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【湯川秀樹】日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている

2008-09-10 13:34:06 | 13 用語集:①人物一覧   
【湯川秀樹】

高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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①■■■■(ゆかわひでき、明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士。中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年、日本人として初めての②■■■■■を受賞した。

[編集] 生い立ち
1907年、東京市麻布区市兵衛町(現・港区)に③■■■■・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。1908年、父・琢治の④■■■■大学教授就任に伴い、一家で京都に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが人生の大半は京都で過ごしたことになる。湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[1]。

祖父・駒橘は元紀州藩の武士であり、漢学の素養は豊富で、明治以後は洋学を学び晩年までずっと⑤■■■■タイムスを購読し続けた人物であるという[2]。父祖の地が和歌山であるため“和歌山県出身”と紹介されることもある。和歌山県出身の実業家松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたものである。ただし、湯川本人は和歌山で暮らした経験は無い。

5、6歳の頃母方の祖父・駒橘より漢籍の⑥■■を習った。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[3]。

1919年、⑦■■府立■■■■中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった[4]。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという[5]。同じくノーベル物理学賞を受けた⑧■■■■■は一中で一年上、三高・京大では同期だった[6]。


[編集] ノーベル賞受賞
1929年、⑨■■■■大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年京都帝国大学講師。1933年には⑩■■■■大学講師を兼担する。教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院の院長湯川家の⑪■■■となり、小川姓から湯川姓となる。

1934年、⑫■■■■■構想を発表、1935年、「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言する。この研究が評価され、1940年学士院恩賜賞受賞、1943年最年少で⑬■■■■受章。さらに1949年、⑭■■■■■■■受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。

その後も非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた(粒子を点ではなく広がりを持った領域と考えるのは、弦理論にも結びつく考えである)。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。

またその一方で、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。但し、戦前・戦中は反戦・反核ではなく、荒勝文策率いる京大グループにおいて日本の原子爆弾開発に協力した。


[編集] 晩年
1970年京都大学退官、京都大学名誉教授となる。色紙に何か書いて欲しいと頼まれるとしばしば⑮「■■■」と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。『荘子』の「秋水」の最後の一句である。1981年、肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。74歳。墓所は京都市の知恩院にある。広島平和公園にある若葉の像の台座に、湯川による短歌の銘文「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」が刻まれている。



[編集] 関連項目
パグウォッシュ会議
⑯■■振一郎
⑰■■■■■・アインシュタイン
ラッセル=アインシュタイン宣言
⑱■■■■アピール七人委員会
日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている。

[表示]表・話・編・歴日本人のノーベル賞受賞者

物理学賞 湯川秀樹 (1949) - 朝永振一郎 (1965) - ⑲■■玲於奈 (1973) - 小柴昌俊 (2002)

化学賞 福井謙一 (1981) - 白川英樹 (2000) - 野依良治 (2001) - ⑳■■耕一 (2002)

生理学・医学賞 利根川進 (1987)

文学賞 川端康成 (1968) - 大江健三郎 (1994)

平和賞 佐藤栄作 (1974)

[表示]表・話・編・歴

【ノーベル物理学賞受賞者】

J. ペラン (1926) - A. コンプトン / C. ウィルソン (1927) - O. リチャードソン (1928) - L. ド・ブロイ (1929) - C. ラマン (1930) - W. ハイゼンベルク (1932) - E. シュレーディンガー / P. ディラック (1933) - J. チャドウィック (1935) - V. ヘス / C. アンダーソン (1936) - C. ディヴィソン / G. トムソン (1937) - E. フェルミ (1938) - E. ローレンス (1939) - O. シュテルン (1943) - I. ラービ (1944) - W. パウリ (1945) - P. ブリッジマン (1946) - E. アップルトン (1947) - P. ブラケット (1948) - 湯川秀樹 (1949) - C. パウエル (1950)


1901年 - 1925年 | 1926年 - 1950年 | 1951年 - 1975年 | 1976年 - 2000年 | 2001年 - 2025年


"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9" より作成
カテゴリ: 日本の物理学者 | ノーベル物理学賞受賞者 | 阪神間モダニズム | 東京都出身の人物 | 京都市出身の人物 | 和歌山県出身の人物 | 1907年生 | 1981年没 | 文化勲章受章者


最終更新 2008年8月15日 (金) 13:10。






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【湯川秀樹】


ノーベル賞受賞者
受賞年: 1949年
受賞部門: ノーベル物理学賞
受賞理由: 陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想

湯川秀樹(ゆかわひでき、明治40年(1907年)1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。従二位勲一等。理学博士。中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、1949年、日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。

目次 [非表示]
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 ノーベル賞受賞
1.3 晩年
2 年譜
3 受賞
4 親族
5 著書
6 弟子
7 仲間
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク



[編集] 生涯

[編集] 生い立ち
1907年、東京市麻布区市兵衛町(現・港区)に地質学者・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。1908年、父・琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都に移住する。このため、麻布の家には誕生後1年2ヶ月しか住んでない。1歳から大学までは京都、大学を出て一時大阪や西宮にいたこともあるが人生の大半は京都で過ごしたことになる。湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している[1]。

祖父・駒橘は元紀州藩の武士であり、漢学の素養は豊富で、明治以後は洋学を学び晩年までずっとロンドンタイムスを購読し続けた人物であるという[2]。父祖の地が和歌山であるため“和歌山県出身”と紹介されることもある。和歌山県出身の実業家松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたものである。ただし、湯川本人は和歌山で暮らした経験は無い。

5、6歳の頃母方の祖父・駒橘より漢籍の素読を習った。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[3]。

1919年、京都府立京都第一中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった[4]。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという[5]。同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で一年上、三高・京大では同期だった[6]。


[編集] ノーベル賞受賞
1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年京都帝国大学講師。1933年には大阪帝国大学講師を兼担する。教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院の院長湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。

1934年、中間子理論構想を発表、1935年、「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言する。この研究が評価され、1940年学士院恩賜賞受賞、1943年最年少で文化勲章受章。さらに1949年、ノーベル物理学賞受賞した。これは日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えたとされ、フィーバーを巻き起こした。

その後も非局所場理論・素領域理論といった革新的かつ野心的な理論を提唱しつづけ、最後まで第一線級の物理学者であり続けた(粒子を点ではなく広がりを持った領域と考えるのは、弦理論にも結びつく考えである)。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が1/3とか2/3とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。

またその一方で、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。但し、戦前・戦中は反戦・反核ではなく、荒勝文策率いる京大グループにおいて日本の原子爆弾開発に協力した。


[編集] 晩年
1970年京都大学退官、京都大学名誉教授となる。色紙に何か書いて欲しいと頼まれるとしばしば「知魚楽」と書いた。魚ノ楽シミヲ知ル。『荘子』の「秋水」の最後の一句である。1981年、肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。74歳。墓所は京都市の知恩院にある。広島平和公園にある若葉の像の台座に、湯川による短歌の銘文「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」が刻まれている。


[編集] 年譜
1907年 - 地質学者・小川琢治・小雪夫妻の三男として生まれる。
1908年 - 一家で京都に移住。
1919年 - 京極尋常小学校卒業
1923年 - 京都府立京都第一中学校卒業
1926年 - 第三高等学校卒業
1929年 - 京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる
1932年 - 湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。京都帝国大学講師
1933年 - 大阪帝国大学講師兼担
1934年 - 中間子理論構想を発表
1935年 - 「素粒子の相互作用について」を発表 中間子の存在を予言
1936年 - 大阪帝国大学理学部助教授
1938年 - 理学博士(大阪大学)
1939年 - 京都帝国大学教授
1940年 - 学士院恩賜賞受賞
1942年 - 東京帝国大学理学部教授
1943年 - 最年少で文化勲章受章
1946年 - 帝国学士院会員
1948年 - プリンストン高等学術研究所客員教授
1949年 - 同年7月コロンビア大学客員教授就任、同年10月ノーベル物理学賞受賞
1950年 - コロンビア大学教授
1953年 - 京都大学基礎物理学研究所初代所長 国際理論物理学会議京都委員
1955年 - 日本ユネスコ国内委員会委員 社団法人日本物理学会会長
1958年 - 原子力委員会参与
1970年 - 京都大学退官、京都大学名誉教授
1981年 - 死去

[編集] 受賞
1940年 - 帝国学士院恩賜賞
1941年 - 野間学術賞
1943年 - 文化勲章
1949年 - ノーベル物理学賞
1964年 - ロモノーソフ金メダル
1967年
西ドイツ プール・ル・メリット勲章
ヴァチカンローマ教皇庁 科学アカデミー勲章
1977年 - 勲一等旭日大綬章

[編集] 親族
父 小川琢治(地質学者・京大名誉教授)
母 小雪(和歌山県 小川駒橘娘)
姉 香代子、妙子
兄 芳樹(冶金学者・東大教授)、貝塚茂樹(東洋史学者・京大名誉教授、文化勲章受章)
弟 環樹(中国文学者・京大名誉教授)、滋樹
 弟 ます樹 (幼少時に死去)
妻 スミ(和歌山県 医師湯川玄洋二女)
遠縁 武田國男(実業家)

[編集] 著書
『現代の対話』((末川博,桑原武夫,梅原猛共著, 雄渾社, 1966年)
『目に見えないもの』 (講談社学術文庫, ISBN 4061580949)
『物理講義』 (講談社学術文庫, ISBN 4061581953)
『旅人 ある物理学者の回想』 (角川ソフィア文庫, ISBN 4041238013)
『本の中の世界』 (岩波新書, ISBN 4004150906)
『物理の世界』 (山田英二&片山泰久共著, 講談社現代新書, ISBN 4061154079)
『人間にとって科学とはなにか』 (中公新書, ISBN 412100132X)
『物理の世界 数理の世界』 (北川敏男共著, 中公新書, ISBN 4121002504)
『湯川秀樹著作集』(全10巻別巻1, 岩波書店)

[編集] 弟子
あまりにも著名なため、数多くの日本の物理学者の模範となっている人物が多い。 以下は、国内で著名な人物を挙げる。

林忠四郎 - 宇宙物理学者
内山龍雄 - ゲージ理論の先駆者の一人
また、孫弟子には、現在活躍する数多くの理論物理学者が含まれている。


[編集] 仲間
坂田昌一 - 大阪帝国大学時代の同僚。湯川との論文の共著も多い。

[編集] 脚注
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.10
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.44
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.49
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.92
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.87
^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.88

[編集] 関連項目
パグウォッシュ会議
朝永振一郎
アルベルト・アインシュタイン
ラッセル=アインシュタイン宣言
世界平和アピール七人委員会
日本の原子爆弾開発 - 海軍の原爆開発計画(F研究)に関与したことが確認されている。

[編集] 外部リンク
ノーベル賞日本人受賞者7人の偉業 湯川秀樹
湯川秀樹 ノーベル賞受賞時の記事
ノーベル賞公式サイト - 湯川秀樹の写真あり
松岡正剛の千夜千冊 - 湯川秀樹と親交のあった松岡正剛による追想
京都市名誉市民 湯川秀樹
系図でみる近現代 第28回
知魚楽について
現代科学者の任務-第10回パグウォッシュ会議に出席して
ラッセル放談録』について
湯川記念室
湯川先生のノーベル賞論文の手書き原稿と印刷版



[表示]表・話・編・歴日本人のノーベル賞受賞者

物理学賞 湯川秀樹 (1949) - 朝永振一郎 (1965) - 江崎玲於奈 (1973) - 小柴昌俊 (2002)

化学賞 福井謙一 (1981) - 白川英樹 (2000) - 野依良治 (2001) - 田中耕一 (2002)

生理学・医学賞 利根川進 (1987)

文学賞 川端康成 (1968) - 大江健三郎 (1994)

平和賞 佐藤栄作 (1974)

[表示]表・話・編・歴 ノーベル物理学賞受賞者

J. ペラン (1926) - A. コンプトン / C. ウィルソン (1927) - O. リチャードソン (1928) - L. ド・ブロイ (1929) - C. ラマン (1930) - W. ハイゼンベルク (1932) - E. シュレーディンガー / P. ディラック (1933) - J. チャドウィック (1935) - V. ヘス / C. アンダーソン (1936) - C. ディヴィソン / G. トムソン (1937) - E. フェルミ (1938) - E. ローレンス (1939) - O. シュテルン (1943) - I. ラービ (1944) - W. パウリ (1945) - P. ブリッジマン (1946) - E. アップルトン (1947) - P. ブラケット (1948) - 湯川秀樹 (1949) - C. パウエル (1950)


1901年 - 1925年 | 1926年 - 1950年 | 1951年 - 1975年 | 1976年 - 2000年 | 2001年 - 2025年


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最終更新 2008年8月15日 (金) 13:10。