桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

田原本町旧町南東部「南町、酒井町、材木町、味間町」 奈良県田原本町

2017-10-17 08:48:58 | 地域
田原本町中街道周辺

田原本の旧町の東側を中世の中街道が通り、新旧入り混じった景観を呈して居ます。

特に江戸時代の中街道の通る南町から材木町に掛けて、中世の景観を良く残し、隆盛を極めた頃の田原本を垣間見る事が出来ます。

「樂田寺」 
津島神社の東50m程の所、下ッ道に面して極こじんまりとしたお寺が佇んで居ます。
融通念仏宗雨寶山「樂田寺」、古くは田原本寺、創建は天平29年(729年)。
長い寺歴を持つ古刹ですが、時代に翻弄され、宗派もその時折に変わって今は融通念仏宗に成って居ます。
時代の変遷に伴い、数々の寺宝と言うべきものも多数流出、
平安時代、本尊で有った「十一面観音立像」二体は、一つは現在本誓寺に、もう一つは南坂手の観音堂に、
鎌倉時代の国重文「絹本着色法華経曼荼羅図四幅」は湖西市の本興寺に、室町時代の板絵両界曼荼羅は箸尾の大福寺に、と。
現在は江戸時代の阿弥陀如来座像のほか、県指定の絹本着色善女龍図が蔵されて居ます。

樂田寺を中に、今は少し町内側へ折れまがって居ますが、南方、寺川堤防脇から中学校の横を入ると、
まずは行者堂の粗末な建物に突き当ります(南町)。

大正3年、風邪の大流行を受けて建てられた粗末な建物ですが、素朴な信仰の跡が伺える貴重な遺産です。

突き当って少し西に振って風月堂の旧本店の前を、直ぐに又東へ曲がると、先に紹介した樂田寺の前へ(堺町)。

樂田寺の前を過ぎると、商家の面影を濃く残す鍵岡家が並ぶ材木町に入ります。

旧家の並ぶ道を少し北へ進むと、西に浄照寺の楼門が見える素敵な空間に出会います。

さらに北へ進むと、旧道から広い道筋へと変化、水仙会館から町役場へと続く道ですが、その東側一帯が陣屋町

町役場の建設に伴って、陣屋跡の景観はほとんど失われましたが、役場との境界にわずかにその後を認めり事が出来ます。

田原本の街並み-Ⅱ.淨照寺、本誓寺

2017-09-28 17:37:46 | 地域
「浄照寺」「本誓寺」
 
田原本の街のほぼ中央。

近鉄田原本駅を東へ、えびす通りからくるっと廻った所に大きなお寺が2つ並んでいる。

江戸時代初代領主平野権兵衛長泰(賤ヶ岳の七本槍といわれた剛勇の武将)がこの地を領土として5千石を賜り、その依頼を受けてこの地に門前町を作ったのが教行寺

「しかし2代目長勝との葛藤で箸尾に移り(箸尾御坊)その跡地に、田原本地域を治め始めた2代田原本領主・平野長勝が跡地を二分して建立したのが浄土真宗本願寺派(西本願寺)松慶山「浄照寺」と、浄土宗慈航山本覚院「本誓寺」だ。


「浄照寺」


本尊、造阿弥陀如来立像(江戸時代前期)、寺宝として親鸞上人画像一幅等。

主な建造物には、本堂・庫裏・鐘楼・太鼓楼・表門があり、表門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝えられる。

浄照寺の本堂は、慶安4年に建立された、入母屋造本瓦葺。

本堂には、組物、欄間、蟇股等に優れた彫刻技法が残り、県下における大規模な真宗寺院本堂の典型として価値が高い。

当時には明治天皇投宿の座敷が有り、座敷からは枯山水の綺麗な庭園が楽しめる。

又、お寺の檀家主催の浄照寺寄席や、近年、地域の活性にと当時の門前市を再現し、「十六市」として十月の十六日に近い日曜日に、門前から津島神社の境内に掛けてイベントや出店、フリーマーケットなどが執り行われて居ます。


本誓寺

草創は鎌倉後期で、はじめ本覚寺といったが、平野氏によって復興されたのを機に本誓寺と改めたとされる。

明治に成る直前に石高1万500石で大名に列し、最後の最後に格式を保ったそうです。

創建以後、何度も火災にあい、特に1888年にはすべての堂宇が火事で焼けてしまったが、復興なって、1999年に現在の耐火建築の本堂が落成、現在の本堂は昭和58年に再建(鉄筋コンクリート造り)となった。

本尊は阿弥陀三尊像。中尊は快慶様を受け継ぐすぐれたできばえで、鎌倉時代後期のものと推定され、前身の本覚寺時代からの像である可能性がある。

更に、このお寺でもっとも古い仏像、十一面観音像は、本堂の下の階の広間に安置されているが、平安中期ごろの作で、もと楽田寺に有ったと伝えられています。

樂田寺もこの地の古刹で、幾度か宗旨を変えその都度本尊を変えた際に本誓寺が預かった物との事です。

十一面観音立像は、クスノキの一木造で、内ぐりを施す。

面部には一部乾漆を用いて整えられているという。

後補部分が多く、両手、足先、頭上面、垂下する天衣(てんね)などの特徴を持ち良く整った小顔、仏像ファンには堪らない逸品。

境内の墓地の東の壁際(門際)に平野家二代・九代領主の霊廟「広徳院廟」・「本覚院廟」が並んで建てられている。

屋根で覆われた霊廟は奈良県には三棟しか無く、その一つは平端駅近くの筒井順慶の霊廟。

後の二つがこの本誓寺の霊廟に成ります。

お寺には、往時住職が使ったとされる籠も残されており、中々大名にも成らなかった平野家の菩提寺では有りますが、この地域がいかに富をもたらし、格式を保ったかが偲ばれます。

田原本の街並み-1、「陣屋跡」 奈良、田原本町

2017-09-27 13:03:01 | 地域
田原本の街並み-1

田原本は藩主平野家の陣屋がり、当初教行寺の寺内町として整備され、その後平野家陣屋町、浄照寺 本誓寺の門前町として発展した。
今、その陣屋跡には役場がある。

面影を求めるなら近くを流れる寺川、町役場の南土手が かろうじて陣屋地形を想像できる。

寺川自体が外堀の役目をになっていたであろう川である。

古い町並みの中に、縦横にはしる街路が城下町の雰囲気を感じさせ、堀の残骸として水路が所々に残る。

陣屋の遺構は見るべき物もないが、平野家菩提寺本誓寺に、平野家霊廟がある。

浄照寺の門は伏見桃山城の移築門。

高麗門のせいか、豪快な感じがない。町の中を歩いていると、小さな城下町にしては、栄えた昔を偲ばせてくれる建屋が多い。平野家は賤ケ岳七本槍の一人で、維新時に交代寄合旗本5千石から1万1石に修正申告し、諸侯に列す。
 

田原本本陣跡(現地説明板より)

平野藩五千石の陣屋跡である。文禄四年(西暦1595年)平野権平長泰が豊臣秀吉より賤ヶ岳七本槍の軍功として田原本村を含めた大和十市郡内七ヶ村を拝領し、大名並みに遇せられ、以来十代二百八十年間政治をしいた。寛永五年(西暦1628年)二代長勝が入封後、それまで寺内町を支配した教行寺を退去させて、新たに本願寺派の円城寺(現浄照寺)を建立し、町の東、寺川沿いに陣屋を構築して城下町を形成した。早くから大和川、寺川を利用した水運がひらけ、船による大阪との交流物資の集散地として問屋が発達し、「大和の大阪」とも云われた。

文禄4年(1595) 賤ケ岳の七本槍(加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元)で名を馳せた平野権平長泰が十市郡の田原本村をはじめ11課村を拝領(田原本村、薬王寺村、保津村、十六面村、竹田村、竹田南方村(現・西竹田)、佐味村、満田村、秦楽寺村、九品寺村、飯高村(郡山藩と分割))。

平野長泰は、慶長7年(1602)佐味田に在った大寺、教行寺を田原本に移転、寺内町の建設を許可、教行寺を中心とした三町四方の諸役を免除、廻りには土塁や堀を巡らせ、入り口には黒門を構えて寺内町を形成。

ところが、平野長泰から家督を継いだ長勝が、寛永12年(1635)から田原本陣屋を構築し、領主権をめぐり教行寺と対立、正保4年(1647)に教行寺は田原本を去って広陵町に移転。

教行寺の跡地に建設されたのが、本誓寺と浄照寺だ。

この時、移転に際し教法聴聞の集会道場を黒田村に設けたのが「黒田教行寺」として残っている。

「保津、保津鏡作伊多神社」 奈良、田原本

2017-09-21 21:51:22 | 地域
保津.鏡作伊多神社 田原本町大字保津

富本から東、田原本旧町との間、、宮古の南、薬王寺との間に教科書にも引用された環濠集落の形を良く残す「保津」の集落が有ります。

総戸数七十戸、環濠集落内では三十戸余りの小さな集落ですが、ここも黒田と並び可也古い歴史を有します。

保津環濠集落の南端に社叢を見せる鏡作伊多神社ですが、もとは現在地より東約300m、2‐3世紀の保津宮古遺跡の東の端「伊多敷」の地名の残る場所に在ったとされます。

集落自体も時代とともに北西に移動し、中世に現在地に至った様です、おそらくは防衛城郭構築のためと思われます。

室町時代から戦国時代には箸尾城主箸尾氏の勢力下にあり、環濠を在地豪族の城砦として利用されていたと考えられています。

保津の環濠集落も以前は教科書に載るほど綺麗に残って居ましたが、近年 道路整備が進み、今は集落の南と西の半分だけに成ってしまいました。

保津環濠は、大和平野に数多く点在する環濠集落の代表的は遺構例で、現在東側の濠が暗渠となっているが、周囲に廻らされた環濠遺構がよく残っている遺跡です。

入り組んだ集落の南に突き出た形で鏡作伊多神社の社叢がこんもりと佇んでいます。

宮古の南方に有る鏡作り伊多神社とは道路を挟んですぐ隣ですが、ここも同じ鏡作り伊多神社に成ります。

社叢を東へ回り込む形で集落の中央へ入り込む道の入り口、遥拝所の碑が有る民家と民家の間が神社への入り口になります。

細い路地の突き当り南側に石の鳥居が建ち、境内が広がります。

北側の街道沿いに二重の濠を設け、環濠内への虎口は南側に開かれ、この虎口を守るように延喜式内社の鏡作伊多神社が南西部に張り出した曲輪の如く配置鎮座しています。

この近辺の神社は、特に平日は何処へ行っても閑散としていますが、人の手の入って、綺麗に整備清掃され清々しい気持ちに成ります。

西向きの拝殿の後ろにこじんまりとした社殿が二つ並んで立っています。

社伝に「左座麻気神者天糠戸ノ命、大山祇之子也、此ノ神鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、
右座伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」
鏡作り神社に共通する神様ですが、本殿に祀られているのは、左は天糠戸ノ命、右はその子石凝姥ノ命の親子と言う事に成ります。

『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、伊斯計理度売命に鏡を作らせたと有ります。

『日本書紀』では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛を作らせたとあります。

また別の書では鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を作らしめとあり、 さらに別の書には、鏡作の遠祖・天抜戸の子・石凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖親子であることがわかります。

ただ、摩毛も伊多も同じ神様を祀って居て区別がつかないのも事実です。

八尾の鏡作り神社(鏡作坐天照御魂神社)を中心に、鋳造や鋳型、細工や研磨に携わった人達の住居や作業場が有った物と考えられて居ます。

伊多は鉄工の意味から、おそらくは鋳型や鋳造技術の人達の仕事場や居住地域であったのだろうと考えられます。

弥生時代の遺跡、遺構も数々発見されて居る事から見ても、当然、卑弥呼の時代から存在したのでしょう。



「宮古.鏡作伊多神社.石見鏡作神社」 奈良、田原本

2017-09-20 22:04:04 | 地域
宮古 鏡作伊多神社  式内社 田原本町大字宮古字補屋60

保津鏡作伊多神社の北200m、宮古の集落の南端、宮古池の畔に社叢を広げ、社殿は西向き、鳥居のある境内入り口は北向きに成って居ます。

式内社・鏡作伊多神社の論社の一つで、古来、穂屋明神と称されていたそうです。

横の大きな溜池の地番に「伊多の坪」という小字が有り、式内社の鏡作伊多神社となったようだ(溜池拡張のため、神社の境内が異動)。

保津か、宮古か、あるいは両方かとの論議が有ったようですが結論は出ていません(両方の可能性が高い)。

しかし、保津の東に伊多敷の地名、宮古の神社の横に伊多の坪の地名が有り、鏡作坐天照御魂神社の他に鏡作三社の意味が、鏡作坐天照御魂神社を含むか含まないかでも変わって来ます。

さらに、両鏡作伊多神社が在ったと思われる「伊多敷」と「伊多の坪」は、同じ「保津宮古遺跡」の中で「遺構の東端と西端」に位置し、同じ環濠集落の中で分業していたとも考えられます。

付け加えるなら、当社の東、池の反対側に「都の杜」という地名が残り、保津宮古遺跡の中央部に当たります。

宮古鏡作伊多神社を取り巻くように巡る道路の北側に神社への入り口が有ります。

南を向いて、鳥居を潜ると、少し広い境内の向こうに拝殿と本殿が綺麗に並んで見えます。

本殿は少し高く盛り上げた高みに建っています。祭神は石凝姥ノ命。

この地より北1.3kの所に「孝霊天皇黒田廬戸宮」比定地が有ることも付け加えておきます。



追記.石見鏡作神社

三宅町石見にも鏡作神社が有ります。

祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。

石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」として案内されています。

集落の北の端、環濠集落でいえば北東の角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。

白髭神社の横の参道が石見鏡作神社の入り口です。

参道の少し奥まったところに石の鳥居が有り、正面に拝殿その奥に三つ並んだ本殿が有ります。

入口で、可成り年季の入った角の有るユニークな狛犬が出迎えてくれますが、おそらく塑像でしょう、風雪で崩れかけていました。

この石見鏡作神社を、全鏡作り神社の原型とする方もおられましたが、年代に大きな差が生まれてしまいます。

この地より南、岩見遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初め
この一帯が湿地帯からようやく顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。

一方主祭神の石凝姥命は天孫降臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くとも3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀半ば

保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。

薬王寺、十六面遺跡も3-4世紀~。

一方で石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、この一帯には、石見をはじめ、但馬三河の地名が今も残ることから、
崇仁天皇以降、湿地帯から顔を出したこの一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられます。
但馬守りが後の三宅連の祖とされます。

奥に並んだ社殿ですが、元は茅葺の八尾鏡作神社同様の三社一棟の作りでしたが、老朽の為、一棟づつに建て替えられてしまいました。

主祭神は石凝姥命とされますが、他の2神ははっきりとは記されておらず、他の鏡作や記録から天照皇大神、 天児屋根命であろうと考えられます。