17年)、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。

当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。

日本海軍は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散し、国民義勇隊に改組された。

1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年(昭和20年)3月10日には、大量無差別の東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。翌1945年(昭和20年)7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。核の被害実験、ソビエト連邦への軍事力の誇示、自軍の被害軽減、戦争の早期終結など様々な理由から、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下が行われた(当初は京都に投下される予定だった)。次いでソビエト連邦軍が条約を一方的に破棄し対日参戦、万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。

日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布告(ソ連対日参戦)し、満州に進撃した。満州では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満州での大規模な略奪行為も頻発するに至った。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じる事となる。日本は連合国側の降伏勧告をポツダム宣言として受け入れ、日本降伏の意思は翌8月15日正午、昭和天皇みずからの日本放送協会のラジオ放送いわゆる玉音放送により日本国民に伝えられた。

こうして日本だけでも3百万の、関係諸国を入れると2~3千万(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。



[編集] 外部リンク
昭和の日 オフィシャルサイト(民間団体によるウェブサイト)
ウィキソースに元号を昭和と改元する詔書の原文があります。
ウィキソースに昭和の称呼を定めた告示の原文があります。
日本の元号
前の元号: 次の元号:
大正 平成
ウィキソースに改元ノ詔書の原文があります。"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C" より作成
カテゴリ: 日本の元号 | 昭和時代

最終更新 2008年8月29日 (金) 00:48。Wikipedia®




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【中央公論新社】

2008-09-10 13:36:54 | 29 出版社総覧(マスコミへの道)
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【中央公論新社】

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株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。略称は中公(ちゅうこう)。

本項では旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。

目次 [非表示]
1 沿革
2 雑誌
3 レーベル
4 漫画
5 その他
6 関連項目
7 外部リンク



[編集] 沿革
1886年(明治19年)に京都・西本願寺の有志が集まり「反省会」を設立(中央公論新社はこの年を創業としている)。翌1887年、反省会は「反省会雑誌」を創刊(後に「中央公論」と改題)。1896年、東京に移転し、1914年に「中央公論社」と改名、1926年に株式会社化した。

「中央公論」は大正デモクラシーを代表する総合雑誌として部数を伸ばした。1916年には「婦人公論」を創刊。両誌とも第二次世界大戦後、刊行を続けている。

中央公論社は1990年代に経営危機に陥ったため、読売新聞社(現読売新聞東京本社)が救済に乗り出し、1999年に読売の全額出資によって新社が設立され、営業を譲り受ける。2002年の読売グループ再編により新設されたグループ持ち株会社読売新聞グループ本社の子会社となって現在に至る。

旧中央公論社は1999年2月1日付で株式会社平成出版(へいせいしゅっぱん)に商号変更、同年8月23日に解散。同年12月27日に特別清算開始。2001年9月1日に清算が終了し、完全消滅した。


[編集] 雑誌
中央公論
婦人公論
※なお、読売ウィークリー等は移籍することなく従来どおり読売新聞社から発行されている。


[編集] レーベル
中公新書
1962年に創刊。他の新書と比べて、学術的性格が強い。
中公叢書(―そうしょ)
1967年1月に創刊。ソフトカバー。四六判。絶版が相当多い。文庫化したのもある。内容は本家の中公新書と大差が無いが、論文を集めたある程度厚みのある著書が多い。
中公文庫
1973年に創刊。初版のみで品切絶版が相当多いので、古書価の高いのが多数ある。
C★NOVELS(しいのべるす)
1982年11月に創刊した新書。ソフトカバー。大衆文学,ライトノベルズを収録する。茅田砂胡の一連の著作はドル箱である。
中公新書ラクレ
2001年3月に創刊した新書。ソフトカバー。「ラクレ」(La Clef)とはフランス語で「鍵」の意である。中公新書のやや軽めの姉妹本。
『読売新聞』に掲載された記事の新書化が多い。『読売』と『朝日新聞』の戦後の社説を比較して、後者の進歩主義、平和主義、護憲主義を厳しく批判した『読売vs朝日――社説対決50年』は、その象徴と言える。しかし、それは朝日新聞社の出版部門が同社の論調を反映していることと同じであり、中央公論新社が読売新聞のグループ会社である以上、自然なことであることといえるだろう。だが、『若者はなぜ怒らなくなったのか』(荷宮和子)や『ぷちナショナリズム症候群』(香山リカ)など、読売新聞の論調と相容れない著作も多く出ている。
中公文庫BIBLIO
2001年に創刊。価格は高い、詳細は中公文庫を参照。

[編集] 漫画
1980年代から90年代にかけて名作漫画をまとめた「中公愛蔵版」を多数出版した。これは2~4cmほどの厚さで、一冊にまとまっているので買いやすいということで、支持を集めた。また、藤子不二雄の漫画の全集である藤子不二雄ランドや石ノ森章太郎の「日本の歴史」シリーズを出版したのもこのころである。

1990年代後半になって、文庫の漫画が流行したことから、愛蔵版シリーズの作品の多くは中公文庫に移行した。


[編集] その他
『世界の歴史』『日本の歴史』 - 各分野の専門家による本格的な概説書シリーズ。当初の創刊には宮脇俊三が関与していた。

[編集] 関連項目
宮脇俊三(元常務。退職して紀行作家へ転身)
嶋中鵬二(元社長)
村松友視
服部之総出版部長
木佐木勝
福山秀賢
田中西二郎
柚登美枝
栗本和夫
杉森久英
本多秋五
林達夫
清水幾太郎
谷川徹三
京谷秀夫
綱淵謙錠
大宅歩
井出孫六
塙嘉彦
春名徹
水口義朗
利根川裕
伊吹和子
古泉敏雄
谷崎潤一郎賞
婦人公論文芸賞
中央公論文芸賞
吉野作造賞
読売・吉野作造賞

[編集] 外部リンク
中央公論新社
[表示]表・話・編・歴読売新聞グループ

本社所在地 東京(読売新聞東京本社)1 | 大阪(読売新聞大阪本社)1 | 福岡(読売新聞西部本社)1

支社所在地 名古屋(読売新聞中部支社) | 札幌(読売新聞北海道支社) | 高岡(読売新聞北陸支社)

主な刊行紙・刊行雑誌 読売新聞 | ザ・デイリー読売 | 読売ウイークリー | 大相撲 | 読売新聞縮刷版 | 読売新聞衛星版 | 中央公論 | 婦人公論

読売新聞社以外の新聞社 報知新聞社(スポーツ報知) | 福島民友新聞2

出版社 中央公論新社1 | 旅行読売出版社

主要放送局3 日本テレビ | 読売テレビ | BS日テレ | CS日本 | RFラジオ日本

映像制作事業 読売映像

広告事業 読売メディアセンター | 読売エージェンシー | 読宣4 | 読売連合広告社4 | 大阪読売広告社4

折込広告事業 読売情報開発 | 読売インフォメーションサービス | ヨミックス5

人材派遣事業 東京読売サービス | 大阪読売サービス | ヨミックス5

コンピュータソフトウェア開発事業 よみうりコンピュータ | 読売システック

印刷事業 東京メディア制作

スポーツ・レジャー関係事業 読売ジャイアンツ1 | 日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ、日テレ・ベレーザ)6 | よみうりランド | よみうりカントリークラブ

小売・不動産事業関係 プランタン銀座7 | 読売不動産

引越運送会社 読売引越センター

文化事業関係 読売旅行 | 読売・日本テレビ文化センター | 財団法人 読売日本交響楽団 | 学校法人 読売理工学院 | 専門学校 読売自動車大学校 |
社会福祉法人 読売光と愛の事業団 | 読売育英奨学会

海外現地法人 読売香港有限公司

関連人物 正力松太郎 | 正力亨 | 務臺光雄 | 竹井博友 | 小林與三次 | 渡邉恒雄 | 氏家齊一郎 | 黒田清 | 大谷昭宏 | 長嶋茂雄

関連項目 NNN | NNS | コボちゃん | yorimo | 新s

1中核子会社5社(読売新聞社も参照されたし)
2福島県の地方紙
3主要な放送局のみ掲載
4大阪本社が出資
5北海道を中心に折り込み広告事業、人材派遣事業を行う会社
6日本テレビ100%の子会社
7建物の所有のみ行う。小売の運営は事実上、三越が中心となって支援している


"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E8%AB%96%E6%96%B0%E7%A4%BE" より作成
カテゴリ: 日本の出版社 | 東京都の企業 | 中央公論新社 | 読売グループ | 京都府の出版社


最終更新 2008年8月30日 (土) 01:54。

【大山 (鳥取県)】

2008-09-10 13:36:15 | 2 IT用語集
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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【大山 (鳥取県)】

大山



大山の位置

①■■(だいせん)は、鳥取県の大山町・伯耆町・江府町・琴浦町・米子市・倉吉市・北栄町・岡山県真庭市にまたがる国内有数規模の標高②■■■■mの成層複成火山。

古来より日本四名山に数えられた。また、登山家 ③■■■■選出の日本百名山の一つであり、日本百景にも選定されている。

[編集] 地理・概要
大山の主峰は④■■■(けんがみね、1729m)。中国地方の最高峰であり、石川県の白山から島根県の三瓶山、大分県の由布岳・九重山に連なる⑤■■■■■の名前の由来となった火山(ただし、現在はこのような火山帯の区分は使われておらず、大山は⑥■■■火山帯の一部とされている。)。山容は東西約40km、南北約35km、総体積120km2を越える。

なお、大山とは一般的に主峰の剣ヶ峰~三鈷峰と外輪山の烏ヶ山・矢筈ヶ山・甲ヶ山・勝田ヶ山・船上山を総称しての名称でもあるが岡山県との境にある擬宝珠山・上、中、下蒜山や皆ガ山なども含めて表すことも多く、専門家には同じ山系に位置づけられる。現存する大山に関する最も古い記述は⑦■■■■■の国引き神話で、三瓶山(島根県)と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。出雲風土記中には「火神岳」(ほのかみだけ)と記されている。


[編集] 外部リンク

国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:伯耆大山 (南西)

[隠す]表・話・編・歴 

【日本百名山】

北海道 利尻岳 - 羅臼岳 - 斜里岳 - 阿寒岳 - 大雪山 - トムラウシ山 - 十勝岳 - 幌尻岳 - 後方羊蹄山

東北 岩木山 - 八甲田山 - 八幡平 - 岩手山 - 早池峰 - 鳥海山 - 月山 - 朝日岳 - 蔵王山 - 飯豊山 - 吾妻山 - 安達太良山 - 磐梯山 - 会津駒ヶ岳 - 魚沼駒ヶ岳 - 平ヶ岳 - 巻機山 - 燧ヶ岳

関東 至仏山 - 谷川岳 - 苗場山 - 妙高山 - 高妻山 - 男体山 - 奥白根山 - 那須岳 - 皇海山 - 武尊山 - 赤城山 - 草津白根山 - 四阿山 - 浅間山 - 筑波山 - 丹沢山

中部山岳 白馬岳 - 五竜岳 - 鹿島槍ヶ岳 - 剣岳 - 立山 - 薬師岳 - 黒部五郎岳 - 黒岳 - 鷲羽岳 - 槍ヶ岳 - 穂高岳 - 常念岳 - 笠ヶ岳 - 焼岳 - 乗鞍岳 - 御嶽 - 美ヶ原 - 霧ヶ峰 - 蓼科山 - 八ヶ岳 - 雨飾山 - 両神山 - 雲取山 - 甲武信岳 - 金峰山 - 瑞牆山 - 大菩薩岳 - 富士山 - 天城山 - 木曽駒ヶ岳 - 空木岳 - 恵那山 - 甲斐駒ヶ岳 - 仙丈岳 - 鳳凰山 - 北岳 - 間ノ岳 - 塩見岳 - 悪沢岳 - 赤石岳 - 聖岳 - 光岳 - 白山 - 火打山

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【大山 (鳥取県)】

大山

春の大山(とっとり花回廊より)
標高 1,729m
位置 北緯35度22分16秒
東経133度32分24秒
所在地 鳥取県大山町など
山系 大山山系
種類 成層複成火山
表・話・編・歴

大山の位置大山(だいせん)は、鳥取県の大山町・伯耆町・江府町・琴浦町・米子市・倉吉市・北栄町・岡山県真庭市にまたがる国内有数規模の標高1,729mの成層複成火山。

古来より日本四名山に数えられた。また、登山家 深田久弥選出の日本百名山の一つであり、日本百景にも選定されている。

目次 [非表示]
1 地理・概要
2 形成過程と現況
3 生物
4 特色・名所
5 登山ガイド
6 ギャラリー
7 関連項目
8 外部リンク



[編集] 地理・概要
大山の主峰は剣ヶ峰(けんがみね、1,729m)。中国地方の最高峰であり、石川県の白山から島根県の三瓶山、大分県の由布岳・九重山に連なる大山火山帯の名前の由来となった火山(ただし、現在はこのような火山帯の区分は使われておらず、大山は西日本火山帯の一部とされている。)。山容は東西約40km、南北約35km、総体積120km2を越える。

なお、大山とは一般的に主峰の剣ヶ峰~三鈷峰と外輪山の烏ヶ山・矢筈ヶ山・甲ヶ山・勝田ヶ山・船上山を総称しての名称でもあるが岡山県との境にある擬宝珠山・上、中、下蒜山や皆ガ山なども含めて表すことも多く、専門家には同じ山系に位置づけられる。現存する大山に関する最も古い記述は出雲風土記の国引き神話で、三瓶山(島根県)と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。出雲風土記中には「火神岳」(ほのかみだけ)と記されている。


[編集] 形成過程と現況
180万年前から50万年前にかけて噴火形成された巨大な成層火山である古期大山のカルデラ上に、5万年~1万年前にかけて成長した巨大な溶岩ドームである新期大山から成る。裾野は広大で日本海に達している。新期大山は過去数回にわたり破滅的な大噴火を起こしている。中でも5万年前に起きた噴火は大規模なプリニー式噴火で、大量の火山灰や軽石、火砕流を噴出した。この時の火山灰は偏西風に乗って遠く福島県まで降り注いでおり、関東地方でも目立つ広域テフラとして大山倉吉軽石(DKP)と呼ばれ、地層の地質年代を特定する指標となっている。2万年前の噴火では弥山、三鈷峰、烏ヶ山の3つの溶岩ドームが形成され、再び大量の火砕流が噴出した。最後の噴火は約1万年前で、有史以後の噴火記録は残されていないが、火山の一生は非常に長く、特に大山の長い活動史から考えると1万年程度の休止で完全に活動停止したと考えるのは妥当ではない。

日本海に面した厳しい環境のため、特に山頂付近の崩壊は激しい。特に2000年10月に発生した鳥取県西部地震以降、縦走路などの崩壊が進んでいる。 また毎年200万人以上の登山者の影響で夏山登山道はオーバーユーズ気味であり、かっては山頂一帯が荒廃しつつあった、しかし一木一石運動などの自然保護活動が地道に行われた結果、徐々に自然を回復しつつある。





[編集] 生物
大山の亜高山帯にはブナの天然林が広がり、そこより低い場所ではミズナラやシデを中心とした植生が広がる。また、イヌワシやクマタカやヤマネなどの野生動物も多数生息していることから国指定大山鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積5,156ha、うち特別保護地区2,266ha)。


[編集] 特色・名所
西の方角(特に島根県安来市方面)からみた山容が富士山に似ていることから伯耆富士(ほうきふじ)や出雲富士(いずもふじ)の名も持つ一方、北・南壁を見ると日本一の規模の溶岩ドームによって形成された荒々しいアルペン的景観でまるで違う山に見える。一帯は大山隠岐国立公園に指定され、8合目以上には国の特別天然記念物ダイセンキャラボクの日本一の群生地、中腹には西日本一のブナの原生林があり、新緑・紅葉の季節には、崩落した岩壁とのコントラストが素晴らしい景観を生み出している。

周辺の広大な裾野にはキャンプ場・スキー場など豊富にあり、隣接の岡山県の蒜山高原と伴に四季を通じてリゾート地としての色合いが濃い。

また大山は中国地方のさまざまな地域から見る事ができる。周辺の伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後では古来からの大山信仰は根強いものがある。

出雲国風土記によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたと言われ、山腹に大神山神社奥宮や大山寺・阿弥陀堂がある。明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領として大いに栄え、一般人の登山は禁止されていた。


[編集] 登山ガイド
夏山登山道から1,710mピークである実質上の山頂弥山にある山頂小屋付近までは登山可能であるが、そこから一等三角点地点や最高点の剣ヶ峰方面へは、稜線が両サイドとも崩落しており縦走は禁止されている。これは特に鳥取県西部地震以降、山肌の崩落が激しくなって危険なためである。しかし、毎年無謀な縦走を試みる人が後を絶たず、死傷事故も発生している。地形は毎年変化しており、過去の情報が通用しない場合があることを銘記されたい。

登山コースは数種あるが、大山寺や下山キャンプ場から入る夏山登山道が一般的で登山者も最多である。ついで元谷~ユートピア避難小屋ルート、また船上山~甲ヶ山・野田ヶ山に至る縦走路もオススメだが経験者向きである。

公共交通機関でのアプローチはJR米子駅から大山寺行きのバス(1日8往復)のほか大山るーぷバス(臨時)、JR大山口駅から大山寺行きのバス(1日6往復)、自家用車では大山寺付近の駐車場(スキーシーズン以外は無料開放)から徒歩での登山が一般的。


[編集] ギャラリー

剣が峰、大山最高峰

大山北壁 (1)

大山北壁 (2)

大山南壁


北東側より見た大山頂上

大山頂上付近のお花畑

大山頂上付近のダイセンキャラボク群生

大山山麓の大山寺本堂


大山山麓の大神山神社

西方から見た大山

高空より見る大山。険しい岩肌の崩壊の様子が良く分かる。

大山全景


大山西面



[編集] 関連項目
ウィキメディア・コモンズには、大山 (鳥取県) に関連するマルチメディアがあります。中国山地
郷土富士
大山の背比べ
各都道府県の最高峰(鳥取県)

[編集] 外部リンク
国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:伯耆大山 (南西)
[隠す]表・話・編・歴日本百名山

北海道 利尻岳 - 羅臼岳 - 斜里岳 - 阿寒岳 - 大雪山 - トムラウシ山 - 十勝岳 - 幌尻岳 - 後方羊蹄山

東北 岩木山 - 八甲田山 - 八幡平 - 岩手山 - 早池峰 - 鳥海山 - 月山 - 朝日岳 - 蔵王山 - 飯豊山 - 吾妻山 - 安達太良山 - 磐梯山 - 会津駒ヶ岳 - 魚沼駒ヶ岳 - 平ヶ岳 - 巻機山 - 燧ヶ岳

関東 至仏山 - 谷川岳 - 苗場山 - 妙高山 - 高妻山 - 男体山 - 奥白根山 - 那須岳 - 皇海山 - 武尊山 - 赤城山 - 草津白根山 - 四阿山 - 浅間山 - 筑波山 - 丹沢山

中部山岳 白馬岳 - 五竜岳 - 鹿島槍ヶ岳 - 剣岳 - 立山 - 薬師岳 - 黒部五郎岳 - 黒岳 - 鷲羽岳 - 槍ヶ岳 - 穂高岳 - 常念岳 - 笠ヶ岳 - 焼岳 - 乗鞍岳 - 御嶽 - 美ヶ原 - 霧ヶ峰 - 蓼科山 - 八ヶ岳 - 雨飾山 - 両神山 - 雲取山 - 甲武信岳 - 金峰山 - 瑞牆山 - 大菩薩岳 - 富士山 - 天城山 - 木曽駒ヶ岳 - 空木岳 - 恵那山 - 甲斐駒ヶ岳 - 仙丈岳 - 鳳凰山 - 北岳 - 間ノ岳 - 塩見岳 - 悪沢岳 - 赤石岳 - 聖岳 - 光岳 - 白山 - 火打山

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"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1_(%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C)" より作成
カテゴリ: 鳥取県の山 | 日本百名山 | 日本百景 | 日本の火山 | 大山町 (鳥取県) | 伯耆町 | 江府町 | 倉吉市 | 琴浦町 | 国指定鳥獣保護区












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【運慶】

2008-09-10 13:36:01 | 2 IT用語集
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【運慶】

運慶(うんけい、- 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。

目次 [非表示]
1 経歴
2 作品
2.1 運慶作と推定される作品
2.2 運慶作とする説がある作品
3 参考文献
4 注
5 関連項目



[編集] 経歴

東大寺金剛力士像運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である。長男湛慶が承安3年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。

運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来像である。寿永2年(1183年)には、以前から計画していた法華経の書写を完成した。この法華経は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人像、国宝)。経の奥書には、後に仏師として活躍することの知られる者を含む、名に「慶」字を用いる結縁者名が記されている。このことから、奈良仏師の中で、康慶の一門が「慶派」と呼ぶべき一派を成していたことがわかる。

治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当することとなった。

成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊を造るため鎌倉に下向した。 一方、運慶は文治2年(1186年)正月に興福寺西金堂本尊釈迦如来像を完成したあと、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。

願成就院の仏像は、平安時代後期の仏像とは隔絶した、めざましい作風を示している。平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであったが、分業制で同じような仏像を量産した結果、無個性でマンネリ化した作風に陥っていた。対して運慶の作風は、仏像の男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などに特色があり、こうした作風が東国武士の好みに合致したものと推察される。運慶は、奈良に当時多く残っていた仏像の古典作品を研究し、独自の作風を切り開いたものであろう。それが願成就院諸像で開花したのは、定朝様の規範に制約されない、東国の武士発願の造像であったからと理解される。

建久7年(1196年)には康慶、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像はその後大仏殿とともに焼失して現存しない。現存する大作としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。 承元2年(1208年)から建暦2年(1212年)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と、無著・世親像を造っている。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。

最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年(1216)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院大威徳明王像を造った。


[編集] 作品

世親菩薩立像 
無著菩薩立像 運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は運慶ないし運慶工房の真作として学界にほぼ異論のないものである。

奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝) - 安元2年(1176年)
静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(重要文化財) - 文治2年(1186年)
神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財) - 文治5年(1189年)
奈良・東大寺南大門 金剛力士立像(国宝) - 建仁3年(1203年)。運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。
奈良・興福寺北円堂 弥勒仏坐像(国宝) - 建暦2年(1212年)。運慶の指導のもと源慶らが制作。
奈良・興福寺北円堂 無著菩薩・世親菩薩立像(国宝) - 建暦2年(1212年)。運慶の指導のもと運助、運賀らが制作。
神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像(重要文化財) - 建保4年(1216年)

[編集] 運慶作と推定される作品
作風、納入品、伝来などから運慶ないし運慶工房作であることが強く推定される作品として次のものがある。

奈良・興福寺 木造仏頭(重要文化財) - 文治2年(1186年)。興福寺西金堂(廃絶)旧本尊・釈迦如来像頭部。
和歌山・金剛峯寺 八大童子立像(国宝)-建久8年(1197年)
京都・六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重要文化財)
栃木・光得寺 大日如来坐像(重要文化財)
愛知・滝山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(重要文化財)-建仁元年(1201年)
東京・宗教法人真如苑蔵 大日如来坐像 - 2008年に真如苑が入手するまでは個人蔵で、2003年から2007年にかけて東京国立博物館に寄託されていた[1]。『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』に見える、樺崎寺安置の厨子に建久4年(1193年)銘のあった大日如来像に当たるもので、その作風やX線写真によって知られる像内納入品の状況から運慶作品と推定する説がある。[2]。

[編集] 運慶作とする説がある作品
奈良・東大寺俊乗堂 俊乗上人(俊乗房重源)坐像(国宝) - 造像に関する直接の史料がないが、その作風から運慶の作とする見方がある。
奈良・興福寺南円堂 四天王立像(国宝) 本来の安置堂宇について諸説があるが、興福寺北円堂の旧像とする説がある。とすれば、運慶指揮下に運慶子息4人が分担して(持国天-湛慶、増長天-康運、広目天-康弁、多聞天-康勝)制作した像に該当することになる。[3]




[編集] 参考文献
西村公朝、熊田由美子(共著) 『運慶 仏像彫刻の革命』 新潮社<とんぼの本>

[編集] 注
^ 本像は2008年3月にクリスティーズ社のオークションに出品され、ハンマープライス1,280万ドル(約12億5千万円)で在家仏教教団・真如苑が購入した。(三越が依頼を受けて落札。手数料込み価格は1,437万7千ドル・約14億円。)なお同教団は、仏像を博物館などの公共施設に預けて公開する方針で、5年後をめどに同法人の施設に移し一般参観を行う予定であり、重要文化財指定などに向けた調査・研究にも前向きに応じる意向であるという(2008年3月25日付朝日新聞記事)
^ 本像については次の文献を参照
山本勉 「新出の大日如来像と運慶」 『MUSEUM』589号(2004年4月)、東京国立博物館
^ 山本勉「南円堂四天王像の謎」『週刊朝日百科日本の国宝』57号、朝日新聞社、1998

[編集] 関連項目
快慶
湛慶
重源
行勝
文覚
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E6%85%B6" より作成
カテゴリ: 仏師 | 12世紀の美術家 | 13世紀の美術家 | 1224年没

最終更新 2008年6月7日 (土) 13:49。











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【9月9日】

2008-09-10 13:34:29 | 2 IT用語集
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①■■■■(くがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から252日目にあたり、年末まであと113日ある。

1886年 -②■■■条約締結。
1948年 -③■■■■■■■■■■■ 成立。
1987年 - ④■■■■■■が全線開通
1991年 - ⑤■■■■■■がソビエト連邦より独立。

[編集] 誕生日
1828年 -⑥ ■■・トルストイ、小説家(+ 1910年)
1890年 - カーネル・サンダース、⑦■■■■■■フライドチキン創業者(+ 1980年)
1902年 - ⑧■■忠二、地球物理学者(+ 1982年)
1918年 -⑨ ■■圭三、アナウンサー、司会者(+ 2002年)
1936年 -⑩■■陽一郎、科学史家・科学哲学者・東大名誉教授・ICU教授
1947年 - ⑪■■憲史、漫画家


[編集] 忌日
1087年 - ウィリアム征服王、⑫■■■■■■のノルマン朝の開祖 (* 1027年)
1289年(正応2年8月23日) - ⑬■■、僧、時宗開祖(* 1239年)
1693年(元禄6年8月10日) - ⑭■■■■、浮世草子・人形浄瑠璃作家(* 1642年)
1976年 - ⑮■■■、中国共産党指導者(* 1893年)
1995年 -⑯■■■■、推理作家(* 1920年)


[編集] 記念日・年中行事
⑰■■■■■・デー(日本)
ケンタッキーフライドチキンの創業者であるカーネル・サンダースが1890年9月9日に生まれたことを記念して、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が制定。
⑱■■■■(日本)
9月9日の「99」が「きゅうきゅう」と読めることから。
救急医療の大切さを理解してもらおうと、1982年に厚生省(現厚生労働省)と消防庁が制定。
救急業務や救急医療について一般の理解と認識を深め、救急医療関係者の士気を高める日。
⑲■■■■■/菊の節句(日本・中国)
陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから重陽と呼ばれ、たいへんめでたい日とされる。
菊の花を飾ったり酒を飲み交わしたりして祝った。


[編集] 誕生日
1947年 - ⑳■■■■、漫画『課長島耕作』『部長島耕作』『常務島耕作』『ヤング島耕作』に登場するキャラクター

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記念日・年中行事
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9月9日(くがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から252日目(閏年では253日目)にあたり、年末まであと113日ある。







[編集] できごと
270年 - アウレリアヌス、ローマ皇帝に即位
1884年 - エリック・サティ、アレグロを完成させる。
1886年 - ベルヌ条約締結。
1945年 - 支那事変(日中戦争)停止 中国大陸の中国派遣軍無条件降伏。中国派遣軍を代表する冈村宁次が以下の内容の降伏文書に南京で署名した。image
1948年 - 朝鮮民主主義人民共和国成立。
1964年 - 池田勇人首相が喉頭癌の治療のため国立がんセンターに入院。
1987年 - 東北自動車道が全線開通
1991年 - タジキスタンがソビエト連邦より独立。
1991年 - SMAPがシングル『Can't Stop!! -LOVING-』で歌手デビュー。
2001年 - 2001年9月9日問題

[編集] 誕生日
384年 - ホノリウス、西ローマ皇帝(+ 423年)
1466年(文正元年7月30日) - 足利義稙(義材)、室町幕府第10代将軍(+ 1523年)
1585年 - リシュリュー、フランス宰相(+ 1642年)
1618年 - ジョアン・セレロールス、作曲家・ベネディクト会修道士(+ 1680年)
1778年 - クレメンス・ブレンターノ、小説家・詩人(+ 1842年)
1828年 - レフ・トルストイ、小説家(+ 1910年)
1858年 - カール・ヴェルスバッハ、化学者(+ 1929年)
1878年 - セルヒオ・オスメニャ、第4代フィリピン大統領(+ 1961年)
1878年 - 酒井田柿右衛門〈12代目〉陶芸家(+ 1963年)
1890年 - カーネル・サンダース、ケンタッキーフライドチキン創業者(+ 1980年)
1901年 - 小熊秀雄、詩人(+ 1940年)
1902年 - 坪井忠二、地球物理学者(+ 1982年)
1909年 - 雍仁親王妃勢津子、日本の皇族(+ 1995年)
1915年 - 塩田剛三、武道家・養神館合気道開祖(+1994年)
1918年 - 高橋圭三、アナウンサー、司会者(+ 2002年)
1923年 - 岩河三郎、作曲家
1924年 - 永井陽之助、政治学者
1927年 - エルビン・ジョーンズ、ジャズドラム奏者(+ 2004年)
1928年 - ソル・ルウィット、美術家(+ 2007年)
1932年 - 小室直樹、政治学者、社会学者
1935年 - 料治直矢、ジャーナリスト(+ 1997年)
1935年 - 平井道子、女優・声優(+ 1984年)
1935年 - 兼田敏、作曲家(+ 2002年)
1936年 - 村上陽一郎、科学史家・科学哲学者・東大名誉教授・ICU教授
1941年 - 結城哲也、俳優、元チャンバラトリオ
1941年 - デニス・リッチー、UNIX OSの開発者
1945年 - 福岡政行、政治学者
1946年 - 谷隼人、俳優
1947年 - 弘兼憲史、漫画家
1949年 - ジェイムズ・バーンズ、作曲家
1951年 - 太田秀和、埼玉西武ライオンズ球団副社長・前社長兼オーナー代行
1955年 - 倉本昌弘、プロゴルファー
1958年 - 長江英和、俳優
1960年 - 梅原克文、小説家
1960年 - ヒュー・グラント、英国俳優
1962年 - 黒岩よしひろ、漫画家
1965年 - 有賀さつき、アナウンサー
1966年 - アダム・サンドラー、俳優
1967年 - 有賀照人、漫画家
1967年 - 小森哲也、元プロ野球選手
1967年 - 樋口一紀、元プロ野球選手
1970年 - 中山祐一朗、俳優
1970年 - サシャ・ピート、音楽プロデューサー、ギタリスト
1970年 - ダン・ミセリ、プロ野球選手
1971年 - TAKUYA、元JUDY AND MARY
1971年 - ロビンソン・チェコ、元プロ野球選手
1972年 - 重松朋、声優
1973年 - 石井一久、プロ野球選手・埼玉西武ライオンズ所属。
1975年 - SILVA、シンガーソングライター
1975年 - ショーン・ニコルス、俳優、タレント
1975年 - 清水章夫、プロ野球選手
1976年 - 松風雅也、俳優、声優
1977年 - 堤下敦、お笑いタレント(インパルス)
1977年 - 鈴木麻奈美、AV女優
1978年 - 和田三四郎、俳優
1979年 - 森瑠花、元ワンギャル
1980年 - 酒井若菜、タレント
1980年 - 内山敬太、ミュージシャン(ケイタク)
1981年 - 川島亮、プロ野球選手(東京ヤクルトスワローズ)
1982年 - 大塚愛、シンガーソングライター
1983年 - 淀川由浩、ジャニーズJr.、Question?のメンバー
1984年 - 飯沢もも、元AV女優
1984年 - 菊地正法、プロ野球選手
1984年 - 谷桃子、グラビアアイドル
1985年 - 田代さやか、グラビアアイドル
1985年 - J・R・スミス、プロバスケットボール選手
1986年 - 小澤絵理菜、グラビアアイドル
1987年 - 井端珠里、女優
1987年 - ユージ、ファッションモデル
1988年 - 中村静香、アイドル・美少女クラブ31・ティーンエイジクラブ
1988年 - 紅葉紅葉、AV女優
1991年 - 亀井拓、元ジャニーズJr.
1992年 - 宮城夏実、ファッションモデル
1992年 - 宇野綾菜、ファッションモデル
1992年 - 田中みいや、女優
1997年 - 日向ななみ、女優

[編集] 忌日
1000年 - オーラヴ1世、ノルウェー王(* 960年代)
1087年 - ウィリアム征服王、イングランドのノルマン朝の開祖 (* 1027年)
1289年(正応2年8月23日) - 一遍、僧、時宗開祖(* 1239年)
1487年(成化23年8月22日)- 成化帝、第9代明皇帝(* 1447年)
1513年 - ジェームズ4世、スコットランド王(* 1473年)
1569年 - ピーテル・ブリューゲル、画家(* 1525年頃)
1596年 - アンナ、ポーランド女王(* 1523年)
1612年(慶長17年8月14日)- 中川秀成、戦国武将・岡藩主(* 1570年)
1693年(元禄6年8月10日) - 井原西鶴、浮世草子・人形浄瑠璃作家(* 1642年)
1898年 - ステファヌ・マラルメ、詩人(* 1842年)
1901年 - アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、画家(* 1864年)
1915年 - アルバート・スポルディング、元メジャーリーガー・スポルディング創業者(* 1850年)
1941年 - ハンス・シュペーマン、発生学者(* 1869年)
1960年 - ユッシ・ビョルリング、テノール歌手(* 1911年)
1976年 - 毛沢東、中国共産党指導者(* 1893年)
1981年 - ジャック・ラカン、精神科医、精神分析家(* 1901年)
1985年 - アントニーノ・ヴォットー、指揮者(* 1896年)
1985年 - ポール・フローリー、化学者(* 1910年)
1990年 - サミュエル・ドウ、リベリア大統領(* 1951年)
1994年 - パトリック・オニール、俳優(* 1927年)
1995年 - 高木彬光、推理作家(* 1920年)
1997年 - リッチー・アシュバーン、元メジャーリーガー選手(* 1927年)
1999年 - キャットフィッシュ・ハンター、元メジャーリーガー(* 1946年)
1999年 - 広瀬宰、元プロ野球選手(* 1947年)
2001年 - アフメッド・シャー・マスード、アフガニスタンの軍事指導者(* 1953年?)
2001年 - 相米慎二、映画監督(* 1948年)
2003年 - エドワード・テラー、核物理学者(* 1908年)
2006年 - アルカジー・ウォリスキー、ロシア産業企業家同盟会長(* 1932年)
2007年 - 大平山濤、書家(* 1916年)

[編集] 記念日・年中行事
カーネルズ・デー(日本)
ケンタッキーフライドチキンの創業者であるカーネル・サンダースが1890年9月9日に生まれたことを記念して、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が制定。
救急の日(日本)
9月9日の「99」が「きゅうきゅう」と読めることから。
救急医療の大切さを理解してもらおうと、1982年に厚生省(現厚生労働省)と消防庁が制定。
救急業務や救急医療について一般の理解と認識を深め、救急医療関係者の士気を高める日。
昭和九年会イベントの日(日本)
毎年、東京都中央区の三越日本橋本店内にある「三越劇場」でイベントを行っている。
9にちなみ、救急車を日本橋消防署に提供している。
重陽の節句/菊の節句(日本・中国)
陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから重陽と呼ばれ、たいへんめでたい日とされる。
菊の花を飾ったり酒を飲み交わしたりして祝った。
ナインティナイン(吉本興業所属)(岡村隆史と矢部浩之のお笑いコンビ)の日(日本)
ナインティナイン⇒99⇒9月9日
ナインティナインの二人はこの日、1997年から毎年大阪でコントライブを行っている。また、当日が木曜日の場合はラジオ大阪からオールナイトニッポンを放送することになっている。
世界占いの日
日本占術協会が1999年に制定。この日になったのは様々な理由があるが、ノストラダムスの大予言の日が1999年9月9日とされていた事も理由の1つ。
チョロQの日
「9」と「Q」の語呂合わせで、Q月Q日であることから。タカラが、同社製品「チョロQ」をPRする為に作った。
九九の日
2007年3月1日に日本記念日協会が認定。個人の申請による。

[編集] フィクションのできごと
不明 - 時の交わる日という特別な日とされる。作中の暦における0015年におけるホーリーブリングの完成にはじまり二人のゲイルの誕生、デーモンカード設立、エンクレイム、そして0067年における石の戦争終結という出来事がこの日に起こっている。(漫画『RAVE』)
2012年 - 午後8時48分に、ロバート・ネビル博士がK.Vの治療法を発見。同52分、血清を守るために、M67破片手榴弾でダーク・シーカーもろとも自爆。(映画『アイ・アム・レジェンド』)

[編集] 誕生日
1947年 - 島耕作、漫画『課長島耕作』『部長島耕作』『常務島耕作』『ヤング島耕作』に登場するキャラクター
1954年 - 宇野球一・上野球二・伊集院球三郎・峠球四郎・三荻野球五・高雄球六・明智球七・明智球八・火野球九郎、漫画『アストロ球団』に登場するキャラクター
1965年(1964年) - 物星大、漫画・アニメ『ハイスクール!奇面組』に登場するキャラクター
1984年 - 大地望、アニメ『地球防衛家族』に登場するキャラクター
1988年 - 花菱美希、漫画・アニメ『ハヤテのごとく!』に登場するキャラクター
1992年 - 九条ひかり、アニメ『ふたりはプリキュア』シリーズに登場するキャラクター
1993年頃 - 獄寺隼人、漫画『家庭教師ヒットマンREBORN!』に登場するキャラクター
1994年 - 真壁愛良、漫画『ときめきトゥナイト』第3部主人公で第1部主人公・江藤(真壁)蘭世の娘
1994年 - 春風ぽっぷ、アニメ『おジャ魔女どれみ』シリーズに登場するキャラクター
2000年 - テライユキ、バーチャルアイドル
生年不明 - ウーマロ、ゲーム『ファイナルファンタジーVI』に登場するキャラクター
生年不明 - くーすけ、『ちびまる』のキャラクター
生年不明 - チェリー、『ルロロマニック』のキャラクター
生年不明 - 九龍ながつき、アニメ『HAPPY☆LESSON ADVANCE』に登場するキャラクター
生年不明 - 佐藤寿也、漫画・アニメ『MAJOR』に登場するキャラクター
生年不明 - 巳遙、漫画『密・リターンズ!』に登場するキャラクター
生年不明 - 瞬、漫画・アニメ『聖闘士星矢』に登場するキャラクター
生年不明 - 冥王ハーデス、漫画・アニメ『聖闘士星矢』に登場するキャラクター
生年不明 - 白鳥隆士、漫画・アニメ『まほらば Heartful Days』に登場するキャラクター
生年不明 - 須尭雨情、漫画・アニメ『スケッチブック』に登場するキャラクター
生年不明 - 巧美、漫画・『ストレンジ・プラス』に登場するキャラクター
生年不明 - タンタン、ゲーム『どうぶつの森』に登場するキャラクター
生年不明 - 紬屋雨、漫画・アニメ『BLEACH』に登場するキャラクター
生年不明 - 松平片栗虎、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター
生年不明 - リルム・アローニィ、ゲーム『ファイナルファンタジーVI』に登場するキャラクター
生年不明 - レイチェル・ハーベスト、ゲーム『Princess Holiday ~転がるりんご亭千夜一夜~』に登場するキャラクター
生年不明 - レオン、アーケードゲーム『クイズマジックアカデミー』シリーズに登場するキャラクター
生年不明 - 深川遥、漫画・アニメ『ラブ★コン』に登場するキャラクター
生年不明 - 小田れんげ、ニンテンドーDSソフト『どきどき魔女神判!』に登場するキャラクター
生年不明 - レン、PCゲーム『歌月十夜』に登場するキャラクター
生年不明 - キラキラ、漫画・アニメ『へろへろくん』、漫画・『特上へろへろくん』、『へろへろくんめっちゃワールド』に登場するキャラクター
生年不明 - 音無小鳥、ゲーム『THE IDOLM@STER』シリーズに登場するキャラクター

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[編集] 関連項目
365日:1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
前日:9月8日 翌日:9月10日 - 前月:8月9日 翌月:10月9日
旧暦:9月9日
記念日・年中行事
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カテゴリ: 日付


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236-0038 横浜市金沢区六浦南2-27-18-201
nakamurayoshio@gmail.com  TEL& FAX 045-701-6113
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【湯川秀樹】日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている

2008-09-10 13:34:06 | 13 用語集:①人物一覧   
【湯川秀樹】

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①■■■■(ゆかわひでき、明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士。中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年、日本人として初めての②■■■■■を受賞した。

[編集] 生い立ち
1907年、東京市麻布区市兵衛町(現・港区)に③■■■■・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。1908年、父・琢治の④■■■■大学教授就任に伴い、一家で京都に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが人生の大半は京都で過ごしたことになる。湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[1]。

祖父・駒橘は元紀州藩の武士であり、漢学の素養は豊富で、明治以後は洋学を学び晩年までずっと⑤■■■■タイムスを購読し続けた人物であるという[2]。父祖の地が和歌山であるため“和歌山県出身”と紹介されることもある。和歌山県出身の実業家松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたものである。ただし、湯川本人は和歌山で暮らした経験は無い。

5、6歳の頃母方の祖父・駒橘より漢籍の⑥■■を習った。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[3]。

1919年、⑦■■府立■■■■中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった[4]。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという[5]。同じくノーベル物理学賞を受けた⑧■■■■■は一中で一年上、三高・京大では同期だった[6]。


[編集] ノーベル賞受賞
1929年、⑨■■■■大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年京都帝国大学講師。1933年には⑩■■■■大学講師を兼担する。教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院の院長湯川家の⑪■■■となり、小川姓から湯川姓となる。

1934年、⑫■■■■■構想を発表、1935年、「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言する。この研究が評価され、1940年学士院恩賜賞受賞、1943年最年少で⑬■■■■受章。さらに1949年、⑭■■■■■■■受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。

その後も非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた(粒子を点ではなく広がりを持った領域と考えるのは、弦理論にも結びつく考えである)。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。

またその一方で、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。但し、戦前・戦中は反戦・反核ではなく、荒勝文策率いる京大グループにおいて日本の原子爆弾開発に協力した。


[編集] 晩年
1970年京都大学退官、京都大学名誉教授となる。色紙に何か書いて欲しいと頼まれるとしばしば⑮「■■■」と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。『荘子』の「秋水」の最後の一句である。1981年、肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。74歳。墓所は京都市の知恩院にある。広島平和公園にある若葉の像の台座に、湯川による短歌の銘文「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」が刻まれている。



[編集] 関連項目
パグウォッシュ会議
⑯■■振一郎
⑰■■■■■・アインシュタイン
ラッセル=アインシュタイン宣言
⑱■■■■アピール七人委員会
日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている。

[表示]表・話・編・歴日本人のノーベル賞受賞者

物理学賞 湯川秀樹 (1949) - 朝永振一郎 (1965) - ⑲■■玲於奈 (1973) - 小柴昌俊 (2002)

化学賞 福井謙一 (1981) - 白川英樹 (2000) - 野依良治 (2001) - ⑳■■耕一 (2002)

生理学・医学賞 利根川進 (1987)

文学賞 川端康成 (1968) - 大江健三郎 (1994)

平和賞 佐藤栄作 (1974)

[表示]表・話・編・歴

【ノーベル物理学賞受賞者】

J. ペラン (1926) - A. コンプトン / C. ウィルソン (1927) - O. リチャードソン (1928) - L. ド・ブロイ (1929) - C. ラマン (1930) - W. ハイゼンベルク (1932) - E. シュレーディンガー / P. ディラック (1933) - J. チャドウィック (1935) - V. ヘス / C. アンダーソン (1936) - C. ディヴィソン / G. トムソン (1937) - E. フェルミ (1938) - E. ローレンス (1939) - O. シュテルン (1943) - I. ラービ (1944) - W. パウリ (1945) - P. ブリッジマン (1946) - E. アップルトン (1947) - P. ブラケット (1948) - 湯川秀樹 (1949) - C. パウエル (1950)


1901年 - 1925年 | 1926年 - 1950年 | 1951年 - 1975年 | 1976年 - 2000年 | 2001年 - 2025年


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カテゴリ: 日本の物理学者 | ノーベル物理学賞受賞者 | 阪神間モダニズム | 東京都出身の人物 | 京都市出身の人物 | 和歌山県出身の人物 | 1907年生 | 1981年没 | 文化勲章受章者


最終更新 2008年8月15日 (金) 13:10。






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【湯川秀樹】


ノーベル賞受賞者
受賞年: 1949年
受賞部門: ノーベル物理学賞
受賞理由: 陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想

湯川秀樹(ゆかわひでき、明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士。中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年、日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 ノーベル賞受賞
1.3 晩年
2 年譜
3 受賞
4 親族
5 著書
6 弟子
7 仲間
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク



[編集] 生涯

[編集] 生い立ち
1907年、東京市麻布区市兵衛町(現・港区)に地質学者・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。1908年、父・琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが人生の大半は京都で過ごしたことになる。湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[1]。

祖父・駒橘は元紀州藩の武士であり、漢学の素養は豊富で、明治以後は洋学を学び晩年までずっとロンドンタイムスを購読し続けた人物であるという[2]。父祖の地が和歌山であるため“和歌山県出身”と紹介されることもある。和歌山県出身の実業家松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたものである。ただし、湯川本人は和歌山で暮らした経験は無い。

5、6歳の頃母方の祖父・駒橘より漢籍の素読を習った。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[3]。

1919年、京都府立京都第一中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった[4]。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという[5]。同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で一年上、三高・京大では同期だった[6]。


[編集] ノーベル賞受賞
1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年京都帝国大学講師。1933年には大阪帝国大学講師を兼担する。教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院の院長湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。

1934年、中間子理論構想を発表、1935年、「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言する。この研究が評価され、1940年学士院恩賜賞受賞、1943年最年少で文化勲章受章。さらに1949年、ノーベル物理学賞受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。

その後も非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた(粒子を点ではなく広がりを持った領域と考えるのは、弦理論にも結びつく考えである)。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。

またその一方で、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。但し、戦前・戦中は反戦・反核ではなく、荒勝文策率いる京大グループにおいて日本の原子爆弾開発に協力した。


[編集] 晩年
1970年京都大学退官、京都大学名誉教授となる。色紙に何か書いて欲しいと頼まれるとしばしば「知魚楽」と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。『荘子』の「秋水」の最後の一句である。1981年、肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。74歳。墓所は京都市の知恩院にある。広島平和公園にある若葉の像の台座に、湯川による短歌の銘文「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」が刻まれている。


[編集] 年譜
1907年 - 地質学者・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。
1908年 - 一家で京都に移住。
1919年 - 京極尋常小学校卒業
1923年 - 京都府立京都第一中学校卒業
1926年 - 第三高等学校卒業
1929年 - 京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる
1932年 - 湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。京都帝国大学講師
1933年 - 大阪帝国大学講師兼担
1934年 - 中間子理論構想を発表
1935年 - 「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言
1936年 - 大阪帝国大学理学部助教授
1938年 - 理学博士(大阪大学)
1939年 - 京都帝国大学教授
1940年 - 学士院恩賜賞受賞
1942年 - 東京帝国大学理学部教授
1943年 - 最年少で文化勲章受章
1946年 - 帝国学士院会員
1948年 - プリンストン高等学術研究所客員教授
1949年 - 同年7月コロンビア大学客員教授就任、同年10月ノーベル物理学賞受賞
1950年 - コロンビア大学教授
1953年 - 京都大学基礎物理学研究所初代所長 国際理論物理学会議京都委員
1955年 - 日本ユネスコ国内委員会委員 社団法人日本物理学会会長
1958年 - 原子力委員会参与
1970年 - 京都大学退官、京都大学名誉教授
1981年 - 死去

[編集] 受賞
1940年 - 帝国学士院恩賜賞
1941年 - 野間学術賞
1943年 - 文化勲章
1949年 - ノーベル物理学賞
1964年 - ロモノーソフ金メダル
1967年
西ドイツ プール・ル・メリット勲章
ヴァチカンローマ教皇庁 科学アカデミー勲章
1977年 - 勲一等旭日大綬章

[編集] 親族
父 小川琢治(地質学者・京大名誉教授)
母 小雪(和歌山県 小川駒橘娘)
姉 香代子、妙子
兄 芳樹(冶金学者・東大教授)、貝塚茂樹(東洋史学者・京大名誉教授、文化勲章受章)
弟 環樹(中国文学者・京大名誉教授)、滋樹
 弟 ます樹 (幼少時に死去)
妻 スミ(和歌山県 医師湯川玄洋二女)
遠縁 武田國男(実業家)

[編集] 著書
『現代の対話』((末川博,桑原武夫,梅原猛共著, 雄渾社, 1966年)
『目に見えないもの』 (講談社学術文庫, ISBN 4061580949)
『物理講義』 (講談社学術文庫, ISBN 4061581953)
『旅人 ある物理学者の回想』 (角川ソフィア文庫, ISBN 4041238013)
『本の中の世界』 (岩波新書, ISBN 4004150906)
『物理の世界』 (山田英二&片山泰久共著, 講談社現代新書, ISBN 4061154079)
『人間にとって科学とはなにか』 (中公新書, ISBN 412100132X)
『物理の世界 数理の世界』 (北川敏男共著, 中公新書, ISBN 4121002504)
『湯川秀樹著作集』(全10巻別巻1, 岩波書店)

[編集] 弟子
あまりにも著名なため、数多くの日本の物理学者の模範となっている人物が多い。 以下は、国内で著名な人物を挙げる。

林忠四郎 - 宇宙物理学者
内山龍雄 - ゲージ理論の先駆者の一人
また、孫弟子には、現在活躍する数多くの理論物理学者が含まれている。


[編集] 仲間
坂田昌一 - 大阪帝国大学時代の同僚。湯川との論文の共著も多い。

[編集] 脚注
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.10
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.44
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.49
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.92
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.87
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.88

[編集] 関連項目
パグウォッシュ会議
朝永振一郎
アルベルト・アインシュタイン
ラッセル=アインシュタイン宣言
世界平和アピール七人委員会
日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている。

[編集] 外部リンク
ノーベル賞日本人受賞者7人の偉業 湯川秀樹
湯川秀樹 ノーベル賞受賞時の記事
ノーベル賞公式サイト - 湯川秀樹の写真あり
松岡正剛の千夜千冊 - 湯川秀樹と親交のあった松岡正剛による追想
京都市名誉市民 湯川秀樹
系図でみる近現代 第28回
知魚楽について
現代科学者の任務-第10回パグウォッシュ会議に出席して
ラッセル放談録』について
湯川記念室
湯川先生のノーベル賞論文の手書き原稿と印刷版



[表示]表・話・編・歴日本人のノーベル賞受賞者

物理学賞 湯川秀樹 (1949) - 朝永振一郎 (1965) - 江崎玲於奈 (1973) - 小柴昌俊 (2002)

化学賞 福井謙一 (1981) - 白川英樹 (2000) - 野依良治 (2001) - 田中耕一 (2002)

生理学・医学賞 利根川進 (1987)

文学賞 川端康成 (1968) - 大江健三郎 (1994)

平和賞 佐藤栄作 (1974)

[表示]表・話・編・歴 ノーベル物理学賞受賞者

J. ペラン (1926) - A. コンプトン / C. ウィルソン (1927) - O. リチャードソン (1928) - L. ド・ブロイ (1929) - C. ラマン (1930) - W. ハイゼンベルク (1932) - E. シュレーディンガー / P. ディラック (1933) - J. チャドウィック (1935) - V. ヘス / C. アンダーソン (1936) - C. ディヴィソン / G. トムソン (1937) - E. フェルミ (1938) - E. ローレンス (1939) - O. シュテルン (1943) - I. ラービ (1944) - W. パウリ (1945) - P. ブリッジマン (1946) - E. アップルトン (1947) - P. ブラケット (1948) - 湯川秀樹 (1949) - C. パウエル (1950)


1901年 - 1925年 | 1926年 - 1950年 | 1951年 - 1975年 | 1976年 - 2000年 | 2001年 - 2025年


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カテゴリ: 日本の物理学者 | ノーベル物理学賞受賞者 | 阪神間モダニズム | 東京都出身の人物 | 京都市出身の人物 | 和歌山県出身の人物 | 1907年生 | 1981年没 | 文化勲章受章者


最終更新 2008年8月15日 (金) 13:10。


【9月8日】⑭■■■■デー (International Literacy Day) ⑮■■

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【9月8日】

①■■■■(くがつようか)はグレゴリオ暦で年始から251日目(閏年では252日目)にあたり、年末まであと114日ある。

[編集] できごと
1180年(治承4年8月17日) - ②■■■が伊豆国で挙兵する。
1926年 - ②■■■が国際連盟加盟国となる。
1943年 - ③■■■■の講和 (第二次世界大戦)、イタリアが連合国への無条件降伏を受諾。
1951年 - ④■■■との平和条約・日米安保条約調印。
1954年 - ⑤■■■■■条約機構(SEATO)発足。
1971年 - 中国の⑥■■がクーデター失敗、墜落死。
1982年 - ⑦■■■■■767型機が初運行。

[編集] 誕生日
B.C.30年頃 - ⑧■■■■■、イエス・キリストの母(没年不詳)
1960年 - ⑨■■美沙子、女優、エッセイスト
1963年 - ⑩■■人志(ダウンタウン)、お笑い芸人

[編集] 忌日
1519年(永正16年8月15日) - ⑪■■■■、戦国大名(* 1573年)
1981年 - ⑫■■■■、物理学者(* 1907年)
2004年 - ⑬■■勉、作家(* 1919年)

[編集] 記念日・年中行事
⑭■■■■デー (International Literacy Day)
1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育にまわす提唱をしたことを記念して、ユネスコが制定。
⑮■■(日本、2002年・2003年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が165度の時で、野草に白い露が宿り始め、秋の気配が感じられ始めるころ。



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【9月8日】

9月8日(くがつようか)はグレゴリオ暦で年始から251日目(閏年では252日目)にあたり、年末まであと114日ある。




2008年9月(長月)
日 月 火 水 木 金 土
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14 15 16 17 18 19 20
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28 29 30
365日
各月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
目次 [非表示]
1 できごと
2 誕生日
3 忌日
4 記念日・年中行事
5 フィクションのできごと
5.1 誕生日
6 関連項目



[編集] できごと
1180年(治承4年8月17日) - 源頼朝が伊豆国で挙兵する。
1926年 - ドイツが国際連盟加盟国となる。
1943年 - イタリアの講和 (第二次世界大戦)、イタリアが連合国への無条件降伏を受諾。
1951年 - 日本国との平和条約・日米安保条約調印。
1954年 - 東南アジア条約機構(SEATO)発足。
1971年 - 中国の林彪がクーデター失敗、墜落死。
1982年 - ボーイング767型機が初運行。
1986年 - 「日韓併合は韓国にも責任」発言で中曽根首相が藤尾文相罷免。
1999年 - 池袋通り魔殺人事件発生。

[編集] 誕生日
B.C.30年頃 - 聖母マリア、イエス・キリストの母(没年不詳)
685年(垂拱元年8月5日)- 玄宗、第6代唐皇帝(+ 762年)
1157年 - リチャード1世(獅子心王)、イングランド王(+ 1199年)
1474年 - ルドヴィーコ・アリオスト、詩人(+ 1533年)
1503年(文亀3年8月18日)- 島津勝久、戦国武将(+ 1573年)
1633年 - フェルディナント4世、ローマ王(+ 1654年)
1680年(延宝8年8月16日)- 京極宮文仁親王、江戸時代の皇族(+ 1711年)
1702年(元禄15年8月17日)- 池田継政、第3代岡山藩主(+ 1776年)
1749年 - ランバル公妃マリー・ルイーズ、マリー・アントワネットの女官長(+ 1792年)
1750年(寛延3年8月8日)- 谷風梶之助 (2代目)、大相撲力士、横綱(+ 1795年)
1815年 - アレクサンダー・ラムジー、第34代アメリカ合衆国陸軍長官(+ 1903年)
1815年 - ジュゼッピーナ・ストレッポーニ、ソプラノ歌手(+ 1897年)
1830年 - フレデリック・ミストラル、詩人(+ 1914年)
1841年 - アントニン・ドヴォルザーク、作曲家(+ 1904年)
1848年 - ヴィクトル・マイヤー、化学者(+ 1897年)
1854年 - ハインリヒ・クロイツ、天文学者(+ 1907年)
1856年 - ヨハネス・ヴィルジング、天文学者(+ 1943年)
1863年 - W・W・ジェイコブズ、小説家(+ 1943年)
1864年 - ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、生物学者(+ 1944年)
1867年 - アレクサンドル・パルヴス、政治活動家(+ 1924年)
1882年 - 阿武天風、小説家(+ 1928年)
1884年 - 松山省三、画家・実業家(+ 1970年)
1893年 - 坪井誠太郎、地質学者(+ 1986年)
1903年 - 田村孝之介、画家(+ 1986年)
1906年 - ロッター・エミリア、フィギュアスケート選手(+ 2003年)
1907年 - フィリップ・フィッシャー、投資家(+ 2004年)
1908年 - 十朱久雄、俳優(+ 1985年)
1910年 - ジャン=ルイ・バロー、俳優(+ 1994年)
1912年 - 亀田忠、元プロ野球選手(+ 1976年)
1925年 - 堺左千夫、俳優(+ 1998年)
1929年 - クリストフ・フォン・ドホナーニ、指揮者
1931年 - 川口節子、女優
1936年 - 宗近晴見、俳優、声優
1938年 - 堀江謙一、ヨット冒険家
1938年 - 井上俊、社会学者
1941年 - 山口英夫、将棋棋士
1943年 - 大熊忠義、元プロ野球選手・野球解説者
1947年 - ワレリー・アファナシエフ、ピアニスト
1948年 - 米良明久(ザ・グレート・カブキ)、プロレスラー
1949年 - 原田明、化学者
1950年 - 龍田直樹、声優
1951年 - 木之元亮、俳優
1952年 - 土師孝也、俳優、声優
1952年 - 桂ひな太郎、落語家
1953年 - 福井謙二、フジテレビアナウンサー
1959年 - 島津冴子、声優
1960年 - 鈴木亜久里、レーサー
1960年 - 高橋巨典、テレビ宮崎アナウンサー
1960年 - 紺野美沙子、女優、エッセイスト
1960年 - 松井常松、ミュージシャン(元BOØWYのベーシスト)
1962年 - トーマス・クレッチマン、俳優
1962年 - 高山郁夫、元プロ野球選手
1963年 - 松本人志(ダウンタウン)、お笑い芸人
1966年 - シャーリー・クランプ、歌手
1966年 - 田中ユタカ、漫画家
1966年 - 菊田俊介、ミュージシャン
1967年 - 高橋しん、漫画家
1968年 - 近藤真市、元プロ野球選手、コーチ
1969年 - 中西哲生、元サッカー選手、スポーツジャーナリスト
1969年 - ガリー・スピード、サッカー選手
1970年 - くまいもとこ、声優
1970年 - ラトレル・スプリーウェル、バスケットボール選手
1971年 - ヘンリー・トーマス、俳優
1972年 - 大石まどか、歌手
1972年 - 関智一、声優
1974年 - こぶしのぶゆき、声優
1976年 - 秋本祐希、女優
1976年 - 真田アサミ、声優
1977年 - 広沢タダシ、ミュージシャン
1979年 - 山咲あかり、AV女優
1979年 - SONOMI(くレーベル)、歌手
1979年 - ヒオルビス・ドゥベルヘル、野球選手
1980年 - 門脇舞以、声優
1981年 - 茂庭照幸、サッカー選手(FC東京)
1982年 - 岡見時秀 、お笑い芸人(上々軍団)
1982年 - 前田和哉、サッカー選手(セレッソ大阪)
1983年 - 西村弥、プロ野球選手
1984年 - 阿部健太、プロ野球選手
1984年 - 新里智将、プロバスケットボール選手
1986年 - 後藤圭太、サッカー選手(鹿島アントラーズ)
1986年 - 大野拓弥、騎手
1987年 - 本仮屋ユイカ、女優
1989年 - 松山傑、野球選手
1990年 - 仲村瑠璃亜、アイドル
1991年 - CHiYO、歌手
1992年 - 滝野雄、ジャニーズJr.

[編集] 忌日
780年 - レオーン4世、東ローマ皇帝(* 750年)
1134年 - アルフォンソ1世、アラゴン・ナバラ王(* 1073年もしくは1074年)
1425年 - カルロス3世、ナバラ王(* 1361年)
1519年(永正16年8月15日) - 北条早雲、戦国大名(* 1573年)
1600年(慶長5年8月1日)- 鳥居元忠、戦国武将(* 1539年)
1613年 - カルロ・ジェズアルド、作曲家(* 1566年?)
1645年 - フランシスコ・デ・ケベード、詩人(* 1580年)
1675年 - アマーリエ、オランダ総督フレデリック・ヘンドリックの妃(* 1602年)
1754年(宝暦4年7月18日)- 芳沢あやめ (2代目)、歌舞伎役者(* 1702年)
1812年 - シャルル・アンドレ・メルダ、フランス革命・第一帝政期の軍人(* 1770年)
1814年 - マリア・カロリーナ・ダズブルゴ、両シチリア王フェルディナンド1世の妃(* 1752年)
1829年(文政12年8月11日)- 鏡岩濱之助、大相撲の力士・元小結(* 1769年)
1869年 - ウィリアム・フェッセンデン、第26代アメリカ合衆国財務長官(* 1806年)
1881年 - フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウ、オランダの王族(* 1797年)
1882年 - ジョゼフ・リウヴィル、数学者(* 1809年)
1893年 - ルーク・ショート、西部開拓時代のガンマン(* 1854年)
1894年 - ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、生理学者・物理学者(* 1821年)
1894年 - フィリップ、パリ伯(* 1838年)
1902年 - 長與專齋、医学者(* 1838年)
1914年 - ピョートル・ネステロフ、ロシア帝国のパイロット(* 1887年)
1924年 - 奥繁三郎、第12・14代衆議院議長(* 1861年)
1926年 - トーマス・栗原、映画監督(* 1885年)
1933年 - ファイサル1世、イラク王(* 1883年)
1935年 - 床次竹二郎、逓信大臣・鉄道大臣・内務大臣(* 1867年)
1944年 - 枝正義郎、映画監督(* 1888年)
1945年 - 川島義之、陸軍大臣(* 1878年)
1947年 - 2代目桃川若燕、講談師(* 1873年)
1949年 - リヒャルト・シュトラウス、作曲家(* 1864年)
1953年 - フレデリック・ヴィンソン、第53代アメリカ合衆国財務長官(* 1890年)
1954年 - カーティス・ウィルバー、第43代アメリカ合衆国海軍長官(* 1867年)
1954年 - アンドレ・ドラン、画家(* 1880年)
1956年 - オスカル・カウフマン、建築家(* 1873年)
1964年 - 中沢弘光、画家(* 1874年)
1965年 - ヘルマン・シュタウディンガー、化学者(* 1881年)
1965年 - ドロシー・ダンドリッジ、女優(* 1922年)
1967年 - 岩崎彦弥太、実業家(* 1895年)
1970年 - 藤井深造、実業家(* 1893年)
1971年 - 林彪、中国の政治家・軍人(* 1907年)
1974年 - ヴォルフガング・ヴィントガッセン、テノール歌手(* 1914年)
1978年 - パンチョ・ヴラディゲロフ、作曲家(* 1899年)
1978年 - リカルド・サモラ、サッカー選手(* 1901年)
1979年 - ジーン・セバーグ、女優(* 1938年)
1980年 - ウィラード・リビー、化学者(* 1908年)
1981年 - 湯川秀樹、物理学者(* 1907年)
1985年 - ジョン・フランクリン・エンダース、医学者(* 1897年)
1991年 - アレックス・ノース、作曲家(* 1910年)
1994年 - 東野英治郎、俳優(* 1907年)
1999年 - 村沢牧、政治家(* 1924年)
2000年 - 晴乃パーチク、漫才師(* 1926年)
2001年 - 串田正夫、水泳選手・シンクロナイズドスイミング指導者(* 1915年)
2003年 - レニ・リーフェンシュタール、映画監督・写真家(* 1902年)
2004年 - 水上勉、作家(* 1919年)
2004年 - 秋吉契里、シンガーソングライター

[編集] 記念日・年中行事
国際識字デー (International Literacy Day)
1965年にイラン国王が軍事費の一部を識字教育にまわす提唱をしたことを記念して、ユネスコが制定。
白露(日本、2002年・2003年)
二十四節気の1つ。太陽の黄経が165度の時で、野草に白い露が宿り始め、秋の気配が感じられ始めるころ。
ニューヨークの日

[編集] フィクションのできごと

[編集] 誕生日
生年不明 - 椎名希未、ゲーム『サナララ』
1950年 - 新命明/アオレンジャー、特撮テレビドラマ・スーパー戦隊シリーズ『秘密戦隊ゴレンジャー』の主人公
1970年 - ノブナガ=ハザマ、漫画・アニメ『HUNTER×HUNTER』に登場するキャラクター
1991年 - 松岡美羽、漫画・アニメ『苺ましまろ』に登場するキャラクター
生年不明 - リーバー・ウェンハム、アニメ、ゲーム『D.Gray-man』に登場するキャラクター
生年不明 - 犬塚孝士、漫画・アニメ『すもももももも 地上最強のヨメ』の主人公
生年不明 - ライナ=フォーゼル、ゲーム『リトル・ウィッチ パルフェ』シリーズに登場するキャラクター
生年不明 - 紺双葉、漫画『それでも町は廻っている』に登場するキャラクター
生年不明 - 桐島沙衣里、ゲーム・アニメ『この青空に約束を―』に登場するキャラクター
生年不明 - リーザ・フローラ・メルノ、ゲーム『アークザラッド2』に登場するキャラクター
生年不明 - 時任稔、漫画・ドラマCD『私立荒磯高等学校生徒会執行部』の主人公
生年不明 - バルドリアス=S=ファンギーニ (No.VIII)、漫画・アニメ『BLACK CAT』に登場するキャラクター

[編集] 関連項目
365日:1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
前日:9月7日 翌日:9月9日 - 前月:8月8日 翌月:10月8日
旧暦:9月8日
記念日・年中行事
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【9月10日】1951年 - ⑥映画「■■■」がベネチア国際映画祭で日本映画初の金獅子賞を獲得。

2008-09-10 13:33:20 | 2 IT用語集
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①■■■■■(くがつとおか)は②■■■■■暦で年始から253日目(閏年では254日目)にあたり、年末まであと112日ある。

[編集] できごと
1912年 - ③■■■■■■、サレカット=イスラムの成立。
1917年 - ④■■■■で孫文が広東軍政府を樹立する。
1943年 - ⑤■■地震発生。
1951年 - ⑥映画「■■■」がベネチア国際映画祭で日本映画初の金獅子賞を獲得。
1955年 - 日本が⑦■■■■に加盟。
1959年 - 炭鉱失業者救済のための⑧「■■■■募金運動」が開始。
1960年 - 東京・大阪で⑨■■■■■■の本放送開始。
2001年 - 千葉県で日本初の牛海綿状脳症⑩(BSE、■■■)の疑い有りと農林水産省が発表。11日後の21日厚生労働省が確認、翌22日農林水産省が公表。


[編集] 誕生日
1948年 -⑪■■牧子、脚本家・小説家・横綱審議委員会委員
1952年 - ⑫■■光一、囲碁のプロ棋士


[編集] 忌日
954年 - ルイ4世、⑬■フランク王(* 920年)
1167年 - マティルダ、⑭■■ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃(* 1102年)
1651年(慶安4年7月26日)- ⑮■■■■、軍学者・慶安の変首謀者(* 1605年)


[編集] 記念日・年中行事
⑯■■■■■(2001年までは全国下水道促進デー)(日本)
下水道の整備の促進について人々の理解と協力を呼びかけようと、1961年に建設省(現国土交通省)が制定。
この時期が立春から数えて220日目にあたる二百二十日で台風による水害が発生しやすい時期であるために、下水道をアピールするのに最適であるとしてこの時期が選ばれた。
⑰■■■■■■(日本)
1973年9月10日に、屋外広告法が国会を通過したことを記念して、全日本屋外広告業団体連合会が1973年に制定し、1974年から実施。
⑱■-■■■■日(日本)
℃-ute(キュート)の語呂合わせで、2006年にアップフロントグループが制定。
⑲■■■■■
牛タン業界活性化を願い、仙台牛たん振興会が2006年から制定した記念日。牛(9)タン(10)の語呂合わせ。この日は加盟店などの牛タン定食が安くなる。
⑳■■■■■■■■
世界保健機関と国際自殺防止協会が2003年にスウェーデンのストックホルムで開催された世界自殺防止会議で、会議初日の9月10日を「第1回世界自殺防止の日」として制定した。自殺に対する注意・関心を喚起し、自殺防止のための行動を促進するのが目的。

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【9月10日】

9月10日(くがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から253日目(閏年では254日目)にあたり、年末まであと112日ある。




2008年9月(長月)
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
365日
各月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
目次 [非表示]
1 できごと
2 誕生日
3 忌日
4 記念日・年中行事
5 フィクションのできごと
5.1 誕生日
6 関連項目



[編集] できごと
1905年 - 中川小十郎が私立清和普通学校を京都に開学。
1912年 - インドネシア、サレカット=イスラムの成立。
1912年 - 日本初となる映画会社、日本活動写真が設立。
1917年 - 中華民国で孫文が広東軍政府を樹立する。
1921年 - 日本サッカー協会の前身である大日本蹴球協会が創立。
1943年 - 鳥取地震発生。
1951年 - 映画「羅生門」がベネチア国際映画祭で日本映画初の金獅子賞を獲得。
1955年 - 日本がGATTに加盟。
1956年 - 富山県魚津市で魚津大火が発生。
1959年 - 炭鉱失業者救済のための「黒い羽根募金運動」が開始。
1960年 - 東京・大阪でカラーテレビの本放送開始。
2001年 - 千葉県で日本初の牛海綿状脳症(BSE、狂牛病)の疑い有りと農林水産省が発表。11日後の21日厚生労働省が確認、翌22日農林水産省が公表。
2003年 - アンナ・リンドスウェーデン外務大臣がストックホルムのデパートで暗殺される

[編集] 誕生日
1690年(元禄3年8月8日)- 前田吉徳、第6代加賀藩主(+ 1745年)
1755年 - ハンス・アクセル・フォン・フェルセン、スウェーデン貴族(+ 1810年)
1882年 - 今井清、陸軍中将、(+1938年)
1887年 - ジョヴァンニ・グロンキ、第3代イタリア共和国大統領(+ 1978年)
1889年 - 吉阪俊蔵、内務官僚(+ 1958年)
1890年 - フランツ・ヴェルフェル、小説家(+ 1945年)
1891年 - ヤーコプ・ブルクハルト、歴史学者(+ 1974年)
1897年 - ジョルジュ・バタイユ、作家・思想家(+ 1962年)
1910年 - 平井康三郎、作曲家(+ 2002年)
1917年 - 木村政彦、柔道家・プロレスラー(+ 1993年)
1919年 - 堀越克明、教育者
1929年 - 矢代秋雄、作曲家(+ 1976年)
1932年 - 山田康雄、声優(+ 1995年)
1934年 - ロジャー・マリス、元メジャーリーガー(+ 1985年)
1934年 - 樋口陽一、法学者
1938年 - カール・ラガーフェルド、ファッションデザイナー
1939年 - 村松克己、俳優(+ 2001年)
1941年 - 横井軍平、任天堂のゲームデザイナー(+ 1997年)
1941年 - スティーヴン・ジェイ・グールド、生物学者(+ 2002年)
1943年 - 松岡佑子、翻訳家
1945年 - ホセ・フェリシアーノ、歌手、ギタリスト
1947年 - 内田順三、元プロ野球選手(現)広島打撃統括コーチ
1948年 - 内舘牧子、脚本家・小説家・横綱審議委員会委員
1949年 - 欧陽菲菲、歌手
1950年 - ジョー・ペリー、ミュージシャン(エアロスミス)
1952年 - 小林光一、囲碁のプロ棋士
1957年 - 綾戸智恵、歌手
1958年 - 高沢秀昭、元プロ野球選手
1958年 - クリス・コロンバス、映画監督
1960年 - コリン・ファース、俳優
1961年 - 栄村忠広、元プロ野球選手
1962年 - 山下訓史、陸上競技選手
1963年 - ランディ・ジョンソン、メジャーリーグのプロ野球選手(アリゾナ・ダイアモンドバックス)
1963年 - 雨蘭咲木子、声優
1966年 - 斉藤由貴、女優・歌手
1968年 - ガイ・リッチー、映画監督
1969年 - 小原愼司、漫画家
1971年 - 進藤晶子、元TBSアナウンサー
1971年 - 櫻井智、声優
1974年 - ミルコ・クロコップ、格闘家
1975年 - 山田暢久、サッカー選手
1976年 - 加納孝政、歌手(RAG FAIR)
1977年 - 武田夏葉子、元フィギュアスケート選手、元タレント
1979年 - 時天空、大相撲力士
1979年 - 鈴木くるみ、元AV女優
1979年 - 青木智史、元プロ野球選手
1982年 - 服部泰卓、プロ野球選手
1983年 - HIROAKI(GOLLBETTY)、ミュージシャン
1983年 - Mocky(All Japan Goith)、ミュージシャン
1984年 - 若林翔子、女優・タレント・モデル
1984年 - 真堂圭、声優
1985年 - 松田翔太、俳優
1985年 - 上木彩矢、歌手
1985年 - 白井珠希、女優
1985年 - 久米勇紀、プロ野球選手
1986年 - 内博貴、タレント、(元NEWS・元関ジャニ∞)
1986年 - 松林菜々見、レースクイーン
1987年 - 阿井莉沙、歌手、dream
1987年 - 谷村奈南、歌手
1988年 - ココ・ロシャ、スーパーモデル

[編集] 忌日
954年 - ルイ4世、西フランク王(* 920年)
1167年 - マティルダ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃(* 1102年)
1308年(徳治3年8月25日)- 後二条天皇、第94代天皇(* 1285年)
1419年 - ジャン1世、ブルゴーニュ公(* 1371年)
1482年 - フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、コンドッティエーレの隊長・ウルビーノ君主(* 1422年)
1573年(天正元年8月14日)- 斎藤龍興、美濃国の戦国大名(* 1548年)
1607年 - ルッツァスコ・ルッツァスキ、作曲家(* 1545年頃)
1651年(慶安4年7月26日)- 由井正雪、軍学者・慶安の変首謀者(* 1605年)
1669年 - ヘンリエッタ・マリア、イングランド王チャールズ1世の妃(* 1609年)
1797年 - メアリ・ウルストンクラフト、思想家(* 1759年)
1898年 - エリーザベト皇后、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后(* 1837年)
1931年 - サルヴァトーレ・マランツァーノ、コーサ・ノストラ幹部(* 1868年)
1933年 - 古賀春江、画家(* 1895年)
1935年 - ヒューイ・ロング、ルイジアナ州知事・アメリカ合衆国上院議員(* 1893年)
1947年 - 安達二十三、日本陸軍の中将(* 1890年)
1948年 - フェルディナンド1世、ブルガリア王(* 1861年)
1961年 - ウォルフガング・フォン・トリップス、レーサー(* 1928年)
1971年 - ピア・アンジェリ、女優(* 1932年)
1975年 - ジョージ・パジェット・トムソン、物理学者(* 1892年)
1976年 - ダルトン・トランボ、脚本家・映画監督(* 1905年)
1979年 - アゴスティニョ・ネト、アンゴラ大統領(* 1922年)
1983年 - フェリックス・ブロッホ、物理学者(* 1905年)
1985年 - ジョック・ステイン、サッカー選手・指導者(* 1922年)
1986年 - 島耕二、映画監督(* 1901年)
1991年 - ジャック・クロフォード、テニス選手(* 1908年)
1993年 - ハナ肇、ミュージシャン、俳優(* 1930年)
1996年 - フランキー堺、俳優(* 1929年)
1997年 - フリッツ・フォン・エリック、プロレスラー(* 1929年)
1999年 - アルフレード・クラウス、テノール歌手(* 1927年)
2002年 - 帖佐美行、彫金家(* 1915年)
2003年 - 広田順、元プロ野球選手(* 1925年)
2004年 - 倉田道夫、物理学者(* 1925年)
2005年 - クラレンス"ゲイトマウス"ブラウン、ギタリスト・歌手(* 1924年)
2006年 - タウファアハウ・ツポウ4世、トンガ王(* 1918年)
2006年 - 犬丸りん、漫画家(* 1958年)
2007年 - ジェーン・ワイマン、女優(* 1917年)
2007年 - 長船騏郎、全日本アマチュア野球連盟会長(* 1924年)
2007年 - アニータ・ロディック、実業家・ザ・ボディショップ創業者(* 1942年)

[編集] 記念日・年中行事
下水道の日(2001年までは全国下水道促進デー)(日本)
下水道の整備の促進について人々の理解と協力を呼びかけようと、1961年に建設省(現国土交通省)が制定。
この時期が立春から数えて220日目にあたる二百二十日で台風による水害が発生しやすい時期であるために、下水道をアピールするのに最適であるとしてこの時期が選ばれた。
屋外広告の日(日本)
1973年9月10日に、屋外広告法が国会を通過したことを記念して、全日本屋外広告業団体連合会が1973年に制定し、1974年から実施。
℃-uteの日(日本)
℃-ute(キュート)の語呂合わせで、2006年にアップフロントグループが制定。
牛タンの日
牛タン業界活性化を願い、仙台牛たん振興会が2006年から制定した記念日。牛(9)タン(10)の語呂合わせ。この日は加盟店などの牛タン定食が安くなる。
世界自殺防止の日
世界保健機関と国際自殺防止協会が2003年にスウェーデンのストックホルムで開催された世界自殺防止会議で、会議初日の9月10日を「第1回世界自殺防止の日」として制定した。自殺に対する注意・関心を喚起し、自殺防止のための行動を促進するのが目的。

[編集] フィクションのできごと

[編集] 誕生日
1980年 - 水野亜美(セーラーマーキュリー)、漫画・アニメ『美少女戦士セーラームーン』に登場するキャラクター
1989年 - 保科智子、ゲーム・アニメ『To Heart』に登場するキャラクター
1981年 - 野田恵、漫画・アニメ・TVドラマ『のだめカンタービレ』に登場するキャラクター
1983年 - 一文字茜、ゲーム『ときめきメモリアル2』に登場するキャラクター
1989年 - 桜野タズサ、小説『銀盤カレイドスコープ』に登場する主人公
2040年 - 沢井麻耶、ゲーム『D.C.II 〜ダ・カーポII〜』に登場するキャラクター
2280年 - グラハム・エーカー、アニメ・漫画『機動戦士ガンダム00』に登場するMSパイロット
生年不明 - マーシア・アクイ・クォーツ、ゲーム『アークザラッド3』に登場するキャラクター
生年不明 - 市丸ギン、漫画・アニメ『BLEACH』に登場するキャラクター
生年不明 - 木下藤吉、漫画・アニメ『かりあげクン』に登場するキャラクター
生年不明 - レベッカ、ゲーム『どうぶつの森』に登場するキャラクター
生年不明 - 藤浪朋子、ゲーム『Canvas2』に登場するキャラクター
生年不明 - 海魔女のソレント、漫画・アニメ『聖闘士星矢』に登場するキャラクター
生年不明 - 林恭子、ゲーム『ドキドキプリティリーグ』に登場するキャラクター
生年不明 - 東方雅美、漫画・アニメ『テニスの王子様』に登場するキャラクター
生年不明 - レズリー・ロピカーナ、ゲーム『みつめてナイト』に登場するキャラクター
生年不明 - 辰野俊子、漫画『それでも町は廻っている』に登場するキャラクター

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[編集] 関連項目
365日:1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
前日:9月9日 翌日:9月11日 - 前月:8月10日 翌月:10月10日
旧暦:9月10日
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【羅生門】 芥川龍之介   全文 旧仮名

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羅生門
芥川龍之介



 或日(あるひ)の暮方の事である。一人の下人が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。
 廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剥げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きり/″\す)が一匹とまつてゐる。羅生門(らしやうもん)が、朱雀大路(すじやくおおぢ)にある以上(いじやう)は、この男の外にも、雨(あめ)やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人(にん)はありさうなものである。それが、この男(をとこ)の外(ほか)には誰(たれ)もゐない。
 何故(なぜ)かと云ふと、この二三年、京都には、地震(ぢしん)とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災(わざはひ)がつゞいて起つた。そこで洛中(らくちう)のさびれ方(かた)は一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕(うちくだ)いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に賣つてゐたと云ふ事である。洛中(らくちう)がその始末であるから、羅生門の修理(しゆり)などは、元より誰も捨てゝ顧(かへりみ)る者がなかつた。するとその荒(あ)れ果(は)てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまひには、引取(ひきと)り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣(しふくわん)さへ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味(きみ)を惡るがつて、この門の近所(きんじよ)へは足(あし)ぶみをしない事になつてしまつたのである。
 その代り又鴉(からす)が何處(どこ)からか、たくさん集つて來た。晝間(ひるま)見(み)ると、その鴉が何羽(なんば)となく輪を描いて高い鴟尾(しび)のまはりを啼(な)きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒(ゆふや)けであかくなる時(とき)には、それが胡麻(ごま)をまいたやうにはつきり見えた。鴉(からす)は、勿論、門の上にある死人(しにん)の肉を、啄みに來るのである。――尤も今日は、刻限(こくげん)が遲(おそ)いせいか、一羽も見えない。唯、所々(ところどころ)、崩れかゝつた、さうしてその崩(くづ)れ目に長い草のはへた石段(いしだん)の上に、鴉(からす)の糞(くそ)が、點々と白くこびりついてゐるのが見える。下人(げにん)は七段ある石段の一番上の段(だん)に洗(あら)ひざらした紺(こん)の襖(あを)の尻を据ゑて、右の頬に出來た、大きな面皰(にきび)を氣にしながら、ぼんやり、雨(あめ)のふるのを眺(なが)めてゐるのである。
 作者(さくしや)はさつき、「下人が雨やみを待つてゐた」と書いた。しかし、下人(げにん)は、雨がやんでも格別(かくべつ)どうしようと云ふ當てはない。ふだんなら、勿論(もちろん)、主人の家へ歸る可き筈である。所(ところ)がその主人からは、四五日前に暇(ひま)を出(だ)された。前にも書いたやうに、當時(たうじ)京都(きやうと)の町は一通りならず衰微(すゐび)してゐた。今この下人が、永年(ながねん)、使はれてゐた主人から、暇(ひま)を出されたのも、この衰微の小さな餘波に外ならない。だから「下人が雨(あめ)やみを待つてゐた」と云(い)ふよりも、「雨にふりこめられた下人が、行(ゆ)き所(どころ)がなくて、途方にくれてゐた」と云ふ方が、適當(てきたう)である。その上、今日の空模樣(そらもやう)も少からずこの平安朝(へいあんてう)の下人の Sentimentalisme に影響(えいきやう)した。申(さる)の刻下りからふり出した雨は、未に上(あが)るけしきがない。そこで、下人は、何を措いても差當(さしあた)り明日の暮(くら)しをどうにかしようとして――云はゞどうにもならない事(こと)を、どうにかしようとして、とりとめもない考(かんが)へをたどりながら、さつきから朱雀大路(すじやくおはぢ)にふる雨の音を、聞くともなく聞いてゐた。
 雨は、羅生門(らしやうもん)をつゝんで、遠(とほ)くから、ざあつと云ふ音をあつめて來る。夕闇は次第に空を低くして、見上(みあ)げると、門の屋根が、斜につき出した甍(いらか)[#「甍」は底本では「薨」]の先(さき)に、重たくうす暗(くら)い雲(くも)を支へてゐる。
 どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段(しゆだん)を選んでゐる遑(いとま)はない。選んでゐれば、築土(ついぢ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うゑじに)をするばかりである。さうして、この門の上へ持つて來て、犬(いぬ)のやうに棄(す)てられてしまふばかりである。選(えら)ばないとすれば――下人の考へは、何度(なんど)も同じ道を低徊した揚句(あげく)に、やつとこの局所へ逢着(はうちやく)した。しかしこの「すれば」は、何時(いつ)までたつても、結局「すれば」であつた。下人は、手段(しゆだん)を選ばないといふ事を肯定(こうてい)しながらも、この「すれば」のかたをつける爲に、當然(たうぜん)、その後に來る可き「盗人(ぬすびと)になるより外に仕方(しかた)がない」と云ふ事を、積極的(せきゝよくてき)に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
 下人は、大きな嚏(くさめ)をして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷(ゆふひ)えのする京都は、もう火桶(ひをけ)が欲しい程の寒さである。風は門の柱(はしら)と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗(にぬり)の柱にとまつてゐた蟋蟀(きり/″\す)も、もうどこかへ行つてしまつた。
 下人は、頸をちゞめながら、山吹の汗衫(かざみ)に重ねた、紺の襖の肩を高(たか)くして門のまはりを見まはした。雨風(あめかぜ)の患のない、人目にかゝる惧のない、一晩(ばん)樂(らく)にねられさうな所があれば、そこでともかくも、夜(よ)を明(あ)[#ルビの「あ」は底本では「あか」]かさうと思つたからである。すると、幸門の上の樓(ろう)へ上る、幅の廣い、之も丹を塗つた梯子(はしご)が眼についた。上(うへ)なら、人がゐたにしても、どうせ死人(しにん)ばかりである。下人は、そこで腰にさげた聖柄(ひぢりづか)の太刀が鞘走らないやうに氣をつけながら、藁草履(わらざうり)をはいた足を、その梯子の一番下(ばんした)の段へふみかけた。
 それから、何分(なんぷん)かの後である。羅生門の樓の上へ出る、幅(はゞ)の廣い梯子の中段に、一人の男が、猫(ねこ)のやうに身をちゞめて、息(いき)を殺しながら、上の容子(ようす)を窺つてゐた。樓の上からさす火(ひ)の光(ひかり)が、かすかに、その男の右の頬(ほゝ)をぬらしてゐる。短い鬚(ひげ)の中に、赤く膿を持つた面皰(にきび)のある頬である。下人は、始めから、この上にゐる者は、死人(しにん)ばかりだと高を括つてゐた。それが、梯子(はしご)を二三段上つて見ると、上では誰か火(ひ)をとぼして、しかもその火を其處此處(そこゝこ)と動(うご)かしてゐるらしい。これは、その濁つた、黄いろい光が、隅々(すみ/″\)に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映(うつ)つたので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。
 下人は、守宮(やもり)のやうに足音をぬすんで、やつと急(きふ)な梯子を、一番上の段まで這ふやうにして上りつめた。さうして體(からだ)を出來る丈、平にしながら、頸(くび)を出來る丈、前へ出して、恐(おそ)る恐る、樓の内を覗(のぞ)いて見た。
 見ると、樓の内には、噂(うはさ)に聞いた通り、幾つかの屍骸(しがい)が、無造作(むざうさ)に棄てゝあるが、火の光の及ぶ範圍(はんゐ)が、思つたより狹いので、數(かず)は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸(はだか)の屍骸と、着物(きもの)を着た屍骸とがあると云ふ事である。勿論(もちろん)、中には女も男もまじつてゐるらしい。さうして、その屍骸は皆、それが、甞、生きてゐた人間だと云ふ事實(じゞつ)さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形(にんぎやう)のやうに、口を開(あ)いたり手を延ばしたりしてごろごろ床(ゆか)の上にころがつてゐた。しかも、肩とか胸(むね)とかの高くなつてゐる部分(ぶゞん)に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一層(そう)暗(くら)くしながら、永久に唖(おし)の如く默(だま)つていた。
 下人は、それらの屍骸の腐爛(ふらん)した臭氣に思はず、鼻(はな)を掩つた。しかし、その手は、次の瞬間(しゆんかん)には、もう鼻を掩ふ事を忘れてゐた。或る強い感情(かんじやう)が、殆悉この男の嗅覺を奪つてしまつたからである。
 下人の眼は、その時、はじめて、其(その)屍骸(しがい)の中に蹲つている人間を見た。檜肌色(ひはだいろ)の着物を著た、背の低い、痩せた、白髮頭(しらがあたま)の、猿のやうな老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松(まつ)の木片を持つて、その屍骸(しがい)の一つの顏を覗きこむやうに眺(なが)めてゐた。髮の毛の長い所を見ると、多分(たぶん)女(をんな)の屍骸であらう。
 下人は、六分の恐怖(きやうふ)と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者(きしや)の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。すると、老婆(らうば)は、松の木片を、床板の間に挿(さ)して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手(りやうて)をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、その長い髮(かみ)の毛(け)を一本づゝ拔きはじめた。髮は手に從(したが)つて拔けるらしい。
 その髮の毛が、一本ずゝ拔(ぬ)けるのに從つて下人の心(こゝろ)からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時(どうじ)に、この老婆に對するはげしい憎惡(ぞうを)が、少しづゝ動いて來た。――いや、この老婆(らうば)に對すると云つては、語弊(ごへい)があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感(はんかん)が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰(たれ)かがこの下人に、さつき門(もん)の下でこの男が考へてゐた、饑死(うゑじに)をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出(もちだ)したら、恐らく下人は、何の未練(みれん)もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男(をとこ)の惡を憎む心は、老婆の床(ゆか)に挿した松の木片のやうに、勢よく燃(も)え上(あが)り出してゐたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人(しにん)の髮の毛を拔(ぬ)くかわからなかつた。從つて、合理的(がふりてき)には、それを善惡の何れに片(かた)づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨(あめ)の夜(よ)に、この羅生門の上で、死人の髮の毛(け)を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許(ゆる)す可らざる惡であつた。勿論、下人(げにん)は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。
 そこで、下人は、兩足(りやうあし)に力を入れて、いきなり、梯子(はしご)から上へ飛び上つた。さうして聖柄(ひぢりづか)の太刀に手をかけながら、大股(おおまた)に老婆の前へ歩みよつた。老婆が驚いたのは、云ふ迄もない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾かれたやうに、飛び上つた。
「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸(しがい)につまづきながら、慌(あは)てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵(のゝし)つた。老婆は、それでも下人をつきのけて行(ゆ)かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押(お)しもどす。二人は屍骸(しがい)の中で、暫、無言(むごん)のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗(しようはい)は、はじめから、わかつている。下人はとうとう、老婆の腕(うで)をつかんで、無理にそこへ(ね)ぢ倒(たほ)した。丁度、鷄(とり)の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆(らうば)をつき放すと、いきなり、太刀(たち)の鞘(さや)を拂つて、白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は默つてゐる。兩手(りやうて)をわなわなふるはせて、肩で息(いき)を切りながら、眼を、眼球(がんきう)が(まぶた)の外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗(しうね)く默つてゐる。これを見ると、下人は始(はじ)めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志(いし)に支配されてゐると云ふ事を意識(いしき)した。さうして、この意識は、今(いま)まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時(いつ)の間にか冷(さ)ましてしまつた。後(あと)に殘つたのは、唯、或(ある)仕事(しごと)をして、それが圓滿(ゑんまん)に成就した時の、安らかな得意(とくい)と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆(らうば)を見下しながら、少し聲を柔(やはら)げてかう云つた。
「己は檢非違使(けびゐし)の廳の役人などではない。今し方この門(もん)の下を通(とほ)りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩(なわ)をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯(たゞ)、今時分、この門の上で、何(なに)をして居たのだか、それを己に話(はなし)しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開(みひら)いてゐた眼を、一層大(そうおほ)きくして、ぢつとその下人の顏(かほ)を見守つた。の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭(するど)い眼で見たのである。それから、皺(しは)で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛(か)んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖つた喉佛(のどぼとけ)の動いてゐるのが見える。その時、その喉(のど)から、鴉(からす)の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳(みゝ)へ傳はつて來た。
「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡(へいぼん)なのに失望した。さうして失望(しつばう)すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑(ぶべつ)と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色(けしき)が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手(かたて)に、まだ屍骸の頭から奪(と)つた長い拔け毛を持(も)つたなり、蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
 成程、死人の髮(かみ)の毛(け)を拔くと云ふ事は、惡い事かも知(し)れぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事(こと)を、されてもいゝ人間(にんげん)ばかりである。現に、自分が今、髮(かみ)を拔いた女などは、蛇(へび)を四寸ばかりづゝに切(き)つて干したのを、干魚(ほしうを)だと云つて、太刀帶(たてはき)の陣へ賣りに行つた。疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。しかも、この女(をんな)の賣る干魚は、味(あぢ)がよいと云ふので、太刀帶たちが、缺かさず菜料(さいれう)に買つてゐたのである。自分は、この女のした事が惡(わる)いとは思はない。しなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方(しかた)がなくした事だからである。だから、又今、自分(じぶん)のしてゐた事も惡い事とは思(おも)はない。これもやはりしなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方がなくする事だからである。さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許(ゆる)してくれるのにちがひないと思(おも)ふからである。――老婆は、大體こんな意味の事を云つた。
 下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄を左(ひだり)の手(て)でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右(みぎ)の手(て)では、赤く頬(ほゝ)に膿(うみ)を持つた大きな面皰を氣(き)にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞(き)いてゐる中に、下人の心には、或(ある)勇氣(ゆうき)が生まれて來た。それは、さつき、門(もん)の下(した)でこの男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又(また)さつき、この門の上(うへ)へ上(あが)つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然(ぜん/″\)、反對な方向に動(うご)かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人(ぬすびと)になるかに迷はなかつたばかりではない。その時(とき)のこの男の心もちから云へば、饑死(うゑじに)などと云ふ事は、殆、考(かんが)へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲(あざけ)るやうな聲で念(ねん)を押した。さうして、一足(あし)前(まへ)へ出ると、不意(ふい)に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物(きもの)を剥ぎとつた。それから、足(あし)にしがみつかうとする老婆を、手荒(てあら)く屍骸の上へ蹴倒(けたほ)した。梯子の口までは、僅(わづか)に五歩を數へるばかりである。下人は、剥(は)ぎとつた檜肌色の着物(きもの)をわきにかゝへて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫(しばらく)、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中(なか)から、その裸(はだか)の體を起したのは、それから間(ま)もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃(も)えてゐる火の光をたよりに、梯子(はしご)の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮(しらが)を倒にして、門の下を覗(のぞ)きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨(あめ)を冐(をか)して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。

――四年九月――





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底本:「新選 名著復刻全集 近代文学館 芥川龍之介著 羅生門 阿蘭陀書房版」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年4月1日発行
※疑問点の確認にあたっては、「日本の文学33 羅生門」ほるぷ出版、1984(昭和59)年8月1日初版第1刷発行を参照しました。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ、野口英司
1999年6月9日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:










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羅生門
芥川龍之介



 ある日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗(にぬり)の剥(は)げた、大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路(すざくおおじ)にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子(もみえぼし)が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とか云う災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹(に)がついたり、金銀の箔(はく)がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪(たきぎ)の料(しろ)に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸(こり)が棲(す)む。盗人(ぬすびと)が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾(しび)のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻(ごま)をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄(ついば)みに来るのである。――もっとも今日は、刻限(こくげん)が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞(ふん)が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖(あお)の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰(にきび)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微(すいび)していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申(さる)の刻(こく)下(さが)りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日(あす)の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍(いらか)の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、築土(ついじ)の下か、道ばたの土の上で、饑死(うえじに)をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した揚句(あげく)に、やっとこの局所へ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
 下人は、大きな嚔(くさめ)をして、それから、大儀(たいぎ)そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶(ひおけ)が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗(にぬり)の柱にとまっていた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行ってしまった。
 下人は、頸(くび)をちぢめながら、山吹(やまぶき)の汗袗(かざみ)に重ねた、紺の襖(あお)の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子(はしご)が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄(ひじりづか)の太刀(たち)が鞘走(さやばし)らないように気をつけながら、藁草履(わらぞうり)をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子(ようす)を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿(うみ)を持った面皰(にきび)のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括(くく)っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛(くも)の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
 下人は、守宮(やもり)のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平(たいら)にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗(のぞ)いて見た。
 見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸(しがい)が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土を捏(こ)ねて造った人形のように、口を開(あ)いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く黙っていた。
 下人(げにん)は、それらの死骸の腐爛(ふらん)した臭気に思わず、鼻を掩(おお)った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
 下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲(うずくま)っている人間を見た。檜皮色(ひわだいろ)の着物を着た、背の低い、痩(や)せた、白髪頭(しらがあたま)の、猿のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片(きぎれ)を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であろう。
 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時(ざんじ)は呼吸(いき)をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊(ごへい)があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死(うえじに)をするか盗人(ぬすびと)になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片(きぎれ)のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
 そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄(ひじりづか)の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも弾(はじ)かれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞(ふさ)いで、こう罵(ののし)った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ(ね)じ倒した。丁度、鶏(にわとり)の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘(さや)を払って、白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球(めだま)が(まぶた)の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後(あと)に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「己(おれ)は検非違使(けびいし)の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄(なわ)をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。(まぶた)の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏(のどぼとけ)の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉(からす)の啼くような声が、喘(あえ)ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘(かずら)にしようと思うたのじゃ。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑(ぶべつ)と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色(けしき)が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸(しすん)ばかりずつに切って干したのを、干魚(ほしうお)だと云うて、太刀帯(たてわき)の陣へ売りに往(い)んだわ。疫病(えやみ)にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料(さいりよう)に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。
 下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄(つか)を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰(にきび)を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
 老婆の話が完(おわ)ると、下人は嘲(あざけ)るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰(にきび)から離して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪(しらが)を倒(さかさま)にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
 下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない。

(大正四年九月)





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底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1997(平成9)年4月15日第14刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年10月29日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:













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2008-09-10 13:32:17 | 2 IT用語集
【RSS】

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ウィキペディアにおけるRSSについては、Help:フィードの利用をご覧ください。
その他の用法についてはRSS (曖昧さ回避)をご覧ください。
RSS
拡張子: .rss, .xml, .rdf
MIME Type: application/rss+xml
派生元: XML

RSSは、ニュースやブログなど各種のウェブサイトの更新情報を簡単にまとめ、配信するための幾つかの文書フォーマットの総称である。

目次 [非表示]
1 概要
2 RSSフォーマットの歴史と変遷
2.1 RSS 0.9
2.2 RSS 0.91
2.3 RSS 1.0
2.4 RSS 0.92 / RSS 2.0
3 今後の展望
4 RSSの利用
5 図書館におけるRSS
6 関連項目
7 外部リンク



[編集] 概要
RDF Site Summary(RSS 0.9とRSS 1.0)
Rich Site Summary(RSS 0.91)
Really Simple Syndication(RSS 2.0)
上記の様に"RSS"という語には、名称の異なる複数の規格が存在しており、それぞれ記述方法や用途が異なるために、多少の混乱が見られる。

日本語サイトでは、普及しているRSSのほとんどがRSS 1.0を用いているため、一般には、RSSはRDF Site Summaryとして認識されている。RDFとはResource Description Framework の略である。

ウェブログでの更新情報の配信として用いられている場合が大半を占めているが、新聞社などのニュース配信サイトでは最新ニュースを、テレビ局・ラジオ局では番組情報を、その他各種企業においてプレスリリースや新製品情報、サポート情報を、RSSを使ったヘッドライン情報として配信する事例も増えている。また、音声データファイルを公開するための方法であるポッドキャスティングにも使われている。

また、RSSに対応しているウェブサイトではRSSに対応していることを明確にするためにや、などの表示が使われていることが多い。


[編集] RSSフォーマットの歴史と変遷

[編集] RSS 0.9
最初のRSSであるRSS 0.9は、RDF Site Summaryとして、1999年に米国ネットスケープコミュニケーションズが自社のポータルサイト「My Netscape」において、「チャンネル」の詳細を記すために策定したものである。RDF構文を用いたことから、RDF Site Summaryと呼ばれる。

その後ネットスケープコミュニケーションズはRDF構文の利用を止め、独自のXMLフォーマットを用いて要素を拡張し、よりリッチな情報を提供できるようにしたRSS 0.91を開発した。


[編集] RSS 0.91
Rich Site Summaryと改名されたRSS 0.91は、RSS 0.9に要素を拡張する目的で作られた。RDFを用いず、独自のXMLで記述される。

UserLand SoftwareのScriptingNewsから著作権、日付情報などいくつかの要素を取り入れ拡張された。それまでのRSS 0.9より多くの情報を配信できるようになったため、Rich Site Summaryと呼ばれ、その後派生したRSS 0.92, RSS 2.0のベースとなっている。

RSS 0.91の登場以降、RSSが持つ「コンテンツ配信」機能に対しての需要がさらに高まった。そのためよりリッチなコンテンツ配信を目指そうとする制作者が、独自の要素をRSSに追加してしまうなど、フォーマットの拡張における混乱がおこることとなった。


[編集] RSS 1.0
こうした混乱のなかで、RSSでよく使われる語彙や使われる要素群を「コア」として定義し、それ以外は拡張する側が独自の語彙を「モジュール」として定義することで、中核語彙と拡張性を保証させようとする提案がRSS-DEVワーキンググループ内で起こり、その成果として2000年12月にRSS 1.0がリリースされた。

RSS 1.0は0.9時代につかわれていたRDFを再び採用し、RSSが持つ「メタデータ記述」としての側面を主眼に置いたフォーマットとなっている。

また、RSSコアモジュールの他に公式なモジュールとして、Dublin Coreモジュール、Syndicationモジュール及びContentモジュールが定められた。これによりRSS 0.9の不満であった語彙の乏しさを解消させ、またコンテンツ配信手段としてRSS 1.0を採用する道を残すものとなった。

RSS 1.0の登場は、(メタデータ記述技術としての)RSSの中核語彙及び拡張性を保証するとものとなった。しかしRDFを再び採用したこと、モジュールによるXML名前空間の複雑化はすべてのRSS配信者を満足させず、RSS 0.91系のフォーマットを拡張する動きが再びみられることとなった。


[編集] RSS 0.92 / RSS 2.0
RSS 1.0の取る道は必ずしも誰もが好むものではなかった、とはいえRSS 0.91以降に起きていたフォーマット拡張の混乱は避ける必要があった。そのため拡張をオプションとして提供し、かつRSS 0.91への互換性を持たせる方法が提案され、それを受けて2000年12月にUserLand SoftwareからRSS 0.92が発表された。

UserLandはその後も互換性を維持したままRSS 0.93, RSS 0.94という拡張を続けたが、2002年8月にRSS 0.91からRSS 0.94までのすべてのフォーマットに対する互換性を保証したRSS 2.0を策定し、これをReally Simple Syndicationと名付けた。

RSS 2.0はあくまで0.9x系の流れを汲む規格であって、RSS 1.0の後継ではない。それぞれの目指す方向性は同じではないため、場面に応じて使い分けられている。

2003年7月に、RSS 2.0制定の中心人物、デイヴ・ウィナー(Dave Winer)の移籍と併せ、仕様もハーバード大学ロースクールのバークマンセンターに移管された。





[編集] 今後の展望
RSS 1.0とRSS 2.0の関係について、バージョンを表す数値の大小関係から、前者が旧規格で後者が後継規格であるという誤解が見受けられるが、これは事実ではない。RSS 2.0はシンプルさの代償としてRSS 1.0の備える(RDFによる)強力な表現力を放棄したため、RSS 1.0を置き換えるものではない。従ってRSS 1.0は場面に応じて今後も継続利用されていくと目される。

一方、RSS 2.0に代わるコンテンツ配信技術として、IBMのSam Rubyなどが中心となり、Atomと呼ばれる新しい規格が策定された。Atomにはウェブログ・ツール「ムーバブル・タイプ」(Movable Type)の開発元のSix Apart社やスタンフォード大学法学部のローレンス・レッシグ教授、XML開発者のTim Brayなどが支持を表明し、またGoogleも自社のサービスGmailにて、メールの内容をAtomフィードで提供するサービスを行っている。新しいフィード技術Atomと、現行のRSSとの対立によりさらなる混乱が予想される。


[編集] RSSの利用
RSSの取得・購読にはRSSリーダー(フィードリーダーとも)と呼ばれるソフトウェアを使う。また、RSSを作成・追加するためのソフトウェアもあるが、比較的シンプルなXML形式なので手作業でも可能である。


[編集] 図書館におけるRSS
情報を扱う専門機関としての図書館においてもRSSの活用サービス例は増えている。お知らせの配信などはもっとも活用されている例である。京都大学図書館機構などでは、学生や研究者向けにRSSについての概要や活用方法などをまとめている。また、農林水産研究情報センターでは、新着雑誌、新着図書情報などもRSSによって配信している。





[編集] 関連項目
Resource Description Framework(RDF)
フィード
Atom
フィードリーダー
なんでもRSS(RSSに対応していないサイトの更新情報をフィードの形で確認することができるサービス)
XML
MAGIC-HAND外部サイトのフィードをサイトのコンテンツとして取り込むプログラム

[編集] 外部リンク
RSS -- サイト情報の要約と公開 The Web KANZAKIによるRSS 1.0の解説
RSS 0.9 Document Type Definition Netscape CommunicationsによるRSS 0.9のDTD
RSS 0.91仕様(英語)
RSS 1.0仕様(英語) / [1](和訳)
RSS 0.92仕様(英語)
RSS 2.0仕様(英語)
ウィキペディア日本語版の「最近更新されたページ」のRSS
Feed Icons 標準フィードアイコン
京都大学図書館機構「メール・アラート、RSSリーダー」
MAFFIN News Feeds Center「よくある質問と回答」農林水産研究情報センター
RSS(RDF Site Summary)を活用した新たな図書館サービスの展開情報管理Vol. 49 (2006) , No. 1 p.11-23
"http://ja.wikipedia.org/wiki/RSS" より作成
カテゴリ: XMLベースの技術 | メタデータ

最終更新 2008年8月24日 (日) 14:40。 Wikipedia®











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【Rashōmon (short story)】

2008-09-10 13:32:01 | 17 ◎調べもの文芸文庫
【Rashōmon (short story)】

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"Rashōmon" (羅生門) is a short story by Akutagawa Ryūnosuke based on tales from the Konjaku Monogatarishū.

The story was first published in 1915 in Teikoku Bungaku. Despite its name, it provided no direct plot material for the Akira Kurosawa movie Rashōmon, which was based on Akutagawa's 1921 short story, In a Grove. However, the framing sequence of the film reflects certain elements of the story, such as the theft of a kimono and the discussion of the moral ambiguity of thieving to survive.


[edit] Plot summary
The story recounts the encounter between a servant and an old woman in the dilapidated Rashōmon Gate, where unclaimed corpses were sometimes dumped.

The man, a lowly servant recently fired, is contemplating whether to starve to death or to become a thief to survive in the barren times. When he goes upstairs - after noticing some firelight there, he encounters the woman, who is stealing hair from the dead bodies in the second floor. He is disgusted, and decides then that he would rather take the path of righteousness even if it meant starvation. He is furious with the woman.

But the old woman tells him that she steals hair to make wigs so she can survive. In addition, the woman whose body she is currently robbing cheated people in her life by selling snake meat and claiming it was fish. The old woman says that this was not wrong because it allowed the woman to survive -- and so in turn this entitles her to steal from the dead person, because if she doesn't, she too will starve. The man responds "You won't blame me, then, for taking your clothes. That's what I have to do to keep from starving to death." He then brutally robs the woman of her robe and disappears into the night.

The book itself also plays a part in the 1999 movie Ghost Dog.


[edit] External links
Rashōmon (in Japanese) at Project Gutenberg
Rashōmon (in Japanese), better-known, later version, available freely at Aozora Bunko
Free copy of the story in English
Free MP3s of the story, read by a professional Japanese actress (In Japanese)
Murray, Giles (2003). Breaking into Japanese Literature. Kodansha. ISBN 4-7700-2899-7. A bilingual book with "In a Grove" & "Rashomon"
Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Rash%C5%8Dmon_(short_story)"
Categories: 1915 short stories | Short stories by Ryūnosuke Akutagawa


This page was last modified on 31 August 2008, at 11:28.












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   芥川龍之介『蜜柑』(付録:湘南新宿ライン)
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【大前研一】   ②■■コンサルタント、③■■評論家、社会起業家。

2008-09-10 13:05:36 | 13 用語集:①人物一覧   
【大前研一】

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①■■■■(おおまえ けんいち、1943年2月21日 - )は、日本の②■■コンサルタント、③■■評論家、社会起業家。

平成維新の会後の特定非営利法人④「■■■」創立者。株式会社大前・アンド・アソシエーツ代表取締役。株式会社ビジネス・ブレークスルー大学院大学代表取締役兼同大学院大学学長。アメリカ合衆国マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科博士課程修了。学位は工学博士(マサチューセッツ工科大学)。

[編集] 略歴
北九州市若松区出身。横浜市神奈川区反町育ち。父親は元軍人。⑤■■■県立■■■■高等学校へ進学するが、高校時代は不登校。演奏部でのクラリネットの練習のためだけに学校へ通う。東京大学文科一類を受験するが合格は適わず、⑥■■■■■理工学部へ進学する。在学中は外国人を相手にした観光ガイドで英語の力を磨く。大学卒業後は、東京工業大学大学院原子核工学科修士課程にて修士号を取得。奨学金を得て、アメリカ合衆国・⑦■■■■■■■■■■大学大学院原子力工学科博士課程に留学し博士号を取得した。

米国から帰国後は、⑧■■■■■へ入社し高速増殖炉の設計技師として勤務。2年後に退職し、原子力の世界から引退する。同年新設されたばかりの米国系経営コンサルティング会社⑨■■■■■■・アンド・カンパニーへ転職。同社入社後より経営の勉強を始め、その勉強過程をノートにまとめた著書『企業参謀(1975年)』を出版する。⑩『■■■■』は、ビジネス初心者にもわかりやすいビジネス書としてベストセラーになる。経営コンサルタントとして活動を始め、⑪■■■■■に経済政策提言・助言をしたことで広くマスメディアに知られるようになる。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、アジア太平洋支局長、日本法人会長を歴任し独立する。

1992年11月、新自由主義的な政策市民集団として⑫「■■■■■■」を設立し、同会の代表に就任。江田五月(シリウス)、細川護煕(日本新党)、小沢一郎(自民党羽田派)と並び、⑬「■■■■日本派」と言われた。当初は直接政界進出せず政策の合致する他党派の議員・候補者を推薦・支持する格付けという形を取っていた。

1995年には、月刊誌「文藝春秋」3月号で「新・薩長連合結成宣言」を発表。知事連盟構想を掲げ、4月の東京都知事選に立候補するも、無党派層を集約できず惨敗(同月の北海道知事選では、同構想に呼応した友人の三浦雄一郎も出馬し落選)。時を置かずして行われた参院選に比例区から、自身と三浦雄一郎ら10人で出馬するも全員落選。この時の選挙戦の体験を元に⑮「■■■■敗戦記(1995年)」(文藝春秋)を出版し、その中で、この一件によって知己のあった財界人達から一時期疎んじられるようになり、選挙資金として私財6億円を失ったことを告白している。

平成維新の会は参院選直後に事実上解散するが、その後特定非営利活動法人政策学校一新塾を主宰し、政治家や起業家の養成に乗り出す。更に教育関連事業会社ビジネス・ブレークスルーを設立、起業家養成学校「アタッカーズ・ビジネススクール」・管理者養成プログラム・大前経営塾・スカイパーフェクTV!によるビジネス番組放送サービス・e-ラーニングによるMBAコースを運営する。MBAコースは米国の南カリフォルニア大学との提携で始めるが、その後オーストラリアのボンド大学とも提携を開始する。2004年には構造改革特区制度を活用し、株式会社運営による大学院大学・ビジネス・ブレークスルー大学院大学を開校し、自ら学長・指導教授を務める。ビジネス・ブレークスルーは2005年12月に東証マザーズ上場を果たした。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院公共政策学部教授、オーストラリアボンド大学客員教授も兼任する。

日本国内はもとより海外での評価も高い経営コンサルタントであり、1994年の英国の経済誌⑯「■■■■■■」にて、現代社会の5人のグル(世界を動かす教祖)に選ばれる。英国の新聞フィナンシャルタイムズの選ぶ⑰「■■の■■■トップ50」にも著作が2冊選ばれる。


"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%89%8D%E7%A0%94%E4%B8%80" より作成
カテゴリ: 経営コンサルタント | 日本の社会起業家 | 経済評論家 | 国政選挙立候補経験者 | 知事選挙立候補経験者 | 北九州市出身の人物 | 横浜市出身の人物 | 1943年生



最終更新 2008年8月19日 (火) 09:56。Wikipedia®










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大前 研一(おおまえ けんいち、1943年2月21日 - )は、日本の経営コンサルタント、経済評論家、社会起業家。

平成維新の会後の特定非営利法人「一新塾」創立者。株式会社大前・アンド・アソシエーツ代表取締役。株式会社ビジネス・ブレークスルー大学院大学代表取締役兼同大学院大学学長。アメリカ合衆国マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科博士課程修了。学位は工学博士(マサチューセッツ工科大学)。

目次 [非表示]
1 略歴
2 大前研一の運営するビジネススクール
3 著作
3.1 訳書
4 関連項目
5 外部リンク



[編集] 略歴
北九州市若松区出身。横浜市神奈川区反町育ち。父親は元軍人。神奈川県立横浜翠嵐高等学校へ進学するが、高校時代は不登校。演奏部でのクラリネットの練習のためだけに学校へ通う。東京大学文科一類を受験するが合格は適わず、早稲田大学理工学部へ進学する。在学中は外国人を相手にした観光ガイドで英語の力を磨く。大学卒業後は、東京工業大学大学院原子核工学科修士課程にて修士号を取得。奨学金を得て、アメリカ合衆国・マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科博士課程に留学し博士号を取得した。

米国から帰国後は、日立製作所へ入社し高速増殖炉の設計技師として勤務。2年後に退職し、原子力の世界から引退する。同年新設されたばかりの米国系経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーへ転職。同社入社後より経営の勉強を始め、その勉強過程をノートにまとめた著書『企業参謀(1975年)』を出版する。『企業参謀』は、ビジネス初心者にもわかりやすいビジネス書としてベストセラーになる。経営コンサルタントとして活動を始め、中曽根康弘に経済政策提言・助言をしたことで広くマスメディアに知られるようになる。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、アジア太平洋支局長、日本法人会長を歴任し独立する。

1992年11月、新自由主義的な政策市民集団として「平成維新の会」を設立し、同会の代表に就任。江田五月(シリウス)、細川護煕(日本新党)、小沢一郎(自民党羽田派)と並び、「日本4大改革派」と言われた。当初は直接政界進出せず政策の合致する他党派の議員・候補者を推薦・支持する格付けという形を取っていた。

1995年には、月刊誌「文藝春秋」3月号で「新・薩長連合結成宣言」を発表。知事連盟構想を掲げ、4月の東京都知事選に立候補するも、無党派層を集約できず惨敗(同月の北海道知事選では、同構想に呼応した友人の三浦雄一郎も出馬し落選)。時を置かずして行われた参院選に比例区から、自身と三浦雄一郎ら10人で出馬するも全員落選。この時の選挙戦の体験を元に「大前研一敗戦記(1995年)」(文藝春秋)を出版し、その中で、この一件によって知己のあった財界人達から一時期疎んじられるようになり、選挙資金として私財6億円を失ったことを告白している。

平成維新の会は参院選直後に事実上解散するが、その後特定非営利活動法人政策学校一新塾を主宰し、政治家や起業家の養成に乗り出す。更に教育関連事業会社ビジネス・ブレークスルーを設立、起業家養成学校「アタッカーズ・ビジネススクール」・管理者養成プログラム・大前経営塾・スカイパーフェクTV!によるビジネス番組放送サービス・e-ラーニングによるMBAコースを運営する。MBAコースは米国の南カリフォルニア大学との提携で始めるが、その後オーストラリアのボンド大学とも提携を開始する。2004年には構造改革特区制度を活用し、株式会社運営による大学院大学・ビジネス・ブレークスルー大学院大学を開校し、自ら学長・指導教授を務める。ビジネス・ブレークスルーは2005年12月に東証マザーズ上場を果たした。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院公共政策学部教授、オーストラリアボンド大学客員教授も兼任する。

日本国内はもとより海外での評価も高い経営コンサルタントであり、1994年の英国の経済誌「エコノミスト」にて、現代社会の5人のグル(世界を動かす教祖)に選ばれる。英国の新聞フィナンシャルタイムズの選ぶ「歴史上の経営書トップ50」にも著作が2冊選ばれる。かつて頻繁に地上波テレビ番組に出演していたが、近年ではCS放送のビジネス・ブレークスルー以外の放送番組にほとんど出演していない。2007年12月雑誌SAPIOの中でテレビに出ない理由を、プロデューサーといった番組制作者が「これを言ってくれ」と干渉してきて番組が偏向するのが嫌だからと述べている。

MIT留学時代に演奏部で知り合ったアメリカ人のジャネット夫人との間に2男をもつ。趣味はオートバイとクラリネット。


[編集] 大前研一の運営するビジネススクール
ボンド大学大学院 - ビジネス・ブレークスルー オーストラリア版MBAプログラム
ビジネス・ブレークスルー大学院大学
アタッカーズ・ビジネススクール
大前経営塾

[編集] 著作
『企業参謀』
『続・企業参謀』
『平成維新』
『平成維新パートⅡ』
『ボーダレス・ワールド』
『マッキンゼー・ボーダレス時代の経営戦略』
『サラリーマン・サバイバル』
『サラリーマン・リカバリー』
『新・資本論』
『ザ・プロフェショナル』
『考える技術』
『ドットコム仕事術』
『ロウアーミドルの衝撃』
『新・経済原論』
『心理経済学』

[編集] 訳書
『エクセレント・カンパニー』(トム・ピーターズ、ロバート・ウォーターマン共著)
『ハイ・コンセプト』(ダニエル・ピンク著)(三笠書房 2006年)

[編集] 関連項目
道州制
地域国家
一新塾
福岡県出身の人物一覧
トム・ピーターズ

[編集] 外部リンク
大前・アンド・アソシエーツグループ
大前研一氏 コラム
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%89%8D%E7%A0%94%E4%B8%80" より作成
カテゴリ: 経営コンサルタント | 日本の社会起業家 | 経済評論家 | 国政選挙立候補経験者 | 知事選挙立候補経験者 | 北九州市出身の人物 | 横浜市出身の人物 | 1943年生



最終更新 2008年8月19日 (火) 09:56。Wikipedia®









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【横浜市出身の人物一覧】

2008-09-10 11:30:35 | 13 用語集:①人物一覧   
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①■■■■■の■■■■(よこはまししゅっしんのじんぶついちらん)は、神奈川県横浜市出身の人物の一覧である。

2 学術・言論
3 芸術
3.1 文芸・絵画
3.2 映像
4 芸能
4.1 演劇、演芸、俳優
4.2 音楽
5 囲碁・将棋・チェス
6 スポーツ
7 関連項目




[編集] 学術・言論
②■■由三郎、英語学者
③■■はま、教育者
④■■大蔵、評論家
⑤■■優子、江戸時代研究者


[編集] 文芸・絵画
⑥■■天心、美術評論家
⑦■■生馬、画家
⑧■■■伸、作家
⑨■■抱影、随筆家
⑩■■寒村、労働運動家・作家
⑪■■([弓+享])、作家
⑫■■英治、作家
⑬■■次郎、作家
⑭■東光、作家
⑮■■不死男、俳人
⑯■■一夫、劇作家
⑰■■魁夷、画家
⑱■■透、文芸評論家
⑲■■敏雄、作家
⑳■美里、劇作家、小説家
①★★アンナ、作家
②★★光一、文芸評論家
③★★順一郎、文芸評論家
④★★智彦、作家
⑤★★雨彦、エッセイスト
⑥★★★原平、作家
⑦★★光代、作家



[編集] 演劇、演芸、俳優
⑧★★直子、女優、タレント
⑨★す★、タレント・映画評論家
⑩★歌丸、落語家、落語芸術協会会長
⑪★★慎吾、俳優/SMAP
⑫★★雄三、俳優、歌手(育ちは神奈川県茅ヶ崎市)
⑬★惠子、女優
⑭★★光子、女優
⑮★★由貴、女優
⑯★まり、歌手
⑰★★直人、俳優、コメディアン、映画監督、歌手
⑱★★貴子、女優(育ちは、兵庫県西宮市。)
⑲★★雅子- 女優(生まれは東京都港区)
⑳★節子、女優

①▲▲菜々子、女優(生まれは神奈川県座間市)
②▲▲ひばり、歌手
③▲▲▲▲安川、タレント
④▲▲百恵、元歌手、女優(生まれは東京都渋谷区)
⑤▲▲▲映見、女優
⑥▲▲はま子、歌手
⑦▲▲真理、フリーアナウンサー


[編集] 音楽

⑧▲▲和正、シンガーソングライター
⑨▲敏郎、作曲家


[編集] 囲碁・将棋・チェス
⑩▲▲俊之、将棋棋士・現名人

[編集] スポーツ
⑪▲▲勲、元プロ野球選手
⑫▲▲俊輔、サッカー選手



[編集] 関連項目
Category:横浜市出身の人物
Category:神奈川県出身の人物
出身別の人名記事一覧の一覧
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カテゴリ: 横浜市出身の人物 | 神奈川県出身の人物 | 横浜市

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横浜市出身の人物一覧(よこはまししゅっしんのじんぶついちらん)は、神奈川県横浜市出身の人物の一覧である。

目次 [非表示]

2 学術・言論
3 芸術
3.1 文芸・絵画
3.2 映像
4 芸能
4.1 演劇、演芸、俳優
4.2 音楽
5 囲碁・将棋・チェス
6 スポーツ
7 関連項目




[編集] 学術・言論
岡倉由三郎、英語学者
小野寺健、英文学者
左右田喜一郎、経済学者
大村はま、教育者
杉本つとむ、国語学者
江藤文夫、評論家
仁賀克雄、翻訳家・評論家
草柳大蔵、評論家
坂野潤治、政治学者・歴史家
田中優子、江戸時代研究者
小島道裕、歴史学者
布施哲治、天文学者
白井暁彦、メディアアート研究者
川添裕、見世物研究家・文化史家



[編集] 芸術

[編集] 文芸・絵画
浅田弘幸、漫画家
岡倉天心、美術評論家
有島生馬、画家
長谷川伸、作家
野尻抱影、随筆家
荒畑寒村、労働運動家・作家
里見([弓+享])、作家
長谷川潔、版画家
吉川英治、作家
岩田豊雄、作家
獅子文六、作家・演出家
川上澄生、版画家
大佛次郎、作家
木村文、漫画家
今東光、作家
秋元不死男、俳人
菊田一夫、劇作家
東山魁夷、画家
寺田透、文芸評論家
武井昭夫、文芸評論家
島尾敏雄、作家
柳美里、劇作家、小説家
郷静子、作家
佐田亜矢作家・随筆家
荻野アンナ、作家
小山内美江子、脚本家
磯田光一、文芸評論家
紀田順一郎、文芸評論家
山田智彦、作家
青木雨彦、エッセイスト
赤瀬川原平、作家
矢作俊彦、作家
一本木蛮、漫画家
望月峯太郎、漫画家
望月三起也、漫画家
浅葉克己、デザイナー
府川充男、装丁家・印刷史研究家
河岡潮風、作家
角田光代、作家
フィリス・A・ホイットニー、作家



[編集] 映像
仙頭武則、映画プロデューサー
利重剛、映画監督
倉田準二、映画監督

[編集] 芸能

[編集] 演劇、演芸、俳優
浅野忠信、男優
浅葉彩、フリーアナウンサー
有原栞菜、歌手/℃-ute
飯島直子、女優、タレント
飯塚雅弓、女優・声優・歌手(生まれは東京都)
石塚英彦、タレント/ホンジャマカ
石橋けい、女優
板野友美、歌手/AKB48
伊藤かずえ、女優、タレント
稲木聡、福井放送元アナウンサー
井上真央、女優
入江美樹、モデル・女優
植村智子、西日本放送アナウンサー
内田恭子 フリーアナウンサー
内野聖陽、俳優
梅田えりか、歌手/℃-ute
大原さやか、声優
緒形直人、俳優
岡本富士太、男優
おすぎ、タレント・映画評論家
桂歌丸、落語家、落語芸術協会会長
香取慎吾、俳優/SMAP
金田朋子、声優
加山雄三、俳優、歌手(育ちは神奈川県茅ヶ崎市)
神田昇二郎、男優
岸惠子、女優
北原遥子、女優、元宝塚歌劇団雪組娘役トップスター
北村透馬、作家
草笛光子、女優
Crystal Kay、歌手
黒沢年雄、俳優、歌手
桑野みゆき、女優
小島めぐみ、声優
五大路子、女優
後藤沙緒里、声優
小林恵、女優、タレント
子安武人、声優
金剛地武志、俳優、ミュージシャン
斉藤慶太、俳優
斉藤祥太、俳優
斉藤由貴、女優
斉藤隆治、元俳優
桜塚やっくん、お笑いタレント
佐野浅夫、男優
渋谷哲平、俳優・歌手
須藤理彩、女優
園まり、歌手
高島礼子、女優
瀧の家鯉香、三味線コント、のんき節
高瀬春奈、女優
高橋かおり、女優
高橋克典、歌手、俳優、タレント
高橋長英、俳優
竹中直人、俳優、コメディアン、映画監督、歌手
谷原章介、俳優、タレント
堤下敦、お笑いタレント/インパルス
妻夫木聡、俳優(生まれは福岡県柳川市)
出川哲朗、タレント
手越祐也、歌手、俳優/NEWS・テゴマス
寺尾聰、俳優・歌手・ベーシスト
常盤貴子、女優(育ちは、兵庫県西宮市。)
東根作寿英、俳優
中島唯、美少女クラブ31
長瀬智也、(TOKIO)男性アイドル、俳優、歌手、タレント
生天目仁美、声優
中丸シオン、女優
中丸新将、俳優
中森友香、女優、タレント
夏目雅子- 女優(生まれは東京都港区)
成海璃子、女優
南原宏治、俳優
西岡徳馬、俳優
仁科有理 - 女優
西原亜希、女優
蜷川有紀、女優
野村真美、女優
野村道子、声優
初井言榮女優
はな、タレント
浜田晃、俳優
パメラ・フランクリン、女優
原節子、女優
ピーコ、タレント・ファッション評論家
平井雅幸、テレビ岩手アナウンサー
平井麗奈、ダンサー・女優
ふかわりょう、お笑いタレント
福本実、福井放送アナウンサー
藤村直己、広島テレビ放送アナウンサー
細川直美、女優
松嶋菜々子、女優(生まれは神奈川県座間市)
松田暎子、女優
真夏竜、俳優
丸山優子、女優
三島ゆり子、女優
美空ひばり、歌手
ミッキー安川、タレント
宮田幸季、声優
向井理、俳優
村上知子、お笑い芸人
本橋馨、熊本県民テレビアナウンサー
矢口真里、歌手/元モーニング娘。
柳沢なな、女優
薮宏太、歌手、タレント、俳優、Hey! Say! JUMPのメンバー
日向七海、子役
山口小夜子、ファッション・モデル
山口百恵、元歌手、女優(生まれは東京都渋谷区)
裕木奈江、女優、歌手
余貴美子、女優
吉岡小鼓音‎、女優
吉川美代子、TBSアナウンサー・解説委員
米倉涼子、女優、元ファッションモデル
和久井映見、女優
渡辺はま子、歌手
渡辺真理、フリーアナウンサー
桐山漣、俳優



[編集] 音楽
Akeboshi、シンガーソングライター
小田和正、シンガーソングライター
黛敏郎、作曲家
村井研次郎、ミュージシャン/CYCLE(バンド)ベーシスト
中村裕介、ミュージシャン
ミッキー吉野、ミュージシャン
原由子、ミュージシャン/サザンオールスターズ
横山剣、ミュージシャン/クレイジーケンバンド
田中豊雪、ベーシスト/元THE SQUARE
西山毅、ミュージシャン/ハウンドドッグ
石川俊介、ゼノン石川、ミュージシャン/元聖飢魔II
松岡英明、ロックミュージシャン
岩沢厚治、ミュージシャン/ゆず
北川悠仁、ミュージシャン/ゆず
喜多建介、ミュージシャン/ASIAN KUNG-FU GENERATION
KYONO、ミュージシャン/THE MAD CAPSULE MARKETS
TAKESHI UEDA、ミュージシャン/THE MAD CAPSULE MARKETS
石垣愛、ミュージシャン/元THE MAD CAPSULE MARKETS
YUKI、ミュージシャン/Raphael
YUKITO、ミュージシャン/Raphael
室姫深、ミュージシャン/元DIE IN CRIES
金内孝史、ミュージシャン/元DIE IN CRIES
西山毅、ミュージシャン/ハウンドドッグ
エッセンス、ミュージシャン/斎藤環と斎藤希の双子
米倉千尋、シンガーソングライター
大坂孝之介、ミュージシャン/元湘南探偵団
小坂りゆ、ミュージシャン/BeForU
MACCHO、ヒップホップMC/OZROSAURUS
玉露、ヒップホップMC・トラックメイカー/ICE BAHN
FORK、ヒップホップMC/ICE BAHN
坪松裕樹、ソロギタリスト
文望、ミュージシャン

[編集] 囲碁・将棋・チェス
森内俊之、将棋棋士・現名人
瀬川晶司、将棋棋士
西尾明、将棋棋士
権田源太郎、チェスプレーヤー・実業家

[編集] スポーツ
飯田徳治、元プロ野球選手
桑田武、元プロ野球選手
柴田勲、元プロ野球選手
小池正晃、プロ野球選手(中日ドラゴンズ所属)
福田永将、プロ野球選手(中日ドラゴンズ所属)
木田勇、元プロ野球選手
阿波野秀幸、元プロ野球選手
荒井幸雄、元プロ野球選手
森野将彦、プロ野球選手(中日ドラゴンズ所属)
代田建紀、プロ野球選手(千葉ロッテマリーンズ所属)
石井裕也、プロ野球選手(横浜ベイスターズ所属)
高橋光信、プロ野球選手(阪神タイガース所属)
アントニオ猪木、格闘家
高田延彦、格闘家
神取忍、プロレスラー
鈴木みのる、プロレスラー
バラモン・シュウ&ケイ、プロレスラー
宮城野友淳、元十両力士/金親和憲
諸岡奈央、空手道選手
福田正博、サッカー解説者
中村俊輔、サッカー選手
佐古賢一、バスケットボール選手
鈴木鉄夫、バスケットボール選手
田臥勇太、バスケットボール選手
田中雅彦、バドミントン選手
小林ゆき、モーターサイクルジャーナリスト






[編集] 関連項目
Category:横浜市出身の人物
Category:神奈川県出身の人物
出身別の人名記事一覧の一覧
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7" より作成
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最終更新 2008年9月8日 (月) 05:55。Wikipedia®