岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

11 打突

2019年07月18日 09時46分00秒 | 打突

 

 

10 打突 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

トレーニングを終えても雨の止む気配はなかった。仕事も休みなので、昼過ぎになって月吉さんの働くゲームセンターへ向かう。入り口のユーホーキャッチャーを通り過ぎて、二...

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 それから俺の時間が過ぎるスピードは、いままでの人生の中で一番早く過ぎ去っていった。
 俺と同じ時期に入った同期が二人いた。初日の日だけ、俺たちをお客さん扱いしてくれたが、次の日になると、同期二人の荷物がなくなっていた。あとで聞くと、こっそり荷物をまとめて、夜逃げをしたらしい…。
ちゃんと合宿所が始まると、毎日がむちゃくちゃだった。トレーニングがきつかったのと、めちゃくちゃ旨いちゃんこ鍋が喰えた事しか覚えていない。
強くなる為の環境だけが、合宿所にはたくさん詰まっていた。中ではヘラクレス大地さんと、峰さんがコーチ役を務め、厳しいトレーニングの中で、俺は徐々に体をでかくしていった。
毎日がクタクタになるまで練習して、ボロボロになるまでスパーリングでやられる。そのあとはちゃんこ鍋などの食事当番や、先輩レスラーの身の回りの世話で、ただ時間だけが早く過ぎていく。
風呂も飯も俺は一番新入りなので、最後に済ますのが当たり前だった。風呂に入る時は、掃除もちゃんとしておかなければならない。湯船に浸かると、最後なのですっかりと冷めたぬるま湯で中は垢だらけだった。
泣き言を言いたくなる時など、いつもだったが、それでも俺は幸せだった。
だから、何があっても必死に喰らいついていけた。
 プロレスの社会の内部は完全なる縦社会だ。リングの上ではガンガンやり合って構わないが、私生活では先輩後輩の上下関係は絶対だった。
ストレスは非常に溜まるが、リングの上では思い切りぶつかっていけるので最高だ。ちょっと時間が空いた時は、常に新しい形の技などイメージトレーニングするように心掛けた。
よく周りから褒められたのが体のバネがいい、瞬発力もある事だった。その特性を活かし、スープレックスや関節技に磨きを掛けた。
ヘラクレス大地さんにも、大変、目を掛けてもらい、色々な技の入り方のコツなどを教わった。自分でもどんどん強くなってのが分かる。
いつの間にか、体重も九十六キロまで上がっていた。それでも合宿所に住む、まだキャリアの浅いレスラーの先輩たちに全然敵わなかった。
夏川さんは化け物のような強さで、スパーリング時には何も出来ずにやられていた。
伊達さんや山田さん、大河さんたちとやったら、本当に月とスッポンだ。
まだ一般人だった頃、喧嘩で負けた事がないのが、ちょっとした自分の誇りだった。ここではそんなもの、屁の役にも立たない。
 大和プロレスのチャンピオンは大河さんが防衛を重ねていた。大河さんはチャンピオンになってからも、毎日のように合宿所に来て、人一倍トレーニングを積んだ。一緒に練習していても、その情熱は伝わってくる。俺は一生懸命、大河さんを見習い努力した。


「おまえさー、何なんだよ。そのTシャツのデザインはよう?」
「いや、別に…。」
 何かにつけて、妙に絡んでくる先輩レスラーがいた。そのレスラーの名は木ノ下邦夫。はっきりいって俺は、この木ノ下という先輩レスラーが大っ嫌いだった。
因縁のつけ方がくだらなかった。ヘラクレス大地さんに可愛がられているのを快く思っていないのであろう。単なる嫉妬にしか見えなかった。
大和プロレスの練習生になって、半年も過ぎた頃。自分の強さに、自信が持てるようになっていた。
先輩の木ノ下は、スパーリングで一度、ギャフンと言わせてやろうと思っていた。
「おい、神威。上がって来いよ。」
 ベンチプレスをしている最中、木ノ下からスパーリングのご指名がかかった。
いいチャンスだ。練習生の俺にやられて赤っ恥をかかせてやろうと思いながら、リングに上がった。この半年で俺はかなり強くなっている。
「おら、かかってこいよ。」
 木ノ下は、俺を相変わらず後輩として舐めていた。軽く見ている証拠だ。俺は、素早く突進する。正面から、木ノ下の両腕ごとクラッチを組んだ。
前々からイメージの中で作られていた技があった。ガッチリと両腕をホールドしたまま、後ろへ反り投げる。木ノ下の体は空中で綺麗に弧を描き、マットに顔面から落ちた。
「テ、テメー…、このクソガキが…。」
 プロレスで相手のバックを取ってクラッチを組み、ブリッチをきかせながら綺麗に弧を描いて投げるジャーマンスープレックスという技がある。
俺は真正面から木ノ下に組み付き、そのままジャーマンの要領で、顔面を叩きつけてやったのだ。受身を取れない体勢で顔面から落ちた木ノ下は、鼻血を出しながら感情を剥き出しにしていた。目を見開いて、俺を睨みつけてくる。懸命に脅しているつもりなんだろう。
 俺はニヤリと口元に笑みを浮かべてやった。もちろんワザとやったのだから…。
「ふざけんじゃねぇー。」
 木ノ下の突進をかい潜り、足を取ってテイクダウンを奪う。
こうなると寝技の攻防になるが、俺は木ノ下の腕を取り、すぐに関節を極める一歩手前まで追い詰める。
俺の体重九十六キロに対して、木ノ下の体重百十九キロ。
お互いの体重が違い過ぎるので、寝技に引きずりこんだのは正解だった。
必死になって防御する木ノ下…、俺はニヤニヤしながら手を離し、解放してやる。
何度か同じように関節を極めては離しての繰り返しで、ワザと木ノ下をコケにしてやった。
チラッと周りを見ると、道場のみんなはそれぞれ個々に、練習に励んでいた。誰もこの異様なスパーリングに気づいていない。もっと、おちょくってやるか…。
その瞬間だった…。
「クソが。」
 体重ごと体を覆い被されて、左腕を捕まれる。上に乗られると、ウエイトの差があり過ぎた。よそ見して、油断してしまう。そこの隙をつかれたのだ。
 右腕は動く。俺は親指を伸ばし、力を込めた。打突を打ち込んでやる…。
「……。」
 すぐに打突を出来る体勢なのに、躊躇ってしまう。俺の左腕を取った木ノ下が、力任せに腕を捻った。
ヤバイと思った時は、すでに遅かった…。
「ミジッ…。」
 何ともいえない嫌な音がして、俺の左腕に激痛が走った。頭の中が真っ白になる。大声で叫びながら、リング上を転げ周った。一瞬だけ、リング上の異常な光景を見ているみんなが視界に入った。
「ざけんじゃねーぞ、オラッ。」
 誰かの怒鳴り声みたいなものが辛うじて聞こえる。頭に何度か打撃をもらい、次第に目の前が真っ暗になっていった…。

 目の前にとても旨そうなステーキが置かれる。一ポンドのステーキ。
分厚い四百グラムの肉、レアで焼いてある。ジュージュー派手な音を鳴らしながら油を飛ばすステーキを見ているだけで、本来なら食欲が自然と沸いてくるはずなのに、何故か沸いてこない。
「ほら、龍ちゃん、早く食べちゃいなよ。」
「何、ボーっとしてんだって。」
 月吉さんと最上さん二人の先輩に言われて我に返る。三人で、ちょっと高級なステーキハウスに来ていた。
「ずっと連絡しても出ないから、本当に心配してたんだからな。」
「すいません…。」
 大和プロレスを駄目になってから約半年…。早くも今年一年が終わろうとしている。色々な人から連絡はあったが、電話にも出ず、俺は部屋に引き篭もった。飯とトイレと風呂以外は、部屋で両膝を抱えながら無駄に時間を過ごしていた。
さすがに拉致のあかなくなった俺を両先輩が部屋まで来て、強引に外へ連れ出した。連れて行かれたのが、このステーキハウスだった。
「それにしても神威、痩せたなー。」
「今日は、僕とボーの奢りだから、いっぱい食べてよ。」
「すいません…。」
 俺の九十六キロまで増やした体重は、この半年で七十八キロまで落ちていた。
一生懸命、左腕でフォークを持とうとするが、しばらく持っていないのでなかなか上手く扱えなかった。この間、ギブスが取れたばかりなのだ…、無理もなかった。
スパーリング形式とはいえ、生まれて初めて喧嘩に負けた。それを理解するのに時間がかかった。
あの時で、俺の左腕は骨折させられ、またもや大和プロレスから現実の社会に放り出された。歪に突き出た左肘の骨…。負け犬の証拠だった。
最後にチョモランマ大場社長に言われた台詞が、ずっと頭から離れないでいた。その光景が思い浮かぶ…。
「俺は何度だって、木ノ下さんの関節取って、極められたんです。それを…。」
「いいかね…。」
 醜くいい訳がましく何度も同じ事をわめいていた。そこへ大場社長が口を挟んできた。
「プロレスとは、レスラーが殴りなさいという構えを作ってから、相手が殴る。それが、大事なんだ。しかし、リングの上ならレスラーは何をしても許されるん。君はリングの上で自分から喧嘩仕掛け、そして負けてしまった。だた、それだけの事なんだよ。」
 喧嘩で負けた俺が悪い…。すべて俺自身の招いた種だったのだ。
俺はすべてを失った。このような状態になっても、まだ彷徨っている。生きている価値もない。
先輩の二人以外、ちゃんとした事情を説明できないでいた。

前回は大沢の件があったから、言い訳出来る部分があった。
今回はすべて自分のせいなので、何も弁解のしようがなかった。世間の中傷や罵倒から逃げ、部屋で何かに怯えるように過ごした。
自殺も考えた。あれだけ協力をしてくれたみんなに申し訳なかった。命を捨てる事で、許してもらえるなら、そうしても良かった。でも、結局、自分じゃ自殺すら出来ないでいた。
「おい、いつまでグジグジしてんだよ。」
「やめなよ、ボー。」
「せっかく鍛え抜いた体をそんなに痩せこけやがってよー。」
「すいません…。」
「龍ちゃん、これからどうするの?」
「分かりません…。」
 俺はこの先、どうするか考えられなかった。同級生連中とも連絡さえ取っていない。家族もどう思っているのか分からない。何もしないで家にいても声すら掛けられなかった。
強さを求めた結果がこの様だ…。俺を気に掛けてくれている最上さんや月吉さんにも、すごい失礼な態度をしている。俺は、まだ自分の暗闇の世界に閉じ籠もっていた。
「生きていきたいのかよ?」
「よく分からないです。」
「龍ちゃん、分からない訳ないよね?プロレスが駄目になっても、半年ぐらいこうやってちゃんと生きているじゃない。」
「まだ、うまく割り切れないんです…。」
「いつまでそうやってるつもりだよ、神威。」
「分かりません…。」
 あの時、木ノ下に打突をぶちかませればよかったのか…。左腕を極められた状態でなら、右腕は空いていた。打突は絶対に出来た。しかし、あれだけ憎い木ノ下にでさえ、出来なかった。
気づけば、二十二歳から二十三歳になっていた。一体、俺はいつまでどうしようもない事を悔み続けるのだろう。
 打突…、体重がここまで落ちて、最後まで残った俺の強さの遺産…。だが、プロレスはもう諦めるしかなかった。本当にこの左腕が恨めしい…。
「龍ちゃん、とりあえずステーキ熱いうちに食べようよ。」
 食欲がまるで湧いてこない。体の中の胃袋がなくなってしまったみたいだった。
「もういい、放っておこう。あとは自分で立ち直るしかない。」
「ボー…。」
「甘やかしたって何もならない。こいつの為にならないよ。行こう、月吉。」
「うーん…、それにしたってさー…。」
「金、テーブルの上に置いておくぞ。ほら、行くぞ、月吉。」
「うん…、じゃ、僕たち先に行ってるね。」
 俺はステーキハウスのテーブルの上に突っ伏して、人目もはばからず泣いた。自分が情けなくて嫌だった。確かに最上さんの言う通り、俺は甘えているだけだ。
自殺もしない、ただ、落ち込んで生きていくだけなんて都合良過ぎる。単に身勝手なだけである。
どう足掻こうと、俺はこれからも生きていかなきゃいけない。
最上さんの俺を思う為の厳しさ、癒そうとしてくれる月吉さんの優しさは分かっていた。どうなろうと、俺は神威龍一以外の何者でもない。これからも神威龍一として、生きていかなねばならなかった。
どんなに辛くても、生きよう…。自殺は、ただの逃げだ。俺は生きていく以上、歯を食い縛っていかないといけない…。

空腹感を覚える。少しは生きるという意思に、体が反応したのだろうか。
左手がまだ充分に使いこなせないので、右手でフォークを持った。分厚いステーキをブッ刺して、そのままかぶりついた。ステーキをそうやって原始的にガツガツ食べた。
対面にいるガキの三人連れが、俺のほうを指差し、笑っていた。
「おい、見ろよ。あいつ。」
「おお、受ける受ける…。笑えるよな。何だよ、あの喰い方。」
「泣きながらステーキ喰うなよなー。」
 明らかに俺をネタにしながら小馬鹿にしている。砂漠のような何もなかった俺の心に、一筋の炎が静かにくすぶり出してきた。
俺はガキ共を無視してステーキを平らげた。会計を済ませ、店の外へ出る。
さっきのガキ共が、まだ俺のほうを見ている。ガラス越しに指を刺して、笑っていた。静かにゆっくりと深呼吸してみる。
「やっぱ駄目だなぁ…。」
 独り言を呟きながら、そのままUターンして、また店内に戻る。
ガキ共は、まさか俺が戻ってくるとは思わなかったのだろう。三人仲良く、煙草を吸いながら談笑していた。一人が俺に気づき、睨んでくる。
「何だ、この野郎。」
 俺はガキのテーブルにある水を顔に引っ掛けた。
「うわっ…、テメー…。」
 無言のまま、水を引っ掛け、俺は店の外に出た。予想通り、ガキ共は、俺を追いかけて外に飛び出してきた。
「舐めてんのかよ、この野郎が…。」
「口はいいから、かかってくりゃーいいじゃん。」
「殺してやるよ。」
 一人のガキが突っかかってくる。大振りのパンチを潜り抜け、右拳をドテッ腹にお見舞いしてやる。
不意に背後から羽交い絞めをされた。俺は冷静に頭を前に上げてから跳ね上がり、後ろ向きで頭突きをぶちかます。
最後に残ったガキが間髪入れずに、顔面を殴った。多少の痛みは感じるが、笑いが込み上げてくる。
「な、何、笑ってんだ、テメー…。」
「不意打ちで殴っといて、その程度のパンチしか打てないおまえが可愛そうでな…。」
「んだと、オラッ。」
「口先だけじゃ、えばっちゃいけないだろ?人間、馬鹿にされたら、怒る奴だっているんだ。あれだけ調子に乗ってたろ。覚悟は出来てるな。」
 右手で思い切り、横っ面を引っ叩いた。すごい音がしてガキは、その場に顔を抑えながらうずくまる。
警察を呼ばれても厄介なので、ダッシュでその場を逃げる事にした。
俺にとっては一つ出入禁止の店が増えただけに過ぎない。久々にちょっと暴れて、すきっとした。やっぱ、俺はこうじゃなくては…。
 家に着いても、なかなか興奮が収まらなかった。体中の細胞が騒ぎ回っていた。いつまでも落ち込んでいられない。俺は、どうあろうと生きる事を選んだのだ。

 プロレスが駄目になってから、極端に力の落ちた左腕を再度、鍛え直すよう頑張った。最低でも普通の生活に支障をきたさないようにしないといけない。
出来る限り左手を使うようにして、色々と動かすようにした。
そうして年末が近付く頃には、右手の握力が九十なのに対して、左手も四十ぐらいまでは力が出せるようになった。
左手の肘を見ると、いびつに突き出た骨が目立つ。俺はこの突き出た骨を見る度、木ノ下のクソ野郎を呪う。
この一年、何も仕事しなかったので、さすがに貯めていた貯金も底を尽き始めた。
もう体重を無理に上げる必要はなかったが、喰っていく為にも、そろそろ働かなければいけない。
しかしプロレス以外、何も考えてなかった俺にとってかなりの苦痛だった。
 年明けには働こう。それまではゆっくり過ごそう。
もう今日で十二月の三十日になっていた。振り返ればもったいない事をしたと思う一年だった。せっかく大和に入れて、これからという時に…。
自分を完全に驕り過ぎていた。どんどん自分で強くなっていくのを肌で感じ、天狗になっていたのが原因だった。
あの時…、俺が木ノ下の関節を取った時にキッチリ極めていれば、こんなことにはならなかった。自分の甘さと驕りが招いた結果がこの様だ。今でもずっと後悔してやまない。多分ずっとこの事は一生涯左肘と共に引きずって生きていくのだろう。
たまに左肘が疼く事がある。どうやったらこの疼きをなくせるのだろう…。

 誰とも連絡を取らずに、寂しい正月を過ごした。
最上さんや月吉さんとは、この間、ステーキハウスで会った時以来、連絡を取っていない。誰からも誘われず、孤独な日々は俺を堕落させた。
今の自分が嫌で嫌でしょうがなかった。今の俺に何が出来るのだろうか。金もなくなった。残っているのは、大和プロレスにいたというプライドしかない。
何でもいい…、このいいようのない孤独感から逃れる為に、何かしたかった。誰かに救いを求めたかった。人と話がしたかった。
弟も俺を気遣ってか、部屋に顔を出す事がなくなった。狂いそうだった…。
 年明けだというのに、手持ちの金も一万円札が一枚だけになった。どうしょもない状況になっている。こうなったらヤケクソになって好きな物でも喰いに行こう。時計を見ると夕方の六時になっている。俺は珍しく外へ出掛ける事にした。
 外は正月の雰囲気が充満している。仲良さそうに歩いている家族連れを思わず、横目で睨んでしまう。ベタベタしながら腕を組んで楽しそうなカップルを呪ってしまう。
今の俺は最低だった。仲良さげな家族連れや、幸せそうなカップル、そしてこんな最低野郎でも平等に腹は減っていく。
何で胃袋なんかあるんだろう…。なければ、こんな空腹感を覚える事はないのにな…。仕方なしに近くの喫茶店に入った。
「いらっしゃいませー。」
 メニューで目に付いたものを適当に頼んだ。
「ピザトーストにシーザーサラダ、あとアイスコーヒーもらえるかな。」
「かしこまりました。」
俺は水を一口飲んでから、スポーツ新聞を読んだ。大和プロレスの記事が載っている。心が動揺する。まだ、未練があった。俺は新聞を閉じた。
「お客様、やめて下さい。」
 ウェイトレスの声が聞こえた。
「いいじゃんよー、今日、お店、何時に終わるの?どっか行こうよー。」
 タチの悪そうな二人組の客に絡まれていた。ちょうどいい。ムシャクシャしていたところだ。俺は席を立ち上がりその二人組に近づく。
「何だ、テメーは?」
「見苦しいよ、おまえら。」
「うるせーよ。」
「あっ?」
 立った状態で上から目を見開き、相手を覗きこむように一喝してやる。大抵の奴は、それでビビッて引いてくれる。
「な、何だよ…。」
「しつけーと女に嫌われるぜ。今日のところは黙って、会計して大人しく帰れよ。」
「わ、分かったよ…。」
 相手が素直な連中なので、俺もその場を立ち去り席に着くことにする。ウェイトレスが笑顔で近寄ってくる。
「ありがとうございます。」
「いいって…。」
俺は余裕あるふりをしながら、新聞を広げてみる。たまたま開いた場所は、求人募集の事が書いてあった。場所は新宿が多い。日払い可という文字に目がいく。
どんな形でもいい。俺は働いて稼がなくては、生きていけない。長い間、地元にいすぎたようだ。俺の知らない土地である新宿。この街へ出るのもいいかもしれない。

店を出ると、家に向かう。先ほどの求人欄に電話をしてみようと思った。どんな仕事でもいい。考え事をしながら歩いていると、何かに足を引っ掛けられた。不意をつかれ、俺は道路に転がった。
「いてて…。」
 道路に倒れているところを蹴りが飛んでくる。一発だけでなく、数発のケリが飛んできた。俺はとっさにガードして。数発の蹴りを耐える。
「さっきは随分と、いい格好してくれたじゃねーかよ、おい。」
「舐めんじゃねーぞ、オラッ。」
 俺の足を引っ掛けたのは、さっきの喫茶店でウェイトレスに絡んでいた二人組だった。二人掛かりで不意打ちとは面白い事をやってくる奴らだ。
俺が立ち上がろうとすると、顔面を狙って蹴ってきた。
一人の足をキャッチする。もう片割れが、蹴りやパンチを俺にぶち込んでくるが、構わず、捕まえた奴の右もも目掛け、エルボーを叩き落とした。
「ギャァ――――――――ッ…。」
 そいつはでかい叫び声を張り上げながら、右ももを抑えて道路でのたうち回った。唖然としている片割れの足も捕まえ、同じようにエルボーを落とした。
「ウワァ――――――――ッ…。」
「悪いが、急いでんだ。このぐらいで勘弁しといてやるよ。」
 散々蹴られてムカついてはいたが、仕事の件が気になるので、家に向かう事にする。
 急な思いつきに見られるかもしれない。でも、俺は地元を出ようと考えていた。たくさんの思い出が詰り過ぎていた。
 今の俺にはとても辛い事だった。日払いの仕事でも何でもいい。金を稼ぎ新しい生活をしなくてはならない。
 新聞の求人欄に掲載されていた様々な電話番号。俺は、適当に電話をしてみた。まだ、二十台前半という事もあって、近日中に面接をしてくれる事になる。
 次の日に新宿へ行った。駅前で面接官と待ち合わせ、人混みの中をついていった。新聞には喫茶店と書いてあったが、怪しい感じの店だった。でも、そんな事はどうでもよかった。すぐにでも働けるし、タコ部屋だけど、寮もあった。
 一刻も早く、地元を離れたかった。俺は安易に仕事を決めた。

 世話をしてくれた人すべてに、けじめだけはつける。
 プロレスが駄目になった事をはっきりと伝えなくてはいけない。それが今まで応援してくれた人たちに対する、最低限の礼儀だ。どんなに文句を言われても仕方のない事である。それだけの期待を裏切ったのだから…。
 もう、逃げるのはやめよう。
みんなに挨拶をしに行った。レスラーになれなかった事を素直に謝った。そして新宿へ住み込みとして働く事も伝えた。
 俺が地元から離れるという決意。現状からの逃げていると見られるかもしれない。
俺はとにかく頭を下げた。心の底から詫びた。

 地元を出る最後の日に、さざん子ラーメンのガーリック丼が、どうしても食べたかったので行った。マスターは俺の話を聞いて残念そうだったが、笑顔で迎えてくれる。
「神威さん。うちのこのガーリック丼喰って、元気出しなさいよ。」
「ありがとうございます。」
 この日のガーリック丼は格別に旨く感じた。マスターの心遣いに感謝しながらガーリック丼をいただいた。

 整体の先生のところへ顔を出した。
「何だー。ちょっと寂しくなっちゃいますね。でも、帰ってきた時は寄って下さいよ。」
「はい、ぜひお邪魔させていただきます。」
「それにしても体、痩せましたよね。」
「ええ、無理して体重増やしていたので、何もしなくなるとやっぱり体重も落ちますよね。元々は六十五キロしかなかったもんで…。」
「あと、神威さんの体は、ほとんど筋肉じゃないですか。新陳代謝も激しいし筋肉は簡単に言うと、脂肪を食べてしまいますからね。」
「体重増やすよりも減量の方が、俺にとっては楽ですよ。」
「世の中のダイエットで苦しむ女性がその台詞聞いたら恨まれますよ。」
 整体の先生も寂しそうな表情をしていたが、俺を色々励まそうと散々気を遣っているのが分かる。とてもありがたかった。この先生のおかげで俺は強くなれた。
地元を離れる決意が揺らぎそうだった。

「おまえは本当に大馬鹿だ。こんな馬鹿、見た事ねえ。」
「あなた、神威君が一番傷ついてんですから…。」
「うるせー、おまえは黙ってろ。いいか、神威。新宿行くなら行くで止めねえよ。ただし今度はケツまくって逃げ帰ってくんじゃねーぞ。分かったか?」
「はい、本当に親方を初め、奥さんにも散々お世話になり感謝しています。」
「いいか、人生気合いだからな。」
「はい。」
 親方の激で気を引き締める事が出来た。奥さんは手料理をいっぱい作ってもてなしてくれた。俺はここで食べて、せっかくでかくした体を台無しにしてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 たっ君を抱っこした。しばらく会えないだろう。俺は出来る限り優しく微笑んで、頭を撫でた。

「まったくおまえは高校の時も問題児で、社会人になってからも問題児かよ。この野郎が…。しばらく連絡なかったから、無事、真面目に頑張ってんだなと思ってたらよ。」
「すみませんでした…。深く反省してます。」
「就職先はどうすんだ。どこか紹介してやろうか?」
「大丈夫です。これ以上、先生の世話にはなれませんよ。」
「うちの人も神威さんの事、いつも心配しているのよ。」
「余計な事言うな。」
 高校時代にお世話になった先生は、いつまでたっても先生だった。俺は一生頭が上がらない。
由香里ちゃんがヨチヨチ歩きで俺のところに来るので抱っこしてあげる。屈託のない可愛らしい笑顔だ。
子供の成長は早いものだ。見ているだけで癒される。いつもここへ来ると、家庭の暖かさというものを教えてもらう。絵に描いたような幸せな家庭だった。

「おまえとは、何か奇妙な縁を感じるよ。プロレスが駄目になったのは残念だよ。かなり期待してたからな。」
「ああ、本当、感謝してるよ。でも左腕がこんなになっちゃ、さすがに無理だよ。今まで言い出せなくて悪かったな。」
「いや、気持ちは分かるから…。」
 守屋洋吾は空いた時間、いつもスパーリングに付き合ってくれた。アマレスで慣らしたテクニックは、何の知識もなかった俺にとって大変いい勉強になった。
身長が低かった為、泣く泣く諦めたプロレスラーへの思い。すべてのテクニックを俺に叩き込んでくれた。俺は守屋から託されたバトンを途中で落としてしまったのだ。
それでも守屋は俺を責めるような事はせず、許してくれた。

 月吉さんの働くゲームセンターへ顔を出した。
 俺を見ると、月吉さんは笑顔で近づいてくる。
「龍ちゃんがちょっとは元気になったみたいで、本当に良かったよ。」
「この間はすいませんでした。」
「問題ないよ。ボーも嫌味であんな言い方した訳じゃないしね。あいつも龍ちゃんの事、本当に心配してんだよ。」
「ええ、充分に分かってますよ。俺が情けなかっただけですから。」
「でも当時の龍ちゃんってかなりの化け物だったけど、その龍ちゃんが駄目なんて、大和プロレスは本当に化け物の集まりなんだね…。」
 月吉さんはいつでも俺に優しかった。いつも人を気遣ってくれて、間違っている事は、はっきりと教えてくれる大事な先輩だった。癒しの人と俺は呼びたい。

 最上さんに電話をかけた。
「もう立ち直ったのか?」
「はい、おかげさまで…。」
「イジイジと落ち込んでるなんて、神威らしくないって。」
「ハハ…、そうですよね。」
「そうそう…、もう時期、結婚するからな。」
「えっ、いつですか?」
「籍を入れたのは十二月の二十五日。式は九月頃だな…。」
「それはおめでとうございます。奥さんの名前は、何て言うんですか?」
「有子だよ。大和田有子。年は俺の一つ下だから、おまえと俺のちょうど真ん中だな。」
 最上さんは忙しい時にもかかわらず、わざわざあの時ステーキハウスに来てくれた。
散々世話になった先輩の結婚式。お祝い金も、これから稼がないといけない。
「都内行って、仕事の方はどうですか?」
「うまくいってないで、結婚もクソもないだろ?」
「それはそうですね。」
 俺は先輩の状況も、あの時、考えてあげられなかった。
「まあ、元気そうで良かった。今、データチェックしてるところだから、忙しいから、電話切るぞ。」
「忙しいところ、すみません。」

 同級生の石井と話す。俺のレスラー生命が駄目になった事を知ると、非常に落胆していた。昔からの腐れ縁。いつも時間があると、意味もなく話し、笑いあってきた仲だ。
「何で、新宿へ行くんだよ。こっちで働いたっていいじゃねえか。」
「ごめん…。今は地元にいるのが辛いんだ…。」
「……。」
「落ち着いたらすぐに戻ってくるよ。」
「いいよ…。おまえなんか、ずっと新宿に行ってればいいよ…。」
「おい…。」
「いつも何でも好き勝手に決めてよ…。相談も何もねえじゃねえかよ…。」
「悪かった…。」
 石井は泣いていた。いや、俺の為に泣いてくれたのだろう。

 地元から新宿に向かうにあたって、これで思い残すことはないだろう。とりあえず、新宿へ行く準備は整った。あとは明日に備えて寝るだけだ。
「兄貴―、入るよ。」
「ああ。」
 久しぶりに弟が部屋に顔を出した。昨日今日で慌ただしく電話や色々出かけてバタバタしていたのが、気になったのだろう。
「兄貴…、何だよ、その荷物は?」
「俺、明日から新宿へ行ってくるよ。」
「随分と急だなー。」
「急なのは今に始まった事じゃないだろ?」
「まーね…。」
「そろそろ神威龍一の第二章を開始しないとな。」
「二章…、何、それ?」
「第一章は大和プロレス編。」
「ああ、なるほど…。まあでも、兄貴が元気になって良かったよ。」
「ありがとよ。心配掛けて悪かったな。」
 久しぶりに兄弟の会話をしたような感じがする。今日はゆっくりと熟睡出来そうだ…。

 

 

12 打突 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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