朝、ストレッチをしていて背中に変な違和感を覚える。全体的に体がだるかった。今までの無理が来たのかもしれない。体の疲れをとる為に、整体の先生のところへ行く。
「おはようございます。今日は、どうしました?」
「背中が張って、全体的に体が重いというか、疲れが溜まってるって感じです。」
「じゃー、早速、寝て下さい。ちょっと見てみますね。うーん、背骨がちょっとズレてますね。ここをこうして…。あー、はいはい…。ここの三番目の骨が右に少し倒れてますよ。よっと…。これで良しと…。あとは治療用の本来の中周波を流しておきますか。」
心地良い状況の中で、自然と眠りにおちいる。気付くと、体がとても軽くなっていた。その場でジャンプしてみる。まるで背中に翼が生えたかのように、頭が天上にくっつきそうだ。何度か強めにジャンプすると、蛍光灯のところに、髪の毛が当たる。
「すごいジャンプ力ですねー。」
先生も目を丸くしてビックリしていた。これも先生の整体の技術のおかげだ。体が本当に軽い…。コンディションが、かなりいいのを感じる。万全の体勢で、プロテストに望む事が出来そうだ。
「先生の整体技って、本当にすごいですよ。指で触るだけでこの場所の骨がずれてるとか分かるんですよね?」
「まー、それが私の仕事ですからね。それを直すのが。」
「へー…、たいしたもんです。」
先生が、俺の肩口と右腕をとりながら、話しだす。
「例えば、今、私がこう押さえてますよね。これをこうしてこうすると…。ここのコリが取れるんですよ。他にも様々な方法がありましてね。神威さんにも良かったら伝授しますよ。」
色々説明を受けていて思ったのが、相手の体を壊す事と、直す事は表裏一体で、物凄く近いものなのかもしれないということだ。人間の体の仕組みを知る上で理屈は同じはず…。先生のお言葉に甘えて、暇があったら少しずつ学ばせてもらおう。
「先生、具合も良くなってきたし、また、電気流しましょう。」
「今日は中周波流すの、程々にしますよ。プロテスト近いんですし…。」
それでも無理を聞いてもらい、いつもと変わらない数値で、中周波を流してもらった。相変わらず凄い衝撃だ。俺は先生にお礼をいい整体を出る。
家に帰ると、電話が鳴っていた。誰もいないみたいなので、受話器を取る。
「もしもし、神威ですけど。」
「りゅ、龍ちゃん…。」
一発で清美の声と分かった。胸が何ともいえない苦しさに、覆い被せられる。
「どちら様でしょうか?」
分かっていながら、ワザと尋ねてみた。何を話したらいいか、分からなかったのだ。
「私だよ。清美。あのさ、今日、時間作れないかなー?」
「何だよ、いきなりよー…。一体、何の用なんだ。俺は忙しいんだ。」
心臓はドキドキ音を立てている。そんな音まで清美に聞こえるはずなど絶対にないのに変に誤魔化す為、つい、虚勢を張ってしまう。
「相変わらず酷い言い方だなー、まったくー…。用もないのに龍ちゃんを呼び出しちゃいけないの?ちっちゃい頃から仲良くやってきたのに、最近の龍ちゃんて冷、たくなったんじゃない?いつからそんなになっちゃったんだろ…。」
清美のマシンガントークは、俺につけ入る隙を与えてくれない。口論じゃ百パーセント負けるのは分かっていた。
「分かったよ、俺の言い方が悪かったよ。時間作るからそんなに怒るなよ。」
「初めからそう言えばいいのに、本当、男って変に格好つけんだから…。」
「分かったって…。何時ぐらいに、時間作ればいいんだよ?」
「うーん…、三時ぐらいでどうかな?」
時計を見ると、二時半を回っていた。
「おまえ、それは急過ぎるだろ。そりゃー確かに今日の予定は何もないけどさー…」
「もー、男の癖にいちいち細かいなー。女じゃないんだから準備にそんな時間かからないでしょー?」
勝手な言い分をする奴だ。そりゃー女と違って化粧したりする訳じゃないから、そんなに時間掛からないけど…。すっかり清美のペースになっている。こんなんじゃいけない。だから最近の男は、女にだらしなくなったって言われるんだ。
「おまえの都合ばっか、押しつけんじゃねーよ。確かに男だから女ほど準備に時間掛からないけどな、俺は乙女座だから、普通の奴よりはナイーブに出来てんだよ。」
「バッカじゃないの?何がナイーブな乙女座よ。とりあえず電話で話しててもしょうがないから、私、今からそっち向かうから。すぐに準備しといてよね。」
「おいっ。おまえ…。」
ガチャッ。プープー…。勝手に電話しておいて、勝手に切りやがった。この間、俺の腕の中で大人しく抱かれ、可愛げのあったあいつは、一体、どこへ行ったのやら…。
あのノリで家に来られても困るので、とっとと着替えを済まし家の外で清美を待つ事にする。冷静になって考えてみると、あいつは何の用件があるのだろうか…。あの電話の様子だと告白するって感じでもないし…。
「おう、兄貴。家の外で何やってんの?」
声の方を振り返ると弟が立っていた。家に帰る途中、俺を見つけて話し掛けたといったとこだろう。清美がもうじきここへ来るっていうのを考えると、出来れば弟には恥ずかしので見られたくなかった。
「ちょっと腹減って、飯でも喰いに行こうかと思ってね。どこ行こうか迷ってたんだ。」
「ふーん、もうじきプロテストでしょ?あんまり喰い過ぎは良くないよ。」
「そのぐらい、俺が一番分かってるよ。じゃーな。」
その場を立ち去ろうとすると、遠くからデカイ声が聞こえてくる。
「龍ちゃーん。」
ゲッ、清美だ…。弟も一緒にいる時にあの野郎、いや女だからこういう場合なんて言ったらいいのやら…。弟はいやらしい顔つきで俺を見ている。
「何だよ、そういう事か。ま、頑張ってよ。じゃーね。」
「何、言ってんだ、テメー。勘違いすんじゃねー。おい…。」
弟は一瞬ニヤリと笑うとドアを開けて、家の中へと消えて行った。あのクソガキ…、あとで絶対に苛めてやる…。入れ替わりに、清美が俺に近付いてくる。
「龍ちゃん。偉い偉い。すでに外で待ってたんだね。」
「うるせー。」
「何、不機嫌になってるのよ。駅の近くに結構お洒落なジャズバーが出来たの。そこ行ってみようよ。いいでしょ?」
こいつは俺が明後日にはプロテストがあるって知っていて、嫌がらせをしているのだろうか…。
考えてみれば、俺が勝手に気まずく思っているだけかもしれない。大和の事務所に行った日以来、清美に連絡してなかったので、こいつが何を考えているか分からない。幼馴染とはいえ、今では立派な一人の綺麗な女になっている。男として意識しない方がおかしい。
「ああ、分かったよ。」
「よし、レッツゴー。」
清美は俺の右腕に、自分の左腕を絡ませてくる。右肘が清美の胸に軽く触れて、柔らかい感触が伝わってきた。
「何、してんだ、おまえは?こんな近所で…。」
「何、照れてるのよ。龍ちゃんて、本当にウブだよねー。」
一瞬にして血液が沸騰する。鏡を見たら俺の顔は、きっと真っ赤になっているだろう。清美は意地悪そうにぺロッと舌を出して、俺をからかっている。
「離れろ。」
「龍ちゃん可愛い。」
「は・な・れ・ろ。」
「面白いから、い・や・だ。」
三十メートル程、向こうから見覚えのある顔が…、石井だ…。こっちを見てニヤリとしている。嫌なタイミングで現れるものだ。俺は力尽くで、清美の腕をふりほどく。
「よう、神威が大和プロレスに入団しようと頑張ってるって、みんなに言ったら、びっくりしてたぜ。今度、祝賀会やろうって。」
「プロテストが無事受かったらな。ありがとよ、石井。」
「へー、龍ちゃん、また一歩前進だね。もう、そんな風になってたんだ。」
清美が口を挟んでくる。俺と清美を交互に見ながら、石井が変に気を使いだす。
「ふーん、神威と斉藤がねー…。邪魔しちゃ悪いから、またな。」
「おいおい、違うって…。こいつとは、そんなんじゃないんだ。」
「そういう事にしとくよ。じゃーな。」
「おい、石井…。」
石井は、ニヤニヤ嫌な笑みを浮かべながら、さり気なくその場から消えてった。石井が視界から消えると、俺は清美を睨みつける。
「うわー、目つき悪ーい。」
清美はワザとらしく大袈裟なリアクションをとりだす。通行人の何人かの視線が俺たちに集中するのを感じる。確かに清美の仕草は可愛いのを認めるが、実際の当事者としてはムカつだけだ。
「うわーじゃねーよ。だから離れろって、言ったじゃねーかよ。」
「テヘ。」
「テヘじゃねーよ。」
「もー、そんな怒ってばっかいないで、早くジャズバーに行こうよ。」
あとで石井の誤解をとかないといけない。完全に清美のペースになっている。
いつもは一人で歩く道。それが今は清美が、横でピッタリとくっついている。これ以上、知り合いに会いたくない。必死にそう願った。数十メートル先に、さざん子ラーメンが見えてくる。
さざん子ラーメンの前を通り過ぎると、マスターがガラス越し、俺に、気付いたような気がした。俺はあえて気付かないフリをする。
「龍ちゃんさー、あのラーメン屋のおじさんって知り合いなの?」
「なんで?」
「さっき私たちが、あそこ通ったら、あのおじさんがこっち向いてニコッてしてたから…。龍ちゃんの知ってる人なのかなと思って。」
「ああ、最近よく行くな。あそこのガーリック丼は絶品だ。それよりジャズバーは、まだ遠いのか?」
「もうすぐそこだよ。道路渡って、あのビルの二階。」
さざん子ラーメンのこんな近くに、ジャズバーがあったとはちょっと驚きだった。
「ここの階段を上がって行くの。この間、さおりと一緒に来たんだ。」
さおりの名前を聞き、ドキッとする。そういえばふられて以来、彼女とは会ってない。下手に彼女を事を聞いても仕方ないので、あえて突っ込まなかった。
黙って清美のあとについて階段を上がることにした。
二階へ着くと、ワザと古ぼけた感じの黒いドアがある。中は薄暗い明かりで感じがいいバーだった。ノンヴォーカルのジャズが静かに聴こえてくる。
「いらっしゃいませ。」
ドアを開けた正面越しにカウンターがあり、その奥で、短髪の口髭を生やした丸い顔のマスターが挨拶をしてくる。年齢的に三十後半といったところだろう。後ろの棚には色々な種類のアルコールが置いてあった。
「この間はどーも。私の連れもすごく喜んでましたよ。マスター、今日はカウンターじゃなくて、あっちのテーブル使ってもいいですか?」
「ええ、全然構わないですよ。」
このような場所は初めてなので、ソワソワした。丁度いい音量のジャズが、落ち着きを持たせてくれる。席に着いて座ったソファーはフワフワだった。
店の奥の方はピアノにドラム、とても大きなスピーカーがある。ちょっとした小さなステージになっており、いつでも生演奏出来そうな感じだ。
まだ早い時間帯のせいか、客は俺と清美の二人だけだった。
「龍ちゃん、ここのコーヒーとっても美味しいんだよ。マスターがコーヒー豆を一粒ずつ厳選して選んでから、豆を炒めてるみたいなんだ。すごいよね。」
「ふーん、そんなに凝ってるんだ。ぜひ、飲んでみたいね。俺は、アイスコーヒーがいいけどな。」
「うん、きっと旨い…、とか龍ちゃんは言うよ。えーと、私はお酒、飲ーもおっと。」
「何だよ、人にコーヒー勧めといて、自分は酒かよ。」
「エヘヘ…。」
清美は無邪気な笑顔を見せる。多分、今いる場所がバーでなく、二人だけしかいない空間なら思わず抱き締めてしまうくらい可愛かった。清美はマスターを呼び、
「すいません、アイスコーヒーとルシアン下さい。」
「はい、かしこまりました。」
「何だ、ルシアンって?」
「カクテルよ。結構、アルコール度数あるんだから。」
「へー、そうなんだ。」
「プロレスのほうはどうなの?」
清美は急にズバッと話を変えてくる。こいつの話し相手になる奴は大変だ。
「明後日にプロテストだ。戸田スポーツセンターでな。」
「何だかすごいね。体も精神力もどんどん成長してるもんね。昔と、全然、違ってる。」
「当たり前だ。俺はそれぐらいしか、今、すがるものがないからな。」
「すがる?」
「ああ、ベッタリとプロレスに、すがって生きている。レスラーになれる保障なんて何もありゃーしないのにな…。我ながら、馬鹿な生き方だと思うよ。」
「お待たせしました。」
マスターがコーヒーとカクテルを運んでくる。静かにテーブルの上に置いて、その場を去るまで、話は自然と中断していた。清美はカクテルグラスを片手に持って、一気にグラスを空ける。
「おいおい…、そんな飲み方をして大丈夫かよ。」
「心配してくれてるの?」
「そんなんじゃない。もうちょっと、女らしく…。うーん、何て言ったらいいのかな…。とにかくそういう飲みかたは良くない。」
「今日は、まだまだ飲むんだもんね。」
「酔いつぶれて、どうなってもしらないぞ。」
「あー、龍ちゃん、ひょっとしてエッチな事、考えてるでしょ?」
「そ、そんな訳ねーだろ。」
「それはどうーかな…。龍ちゃんてムッツリ入ってるしなー。小さい時からいつもそう。結構、他の女の子から人気あるのに、気付かないふりするんだよね、龍ちゃんは。」
清美は一杯カクテルを飲んだだけで、顔がほのかに赤くなり、結構酔っ払っている。
「何、ジッと人の顔、見てんのよ。お連れのレディのお酒がないんだから、何か飲むかぐらい、聞いたらどうなのよ?」
「な、何か飲むかよ。」
「もー、先に言われてからじゃ遅いのよ。まあ、しょうがないわ、さっさとモスコミュール、頼んでよ。」
「なんなんだ、チキショウ。分かったよ、大人しく待ってろ。」
昔からそうだが、ワガママぶりに拍車が掛かっていやがる。言い合いじゃ、どっちにしても負けるので、素直にマスターの所へ注文に行くことにした。
「すいません、モスコミュール二つお願いします。」
「はい、かしこまりました。」
ついでに俺の分も注文してくる。明後日にプロテストだから軽く酒を飲むくらい問題ないだろう。席に戻ると、清美は待っていましたとばかり語りかけてくる。
「さおりの件なんだけどさ…。この間、ここに来た時にね…」
胸が高鳴る…。動揺しているのを清美に悟られたくないので、必死に感情を押し殺して冷静なフリをした。
「ちょっと聞いてるの?」
「ああ、それでどうしたんだよ。」
「さおりと一緒に飲んだのよ。それでさおりがね、龍ちゃんの事を色々私に聞いてくるわけよ。」
「何でまた?」
「たまたま、龍ちゃんが走っているところ見て、キュンなったみたいよ。」
さおりが俺の事を…。あの時、ふられて気持ちの整理がついているはずなのに、名前を聞いただけで動揺している。俺は、まだ未練があるのだろうか。
「今、どうしてんのとか、彼女は出来たのとかね。」
「女なんて、いる訳ないだろう。」
「そんなムキになって、強く言わなくてもいいじゃない。それで私もついこの間、龍ちゃんとバッタリ会うまで何も知らなかったから、何も分からないって言ったの。」
「何も話さなかったのか?」
「この間、変なのに絡まれたのを助けてもらった事ぐらいしか話してないわ。今でも気になってるんでしょ?さおりの事…。」
清美はあの日、俺が抱き締めてしまった事をさおりには、話していないみたいだ。
「そりゃ、気になってないと言ったらウソになる。でも一度、ふられた相手だしな…。」
カウンターからマスターが出てくる。俺も清美も必然的に会話を止める。テーブルに、二つのモスコミュールが置かれる。俺はグラスを取って、一口飲んでみる。
「うまいな、これ…。」
「おいしーでしょ。」
「どういうカクテルなんだ?」
「ウォッカベースのカクテルでね、ライムと、あとはジンジャーエールを混ぜた物なの。なかなかいけるでしょ?」
「メチャメチャ気に入った。こんなうまい酒があるなんて、今まで知らなかった。」
清美は満足そうに笑っている。俺はもう一杯、同じ物を頼むことにした。追加したモスコミュールが運ばれてくるまで、俺たちは無言で酒を飲んだ。ちょっと酔いが回ってくるのを感じる。口当たりの良さとは別に、アルコール度数が強いのかもしれない。
「さおりにはさすがに言えなかったわ。」
「何を?」
「龍ちゃんに、いきなり抱き締められたこと…。」
俺はカクテルを吹き出してしまった。清美はハンカチを渡してくれる。
「あの子、最初から龍ちゃんの事を密かにいいなって思ってたのよ。そこへ龍ちゃんも私に、協力してくれないかって言うから、バッチリうまくいくって思ってたんだよ。でも、あの時の龍ちゃん、さおりの前で固まって、何も話せなかったでしょ?さおりはハッキリと言って欲しかったみたいでね。」
清美の話を聞いていて、自分がどれだけ情けないかを自覚する。それなのに俺は清美をあの雰囲気でとはいえ、つい、抱き締めてしまった。なんて俺はいい加減な男なんだ…。
「清美、ごめんな…。」
「さおりの事、どう思っているの?」
一番、困る質問だった。好きか嫌いかと聞かれれば、好きだし…。でも、俺はこれからプロテストがある。これをクリアしても、プロレスの厳しい世界が待っている。正直、今の俺に、色恋沙汰は必要がない。
「好きだし、今も気になってるよ。そりゃ、彼女とかいたら、毎日が楽しいだろうしね。でも、俺はやらなきゃいけない事がある。俺は清美も知っている通り、体だって細いし、あの世界で生きるにはハンデがあり過ぎる。だからまだまだだけど、ここまで必死に体を大きくしたんだ。それでもまだ、全然足りないんだ。もし、さおりちゃんと色々なところへ行ったり出来たら俺、絶対に幸せだと思うよ。でも、そんなんじゃレスラーにはなれないんだ。そこまで余裕ないんだ…。サラリーマンやってた時とは違うんだ…。」
「龍ちゃん…。」
「あ、もちろん清美とこうやって話しているんだって、、とても楽しい。出来たらたまにはこうやって一緒に飲んだりする時間を作りたいよ。でもそうすることで俺は弱くなっていく感じがする。」
「それは考え過ぎよー。」
「言い方が悪かったよ。感じがするじゃなくて、俺は確実に弱くなっていく。」
清美は無言のまま、悲しそうな表情で俺を見つめている。
「例えばね、今、こうしている間に腕立てが二百回は出来る。それをしないで俺は、今、こうしている。さっき、また清美と飲みたいって俺は言った。ただ、強くなりたいって考えていた頃よりも、精神が別の方にも向いている。強くなりたいなら、なるべく楽しい事なんか知らない方がいいんだよ。鍛えるって本当に辛いし、何度も正直、投げ出したくなるんだ。何で俺こんな事、やってんだろってね…。その時にやっぱり楽しい事の方に行けるんだったらって、いつも思うよ。前におまえを抱き締めちゃった事あるよな…。」
「うん…。」
清美は恥ずかしそうに静かに頷く。
「女って、何て柔らかくて気持ちいいんだろって思ったよ。トレーニングしてる時だって何度、そう思ったことか…。でも、それで快楽を優先させてたら、俺なんかプロレスラーになれっこないんだよ。絶対になるって決めたし、あとに引けないんだ…。だから今だけでも自分のやりたいように、納得のいくように頑張りたいんだ。」
「龍ちゃん、すっかり男の顔になってる。昔から見てきたから私、よく分かるんだ。でも本当に馬鹿だよ。さおりみたいな綺麗な子が、気に掛けていんのにね。」
「自分でもそう思うよ…。言っといてやれよ。」
「何を?」
「年中ゲロばっかり吐いてる奴なんか、辞めときなって。」
「ゲロを吐いている?誰が?一体、何の事?」
「俺に決まってんだろ。これでも無理して飯をガンガン喰ってるんだ。だからトレーニング中に、吐く事なんかしょっちゅうだよ。」
清美は俺の右腕を触ってくる。
「こんな傷だらけになっちゃってさー。本当、馬鹿みたい…。こうまでしないと、なれないものなの…、プロレスラーに?」
「こうまでしても、なれないかもしれない…。自分でもさっきから言ってるだろ、俺は大馬鹿だって。だからやってみないと分からないんだ。」
「さおりがっていうより、龍ちゃんは誰も受け入れないんだね。」
寂しげに清美は微笑む。俺の右腕を触る清美の手に、力が入るのを感じる。俺は、どう答えたらいいか分からず、黙ってしまう。
「私からさおりにうまく言っておくね。二人の女の気持ちを袖にしてまで、やるんだからキッチリ頑張んなさいよね。」
「え…、二人?」
「うるさい。そんな事いちいち気にしないでいいの。」
寂しそうに清美は笑って言った。
プロテスト前日、俺は高校時代の担任の先生の家へ招かれる。
先生の家に行くと、奥さんは手料理をたくさん作って準備してくれていた。先生はまだ赤ちゃんの由香利ちゃんを一生懸命あやしている。とても暖かいアットホームな空気が、部屋の中に充満していた。
「ちゃんとトレーニングやってるか?」
「もちろんですよ。じゃなきゃー、でかい口、叩けません。」
「そうかそうか…。今日は、いっぱい喰ってけよな。」
「いつも本当にすみません。気を遣っていただいて…。」
「いいから遠慮しないで、喰えって。」
「はい、いただきます。」
奥さんが仕度を終えて、全員がテーブルに座る。
すき焼きにコロッケ。春巻きにシーザーサラダ。茄子のグラタンとミートソースのスパゲティ。肉じゃがにひじきの煮物。きゅうりと白菜の漬物にワカメと豆腐の味噌汁。ザッと見ただけで相当な品数だ。大変手間暇をかけて、作ってくれたのが分かる。
「うちの人が神威さんはいっぱい食べるから、これでもかってぐらい作れって、昨日からうるさかったのよ。だから遠慮しないで、たくさん召しあがってね。」
「本当にすみません。ありがとうございます。」
先生の奥さんの手料理は、めちゃめちゃうまかった。奥さんは由香利ちゃんに、ご飯を食べさせていた。先生もこういう空気に包まれながら生活しているのだから、幸せいっぱいだろう。結局、ご飯を五杯お代わりして、すべて料理を平らげた。
「ご馳走様でした。とてもおいしかったです。」
先生も奥さんも、俺の食べっぷりにびっくりしている。まさか全部食べきるとは、思わなかったのだろう。いい意味で期待を裏切り、人の驚いた表情を見るのは面白いものだ。
「前に来た時よりも、体、でかくなったと思ったけど、確かにそれだけ食べれば大きくなるよな。」
「このでかくなった体の中に、先生の奥さんの手料理も、ちゃんと栄養吸収して肥やしになってますよ。あ、由香利ちゃん、抱っこしてもいいですか?」
「力任せに頭を撫でるなよ。赤ちゃんなんだから、ソッとだぞ。」
先生は心配そうに由香利ちゃんを俺の腕に抱かせてくれた。由香利ちゃんは、あどけない表情で俺を不思議そうに見つめている。
「本当に子供って、無邪気で可愛いですよねー。俺、子供、大好きなんです。」
「神威さんは、いい父親になりそうですね。子供を見てる時、いい表情してますよ。」
「こいつの性根は優しく出来てるんだよ。高校最後の時だって、机に突っ伏して、泣…」
「もう先生、その話はいい加減、勘弁して下さいよ。とっくに時効ですって。」
先生には一生頭が上がらない。俺も先生みたいな家庭をいつか築けたらいいと思う。
「うわーん…。」
俺の腕に抱かれた由香利ちゃんが、いきなり泣き出した。俺が何をしても泣き止む気配がない。何かしてしまったのだろうか。
「由香利ちゃーん。ベロベロバー。あれ?由香利ちゃーん…。」
奥さんに由香利ちゃんをバトンタッチすると、一気に泣き止んでしまった。こんなに小さな子でも、ちゃんと親の区別が分かっているんだ。この子が物心つくぐらいには有名になっていたい。もちろん、プロレスラーとして…。
「時間出来たら、いつでも来いよ。」
「はい、いつもすみません、先生。」
明日は念願のプロテストだ。
今まで何人の人に宣言したんだろう。
絶対に恥をかくわけにいかない。体がどうなっても、俺は絶対に挫けない。恥をかくぐらいなら死んだ方がマシだ。
家に着いてから、軽くストレッチをする。風呂に入り、鏡の前に立って自分の体を見る。前と違って、随分、筋肉がついたものだ。首も太くなり、肩から腕にかける筋肉は、自分で見てもうっとり出来るくらいの筋肉美を形成していた。
明日…、すべては明日のプロテストで決まる。
レスラーになると決めて頑張ってきたが、とても長かった。中傷を散々受けてきたが、やっていく内に逆に励まされ支えられてきた。もう自分一人の信念じゃなく、色々な人の思いも背負っている。
体重計に乗ると七十八キロになっていた。明日に備え、今日は、もう休もう…。
夢を見た。気付くと清美が俺の右腕に、しがみつくような感じで寝ていた。
スースー静かな寝息を立てて、気持ち良さそうに寝ている。俺は清美の頭をソッと撫でてやる。清美のいい匂いが俺の鼻を刺激する。宝物を扱うようにゆっくり抱き寄せ、体を密着させる。
体を清美の方に向けるが、背中を誰かに叩かれる。振り返ると、さおりが寝転がりながら俺を見ていた。俺は慌てて清美から離れる。
さおりは俺の顔をジッと見るだけで何も話し掛けてくれない。どのくらい黙って見つめ合っていたのだろう。
さおりは静かに目を閉じた。微かにあごを上に動かす。さおりの姿はとても綺麗で妖精のような爽やかさを思わせる。徐々に俺は、さおりの唇を見ながら、顔を近付けた。もうあと一センチほど近付ければ、さおりの唇に俺の唇がくっつきそうだ。さおりは変わらずに目を閉じたままだ。
このままキスしてしまっていいのだろうか…。
「おーい…。」
誰かが遠くで俺を呼んでいる。せっかくいいところなのに…。
「おーい…。」
「なんだよ。」
ガバッと起き上がると、弟が、俺を起こしていた。
「やっと、起きた。」
「何だよ…、夢だったのか…。」
「え、何の話?」
「何でもねーよ…。ところで、今、何時だ?」
「九時過ぎだよ。気持ち良さそうに寝てたけど、そろそろ準備した方がいいかなと思ってね。昼までに、戸田スポーツセンターでしょ?」
完全に体を起こして、部屋を見渡す。軽く伸びをしてから、首を鳴らした。
「ありがとな。プロテスト当日だってのに、危なく寝過ごすところだった。」
「気合い入れてこいよな、兄貴。」
「もちろん、おまえに自慢させてやるよ。」
俺は不敵に笑った。
支度を整え、チェックをする。Tシャツに運動靴。タオルに、トレーニングウェアー。変に構える必要なない。いつも通りやってきた事を出すだけだ。両手で顔を叩いて、気合いを入れる。
外に出ると日差しが良く、十一月の終わりだというのに、ほんのりと暖かかった。天気まで俺の味方をしてくれていると、都合よく思う事にする。
頼れるのは自分のみ…。色々とイメージトレーニングをしながら、戸田スポーツセンターへ着く。
「世界最大タッグトーナメント開催 大和プロレス 」
入り口には派手な垂れ幕が、かかっている。
今日ここでヘラクレス大地や、伊達光利に会えるかもしれない。テレビのブラウン管の中でしか、見た事はなかったが、実際見ると、どのくらいすごいのだろうか。
建物の中へ入ると、まだ試合開始三時間前なので、プロレス関係者ぐらいしか、見当たらない。会場中央で、ゴツイ体格をした人たちがリングを作っていた。リング屋といわれるリングを作る人の事だ。見ているだけで、リングを作るという事が、どれだけ大変な作業か分かる。
辺りを見ると、若い連中がストレッチをしたり、軽く走り込みしたりしている。こいつらも、みんな、テストを受けにきた連中なんだろうか。十名以上はいた。
みんな、運動出来る格好で、俺だけがスーツを着ている。俺は隅に荷物を置いて、トレーニングウェアーに着替えた。
軽く腕や足を振って、簡単に体をほぐす。なかなかコンディションは良さそうだ。
「みんな、来てるな。よーし、集まれー。」
見覚えのあるレスラーが入り口から出てきて、でかい声を出している。
みんな、途中で準備運動をやめて、そのレスラーの方へ集まっていく。よく分からないが、俺も一緒にいく事にする。俺を含めてテストを受ける連中は十三人いた。
「よく来たな。俺は峰だ。一、二…、十三と…。これで全員だな。よし、これから、早速テストを始めるぞ。」
「すいません、テストって具体的に内容は、どのような事をするんですか?」
俺の横にいた奴が、峰に質問をしだす。峰は恐い顔つきになりカミナリを落とす。
「うるせーぞ、おまえ。おまえらの意見なんてなー、いちいち聞いてらんねーんだよ。俺が言った通りの事やりゃーいいんだよ。」
「で、でも、何をやるのか…、グェッ。」
横の奴は話している最中にいきなり峰に殴られて倒れる。目は心なしか潤んでいる。
「おまえ、もう帰れ。いいか、残った奴らよく聞けよ。この世界は完全な縦社会なんだ。上に言われたら、素直にその通りやんだよ。おまえら分かったか?」
「はい。」
みんな揃って、一斉に返事をする。殴られた奴はベソをかきながら、会場から出ていった。早くも一人、脱落だ。俺の体格は他の奴らと比べると、やはり細いほうだった。でもこいつらに負ける訳には絶対にいかない。
「神威っているか?」
いきなり自分の名前を呼ばれ、キョトンとしながら返事をする。峰は俺に近付いてきて、頭の天辺から足のつま先までジロジロ見られる。
「派手に事務所へ、来たらしいじゃねーか。」
「え、あー、へへへ…。」
「胸に力入れろ。」
「は?」
「力入れろ。」
「はい。」
言われた通り、力を入れ、胸の筋肉を凝縮させると、峰の逆水平チョップが飛んでくる。すごい衝撃音と共に体がブレて、あまりの痛さに一瞬、座り込んでしまったが、すぐに立ち上がり、峰の顔をジッと見返す。峰はニヤリしている。
「なかなかいいタマだな。よーし、全員まずは腕立ての姿勢をとれ。」
言われるようにみんな、腕立ての姿勢をその場でとる。
「そっちの右端から順番に十ずつ数えてやっていけよ。回数は、俺がいいと言うまでだ。では、始め。」
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
俺は右から三番目だった。自分が声を出す番が回ってくると、出来る限り声を目一杯、張り上げながら気合い入れる。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
まだまだみんな、元気一杯だ。俺も、全然、余裕がある。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
これぐらいでへばる奴は確かに、こんなところへ来ないだろう。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
十二人いるから一周すれば、腕立て百二十回やっている事になる。三週目に入ると順番に出す掛け声も、トーンが落ちる奴が出てくる。
「一、二…、三、四、五…、ろ、六…、な、七…」
「はい、そこの。とっとと列から消えて帰れ。」
峰は容赦なく切り捨てていく。五百回を越える頃には、俺以外にあと三人しか残っていなかった。何回やるか分からずに、ひたすらやり続けるというのは、思ったよりもずっと精神的にキツイ事だった。人間、目的はあったほうがいい。
「四人残ったのかー。よし、次はスクワットをやるぞ。ほら、そこの。休んでんじゃねえって。さっさとやるぞ。はい、始め。」
俺たち四人は真横に並んで、スクワットを始める。俺が一番右端なので、俺から掛け声を出しながら順番に回していく。自分で考えてやってきたトレーニングは、これよりもっとやってきたという自負がある。これから何を言われても、やり遂げてやる。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
一セット、十回で、最初は十二セット中の一回分だけ掛け声を出せばよかったのに、四人になったから、四セット中に一回は順番が回ってくるようになる。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
いつまでこんな事をするんだろうか…。汗が滝のように吹き出している。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。」
峰が止めと言うまで、回数的に七百回はこなした。ここでの脱落者は一名だけだった。レスラーを目指す為に集まった人間、残りあと三名。
「次は腹筋だー。休んでる暇はねーぞ。さっさと始めろー。」
いつもこなしているはずの回数がきつかった。俺だけじゃなく、他の二人も同じ気持ちだろう。お互いの掛け声を聞いていると何となく分かる。
気力を振り絞り、自分の番がくると、必死に声を絞り出す。上半身を持ち上げて、体を戻すたびに、汗が目に入ってしみる。早くこいつらブッ倒れないかな…、祈るような気持ちで喰らいついていった。
もう順番など気にせず、自分の為に回数を言いながら腹筋をしていた。何回やっているのかも分からなくなっている。もう、そろそろ限界だ…。
「よし…。」
おぼろげに峰の声が聞こえたような気がする。多分、気のせいだ。絶え間なく汗が目に入ってくるので、目を開くことすら出来なくなっていた。がむしゃらに腹筋を繰り返す。肩を誰かにつかまれた。
「もういいぞ。止めろ。」
息をゼイゼイ切らしながら、右手で汗を拭う。ようやく目を開くと、目の前に峰が俺の肩をつかんでいた。横を向くと、残りの二人はダウンしていた。
「ほら、起きろ。」
まだ全然、息が整わない。次は何をするんだろうか…。これ以上は少し休憩を取らないと、もう駄目かもしれない。必死に起き上がり、峰を見ると右手を差し出している。
「ハァ、ハァ…、次は…、ハァ、何をしますか。ハァ、ハァ…。フー。」
峰は俺の右手を強引につかんでくる。まさか、こんな体育館の床でスパーリングでもやるつもりなのだろうか。
「…だ。」
俺は峰の関節を極めにいこうと、ヘロヘロになりながらも組みつく。ここまで来て、やられる訳にはいかない。
「おいっ、何、やってんだ、貴様。合格だって、言ってんだろ。」
「えっ?」
「ご・う・か・く・だ。」
体の中にある空気を一気に吹き出す。途端に俺はその場に崩れ落ちてしまう。今、確かに合格って言われたんだよな…。峰…、いや、峰さんは俺を見て笑っている。
「大場社長に会いたいか?」
「はい?」
「あのチョモランマ大場社長に会いたいかって聞いてんだ。」
世間一般、誰でもその名前と存在を知っているあのチョモランマ大場に、俺はこれから会えるのか…。
「はいっ、お願いします。」
「よし、ついて来い。」
「はいっ。」
峰さんのあとをついていく。信じられないが今、俺は現実の中で行動しているんだ。頭の中で色々考えを巡らせる。どう整理して、プロレスへの気持ちを言えばいいのだろう。