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【立命館大学出身有名人】  【水上勉】・【笙野頼子】【有田芳生】

2008-09-02 20:59:58 | 13 用語集:①人物一覧   
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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【有名人の出身大学ランキング】


【立命館大学出身有名人】

立命館大学出身有名人

敬称略。年齢の若い順に並べています。
生年不明の方は表の一番最後になります。

【宇浦冴香】 歌手 立命館宇治高校→立命館大学産業社会学部

【金刃憲人】 野球選手 尼崎市立尼崎高校→立命館大学産業社会学部

【齋藤里香】 スポーツ選手(重量挙げ) 京都府立加悦谷高校→立命館大学産業社会学部

【倉木麻衣】 歌手 聖徳大学附属高校→立命館宇治高校に編入→立命館大学産業社会学部人間文化学系

【赤松真人】 野球選手 平安高校(現龍谷大学付属平安高校)→立命館大学産業社会学部産業社会学科

【松井大輔】 スポーツ選手(サッカー) 鹿児島実業高校→立命館大学経営学部

【西尾維新】 小説家 立命館大学政策科学部中退

【牧野幸雄】 スポーツ選手(セーリング) 愛知県立碧南高校→立命館大学経済学部

【茂山逸平】 俳優 東山高校→立命館大学文学部日本史学専攻中退
CICO ミュージシャン(BENNIE K) 大阪薫英女学院高校→立命館大学国際関係学部中退

【葛城育郎】 野球選手 岡山県立倉敷商業高校→立命館大学産業社会学部

【佐藤征史】 ミュージシャン(くるり) 立命館高校→立命館大学法学部

【棚橋弘至】 スポーツ選手(プロレス) 岐阜県立大垣西高校→立命館大学法学部

【原田良也】 お笑いタレント(ジャンクション) 立命館高校→立命館大学産業社会学部中退

【武田美保】 スポーツ選手(シンクロナイズドスイミング) 四天王寺高校→立命館大学産業社会学部

【大久保勝信】 野球選手 和歌山県立日高高校→立命館大学産業社会学部

【下林朋央】 お笑いタレント(ジャンクション) 立命館高校→立命館大学法学部

【岸田繁】 ミュージシャン(くるり) 立命館高校→立命館大学産業社会学部

【大家友和】 野球選手 京都成章高校→メジャーリーグに行ってから、社会人入学で立命館大学経営学部

【高橋茂雄】 お笑いタレント(サバンナ) 立命館高校→立命館大学中退

【大村達身】 ミュージシャン(元くるり) 兵庫県立加古川東高校→立命館大学文学部日本文学科中退

【長谷川豊】 アナウンサー 日生学園第一高校→立命館大学産業社会学部

【森信行】 ミュージシャン(元くるり) 立命館大学産業社会学部

【八木真澄】 お笑いタレント(サバンナ) 立命館高校→立命館大学産業社会学部

【藤井来夏】 スポーツ選手(シンクロナイズドスイミング) 立命館大学経営学部

【レイザーラモンRG】 お笑いタレント 立命館大学経済学部

【浅越ゴエ】 お笑いタレント 岡山県立岡山芳泉高校→立命館大学法学部

【西村晃一】 スポーツ選手(バレーボール) 花園高校→立命館大学

【河口正史】 スポーツ選手(アメリカンフットボール) 早稲田大学本庄高等学院→立命館大学国際関係学部

【楠見朋彦】 小説家 立命館大学文学部哲学科

【小林綾子】 女優 東京都立大泉高校→立命館大学文学部英米文学科

【中井拓志】 小説家 立命館大学経済学部中退

【岡村隆史】 お笑いタレント(ナインティナイン) 大阪府立茨木西高校→立命館大学二部経営学部中退

【大浦龍宇一】 俳優 立命館高校→立命館大学経済学部

【八尋史朗】 スポーツ選手(ボクシング) 東福岡高校→立命館大学経済学部中退

【長谷川滋利】 元野球選手 東洋大学附属姫路高校→立命館大学産業社会学部

【ユリオカ超特Q】 お笑いタレント 兵庫県立豊岡高校→立命館大学産業社会学部

【古田敦也】 元野球選手 経営学部

【小山力也】 声優 立命館高校→立命館大学法学部卒業→桐朋学園大学短期大学部(現桐朋学園芸術短期大学)芸術科演劇専攻

【水野良】 小説家、ゲームデザイナー 法学部

【長峰由紀】 アナウンサー 文学部

【仁川高丸】 小説家 文学部

【井上由美子】 脚本家 文学部文学科中国文学専攻

【寺島令子】 漫画家 文学部心理学科

【桂小春団治 (3代目)】 落語家 文学部(中退)

【林海象】 映画監督 経済学部(中退)

【段田安則】 俳優 文学部(中退)

【笙野頼子】 芥川賞作家 法学部

【平田俊子】 詩人 文学部日本文学科

【桂都丸】 落語家 経営学部(中退)

ジャーナリスト 経済学部

【川端義明】 元アナウンサー 京都市立日吉ヶ丘高校→立命館大学法学部

【門川大作】 政治家 京都市立堀川高校→立命館大学法学部第二部

【清武英利】 読売巨人軍取締役球団代表 経済学部

【工藤恭孝】 ジュンク堂書店社長 法学部

【ばんばひろふみ】 歌手 経済学部

【山本孝史】 政治家 産業社会学部

【穀田恵二】 政治家 文学部人文学科日本文学専攻

【杉田二郎】 歌手 文学部

【阪本敏三】 元野球選手 学部不明

【市田忠義】 政治家 法学部夜間部

【井尻雄士】 会計学者 奈良県立奈良商業高校→同志社大学短期大学部→立命館大学法学部→社会人経験を経て、ミネソタ大学大学院→カーネギーメロン大学大学院

【長門裕之】 俳優 花園高校→立命館大学文学部(中退)

【吉田義男】 元野球選手 学部不明(中退)

【納谷六朗】 声優 法学部

【出江寛】 建築家 京都市立伏見工業高校建築科→立命館大学理工学部土木工学科卒

【高林陽一】 映画監督 法学部政治学科(中退)

【納谷悟朗】 声優 法学部(中退)

【上野瞭】 児童文学作家 専門部

【流政之】 彫刻家 法文学部(中退)

【保井浩一】 元野球選手 専門部法科

【三隅研次】 映画監督 専門部商科

【西村進一】 元野球選手 学部不明(中退)

【水上勉】 直木賞作家 旧制花園中学(現花園高校)→立命館大学文学部中退

【白川静】 漢文学者 専門部国漢科

【安藤百福】 日清食品株式会社創業者 専門部経済科

【田中伊三次】 政治家 法学部夜間部

【大西洋平】 アナウンサー 経済学部


「この人も立命館大学出身の有名人だ」という情報がありましたら、お気軽に「情報をお寄せいただける方へ」から情報をお寄せください。

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【王貞治】早稲田実業⇒読売巨人軍⇒福岡ソフトバンクホークス

2008-09-02 20:37:44 | 13 用語集:①人物一覧   
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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【王貞治】

王 貞治

福岡ソフトバンクホークス No.89


WBC日本代表での王貞治

基本情報
国籍 台湾
出身地 日本
東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)

生年月日 1940年5月10日(68歳)
身長
体重 176cm
69kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 一塁手
初出場 1959年4月11日
最終出場 1980年10月12日
年俸 2億2500万円(2007年)
経歴
早稲田実業学校高等部
読売ジャイアンツ(1959 - 1980)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1994年
選出方法 競技者表彰
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì/ワン・ツェンツー、1940年5月20日 - )は、日本生まれ・中華民国台湾籍の監督・元プロ野球選手。ふるさと清掃運動会実行委員長。日本国民栄誉賞の初代受賞者。

東京都墨田区生まれで、父は中国人、母は日本人。現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。左投左打で内野手(一塁手)であった。読売ジャイアンツ(巨人)の主軸として積み上げた通算本塁打数868本は当時の大リーグ記録であるハンク・アーロンの755本を上回るなど、その他数々の記録を保持する。巨人では入団から監督を退くまで背番号1を背に戦い、1番はチームの永久欠番となっている。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる大打者である。東アジア野球界の英雄である。

現在は福岡ソフトバンクホークス取締役副社長、ゼネラルマネージャー兼監督。ワールド・ベースボール・クラシック初代優勝監督でもある。二女の王理恵はタレント。

目次 [非表示]
1 来歴・人物
1.1 少年時代
1.2 早実時代
1.3 現役時代
1.3.1 1959年~1961年
1.3.2 一本足打法
1.3.3 シーズン55本塁打
1.3.4 スランプ、そして三冠王
1.3.5 本塁打記録への挑戦
1.3.6 「世界記録」
1.3.7 晩年、そして引退
1.3.8 王の記録への評価
1.3.9 王選手の節目の本塁打記録の一覧表
1.4 監督時代
1.4.1 巨人助監督・監督時代
1.4.2 ダイエー・ソフトバンク監督時代
2 エピソード
2.1 756号本塁打
2.2 その他本塁打
2.3 その他の記録
2.4 現役時代
2.5 監督時代
2.6 人物・プライベート
2.7 その他
3 年度別打撃成績
4 タイトル・表彰・記録
4.1 タイトル
4.2 表彰
4.3 記録
4.3.1 レギュラーシーズン
4.3.2 日本シリーズ
4.3.3 オールスターゲーム
5 監督としてのチーム成績
6 監督通算成績
7 ポストシーズン
8 WBC 国・地域別対抗野球大会
9 背番号
10 CM
11 歌
11.1 本人が歌っているもの
11.2 歌詞に関連しているもの
12 関連項目
13 脚注
14 外部リンク



[編集] 来歴・人物

[編集] 少年時代
東京都墨田区で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓:当住)の間に生まれる。実は、5月10日に二卵性双生児の弟として出生したのであるが、戸籍上は5月20日が出生日とされている。これについては諸説あり、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を遅らせたことからという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のために届けが遅れたという説などがある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は、1歳3か月で死亡した。その後も貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と本人が述べている。

父の仕福は兄の鉄城を医師に、弟の貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズ)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業学校高等部に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。荒川との最初の出会いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王が出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右でもたないと親父に文句言われると思って…」と言った。それを聞いて荒川は、「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それを聞いた王は次の試合ですぐに左打ちを実践したところ二塁打を打った。王はそれからずっと左で打つようになった。

小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。


[編集] 早実時代
早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、センバツで3試合連続完封により決勝戦へ進出。決勝では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生のセンバツでは30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。

なお、国体には、当時の国籍規定のため出場できなかった。


[編集] 現役時代

[編集] 1959年~1961年
1959年に契約金1500万円、年俸140万円という高卒新人としては破格の条件で読売ジャイアンツに入団。プロ入りの同期には村山実・板東英二・河村保彦・江藤愼一・田中俊幸・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。王のプロ入りは川上哲治の引退直後であり、後継一塁手のライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいだったことも王に幸いした。与那嶺はキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。

オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、開幕戦(4月11日)の国鉄スワローズ戦では高卒新人ながら7番一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。この結果は長嶋茂雄の初試合と似ている。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続いた。4月26日の対国鉄戦7回表、0-0、ランナー1塁という場面で王に打順が回った。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕ダッシュに成功して余裕があったこともあり、まだ新人の王に経験を積ませることを優先した。国鉄の村田元一が投じた内角カーブをすくい上げた打球はライトスタンド最前列に落ちた。プロ初安打がホームラン。これが王の記念すべき1号本塁打となった。

同年6月25日の天覧試合では7回、2-4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ラン。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打1号である。

1年目は.161、7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。

プロの水に慣れた2年目は.270、17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手、木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。3年目には.253、13本塁打とやや成績を落とした。

入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149と期待に応えたとは言えないものだった。そのため1961年には阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。


[編集] 一本足打法
1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法は一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」とも呼ばれる。

王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそうのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えており(『スポーツ20世紀』ベースボールマガジン社、2000年7月、p25)、一本足自体は年月をかけて習得したものでなく、たまたま上げたのが始まりのようである。しかし上前淳一郎のノンフィクション『巨人軍影のベストナイン』角川文庫によると2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いて荒川が「ホームランだけならいつでも打たせてやる」とかえし、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じたが、それは春季キャンプ中に様々なフォームを試したなかのひとつでしかなく、よく語られる壮絶な特訓はこの後の事である。

7月1日の大洋戦でこの打法を試行、稲川誠から本塁打を放つなど3安打を固め打ちした。以後引退までこの打法を貫くことになる。

一本足打法を完成させるための壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[1]。特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。同年から1974年までの13年間、本塁打王を独占し続ける。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。


[編集] シーズン55本塁打
1964年シーズン、5月3日に開かれた阪神タイガース戦(後楽園球場)では1試合4打席連続本塁打を記録。この時点で既に17本塁打。手のつけられない打棒対策として、当時の広島カープの監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる「王シフト」と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。しかし、王は王シフトにも動じることはなく、その試合でも18号本塁打を叩き込んだ。

9月6日の大洋戦で52号、53号を叩き込み、前年野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去り、その記録を55本まで伸ばした。これは今でもプロ野球記録である。この年、巨人は優勝しなかったにも関わらず王はMVPに選ばれた。

それまで王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだったが、「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に王は一本足打法が自分のスタイルであると確証した。

また、王自身は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、打率もこの頃から上がり始め、1964年は江藤慎一と最後まで首位打者を争い続けた。翌1965年も江藤と首位打者争いを繰り広げ、1968年からは3年連続で首位打者を獲得した。


[編集] タイトル
MVP:9回(1964年 - 1965年、1967年、1969年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年)※9回は歴代最多。
三冠王:2回(1973年 - 1974年)※2年連続は連続記録として最多タイ。
首位打者:5回(1968年 - 1970年、1973年 - 1974年)※5回は歴代4位タイ、セ・リーグ歴代2位。3年連続はセ・リーグタイ記録。
本塁打王:15回(1962年 - 1974年、1976年 - 1977年)※15回、13年連続はいずれも歴代最多。
打点王:13回(1962年、1964年 - 1967年、1971年 - 1978年)※13回、8年連続はいずれも歴代最多。
最多出塁数:12回(1967年 - 1978年)
ベストナイン:18年連続18回(1962年 - 1979年)※回数、連続回数ともセ・リーグ最多
ゴールデングラブ賞:9年連続9回(1972年 - 1980年)※第1回が1972年

[編集] 表彰
オールスター出場:20回(1960年 - 1964年、1966年 - 1980年)
オールスターMVP:3回(1963年第2戦、1977年第3戦、1979年第1戦)
正力松太郎賞:4回(1977年、1999年、2003年、2006年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(1963年)
日本シリーズ技能賞:6回(1965年、1966年、1968年、1970年、1971年、1973年)
日本シリーズ打撃賞:1回(1972年)
野球殿堂入り(1994年)

[編集] 記録

[編集] レギュラーシーズン
通算出場試合:2831(セ・リーグ記録)
通算長打率:.634(4000打数以上で歴代1位)
通算打席:11866(セ・リーグ記録)
通算得点:1967(日本記録)
通算安打:2786(セ・リーグ記録)
通算本塁打:868(世界記録)
通算塁打:5862(日本記録)
通算打点:2170(日本記録)
通算犠飛:100(セ・リーグ記録)
通算四球:2390(日本記録)
通算故意四球:427(日本記録)
通算死球:114(歴代8位、左打者では歴代1位)
通算満塁本塁打:15(日本記録)
通算サヨナラ本塁打:8(セ・リーグタイ記録)
シーズン最多本塁打:55本(1964年、日本タイ記録)
シーズン最多四球:158個(1974年、日本記録)
シーズン最多四死球:170個(1974年、日本記録)
シーズン最高OPS:1.281(1974年)
シーズン最多出塁数:294個(1974年)
シーズン最高出塁率:.534(1974年)
シーズン最高本塁打率:7.86(1974年)
通算400本塁打到達スピード1位:1422試合
通算450本塁打到達スピード1位:1559試合
通算500本塁打到達スピード1位:1723試合
通算550本塁打到達スピード1位:1864試合
通算600本塁打到達スピード1位:1983試合
通算650本塁打到達スピード1位:2134試合
1シーズン50本塁打以上:3回(1964年、1973年、1977年、日本記録)
1シーズン40本塁打以上:8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、日本記録)
1シーズン30本塁打以上:19年連続19回(1962年 - 1980年、日本記録、20本塁打以上でも日本記録)
1シーズン10本塁打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年、日本タイ記録)
1シーズン30本塁打到達スピード1位タイ:64試合(1976年)
1シーズン40本塁打到達スピード1位タイ:97試合(1966年、1967年)
1シーズン50本塁打到達スピード1位タイ:122試合(1964年)
4打席連続本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
1試合4本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
7試合連続本塁打(1972年9月11日 - 9月20日、日本タイ記録)
1試合2本塁打以上:95回(日本記録)
打率ベストテン入り:16年連続含む17回(1960年、1962年 - 1977年、日本記録)
1シーズン打率3割以上:8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年、セ・リーグ記録)
1シーズン100安打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年、日本記録)
1シーズン100打点以上:7年連続含む14回(1963年 - 1969年、1971年 - 1974年、1976年 - 1978年、日本記録)
1シーズン守備機会:1607(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
1シーズン刺殺:1521(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
1シーズン守備機会連続無失策:991(1980年4月25日 - 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録)
サイクルヒット(1963年4月25日)
5360試合連続退場なし(1959年 - 1988年、1995年 - 継続中、日本記録)

[編集] 日本シリーズ
通算出場試合:77(歴代1位)
通算得点:58(歴代1位)
通算本塁打:29(歴代1位)
通算犠飛:5(歴代1位)
通算四球:83(歴代1位)
シリーズ本塁打:4(1963年、歴代1位タイ)
シリーズ四球:9(1967年、1976年の2度、歴代1位)

[編集] オールスターゲーム
出場試合:58(歴代1位)
通算打数:188(歴代1位)
通算犠飛:3(歴代1位)
連続打数無安打:33(歴代1位)


[表示]表・話・編・歴日本のプロ野球監督


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最終更新 2008年9月1日 (月) 19:55。














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菊池寛①■■中学校→②■■■■■■学校→③■■大学→④■■■大学→⑤■■高等学校→⑥■■帝国大学

2008-09-02 20:26:25 | Weblog
菊池寛

文学

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文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家

菊池 寛(きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日)は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。本名は同一表記で「―ひろし」。

目次 [非表示]
1 略歴
1.1 菊池寛の麻雀賛
1.2 その他
2 主要作品
3 関連項目
4 外部リンク



[編集] 略歴

大正8年の写真、一番左が菊池寛で、隣が芥川龍之介

①■■中学校→②■■■■■■学校→③■■大学→④■■■大学→⑤■■高等学校→⑥■■帝国大学


香川県高松市生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。①■■中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の②■■■■■■学校に進んだものの、授業をサボタージュしていたのが原因で除籍処分を受けた。

しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、③■■大学に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として④■■■大学に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。1910年、早稲田を中退して⑤■■高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて⑥■■帝国大学文学部英文科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた。

京大卒業後、⑦■■■■社会部記者を経て小説家となる。私費で雑誌『⑧■■■■』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。⑨■■■■■賞、⑩■■■■■賞の設立者でもある。⑪■■初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『⑫■■夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。

ヒント
①政治家の三木武吉・成田知巳はOB 。明治26年香川県尋常中学校。
   
②[編集]東京教育大学 概要
第二次世界大戦降伏後の学制改革に際し、新制大学として設置された。母体となった学校・大学には、②■■■■■■学校、東京文理科大学、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校がある。また、東京盲学校、東京聾学校もこの時に東京教育大学の附属学校となっている。昭和24年には附属光学研究所が設立されている。
1973年(昭和48年)から、筑波大学の各学群の開校に合わせて、順次募集停止した。移転期間においては、筑波大学と東京教育大学は並存し、東京教育大学に入学した学部生は筑波大学に転校することなく東京教育大学の学生として卒業した。スポーツ競技においては、筑波大学の名の下に東京教育大学の学生も出場していた(その反対に東京教育大学の名の下で筑波大学の学生も出場していた)。1975年(昭和50年)には全学部の募集を停止。1978年(昭和53年)3月31日をもって閉学した。
明治以来の■■■■■■学校・東京文理科大学の学術研究の伝統を背景に、文学部、理学部をはじめとする各学部とも高名な研究者が教鞭をとり高い研究水準を誇り、文系、理系ともに多数の研究者を輩出した。卒業・修了生は、全国の高等学校の中核的な教員、日本の学術研究を担う中核的学者として活躍し、日本の中等・高等教育界で重要な役割を担った。
附属光学研究所は、現在の筑波大学物理工学系の基盤となった。

③「元気があれば何でもできる!」と信じたいパワフル大学。(有名大学のすべてがわかる! 大学図鑑!2008 真実の大学案内。ダイヤモンド社。03-5778-7236
  週刊朝日 2008-5-9 本誌独自 全国1800高校調査でわかった 大学実合格ランキング P36 ③■■大学ベスト60 
桐蔭・春日部・川越・大宮・桐光・栄東・市川・高崎・川越東・横浜翠嵐・国立・開智・柏陽・東葛飾・戸山・豊島岡女子・江戸川取手・水戸第一・浦和第一女子・山手学院・市立浦和・熊谷・両国・平塚江南・西・千葉東・日比谷・希望が丘・西武学園文理・県立前橋・都立武蔵・土浦第一・川和・逗子開成・太田・青山・世田谷学園・國學院久我山・竹園・市川・県立千葉・駒場・茅ヶ崎北陵・昭和学院秀英・越谷北・小山台・長生・新宿・大妻・神奈川大学附属・南多摩・渋谷教育学園幕張・横須賀・鎌倉学園・淑徳与野・韮山・幕張総合・南・錦城 

④立命館・同志社・学習院・國學院・名古屋・早稲田  から選ぶ

⑤&⑥

ナンバースクールとは、1948年まで日本に存在した高等教育機関のひとつである旧制高等学校のなかで、数字を冠した学校のことである。


[編集] 概要
旧制高校は最終的には全国に39あったが、明治期に創設された旧制一高から旧制八高までは、政官界に卒業生を早く送り込んで後発の学校よりも優位に立ったため、他と区別するため、特別に「ナンバースクール」と呼ばれた。尚、後発の官立旧制高等学校はナンバーを校名にふることを止めて自治体名を用いたことからナンバースクールと区別する意味でネームスクールと呼ばれた。但し、法律上で規定されたものではなく愛称的に用いられたもの。

詳細は旧制高等学校の概要及び旧制高等学校のナンバースクール一覧を参照。

また、この存在により、旧制中等学校やその後の新制高等学校を取り巻く環境・文化にも影響を与えた。詳細については、ナンバースクール (旧制中等学校・新制高校)及び旧制中等学校・新制高校のナンバースクール一覧を参照。

略称 分類  舊制高校  開設年月   所在地 後身新制大学

一高 官立 第一高等學校 明治19年4月 東京市 東京大学

二高 官立 第二高等學校 明治19年4月 仙臺市 東北大学

三高 官立 第三高等學校 明治19年4月 京都市 京都大学

四高 官立 第四高等學校 明治19年4月 金澤市 金沢大学

五高 官立 第五高等學校 明治19年4月 熊本市 熊本大学

六高 官立 第六高等學校 明治33年3月 岡山市 岡山大学

七高 官立 第七高等學校造士館 明治34年4月 鹿児島市 鹿児島大学

八高 官立 第八高等學校 明治41年3月 名古屋市 名古屋大学


[編集] 関連項目
学歴
学制改革
旧制学校
高等教育関連
帝国大学
旧官立大学
旧制大学
高等中学校
旧制高等学校
新制大学
駅弁大学

最終更新 2007年8月17日 (金) 03:24。Wikipedia®

⑦朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞・東洋経済はいづれも不正解

⑧菊池寛が作った文藝春秋社の入社試験問題と解答。

最初の社員公募入社試験は、昭和8年5月10日、神田の文化学院で実施された。
「わづかに広告しただけで応募者が七百名あった」(「話の屑籠」)

菊池寛の作った問題と解答。
左記に記する東京の地名の起源を答へて下さい。四問中二問出来ればよろし。
(1)麹町
  (説三つあり、二つ答へて下さい)
(2)春日町
(3)雑司ヶ谷
(4)八重洲河岸

(1)麹屋があった。小路町。国府路(昔の国府府中へ行く路)
(2)春日局の邸宅地
(3)京都から雑色(禁中の小役人)が移住していた土地。法明寺又は金剛寺の雑色料(雑費)に当てた土地。
(4)オランダ人ヤンヨウスに幕府が与えた土地





出典:新潮日本文学アルバム39「菊池寛」(きくち かん) A5 112P
  評伝 菊池寛      浅井清
 〈エッセイ〉共同体のための小説家  丸谷才一
 略年譜                  浅井清
 主要参考文献
 主要著作目録
 カバー写真=昭和9年ころ  

1994年1月10日発行   定価1300円(本体1262円)
    発行者 佐藤亮一
    発行所 株式会社 新潮社
    東京都新宿区矢来町71
    郵便番号 162
    電話 (営業部)03-3266-5111
        (編修部)03-3266-5411
    振替 東京4-808
    印刷 大日本印刷株式会社
    製本 加藤製本株式会社
    ※価格はカバーに表示してあります

編集・評伝  浅井 清
エッセイ   丸山才一

資料提供者
      菊池英樹
      松成貴美
      
      浅井清
      石岡久子
      臼杵善弘
      大西良生
      片山宏行
      河田七五三
      佐藤碧子
      渋谷浩美
      関口安義
      薄田柱
      永田敏之
      伴 薫
      藤田良圀
      三好末春
      村上光子
      横光象三
      国立国会図書館
      支部上野図書館
      菊池寛記念室
      慶應義塾福澤研究センター
      琴平町教育委員会
      讃岐文学社
      三康図書館
      高松高校
      高松市立菊池寛記念館
      つくば大学図書館
      長谷川町子美術館
      花園亮
      文藝春秋
      毎日新聞社
      三軒町教育委員会
      四番丁小学校
      陸上自衛隊善通寺駐屯地乃木資料室
      早稲田大学
      早稲田大学演劇博物館
      早稲田大学図書館

写真撮影 久米たかし

編集協力  日本近代文学館

※写真 木挽社 電話03-3293-7081

ISBN4-10-620643-9  C0391


カバー

新潮日本文学アルバム 既刊/全36巻・別巻4巻
1 森鴎外
2 夏目漱石
3 樋口一葉
4 島崎藤村
5 柳田国男
6 石川啄木
7 谷崎潤一郎
8 高村光太郎
9 有島武郎
10 武者小路実篤
11 志賀直哉
12 宮沢賢治
13 芥川龍之介
14 斉藤茂吉
15 萩原朔太郎
16 川端康成
17 堀辰雄
18 山本周五郎
19 太宰治
20 三島由紀夫
21 正岡子規
22 泉鏡花
23 永井荷風
24 与謝野晶子
25 北原白秋
26 折口信夫
27 梶井基次郎
28 小林多喜二
29 吉川英治
30 中原中也
31 小林秀雄
32 野上弥生子
33 山本有三
34 林芙美子
35 坂口安吾
36 檀一雄

別巻1 明治文学アルバム
別巻2 大正文学アルバム
別巻3 昭和文学アルバムⅠ
別巻4 昭和文学アルバムⅡ

装幀 新潮社装幀室 / 印刷 錦明印刷


文責 調べもの新聞編集室 編集長 中村惇夫
  横浜市金沢区六浦南2-27-18-201
  www.shirabemono.com
www.shrabemono.com/i/
nakamurayoshio@gmail.com or info@shirabemono.com
TEL&FAX 045-701-6113

『■■夫人』は、菊池寛の小説。1920年(大正9年)の6月9日から12月22日まで「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」に連載された。また、これを原作にした同名の映画やテレビドラマがある。近年のドラマ化にあたっては、この小説の肝である高利貸しが登場しないことで、TV局がサラ金から巨額の広告料をもらっているための配慮ではないかと物議を醸した。

[編集] あらすじ

注意:以降の記述で物語に関する核心部分が明かされています。

--------------------------------------------------------------------------------

大正時代。男爵令嬢、唐澤瑠璃子は敵の罠にはめられた父を救う為、泣く泣く卑しい高利貸しの荘田勝平の妻となるが、同じ貴族で恋人の直也の為に処女を貫きながら生きていく女の愛憎劇。


[編集] 映画 (国活)
原作小説連載当時の1920年、いち早く国際活映が「角筈撮影所」で撮影、同年11月28日、浅草大勝館ほかで公開された。熊谷武雄の出演以外の詳細は不明。無声映画である。


[編集] 映画 (松竹キネマ)
1927年、松竹キネマ制作、栗島すみ子主演。無声映画である。


[編集] 映画 (大映)
1950年に『真珠夫人 処女の巻』、『真珠夫人 人妻の巻』として公開された。


[編集] スタッフ
製作 中代富士男、本木荘二郎
監督 山本嘉次郎
脚本 山本嘉次郎

[編集] キャスト
高峰三枝子
池部良
二本柳寛
星美智子
潮万太郎
小杉勇
沢村貞子

[編集] テレビドラマ(TBS)
ドラマ

Portal : テレビ
Portal : ドラマ
ドラマ一覧
日本のドラマ
カテゴリ
テレビドラマ
プロジェクト
テレビドラマ
1974年9月2日から10月25日までTBS系列の花王 愛の劇場枠にて放映された昼ドラ。全40回放送。


[編集] スタッフ
脚本 - 芦沢俊郎

[編集] キャスト
光本幸子
久富惟晴
金子信雄

[編集] テレビドラマ(東海テレビ)
2002年4月1日から6月28日の毎月曜から金曜までフジテレビ系列で放送された昼ドラ。放送時間は昼1時30分から2時まで。全65回。


[編集] 評価
小説が原作とは言うものの、後半は大幅な脚色がみられる。近年の昼ドラブームの牽引役として、その役目を果たした。

登美子が出す「たわしコロッケ」シーンが当時話題になり、流行語になった。


[編集] スタッフ
原作 - 菊池寛
脚本 - :中島丈博
演出 - 西本淳一、藤木靖之、大垣一穂(ザ・ワークス)
演出補 - 坂梨公紀
制作担当 - 谷正光
プロデューサー - 塚田泰浩、阿部謙三、鶴啓二郎
プロデューサー補 - 臼井央、高橋久美子
広報 - 藤城大子、竹中麻紀
スチル - 藤平清史
記録 - 池上ゆか
音楽 - 寺嶋民哉
音楽制作 - インスパイア・ホールディングス
選曲・効果 - 堀尾守央
MA - 佐藤一誠
美術デザイン - 金子幸雄
操作 - 河村義則
美術進行 - 平川恵子
装飾 - 宮野雅人
衣裳 - 高知尾博幸
小道具 - 和田浩実
ヘア・メイク - 久池智子
美術協力 - KHKアート
技術 - 松岡良治
カメラ - 大森隆晴
照明 - 石井美宏
音声 - 中山大輔
VE - 酒井克巨
編集 - 大塚民生
スタジオ - 国際放映
技術協力 - 東通
協力 - 織田デザイン専門学校、CEST LAVIE、のざわ、石塚硝子
制作 - 東海テレビ、東宝株式会社



[編集] キャスト
荘田瑠璃子 - 横山めぐみ
主人公、元華族唐澤徳光の娘。家を救う為荘田勝平に嫁ぐ。しかしその後も直也との約束を守り貞操を守り続ける。間もなく未亡人となる。生活のために荘田が残した娼館を切り盛りすることになる。
杉野直也 - 葛山信吾
主人公の恋人。父が経営する造船会社・東海船舶工業の資材部長。瑠璃子とは相思相愛だが、徳光が造船疑獄を国会で追究したために、父から瑠璃子との結婚を反対される。
荘田勝平 - 大和田伸也
瑠璃子の父、唐沢を詐欺にかける高利貸し。唐沢の娘・瑠璃子に興味を持ち、直也との結婚が決まっていた瑠璃子と無理やり結婚する。結婚後間もなく、実息の種彦に殺害される。    
杉野登美子 - 森下涼子
直也の妻。直也の赴任先であるシンガポールで結婚。日本に戻ってから、直也と瑠璃子が再会したことを知り瑠璃子たちに復讐するため、瑠璃子の経営する娼館で素性を隠し働く。後に自殺。
荘田種彦 - 松尾敏伸
勝平の息子(母親不明)、知的障害がある。妹の美奈子とは異母兄弟。始めは瑠璃子と婚約することになっていた。瑠璃子が荘田家に嫁ぐと、瑠璃子を守る騎士となることを決意。勝平に無理やり体を奪われそうになっていた瑠璃子を救うため勝平を殺害し、服役。出所後は刑務所で学んだ家具作りをする。
荘田美奈子 - 増田未亜
勝平とむら枝の娘。偶然出会った直也に一目ぼれをし、勝平の死後、瑠璃子が直也とシンガポールへ行くことを自動車事故を仕組み阻止する。母のむら枝とは仲が悪い。
唐沢徳光 - 浜田晃
元貴族院議員で瑠璃子の父 瑠璃子が荘田に嫁ぐのを嘆く。直也と再会した瑠璃子に「愛に生きろ」と言い残して死ぬ。
山田むら枝 - 奈美悦子
勝平の元愛人。娼婦をしているときに美奈子を出産するが正妻になっていない。勝平に嫁いだ瑠璃子に度々意地の悪いことを仕掛ける。
宮畑 - 名高達郎
会社社長。売春防止法が近づき、生活に困窮した瑠璃子を高額で水揚げすることに。しかし、実際は肉体関係は結ばなかった。その後は瑠璃子の良き相談役となる。
細川茂樹
完結版にて、瑠璃子に生き写しの女性(横山めぐみ)が待っていた男性役として出演。
ほか


[編集] 主題歌
『HE WAS BEAUTIFUL』 歌 - クリスティ ・レーベル - インペリアルレコード

[編集] 漫画
漫画家さちみりほによって、『エレガンス・イブ』(秋田書店刊)で連載されていた。もう一つはドラマ版を漫画化にし、白泉社で連載された。


[編集] 備考
第19回 新語・流行語大賞 トップテン入賞。
本放送終了後、2002年9月27日にフジテレビ系金曜エンタテイメントにて、スペシャル番組(実質、総集編)として「真珠夫人 完結版~二年待って。きれいな体のままで~」が放送された。
同年10月20日には直也役の葛山信吾が、真珠が誕生石(6月生まれ)である女優・細川直美と結婚。同日行われた記者会見で結婚指輪(当時まだ買っていなかった)について聞かれたところ、細川は「真珠もいいかなと思ったんですけど、絶対『真珠夫人』と呼ばれるだろうなぁと思って(笑い)…」と、ダイヤモンドの指輪にする予定だと答えた。
2007年には本作が岩手県の、岩手めんこいテレビでの再放送ではなく、テレビ岩手(日テレ系)での放送を行っている。15時55分~16時25分まで。その他、CS放送や系列を問わず各地で再放送が行われている。
2008年3月から放送の愛の劇場「スイート10」(三浦理恵子主演)にて、本作の主役コンビが共演した。

[編集] 作品の変遷
TBS 花王 愛の劇場
前番組 番組名 次番組
母の鈴
(1974.7.9 - 1974.8.30) 真珠夫人
(1974.9.2 - 1974.10.25) 二十一歳の父
(1974.10.28 - 1974.12.27)
東海テレビ制作 昼ドラマ
母の告白
(2002.1.7 - 2002.3.29) 真珠夫人
(2002.4.1 - 2002.6.28) 新・愛の嵐
(2002.7.1 - 2002.9.28)

カテゴリ: 日本の小説 | 愛の劇場 | 1974年のテレビドラマ | 東海テレビのテレビドラマ | 2002年のテレビドラマ | 東宝製作のテレビ作品
2008年4月10日 (木) 01:42。 Wikipedia®

東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。

麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。

太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。





[編集] その他
高松市には「菊池寛通り」の愛称が付けられている市内道路があり(この通り沿いに生家があった)、その道路近くの中央公園には銅像が建っている。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年に香川県庁舎に面する香川県道173号高松停車場栗林公園線が「県庁前通り」と命名されたことに伴い改名したものである。
両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。この少年との関係は大学時代まで続いた。一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからであるといわれる。また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人に小森和子がいる。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1977年9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巌谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎の場合は、金ならありますと言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。永井荷風はそういう菊池の言動を嫌悪し、日記「断腸亭日乗」の中でさんざんこきおろしている。
人材の発掘にも優れていた。文芸春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。古川青年は喜劇俳優「古川ロッパ」として成功した。


[編集] 主要作品
『屋上の狂人』
『父帰る』
『無名作家の日記』
『恩讐の彼方に』
『忠直卿行状記』
『蘭学事始』
『藤十郎の恋』
『菊池千本槍シベリア特別特攻隊』
『真珠夫人』
『貞操問答』
『三人兄弟』
『日本競馬読本』
『葬式に行かぬ訳』
『下足番』
『形』
『入れ札』
『フランダースの犬』(翻訳者として)
木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)p.78-79によると、『不壊の白珠』は川端康成による代筆であり、『受難華』は横光利一による代筆である。こうした代筆の横行を批判して文壇から抹殺された作家に龍胆寺雄がいる。


[編集] 関連項目
菊池寛賞
朝鮮芸術賞(朝鮮藝術賞)
永田雅一

[編集] 外部リンク
菊池 寛:作家別作品リスト(青空文庫)
菊池寛アーカイブ
話の屑籠(文芸春秋エッセイ)
菊池家系図
菊池寛のお墓 
カテゴリ: 日本の小説家 | 日本の劇作家 | 香川県出身の人物 | 国政選挙立候補経験者 | 1888年生 | 1948年没

最終更新 2008年3月28日 (金) 12:19。Wikipedia®

山本義隆 科学史家 | 新左翼活動家 | | 日本の社会主義の人物 | 予備校講師

2008-09-02 20:26:04 | Weblog
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山本義隆

1941年 -
生年: 1941年
思想: マルクス主義
活動: 東大闘争
所属: 東大全共闘議長
投獄: 東京拘置所
現職: 予備校教師
山本 義隆(やまもと よしたか、1941年 - )は、日本の科学史家、自然哲学者、教育者、駿台予備学校物理科講師。元・東大闘争全学共闘会議代表。

目次 [非表示]
1 人物
2 著書
2.1 評論集
2.2 物理学・科学史関係
2.3 大学受験参考書
3 編訳書
4 論文
5 その他
6 関連項目



[編集] 人物
大阪府出身。大阪市立船場中学校、大阪府立大手前高等学校卒業。1964年、東京大学理学部物理学科卒業。 東京大学大学院博士課程中退。

1960年代は学生運動の時代である。東大などでは新左翼無党派の全学共闘会議(全共闘)が激しく活動をおこなっていた。その最後が有名な1969年1月の安田講堂攻防戦である。結局、大学側の要請による8,000人を超える機動隊により安田講堂は陥落した。この時期、東大全共闘の代表者の役割を果たしていたのが、東大全共闘議長・山本義隆であった。山本は、安田講堂事件の前に警察の指名手配を受け地下に潜伏するが、同年9月の全国全共闘連合結成大会の場に登場して警察当局に逮捕された。山本義隆の名は、日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘世代には強く記憶されている。

学生時代より秀才でならし、大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻した。物理学者としての将来を嘱望されていたが、学生運動の後、大学を去った。 山本が当時の国内留学先だった京都大学基礎物理学研究所での研究生活を放り出して全共闘運動のため東京に舞い戻ったことに対し、その時の所長だった湯川秀樹は涙を流したというエピソードが当時を知る物理学関係者の記憶に今なお残されている(ソース:佐藤勝彦研究室関係者)。

その後は大学での研究に戻ることはなく、また全共闘に関するマスコミ取材は一切受けず、予備校教師として、受験生に物理学の本質を教えようと努める傍ら、科学史の研究をおこなっている。駿台予備学校では「東大物理」などの最上位クラスに出講。エルンスト・カッシーラーの優れた翻訳で知られ、後に熱学・熱力学や力学など物理学を中心とした自然思想史の研究に従事した。遠隔力概念の発展史についての研究をまとめた『磁力と重力の発見』全3巻は、第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞して読書界の話題となった。


[編集] 著書

[編集] 評論集
『知性の叛乱―東大解体まで』(前衛社、1969年)

[編集] 物理学・科学史関係
『重力と力学的世界 - 古典としての古典力学』(現代数学社、1981年)
『演習詳解 力学』(共著、東京図書、1984年)
『熱学思想の史的展開 - 熱とエントロピー』(現代数学社、1987年)
『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ』(日本評論社、1997年)
『解析力学I、II』(共著、朝倉書店、1998年)
『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房、2003年)
『一六世紀文化革命』全2巻(みすず書房、2007年)

[編集] 大学受験参考書
(坂間勇、谷藤祐)『大学入試必修物理(上)』(駿台文庫、1979年)
(坂間勇、谷藤祐)『大学入試必修物理(下)』(駿台文庫、1980年)
『物理入門』(駿台文庫、1982年)
『新・物理入門 <物理IB・II>』(駿台文庫、1996年)
『新・物理入門問題演習 <物理IB・II>』(駿台文庫、1997年)
『新・物理入門 増補改訂版』(駿台文庫、2004年)
『新・物理入門問題演習 改訂版』(駿台文庫、2005年)

[編集] 編訳書
『東大闘争資料集』全23巻('68・'69を記録する会編、1992年)
以下は訳者による解説付き。

エルンスト・カッシーラー著『アインシュタインの相対性理論』(河出書房新社、1976年(改訂版:1996年))
エルンスト・カッシーラー著『実体概念と関数概念 - 認識批判の基本的諸問題の研究』(みすず書房、1979年)
エルンスト・カッシーラー著『現代物理学における決定論と非決定論』(学術書房、1994年)
エルンスト・カッシーラー著『認識問題4 ヘーゲルの死から現代まで』(共訳。みすず書房、1996年)
『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』(編訳。岩波文庫、1999年)
『ニールス・ボーア論文集2 量子力学の誕生』(編訳。岩波文庫、2000年)
『物理学者ランダウ―スターリン体制への叛逆』(共編訳。みすず書房、2004年)

[編集] 論文
山本義隆「GeV領域のRegge Pole現象論」 日本物理学会誌 22, 352-355 (1967).
江沢洋、中村孔一、山本義隆、素粒子論研究 36-4, 456 (1967).
H. Ezawa, K. Nakamura, Y. Yamamoto, Nuov. Cim. 54A, 512-515 (1968).
H. Ezawa, K. Nakamura, Y. Yamamoto, Proc. Japan Acad. 46, 168 (1970).
「ケプラー問題の初等的解法と離心ベクトルの保存について」 『駿台フォーラム』 4 (1986) ISSN: 02895579
「Retarded Gravitational Potential and the Shift in the Perihelion of Mercury (遅延重力ポテンシャルと水星の近日点移動)」 『駿台フォーラム』 13 (1995)
"Simon Stevin and the Cultural Revolution in the 16th Century", in a Garden of Quanta, ed. J. Arafune et.al., World Scientific (2003), pp.491-502.

[編集] その他
山本義隆 『東京大学新聞』1967年9月25日(第714号)
最首悟 『山本義隆潜行記』(講談社、1969年)
「特集 山本義隆先生『磁力と重力の発見』受賞記念」『駿台フォーラム』 22 (2004)
特別講演 「近代的自然観の形成」
「『磁力と重力の発見』をめぐって」
「幾何光学と変分法」『数理科学』2006年5月号 No.515
渡辺眸、寄稿・山本義隆『東大全共闘1968-1969』(新潮社、2007年)
文庫版『力学・場の理論 ランダウ=リフシッツ物理学小教程』 解説(筑摩書房、2008年)

[編集] 関連項目
東大闘争
今井澄

カテゴリ: 科学史家 | 新左翼活動家 | 共産主義者 | 日本の社会主義の人物 | 予備校講師 | 大阪府出身の人物 | 1941年生

最終更新 2008年3月16日 (日) 09:00。Wikipedia®









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緊急提言! 美術館・博物館の入館料を無料に!  調べもの新聞編集部

2008-09-02 20:24:14 | Weblog
【参考文献】鎌倉文学館 「中原中也展」山口中学→現■■■■■大学
 」
緊急提言! 美術館・博物館の入館料を無料に!  調べもの新聞編集部
   (入館料が高すぎる。入館者数が余りにも少なすぎる。)

読売・日経・朝日
新Sあらたにす
http://allatanys.jp

編集手帳

中原中也に、「また来ん春・・・」という詩がある。

〈おもへば今年の五月には 
 おまへを抱いて動物園
 象を見せても猫(にやあ〉といひ
 鳥を見せても猫(にやあ〉だった〉

◆親・張り合い・思い出・似た記憶・シカ・別

〈角によつぽど惹(ひ)かれてか
 何とも云(い)はず
 眺めてた〉

◆動物・名前・幼い子供・目・動くぬいぐるみのようなパンダ・上野動物園・「リンリン」・(オス・22歳)

◆動物園・年・中也・長男・2歳・

「春が来たって何になろ
 あの子が返つて来るぢやない。」

 不幸な別れを経験した親・子のつつがない成長を見守ることのできた親・動物園・思い出の詰まった場所
◆16年前・リンリン来日・年・来園・赤ちゃん・憎まれ口・わが子・成長・母親・目がしら・パンダ・おふくろ・息子・屋根の下・光景・目


 出典:THE YOMIURI SHIMBUN 2008年(平成20年)5月1日木曜日
1 13S  編集手帳



※1 「ダダ手帖」は大正12~13年頃に使用された創作ノート。ノートは河上徹太郎に保管を託されていたが、昭和20年の空襲で消失。河上が昭和13年に雑誌で紹介していた2篇のみが今日まで伝わる。
※2 「ノート1924」は大正13年~昭和3年頃に使用された創作ノート。
※3 「ノート少年時」は昭和2~5年頃に使用された創作ノート。
※4 「ノート翻訳詩」は昭和4~8年頃に使用されたノート。内容は、詩8篇、短歌4首、翻訳詩14篇。
※5 「早大ノート」は昭和5~12年頃に使用された創作ノート。
※6 「療養日誌」は昭和12年1月に使用された創作ノート。
※7 「千葉寺雑記」は昭和12年1,2月頃に使用された創作ノート。
※8 「草稿詩篇」は大正14年~昭和12年に執筆された、他のどの項目にも属さない未発表詩篇。


○参考文献『新編中原中也全集』(全12冊、角川書店、2000-2004)

詩人。明治40年4月29日~昭和12年10月22日。山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。県立山口中学時代から短歌を雑誌や新聞に投稿しはじめるも、学業を怠けるようになり、大正12年に落第。転校先の京都で富永太郎や小林秀雄らと知り合い、フランス象徴派の詩を学ぶ。大正14年3月、恋人の長谷川泰子と共に上京するが、同年11月に泰子が小林秀雄の許へ去るという事件が起こる。昭和4年、河上徹太郎や大岡昇平らと同人誌「白痴群」を創刊、投げやりで自棄的な、独特のリズム感を持った詩を発表しはじめる。昭和6年、東京外語専修科に入学し、昭和8年3月に修了。同年12月、上野孝子と結婚。昭和9年、処女詩集「山羊の歌」を刊行。同年、長子文也を得るも、昭和11年11月に文也の死に遭い、そのころから神経衰弱を昂じる。昭和12年10月22日、結核性脳膜炎により死去。享年30歳。代表作は「山羊の歌」、「在りし日の歌」、「ランボオ詩集」(翻訳)など。

〔リンク〕
中原中也@フリー百科事典『ウィキペディア』
中原中也@文学者掃苔録図書館


回想録

 音楽に就いて云へば、彼は私の所へ来てはよく私の貧弱なレコードのコレクションを繰返し繰返し聴いた。彼の最も喜んだのはバッハのマタイ受難楽中のアルトのアリア、それから同じくバッハのハ短調オルガン用パツサカリアであつた。此のレコードは彼の為に何遍針を載せられたか解らぬ位であつた。私が持つて居ないのを知り乍ら、よくモツアルトは無いか無いかと云つたりした。セザール・フランクには激しい嫌悪の言葉を吐いた。併し夫はその音楽が嫌なのではなく、何か不機嫌な聯想を持つものらしかつた。夫は或は自分自身の姿であるらしくも思はれた。又或る時は自分でベルリオーズの幻想交響曲のレコードを携へて来て、どう思ふかと異常な熱心さで聞いたりした。私は余り重要視して居なかつた此の曲に就いて、改めて考へさせられたりしたものであつた。又或るときは蓄音機を聞きたがらず、あの針を載せてから、音楽が始まるまでの間の針音に堪へられないのだと云つたりした。

内海誓一郎「追憶」
昭和12年12月



 僕が初めて会った頃の中原は、丁度ヴエルレーヌの描いたランボオの肖像そっくりの格好で、つまり真黒な服とワイシャツ、鍔の広い山の低い御釜帽子で、頭の毛を長く首の所まで垂らし、両手を上衣のポケットに突込んで歩いていた。そして人に会うとすぐからんで来て、実に傍若無人のつき合いをした。常に興味と嫌忌の交錯した気持を感じないで彼の話を聞いていることは出来なかった。この印象は実に特異なもので、彼を知らない人には伝え得ないものだ。恐らく彼とつき合って心から楽しかったものはないだろうし、しかも彼の話が全然面白くない者は、芸術を論じるに足りぬ人間であろう、こういうと得手勝手な話になるが、然し彼自身の方がもっと得手勝手なのである。

河上徹太郎「死んだ中原中也」
昭和12年12月



 中原中也の肉体は小さかつたけれども重たく不透明だつた。それはあたりの色をも変色させるやうな毒気をもつてゐたやうに思はれる。
 (中略*調べもの新聞:記)
自分の知つてゐる範囲で「独自」なといふ言葉に恥じない朗読をしたのは宮沢賢治と中原中也だけである。あとは山脈のデコボコの高低に過ぎない。

草野心平「中原中也」
昭和12年12月



大学時代、初めて中原と会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてからそんな風に思ひ出し度がるものだ。中原と会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によつても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見付けただけであつた。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。

小林秀雄「中原中也の思ひ出」
昭和24年8月



 中原中也はこの娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。
 とびかかったとはいうものの、実は二三米離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向って乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、一緒に飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。(中略)
 オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言って中也は常に嘆いており、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかかげたり、けれども弟子はたった一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰うと一緒に飲みに行って足がでるので嘆いており、三百枚の翻訳料がたった三十円で嘆いており、常に嘆いていた。

坂口安吾「二十七歳」
昭和22年3月



 彼がカソリックを信仰しだしたといふことは最近きいたことだが、それは洗礼を受けたといふのでもなく、教会へ行くといふのでもなく、聖書をよんで一人で泣き一人で祈つてゐたのである。ヴェルレエヌが教会の扉を押し破つて入つてサンタ・マリヤの像の前で涙を流して告訴してゐたのを警官は暴行罪として拘引したといふ話があるが、さういふ発作的な祈らずには居られぬ感情の昂揚を彼も幾度か経験したのであらう。このやうな宗教意識についてはもつと彼に親しかつた人達によつて解明して貰ひたい問題である。がまた彼の中にヴェルレエヌに対するあのランボオの激情的な悶えがあつて、彼の不幸は限りないものであつたと思ふ。さういふ部分の彼は死後に非現実的な脚光を沿へるものであるが、人間としての彼が宗教を求めてゐたことは僕を深く打つものがあつた。

阪本越郎「中原中也を憶ふ」
昭和12年12月



 病気で倒れる前、数ヶ月このかたの中原中也君は、明るく希望に満ちてゐたやうに私にはながめられた。私と同氏との日の浅い交友は、今年のはじめ、私が鎌倉に引き移つて以来のことである。(中略:調べもの新聞削除)新しい発足の前の休息のやうに思へたのであつた。
 この秋には大体一年位滞在の予定で帰郷することになつてゐて、帰郷後の生活や、仕事についてもいろいろ楽しい予想を持つてゐたのである。夏頃から私と逢ふとその話があつた。「中学生のやうな気持で」と云つて、若々しく前をのぞんでゐる自分の気持を語つたこともあつた。(中略)
 そしてさういふ此頃の氏であつただけに、氏の思ひがけない卒然の死といふものが、ひとしほいたましくてならぬのである。

島木健作「追悼」
昭和12年12月



 暫くして、先の家とは又別な、しかし同じく上水道に添つた畑の中の、小さな僕等の家に荷物を運んで来た。そして三人の一年近い共同生活が初つた。
 三人の生活と云つても、一切は五郎さんがやつた。朝早く炭火を熾す焚付けの煙が家中に流れてゐて、(中略)、当座の用にはたゝなかつた。五郎さんが黙つててきぱき調理してゐる傍で、中原は次ぎ/\に失敗をしては、何の手助けも出来ないのを悲しんだ、たゞ、葱の刻ざんだのを水に晒してレースをかけて喰べる料理は中原の発明で、それを作るのは中原に限ることになつてゐた。布片にくるんで長いこと氷の様に冷い井戸水の中に入れてもんで、きら/\光る白い葱の山を皿にのせて運んで来る時に、中原は嬉しさうであつた。

関口隆克「北沢時代以後」
昭和12年12月



 文也坊やが生れて彼は歓喜し、幸福な日々を送っていました。ところが、その急死によって悲嘆の底に陥いり、ついに気がふれて入院しました。そして苦しみ、衰弱し、幻視や、幻聴や、幻覚に悩みました。(中略)
 病の進行は思いの外に迅速で、みるみる衰弱し、やがて意識を失い、わずかに十数日で危篤に陥りました。最後の日、見舞うと手を握って名を呼ぶ私を知ってか知らずか、呟くように、「二つの神を同時に信ずること……」といったようでした。何を言おうとしたのか。それきりもう一言も発しませんでした。そして慈母のふくさんにみとられ、彼の魂は故郷の山口に帰ったのか、去って行ってしまいました。

関口隆克「中原中也との出会いと別れ」
昭和49年1月



 中原と泰子さんの関係も、両方からきくともなしにきいた。それで私が中に入ってなんとかするというようなものではなく、私はただ、眺めているだけだった。中原は以前のように彼女との生活をしたいらしい。しかし、「あいつに会うのは嫌だ」と泰子さんは云っていた。「会うのが嫌なら、ここへ来なけりゃあいいじゃないか。」中原が毎日アトリエへ来るのは、そこで彼女に行き会えると思ってかもしれない。またよく落ち合った。そうして私の前でけんかした。取組み合いも数回やった。広いアトリエだから活躍できるが、彫刻台が十台も列んでいる。「とっくみ合うのは勝手だが、俺の彫刻をぶっこわすなよ。用心してけんかしてくれ!」中原は小さくやせていたから、いつも彼女に負けて、ふーふー息をついていた。けれどもこんなにけんかした時は、かならず二人は一しょに帰ったから面白い。たぶん私が二人を同時に帰したのだろう。次の日来た時は双方ともけろりとしていた。
 けれどもある日、中原は分厚い綴じた原稿を持ってきた。「これは誰にも見せない、あいつにも見せないんだけど、僕が死んだら、あいつに読ませたいんです。高田さんには見てほしいんだ。」全部愛の詩であった。私は読みながら涙がにじみ出たのをおぼえている。

高田博厚「人間の風景」
昭和47年12月



 中原が、アテネ・フランセに通っていた頃、九段下の泡盛屋で、よくのんだ。東大の仏文の講義の盗聴も、中原はしていた。富士原清一に言わすと、中原のフランス語は、なっていないということだったが、外語の専修科にも通ったので、進歩したのであろう。家庭教師なども、したようだ。
 ベルレーヌの猥詩を、二つ、中原は、訳してくれたことがある。或雑誌に掲載するため、中原に依頼したのであった。『ランボー詩集』なども訳しているが、京都時代は、中原は、まだフランス語は知らなかった。
 私は、昭和の四、五、六、と三年間、東京には居なかった。この間に、中原は、『白痴群』を出した。昭和七年の一月、私は上京して、中原との交友が復活した。
 彼は、洗足池の近くに居たり、牛込の方にも居たことがある。「ヴァレリーはサラリーマンにすぎぬ。」と言って、ヴァレリーの肖像写真の拡大したものを、私の目の前で、破いたりしたのは、原町の木立の多い家の二階の部屋だった。書棚には、有朋堂の、「古代歌謡集」「近代歌謡集」などがならんでいた。詩の形態、及び発想には、人知れぬ苦労を、重ねていたのである。

高橋新吉「中原中也の思い出」
昭和50年3月



 謙助(註、中也の父)が寝ついたとき、私は中也に、「お父さんも長くはないかもしれんよ」と、いってやりました。すると中也は、「月に一回ずつ、とにかく帰ってきます」といい、さっそく、うちに帰ってきました。
 中也は謙助の枕元にいって、なにか話をしておりました。そのとき、文士のようなものにならずに、まじめに勉強して、サラリーマンになれ、といわれたんでしょう。中也は私のところにきて、お父さんって、おかしな人じゃね、わけのわからん人じゃね、としきりにいっておりました。
「それはすべて、あんたの将来のことを心配してじゃから、あんたは怒るもんじゃない」
「いや、全然わけのわからん人ですよ。あんな人とは思わなかった。ぼくがせっかく一生懸命にやっておるのに、やめさせようとするのだから」
     (中略)
 謙助は寝ついてから、中也が送った詩を読んでおったことがありました。そして、涙をこぼしておりました。あの涙がどういう涙であったか、私にはようわかりません。けど、中也の詩を読んで、涙をボロボロだしておったのは事実です。

中原フク(註、中也の母)述・村上護編「私の上に降る雪は」
昭和48年10月



 中原君の詩はよく読んだが、個人としては極めて浅い知合だつた。前後を通じて僅か三回しか逢つて居ない。それも公会の席のことで、打ちとけて話したことはなかつた。ただ最後に「四季」の会で逢つた時だけは、いくらか落付いて話をした。その時中原君は、強度の神経衰弱で弱つてることを告白し、不断に脅迫観念で苦しんでることを訴へた。話を聞くと僕も同じやうな病症なので、大に同情して慰め合つたが、それが中原君の印象に残つたらしく、最近白水社から出した僕の本の批評に、僕の人物を評して「文学的苦労人」と書いてる。その意味は、理解が広くて対手の気持ちがよく解る人(苦労人)といふのである。僕のちよつとした言葉が、そんなに印象に残つたことを考へると、中原君の生活はよほど孤独のものであつたらしい。(中略)
 中原の最近出したラムボオ訳詩集はよい出来だつた。ラムボオと中原君とは、その純情で虚無的な点や、我がままで人と交際できない点や、アナアキイで不良少年ぢみてる点や、特に変質者的な点で相似してゐる。ただちがふところは、ラムボオが透徹した知性人であつたに反し、中原君がむしろ殉情的な情緒人であつたといふ一時である。このセンチメントの純潔さが、彼の詩に於ける、最も尊いエスプリだつた。

萩原朔太郎「中原中也君の印象」
昭和12年12月



 二人のことをどうにかしなければというわけで、小林が大島へ行こうといったのは十月のことです。午後の十二時か一時でしたか、品川の駅で落ち合う約束をしました。当日、私が出かけようとしているとき外出していた中原が戻ってきたのです。雨も降っていました。中原はまた出かけるだろうと思っていましたが、その様子がないのです。私は嘘をついて品川駅まで行きましたが、もう小林はいませんでした。
 小林は大島から小笠原をまわって戻ってきたようでした。帰京後、小林が盲腸の手術をしたと聞いて病院に見舞に行ったときには、私の決心はついていました。
 だから、私は悩んだり考えたりしませんでした。「行くわね、小林のところへ」と中原に告げました。中原は机に向かっていたと思います。顔をあげ、尻あがりの語調で「ふうん」といいました。驚いたふうもないのです。
 小林も同じ高円寺に住んでいましたから、引越しは簡単です。私が荷造りをはじめると、娘を嫁にやる父のように中原も手伝ってくれました。当時、それほど私たちは愛とか憎しみとかを知らなかったのだと思います。私は自分のしていることが、他人にどんな痛みと犠牲を払わせるか気づかないのでした。あれは、小林が二十三、私が二十一歳でした。別れた中原は十八歳です。

長谷川泰子「中原中也との愛の宿命」
昭和49年3月



 あのころ、中原や青山(二郎)さんたちの仲間は、本格っていうことで、すべてを測っておりました。それが評価の基準なわけです。あれは本格か、そうじゃないか、まずそれをみるんです。そんな基準のものさしで、たいていの人は中原にやっつけられて、逃げていきました。(中略)
 中村光夫さんが「レアリズムについて」(『文学界』昭和十年十一月号。編者)というのを書いたことがありました。それは左翼的な書き方のところがあったんでしょう、そこが中原には気に入らなかったみたいです。あるとき、中原たちとゾロゾロと料理屋に行ったとき、中原は連れだって一緒に行った中村さんをつかまえて、卓の上に倒しちゃって、首をしめました。「こいつめ、左翼のようなこと書いて、……」とか何とかいって、中原は一人で腹を立てていました。中村さんはされるがままに、庖丁を入れられる鯉みたいにジーッとしておりました。
 中原もそうだし、青山さんもそうだと思うんだけど、つねにいうのは人間の根性なんです。流行に支配されるというのかな、主義に走るなどということを中原はもっとも軽蔑しておりました。つまり、そんなのは本格じゃないときめつけておりました。

長谷川泰子述・村上護編「ゆきてかへらぬ」
昭和49年10月


山口中学時代 大正14年 昭和10年


NIE

NIE(Newspaper in Education(教育に新聞を))とは、学校等で新聞を教材にして勉強する学習である。アメリカで1930年代にニューヨークタイムズが新聞の教材としてのハイスクールでの利用を考え、始めたもので、NIEを教育上利用している国家は、現代では世界で52か国にのぼっている。日本新聞教育文化財団が推進している。


[編集] 概要
新聞を1面から最終面まで、記事や写真、広告までを読み解く
複数の新聞を読み比べる
読んだ結果について、ディベートを行う
これらの事を主軸とする。記事の切抜きや一部を使用する今までの新聞を用いた教育とは違い、学習に対する自主的で積極的なアプローチや情報の自己判断力の向上を促進させるものである。また活字離れを食い止める効果があるとされる。ディベートを行う場合、よく読み込まなくてはならないため、読解力も付けられる。

特に複数の新聞を読み比べる事で新聞のウソや偏向報道を見抜く目を養うことはメディア・リテラシーにも通じ、現代の子供にとってとても重要な意味合いを持つ。これは、松本サリン事件の時にも言われた事だが、こういったNIEを受けてきた子供達が将来大人になった時に報道被害を食い止められるのでは、とされる。

また、近年の大人にまで及んでいる政治に対する無関心(これは日本に限ったことではない)を打破する事にも繋がる。実際、今までの授業での社会科などでの政治に対する扱いは、概念的なことが中心で、今のホットな政治の動きについてはあまり扱わない事が多い。そのため、今の政治の動きを知ることで、関心を持つきっかけになる。

教育界と新聞界が協力し、推進することで家庭や学校に負担をかけずにNIEを行うことができるようになっている。具体的には、一定期間複数の新聞を供与すること等が上げられる。


[編集] 問題点
新聞社は私企業であり、結局のところは、近年の新聞の売り上げの落ち込みのテコ入れ策でしかない。また、そういった新聞の売り込みそのものを教育の現場に持ち込む事に対する批判。
新聞界において、昔から延々と発生し続ける記事の捏造や冤罪報道といった報道被害の情報は伏せられてしまい、結局意味が無いのでは。
新聞社が協力するのであれば、既存の権力構造から抜け出した考えをもち、偏向報道を見抜く事は不可能なのでは。
新聞紙面の文章の言い回しは、一般社会ではありえないか、あるいは非常に抽象的かつ曖昧な表現が多い。そのうえ最近の新聞は、固有名詞を除けば、文字の表記を常用漢字に限定したり、必要以上に開いた表記(話す→はなす)を採用しており、文章の読解力向上に特に効果があるとは言い難い。
教師が意識して、特定の新聞のみ教材として用意することによる、恣意的な教育の可能性。
そもそも、日本の新聞は諸外国のそれと比較して、出版部数や価格の割に、内容が非常に薄い(欧米の日刊紙の半分程度しかない)。

[編集] 関連項目
教育
社会科
生活科
マスコミュニケーション
風評被害
メディア・リテラシー
冤罪報道

[編集] 関連書籍
NIEの20年―教育に新聞を 妹尾 彰 ISBN 4893802976
ニュースがまちがった日 高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年 ISBN 4811807146
オトナのメディア・リテラシー 渡辺真由子 リベルタ出版

[編集] 外部リンク
NIE (日本新聞教育文化財団)
中日新聞社コンクール
この「NIE」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育)


カテゴリ: 教育に関するスタブ | 新聞 | メディア・スタディーズ | 教育の手法 | 情報教育

最終更新 2007年11月28日 (水) 12:35。 Wikipedia®



    


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エッセイ
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絵本
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外国文学
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脚本
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古典
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■阿部研究室 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/abemaro/inde...
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■海野のホームページ http://homepage3.nifty.com/keiunno/
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作家別
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時代と思潮
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■座敷浪人の壺蔵 http://home.att.ne.jp/red/sronin/
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■ゆきゆき亭 http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/
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執筆
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児童文学
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小説
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書評
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■A-KID's TRAIN http://www.babytrain.net/train/
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■All Psychedelics http://www.geocities.co.jp/Hollywood/4209/
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ストーリテリング、朗読
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■BOOKWORM http://www.bookwormweb.net/
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■MP3で音のボランティア http://www.hayamimi.net/~hayamimi/roudoku/
MP3で音のボランティアのサイトです
■Reading Session http://www.maracas.net/rs/
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■岡崎ちか子 -... http://homepage2.nifty.com/chikapyon/
岡崎ちか子 - ちかこ♪のホームページのサイトです


伝記、自伝
■Satoshi Hayama'page http://www.netpassport.or.jp/~whayam/
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■秋田 公士 http://www.asahi-net.or.jp/~hg2k-akt/
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■ある男の自分史 http://www5a.biglobe.ne.jp/~othibo/
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■散歩者の夢想メーリング... http://www02.so-net.ne.jp/~reverie/
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■自分史をつくろう http://www2s.biglobe.ne.jp/~itonaga/
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ノンフィクション
■野口悠紀雄On Line http://www.noguchi.co.jp/
野口悠紀雄On Lineのサイトです
■青山正明 - 青山正明の研究 http://techktr.hp.infoseek.co.jp/aoyama...
青山正明 - 青山正明の研究のサイトです
■秋庭俊 http://homepage3.nifty.com/norikoakiba/
秋庭俊のサイトです
■雨宮処凛公式ホームページ http://www3.tokai.or.jp/amamiya/
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■飯沼信子 http://www.nobukoiinuma.com/
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批評と文学理論
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■THE WORLD ACCORDING TO HAJIME SAITO http://www003.upp.so-net.ne.jp/hspstcl/
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■伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/
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■上田信道の児童文学ホー... http://nob.internet.ne.jp/
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■岡部隆志のホームページ http://www.asahi-net.or.jp/~QB2T-OKB/
岡部隆志のホームページのサイトです

文学館
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宮沢賢治記念館・イーハトーブ館のサイトです
■赤毛のアン記念館・村岡... http://club.pep.ne.jp/~r.miki/index_j.htm
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■有島記念館 http://www.town.niseko.hokkaido.jp/aris...
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■アルプス詩歌文学館マップ http://www.alles.or.jp/~fujimi/alps/bun...
アルプス詩歌文学館マップのサイトです
■池波正太郎真田太平記館 http://www.city.ueda.nagano.jp/shokoka/...
池波正太郎真田太平記館のサイトです


ベストセラー
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■ベストセラー情報 http://www.nichigai.co.jp/newhp/bestsel...
ベストセラー情報のサイトです
■MSN毎日インタラクティブ... http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/ga...
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■主要書店ビジネス書ベス... http://www.jmam.co.jp/best/best.html
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■コンピュータ書籍ベスト... http://pc.bookmall.co.jp/best/
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■大洋社今週の書籍売行ベ... http://www.taiyosha.co.jp/best/this_week/
大洋社今週の書籍売行ベストのサイトです

本と印刷の歴史
■Web謄写印刷館 http://www.showa-corp.jp/toshakan/
Web謄写印刷館のサイトです
■「昭和堂月報」の時代 http://www.showa-corp.jp/month/month.html
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■印刷博物館 http://www.printing-museum.org/
印刷博物館のサイトです
■うれしたのし文学史! http://homepage3.nifty.com/bluesky/crit...
うれしたのし文学史!のサイトです
■江戸戯作黄表紙 http://kibyou.hp.infoseek.co.jp/
江戸戯作黄表紙のサイトです

イベント
■東京国際ブックフェア2004 http://www.reedexpo.co.jp/tibf/
東京国際ブックフェア2004のサイトです

教育
■漢詩を創ろう http://www.chitanet.or.jp/users/junji/k...
漢詩を創ろうのサイトです
■言葉の森 http://www.mori7.com/
言葉の森のサイトです
■卒論応援団'98 http://www.bekkoame.ne.jp/i/isw/thesis/...
卒論応援団'98のサイトです
■博士課程文芸・言語研究... http://www.lingua.tsukuba.ac.jp/
博士課程文芸・言語研究科ホームページのサイトです


研究機関
■国文学研究資料館ホーム... http://www.nijl.ac.jp/
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■大阪女性文芸協会 http://www2.odn.ne.jp/~ojb/
大阪女性文芸協会のサイトです
■現代文学会 http://www.genbun.com/
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■ダンボールネット http://www.asahi-net.or.jp/~qv1h-isi/
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■日本聞き書き学会 http://www.kikigaki.gr.jp/
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コンテスト
■Q書房 http://www.qshobou.org/
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■あなたのこの一冊 http://www.shogakukan.co.jp/issatu/
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■めざせ!投稿生活 http://www.toukoutai.com/
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雑誌
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■Green Tree Network http://www.synapse.ne.jp/~pasta
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■JAPAN LITERATURE Net http://www.jali.or.jp/
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■The Plaza http://u-kan.co.jp/
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■TOON'S LIBRARY http://ww4.tiki.ne.jp/~toon/
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■Bunkamura ドゥマゴ文学賞 http://www.bunkamura.co.jp/bungakushou/
Bunkamura ドゥマゴ文学賞のサイトです
■アジア留学生文学賞 http://www.ryu-bun.org/
アジア留学生文学賞のサイトです
■伊藤整文学賞の会 http://www.akara.net/itousei/
伊藤整文学賞の会のサイトです
■開高健ノンフィクション賞 http://www.shueisha.co.jp/bungei-13nen/...
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■下読みの鉄人 http://www.sky.sannet.ne.jp/shitayomi/
下読みの鉄人のサイトです

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京都大学メールマガジン Vol.22花の見えない庭     2008年4月23日  尾池和夫

2008-09-02 20:22:45 | Weblog
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京都大学メールマガジン Vol.22
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目次:
◆花の見えない庭  尾池和夫
◆お知らせ
◆大学の動き
◆研究成果
◆イベントのお知らせ
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◆ 花の見えない庭     2008年4月23日  尾池和夫

四月初めのある日のことである。
四条花見小路を南へ300メートルほど行くと建仁寺の北の門がある。都をどりの会場へ行くのには、この道を通るのだが、少し早めに着いた。どうせ前の回が終わるまでは入場できないのと、花見小路を車とせめぎ合いしながら歩いて疲れたので、建仁寺の境内に久しぶりに入ってみた。
京都大学の学生らしい二人連れがしきりとこちらを見ている。何か気にはしている様子だが、とくに挨拶をするでもない。なかなかタイミングが合わなくて結局だまって通り過ぎた。しかし、一般的に京都大学の学生たちは、最近、町で会ってもよく声をかけてくれる。
おどろいたのは、花見小路に花見客などが溢れていて、歩くのさえ困難だったのに比べ、建仁寺の境内にはほとんど人がいないということである。しかし松の緑の中に桜があって、実にきれいである。とびきり贅沢な花見の場所を発見した喜びを感じて、しばし佇んでいた。建仁寺の末寺である高台寺などでは、庭をライトアップしていて、夜遅くまでたくさんの観光客で賑わっているのに、風神雷神が展示してあるこの寺には人がほとんどいない。日本人には蛾の性質があって、灯を点けると皆そちらへ集まって行くのだと思う。
塀に在釜の張り紙がしてあって、塔頭でお茶の会があるようだ。和服の女性が立っている門が見える。この境内には大きな石碑の「茶碑」が建っている。建久2年(1911年)にお茶が中国から伝えられたという故事を記した説明もある。
建仁寺は建仁2年(1202年)、源頼家が寺域を寄進して、栄西禅師を開山として建立された。栄西禅師は、中国から茶種を持ち帰った。日本において茶の栽培を奨励し、喫茶の法を普及させた。開山以前、もともと茶は日本に存在した。茶の種が入ったのは奈良時代と言われる。栄西は、それまで上流階級だけに限られていた茶を、広く一般に広めたと言われている。
入場料500円を払って本坊に上がり、「○△□乃庭」を見て、俵屋宗達の風神雷神の複製を見る。方丈の南へ廻ると、そこには潮音庭がある。京都中が桜の花の真っ盛りで、町のどこに行っても、どこかの方角に桜が見えているという季節であるが、この庭では、大きな庭であるのに、どちらを見ても桜がまったく見えないという空間が拡がっている。これがなんとも貴重な空間に見える。さらに南の法堂に入り、天井の双龍図を見上げる。
私は昔、建仁寺の屋根をふく瓦を寄進したとき、大きく「防災」と書いた記憶がある。その瓦はどこかに、もうふき込まれているのかもしれない。
都をどりの季節には、祇園甲部歌舞練場の中庭に紅しだれが咲く。昔の、ゆがんだ玻璃の窓から紅しだれを見るのが好きで、この歌舞練場を訪れる。今年は源氏物語をテーマにして舞台が構成されている。長唄で京舞井上流の伝統がみごとに八景を舞うのだが、第五景だけは舞台の浄瑠璃で、白ぬりの六条御息所がなかなかの迫力である。
都をどりの後、円山公園のしだれ桜を見た。見るからに気の毒になるほど枝を落とされてしまった。観光客がしだれ桜の丸い形を写真に収めたくて、桜の廻りでいい角度を探しているが、あきらめて欠けた姿を映している。それを見ていて、写真を撮るのはやめた。
国立近代美術館に一枚の絵があり、京都帝国大学が創立された1897年の円山公園のしだれ桜が描かれている。その廻りに篝火が焚かれて、みごとに夜桜が照らされている。その絵には実にみごとなしだれ桜のふっくらとした丸い姿が描かれているのを思い出した。
青蓮院の巨大な樟を見て、東山の駅から地下鉄に乗って帰途についた。久しぶりに休日であるという気分を味わうことができた一日だった。


◆お知らせ

○京大広報 号外(2008年4月)[卒業式等]を掲載しました
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/issue/kouhou/index.htm

○京都大学ホームページをリニューアルしました
http://www.kyoto-u.ac.jp/


◆大学の動き◆


○平成20年度学部入学式を挙行
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news2/080407_1.htm

○平成20年度大学院入学式を挙行
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news2/080407_2.htm

○身体障害学生相談室を開室
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080410_1.htm

○京都大学と京都市が野生動物保全に関する教育及び研究の連携協定を締結
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080418_2.htm

○宇宙航空研究開発機構と京都大学の連携協定締結について
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080421_1.htm

○オープンコースウェアYouTube公開について
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080408_2.htm

○名誉教授称号授与式を実施
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080404_2.htm

○第1回iPS細胞研究産業応用懇話会を開催しました
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080417_1.htm

○iPS細胞研究センターのホームページができました
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080408_1.htm

○世界標準確立を目指す京都大学のiCeMSに、最初の外国人教授が赴任
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080407_2.htm

○京都大学大学院人間・環境学研究科と京都市および長浜市との連携交流協定調印について
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080418_1.htm

○本学西部構内の課外活動施設新営工事に伴う遺跡発掘調査現地説明会について
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080411_2.htm

○京大「医学領域」発の創薬系ベンチャー 株式会社 京都コンステラ・テクノロジーズ設立!!
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080409_1.htm

○「理科大好きな先生に変身する三日間」プロジェクトが「免許状更新講習プログラム開発事業委託事業」に選ばれました
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080410.htm

○筑波大学計算科学研究センター、東京大学情報基盤センター及び京都大学学術情報メディアセンターが連携・協力の推進に関する協定を締結
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news7/080401.htm


◆研究成果◆

○天の川銀河の巨大ブラックホール、300年前の眠りからの目覚め
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080416.htm

○iPS細胞研究の推進体制整備の進捗状況及びマウスiPS細胞の分配事業開始について
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080326_3.htm

○中赤外自由電子レーザーの発振に成功
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080401_1.htm

○日本人正常新生児にはビタミンD欠乏症が高頻度に見られ、母乳栄養児で特に改善が遅れる
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080331_1.htm

○貪食作用のキー分子の働きをライブ画像化することに成功
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news6/080403_1.htm


◆イベントのお知らせ◆

○総合博物館 2008年春季企画展 「京の宇宙学―千年の伝統と京大が拓く探査の未来―」
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080831_1.htm

○京都大学春秋講義
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080528_1.htm

○クロックタワーコンサート ~京都大学と京都市立芸術大学による交流の午後~を開催します
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080511_1.htm

○第26回 こころの未来セミナー 鎌田東二 先生
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080527_1.htm

○平成20年度霞が関特別講演 日本の未来を創る(京都大学・人事院)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080409_1.htm

○エネルギー理工学研究所 第13回公開講演会 環境にやさしいエネルギー理工学
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080516_1.htm

○iCeMS カフェ京都の町家で科学についてお話しませんか?『見えないものを観る~からだの中の分子のはたらき~』
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080510_4.htm

○平成20年度 第1回 花山天体観望会
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080510_2.htm

○霊長類学発祥60周年記念 平成20年度 京都大学霊長類研究所 京都公開講座 「フィールドからラボへ」 を開催します
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/2008/news4/080531_1.htm


>>その他のイベント情報はこちらをご覧ください。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja?c2=1


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□編集・発行
京都大学 秘書・広報室 ksens521@mail.adm.kyoto-u.ac.jp
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【サザンオールスターズ】 8 ライブ・コンサートツアー  鎌倉学園⇔青山学院大学

2008-09-02 20:22:25 | Weblog
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)
【検索の達人  ■■■■】 ■■■■に文字を入力!
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【サザンオールスターズ】


事務所 アミューズ
共同作業者 高垣健
新田一郎
八木正生
小林武史
角谷仁宣
影響 ビートルズ
エリック・クラプトン
リトル・フィートなど
公式サイト STANDOOH! AREEENA!!
C'MOOOON!!!
メンバー
桑田佳祐 (ボーカル、ギター)
関口和之 (ベース)
松田弘 (ドラムス)
原由子 (キーボード、ボーカル)
野沢秀行(パーカッション)
旧メンバー
大森隆志 (リードギター)
(1978年 - 2001年)
表・話・編・歴
サザンオールスターズ(Southern All Stars, 台湾訳:南方之星,中国訳:南天群星)は、日本の音楽バンド。略称は「サザン」。「SAS」と略記されることもある。

リーダーは桑田佳祐[1]。所属事務所はアミューズ、レコード会社はビクターエンタテインメント(ビクターTAISHITAレーベル)。公式ファンクラブ名は「サザンオールスターズ応援団」である。


目次 [非表示]
1 メンバー
2 元メンバー
3 概要
4 歴史
4.1 結成〜デビュー
4.2 音楽製作への専念〜「最高傑作」『KAMAKURA』発売後、活動休止へ
4.3 活動再開〜小林武史とのコラボ、黄金期
4.4 セルフアレンジ時代へ
4.5 『TSUNAMI』記録的ヒット、大森の独立
4.6 25周年での活動再開、再びの活動休止へ
4.7 2008年無期限活動休止宣言
5 来歴
5.1 1970年代
5.2 1980年代
5.3 1990年代
5.4 2000年代
6 稲村オーケストラの存在
7 作品
8 ライブ・コンサートツアー
9 出演
9.1 CM
10 メディアで使われた曲
11 書籍
11.1 写真集
11.2 関連書籍
12 関連項目
13 出典・参考文献
14 外部リンク



[編集] メンバー
桑田佳祐/リードボーカル、ギター(リーダー)
関口和之/ベース、コーラス、ボーカル
松田弘/ドラム、コーラス、ボーカル
原由子/キーボード、ボーカル、コーラス
野沢秀行/パーカッション、コーラス
各メンバーがコーラスを担当、更に野沢以外はメインボーカル曲があり、作詞・作曲もこなす。
シングル曲などほぼすべての曲の作詞作曲編曲を桑田佳祐が担当。
連名は基本的に桑田、大森、関口、松田、原、野沢の順で統一されている。
大森脱退後は桑田、関口、松田、原、野沢の順になっている。

[編集] 元メンバー
大森隆志/リードギター、ボーカル(2001年8月7日付けで脱退)

[編集] 概要
1978年のデビュー以来、30年の間日本のポップミュージックの第一線を走り続けるバンドとして知られる。楽曲はロック色の強いものから、バラード、民族音楽・郷土音楽からテクノ・デジタルロックまで幅広いレパートリーの楽曲があり、題材は愛・セックス・郷土愛・ユーモア・社会風刺など多岐にわたる。老若男女幅広い層のファンを持ち、芸能界にもサザンのファンであると発言・公言した芸能人が数多く存在する。

代表曲は1970年代に『勝手にシンドバッド』、『いとしのエリー』、1980年代に『チャコの海岸物語』『ミス・ブランニュー・デイ』、1990年代には『涙のキッス』『エロティカ・セブン』『愛の言霊 〜Spiritual Message‎』などのミリオンセラーを達成したほか、2000年代に入っても『TSUNAMI』『涙の海で抱かれたい 〜‎SEA OF LOVE〜‎』がヒットするなど多数にわたる。1970年代から4つの年代全てで50万枚以上のヒット作を生み出し、うち3年代でオリコンチャート1位作品がある。


[編集] ライブ・コンサートツアー
公演日程 形態 タイトル 公演規模 会場
1978年12月10日-1979年1月20日 コンサートツアー サザンオールスターズデビューコンサート「胸さわぎ」 全国9都市9公演 九段会館、愛知県勤労会館、道新ホール、山形県民会館、水戸市民会館、神奈川県青少年センター、千葉市民会館、岡山市立市民文化ホール、大阪毎日ホール
1979年3月20日-6月6日 コンサートツアー 春五十番コンサート 全国31都市50公演 平塚市民会館、松本市民会館、立川市民会館、新潟市公会堂、長岡市立劇場、富山県民会館、金沢市観光会館、入間市市民会館、栃木市民会館、土浦市民会館、大宮商工会館、平塚市民センター、群馬県民会館、横須賀市文化会館、静岡市民会館、高知県立県民文化ホール、松山市民会館、防府市公会堂、広島郵便貯金ホール、島根県民会館、高松市立市民会館、岡山市民会館、青森市民会館、弘前市民会館、八戸市公会堂、岩手県民会館、豊橋勤労福祉会館、愛知県勤労会館、刈谷市民会館、大阪厚生年金会館、秋田県民会館、山形市民会館、宮城県民会館、石巻市民会館、郡山市民会館、長浜市民会館、姫路市市民会館、和歌山県民文化会館、京都勤労会館、那覇市民会館、大分文化会館、長崎市公会堂、八幡市民会館、福岡市民会館、熊本市民会館、旭川市民文化会館、北見市民会館、帯広市民会館、札幌市民会館、中野サンプラザ
1979年9月22日-12月12日 コンサートツアー Further on up the road 全国30都市42公演 埼玉会館、磐田市民会館、相模原市民会館、茨城県民文化センター、山形県民会館、岩手県民会館、大阪厚生年金会館、姫路市文化センター、静岡市民文化会館、横浜文化体育館、青森市民会館、八戸市民会館、福島県文化センター、徳島市立文化センター、高知県立県民文化ホール、松山市民会館、桑名市民会館、名古屋市民会館、蒲郡市民会館、大垣市民会館、京都会館、和歌山市民会館、千葉県文化会館、広島郵便貯金ホール、岡山市民会館、福山市民会館、島根県民会館、福井市文化会館、石川厚生年金会館、新潟県民会館、各務原市民会館、札幌厚生年金会館、旭川市民会館、室蘭文化センター、函館市民会館、宮崎市民会館、大分文化会館、佐賀県総合体育館、福岡電気ホール、横浜文化体育館、後楽園球場サーカステント
1980年7月19日-9月25日 コンサートツアー サザンオールスターズがやってくる ニャー! ニャー! ニャー! 全国36都市45公演 田園コロシアム、札幌厚生年金会館、旭川市民文化会館、苫小牧市民会館、宮城県民会館、郡山市民会館、新潟県民会館、上越文化会館、富山市公会堂、金沢市観光会館、鈴鹿市民会館、名古屋市民会館、岐阜市民会館、刈谷市民会館、フェスティバルホール、和歌山県民文化会館、姫路市文化センター、神戸文化ホール、青森市民会館、岩手県民会館、山形県民会館、秋田県民会館、山口市民会館、倉敷市民会館、福山市民会館、広島郵便貯金ホール、島根県民会館、京都会館、磐田市民会館、清水市民会館、山梨県県民会館、長岡市文化会館、福井市文化会館、上田市民会館、宮崎市民会館、鹿児島県文化センター、観音寺市民会館、松山市民会館、高知県立県民文化ホール
1980年12月10日-12月20日 コンサートツアー ゆく年・くる年コンサート 全国5都市5公演 日本武道館、大阪府立体育会館、名古屋市民会館、佐賀県総合体育館、福岡市民会館
1981年7月4日-9月21日 コンサートツアー そちらにおうかがいしてもよろしいですか? 全国-都市40公演 茅ヶ崎市民文化会館、小田原市民会館、山梨県県民会館、熊谷会館、高知県立県民文化ホール、松山市民会館、山口市民会館、広島郵便貯金ホール、姫路市文化センター、京都会館、金沢市観光会館、富山市公会堂、新潟県民会館、田園コロシアム、岡山城特設会場、宇都宮市文化会館、群馬県民会館、福岡サンパレス、宮崎市民会館、鹿児島県文化センター、熊本市民会館、つま恋エキシビションホール、豊橋勤労福祉会館、四日市市民ホール、青森市民会館、秋田県民会館、宮城県民会館、岩手県民会館、山形県民会館、和歌山県民会館、神戸国際会館、フェスティバルホール、サンシティ越谷市民ホール、千葉県文化会館、横浜文化体育館、釧路市民会館、札幌厚生年金会館
1982年1月9日-1月26日 コンサートツアー 愛で金魚が救えるか? サザンオールスターズ Paa Pooツアー '82 全国8都市9公演 福岡サンパレス、広島郵便貯金ホール、フェスティバルホール、宮城県民会館、札幌厚生年金会館、金沢市観光会館、名古屋市公会堂、日本武道館
1982年9月21日-1983年2月4日 コンサートツアー 青年サザンのふらちな社会学 ツアー THE NUDE MAN 全国47都市57公演 静岡市民文化会館、群馬県民会館、宇都宮市文化会館、茨城県民文化センター、郡山市民会館、宮城県民会館、山形県民会館、秋田県民会館、八戸市公会堂、熊本市民会館、佐世保市民会館、宮崎市民会館、佐賀県総合体育館、小倉市民会館、高知県立県民文化ホール、松山市民会館、高松市立市民会館、岡山市民会館、福山市民会館、和歌山県民文化会館、神戸国際会館、島根県民会館、防府市公会堂、広島郵便貯金ホール、新潟県民会館、上越文化会館、長野市民会館、奈良県文化会館、岐阜市民会館、四日市市文化会館、豊橋勤労福祉会館、福井市文化会館、富山市公会堂、鹿児島県文化センター、大分文化会館、長崎市公会堂、京都会館、千葉県文化会館、八王子市民会館、横浜文化体育館、福島県文化センター、岩手県民会館、札幌厚生年金会館、名古屋市民会館、福岡サンパレス、フェスティバルホール、金沢市観光会館、新宿厚生年金会館
1983年10月24日-1984年2月1日 コンサートツアー SASたいした発表会 私は騙された!!ツアー '83〜'84 全国37都市49公演 神奈川県民ホール、札幌厚生年金会館、室蘭新日鉄体育館、旭川市民文化会館、山梨県民文化ホール、岡崎市民会館、桑名市民会館、千葉県文化会館、広島郵便貯金ホール、防府市公会堂、島根県民会館、鹿児島県文化センター、大分文化会館、宮崎市民会館、熊本市民会館、長崎市公会堂、長野県民文化会館、富山市公会堂、福井市文化会館、金沢市観光会館、福島県文化センター、山形県民会館、秋田県民会館、岩手県民会館、青森市文化会館、群馬県民会館、宇都宮市文化会館、松山市民会館、高松市立市民会館、高知県立県民文化ホール、京都会館、神戸国際会館、福岡サンパレス、倉敷市民会館、新潟県民会館、宮城県民会館、愛知県体育館、大阪城ホール、日本武道館
1984年7月20日-8月15日 コンサートツアー 少年マガジンプレゼンツ
熱帯絶命!ツアー夏「出席とります」 全国5都市6公演 横浜スタジアム、海の中道海浜公園野外劇場、真駒内オープンスタジアム、ナゴヤ球場、大阪球場
1984年10月25日-1985年2月6日 コンサートツアー 大衆音楽取締法違反 "やっぱりアイツはクロだった!" 実刑判決2月まで 全国39都市50公演 神奈川県民ホール、宇都宮市文化会館、群馬県民会館、サンシティ越谷市民ホール、北見市民会館、旭川市民文化会館、釧路市民文化会館、青森市文化会館、秋田県民会館、岩手県民会館、鹿児島県文化センター、熊本市民会館、宮崎市民会館、大分文化会館、島根県民会館、倉敷市民会館、京都会館、静岡市民文化会館、豊橋勤労福祉会館、四日市市文化会館、山形県民会館、郡山市民文化センター、神戸国際会館、松山市民会館、高知県立県民文化ホール、高松市立市民会館、鳴門市文化会館、千葉県文化会館、八王子市民会館、山梨県民文化ホール、長野県民文化会館、黒部市YKK体育館、金沢市観光会館、福井市文化会館、徳山市文化会館、広島郵便貯金ホール、福岡サンパレス、北海道厚生年金会館、大阪城ホール、愛知県体育館、仙台市体育館、新潟県民会館、日本武道館
1984年12月31日 カウントダウンライブ 縁起者で行こう 全1公演 新宿コマ劇場
1985年9月21日-10月5日 コンサートツアー 富士通スペシャル
KAMAKURA TO SENEGAL サザンオールスターズ AVEC トゥレ・クンダ 全国4都市8公演 中京競馬場、大阪球場、西武球場、横浜スタジアム
1988年7月26日-9月19日 コンサートツアー NISSEKI SUPER LIVE 100 -真夏の夜の夢-
サザンオールスターズプレゼンツ 1988大復活祭 全国9都市20公演 西武球場、長岡ニュータウン公園、真駒内オープンスタジアム、泉パークタウンスポーツガーデン、愛媛県総合運動公園陸上競技場、海の中道海浜公園広場野外劇場、大阪球場、小牧市総合運動場野球場、横浜スタジアム
1989年12月31日 カウントダウンライブ ハッピーニューイヤーズ'イブ いっちゃえ'89 サザンde'90 全1公演 横浜アリーナ
1990年2月28日-4月28日 コンサートツアー Panasonic Cheers!!
Southern All Stars 夢で逢いまSHOW 全国10都市27公演 横浜アリーナ、仙台市体育館、新潟産業振興センター、名古屋レインボーホール、大阪城ホール、北九州市立総合体育館、広島サンプラザホール、愛媛県県民文化会館、真駒内アイスアリーナ、日本武道館
1990年12月31日 カウントダウンライブ 年越しライブ 歌うサザンに福来たる 全1公演 横浜アリーナ
1991年8月14日-9月1日 コンサートツアー WOWOW MEETS
Southern All Stars THE音楽祭1991 全国4都市10公演 ナゴヤ球場、西武球場、西宮球場、横浜スタジアム
1991年12月29日-12月31日 カウントダウンライブ コカ・コーラスペシャル
年越しLIVE 闘魂!ブラディ・ファイト 全3公演 横浜アリーナ
1992年9月12日・13日 単発コンサート 南天群星 北京で逢いましょう 全2公演 北京市首都体育館
1992年10月14日-1993年2月5日 コンサートツアー NTT DoCoMo PRESENTS
歌う日本シリーズ 1992-1993 全国12都市40公演 国立代々木競技場第一体育館、真駒内アイスアリーナ、金沢実践倫理記念会館、大阪城ホール、名古屋レインボーホール、浜松アリーナ、広島サンプラザホール、新潟産業振興センター、愛媛県県民文化会館、福岡国際センター、横浜アリーナ、仙台市体育館、日本武道館
1993年12月11日-1994年1月6日 単発コンサート Victor PRESENTS
サザンオールスターズ 1993年末スペシャル しじみのお味噌汁コンサート 全12公演 横浜アリーナ
1995年8月5日・6日 単発コンサート サザンオールスターズ スーパー・ライブ・イン・横浜 ホタル・カリフォルニア 全2公演 横浜みなとみらい21臨港パーク
1996年8月4日-10月12日 コンサートツアー KIRIN LAGER PRESENTS
Southern All Stars Stadium Tour 1996 ザ・ガールズ万座ビーチ 全国8都市15公演 つま恋多目的広場、西武球場、真駒内オープンスタジアム、海の中道海浜公園野外劇場、ナゴヤ球場、阪神甲子園球場、横浜スタジアム、宜野湾市海浜公園野外劇場
1996年12月28日-12月31日 カウントダウンライブ SOUTHERN ALL STARS 1996 年越しライブ in 横浜アリーナ「牛」 全3公演 横浜アリーナ
1997年12月27日-12月31日 カウントダウンライブ サザンオールスターズ年越しライブ1997「おっぱいなんてプー」 全4公演 横浜アリーナ
1998年8月8日・9日 単発コンサート 1998年 夏 サザンオールスターズ スーパーライブ in 渚園 "モロ出し祭り 〜過剰サービスに鰻はネットリ父ウットリ〜" 全2公演 浜名湖畔弁天島海浜公園 渚園
1999年3月24日-5月27日 コンサートツアー 三菱電機DIGITAL FESTA
サザンオールスターズ 1999「Se O no Luja na Quites(セオーノ・ルーハ・ナ・キテス) 〜素敵な春の逢瀬〜」 全国10都市22公演 グランディ21 宮城県総合体育館、横浜アリーナ、真駒内アイスアリーナ、アスティとくしま、広島グリーンアリーナ、石川県産業展示館4号館、福岡ドーム、ナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドーム
1999年9月26日・27日 FC限定ライブ サザンオールスターズ・シークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」 全2公演 新宿リキッドルーム
1999年12月27日-12月31日 カウントダウンライブ SAISON CARD PRESENTS
サザンオールスターズ 年越しLIVE1999「晴れ着 DE ポン」 全4公演 横浜アリーナ
2000年8月19日・20日 単発コンサート サザンオールスターズ 茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜 全2公演 茅ヶ崎公園野球場
2000年12月27日-12月31日 カウントダウンライブ サザンオールスターズ 年越しライブ'00-'01「ゴン太君のつどい」 全4公演 横浜アリーナ
2003年6月28日 シークレットライブ サザンオールスターズ 建長寺ライブ 全2公演 巨福山建長興国禅寺
2003年7月28日-8月5日 FC限定ライブ SAS応援団Presents サザンオールスターズ SUMMER LIVE 2003「流石(SASが)だ真夏ツアー! あっっ!生。だが、SAS! 〜カーニバル出るバニーか!?〜」 ファンクラブ・スペシャルライブ 全国2都市4公演 Zepp Fukuoka、Zepp Sapporo
2003年8月16日-8月31日 コンサートツアー JAL Presents
サザンオールスターズ SUMMER LIVE 2003「流石(SASが)だ真夏ツアー! あっっ!生。だが、SAS! 〜カーニバル出るバニーか!?〜」
supported by WOWOW 全国3都市6公演 ポートメッセなごや特設野外ステージ、神戸ポートアイランド特設野外ステージ、横浜国際総合競技場
2003年9月6日・7日 単発コンサート 特別公演 サザンオールスターズ SUMMER LIVE 2003「流石(SASが)だ真夏ツアー! あっっ!生。だが、SAS! 〜カーニバル出るバニーか!?〜」 in OKINAWA 全2公演 宜野湾市海浜公園野外劇場
2004年7月18日 FC限定ライブ SAS応援団Presents サザンオールスターズ 真夏の夜の生ライブ 海の日スペシャル 全1公演 ディファ有明
2004年12月27日-12月31日 カウントダウンライブ サザンオールスターズ 年越しライブ2004-2005「暮れのサナカ」 全4公演 横浜アリーナ
2005年10月13日-12月31日 コンサートツアー TOYOTA Presents
SOUTHERN ALL STARS Live Tour 2005 みんなが好きです!
supported by RUSS-K 全国10都市21公演 広島厚生年金会館、愛媛県県民文化会館、新潟県民会館、青森市文化会館、グランディ21 宮城県総合体育館、ナゴヤドーム、福岡Yahoo! JAPANドーム、東京ドーム、大阪ドーム、札幌ドーム、横浜アリーナ
2008年8月16日-8月24日 単発コンサート au by KDDI presents
サザンオールスターズ「真夏の大感謝祭」30周年記念LIVE
supported by WOWOW 全4公演 日産スタジアム

なお、「年越しライブ」と呼ばれるカウントダウンライブ(12月31日に行われる年跨ぎ公演分のみ)は、横浜アリーナが所在する神奈川県の条例により18歳未満の入場が禁止となっている。(20歳以上の保護者同伴の場合は許可されたが、2007年からの条例改正で現在は入場出来ない。)





[編集] 出典・参考文献
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情報源、ソースとなる書籍、雑誌、テレビ番組及び参考となった文献・自著など

^ a b c d e f g 『地球音楽ライブラリー サザンオールスターズ 改訂版』TOKYO FM 出版、2005年。
^ a b c d e 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評21『教科書が教えない サザンオールスターズ&桑田佳祐ヒストリー』宝島社、2003年。
^ 『ロック怪獣サザン伝説』TBSテレビ、1992年。
^ YAMAHA EVENT HISTORY内 EastWest'77
^ 『ザ・ベストテン』TBSテレビ、1978年。
^ 別冊ザテレビジョン『ザ・ベストテン 〜蘇る!80'sポップスHITヒストリー〜』角川インタラクティブ・メディア、2004年。
^ サザンオールスターズ公式サイト STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!!内プロフィール
^ http://www.jvcmusic.co.jp/sas/profile/biography/1980.html サザンオールスターズ公式サイト STANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!!内バイオグラフィー 1980年
^ 『SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968〜2005』オリコン・エンタテインメント、2006年。
^ 『歌のトップテン』日本テレビ放送網、1990年。
^ 『素敵な夢を叶えましょう』角川書店、1999年。
^ アルバム『Southern All Stars』1990年、『世に万葉の花が咲くなり』クレジットより。
^ 桑田佳祐『アコースティック・レボリューション』にて、1991年
^ 日本レコード協会公式サイト内 年度別ミリオンセラー一覧 1992年度
^ 日本レコード協会公式サイト内 年度別ミリオンセラー一覧 1993年度
^ 『別冊カドカワ』角川書店、1996年。
^ サザンショックでアミューズ株急落 - スポーツ報知5月20日
^ 桑田「また帰ってきます」サザン復活約束…30周年ライブ開幕 - スポーツ報知 2008年8月17日
^ ビクターエンタテインメントとアミューズによる新会社を設立 日本ビクタープレスリリース 2006年12月22日発表



最終更新 2008年9月1日 (月)

2 ■■■学部をもつ日本の大学 【参考文献】蛍雪時代 臨時増刊  2700円

2008-09-02 20:03:22 | Weblog
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)
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【情報の達人 ■■■】 ■■■に文字を記入!!!


【参考文献】蛍雪時代 臨時増刊  2700円
   赤尾好夫=東京■■■大学⇒旺文社創立!!!


外国語学部

■■■学部(がいこくごがくぶ)は、大学の学部のひとつである。卒業して取得できる学位は「外国研究学士」や「言語・文化」の学士などである。

目次 [非表示]
1 概要
2 ■■■学部をもつ日本の大学
2.1 国公立大学
2.2 私立大学
3 関連項目



[編集] 概要
■■■学部は「読む・書く・聴く・話す」の各分野の外国語運用能力を高め、実用的な■■■を身につけると共に、それに関連した諸学問分野の研究を行うことを目的とした学部である。英語(英米語とも)、フランス語、スペイン語(イスパニア語とも)、ドイツ語、中国語などの学科・専攻・コースがある。日本語教育を目的として日本語学科を置いている所もある。日本で最多の専攻語数を擁する東京外国語大学では、専攻言語だけで全26言語が存在する。

実用的な■■■の能力を身につけ、その■■■を用いて議論、発表、会話、読み書きが不自由なくできるようになることが大きな目標の一つである。専攻語の実践的な、いわゆる「ツールとしての言語」を徹底的に鍛えるプログラムが用意されている。

その一方で語学力を鍛えるだけでなく、それと平行して主に地域研究、国際関係論、比較政治学、国際政治学、言語学等の学問的な教養や研究方法を身につけることも目的としている。地域研究は、その言語が使われている国や地域の政治、経済、文化、社会、歴史、民族など様々な分野における研究を行う。言語学は言語を研究対象として文法をはじめ、音韻論、語彙論、語源研究、方言研究、言語史、言語教育など言語に関するさまざまな研究を行う。他にも大学によってはコミュニケーションやツーリズムなどについても扱うことが多く、最近では研究対象は幅広くなっている。

なお、文学部の英文学科、フランス文学科などの外国文学系の学科と混同されがちだが、これらの学科とは性質がかなり異なるといってもよい。早くから、本学部を擁していた上智大学や獨協大学は「文学部では目的を達成するに不十分」として、別個に設置している。また、大阪大学も、2007年10月の大阪外国語大学との統合以降、文学部と■■■学部を別々に設置する。


[編集] 外国語学部をもつ日本の大学

[編集] 国公立大学
①◇◇外国語大学
②◇◇県立大学
③◇◇大学
④◇◇◇外国語大学
⑤北◇◇市立大学



[編集] 私立大学
①札■大学
②■海道文教大学
③■協大学
④■田外語大学
⑤明■大学
⑥■澤大学
⑦■林大学
⑧■智大学
⑨■殖大学
⑩■東文化大学
⑪帝■大学
⑫■京学院大学
⑬■白大学
⑭■■川大学
 岐阜聖徳学園大学
 常葉学園大学
 名古屋外国語大学
⑮名古屋■■大学
 名古屋商科大学
⑯■山大学
 京都外国語大学
⑰京都■■大学
 大阪学院大学
 関西外国語大学
⑱■南大学
⑲■■独協大学
 長崎外国語大学
⑳■本学園大学



[編集] 関連項目
外国語大学
文学部
人文学部
教養学部
比較文化学部
国際関係学部
国際学部
国際教養学部
この「外国語学部」は、大学関連の書きかけの項目です。この記事を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています。(P:教育/PJ大学)

カテゴリ: 大学関連のスタブ項目 | 学部 | 語学



最終更新 2008年4月26日 (土) 10:52。 Wikipedia®

【承久の乱】東国を中心に諸国に⑤■■、地頭を設置し

2008-09-02 20:02:01 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
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【承久の乱】

①■■■■(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、②■■■■が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の③■■政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

[編集] 背景
治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に④■■■を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に⑤■■、地頭を設置し、警察権を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。

後鳥羽上皇は多芸多才で⑥『■■■■■■』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。

承久元年(1219年)1月、3代将軍⑦■■■が甥の公暁に暗殺された。『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。

幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾伊賀局(元は白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面の武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る⑧■■体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。


朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、⑨■■■上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって積極的に協力する。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。


[編集] 上皇挙兵
同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康率いる800騎が京都守護伊賀光季の邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。

上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、『吾妻鏡』や『承久記』によれば北条政子が「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した。


[編集] 乱の経過

承久の乱幕府軍進路義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。そうでないなら力の限り戦え」と命じたと言われる。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。


北条朝時率いる北陸道軍4万騎も砺波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。




『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。



[編集] 戦後処理
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。


乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。


[編集] 事件の影響
承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府を憚って細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった長講堂領や八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。

また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。


[編集] 史料

[編集] 歴史書
⑩『■■■』:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。
『吾妻鏡』:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。

⑪『■■』:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。

[編集] 参考文献
別冊歴史読本『後鳥羽上皇 野望!承久の乱』⑫■■■■■■、1990年
石井進『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』中公文庫、1974年、ISBN 412200070X
栃木孝惟, 益田宗, 日下力, 久保田淳 『保元物語;平治物語;承久記』岩波書店、1992年、ISBN 4002400433
関幸彦 『北条政子―母が嘆きは浅からぬことに候 』ミネルヴァ書房、2004年、ISBN 4623039692
渡辺保 『北条政子』⑬■■■■■、1985年、ISBN 4642050029

[編集] 関連項目
日本史の出来事一覧
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カテゴリ: 鎌倉時代の事件 | 鎌倉時代の戦い | 京都市の歴史


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【承久の乱】

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。

武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

目次 [非表示]
1 経過
1.1 背景
1.2 上皇挙兵
1.3 乱の経過
1.4 戦後処理
2 事件の影響
3 史料
3.1 歴史書
3.2 軍記物
3.3 歴史物語
4 参考文献
5 関連項目



[編集] 経過

[編集] 背景
治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を設置し、警察権を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。

後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。

承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。

幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾伊賀局(元は白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面の武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。

同年7月、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面の武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。

朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって積極的に協力する。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。


[編集] 上皇挙兵
同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康率いる800騎が京都守護伊賀光季の邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。

後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的であった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。

京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。

鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。

上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、『吾妻鏡』や『承久記』によれば北条政子が「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した。


[編集] 乱の経過

承久の乱幕府軍進路義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。そうでないなら力の限り戦え」と命じたと言われる。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。

義時は捕らえていた上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、武田信光率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2000騎を撃破した。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。

北条朝時率いる北陸道軍4万騎も砺波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。


瀬田の唐橋美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が禍して比叡山はこれを拒絶。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射掛け必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功。京方は潰走し、幕府軍は京へなだれ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。

『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。

後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の宣旨を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。


[編集] 戦後処理
7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。

後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っている。

討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、その他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。

乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。


[編集] 事件の影響
承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府を憚って細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった長講堂領や八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。

また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。


[編集] 史料

[編集] 歴史書
『愚管抄』:慈円著。一説に慈円はこの書をもって後鳥羽上皇に討幕を思いとどまらせようとしたという。
『吾妻鏡』:編纂物。鎌倉幕府の半公式記録。

[編集] 軍記物
『承久記録』:全2巻。承久の乱を記した軍記物。乱の原因を後鳥羽上皇の不徳であると記している。異本が多い。

[編集] 歴史物語
『六代勝事記』:承久の乱を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」であったことに原因があるとしている。
『増鏡』:前述の北条義時と泰時の逸話と後鳥羽上皇の隠岐での様子を伝える。

[編集] 参考文献
別冊歴史読本『後鳥羽上皇 野望!承久の乱』新人物往来社、1990年
石井進『日本の歴史 (7) 鎌倉幕府』中公文庫、1974年、ISBN 412200070X
栃木孝惟, 益田宗, 日下力, 久保田淳 『保元物語;平治物語;承久記』岩波書店、1992年、ISBN 4002400433
関幸彦 『北条政子―母が嘆きは浅からぬことに候 』ミネルヴァ書房、2004年、ISBN 4623039692
渡辺保 『北条政子』吉川弘文館、1985年、ISBN 4642050029

[編集] 関連項目
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【逗子開成  鎌倉女学院】①~⑩ の検索結果 約 1万700 件

2008-09-02 20:01:39 | 26 学生街散歩・古書店街巡り
【逗子開成  鎌倉女学院】①~⑩ の検索結果 約 1万700 件



1位
【逗子開成 鎌倉女学院 :①~⑩】 100周年式典の際には姉妹校として ...3位逗子開成学園吹奏楽部の歩み2004年、逗子開成学園吹奏楽部は鎌倉女学院創立100周年記念生徒音楽会で演奏いたしました。 ... 7位合格実績逗子開成, 鎌倉女学院, 神奈大学附属. 逗子開成, 鎌倉女学院, 成城学園. 目黒学院, 捜真女学校, 自修館. ...
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2位
鎌倉女学院 - 逗子開成学園掲示板1 名前:名無しのゴンズイ 投稿日: 2005/08/30(火) 10:44:30 [ qgrIL7Nw ]: 鎌倉女学院 について語るスレです。 但し、誹謗中傷等は禁止です。 458 名前:名無しのゴンズイ 投稿日: 2006/11/07(火) 22:25:31 [ my3Ridhk ]: いえいえ ...
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逗子開成と鎌倉女学院さんが歩んできた道のり - 逗子開成学園掲示板逗子開成と鎌倉女学院さんが歩んできた道のり. 1 名前:名無しのゴンズイ 投稿日: 2005/07/25(月) 22:04:18 [ aVujdmD6 ]: 逗子開成と鎌倉女学院さんが歩んできた道のりについて和やかにかたりましょう。 誹謗・中傷は厳禁です。私が許しません ...
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逗子開成中学校・高等学校 - Wikipedia逗子開成HPより; ^ 中学3年次に原則全員参加の大会が催される。 ^ 現在では資本や組織が完全に異なるため、学校レベルでの公式交流は全くなくなっているが、100周年式典の際には姉妹校として鎌倉女学院と合同合唱などを行った。 ...
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ふるさと横須賀 第90章 逗子開成中学校 ① 『12人の生命を奪う』明治十五年(一八八二)に東京開成中に勤め、のちに校長。逗子開成中設立の翌三十七年十月に鎌倉女学校(今の鎌倉女学院)も設立、両校の校長を兼ねていた。昭和十九年二月に逝去。 話を戻そう。設立後すぐ校舎は、現在地の逗子市新宿に移転。 ...
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逗子開成学園吹奏楽部の歩み2004年、逗子開成学園吹奏楽部は鎌倉女学院創立100周年記念生徒音楽会で演奏いたしました。 (2004年10月2日、鎌倉芸術館大ホール) ... 1988(昭和63)年, 逗子開成創立85 周年を記念して、團伊玖磨先生が「逗子開成讃歌『海』」を作曲 ...
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【大学群】⑯■■■■(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)

2008-09-02 20:01:13 | 2 IT用語集
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①■■■(だいがくぐん)とはいくつかの大学をある共通点や類似点でまとめた呼称を総合的に指し示す言葉である。

概要
大学はそれぞれの出自や歴史を持つ独立した教育組織だが、様々な視点から区分けをすることが可能である。現在日本で使用されている大学群は以下のような分類方法をとっている。

その大学の教育史上の出自の共通点によるもの
スポーツなどの深い交流によるもの
地理的な要因によるもの
ジャーナリズムが高等教育の現状や歴史を語る場合や、特に日本の学歴社会でどの大学がどれくらい評価されるかということを論じるために作り出す造語
大学の人気や評判の変動に呼応して日々優劣をつけて作り出されるスラングのようなもの

日本
以下では主に日本において見聞される大学群について慎重な解説を試みるが、大学群に関する用語は時代の変動によって意味合いが変化する流動的な要素が多分にある。また、これらの用語の中には優劣を誇張したり、学歴差別を助長すると批判されるものもある。


日本教育史上の共通点に基づくもの

法令上の根拠で分類できるもの
以下の呼称はそれらの大学が設立された時期やその根拠法によって分類できる物である。

②■■大学
戦前に帝国大学令または大学令により設置された大学であったもの。
③■■■大学
旧制大学の内、帝国大学令により帝国大学を称し、国によって設立された大学。戦前の総合大学。
④旧制■■大学・旧制■■大学
旧制大学の内、大学令により国または公の財源によって設立された大学。戦前の単科大学。
⑤旧制■■大学
旧制大学の内、大学令により私的財源によって設立された大学。
⑥■■大学
終戦直後に教育基本法、学校教育法、国立学校設置法施行に基づき設置されたもの。

歴史的な由来によるもの
以下の呼称は、根拠となる法令はないが、他と明確に区別できる制度上の事実があるものである。

⑦旧制■■大
旧制官立・公立大学の内、商科大学または商業大学であったもの。
⑧旧制■■大
旧制官立大学の内、医科大学であったもの。
⑨旧制■■大
旧制官立大学の内、工業大学または工科大学であったもの。
⑩旧制■■■大
旧制官立大学の内、文理科大学であったもの。
⑪東京■大学
7年制を取っていた私立旧制高等学校と事実上7年制であった旧制学習院高等科が新制大学へ移行したことで発生した大学群。

地理的なつながりによるもの
大学が所在している地域を元に漠然とした区分をするときに用いられることが多い。

⑫■■大学
東京23区に本部が所在する大学を示している。広義で東京都および横浜市、川崎市、千葉県北部に本部が所在する大学を示していることもある。
⑬在■大学
大阪府に本部が所在する大学を示している。広義で兵庫県南部、京都府のいわゆる京阪神地域にある大学を示していることもある。

大学連合
所属大学が協定に基づきその名称を公表しているもので、強い連携関係があるもの。(単位互換程度のものは含まない)

⑭東京■■系4大学(芝浦工業大学、武蔵工業大学、東京電機大学、工学院大学)
⑮■大学連合(一橋大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学)

大学スポーツによるもの
元々は大学野球の対戦カードから来たもので、大学野球が国民的な関心を集めていたことから、これらの大学は地方における知名度も高いものがあった。こうしたことから東京あるいは関西における私学といえばここであるという認識となり、定着していったものとされている。

このカテゴリーに含まれる用語は第二次世界大戦前から使用されていることも特徴である。また、野球の対戦から始まって、大学間の人的交流や学生団体の連携など、戦前から大学間の交流が実施されていた大学群でもある。

一部の文献にはこれらの用語が第二次世界大戦後の大学受験過熱期(1970年代)に発生したとしているものがあるが、それ以前に発行された書籍や新聞で既にこれらの用語が使用されていることから下の項目で発生した3つの用語と発生時期を誤解しているものと考えられる。

このカテゴリには以下の大学群がある。

早慶 - 慶早(早稲田大学、慶應義塾大学)
日本初の定期対戦カードである早慶戦が発祥
⑯■■■■(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)
関西で人気の高かった野球の対戦カードである関関戦および同立戦が発祥。
⑰■■六大学(早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、立教大学、東京大学)
東京六大学野球連盟に所属している大学が発祥
関西六大学(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、京都大学、神戸大学)
旧関西六大学野球連盟加盟校が発祥

受験戦争期に使用され始めたもの
大学受験における偏差値の使用が一般化した後に発生してきた用語で、以下にあげている用語は旺文社から出版されている「螢雪時代」の編集長が考え出した造語という説が一般的である。当初は偏差値的な輪切りのために使われるケースが一般的であり、戦前から使用されていた用語と違ってそれぞれのカテゴリに含まれている大学の交流はほぼなかった。

しかし、これらの用語が一般化するにつれて、それぞれの大学間でライバル意識が発生した。また、他方、組み込まれた大学の発祥やおかれている社会的立場が比較的似通っていたことから、同一大学群としての連帯感も発生し、相互単位互換や学生サークルの連合もこれらの大学群で組まれることが多くなっており、現在では定着した用語と考えて良い。

このカテゴリには以下の大学群がある。

JARパック(上智大学、青山学院大学、立教大学)
三校ともミッション系大学という共通点があり、螢雪時代で一時期使われていたことがある。当時JALパックによる海外旅行が流行っていたことから生み出された用語であるが、商標との関係からあまり使用されることがなく、現在はほぼ死語となっている。
⑱■■■CH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)
明青立法中という用語が使われることもある。
日東駒専(日本大学、東洋大学、駒澤大学、専修大学)
産近甲龍(京都産業大学、近畿大学、甲南大学、龍谷大学)

その他の大学受験に関連したカテゴリー
予備校などの受験産業や週刊誌、あるいは就職活動、各種掲示板などで様々なスラングが毎日のように形を変えて生み出され続けている。切り分け方は偏差値であったり、大学の出自であったり、地域の偏りであったり、様々となっている。これらの用語に関しては一部でしか通用しない言葉が多く、スラングとなっている。それぞれのスラングにまとめられた大学に関係する人にとって、それらの用語にまとめられたことを誇りに思う人がある一方で、まとめられたくないという思いを抱く人がいるのも事実である。

膨大なスラングの中から全国規模の予備校や各種企業、雑誌・新聞などのマスメディア、日本全国の高等学校などによって使用されていることが確認されたものを以下で紹介する。

⑲■■■帝国(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学)
関東上流江戸桜(関東学園大学、上武大学、流通経済大学、江戸川大学、桜美林大学)
摂神追桃(摂南大学、神戸学院大学、追手門学院大学、桃山学院大学)
早慶上智(早稲田大学、慶應義塾大学、上智大学)
大学受験における、私立大学の偏差値上位3校をまとめるために作られた用語。予備校では偏差値最上位のクラスを示す場面で使用されているほか、関東地区の高等学校における進学実績評価の場面でも使用されることが急速に増えている。そうした傾向から一般企業でも使用される割合が増え始めている。一方で、東京理科大学を入れて上理明青立法中の記述もみられ、各予備校などによって違いがみられる。

日本以外の事例
アメリカではハーバード大学などをアイビー・リーグと呼ぶ大学群にまとめ、同じく英国ではケンブリッジ大学やオックスフォード大学などをアンシャン・ユニヴァシティーと呼ぶ大学群にまとめている。


参考文献
サンデー毎日各号
螢雪時代各号
旺文社パスナビ
東京英研フォーラム21
『間違いだらけの大学選び』(疾風編/怒濤編)、朝日新聞社、1994年。 ISBN 4022566752 ISBN 4022568224
⑳『■■ランキング』、朝日新聞社出版局、各年刊。
タウンハウジング立川営業所


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大学群(だいがくぐん)とはいくつかの大学をある共通点や類似点でまとめた呼称を総合的に指し示す言葉である。

目次 [非表示]
1 概要
2 日本
2.1 日本教育史上の共通点に基づくもの
2.1.1 法令上の根拠で分類できるもの
2.1.2 歴史的な由来によるもの
2.2 地理的なつながりによるもの
2.3 大学連合
2.4 大学スポーツによるもの
2.5 受験戦争期に使用され始めたもの
2.6 その他の大学受験に関連したカテゴリー
3 日本以外の事例
4 参考文献
5 関連項目



概要
大学はそれぞれの出自や歴史を持つ独立した教育組織だが、様々な視点から区分けをすることが可能である。現在日本で使用されている大学群は以下のような分類方法をとっている。

その大学の教育史上の出自の共通点によるもの
スポーツなどの深い交流によるもの
地理的な要因によるもの
ジャーナリズムが高等教育の現状や歴史を語る場合や、特に日本の学歴社会でどの大学がどれくらい評価されるかということを論じるために作り出す造語
大学の人気や評判の変動に呼応して日々優劣をつけて作り出されるスラングのようなもの

日本
以下では主に日本において見聞される大学群について慎重な解説を試みるが、大学群に関する用語は時代の変動によって意味合いが変化する流動的な要素が多分にある。また、これらの用語の中には優劣を誇張したり、学歴差別を助長すると批判されるものもある。


日本教育史上の共通点に基づくもの

法令上の根拠で分類できるもの
以下の呼称はそれらの大学が設立された時期やその根拠法によって分類できる物である。

旧制大学
戦前に帝国大学令または大学令により設置された大学であったもの。
旧帝国大学
旧制大学の内、帝国大学令により帝国大学を称し、国によって設立された大学。戦前の総合大学。
旧制官立大学・旧制公立大学
旧制大学の内、大学令により国または公の財源によって設立された大学。戦前の単科大学。
旧制私立大学
旧制大学の内、大学令により私的財源によって設立された大学。
新制大学
終戦直後に教育基本法、学校教育法、国立学校設置法施行に基づき設置されたもの。

歴史的な由来によるもの
以下の呼称は、根拠となる法令はないが、他と明確に区別できる制度上の事実があるものである。

旧制三商大
旧制官立・公立大学の内、商科大学または商業大学であったもの。
旧制六医大
旧制官立大学の内、医科大学であったもの。
旧制三工大
旧制官立大学の内、工業大学または工科大学であったもの。
旧制二文理大
旧制官立大学の内、文理科大学であったもの。
東京四大学
7年制を取っていた私立旧制高等学校と事実上7年制であった旧制学習院高等科が新制大学へ移行したことで発生した大学群。

地理的なつながりによるもの
大学が所在している地域を元に漠然とした区分をするときに用いられることが多い。

在京大学
東京23区に本部が所在する大学を示している。広義で東京都および横浜市、川崎市、千葉県北部に本部が所在する大学を示していることもある。
在阪大学
大阪府に本部が所在する大学を示している。広義で兵庫県南部、京都府のいわゆる京阪神地域にある大学を示していることもある。

大学連合
所属大学が協定に基づきその名称を公表しているもので、強い連携関係があるもの。(単位互換程度のものは含まない)

東京理工系4大学(芝浦工業大学、武蔵工業大学、東京電機大学、工学院大学)
四大学連合(一橋大学、東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学)

大学スポーツによるもの
元々は大学野球の対戦カードから来たもので、大学野球が国民的な関心を集めていたことから、これらの大学は地方における知名度も高いものがあった。こうしたことから東京あるいは関西における私学といえばここであるという認識となり、定着していったものとされている。

このカテゴリーに含まれる用語は第二次世界大戦前から使用されていることも特徴である。また、野球の対戦から始まって、大学間の人的交流や学生団体の連携など、戦前から大学間の交流が実施されていた大学群でもある。

一部の文献にはこれらの用語が第二次世界大戦後の大学受験過熱期(1970年代)に発生したとしているものがあるが、それ以前に発行された書籍や新聞で既にこれらの用語が使用されていることから下の項目で発生した3つの用語と発生時期を誤解しているものと考えられる。

このカテゴリには以下の大学群がある。

早慶 - 慶早(早稲田大学、慶應義塾大学)
日本初の定期対戦カードである早慶戦が発祥
関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)
関西で人気の高かった野球の対戦カードである関関戦および同立戦が発祥。
東京六大学(早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、立教大学、東京大学)
東京六大学野球連盟に所属している大学が発祥
関西六大学(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、京都大学、神戸大学)
旧関西六大学野球連盟加盟校が発祥

受験戦争期に使用され始めたもの
大学受験における偏差値の使用が一般化した後に発生してきた用語で、以下にあげている用語は旺文社から出版されている「螢雪時代」の編集長が考え出した造語という説が一般的である。当初は偏差値的な輪切りのために使われるケースが一般的であり、戦前から使用されていた用語と違ってそれぞれのカテゴリに含まれている大学の交流はほぼなかった。

しかし、これらの用語が一般化するにつれて、それぞれの大学間でライバル意識が発生した。また、他方、組み込まれた大学の発祥やおかれている社会的立場が比較的似通っていたことから、同一大学群としての連帯感も発生し、相互単位互換や学生サークルの連合もこれらの大学群で組まれることが多くなっており、現在では定着した用語と考えて良い。

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JARパック(上智大学、青山学院大学、立教大学)
三校ともミッション系大学という共通点があり、螢雪時代で一時期使われていたことがある。当時JALパックによる海外旅行が流行っていたことから生み出された用語であるが、商標との関係からあまり使用されることがなく、現在はほぼ死語となっている。
MARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)
明青立法中という用語が使われることもある。
日東駒専(日本大学、東洋大学、駒澤大学、専修大学)
産近甲龍(京都産業大学、近畿大学、甲南大学、龍谷大学)

その他の大学受験に関連したカテゴリー
予備校などの受験産業や週刊誌、あるいは就職活動、各種掲示板などで様々なスラングが毎日のように形を変えて生み出され続けている。切り分け方は偏差値であったり、大学の出自であったり、地域の偏りであったり、様々となっている。これらの用語に関しては一部でしか通用しない言葉が多く、スラングとなっている。それぞれのスラングにまとめられた大学に関係する人にとって、それらの用語にまとめられたことを誇りに思う人がある一方で、まとめられたくないという思いを抱く人がいるのも事実である。

膨大なスラングの中から全国規模の予備校や各種企業、雑誌・新聞などのマスメディア、日本全国の高等学校などによって使用されていることが確認されたものを以下で紹介する。

大東亜帝国(大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学)
関東上流江戸桜(関東学園大学、上武大学、流通経済大学、江戸川大学、桜美林大学)
摂神追桃(摂南大学、神戸学院大学、追手門学院大学、桃山学院大学)
早慶上智(早稲田大学、慶應義塾大学、上智大学)
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参考文献
サンデー毎日各号
螢雪時代各号
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『間違いだらけの大学選び』(疾風編/怒濤編)、朝日新聞社、1994年。 ISBN 4022566752 ISBN 4022568224
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関連項目
学力偏差値 - 学歴 - 大学
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高校生クイズ 

日本の近現代文学史① ■=【①~⑳】

参考文献:
☆原色 シグマ新国語便覧 増補三訂版 文英堂 880円
    編集・執筆 国語教育プロジェクト(代表:仲光雄)
    古文編図説資料考証・監修 高田倭男
    協力 田辺聖子『源氏物語】四季の女君
    文英堂 03-3269-4231

☆クリアカラー 国語便覧 33833 数研出版
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■監修者
       京都教育大学名誉教授 青木五郎
       関西学院大学名誉教授 武久堅
       佛教大学教授・京都教育大学名誉教授堀内稔典 
       早稲田大学教授  浜本純逸
   初版:第1版 平成13年12月1日 発行
   第二版:
   第三版 第2版 平成19年2月1日 発行
   定価(本体762円+税)

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[編集] 明治時代の文学  

[編集] 過渡期の文学と『小説神髄』
明治に入ってしばらくは江戸時代と同様の文芸活動が続いていた。明治18年から19年にかけて、①■■■■が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表するまでの時期を「過渡期の文学」と称する。この期間の文学は、戯作文学、政治小説、翻訳文学の三つに分類される。

森有礼の呼びかけで発足した明六社は、啓蒙思想をもとに、明治という新社会においての実利主義的主張をした。これは大衆に広く受け入れられ、②■■■■『学問のすゝめ』、中村正直訳『西国立志編』、中江兆民訳『民約訳解』がよく読まれた。

戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(明治3年)、『安愚楽鍋』(明治4年)を発表した。

国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張、扇動、宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(明治16年 - 17年)、東海散士の『佳人之奇遇』といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。坪内逍遥の『小説神髄』発表後は、その主張を受けて写実主義的要素が濃くなり、末広鉄腸の『雪中梅』はその代表的な作品である。

翻訳文学は、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『③■■日間世界一周』(明治11年 - 13年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』である。


[編集] 近代文学の始まりと写実・浪漫主義
近代文学は西欧近代小説の理念の流入とともに始まり、坪内逍遥の『小説神髄』によって実質的に出発した。「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」という主張に感銘を受け、二葉亭四迷が『小説総論』を書いた。これらの評論をもとに逍遥は『当世書生気質』(明治18年 - 19年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して明治20 - 22年に発表された四迷の『浮雲』は、最初の近代日本文学とされる。また、四迷は『あひゞき』『めぐりあひ』といった④■■■文学の翻訳をし、大きな影響を与えた。

こうした写実主義的な近代リアリズム小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年(明治18年)、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』を発表した。紅葉の女性的、写実的な作風に対して、男性的、浪漫的な作風で人気を博したのが④■■■■である。『露団々』『風流仏』『五重塔』などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。露伴と紅葉が活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。

森鴎外の登場によって、叙情的で芸術的な傾向をもつ浪漫主義文学が登場する。ドイツへの留学経験の題材にした『舞姫』(明治23)などによって、近代知識人の自我の覚醒を描いた。この頃、⑤■■■■を中心とした雑誌「文學界」には浪漫主義的な作品が発表された。⑥■■■■は、代表作『たけくらべ』『にごりえ』で注目されるが、24才の若さで結核に倒れた。『高野聖』を発表した⑦■■■は、『婦系図』『歌行燈』で幻想的な世界を描いた。


[編集] 自然主義
明治の終わりになると、ゾラやモーパッサンといった作家の影響を受け、自然主義が起こった。ヨーロッパの自然主義は遺伝学などを取り入れ客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。⑧■■■■の『破戒』(明治39)に始まり、後に⑨■■■■の『蒲団』によって方向性が決定づけられた。花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがおり、後に藤村も『家』『新生』、花袋も『田舎教師』を発表した。

この自然主義に対抗したのが夏目漱石である。当初漢詩や俳句を著していた漱石は、『吾輩は猫である』を発表し社会を批判。ユーモアと諷刺とが織り交ざった作品を発表していたが、修善寺の大患後に『⑩■■■』『明暗』といった作品で、人間の利己を追い求めた。また、鴎外も創作活動を再開、『青年』『雁』などを書いた後、歴史小説に転じた。


[編集] 明治の詩歌、演劇
詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『⑪■■■■』が刊行され、新体詩が盛んになる。

ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』を、北村透谷は『楚囚之詩』『蓬莱集』を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』を、藤村と並称された⑫■■■■は、『天地有情』を刊行。これらは浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。

象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて⑬■■■■、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。また、上田敏は、訳詩集『海潮音』を発表し、影響を与えた。

浪漫主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「⑭■■」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は『一握の⑮■』『悲しき⑯■■』を刊行した。

竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「⑰■■■」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し⑱■■短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。

俳句では、子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。

また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『⑲■■■■』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。


[編集] 大正時代の文学

[編集] 反自然主義の隆盛
自然主義が文壇の主流を占める中で、明治の終わりごろから夏目漱石や森鴎外といった反自然主義文学運動が起こった。

当初自然文学に傾倒していた永井荷風は、欧州から帰国後、『ふらんす物語』を発表。荷風に激賞された谷崎潤一郎は『刺青』や『痴人の愛』をなどを書き、後期浪漫主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。これは「スバル」「三田文学」を中心に活動した。ほかに佐藤春夫、久保田万太郎に代表される。

これに対し、自由・民主主義の空気を背景に、「白樺」で活動した白樺派の人々は、人道主義を主張した。『お目出たき人』『友情』の武者小路実篤や、『和解』『暗夜行路』の志賀直哉、『或る女』の有島武郎、『出家とその弟子』の倉田百三らである。

大正中期からは東京帝大系統の「新思潮」で活動する新思潮派が漱石や鴎外の影響の下に現れ、芥川龍之介や久米正雄らの活動があった。龍之介は『鼻』で登場し、古典に取材した数多くの短編などで大正文壇の寵児となった。一方、菊池寛や山本有三などの劇作家の活躍もあった。また新早稲田派とも呼ばれる宇野浩二や広津和郎、葛西善蔵らによって心境小説、私小説が書かれた。


[編集] 大衆小説の興隆
大衆小説は、明治期に尾崎紅葉の『金色夜叉』などの風俗小説が発展し、村上浪六、塚原渋柿園の髷物(撥鬢物)、押川春浪の冒険小説など通俗的な小説が書かれ、その先駆となった。

大正2年(1913)に、中里介山は「大乗小説」と称する大作『大菩薩峠』の連載を開始。人間の業を描こうとした時代小説で、未完に終わったがその影響は大きく、大衆小説の出発点とされる。大正14年(1925)に刊行された「キング」には当時の人気作家がこぞって執筆、特に吉川英治は高い人気を得、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』などで国民作家の名を冠せられた。このほか講談や読本などが発展した時代小説では大佛次郎、白井喬二らが活躍した。

黒岩涙香の翻案小説などで紹介された探偵小説は、「新青年」に『二銭銅貨』でデビューした江戸川乱歩が数多く執筆し、多大な影響を与えた。このジャンルは甲賀三郎、横溝正史らのほか、江戸時代を舞台にした「捕物帳」と呼ばれる時代物が書かれた。


[編集] 大正の詩歌
口語詩が次第に完成されていき、室生犀星、佐藤春夫、山村暮鳥らがそれを高めた。とくに『道程』の高村光太郎、『月に吠える』『青猫』の萩原朔太郎は口語自由詩を確かなものにした。一方、堀口大學は翻訳詩『月下の一群』を発表、宮沢賢治は東北に根付き『春と修羅』のほか、数多くの童話を書いた。

短歌では、正岡子規の精神を受け継ぎ、「アララギ」を舞台とする写実的なアララギ派が主流となる。中心人物は伊藤左千夫や長塚節らで、左千夫の死後は島木赤彦が積極的に活動し、アララギ派の地位を向上させた。同派の斎藤茂吉(歌集に『赤光』がある)や土屋文明も著名である。

俳句は、新傾向俳句を創作した河東碧梧桐の門下荻原井泉水が、「層雲」を開き自由律俳句を確立させた。これには尾崎放哉、種田山頭火が参加。のち「層雲」を離れた碧梧桐は「海紅」を主宰し中塚一碧楼がこれを継いだ。ただし主流は、定型と季題を重視する高浜虚子らの「ホトトギス」であった。


[編集] 昭和の文学

[編集] 大正末期から昭和20年
大正末期から、既成の文壇や個人主義リアリズムを批判して横光利一や川端康成らによる新感覚派がおこった。

また、政治状況を背景に大正10年(1921)に小牧近江らによって雑誌「種蒔く人」が創刊され、次いでプロレタリア文学の潮流が生まれた。

大正期以来の大家達の活動と平行して新興芸術派倶楽部と呼ばれる人々のモダニズム文学が始められ、梶井基次郎、井伏鱒二らの作品が書かれた。

満州事変以降の軍国主義的な空気の中でプロレタリア文学運動が発展し、小林多喜二の『蟹工船』、徳永直(すなお)の『太陽のない街』、宮本百合子や葉山嘉樹、中野重治、佐多稲子、壺井栄の諸作品が生まれた。また、プロレタリア文学評論も活発となり、蔵原惟人、宮本顕治らの文芸評論が知識層に影響を与えたが、戦時体制の強化により弾圧を受け、逼塞を余儀なくされた。それに対して危機的な時局を背景に国粋的動向とともに保田與重郎ら日本浪曼派や蓮田善明らの文学活動が見られた。

昭和10年代の戦争を予感させた重苦しい時代には太宰治、織田作之助らの無頼派や日本や中国の古典に造詣の深い堀辰雄や中島敦らが作品を残した。一方、芥川賞や直木賞が制定され、文学がジャーナリズムの注目を浴びるようにもなった。


[編集] 昭和戦前期の詩歌
これまでの詩の形式を否定していく事で新しい詩を生み出そうとする実験精神が、大正末期ごろより勃興した。シュルレアリスムに影響を受けた西脇順三郎、ダダイズムに影響を受けた高橋新吉、吉行エイスケ、アナーキズム詩から発展したプロレタリア文学の詩の分野では中野重治、壺井繁治、小野十三郎、萩原恭次郎らが活躍し、構成主義に至った。また安西冬衛、北川冬彦、三好達治らが新散文詩運動(短詩運動)を展開。この時期は、これら諸芸術運動や人道主義、農本主義など、多様な運動が相互に影響しつつ発展した。

このころ村野四郎、北園克衛などが、モダニスム運動の中で、このほか小熊秀雄、金子光晴、山之口貘、田中冬二などの詩人も活動した。

戦争の到来によるモダニスム運動の退潮により、詩の世界も変化する。堀辰雄らが主宰する雑誌「四季」では、立原道造、津村信夫、丸山薫ほか「四季派」の詩人達が抒情詩の牙城を築き、日本浪曼派からは伊東静雄が活躍した。

そのほか、草野心平、中原中也などもユニークな足跡を残した。


[編集] 戦後の文学(主に昭和20年~40年)
プロレタリア文学の流れをくんだ中野重治や宮本百合子は、新日本文学会を創立して、民主主義文学運動をおこし、労働者の文学の力を発掘した。

雑誌「近代文学」の周辺から埴谷雄高、安部公房、三島由紀夫らが現れたほか、大岡昇平、井上靖、幸田文、円地文子らが旺盛な活動を見せた。

また、戦後派のうち島尾敏雄や梅崎春生の傾向は、「第三の新人」と呼ばれる小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、阿川弘之らに受け継がれた。第一次戦後派作家、第二次戦後派作家の次に現れたため、「第三次戦後派作家」という意味の「第三の新人」と呼ばれる。

第三の新人以降、1956年(昭和31年)に石原慎太郎が『太陽の季節』で「戦後の最初の宣言」として文壇に華々しく登場し、芥川賞の存在が一躍有名になった。ほかに大江健三郎、北杜夫などの有力、多彩な新人が登場する。


[編集] 昭和40年周辺
昭和43年、川端康成がノーベル文学賞を受賞。昭和45年には三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自殺した。四部作『豊穣の海』最終部を脱稿した日の自決であった。

「内向の世代」と呼ばれる、心理描写の深さを追求する作家たちが現れたのもこの時期である。古井由吉、後藤明生、黒井千次らが有名になった。

戦後登場した作家たちが、長編に本領を発揮し始め、武田泰淳『富士』、大岡昇平『レイテ戦記』、福永武彦『死の島』、中村真一郎『頼山陽とその時代』、野間宏『青年の環』などの作品がある。

新日本文学会から離脱した者を中心に日本民主主義文学同盟が結成され、民主主義文学の伝統を引き継いだ。

昭和42年、散逸した近代文学関係の資料を収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係の有志によって、東京目黒・駒場公園内に「日本近代文学館」が財団法人の運営で開館した(初代理事長:高見順)。 


[編集] 昭和50年周辺
中上健次が戦後世代として、初めて芥川賞を受賞した。彼は、出身地である紀州にこだわった紀州三部作『岬』(芥川賞受賞・昭和50)、『枯木灘』(昭和51年-52年)、『鳳仙花』(昭和54年)で土着的文学世界を築いた。続いて『限りなく透明に近いブルー』(昭和51年)で覚せい剤と乱交にあけくれる若者を描き、村上龍が芥川賞受賞。『コインロッカー・ベイビーズ』(昭和55年)、『愛と幻想のファシズム』(昭和59年-61年)など多くの小説を発表した。村上龍とともに語られるのが、昭和54年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞してデビューした村上春樹である。『羊をめぐる冒険』(昭和57年)などの英米文学の影響を受けた作風が支持された。『泥の河』(昭和52年)で宮本輝が登場し、『蛍川』(昭和52年)『道頓堀川』(昭和53年)を合わせた川三部作により戦後大阪の庶民の姿を描いた。昭和58年には『優しいサヨクのための嬉遊曲』で島田雅彦がデビューした。

その間にも檀一雄が『火宅の人』(昭和50年)、安岡章太郎が『流離譚』(昭和51年)、吉行淳之介『夕暮まで』(昭和53年)、黒井千次が『群棲』(昭和56年-59年)を、井上ひさしは『吉里吉里人』(昭和48年-55年)を発表した。また、大江健三郎は『ピンチランナー調書』(昭和52年)、『同時代ゲーム』(昭和54年)の後、代表作の一つ『新しい人よ眼ざめよ』(昭和58年)を著した。

演劇の世界で活躍していたつかこうへいが『蒲田行進曲』(昭和56年)で直木賞を、同じく演劇人の唐十郎が『佐川君からの手紙』(昭和58年)で芥川賞を受賞し注目をあつめた。


[編集] 昭和60年周辺
『光り抱くともよ』(昭和59年)で高樹のぶ子が登場。『鍋の中』(昭和62年)の村田喜代子、『由熙』(昭和63年)の李良枝らの芥川賞受賞の女性作家の活躍が見られた。芥川賞に何度もノミネートされた山田詠美は、『ソウルミュージックラバーズ・オンリー』(昭和62年)で直木賞。デビュー作『ベッドタイムアイズ』(昭和60年)など話題作を発表した。昭和62年、『キッチン』で評論家吉本隆明の次女、吉本ばなながデビューして“ばなな現象”を起こした。『うたかた/サンクチュアリ』(昭和62年)、『TUGUMI』(昭和63年-平成元年)等により孤独で現代的な登場人物をみずみずしい感性で描いた。

デビュー後、着実に独自の世界観を作り上げてきた村上春樹は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(昭和60年)、『ダンス・ダンス・ダンス』(昭和63年)を発表。『ノルウェイの森』(昭和62年)は大ベストセラーになり、上下巻で460万部以上を売った。また、宮本輝は『優駿』(昭和61年)で幅広い読者を得た。


[編集] 昭和戦後期の詩歌
第二次世界大戦後、盛んになったのが現代詩である、各詩人によって、作風が大きく異なり、共通するものが少ない「分散性」が現代詩の一つの特徴だが、あえて共通要素をとりだすとしたら、私的性が強い事が挙げられる。

詩誌「荒地」を中心に集まった詩人、鮎川信夫、田村隆一、吉本隆明、詩誌「櫂」を中心に集まった詩人、川崎洋、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘のほか、石原吉郎、飯島耕一、黒田三郎、吉岡実、入沢康夫、天沢退二郎、吉増剛造、荒川洋治らが、また石垣りん、茨木のり子、伊藤比呂美ら女性詩人も活躍した。 さらに新奇な表現を求めて、80年代から90年代にかけて、ねじめ正一や谷川俊太郎らのナンセンス詩に発展した。


[編集] 平成の文学

[編集] 平成初期の文学
小川洋子の『妊娠カレンダー』(平成2年)、荻野アンナの『背負い水』(平成3年)、多和田葉子の『犬婿入り』(平成4年)と女性作家の時代を印象付けた。多和田はドイツ語でも作品を発表し、日本語との間に新たな関係性を見出しつつ作品を発表し続ける。昭和56年に『極楽』で群像新人文学賞を受賞しデビューした笙野頼子が『タイムスリップ・コンビナート』(平成6年)で芥川賞を受賞するなど、フェミニズムと文学の問題を考える作家が多様に現れた。後に『『我輩は猫である』殺人事件』などで、純文学ミステリー作家と呼ばれるようになった奥泉光が『石の来歴』(平成5年)で芥川賞を受賞した。

ベテラン勢では筒井康隆『文学部唯野教授』(平成2年)、河野多恵子『みいら採り猟奇譚』(平成2年)、開高健『珠玉』(平成2年)、丸谷才一『女ざかり』(平成4年)、遠藤周作『深い河』(平成5年)などが健筆ぶりを見せた。中上健次が『軽蔑』(平成4年)を発表、彼の文学の系譜がいよいよ鮮やかになったが、同年死去。平成6年、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した。村上春樹は三部からなる大作『ねじまき鳥クロニクル』(平成4年~7年)を発表した。


[編集] J文学というジャンル
J-POPという音楽に応じて雑誌『文藝』が名づけたJ文学が現れ、ロックをはじめとする音楽、映画、写真など、文学の大衆文化との接点が強調されるようになった。渋谷系、新宿系など、小説に町の名前を冠して売り出すことが行われた。町田康、赤坂真理、星野智幸、吉田修一、阿部和重、黒田晶、藤沢周ら90年代に登場した作家が、広くJ文学にカテゴライズされた。

『日蝕』で芥川賞を受賞した平野啓一郎は、現代ではあまり使われない漢語を多用した擬古文体で登場。京都大学の現役学生であった事からマスコミに多く登場した。『家族シネマ』の柳美里、『海峡の光』の辻仁成らは、アダルトチルドレンやトラウマといった、心理学の流行語で読み解かれた。『蛇を踏む』で芥川賞を受賞した川上弘美は、平成13年『センセイの鞄』を発表し、広く受け入れられた。

また最年少で第130回芥川賞を受賞した綿矢りさや金原ひとみなど若い作家の活躍も目立ってきている。


[編集] 大衆文学・エンターテイメント小説
芸術表現を重視するとされる「文学」(これを特に純文学ともいい、主に小説を指す)とは別に、娯楽を目的とする小説の流れも一貫して存在してきた。大衆小説(大衆文学)と言われる、商業的な小説がこれである。従来の講談や読本の流れをくむ時代小説や伝奇小説、欧米から導入された探偵小説や科学小説、また官能小説などのジャンルを含む。

戦前は純文学と大衆小説は、比較的はっきり区分されていた。戦後は中間小説と言われる、純文学の体裁に大衆小説の娯楽性を大幅に導入した小説が生まれた。現在は大衆小説家を名乗る作家は少なくなり、大衆小説にあたる小説は「エンターテイメント」などと呼ばれ、ミステリ、歴史小説、冒険小説(アクション小説と呼ばれることも)、恋愛小説、ファンタジー小説などのジャンルに細分化されている(それゆえ「ジャンル小説」の呼称がエンターテイメント小説の別名のように使われることもある)。また大衆小説自体も純文学に一貫して影響を与え続け、双方の作品を発表する作家、一方から他方へと移行する作家も多くなってきている。現在では純文学、大衆文学の境界はきわめてあいまいであるものの、「純文学」という枠組みは、商業性よりも芸術性・形式に重きを置いた小説として、今でも残っている。今のところ、実態としては純文学・大衆文学の区別はその作品の掲載誌によって行うことがもっとも一般的である。




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最終更新 2008年4月17日 (木) 14:22。 Wikipedia®


【忠臣蔵】元禄14年2月4日(西暦1701年3月3日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩

2008-09-02 12:00:53 | 2 IT用語集
【忠臣蔵】

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忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、


忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作歌舞伎・人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』(假名手本忠臣藏)の通称。
歌舞伎や演劇・映画の分野で、赤穂浪士の復仇事件元禄赤穂事件に題材をとった創作作品のこと。

目次 [非表示]
1 元禄赤穂事件
2 事件後の展開
2.1 歌舞伎・人形浄瑠璃
2.2 映画
2.3 テレビドラマ
2.4 小説
2.5 その他
2.6 雑学
3 作品一覧
3.1 映画
3.2 TVドラマ
3.3 舞台
3.4 小説
3.5 評論
3.6 パロディ作品
4 物語群
4.1 本伝
4.2 義士銘々伝
4.3 外伝
4.4 新しい視点の物語
5 関連項目
6 外部リンク



[編集] 元禄赤穂事件
詳細は元禄赤穂事件を参照

江戸時代・元禄14年2月4日(西暦1701年3月3日)、江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件については、加害者とされた浅野は切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不満とする大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。

ただし、忠臣蔵は、かなりの演出・創作が含まれており、必ずしも史実の通りではないことに注意しなければならない。


[編集] 事件後の展開
吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。

多数の映画が製作され、テレビドラマ化、書籍の出版も多くなされている。また、当然ではあるが徳川幕府への遠慮はなくなったので実名での作品化がなされるようになり、また、価値観の多様化と多くの資料研究から、いままでのような赤穂浪士の忠義一辺倒の一方的なものではない、吉良側の視点をはじめとした様々な角度からの作品化がなされるようになった。


[編集] 歌舞伎・人形浄瑠璃

忠臣蔵十一段目夜討之図、歌川国芳作討ち入り決行の翌元禄16年(1703年)には事件を曾我兄弟の仇討ちに設定した『曙曽我夜討』が上演されたが、3日目に上演禁止とされている。討ち入り事件の4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座にて上演され、以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、数作品が作られた。その集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。同じ年に歌舞伎の演目として取り入れられ大当たりした。歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。

江戸時代は江戸幕府から同時代の武家社会の事件を上演することは禁じられていたために、「忠臣蔵物」は近松以来、幕府を憚って、舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託したものが多い。近松作品では太平記の時代を舞台とし、登場人物の名として、浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件を表現していることがわかるように、塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の「高」は吉良上野介の役職「高家」とかけられている。太平記に登場しない人物の名も変えられた(大石内蔵助→大星由良之助など)。

「忠臣蔵」という名前の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にかけている等とされるが、定かではない。

「仮名手本」という名前の由来には3種類の説明がなされる。

かな47文字すなわち四十七士を指す。(実際、四十七士の各々の装束に、いろは仮名を一文字ずつ書いた浮世絵も多い)。
いろは歌を七文字毎に区切り一番下の文字を順に読むと「とかなくてしす」、すなわち「咎(とが)無くて死す」であるため。
幕府の禁止令により登場人物が実名ではなく「仮名」で呼ばれているため。
「忠臣蔵物」は独参湯(薬の名前)と呼ばれ、客が不入りの時でも忠臣蔵を出せば当たるといわれるほど庶民に人気があった。

明治以降、幕府への憚りがなくなったため、太平記に由来する設定は変えず登場人物の名のみ実名で上演することができるようになった。忠臣蔵は人気が高く、昭和9年(1934年)には資料調査をした新歌舞伎『元禄忠臣蔵』(真山青果作)が上演されている。講談、浪曲でも忠臣蔵は人気があり、「赤穂義士伝」と呼ばれ、事件の史実を扱った「本伝」、個々の赤穂四十七士を描いた「義士銘々伝」、周辺のエピソードを扱った「外伝」からなる。

第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、『忠臣蔵』事件を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとして(仇討ちという復讐の物語であるため)当事件を題材とした作品の公演、出版等を禁止した。マッカーサーの副官で知日家のフォービアン・バワーズらの努力により逐次解禁され、1947年に『仮名手本忠臣蔵』が復活上演された。


[編集] 映画
映画の時代になると忠臣蔵も題材として使われ、最初の作品は1907年(明治40年)に製作された『忠臣蔵五段目』である。ただし、この作品は片岡仁左衛門 (11代目)の襲名公演の模様を収録(保存を目的として撮影)したものであり、劇映画としての最初の「忠臣蔵」作品は、1910年製作の牧野省三監督・尾上松之助主演による『実演・忠臣蔵』ということになる。戦前は、牧野省三などによって多数の忠臣蔵映画が製作された。大石内蔵助を多く演じた俳優では、戦前の映画スター・尾上松之助が有名である。

登場人物が多彩なためオールスターキャストでの演出が可能な忠臣蔵は人気ジャンルとなり、戦前から戦後にかけて本伝ものだけで80本以上の作品が製作されている。

また、演劇的視点で観客が映画を見ていたこともあってか、昭和30年代までは大石内蔵助と浅野内匠頭(もしくは他の配役も含めて)が同一キャストであったりする作品も珍しくない。


[編集] テレビドラマ
戦後も忠臣蔵は人気題材であり続け、テレビの時代になると多数のドラマが製作されている。芸能界でも、テレビドラマで大石内蔵助を演じることは、役者として最高の誉れの1つとされている。

1964年にNHKで製作された大河ドラマ『赤穂浪士』は当時の大映の看板俳優・長谷川一夫を大石内蔵助役にして、平均視聴率は30%を越え、討ち入りの回の視聴率は53%という高い人気を誇った。大河ドラマではその後3度(1975年『元禄太平記』、1982年『峠の群像』、1999年『元禄繚乱』)も忠臣蔵が題材に取り上げられている。

また、オーソドックスなものから、幕府の側からの視点や女性からの視点、討ち入りをしたくなかった大石内蔵助、SF的なものなど様々な趣向の忠臣蔵ドラマが現在に至るまで多数製作されている。

戦後では元禄赤穂事件を単なる復讐ではなく、幕府への反抗として解釈するものが多くなってきた(大河ドラマ「元禄繚乱」など)。


[編集] 小説
忠臣蔵は小説の題材としても用いられ、多くの作品が書かれている。代表的なものに大河ドラマ化された大佛次郎作『赤穂浪士』、赤穂浪士たちを刺客として描いた池宮彰一郎作『四十七人の刺客』などがある。


[編集] その他
江戸時代における武士階級としての日本人の倫理基準を象徴、理解する上で重要な作品群であるといえるが、歴史を理解する上においては、赤穂浪士を武士の鑑として持ち上げるために、敵役とされた吉良上野介、赤穂から逃げ出した大野九郎兵衛、赤穂浪士に切腹を命じた徳川綱吉、柳沢吉保などをことさらに貶めるといういびつな構造を持っており、貶められた側に対する評価を大きく歪めていることにも注意する必要があろう。


[編集] 雑学
日露戦争の停戦会議(ポーツマス会議)の仲介役となった第26代米大統領セオドア・ルーズベルトが、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。


[編集] 作品一覧
主に戦後の作品を挙げる。


[編集] 映画
実演忠臣蔵(1908年・横田商会 大石内蔵助…尾上松之助、吉良上野介…片岡市之正)
忠臣蔵(1913年・日活 大石内蔵助…尾上松之助、吉良上野介…片岡蝶十郎)
忠臣蔵(1914年・天活)
忠臣蔵(1915年・小松商会 大石内蔵助…市川団右衛門)
実録忠臣蔵(1920年・国活 大石内蔵助…市川莚十郎)
赤穂浪士(1921年・帝国キネマ)
忠臣蔵(1921年・日活 大石内蔵助…尾上松之助、吉良上野介…市川寿美之丞) 
実録忠臣蔵(1922年・松竹キネマ 大石内蔵助…沢村四郎五郎、吉良上野介…中村桂玉)
実録忠臣蔵(1922年・牧野教育映画製作所 大石内蔵助…阪東彦蔵、吉良上野介…尾上幸十郎)
実録忠臣蔵(1923年・帝国キネマ 大石内蔵助…嵐璃徳、吉良上野介…浅尾奥山)
実録忠臣蔵(1925年・朝日キネマ)
実録忠臣蔵 天の巻・地の巻・人の巻(1927年・日活 大石内蔵助…尾上松之助、吉良上野介…山本嘉一)
忠臣蔵 前篇・後篇(1927年、1928年・帝国キネマ 大石内蔵助…尾上紋十郎、吉良上野介…片岡童十郎)
忠魂義烈・実録忠臣蔵(1928年・マキノ映画 大石内蔵助…伊井蓉峰、吉良上野介…市川小文治)
元録快挙大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻(1930年・日活 大石内蔵助…大河内傳次郎、吉良上野介…三桝豊)
忠臣蔵 赤穂京の巻・江戸の巻(1932年・松竹 大石内蔵助…阪東寿三郎、吉良上野介…上山草人)
忠臣蔵 刃傷篇・復讐篇(1934年・日活京都 大石内蔵助…大河内傳次郎、吉良上野介…中村吉次)
忠臣蔵 (1937年・大都 大石内蔵助…阿部九州男、吉良上野介…松村光夫)
忠臣蔵 天の巻・地の巻(1938年・日活京都 大石内蔵助…阪東妻三郎、吉良上野介…山本嘉一)
忠臣蔵 前編・後編(1939年・東宝 大石内蔵助…大河内傳次郎、吉良上野介…丸山定夫)
元禄忠臣蔵 前篇・後編(1941年・松竹 大石内蔵助…河原崎長十郎、吉良上野介…三桝万豊)
赤穂城・続赤穂城(1952年・東映 大石内蔵助…片岡千恵蔵、吉良上野介…薄田研二)
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1954年・松竹 大石内蔵助…松本幸四郎(8代目、白鸚)、吉良上野介…滝沢修)
赤穂義士(1954年・大映 大石内蔵助…進藤英太郎、吉良上野介…瀬川路三郎)
赤穂浪士 天の巻・地の巻(1956年・東映京都 大石内蔵助…市川右太衛門、吉良上野介…月形龍之介)
大忠臣蔵(1957年・大映 大石内蔵助…市川猿之助、吉良上野介…石黒達也)
赤穂義士(1957年・東映 大石内蔵助…大河内傳次郎)
忠臣蔵(1958年・大映 大石内蔵助…長谷川一夫、吉良上野介…滝沢修)
忠臣蔵 暁の陣太鼓(1958年・松竹 大石内蔵助…市川寿海)
忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻(1959年・東映 大石内蔵助…片岡千恵蔵、吉良上野介…進藤英太郎)
赤穂浪士 前編・後編(1961年・東映 大石内蔵助…片岡千恵蔵、吉良上野介…月形龍之介)
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年・東宝 大石内蔵助…松本幸四郎(8代目、白鸚)、吉良上野介…市川中車)
原節子(りく役)、横山運平(平五郎の叔父役)の最後の出演作品となった。
赤穂城断絶(1978年・東映京都 大石内蔵助…萬屋錦之介、吉良上野介…金子信雄)
忠臣蔵・四十七人の刺客(1994年・東宝 大石内蔵助…高倉健、吉良上野介…西村晃)
忠臣蔵外伝 四谷怪談(1994年・松竹 大石内蔵助…津川雅彦、吉良上野介…田村高廣)
東海道四谷怪談から題を採った異色作。東宝・松竹両社の競作も話題に。
携帯忠臣蔵(世にも奇妙な物語・映画の特別編)(2000年・東宝/フジテレビ 大石内蔵助…中井貴一)

[編集] TVドラマ
忠臣蔵の人々(1956年、大石内蔵助…市川段四郎、吉良上野介…加藤精一)
赤穂浪士(1959年・NET 大石内蔵助…柳永二郎、吉良上野介…山本礼三郎)
赤穂浪士(1964年・NHK/大河ドラマ 大石内蔵助…長谷川一夫、吉良上野介…滝沢修)
あゝ忠臣蔵(1969年・関西テレビ 大石内蔵助…山村聰、吉良上野介…山形勲)
大忠臣蔵(1971年・NET 大石内蔵助…三船敏郎、吉良上野介…市川中車→市川小太夫)
編笠十兵衛(1974年・フジテレビ 大石内蔵助…中村竹弥、吉良上野介…伊藤雄之助)
元禄太平記(1975年・NHK/大河ドラマ 大石内蔵助…江守徹、吉良上野介…小沢栄太郎)
赤穂浪士(1979年・テレビ朝日大石内蔵助…萬屋錦之介、吉良上野介…小沢栄太郎)
女たちの忠臣蔵(1979年・TBS 大石内蔵助…宇津井健)
橋田壽賀子脚本のりく(池内淳子)を主人公とした女性視点のドラマ。浅野内匠頭と吉良上野介は登場しない。
峠の群像(1982年・NHK/大河ドラマ 大石内蔵助…緒形拳、吉良上野介…伊丹十三 )
つか版忠臣蔵(1982年・テレビ東京 大石内蔵助…平田満、吉良上野介…石丸謙二郎)
つかこうへい原作。ライバル・近松門左衛門への対抗心に燃える宝井其角(風間杜夫)は、赤穂浪士たちを操り、自分のシナリオどおりに事件を仕立て上げる・・・という異色作品。
忠臣蔵(1985年・日本テレビ 大石内蔵助…里見浩太朗、吉良上野介…森繁久彌)
必殺忠臣蔵(1987年・朝日放送 大石内蔵助…山城新伍、吉良上野介…日下武史)
忠臣蔵 女たち…愛(1987年・TBS 大石内蔵助…丹波哲郎)
「女たちの忠臣蔵」のリメイク版。
忠臣蔵 いのちの刻(1988年・TBS 大石内蔵助…児玉清、吉良上野介…若山富三郎)
大忠臣蔵(1989年・テレビ東京/新春ワイド時代劇 大石内蔵助…松本幸四郎、吉良上野介…芦田伸介)
忠臣蔵(1990年・TBS 大石内蔵助…ビートたけし、吉良上野介…東千代之介)
ビートたけし演じる「小心者で臆病」で仇討ちの意志のなかった内蔵助が、周囲から討ち入りのリーダーに祭り上げられていくというストーリー。
大石内蔵助 冬の決戦(1991年NHK/正月時代劇・ 大石内蔵助…平幹二朗、吉良上野介…菅原謙次、りく…大原麗子)
忠臣蔵 風の巻・雲の巻(1991年・フジテレビ 大石内蔵助…仲代達矢、吉良上野介…大滝秀治)
大忠臣蔵(1994年・TBS 大石内蔵助…松方弘樹、吉良上野介…西村晃)
忠臣蔵(1996年・フジテレビ 大石内蔵助…北大路欣也、吉良上野介…平幹二朗)
編笠十兵衛(1997年・テレビ東京 大石内蔵助…中尾彬、吉良上野介…根上淳)
赤穂浪士(1999年・テレビ東京/新春ワイド時代劇 大石内蔵助…松方弘樹、吉良上野介…田村高廣)
元禄繚乱(1999年・NHK/大河ドラマ 大石内蔵助…中村勘九郎 (5代目)、吉良上野介…石坂浩二 )
忠臣蔵1/47(2001年・フジテレビ 大石内蔵助…佐藤浩市、吉良上野介…津川雅彦)
堀部安兵衛(木村拓哉)を主人公に、高田馬場の決闘から吉良邸討ち入りまでを描いた作品。
忠臣蔵~決断の時(2003年・テレビ東京/新春ワイド時代劇 大石内蔵助…中村吉右衛門、吉良上野介…橋爪功)
忠臣蔵(2004年・テレビ朝日 大石内蔵助…松平健、吉良上野介…伊東四朗)
最後の忠臣蔵(2004年・NHK 大石内蔵助…北大路欣也、吉良上野介…草薙幸二郎)
討ち入り後に姿を消した寺坂吉右衛門(上川隆也)に焦点を当てたドラマ。初回に討ち入りが描かれた。
徳川綱吉 イヌと呼ばれた男(2004年・フジテレビ 大石内蔵助…堤真一、吉良上野介…竹中直人)
徳川綱吉(草剛(SMAP))の視点から元禄赤穂事件を描いたドラマ。
忠臣蔵 瑤泉院の陰謀(2007年・テレビ東京/新春ワイド時代劇 大石内蔵助…北大路欣也 、吉良上野介…江守徹)
討ち入りの首謀者が瑤泉院(稲森いずみ)であったという解釈で描かれたドラマ。

[編集] 舞台
宝塚歌劇雪組公演「忠臣蔵~花に散り雪に散り~」
三枝成彰作曲 オペラ「忠臣蔵」(1997)

[編集] 小説
赤穂浪士(1927年)大佛次郎著 ISBN 4829110228
大河ドラマ『赤穂浪士』の原作
新編忠臣蔵(吉川英治著 ISBN 4061965816
新・忠臣蔵(1957年~1961年、舟橋聖一著) 『元禄繚乱』の原作
忍法忠臣蔵(1962年、山田風太郎著 ISBN 4062645033
つか版・忠臣蔵(1985年)つかこうへい著 ISBN 4041422221
四十七人の刺客(1992年、池宮彰一郎著)上巻;ISBN 4043687036,下巻;ISBN 4043687044 同名映画の原作
最後の忠臣蔵(池宮彰一郎著)ISBN 4043687109
『四十七人目の浪士』(1997年、ISBN 4101408130)の改題

[編集] 評論
忠臣蔵とは何か(1984年、丸谷才一著) ISBN 4-06-200825-4
忠臣蔵 元禄十五年の反逆(1992年、井沢元彦著)ISBN 4-10-119212-X
忠臣蔵(1957年、戸板康二著、東京創元社)
忠臣蔵:その成立と展開(1964年、松島栄一著、岩波新書)
映画忠臣蔵(1966年、御園京平著、私家版)
忠臣蔵 : もう一つの歴史感覚(1981年、渡辺保著、白水社)
忠臣蔵と四谷怪談(1983年、鶴見俊輔・安田武著、朝日選書)
近代日本と「忠臣蔵」幻想(2001年、宮澤誠一著、青木書店)
“男らしさ”という病? - ポップ・カルチャーの新・男性学(2005年、熊田一雄著、風媒社)


[編集] 本伝
吉良の浅野いじめ
刃傷松の廊下(脇坂淡路守の怒り)
田村邸の別れ(浅野の切腹、片岡源五右衛門の悲しみ)
赤穂城の大評定
赤穂城明け渡し
祇園一力茶屋(村上喜剣の疑い)
山科閑居
南部坂雪の別れ
討ち入り
泉岳寺への行進
四十七士の最期

[編集] 義士銘々伝
早籠:早籠の萱野三平は老婆を蹴散らし死なす、詫び証文を書く
韋駄天・不破数衛門:お家の一大事に鎧を担いで駆けつける
矢頭右衛門七:死ぬといって連判状に名を連ね、母は足手まといにならぬよう自害する
神崎東下り:神崎与五郎は道中からまれるが我慢して詫び証文を書く
立花左近(大石東下り):大石は別人になりすますがその当人と相対する羽目に、又は垣見五郎兵衛
決闘高田馬場:中山安兵衛は助太刀に走る
中山安兵衛の道場破り
岡野金衛門とお鈴:絵図面を入手するために大工の娘を騙す
俵星玄蕃と夜泣きそば屋:槍の名人はそば屋にばけた杉野十兵次の剣の腕を鍛える
大高源五と宝井其角:源吾は俳人となり其角と友人に、前日は橋の上で句を交わす
赤垣源蔵とっくりの別れ:兄の羽織との別れ
勝田新左衛門は敵討ちを早くしろと叔父に怒られる
おかる勘平:早野勘平は妻を遊女に売り金を作るが自害、死んで連判状に名を連ねる
琴の爪(磯貝十郎左衛門とおみの):本当の恋にするため娘は自害する

[編集] 外伝
「天野屋利兵衛は男でござる」
そば志ぐれ:二階に集合した浪士の変身にそば屋はびっくり
橋本平左衛門は遊女と心中する
小山田庄左衛門は女と心中する
高田郡兵衛は養子になり脱盟する
堀部安兵衛の妻
土屋主税の高提灯
加古川本蔵の自死
忠僕直助
傍観者堀田隼人
薄桜記
四谷怪談(民谷伊衛門)


[編集] 関連項目
元禄赤穂事件
赤穂浪士
仮名手本忠臣蔵
時代劇

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、四十七士 に関連するカテゴリがあります。仮名手本忠臣蔵
忠臣蔵フィルモグラフィ
仮名手本忠臣蔵の元祖塩冶判官高貞

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カテゴリ: 元禄赤穂事件 | 忠臣蔵 (時代劇)


最終更新 2008年8月31日 (日) 。









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