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【平家物語】  ⑭『■■■■■』 - 平家物語の一異本。 ⑲『■■千本桜』

2008-09-09 07:15:24 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
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【平家物語】


①『■■■■』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

②■■■■・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家のたいしょう、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。③■■■■■で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。

[編集] 成り立ち
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より④『■■■■(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。

[編集] 作者
作者については古来多くの説がある。最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、⑤■■■■■■(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教えて語らせたと記されている。

[編集] 諸本
現存している諸本としては、
盲目の僧として知られる⑥■■■■(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの

[編集] 語り本系
語り本系は⑦■■■と一方系とに分けられる。
八坂系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、⑧■■■諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した⑨■■■■による念仏三昧の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」を特立する。
現在入手しやすいテキストとしては、『日本古典文学大系』(覚一本系・⑩■■■■図書館蔵本)、『日本古典文学全集』・『新日本古典文学大系』、『完訳日本の古典』(覚一本系・高野本)、『日本古典集成』(仮名百二十句本・国立国会図書館本)などがある。




[編集] 史料
⑪『■■■』 - 鎌倉幕府編纂の歴史書。平家物語と同時期の出来事を描く。
⑫『■■』 - 同時代の大臣である九条兼実の日記。
⑬『■■■』 - 兼実の弟で天台宗の僧である慈円による史書。

[編集] 古典
⑭『■■■■■』 - 平家物語の一異本。
⑮『保■■語』 - 平家物語以前の出来事を描いている。
⑯『■治物■』 - 同上。
⑰『■■■』 - 義経の伝説を描く。落ちのびる描写が中心。

[編集] 能
⑱『■寛』

[編集] 浄瑠璃・歌舞伎
⑲『■■千本桜』

[編集] 近代の関連作品
小説
⑳『■■■■■』 小泉八雲(「怪談」所蔵)


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カテゴリ: 日本の文学作品 | 日本の伝統音楽

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【平家物語】

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『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 成り立ち
1.2 作者
2 諸本
2.1 語り本系
2.1.1 平曲
2.2 読み本系
3 構成
4 関連項目
4.1 史料
4.2 古典
4.3 能
4.4 幸若舞
4.5 浄瑠璃・歌舞伎
4.6 近代の関連作品
4.7 その他
5 外部リンク



[編集] 概要

[編集] 成り立ち
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。

正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと思われる。ただし、現存の延慶本が、そのまま奥書の時代の形をとどめているとは言えないというのが一般的見解である。


[編集] 作者
作者については古来多くの説がある。最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教えて語らせたと記されている。

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。その他に、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、京の院御所で勧学院文章博士となった後に出家、その後紆余曲折を経て大夫坊覚明の名で木曽義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。

しかしながらいずれも確証があることではなく、何より軍記物語の生成・成長過程を考えると、特定の作者を想定することが有益とは言えないであろう。


[編集] 諸本
現存している諸本としては、

盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの
読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの
がある。


[編集] 語り本系
語り本系は八坂系と一方系とに分けられる。

八坂系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」を特立する。

現在入手しやすいテキストとしては、『日本古典文学大系』(覚一本系・龍谷大学図書館蔵本)、『日本古典文学全集』・『新日本古典文学大系』、『完訳日本の古典』(覚一本系・高野本)、『日本古典集成』(仮名百二十句本・国立国会図書館本)などがある。


[編集] 平曲
語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことであるが、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的にはまったく別のもので、これらを平曲とは呼ばない。

平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存したが、八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれたが、波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野知一検校が前田流譜本を集大成して「平家正節(へいけまぶし)」を完成、以後同書が前田流の定本となった。

明治維新後は幕府の庇護を離れた当道座が解体したために伝承する者も激減し、昭和期には仙台に館山甲午(1894年生~1989年没)、名古屋に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけだったが平成20年現在では三品検校の弟子今井某が生存しているだけである。しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。現在では国の重要無形文化財として指定されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。

平曲の発生として、東大寺大仏殿の開眼供養の盲目僧まで遡ることが「日本芸能史」等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。


[編集] 読み本系
読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきている。とはいえ,読み本系の方が語り本系に比べて事実を正確に伝えているかどうかは別の問題である。

広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままであるが、読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、源平闘諍録の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。


[編集] 構成
※12巻本、灌頂巻が独立している語り本系の構成を掲載する。

巻第一
祇園精舎、殿上闇討、鱸、禿髪、我身栄花、祗王、二代后、額打論、清水寺炎上、東宮立、殿下乗合、鹿谷、俊寛沙汰、願立、御輿振、内裏炎上
巻第二
座主流、一行阿闍梨之沙汰、西光被斬、小教訓、少将乞請、教訓状、烽火之沙汰、大納言流罪、阿古屋之松、大納言死去、徳大寺之沙汰、堂衆合戦、山門滅亡、善光寺炎上、康頼祝言、卒都婆流、蘇武
巻第三
赦文、足摺、御産、公卿揃、大塔建立、頼豪、少将都帰、有王、僧都死去、辻風、医師問答、無文、燈炉之沙汰、金渡、法印問答、大臣流罪、行隆之沙汰、法皇被流、城南之離宮
巻第四
厳島御幸、還御、源氏揃、鼬之沙汰、信連、競、山門牒状、南都牒状、永僉議、大衆揃、橋合戦、宮御最期、若宮出家、通乗之沙汰、ぬえ、三井寺炎上
巻第五
都遷、月見、物怪之沙汰、早馬、朝敵揃、咸陽宮、文覚荒行、勧進帳、文覚被流、福原院宣、富士川、五節之沙汰、都帰、奈良炎上
巻第六
新院崩御、紅葉、葵前、小督、廻文、飛脚到来、入道死去、築島、慈心房、祗園女御、嗄声、横田河原合戦
巻第七
清水冠者、北国下向、竹生島詣、火打合戦、願書、倶梨迦羅落、篠原合戦、実盛、玄肪、木曾山門牒状、返牒、平家山門連署、主上都落、惟盛都落、聖主臨幸、忠度都落、経正都落、青山之沙汰、一門都落、福原落
巻第八
山門御幸、名虎、緒環、太宰府落、征夷将軍院宣、猫間、水島合戦、瀬尾最後、室山、鼓判官、法住寺合戦
巻第九
生ずきの沙汰、宇治川先陣、河原合戦、木曾最期、樋口被討罰、六ヶ度軍、三草勢揃、三草合戦、老馬、一二之懸、二度之懸、坂落、越中、前司最期、忠度最期、重衡生捕、敦盛最期、知章最期、落足、小宰相身投
巻第十
首渡、内裏女房、八島院宣、請文、戒文、海道下、千手前、横笛、高野巻、惟盛出家、熊野参詣、惟盛入水、三日平氏、藤戸、大嘗会之沙汰
巻第十一
逆櫓、勝浦、嗣信最期、那須与一、弓流、志度合戦、鶏合 壇浦合戦、遠矢、先帝身投、能登殿最期、内侍所都入、剣、一門大路渡、鏡、文之沙汰、副将被斬、腰越、大臣殿被斬、重衡被斬
巻第十二
大地震、紺掻之沙汰、平大納言被流、土佐房被斬、判官都落、吉田大納言沙汰、六代、泊瀬六代、六代被斬
灌頂巻
女院出家、大原入、大原御幸、六道之沙汰、女院死去

[編集] 関連項目

[編集] 史料
『吾妻鏡』 - 鎌倉幕府編纂の歴史書。平家物語と同時期の出来事を描く。
『玉葉』 - 同時代の大臣である九条兼実の日記。
『愚管抄』 - 兼実の弟で天台宗の僧である慈円による史書。

[編集] 古典
『源平盛衰記』 - 平家物語の一異本。
『保元物語』 - 平家物語以前の出来事を描いている。
『平治物語』 - 同上。
『義経記』 - 義経の伝説を描く。落ちのびる描写が中心。

[編集] 能
『敦盛』
『忠度』
『巴』
『船弁慶』
『橋弁慶』
『景清』
『俊寛』

[編集] 幸若舞
『敦盛』

[編集] 浄瑠璃・歌舞伎
『義経千本桜』
『一谷嫩軍記』
『平家女護島』(俊寛)

[編集] 近代の関連作品
小説
『耳なし芳一』 小泉八雲(「怪談」所蔵)
『新・平家物語』 吉川英治
『宮尾本 平家物語』 宮尾登美子
『双調平家物語 』 橋本治
戯曲
『子午線の祀り』 木下順二
TVドラマ
『新・平家物語』(1972年NHK大河ドラマ 原作 :吉川英治『新・平家物語』)
『人形歴史スペクタクル 平家物語』(1993年 - 1995年NHK人形劇 原作:吉川英治『新・平家物語』)
『義経』(2005年NHK大河ドラマ 原作:宮尾登美子『宮尾本平家物語』ほか)
映画
『新・平家物語』(1955年大映)原作:吉川英治 監督:溝口健二 主演:市川雷蔵 久我美子 木暮実千代
『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年大映)原作:吉川英治 監督:衣笠貞之助 主演:長谷川一夫 京マチ子 山本富士子 高峰秀子 大河内傳次郎
『新・平家物語 静と義経』(1956年大映)原作:吉川英治 監督:島耕二 主演:淡島千景 菅原謙二 香川京子
漫画
『平家物語』(マンガ日本の古典、横山光輝)
絵本
『かえるの平家ものがたり』(文:日野十成、絵:斎藤隆夫) - 平家はカエル、源氏はネコとして表現されている)
ビデオゲーム
源平討魔伝(1986年、ナムコ)
源平合戦 (1994年、光栄)
遙かなる時空の中で3(2004~2006年、光栄)

[編集] その他
全国平家会

[編集] 外部リンク
ウィキクォートに平家物語に関する引用句集があります。平家物語協会
日本文学電子図書館
平家物語
平家物語全文現代語訳
朗読平家物語

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野菊の墓 伊藤左千夫        3万6千字×0.3 =■■■字

2008-09-09 06:19:14 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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野菊の墓
伊藤左千夫





「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」

  【参考文献:『毎日楽しむ名文365』 
林望監修 
あらきみほ編 
中経出版2576 
www.chukei.co.jp/】

 





野菊の墓
伊藤左千夫


後(のち)の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣(わけ)とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余(よ)も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧(むし)ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪(むさぼ)って居る事が多い。そんな訣から一寸(ちょっと)物に書いて置こうかという気になったのである。
 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切(やぎり)の渡(わたし)を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈(かいわい)での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎(しい)の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森(いもり)で村じゅうから羨(うらや)ましがられて居る。昔から何ほど暴風(あらし)が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥(は)がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤(すす)やら垢(あか)やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目(もくめ)も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠(くぎかくし)なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁(がん)であった。勿論(もちろん)一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。
 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく煩(わずら)って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥(びょうじょく)となって居た。その次の十畳の間の南隅(みなみすみ)に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場(はたおりば)で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓(てすりまど)の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮(さえぎ)って北を掩(おお)うている。
 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹(いとこ)になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩(おそ)いから、十五と少しにしかならない。痩(や)せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味(あかみ)をおんだ、誠に光沢(つや)の好い児であった。いつでも活々(いきいき)として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入(はい)ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
 母からいつでも叱られる。
「また民やは政の所へ這入(はい)ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
 などと頻(しき)りに小言を云うけれど、その実(じつ)母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前(いちにんまえ)として嫁にゆかれません」
 この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘(かかわ)らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達(た)した帰りには、きっと僕の所へ這入ってくる。僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲(あざけ)った様なことがしばしばあったのである。
 


【略】





 民子は年が多いし且(かつ)は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がついたか、非常に愧(は)じ入った様子に、顔真赤にして俯向(うつむ)いている。常は母に少し位小言云われても随分だだをいうのだけれど、この日はただ両手をついて俯向いたきり一言もいわない。何の疚(やま)しい所のない僕は頗(すこぶ)る不平で、
「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私等は何の訣もないのに、何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう云ってたじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お母さんの眼からはお前も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云ったじゃありませんか」
 母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われようとは少しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。母は俄(にわか)にやさしくなって、
「お前達に何の訣もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいから、ただこれから少し気をつけてと云うのです」
 色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真から可愛がる笑みが湛(たた)えて居る。やがて、
「民やはあのまた薬を持ってきて、それから縫掛けの袷(あわせ)を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立った次手(ついで)に花を剪(き)って仏壇へ捧(あ)げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑(しおん)でも切ってくれよ」
 本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でいられない様にしてしまう。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たって民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方では、それからというものは様子がからっと変ってしもうた。
 民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極(きま)りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処(よんどころ)なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑(おか)しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気合になった。
 それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑(なすばたけ)に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊(ざる)を手に持って、僕の後にきていた。
「政夫さん……」
 出し抜けに呼んで笑っている。
「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝(こ)ったろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬(こうじづけ)をつけるからって、お母さんがそう云うから、私飛んできました」
 民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、
「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」
 と云うと民子は、
「知らなくてサ」
 にこにこしながら茄子を採り始める。
 茄子畑というは、椎森の下から一重の藪(やぶ)を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑(せんざいばたけ)。崖(がけ)の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯(たかね)も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何(いか)にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。
「マア何という好い景色でしょう」
 民子もしばらく手をやめて立った。
 僕はここで白状するが、この時の僕は慥(たしか)に十日以前の僕ではなかった。二人は決してこの時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中にも小さな恋の卵が幾個(いくつ)か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽(めざし)ありし何よりの証拠じゃ。
 民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、今日はしみじみとその美しさが身にしみた。しなやかに光沢(つや)のある鬢(びん)の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎(あご)のくくしめの愛らしさ、頸(くび)のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟(はんえり)や花染の襷(たすき)や、それらが悉(ことごと)く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言(こと)は云えなくなる、羞(はず)かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
 ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞(ことば)が継がない。おかしく喉(のど)がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、
「政夫さん、なに……」
「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
 民子はさすがに女性(にょしょう)で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。さも口惜(くや)しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」
 民子はせきこんで、
「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
 民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視(み)ている。僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎(とが)を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
 何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。なお三言四言話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が溢(あふ)れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸(ようや)く二升ばかり宛(ずつ)を採り得た。
「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
 



【略】






 親というものはどこの親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うている。僕の母などもその一人に漏れない。民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味(いやみ)を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著しき変化を遂げている。僕の変化は最も甚(はなはだ)しい。三日前には、お母さんが叱れば私が科(とが)を背負うから遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日はとてもそんな訣のものでない。民子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。
「民さん、またお出(いで)よ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」
 民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙にすねだす。
「あレあなたは先日何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云いはしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」
 困った事になった。二人の関係が密接するほど、人目を恐れてくる。人目を恐れる様になっては、もはや罪悪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。母は口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理窟の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、その後民子が僕の室(へや)へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。この間の小言も実は嫂(あによめ)が言うから出たまでで、ほんとうに腹から出た小言ではない。母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛に蔭言をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを嫁にする気かしらんなどと専(もっぱら)いうているとの話。それやこれやのことが薄々二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。
 人間の心持というものは不思議なもの。二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱(ふさ)ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然(しょうぜん)としているのである。それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるのである。とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。

 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故(わけゆえ)、野の仕事も今日一渡り極(きま)りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることになった。それで甘露的恩命が僕等両人(ふたり)に下ったのである。兄夫婦とお増と外に男一人とは中稲(なかて)の刈残りを是非刈って終(しま)わねばならぬ。民子は僕を手伝いとして山畑の棉(わた)を採ってくることになった。これはもとより母の指図で誰にも異議は云えない。
「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものよッぽどお目出たいものだ」
 奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。僕等二人はもとより心の底では嬉しいに相違ないけれど、この場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。僕は朝飯前は書室を出ない。民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、
「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵(こしら)えてやってくれ。お菜はこれこれの物で……」
 まことに親のこころだ。民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜などはロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのである。僕はズボン下に足袋(たび)裸足(はだし)麦藁帽(むぎわらぼう)という出で立ち、民子は手指(てさし)を佩(は)いて股引(ももひき)も佩いてゆけと母が云うと、手指ばかり佩いて股引佩くのにぐずぐずしている。民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云ってくれと云う。僕は民さんがそう云いなさいと云う。押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、
「民やは町場者(まちばもの)だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私はまたお前が柔かい手足へ、茨(いばら)や薄(すすき)で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」
 それで民子は、例の襷(たすき)に前掛姿で麻裏草履という支度。二人が一斗笊一個宛(ひとつずつ)を持ち、僕が別に番(ばん)ニョ片籠(かたかご)と天秤(てんびん)とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠(すげがさ)を被(かむ)って出ると、母が笑声で呼びかける。
「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」
 稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃお母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。
 



【略】






 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」



「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好(この)もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」



 民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事はその素振りで解る。ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。
 何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄(ほんろう)せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸(どうき)を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に声はつまってしまったのだ。二人はしばらく無言で歩く。





 
【略】



「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵(おおながさく)へは一里に遠いッて云いましたねイ」
「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」
「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄(すすき)の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」

【略】 


毎日七日(なぬか)の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌(あ)くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。

       *      *      *

 民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙(はる)けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。





--------------------------------------------------------------------------------

底本:「日本文学全集別巻1 現代名作集」河出書房
入力:kaku
校正:伊藤時也
1999年1月6日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:











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【阿川弘之】⑲■■■で『阿川弘之全集』を刊行 ⑳月刊■■■■で■■■■『葭の髄から』を連載中

2008-09-09 04:59:11 | 13 用語集:①人物一覧   
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【阿川弘之】



①■■■■(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 - )は、日本の小説家、評論家。学歴は②■■■■大学文学部国文科卒業。学位は文学士(東京帝国大学)。称号は広島県名誉県民。③■■■■■会員。栄典は④■■■■受章。賞歴は野間文芸賞、毎日出版文化賞、読売文学賞など。役職は日本李登輝友の会名誉会長。代表作に、『春の城』⑤『■の■■』のほか、3部作⑥『■■五十六』⑦『■■光政』⑧『■■成美』など。

息子は法学者阿川尚之、娘はタレント・作家⑨■■佐和子。

[編集] 来歴・人物
偕行社附属済美小学校、⑩■■■■師範学校附属中学校、⑪■■広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。⑫■■■■の表題は「志賀直哉」。

海軍予備学生として海軍に入隊する。1943年に少尉任官、軍令部勤務を命ぜられ、わずかだが中国語ができたため特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。

中尉に進級した直後の1944年「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。

1945年の終戦を⑬■■■■湖北省漢口で迎える。

1946年2月いまだ現役かどうかはっきりしない⑭■■■■大尉という身分で揚子江を上海へ下り3月末博多へ上陸復員する。大陸から引き揚げ、広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされてしまった故郷の街を見る。戦友も多くを亡くした。「自分は生き残ってしまった、と言う無常感が根付いてしまった」。

志賀直哉に師事して小説を書く。1953年、一作でいいから、自分達同期生の戦時中の海軍生活をありのまま描いたものを残したい、と亡き友らの鎮魂の思いで描いた『春の城』で読売文学賞を受賞した。

海軍予備士官当時、呉港の沖合いに停泊中の戦艦大和を見た経験から、それを小説に書こうとしたが、新潮社の担当編集者に「そんな陰気くさい話を書いても売れません」と拒否される。しかし、吉田満『戦艦大和ノ最期』がベストセラーになると新潮社の担当は態度を変えて阿川に軍艦ものの執筆を依頼する。この時生まれたのが⑮『■■■■の■■』である。この作品を阿川は武蔵の乗員として戦死した同期二人に奉げる思いで執筆した。以後、原爆や海軍などの自らの戦争体験を通して、戦争の悲惨さや、生きる意味を人間の内面の実感を通して暖かい視線で描いている。

文部省臨時大学問題審議会委員、文化功労者選考審査会委員を歴任。1999年、文化勲章受章。また、日本芸術院会員。2001年12月から2004年4月まで、⑯「■■■■■友の会」の初代会長を務める(現在は名誉会長)。



狐狸庵こと遠藤周作や北杜夫、吉行淳之介、三浦朱門、開高健らとは親友である。特に北杜夫の随筆、紀行文には星新一、遠藤周作、なだいなだ等と共に度々登場する。また、大の乗り物ファンとしても知られ、鉄道・航空・船舶に関してなど、乗り物についての著書も多い。このため鉄道紀行作家の⑰■■■■とは、宮脇が中央公論社の編集者であったころから親交が深く、阿川の鉄道関連の本の幾つかは宮脇の勧めによるものである。⑱■■■■の『阿房列車』シリーズへのオマージュとなる作品も書いている。


⑲■■■で『阿川弘之全集』(全20巻)を刊行した。
⑳月刊■■■■で■■■■『葭の髄から』を連載中。単行本も刊行

[編集] 受賞歴
1953年 『春の城』で読売文学賞
1966年 『山本五十六』で新潮社文学賞
1987年 『井上成美』で日本文学大賞
1994年 『志賀直哉』で野間文芸賞、毎日出版文化賞
1999年 文化勲章
2002年 『食味風々録』で読売文学賞
2007年 菊池寛賞



[編集] 家族 親族
父 阿川甲一(実業家)
母 キミ(大阪,商業石井定次郎娘)
姉 静栄(岐阜県,満鉄社員川上喜三に嫁す)
兄 幸寿(満鉄社員、満州国官吏)
長男 尚之(法学者)
長女 佐和子(作家)


[編集] 関連項目
広島県出身の人物一覧
大日本帝国海軍軍人一覧
第二次世界大戦に関連する人物の一覧
私の履歴書
第三の新人

[編集] 関連人物
遠藤周作
大江健三郎
志賀直哉
李登輝
三浦朱門
安岡章太郎
吉行淳之介

[編集] 参考文献
阿川弘之 『亡き母や』 講談社 2004年
『私の履歴書 第三の新人』 日本経済新聞社 2007年 113-221頁

[編集] 外部リンク
広島県名誉県民~阿川弘之
関連記事
対談
講演
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%B7%9D%E5%BC%98%E4%B9%8B" より作成
カテゴリ: 日本の小説家 | 1920年生 | 日本の海軍軍人 | 文化勲章受章者 | 広島市出身の人物 | 山口県出身の人物 | 美祢市

最終更新 2008年9月6日 (土) 15:24。











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【阿川弘之】


阿川 弘之
1920年12月24日 -
生誕地 広島市白島九軒町土手通り
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1942年 - 1945年
最終階級 海軍大尉
戦闘 太平洋戦線
除隊後 作家
文学

ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家

阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年(大正9年)12月24日 - )は、日本の小説家、評論家。学歴は東京帝国大学文学部国文科卒業。学位は文学士(東京帝国大学)。称号は広島県名誉県民。日本芸術院会員。栄典は文化勲章受章。賞歴は野間文芸賞、毎日出版文化賞、読売文学賞など。役職は日本李登輝友の会名誉会長。代表作に、『春の城』『雲の墓標』のほか、3部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』など。

息子は法学者阿川尚之、娘はタレント・作家阿川佐和子。

目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 エピソード
3 受賞歴
4 著書
5 共編著
6 翻訳
7 CM
8 家族 親族
9 系譜
10 脚注
11 関連項目
12 関連人物
13 参考文献
14 外部リンク



[編集] 来歴・人物
広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町)に実業家の父阿川甲一・キミの長男として生まれる(本籍地は山口県美祢市伊佐町)。母は大阪出身で生家は刀剣商であった。

偕行社附属済美小学校、広島高等師範学校附属中学校、旧制広島高等学校を経て東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業。卒業論文の表題は「志賀直哉」。

海軍予備学生として海軍に入隊する。1943年に少尉任官、軍令部勤務を命ぜられ、わずかだが中国語ができたため特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。

中尉に進級した直後の1944年「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。

1945年の終戦を中華民国湖北省漢口で迎える。

1946年2月いまだ現役かどうかはっきりしないポツダム大尉という身分で揚子江を上海へ下り3月末博多へ上陸復員する。大陸から引き揚げ、広島市への原子爆弾投下により焼き尽くされてしまった故郷の街を見る。戦友も多くを亡くした。「自分は生き残ってしまった、と言う無常感が根付いてしまった」。

志賀直哉に師事して小説を書く。1953年、一作でいいから、自分達同期生の戦時中の海軍生活をありのまま描いたものを残したい、と亡き友らの鎮魂の思いで描いた『春の城』で読売文学賞を受賞した。

海軍予備士官当時、呉港の沖合いに停泊中の戦艦大和を見た経験から、それを小説に書こうとしたが、新潮社の担当編集者に「そんな陰気くさい話を書いても売れません」と拒否される。しかし、吉田満『戦艦大和ノ最期』がベストセラーになると新潮社の担当は態度を変えて阿川に軍艦ものの執筆を依頼する。この時生まれたのが『軍艦長門の生涯』である。この作品を阿川は武蔵の乗員として戦死した同期二人に奉げる思いで執筆した。以後、原爆や海軍などの自らの戦争体験を通して、戦争の悲惨さや、生きる意味を人間の内面の実感を通して暖かい視線で描いている。

文部省臨時大学問題審議会委員、文化功労者選考審査会委員を歴任。1999年、文化勲章受章。また、日本芸術院会員。2001年12月から2004年4月まで、「日本李登輝友の会」の初代会長を務める(現在は名誉会長)。


[編集] エピソード
父は山口県出身、母は大阪出身であり阿川一家の本籍は今も山口県美祢市に在るため広島県人会から会の案内など送られて来ると多少の違和感を覚えるという。少年時代、学校では広島弁、家へ帰るとそれに大阪アクセントの相当まじった言葉、両方使い分けていたという[1]。
兄幸寿は父の庶子でありハルビンの日本料理屋の抱へ芸者たちの髪を結う髪結女との間に出来た子供で、のちに母が引き取って養育したのだと小学生の時母から打ち明け話を聞かされショックを受けたという。兄幸寿は京大経済学部を卒業後満鉄に入社し後に満州国官吏に移籍して安東の市長をつとめた[2][3]。
二・二六事件の際にはひどく興奮し帰宅するなり母親に向かい「こういうことは大嫌いじゃ。無茶苦茶じゃ。これじゃけぇ陸軍はいやなんじゃ。」と大声の広島弁でまくし立てた。この発言の時、阿川家では父親がいつもの通り、奥座敷で丸橋さんという近所の退役陸軍大佐と碁を打っており、母から「大きな声を出しなはんな、丸橋さんに聞こえたら悪いがな」と小声でたしなめられたが、阿川は「何が悪いもんか、聞いてもらったほうがいいのだ」と胸のうちで思っていたという。二・二六事件とその歯切れの悪い後始末を見て以後、徹底的な陸軍嫌いになったという[4]。
狐狸庵こと遠藤周作や北杜夫、吉行淳之介、三浦朱門、開高健らとは親友である。特に北杜夫の随筆、紀行文には星新一、遠藤周作、なだいなだ等と共に度々登場する。また、大の乗り物ファンとしても知られ、鉄道・航空・船舶に関してなど、乗り物についての著書も多い。このため鉄道紀行作家の宮脇俊三とは、宮脇が中央公論社の編集者であったころから親交が深く、阿川の鉄道関連の本の幾つかは宮脇の勧めによるものである。内田百の『阿房列車』シリーズへのオマージュとなる作品も書いている。
大江健三郎とは犬猿の仲で、互いの著作で批判しあっている。
「文壇の瞬間湯沸かし器」とあだ名されるほど短気で有名である。
保守派の論客として評論活動も活発に行っている。ただし、保守が単純なナショナリズムに転化する事に関しては警鐘を鳴らしている。
なお当人は東海道新幹線の計画が発表された際、当時欧米では自動車と航空機に押されて鉄道は衰退する物という見解が強まっていたため、日本でもそうなると考えて新幹線に高額な投資を行うのは「世界三大馬鹿」の一つになるといって批判した。後に新幹線が成功を収め、逆に国際的な鉄道斜陽論を覆すに至ると、その見る目のなさを悔いたといわれる。
1970年の映画『トラ・トラ・トラ!』の脚本を当初監督する予定だった黒澤明は阿川の『山本五十六』を下敷きにして書いた。20世紀フォックスは原作料を阿川に支払ったと記録しているが、本人は記憶にないという。
二代目中村吉右衛門主演の大映作品『あゝ海軍』に、帝国海軍参謀役で、一場面・一台詞のみで出演している。なお本作は、市川雷蔵が主演予定だったが製作開始前に本人逝去につき、当時東宝所属の吉右衛門が代役になった。
評論家の半藤一利は「阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである」と全集刊行に際し言葉を寄せている。
新潮社で『阿川弘之全集』(全20巻)を刊行した。
月刊文藝春秋で巻頭随筆『葭の髄から』を連載中。単行本も刊行

[編集] 受賞歴
1953年 『春の城』で読売文学賞
1966年 『山本五十六』で新潮社文学賞
1987年 『井上成美』で日本文学大賞
1994年 『志賀直哉』で野間文芸賞、毎日出版文化賞
1999年 文化勲章
2002年 『食味風々録』で読売文学賞
2007年 菊池寛賞

[編集] 著書
年年歳歳 京橋書院 1950
春の城 新潮社 1952 のち文庫
魔の遺産 新潮社 1954 のちPHP文庫
志賀直哉の生活と作品 創芸社 1955
雲の墓標 新潮社 1956 のち文庫
夜の波音 東京創元社 1957
お早く御乗車ねがいます 中央公論社 1958
なかよし特急 中央公論社 1959
きかんしゃやえもん(岡部冬彦画)岩波書店 1959
カリフォルニヤ 新潮社 1959
空旅・船旅・汽車の旅 中央公論社 1960
ぽんこつ 中央公論社 1960 のち潮文庫
坂の多い町 新潮社 1960
青葉の翳り 講談社 1961 のち文芸文庫
ぽんこつぱとろうる 雪華社 1961
へりこぷた-のぶんきち フレーベル館 1962 (トッパンのキンダー絵本)
カレーライス 新潮社 1962 「カレーライスの唄」講談社文庫
あひる飛びなさい 筑摩書房 1963 のち集英社文庫
ヨーロッパ特急 中央公論社 1963
山本五十六 新潮社 1965 文庫
銀のこんぺいとう 集英社 1965 「こんぺいとう」文庫
舷燈 講談社 1966 のち文庫、文芸文庫
私のソロモン紀行 中央公論社 1967
軍艦ポルカ 東方社 1967 集英社文庫
黒い坊ちゃん 集英社 1967
水の上の会話 新潮社 1968 文庫
犬と麻ちゃん 文芸春秋 1969 文庫
いるかの学校 文芸春秋 1971 文庫
私記キスカ撤退 文芸春秋 1971 文庫
私のなかの海軍予備学生 昭和出版 1971
乗りもの紳士録 ベストセラーズ 1973 角川文庫、旺文社文庫
暗い波濤 新潮社 1974 文庫
蒸気機関車 平凡社カラー新書 1975
軍艦長門の生涯 新潮社 1975 文庫
鮎の宿 六興出版 1975 講談社文芸文庫
山本元帥!阿川大尉が参りました 中公文庫 1975
末の末っ子 文芸春秋 1977 文庫
論語知らずの論語読み 講談社 1977 文庫、PHP文庫
南蛮阿房列車 乗物狂世界を駆ける 新潮社 1977 文庫
阿川弘之自選作品 全10巻 新潮社 1977-78
ある海軍予備学生の自画像 現代史出版会 1978
米内光政 新潮社 1978 文庫
あくび指南書 毎日新聞社 1981 講談社文庫
南蛮阿房第二列車 新潮社 1981 文庫
テムズの水 新潮社 1982
贋車掌の記 六興出版 1982
桃の宿 講談社 1982
海軍こぼれ話 光文社 1985 文庫
井上成美 新潮社 1986 文庫
大ぼけ小ぼけ 講談社 1986 文庫
国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録 光文社 1987 (カッパ・ホームス) のち文庫(口述筆記)
断然欠席 講談社 1989 文庫
女王陛下の阿房船 講談社 1990 文庫
国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論 光文社 1992 (カッパ・ホームス) 口述筆記
志賀直哉 岩波書店 1994 新潮文庫
七十の手習ひ 講談社 1995 文庫
高松宮と海軍 中央公論社 1996 文庫
雪の進軍 講談社 1996 文庫
故園黄葉 講談社 1999 文庫
葭の髄から 文藝春秋 2000 文庫
食味風々録 新潮社 2001 文庫
春風落月 講談社 2002 文庫
人やさき犬やさき 続葭の髄から 文藝春秋 2004 文庫
亡き母や 講談社 2004 文庫
阿川弘之全集 全20巻 新潮社 2005-2007
エレガントな象 続々葭の髄から 文藝春秋 2007
大人の見識 新潮新書 2007
言葉と礼節 座談集 文藝春秋 2008

[編集] 共編著
乗物万歳 北杜夫対談 中央公論社 1977 文庫
ブルートレイン長崎行 ポール・セルー共著 講談社 1979
蛙の子は蛙の子 父と娘の往復書簡 阿川佐和子 筑摩書房 1997 文庫
酔生夢死か、起死回生か。(北杜夫)新潮社 2002 文庫
日本海軍、錨揚ゲ! 半藤一利 PHP研究所 2003 文庫

[編集] 翻訳
小さなきかんしゃ グレアム・グリーン 文化出版局 1975
小さな乗合い馬車 グレアム・グリーン 文化出版局 1976
小さなローラー グレアム・グリーン 文化出版局 1976
鉄道大バザール ポール・セルー 講談社 1977 文庫
ふしぎなクリスマス・カード ポール・セルー 講談社 1979
古きパタゴニアの急行列車 中米編 ポール・セルー 講談社 1984

[編集] CM
ネスカフェゴールドブレンド (1982年)

[編集] 家族 親族
父 阿川甲一(実業家)
母 キミ(大阪,商業石井定次郎娘)
姉 静栄(岐阜県,満鉄社員川上喜三に嫁す)
兄 幸寿(満鉄社員、満州国官吏)
長男 尚之(法学者)
長女 佐和子(作家)

[編集] 系譜
阿川氏 阿川は山口県・阿川八幡宮の伊藤宮司から「阿川氏」の歴史について詳しい説明を聞いたことがあった。伊藤宮司は「鎌倉時代の武将佐々木定綱の孫秀綱は13世紀の中ごろ長門国豊浦郡阿川の地を賜って移り住み佐々木姓を阿川に改めた。最初に阿川姓をなのった秀綱の父行綱は勲功をたて美祢郡の伊佐に土地を拝領し伊佐の阿川氏を名乗る。阿川の阿川と伊佐の阿川は養子縁組その他、絶えず交流があった。」というようなことを述べたという。しかし阿川の生家は代々の農家であり近江源氏直系の鎌倉武将一族の末裔であるということについては阿川自身やや疑問をもっている[5]、[6] 。
三之助…<略>…利七━━甲一━┳幸寿
              ┣静栄
              ┗弘之━┳尚之
                  ┗佐和子

[編集] 脚注
[ヘルプ]
^ 『私の履歴書 第三の新人』 117頁
^ 『私の履歴書 第三の新人』 122、128頁
^ 『亡き母や』 57-72頁
^ 『私の履歴書 第三の新人』 149-151頁
^ 『私の履歴書 第三の新人』 118-121頁
^ 『亡き母や』 136-142頁

[編集] 関連項目
広島県出身の人物一覧
大日本帝国海軍軍人一覧
第二次世界大戦に関連する人物の一覧
私の履歴書
第三の新人

[編集] 関連人物
遠藤周作
大江健三郎
志賀直哉
李登輝
三浦朱門
安岡章太郎
吉行淳之介

[編集] 参考文献
阿川弘之 『亡き母や』 講談社 2004年
『私の履歴書 第三の新人』 日本経済新聞社 2007年 113-221頁

[編集] 外部リンク
広島県名誉県民~阿川弘之
関連記事
対談
講演
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『種蒔く人』『文藝戦線』など、③■■■■■■■■評論家として活躍。「しらべた芸術」「目的意識論」などで、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場にたった。文学団体の分裂の際には、労農芸術家連盟に所属し、「文芸戦線」派の重鎮として、「戦旗」派とは一線を画した。戦後には、『文学五十年』で④■■■■■■■受賞するなど、長く活躍した。

因みに作家の青野聰は息子。


[編集] 著作
⑤■■■■と社会運動 白揚社, 1925
解放の芸術 解放社, 1926
転換期の文学 春秋社, 1927
社会思想と中産階級 春秋社, 1929
⑥■■■■■■文学闘争 神谷書店, 1929
サラリーマン恐怖時代 先進社, 1930
社会は何故に悩むか 改造社, 1930
マルキシズム文学論 天人社, 1930
実践的文学論 千倉書房, 1931
⑦■■と社会 中央公論社, 1936
⑧■■と精神 河出書房, 1940
文学の場所 高山書店, 1941
文学の本願 桜井書店, 1941
経堂襍記 筑摩書房, 1941
回心の文学 有光社, 1942
佐渡 小山書店(新風土記叢書), 1942
一つの石 有光社, 1943
文学と人間 玄同社, 1946
⑨■■歴程 万里閣, 1946
読書論 川崎出版社, 1947
文学的人生論 桜井書店, 1947
⑩■■の園 欧亜社, 1947
戦争と平和 鱒書房, 1947
私の文学手記 日東出版社, 1947
一九一九年 新興芸術社, 1947
明治文学入門 全国書房, 1948
社会思想入門 三興書林, 1949
現代文学論 六興出版社, 1949
文学今昔 ジープ社, 1950
文学五十年 筑摩書房, 1957
文学という鏡 弥生書房, 1957
文学の歴史と作家 春歩堂, 1959
⑪■■■■日記 河出書房新社, 1964

[編集] 翻訳
帝国主義論 ⑫■■■■■■・レーニン 希望閣, 1925
何を為すべきか⑬ ウラジーミル・■■■■ 白揚社, 1926
人類に与ふ ⑭■■■■・オーエン 人文会出版部, 1926
⑮■■■■・エンゲルス伝 ダヴィト・リャザーノフ 南宋書院,1927
レーニン / エメリヤン・ヤロスラフスキー 南宋書院, 1927
社会思想物語 ハリー・レードラー 春秋社, 1929
革命裸像 ⑯レフ・■■■■■ アルス, 1930
自己暴露 ⑰■■・トロツキー アルス, 1930
民族問題 / ウラジーミル・レーニン 白揚社, 1930
国富論 ⑱■■■・■■■ 春秋社, 1933
わが生涯 レフ・トロツキー 改造社, 1937
⑲■■■■■■■■の戰略と戰術 ヨシフ・スターリン 社會書房, 1946

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佐渡 小山書店(新風土記叢書), 1942
一つの石 有光社, 1943
文学と人間 玄同社, 1946
文学歴程 万里閣, 1946
読書論 川崎出版社, 1947
文学的人生論 桜井書店, 1947
芸術の園 欧亜社, 1947
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私の文学手記 日東出版社, 1947
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[編集] 翻訳
帝国主義論 ウラジーミル・レーニン 希望閣, 1925
何を為すべきか ウラジーミル・レーニン 白揚社, 1926
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社会思想物語 ハリー・レードラー 春秋社, 1929
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自己暴露 レフ・トロツキー アルス, 1930
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【鈴木貫太郎】

鈴木 貫太郎
(すずき かんたろう)


--------------------------------------------------------------------------------

第42 代
日本国 内閣総理大臣
在任期間 1945年(昭和20年)4月7日
- 1945年(昭和20年)8月17日

--------------------------------------------------------------------------------

生年月日 1868年1月18日
(慶応3年12月24日)
出生地 大阪府堺市
(本籍地:千葉県野田市)
出身校 海軍大学校卒業
学位・資格・称号 海軍大将
男爵
従一位勲一等功三級
前職 枢密院議長
世襲の有無 無
選挙区 非議員
当選回数
党派 中間内閣
没年月日 1948年(昭和23年)4月17日

鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位[1]勲一等功三級、男爵。


[編集] 経歴
大阪府堺市中区伏尾(和泉国大鳥郡久世村伏尾、関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・関宿町)。

前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入学。日清戦争に従軍。1898年(明治31年)、海軍大学校を卒業。日露戦争では、駆逐隊を率いて戦艦3隻を撃沈するなどの大戦果を挙げた。

その後ドイツに駐在、1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。

1929年(昭和4年)に天皇と皇太后に侍従長就任を懇願され予備役に。1936年(昭和11年)年に起きた二・二六事件では、青年将校らに襲撃された。一命を取り留めたが、侍従長を辞任した。

1944年(昭和19年)に枢密院議長となり、1945年(昭和20年)4月総理就任。総理大臣としては非国会議員・江戸時代生まれ[2]という二つの点で最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は2008年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である[3]。昭和天皇から“聖断”を引き出し、紛糾する軍部・政府部内の意見をポツダム宣言の受諾で日本降伏の一本に統一し、終戦と同時に総辞職。

1948年(昭和23年)死去、享年81。先妻トヨとは死別、後妻は、たか。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。


[編集] 不死身の鬼貫
幼い頃から鈴木貫太郎は何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。

二・二六事件のときは事件前夜たか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待を受けて夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲撃される。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。

反乱軍が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねたという。たかは止血の処置をとってから宮内大臣湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけてきた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(昭和天皇のこと)に申し上げてください」と言った。しかし声を出すたびに傷口から血が溢れ出た[4]。医師とたかで血まみれの鈴木を円タクに押し込み日本医大に運んだが、出血多量で顔面蒼白となり、やがて意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたこと、頭部に入った弾丸は貫通して耳の後ろから出たことが幸いしたが、なによりもたかの機転でとどめが刺されなかったことが鈴木の命を救った。

安藤は以前に鈴木を訪ね時局について話を聞いており、面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と言い、一時、決起を思い止まろうとしたとも言われる。後に安藤が処刑されると、鈴木は記者の質問に答えて「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。

なお、その9年後の1945年8月15日、鈴木は今度は総理として命を狙われることになる。(後記)




[編集] 総理就任

鈴木内閣。前列中央が鈴木首相、
その右が米内海相、後列左が阿南陸相。1945年(昭和20)4月、77歳の鈴木は枢密院議長になっていたが、戦況悪化の責任をとって辞職する小磯國昭総理の後継者を誰にするか、天皇に誰を推薦するか、それを決める重臣会議に出席した。構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣木戸幸一、そして鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介らは、後継総理に鈴木の名を出した。鈴木は「とんでもない話だ。おことわりする」と言った。しかし、すでに事前に根回しが行われていた。

東條英機は、陸軍が本土防衛の主体だから、陸軍の畑俊六元帥がいい、と言った。そして、陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがあるとも言った。二・二六事件のときの総理で、青年将校たちに狙われた岡田が東條をたしなめた。「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか」。このとき、既に沖縄本島には連合軍が上陸しており、国内でも東京を中心とした大都市は、アメリカ軍のB-29からの焼夷弾による絨毯爆撃で大損害を蒙っていた。日本がそこまで追い込まれてきたのは陸軍の責任ではないのかと問われると、東條は反論できずに黙ってしまった。

重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、総理として組閣するように命じた。このときのやりとりについては、侍立した侍従長藤田尚徳の証言(侍従長の回想)がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は言った。命令ではなく、“頼む”から総理をやってくれと言われた人物は、後にも先にもこの鈴木だけであろう。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に“頼む”と言われてはそれ以上辞退はできなかった。天皇の母、節子皇太后(貞明皇后)は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し「どうか陛下の親代わりになって」と語ったともいう。

なお、鈴木は非国会議員から就任した総理大臣としては最後である(その後の首相の東久邇、幣原、吉田は貴族院議員であり、1947年に日本国憲法が施行されて以降は総理大臣は国会議員から選出されることになった)。


[編集] 終戦工作

内閣総理大臣在任時の鈴木貫太郎鈴木の自覚とは別に、実際には優れた政治的感覚の持ち主であることを証明する出来事が起きた。敵国であるアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの死に対する対応である(詳細はエピソードに記す)。

しかし、ポツダム宣言記者会見を行なった際、新聞記者インタビューにより黙殺するという談話を記事に大きく取り上げられたことは誤算だった。1945年7月27日にポツダム宣言を日本の新聞に論評抜きで公表したとき、7月28日の讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと予想以上に大きく取り上げられた。

陸軍の突き上げで、7月28日に本来鈴木は、意見を特に言わない、と言いたかったのだが、記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、昭和20年7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。しかし、この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と誤訳され報道された[5]。

8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)でもポツダム宣言即時受諾の東郷外相説と、条件付受諾の阿南陸相説とで議論が分かれた。10日午前2時頃、鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」という言葉を搾り出した。天皇は涙ながらに、「わたしの意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。

なお、終戦の日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達に総理官邸及び私邸を襲撃され(宮城事件一連)、警護官に間一髪救い出されている[6](この襲撃事件は岡本喜八監督の映画『日本のいちばん長い日』でも再現されている)。生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木の信条は、「軍人は政治に関わるべきではない」だった。


[編集] 年譜
1868年(慶応3年) - 関宿藩久世広周の和泉国の飛び領地(現大阪府堺市中区)にて代官の子として生まれる
1871年(明治4年) - 本籍地の関宿町(現・千葉県野田市)に転居
1877年(明治10年) - 父・由哲群馬県庁に就職に伴い前橋市に転居
1878年(明治11年) - 第一番小学校厩橋学校(現・前橋市立桃井小学校)卒
1883年(明治16年) - 旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)卒
1883年(明治16年) - 海軍兵学校受験準備のため、攻玉社に進む
1884年(明治17年) - 海軍兵学校入校
1887年(明治20年)7月25日 - 海軍兵学校(14期)卒
1888年(明治21年) - 任海軍少尉。日清戦争に従軍。大沼とよと結婚。
1892年(明治25年)12月21日 - 任海軍大尉。
1897年(明治30年)3月30日 - 海大砲術学生。
1898年(明治31年)4月29日 - 海大甲種学生。
6月28日 - 任海軍少佐。
12月19日 - 海軍大学校(1期)卒。「春日」乗組。
1901年(明治34年)7月29日 - ドイツ駐在(~1903年12月30日)。
1903年(明治36年)9月26日 - 任海軍中佐。
1904年(明治37年) - 日露戦争に第四駆逐隊司令として参加(~1905年)。
1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章受章。
1907年(明治40年)9月28日 - 任海軍大佐。
1910年(明治43年)7月25日 - 海軍水雷学校校長。
1913年(大正2年)5月24日 - 任海軍少将。
8月10日 - 第二艦隊司令官。
12月1日 - 海軍省人事局長。
1914年(大正3)4月17日 - 海軍次官(~1917年5月31日)。
1916年(大正5年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章受章。
1917年(大正6年)6月1日 - 任海軍中将。
9月1日 - 練習艦隊司令官。
1918年(大正7年)12月1日 - 海軍大学校校長。
1920年(大正9年)12月1日 - 第二艦隊司令長官。
1921年(大正10年)12月1日 - 第三艦隊司令長官。
1922年(大正11年)7月27日 - 呉鎮守府司令長官。
1923年(大正12年)8月3日 - 任海軍大将。
1924年(大正13年)1月27日 - 第三艦隊司令長官。連合艦隊司令長官(兼任)。
1925年(大正14年)4月15日 - 軍令部部長。
1929年(昭和4年)1月22日 - 予備役編入。侍従長に就任。
2月14日に枢密顧問官を兼任。
1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
1936年(昭和11年) - 二・二六事件で襲撃され、頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重傷を負うも奇跡的に回復、九死に一生を得る。
11月20日 - 勲功により、男爵を賜る。
1940年(昭和15年)6月24日 - 枢密院副議長を経て、1944年に枢密院議長に就任。
1945年(昭和20年)4月7日 - 組閣の大命を受け、内閣総理大臣となり終戦工作に奔走する。
4月12日にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが死去。海外向けに哀悼の談話を発表。
7月28日にポツダム宣言について記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」[7]と回答。日本の同盟通信社で「ignore(無視)」、ロイター、AP通信で「reject(拒否)」と訳され配信された。
在任中、沖縄が陥落、全国に空襲が続き、広島と長崎に原爆が投下された。直後にソビエト連邦が対日参戦。
8月14日にポツダム宣言受諾を御前会議で決定。
8月15日、玉音放送のあと内閣総辞職(東久邇宮稔彦王内閣成立の同月17日まで職務執行)。早朝、佐々木武雄陸軍大尉率いる国粋主義者達の襲撃を受ける。至近の二重橋では近衛師団反乱部隊による閉塞が行われており、もし官邸にいたら危険な状態だった。夫妻は警護官の手により小石川の私邸から脱出し難を逃れる。直後、私邸は佐々木達により焼き払われる。
12月15日に平沼騏一郎枢密院議長が戦争犯罪容疑で逮捕されたために、再度枢密院議長となる。
1946年(昭和21年)6月3日 - 公職追放令の対象となったため、清水澄副議長に枢密院議長を譲って辞職。
1948年(昭和23年)4月17日 - 82歳で死去。関宿町(現:野田市)の実相寺に葬られた(遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた)。
1960年(昭和35年) - 終戦にかかる功績から従一位を贈位される。

[編集] 鈴木を演じた俳優
笠智衆 「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝)
森繁久彌 「そして戦争が終わった」(1985年 TBS)
芦田伸介 「226」(1989年 東映)
松方弘樹 「聖断」(2005年 テレビ東京)



[編集] エピソード
海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「負けっぷりをよくする」などといったことを伝えていたと言われている。
枢密院議長をしていた1943年のこと、会議の席で嶋田繁太郎海軍大臣が山本五十六の戦死(国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答え方をした。すると、鈴木は「俺は帝国の海軍大将だ! その答弁は何であるか!」と大声で叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされたという(鈴木は予備役ながら軍籍があった)。
鈴木はルーズベルト大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送により、「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。」という談話を世界へ発信している。同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、対照的にルーズベルトを罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛した。[8]
1918年(大正7年)、鈴木はアメリカ訪問の際「日米両国は太平洋を名の通り平和の海にせねばならない。もしどちらかが戦争をするのならたちまち天罰が下るであろう。」とスピーチした。組閣後帝国議会での演説においてで上記のスピーチをしたことを述べたことが、休戦の意志ありと抗戦派の議員からつっこまれた。(天罰事件)鈴木は要領の得ない答弁で相手を煙にまいた。だが、かえって議会は混乱し、すわ倒閣という雰囲気となった。閣僚は意気消沈し沈痛な雰囲気となった。しかし鈴木は何事もなかったかのよう葉巻を吹かして新聞を読んでいた。この姿に閣僚達は「これが、大海戦のさ中に司令長官として船橋に泰然として立っている提督」とたのもしく感じた人もいた。また抗戦派と目された阿南陸軍大臣は、この時一言も発言していない。
首相官邸で本土決戦を担う国民義勇隊に支給される武器の展示が行われたときのことである。展示されているのは鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、さす又など・・すべて江戸時代のしろものであった。物に動じない鈴木貫太郎も思わず「これはひどいなあ」と嘆声をあげた。
組閣当初から鈴木本人は和平派かそれとも和平と戦争継続に揺れ動いていたかは諸説あるが、和平派説の有力な一例として取り上げられるのが1945年6月8日の重臣会議での出来事である。若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、「内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」(志賀直哉『鈴木貫太郎』)という若槻の証言が残っている。
8月14日の御前会議終了後、阿南陸相は紙に包んだ葉巻の束を手に「いろいろご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。ですがこれも国と陛下を思ってのことなのです。これは閣下がお好きと聞き持参いたしました。」と挨拶にきた。鈴木は「御心配いりません。陛下が常に神をお祭りしていますから。」と告げた。阿南は目に涙を浮かべながら「私も、そう思います。」と言って辞去した。鈴木は、迫水書記官に「阿南君は暇乞いにきたのだね。」とつぶやいた。その数時間後阿南は自決した。


[編集] 著書
鈴木一 編『鈴木貫太郎自伝』(時事通信社、1968年、ISBN 4-788785-19-6)

[編集] 参考文献
半藤一利『聖断―天皇と鈴木貫太郎』(PHP研究所、ISBN 4-569629-84-9)、(文芸春秋、ISBN 4-163399-00-3)、(文春文庫、ISBN 4-167483-01-7)
小堀桂一郎『宰相鈴木貫太郎』(文藝春秋、ISBN 4-163374-20-5)、(文春文庫、ISBN 4-167452-01-4)
小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、ISBN 4-769807-32-5)
花井等『終戦宰相 鈴木貫太郎』(広池学園出版部、ISBN 4-892054-10-0)
立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP研究所、ISBN 4-569-57376-2)
平川祐弘『平和の海と戦いの海』、講談社学術文庫
別冊歴史読本57 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱』 新人物往来社 2003年 266-267貢









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最終更新 2008年9月7日 (日) 17:55。



















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主な賞に、大賞、金賞、銀賞があり、大賞を受賞すると、正賞+副賞100万円、金賞だと正賞+副賞50万円、銀賞だと正賞+副賞30万円が授与される。特別賞として、選考委員奨励賞などがある。

審査委員は安田均、深沢美潮、高畑京一郎、佐藤辰男(メディアワークス社長)、鈴木一智(電撃文庫編集長)が務める。

現在はライトノベル系の新人賞では最多の2000作品以上という応募数を誇っており、2005年の募集作は3022作品に達した。受賞作品は電撃文庫にて出版され、高畑京一郎、古橋秀之、上遠野浩平、阿智太郎、渡瀬草一郎等、多数の作家を輩出している。また、秋山瑞人、時雨沢恵一等、選考に漏れたり応募要項に違反したりして落選した場合でも、その後デビューし人気作家になる事もある。


[編集] 入賞作品
()内は出版時のタイトル。後にシリーズ化された作品については、受賞作(第1巻)の刊行時サブタイトルは割愛している。
電撃ゲーム小説大賞及び電撃小説大賞入賞作品一覧 1994年
第1回 大賞 金賞 銀賞
五霊闘士オーキ伝
土門弘幸 著 夢か現か幻か
(クリス・クロス 混沌の魔王)
高畑京一郎 著 冒険商人アムラフィ
中里融司 著
雲ゆきあやし、雨にならんや
坪田亮介 著
1995年
第2回 大賞 金賞 銀賞
ブラックロッド
古橋秀之 著 該当作品なし やまいはちから ~スペシャル・マン~
成重尚弘 著
戸籍係の憂鬱
茅本有里 著
1996年
第3回 大賞 金賞 銀賞
該当作品なし PANZERPOLIS-1935
(パンツァーポリス1935)
川上稔 著 HOROGRAM SEED
雅彩人 著
NANIWA捜神記
栗府二郎 著 ダーク・アイズ
天羽沙夜 著
1997年
第4回 大賞 金賞 銀賞
ブギーポップは笑わない
上遠野浩平 著 猫目狩り
橋本紡 著 僕の血を吸わないで
阿智太郎
1998年
第5回 大賞 金賞 銀賞 選考委員特別賞
該当作品なし 学園武芸長
(学園武芸帳「月に笑く」)
白井信隆 著 コールド・ゲヘナ
三雲岳斗 著 月と貴女に花束を
志村一矢 著
ギミック・ハート
七海純 著
1999年
第6回 大賞 金賞 銀賞
リングテイル
(リングテイル 勝ち戦の君)
円山夢久 著 ダブルブリッド
中村恵里加 著 若草野球部狂想曲
一色銀河 著
2000年
第7回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
該当作品なし 天国に涙はいらない
佐藤ケイ 著 魔法士物語
(ウィザーズ・ブレイン)
三枝零一 著 王道楽土
御堂彰彦 著
平安京八卦
(陰陽ノ京)
渡瀬草一郎 著 天剣王器
(天剣王器 Dual Lord, Reversion)
海羽超史郎 著
2001年
第8回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
大唐風雲記 長安の履児、虎の尾を履む
(大唐風雲記 洛陽の少女)
田村登正 著 該当作品なし みークルズサジェスチョン ポリッシュアップルズ
(悪魔のミカタ 魔法カメラ)
うえお久光 著 エクスターミネーターA/B
(A/Bエクストリーム CASE-314[エンペラー])
高橋弥七郎 著
無限大ゼロ
(インフィニティ・ゼロ)
有沢まみず 著 我が町の吸血鬼
(吸血鬼のおしごと)
鈴木鈴 著
2002年
第9回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
死者たちは荒野に眠る
(キーリ 死者たちは荒野に眠る)
壁井ユカコ 著 七姫物語
高野和 著 該当作品なし sharp edge -knife which charms dutterfly-
(シャープ・エッジ)
坂入慎一 著
バッカーノ! The Rolling Bootlegs
成田良悟 著 夜の妖精、鋼鉄の翼、たった一つの願い
(シルフィ・ナイト)
神野淳一 著
2003年
第10回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
塩の街 Wish on my precious
有川浩 著 我が家のお稲荷さま。
柴村仁 著 先輩とぼく
沖田雅 著 逃がし屋~愚者達の結界~
(結界師のフーガ)
水瀬葉月 著
おじいちゃんの宝箱
(シュプルのおはなし)
雨宮諒 著
2004年
第11回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
少女禁猟区・世界で最後の1人+8
(ルカ -楽園の囚われ人たち-)
七飯宏隆 著 ひかりのまち
(ひかりのまち nerim's note)
長谷川昌史 著 奇蹟の表現
結城充孝 著 異常進化の世界で~The Demon's Hand
(シリアスレイジ)
白川敏行 著
2005年
第12回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
お留守バンシー
小河正岳 著 哀しみキメラ
来楽零 著 狼と香辛料
支倉凍砂 著 超告白
(天使のレシピ)
御伽枕 著
火目の巫女
杉井光 著
2006年
第13回 大賞 金賞 銀賞
ミミズクと夜の王
紅玉いづき 著 世界平和は一家団欒のあとに
橋本和也 著 ケツバット女、笑う夏希。
(なつき☆フルスイング! ケツバット女、笑う夏希。)
樹戸英斗 著
もしも人工知能が世界を支配していた場合のシミュレーションケース1
(扉の外)
土橋真二郎 著
2007年
第14回 大賞 金賞 銀賞 選考委員奨励賞
放課後百物語
(ほうかご百物語)
峰守ひろかず 著 君のための物語
水鏡希人 著 異界ノスタルジア
(under 異界ノスタルジア)
瀬那和章 著 葉桜が来た夏
夏海公司 著
押しかけラグナロク
(藤堂家はカミガカリ)
高遠豹介 著


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最終更新 2008年6月28日 (土) 21:23。

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