12月2日付 産経新聞より
「国の長期的方向付け」こそ肝要 京都大学大学院教授・佐伯啓思氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091202/stt0912020256001-n1.htm
≪「常軌を逸した」やり方≫
行政刷新会議による事業仕分けがはなばなしく行われた。委員たちは、まるで「必殺仕分け人」のように、バッタバッタと切りまくる。テレビ・ニュースを見ている観客たちは胸のすく思いを味わっている様子で、「仕分け人」の仕事を高く評価するものは、世論調査によると8割近くに及ぶようである。切られる悪役は、人の金を使って好き放題をやった官僚たち、というわけだ。
確かに、かなりの無駄もあっただろう。またこの強引な手法を採用しなければ、官僚組織の硬直化や利権構造は打破できなかったという面はあろう。だから、この方式をすべて非難しようという気はない。
しかし、やはり「常軌を逸した」方式であることぐらいは認識しておかねばなるまい。いかなる資格と知識を前提にして、この「仕分け人」にこれだけの権限が与えられているのか、疑問に感じるのが当然であろう。
ただ私が気になるのは、このやり方に喝采(かっさい)を送る者が8割近くにもなるということだ。おそらくは、「仕分け人」の仕事を支持する者の大半は、その「仕事内容」を正確に理解しているわけではあるまい。そうではなく「仕事ぶり」を評価しているのである。要するに、権力の座についていた(と思われる)悪徳官吏たちを切りまくるその「仕事ぶり」に拍手を送っているのであろう。
≪「国民のため」が危機招く≫
こういう構図を見ると、私など、ほとんど本能的に嫌(いや)な気分になる。昔、小学校などで、なにやら、勉強のよくできる、先生の覚えの良い、しっかり者の優等生の女の子が風紀委員か何かになって、少々、行儀の悪い不作法な男の子を、掃除を怠けたの、廊下で騒いだの、トイレを汚したの、と先生に言いつける、という構図が浮かんでしまう。要するに、私は、反論の余地なき正義を振りかざして全権を行使する、という構図が苦手なのだ。こういう女の子は、時代が時代で、国が国なら、人民委員会代表などと称し、不良分子をすべて「刷新」する、という胸のすくような仕事をやってのけるのだろうな、などと思ってしまう。
鳩山首相は、「国民の監視のもとにさらしてよかった」という。まさしく、「国民の監視」のもとにおいている。委員は「国民の監視」を盾にして全権をもって事業の可否を決裁する。これは、構造としては、少し言葉は強いが、人民代表による人民裁判という図式と同等のものといってよい。
繰り返すが、私は、仕分けの内実について、是非を述べているのではない。対象事柄に関して、私は調べたこともないのでよくわからない。よくわからないものについては、特に是非をいう資格もなかろう。ただ、このようなやり方が広範な支持を得る、という今日の日本の風潮に何ともいえない嫌なものを感じるのだ。
一方、今回、科学技術分野に関し、主要国立大学の学長が記者会見を開き、この事業仕分けにより、日本の科学技術の長期的な停滞が予想されるとし「国の将来について危機感をもつ」と述べた。もっともな疑問だと思われる。もしも鳩山首相の言明とこの学長見解を足し合わせれば、「国民の監視のもとで、国の将来が危機にさらされる」ということになる。
何とも皮肉な話であるが、だがこれこそが、今日の民主政治の実相というべきなのだ。言いかえれば、「国民が国家の将来を見通しつつ判断をくだせば、国民のための政治は、国家の将来を約束できる」といってよい。しかし、国民にそれだけの判断能力も情報も関心もなければ、「国民のための政治」と「国家の将来」とは決して一致などするはずはない。
≪不可能なことを無理に断行≫
このことからわかることは何か。「国民のための政治」と「国家の将来のための政治」は必ずしも同じではない、という当たり前のことである。事業仕分けの問題は、不可能なことを無理に断行しようとしている点にある。事業仕分けとは、本来、何が無駄で何が必要かを判断することなのだ。
ところで要・不要の判断のためには、それらの事業が将来いかなる役に立つかという評価が不可欠だ。
問題は、この評価が将来にかかわるために、今ここでのコスト計算にはなじまないという点である。特に、公共事業や科学技術関連の事業においては、現在のコスト計算や効率性ではなく、長期にわたる将来的意味づけがなければならない。そしてそれを可能とするのは、長期的な国の方向性と戦略だけなのである。
鳩山政権は、いまだに、日本社会の将来にわたった長期的な展望を語ってはいないし、この展望を軸にした政策も打ち出してはいない。「国の長期的方向付け」もなくして、事業仕分けなど本来はできるはずはないのだ。「国民の監視」が必要なのではなく、「国の将来像」からくる基本政策を打ち出すことこそが政治の責任というものである。(さえき けいし)
「国の長期的方向付け」こそ肝要 京都大学大学院教授・佐伯啓思氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091202/stt0912020256001-n1.htm
≪「常軌を逸した」やり方≫
行政刷新会議による事業仕分けがはなばなしく行われた。委員たちは、まるで「必殺仕分け人」のように、バッタバッタと切りまくる。テレビ・ニュースを見ている観客たちは胸のすく思いを味わっている様子で、「仕分け人」の仕事を高く評価するものは、世論調査によると8割近くに及ぶようである。切られる悪役は、人の金を使って好き放題をやった官僚たち、というわけだ。
確かに、かなりの無駄もあっただろう。またこの強引な手法を採用しなければ、官僚組織の硬直化や利権構造は打破できなかったという面はあろう。だから、この方式をすべて非難しようという気はない。
しかし、やはり「常軌を逸した」方式であることぐらいは認識しておかねばなるまい。いかなる資格と知識を前提にして、この「仕分け人」にこれだけの権限が与えられているのか、疑問に感じるのが当然であろう。
ただ私が気になるのは、このやり方に喝采(かっさい)を送る者が8割近くにもなるということだ。おそらくは、「仕分け人」の仕事を支持する者の大半は、その「仕事内容」を正確に理解しているわけではあるまい。そうではなく「仕事ぶり」を評価しているのである。要するに、権力の座についていた(と思われる)悪徳官吏たちを切りまくるその「仕事ぶり」に拍手を送っているのであろう。
≪「国民のため」が危機招く≫
こういう構図を見ると、私など、ほとんど本能的に嫌(いや)な気分になる。昔、小学校などで、なにやら、勉強のよくできる、先生の覚えの良い、しっかり者の優等生の女の子が風紀委員か何かになって、少々、行儀の悪い不作法な男の子を、掃除を怠けたの、廊下で騒いだの、トイレを汚したの、と先生に言いつける、という構図が浮かんでしまう。要するに、私は、反論の余地なき正義を振りかざして全権を行使する、という構図が苦手なのだ。こういう女の子は、時代が時代で、国が国なら、人民委員会代表などと称し、不良分子をすべて「刷新」する、という胸のすくような仕事をやってのけるのだろうな、などと思ってしまう。
鳩山首相は、「国民の監視のもとにさらしてよかった」という。まさしく、「国民の監視」のもとにおいている。委員は「国民の監視」を盾にして全権をもって事業の可否を決裁する。これは、構造としては、少し言葉は強いが、人民代表による人民裁判という図式と同等のものといってよい。
繰り返すが、私は、仕分けの内実について、是非を述べているのではない。対象事柄に関して、私は調べたこともないのでよくわからない。よくわからないものについては、特に是非をいう資格もなかろう。ただ、このようなやり方が広範な支持を得る、という今日の日本の風潮に何ともいえない嫌なものを感じるのだ。
一方、今回、科学技術分野に関し、主要国立大学の学長が記者会見を開き、この事業仕分けにより、日本の科学技術の長期的な停滞が予想されるとし「国の将来について危機感をもつ」と述べた。もっともな疑問だと思われる。もしも鳩山首相の言明とこの学長見解を足し合わせれば、「国民の監視のもとで、国の将来が危機にさらされる」ということになる。
何とも皮肉な話であるが、だがこれこそが、今日の民主政治の実相というべきなのだ。言いかえれば、「国民が国家の将来を見通しつつ判断をくだせば、国民のための政治は、国家の将来を約束できる」といってよい。しかし、国民にそれだけの判断能力も情報も関心もなければ、「国民のための政治」と「国家の将来」とは決して一致などするはずはない。
≪不可能なことを無理に断行≫
このことからわかることは何か。「国民のための政治」と「国家の将来のための政治」は必ずしも同じではない、という当たり前のことである。事業仕分けの問題は、不可能なことを無理に断行しようとしている点にある。事業仕分けとは、本来、何が無駄で何が必要かを判断することなのだ。
ところで要・不要の判断のためには、それらの事業が将来いかなる役に立つかという評価が不可欠だ。
問題は、この評価が将来にかかわるために、今ここでのコスト計算にはなじまないという点である。特に、公共事業や科学技術関連の事業においては、現在のコスト計算や効率性ではなく、長期にわたる将来的意味づけがなければならない。そしてそれを可能とするのは、長期的な国の方向性と戦略だけなのである。
鳩山政権は、いまだに、日本社会の将来にわたった長期的な展望を語ってはいないし、この展望を軸にした政策も打ち出してはいない。「国の長期的方向付け」もなくして、事業仕分けなど本来はできるはずはないのだ。「国民の監視」が必要なのではなく、「国の将来像」からくる基本政策を打ち出すことこそが政治の責任というものである。(さえき けいし)