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ニッポンのゆる~い日常

「強制ありき」作文談話の罪

2013-05-30 14:13:02 | 自民党
「強制ありき」作文談話の罪


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130530/plc13053013270008-n1.htm


 ただでさえややこしい慰安婦問題を、さらにこんがらからせたのが元慰安婦に「おわびと反省」を表明した平成5年8月の河野洋平官房長官談話である。日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)は27日の日本外国特派員協会での記者会見で、こう強調した。



 「河野談話は肝心な論点(官憲による強制連行の有無)について曖昧・不明確にしている。19年の政府の閣議決定では『国家の意思としての拉致、人身売買を裏付ける証拠はなかった』という政府見解が出ている。この核心的論点について談話は逃げている」

 確かに河野談話は非常に分かりにくい。一見「強制連行」を認めたように読めるが、事務方トップとして談話作成にかかわった石原信雄元官房副長官は「政府の意を体して、政府の指揮命令下に強制したと認めたわけじゃない」と断言している。一方で、談話が海外で「日本政府が公式に強制連行を認めたもの」と受け止められたのも事実だ。


 ではなぜ、河野談話はそんな奇妙な書きぶりになったのか。結論から言えば当時の宮沢喜一内閣は、韓国を満足させるため「強制」を認めたかったのである。


 ところが、国内外、関係省庁と「八方手を尽くして調べた」(石原氏)にもかかわらず、その証拠は出てこない。そこでやむなく「強制性」を強くにじませたというのが真相だろう。石原氏をはじめ関係者の証言と談話の作成過程をたどると、そうしたゆがんだ実態が浮かび上がってくる。



 石原氏は筆者の二度にわたるインタビューに当時の事情を率直に答えている。

 「できれば文書とか日本側の証言者がほしかったが、見つからない」「韓国側は元慰安婦の名誉回復に相当こだわっていた。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」


 また、講師を務めた9年4月の自民党会合では、出席者の「真実よりも外交的判断を優先させたのか」との質問に「外交でしょう」と正直に回答している。

 結局、談話は「強制を認めろ」との再三にわたる韓国側の要求に屈した政治的な「作文」なのである。



 さらに、談話作成の準備段階にあたる5年3月23日には、わざわざ「強制」の定義を広げる国会答弁までしている。やはり談話に関与した当時の谷野作太郎内閣外政審議室長は、参院予算委員会でこう述べた。

 「単に物理的に強制を加えることのみならず、脅かし、畏怖させて本人の意思に反してある種の行為をさせた場合も含む」


 朝日新聞は3月25日付の「『強制』幅広く認定」「従軍慰安婦調査で政府方針」という見出しの記事で、「精神的苦痛、心理的なものも含めて」という政府首脳の言葉を引用している。当時、政府首脳とは主に官房長官を指した。つまり、河野氏のことである。


 宮沢内閣ぐるみで何とか韓国のために「強制」を認めようと涙ぐましい努力をした跡がうかがえる。談話は橋下氏の言うように「逃げている」というより、むしろ積極的に「強制」を認定しようと模索したものの、裏付けが弱すぎて踏み込めなかっただけなのだ。

 これで日韓関係がよくなったのならまだいいが、実際は逆に刺々しさを増すばかり。見識のない政治家が歴史をもてあそび利用すると、後世にどんなに大きな禍根を残すことか。せめて貴重な教訓とせねば救いがない。(政治部編集委員)















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「謝絶中韓」のすすめ

2013-05-23 16:57:25 | 国際時事
【石平のChina Watch】

「謝絶中韓」のすすめ


http://sankei.jp.msn.com/world/news/130523/chn13052308230000-n1.htm


 中国と韓国に新しい政権ができて以来、対日姿勢の横暴さが日々増してきている。


 中国の習近平政権は発足以来、自衛隊護衛艦へのレーダー照射や接続水域での潜水艦潜航など、日本に対する軍事的威嚇行為をエスカレートさせている。最近ではメディアが、「琉球(沖縄)は中国領」との暴言まで言い放って、「領土問題」を拡大化させ、日本と全面的に争っていく姿勢を鮮明に示している。

 もし今後、中国が「国家の陰謀」として沖縄を日本から切り離すような工作を本気で進めるのならば、確実に日本の敵国となるのであろう。



 一方の韓国は、女性の朴槿恵(パク・クネ)大統領が就任以来、「歴史問題」を用いた日本攻撃を執拗(しつよう)に続けている。アメリカまで遠征して「正しい歴史認識」を吹聴しているようだが、自分たちの「歴史認識」を「正しい認識」として他国に強要するその理不尽さは「小国の横暴」そのものである。

 そして今年3月1日、朴大統領は日本に対して「加害者と被害者の立場は千年過ぎても変わらない」との演説を行った。それは明らかに、韓国という国が未来永劫(えいごう)、「被害者」の立場から日本を恨みつづけていくことへの意思表明である。


 中国も韓国も事実上の「日本敵視政策」を国策の基本に据えているのだから、日本にとっては厄介者以外の何者でもないのである。


 今から百数十年前、福沢諭吉翁は当時の清国と朝鮮を「亜細亜東方の悪友」と名付け、この両国との交渉を「謝絶するものなり」と提言した。21世紀になった今でも、この提言は依然、現実的な意味を持っている。


 日本は今後、この2つの「悪友国家」との関係を根本的に見直すべきではないかと思う。できるだけ、彼らとは一定の距離をおきながら、両国を除外した国際大戦略を再構築すべきであろう。



 たとえば、アジア外交に関していえば、日本にとっての友好国家はいくらでもある。

 インドやベトナム、タイやフィリピン、ミャンマーやモンゴル、それらの国々は日本との間で「歴史問題」や「領土問題」などの厄介な問題を抱えておらず、中国大陸からの膨張を食い止めなければならないという日本と共通した危機感がある。



 日本は今後、こういった「亜細亜の良友」と連携すればよいと思う。

 アジア外交を超えたより大局な戦略としては、米国との同盟関係を基軸にしてEUとの伝統的友好関係を保ちながら、もうひとつの大国・ロシアとの関係を深めるべきだ。「米・露・欧」という中国以外の世界の3極との強固な関係を構築できれば、日本外交の腰も据わってくる。

 諸外国との経済交流の推進に関しては、中国と韓国を抜きにした環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加が重要であろう。

 今後の成長センターともなりうる環太平洋諸国と連携し、共存共栄の一大経済圏を構築することは、日本にとっての将来の繁栄の保証となるだけでなく、大陸からの脅威を防ぐための安全保障上の意味が大きい。

 考えてみれば、中・韓以外のアジア諸国との連携、米・露・欧の3極との関係強化、そして環太平洋大経済圏の構築、この3つの戦略をきちんと展開していけば、世界の中の日本の立場は安泰なのである。そうなれば中国も韓国も、日本にとって謝絶しても構わない国となる。


 いざとなった場合に中国や韓国と関係断絶しても、あるいはこの2つの反日国家と全面対決する局面になったとしても、日本の安全と繁栄がきちんと保証されるような国際関係を作り上げていくことが、今後の日本が進めていくべき核心的な外交戦略となるのではないか。



                       ◇




【プロフィル】石平

 せき・へい 1962年中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。88年来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。『謀略家たちの中国』など著書多数。平成19年、日本国籍を取得。






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橋下発言の核心は誤っていない

2013-05-23 13:12:59 | 正論より
5月23日付     産経新聞【正論】より


橋下発言の核心は誤っていない   現代史家・秦郁彦氏


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130523/stt13052303220000-n1.htm



《慰安婦は連行せず広告で募集》


 橋下徹大阪市長が5月13日、大阪市役所で記者団に語った慰安婦をめぐる発言は、内外に波紋を巻き起こし、その要旨はテレビや新聞などで大々的に報じられた。改めて発言の核心と思われる3カ所を、入手した速記録から抜いてみよう。草稿なしのアドリブ発言なので、こなれの悪い口語体になっているが、あえて「整形」せずに引用し、歴史家の観点から解説を加えてみたい。  


 (1)「軍自体が、日本政府自体が暴行・脅迫をして…女性を拉致をしたというそういう事実は今のところ証拠で裏付けられていない」

 (2)「当時慰安婦制度は世界各国の軍は持ってたんですよ」

 (3)「なぜ日本のいわゆる従軍慰安婦問題だけが世界的に取り上げられるのか」  


 1990年前後の発端から関わり、『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、99年)という研究書を刊行した筆者として、(1)~(3)の捉え方は引用部分に限れば、大筋は正しいと思う。


 ただし、歴史家は過去の史実を正確に復元するだけですむが、政治家はそれを踏まえたうえでの具体的提言や主張を求められるし、予期される内外の反響に対する戦略的、戦術的配慮も必要とすることは言うまでもない。



(1)は、女性たちを強制連行したか否かという争点で、橋下氏は安倍晋三内閣と同様に、今のところ強制連行の証拠は見当たらないと控えめだが、筆者は次のような理由から強制連行はなかったと断定したい。


 第1に、この20年以上にわたり数多く紹介され裁判所でも陳述された彼女たちの「身の上話」で、家族、隣人、友人など第三者の目撃証言が登場した例は皆無である。たとえ、こそ泥レベルの微罪でも「被害者」の申し立てだけで有罪と判定する例はないはずだ。


 次に戦中のソウルの新聞に「慰安婦至急大募集。月収300円以上、本人来談」のような業者の募集広告が、いくつも発見されている事実を指摘したい。日本兵の月給が10円前後の当時、この高給なら応募者は少なくなかったろうから強制連行する必要はなかった。




《朝鮮戦争でも韓国軍慰安所》


 朝鮮人捕虜が「そんなことをやれば、朝鮮人の男たちが反乱を起こすだろう」と、米軍の尋問に答えた記録も残っているぐらいで、事は朝鮮人男性のプライドに関わってくる。しかも、警察官の7割以上を朝鮮人が占めていた朝鮮総督府が、植民地統治の崩壊を招きかねないリスクを許容したとは思えない。


 橋下氏の論点の(2)と(3)については、第二次大戦中ばかりではなく朝鮮戦争やベトナム戦争中も、参戦諸国が慰安所ないし類似の施設を運営したのは、紛れもない事実だが、ここでは、最近になって明るみに出た朝鮮戦争期(50~53年)における韓国軍の慰安婦事情を紹介しよう。


 調査したのは、宋連玉編『軍隊と性暴力』(現代史料出版、2010年)の第7章を執筆した金貴玉氏(漢城大学教授)で、韓国陸軍本部で1956年に刊行された『後方戦史(人事篇)』の記述から、軍慰安所の存在を知ったという。それによると、陸軍本部が施設を設置した理由は、軍人の士気昂揚(こうよう)、性欲抑制から来る欲求不満の解消、性病対策からだったとされる。


 書類上は「第5種補給品」と呼ばれた4カ所、89人の慰安婦に対し、52年だけで延べ20万4560回(1日当たり6・5回、時には20~30回)の性サービスが「強要」されたことを示す実績統計表も付されている。




《歴史問われるべきは韓国も》


 しかし、陸軍本部が関連史料の閲覧を禁じ、ようやく見つけた2人の元慰安婦も「証言を拒み、涙と沈黙で答えるのみ」なので、金貴玉氏の調査は難航を極めたらしい。メディアも沈黙し、進歩的男性たちからさえ「身内の恥をさらし、日本の極右の弁明材料にされる」と警告されながらも、彼女はひるまなかった。


 ソウルの日本大使館前で毎週水曜日に挙行される慰安婦デモに同行した学生たちは、「日本を批判すると同時に、韓国人も歴史認識について反省しなければ」と発言するようになり、「韓国軍性奴隷の問題を隠し続け、今でも反省の色を見せていない」韓国の国家権力を批判する。


 「なぜ日本だけが…」と憤慨する橋下発言の(3)と通じ合う「総ざんげ」の志向と見ることもできるが、残念ながら、当分はマイノリティーの域にとどまるだろう。

 韓国の挺対協などの支援組織、反日の韓国系米国人ロビイストたち、それと連帯して、「身内の恥」(慰安婦問題)を小学校教科書に載せるべきだと主張する日本の自虐派、「極右」の弁明かと誤認されるのを恐れて沈黙する政治家たちという裏返しの構図は、今後もマジョリティーとして変わらず、橋下バッシングに励みそうな気がする。(はた いくひこ)














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【速報】 ついに読売が真実を報道!1000万人が真実を知った! 「慰安婦強制連行は朝日新聞が創作した」

2013-05-19 10:09:19 | マスコミ
【速報】 ついに読売が真実を報道!1000万人が真実を知った! 「慰安婦強制連行は朝日新聞が創作した」

http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1368870781/


1 : キジ白(愛知県):2013/05/18(土) 18:53:01.18 ID:4kviwYOB0● ?PLT(12100) ポイント特典

従軍慰安婦強制連行問題、朝日新聞の記事が始まり

従軍慰安婦問題は1992年1月に朝日新聞が「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していた」と報じたことが発端となり、日韓間の外交問題に発展した。
記事中には「主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した」などと、戦時勤労動員制度の「女子挺身隊」を“慰安婦狩り”と誤って報じた部分もあり、強制連行の有無が最大の争点となった。
宮沢内閣は同年7月、軍による強制徴用(強制連行)の裏づけとなる資料は見つからなかったとする調査結果を発表した。しかし、韓国国内の日本批判は収まらず、政治決着を図る狙いから、
翌93年8月、河野洋平官房長官(当時)が、慰安所の設置、管理、慰安婦の移送について軍の関与を認め「おわびと反省」を表明する談話を発表した。

 ところが、河野談話によりかえって「日本政府が旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた」という曲解が広まったため、第1次安倍内閣は2007年3月、
「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定している。

読売新聞 2013/5/14
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130514-OYT1T00220.htm



<参考>
◆慰安婦強制連行の話は朝日新聞の捏造記事から始まった!
「FLASH」(9.11号)
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911502.jpg
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911468.jpg
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911503.jpg

「慰安婦強制連行問題は、朝日新聞が捏造し、それに韓国が乗っかって花を咲かせたのだ。
では、この問題を大きく育てた朝日新聞は『捏造批判』にどう答えるか。『締め切りまで時間がないので回答できません』。
日韓関係をここまでめちゃくちゃにした謝罪の言葉は、いっさいなかった」



※なお朝日新聞の記事に乗じて、慰安婦関連団体の多くが1992年に誕生しています








2 : カナダオオヤマネコ(東京都):2013/05/18(土) 18:53:44.55 ID:o8u60oxG0
拡散


3 : キジ白(愛知県):2013/05/18(土) 18:54:06.61 ID:4kviwYOB0
>>1
読売新聞購読者数 994万人
http://adv.yomiuri.co.jp/yomiuri/n-busu/


4 : マーゲイ(栃木県):2013/05/18(土) 18:54:24.06 ID:KQKaDbmz0
朝日新聞ンゴwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


5 : イリオモテヤマネコ(SB-iPhone):2013/05/18(土) 18:54:31.52 ID:QYhjgYr3P
朝日新聞 vs 日本人


6 : 茶トラ(関東・甲信越):2013/05/18(土) 18:54:55.14 ID:QhI2IW2KO
朝日の罪は日本海より深い


9 : サバトラ(関東・甲信越):2013/05/18(土) 18:56:33.58 ID:VQnxVuGyO
読売は何年も前にも、同じように報道してたよ

■従軍慰安婦プロパガンダ論点まとめ

・強制だ→証拠出せ日本差別主義者ども
・女性の性搾取だ→日本人をレイプしまくってRAA(特殊慰安施設協会)利用してたアメリカが言うな
・人権侵害だ→70年も前の話を自分達を棚に上げて日本だけ現代の価値観で叩くな

証拠もないのに俺らのじい様たちに冤罪をなすりつけ
性犯罪者呼ばわりする差別主義者どもを絶対に許さない

勘違いしてはいけないのが、従軍慰安婦プロパガンダの問題は
その大部分が、日本国内に居る反日・差別主義者どもの日本差別
だと言う事だ

コイツラ日本国内の日本差別主義者どもを駆逐しないと
いつまで経っても日本差別は無くならない

先ずは、従軍慰安婦プロパガンダは朝日新聞やマスゴミの
捏造だと言う事を日本人全員の常識にする事が何よりも
大事な事だ




16 : マーゲイ(東京都):2013/05/18(土) 18:58:13.87 ID:ztZe5b2J0
朝日が今なお存在してることが許せんわ


17 : バリニーズ(福岡県):2013/05/18(土) 18:59:00.45 ID:Gjuhyguu0
太平洋戦争時下においても日本を壊していったのは朝日
今も絶賛破壊工作中の朝日
戦前戦中戦後と新聞報道で国民を煽ってきた朝日
朝日は潰れるべき


24 : キジ白(愛知県):2013/05/18(土) 19:01:11.32 ID:4kviwYOB0
◆朝日新聞記者、親族の訴訟を有利にするために捏造記事を書いたことが判明!

> きのうのニコ生アゴラは「慰安婦」というマイナーなテーマだったが、「とても良かった」と
> 「良かった」の合計が96%という最高記録だった。あらためて確認したのは、
> この問題は朝日新聞が捏造したものだということである。
> 西岡力氏もいうように、これは誤報ではなく意図的な捏造である。なぜなら植村記者の妻は韓国人で
> 義母が訴訟の原告団長だったので、韓国語の読める植村記者は訴状の内容を知っていたはずだからである。
> 彼は義母の訴訟を有利にするために「日本軍の強制連行」という話にしたのだ。
http://agora-web.jp/archives/1478590.html

◆従軍慰安婦はお金を求めて稼ぎに来た

当時を知る台湾のじっちゃんも証言した。慰安婦はいません。
お金を求めて稼ぎに来た売春婦。
兵隊さんの数倍の収入だったので、本人がよろこんでやってました。
http://www.youtube.com/watch?v=_Lw2imEyYxU&feature=player_embedded
http://blog-imgs-24.fc2.com/r/o/b/roboukoishi/20060927211218.jpg




35 : 斑(新疆ウイグル自治区):2013/05/18(土) 19:06:25.20 ID:gTlyaIqc0
平成3年、朝日の植村隆記者が元慰安婦の証言なるものを報じる
内容は金学順氏が「女子挺身隊」として「戦場に連行された」との捏造記事
12月 韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が元慰安婦3人を含む35人を
原告として1人2000万円、計3億円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起す

韓国側に責められるままに非を認め謝罪し事態を沈静化しようとした。
これが河野官房長官談話。日本政府が官憲等による慰安婦の強制連行への直接の加担認めたことになる
そして、安倍内閣が朝日新聞の捏造報道を認めた河野談話を再確認して肯定し
安倍談話を発表しようとしている




37 : キジ白(愛知県):2013/05/18(土) 19:06:47.08 ID:4kviwYOB0
◆戦後、戦中の米軍では慰安婦は売春婦と認定されている

米国陸軍調査報告 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49.
Prisoners: 20 Korean Comfort Girls Date of Capture: August 10, 1944 Date of Arrival: August 15, 1994 at Stockade
日本の従軍慰安婦は志願制だった。兵士はおろか幹部・将校より高給を受けており、好きに暮らし
奔放な買い物から分かるように売春婦といえることが分かった。

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces
India-Burma Theater APO 689
http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html




84 : イリオモテヤマネコ(西日本):2013/05/18(土) 19:49:56.24 ID:Vsl60431P
>>79
酷いよな自民党は

河野談話(従軍慰安婦の強制を認める)を発表して、
それを20年近くにわたって踏襲し続けて、

つい先日も安倍内閣は河野談話を全て踏襲しますと宣言した


いったい何なんだ、

この売国奴の安倍晋三と

売国政党の自民党ってのは?















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(6)台湾で「父」になった八田與一

2013-05-13 09:32:14 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(6)台湾で「父」になった八田與一


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130512/art13051208250001-n1.htm



■命がけで荒れ地を沃野に


 2年前の東日本大震災の後、世界の国や地域が義援金を被災地に送ってくれた。その中でずば抜けて多かったのが、台湾からの200億円を超す援助だった。

 日清戦争直後から先の大戦の終わりまで約50年間、日本による植民地統治を受けた。しかも戦後、日中国交回復のさいには日本から一方的に断交された。それでも台湾の人々の日本に向ける温かい視線は変わっていない。


 台湾の「風土」のようなものもあるが、この間、多くの日本人が身を粉にしながら、台湾のため働いたという歴史によるところも大きい。その一人が台湾総督府の技師、八田與一(はった・よいち)である。

 明治19(1886)年生まれの八田は43年、東京帝国大学土木工業科を卒業後、日本統治下の台湾に渡り台湾総督府土木課に勤務した。ここで取り組んだのが、南部の嘉義県と台南県にまたがる嘉南平野の灌漑(かんがい)事業だった。

 平野は台湾の全耕地面積の約6分の1を占めていたが、夏場の雨期には集中豪雨による氾濫で耕地が流される。逆に乾期になると、水不足で農作物がほとんどとれなかった。

 八田は台南市の北を流れる官田渓(かんでんけい)という川の上流にあたる烏山頭(うざんとう)にダムを造り、そこから全体に平野に水を流すことを考え、「嘉南平野開発計画書」として総督府に提出した。


 計画は認められ、大正9(1920)年、ダム建設が始まった。八田は烏山頭の宿舎に家族とともに泊まり込み指揮をとった。


 しかし工事は難航する。名越二荒之助氏他編『台湾と日本・交流秘話』などによれば、工事現場で石油ガスが爆発、五十数人が亡くなる大事故が起きたこともあった。八田は工事をあきらめかけたが、一緒に働いていた台湾の人たちに励まされたのだという。そして昭和5(1930)年5月、完成にこぎつけた。

 「烏山頭水庫」と名付けられたダム湖は珊瑚潭(さんごたん)とも呼ばれているが、台湾第2のダムだ。この巨大な湖に蓄えられた水が全長1万6千キロに及ぶ用水路を通じ平野を潤している。ダムと用水路を合わせた「嘉南大●(たいしゅう)」が不毛地帯をみごとに沃野(よくや)に変えたのである。


 この八田の活躍は戦前までは日本人の間でもよく知られていた。しかし戦後、日本の植民地統治をすべて否定する歴史観がはびこるとともに忘れられていった。


 これに対し台湾では、戦後も中学校の教科書に載るなど「嘉南大●の父」として敬愛されてきた。最近ではダムと水路を世界遺産に登録しようという運動も起きているほどだ。

 2年前の平成23年5月8日には八田を記念する公園の完成式典も行われた。公園の発案者である台湾の馬英九総統のほか、日本からも八田と同じ石川県出身の森喜朗元首相ら何人かの国会議員が出席した。森氏はこう述べた。

 「石川県よりも台湾の人々の方が八田氏を高く評価していることを知った」

 八田より時代はさかのぼるが、明治34(1901)年には、農政学者の新渡戸稲造が殖産課長として台湾総督府に赴任した。


 新渡戸は札幌農学校を出た後、東大から米国に留学、農政学を学んだ。いったん日本に戻った後、病気療養のため再び渡米していたところ、第4代台湾総督の児玉源太郎や、民政長官の後藤新平の強い要請を受け、殖産振興のため台湾に渡った。

 花井等氏の『国際人新渡戸稲造』によれば、台湾は気候的、地形的にも製糖に適していたが、現実の生産は停滞していた。新渡戸はサトウキビの種類から栽培法、製造法すべてを改良する計画をたて実行に移した。

 この結果、台湾の砂糖生産量は数年の間に3倍に伸び、主力産業になっていったのである。

 新渡戸は後に国際連盟で働き、戦前の日米関係修復につとめたことが評価され、樋口一葉の前の五千円札の肖像ともなったが、台湾での活躍も忘れてはならない。





                          ◇




【用語解説】台湾協会

 日清戦争で割譲を受けたものの、当初スムーズに進まない台湾の統治を側面から支援するため明治31(1898)年、台湾協会が発足した。会頭に第2代台湾総督だった桂太郎、幹事長に前総督府民政局長の水野遵、会計監督に大倉財閥の大倉喜八郎が名を連ねた。

 桂は総督府への政治介入はせず、台湾での起業を後押しする方針をかかげ、台湾の産物の収集、陳列などに力を入れた。またそのための人材育成を目指し33年、台湾協会学校を設立、桂が初代校長となった。後の拓殖大学である。

 ●=土へんに川












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(5)「台湾に手を焼くよ」

2013-05-09 17:13:44 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(5)「台湾に手を焼くよ」


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130505/art13050508040001-n1.htm



■「ヒラメの目」論で統治


 台湾の台北市を観光に訪れる日本人がたいてい足を運ぶのが、市の中心部にある総統府だ。言うまでもなく、台湾の総統が政務をとる建物である。

 バロック式5階建て、中央に塔が立つ赤煉瓦(れんが)の偉容は、見る人を圧倒する。実は日本による統治時代、統治に当たる台湾総督府として建設された。日本が先の大戦で敗れた後、台湾当局が総統府として再利用しているのだ。

 その総統府の300メートルほど東にある台湾の迎賓館「台北賓館」は台湾総督の住居、官邸(公邸)だった所だ。ともに日本統治時代の歴史を今に伝えており、総統府には日本の歴代総督の写真が飾ってあるという。



 日清戦争を戦った日本と清国とは明治28(1895)年4月、山口県下関市の春帆楼で、講和条約(下関条約)を結んだ。

 清が朝鮮の独立を認めること、日本に対して遼東半島と台湾を割譲すること、2億両(当時の金で約3億円)の賠償金を払う-の3点が柱であった。


 このうち遼東半島は、調印からわずか6日後、ロシア、ドイツ、フランスによるいわゆる「三国干渉」により日本が放棄せざるを得なかった。

 だが、台湾については、6月初め、初代の台湾総督となった樺山資紀が台北に乗り込んで総督府を開き、植民地統治を始めた。

 しかし当初は決して安易な道ではなかった。


 台湾はオランダなど西欧の国に支配されていた時期もあり、はっきりと清の版図に入ったのは、1683年のことだった。

 その後、中国大陸の福建省や広東省からの移民が増加し始め、中部から北部へと開拓が進んだ。しかし山地の多い東部は19世紀に入っても、ほとんど未開拓の状態だった。先住民の高山族を完全に支配することもできていなかった。阿片(あへん)を吸う「悪習」もあり、清ももてあまし気味だった。


 講和のさい、清の全権、李鴻章が日本の伊藤博文に対し「貴国は台湾に手を焼くよ」と「忠告」したと言われる。あながち、台湾を手放さなければならなくなった悔しさだけではなかった。そして日本はさっそくこの言葉をかみしめさせられる。

 劉永福将軍が率いる「台湾民主国」軍は、日本の近衛師団と頑強に戦った。このため日本は国内などから次々に兵力を増員し鎮圧にあたり、この年の11月、ようやく平定する。

 それでも最初の3年間ほどは、高山族などの激しい武力抵抗にあい、日本国内では「台湾売却論」まで出る始末だった。


 それだけではなかった。割譲とともに、一旗揚げようと台湾に渡る日本人も多かったが、中には悪徳商人のような者もいた。彼等は総督府の役人と結託し、台湾人から搾り取ろうした。また軍の中にも総督の命令を無視し、勝手に武力をふるう者もおり、一段と反発を買っていった。


 何とか軌道に乗るのは統治開始から3年後の明治31年、第4代総督となった児玉源太郎が、統治を実際に取り仕切る総督府民政局長(後に民政長官)に、後藤新平を起用してからだった。


 大正12年の関東大震災で復興計画を立案する後藤は元々医師で、日清戦争の後、戦地から復員する兵士の検疫を担当した児玉の補佐を務め辣腕(らつわん)をふるった。そのことで児玉の強い信頼を得た。

 その後藤は統治に当たって「比目魚(ヒラメ)の目」という独特の「哲学」を持っていた。

 「比目魚の目が体の片側に2つついているのは生物学的理由があるからで、無理やり変えるわけにはいかん」というのである。だから統治する場合も、台湾の古い慣習や制度を生かし、日本のシステムを押しつけるのを避けた。

 そうした古い習慣、制度を綿密に調べる「旧慣調査」を実施し、その結果として住民が相互監視する「保甲」を利用した警察制度をつくり、治安を安定させた。その上で、医療から産業まであらゆる分野で改革を進める。




                          ◇




【用語解説】初期の台湾総督

 初代総督は薩摩出身で海軍大臣や海軍軍令部長などをつとめた樺山資紀。その後、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎という長州出身の陸軍軍人が続いた。

 2代目の桂は辞令を受けた後、台湾を視察するなど意欲を見せた。だが直後に政権交代した松方正義内閣の陸軍大臣を要請されたのに、その後取り消されるという、ドタバタに怒って総督を辞任した。

 代わりに起用された乃木も統治の困難さに絶望して1年余りで辞め、4代目の児玉の起用によってようやく統治が本格化する。








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(4)士気の高さで清に圧勝

2013-05-03 19:05:38 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(4)士気の高さで清に圧勝


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130428/art13042808160001-n1.htm



■従軍記者も間に合わず


 雛(ひな)もなし男許(ばか)りの桃の宿

 明治28(1895)年の3月3日、俳人・正岡子規が詠んだ句である。

 子規はこの日、勤めていた「日本新聞」の従軍記者として日清戦争を取材するため、東京の新橋をたち清国の大連に向かった。


 新聞社内でささやかな送別の宴が開かれた。だが桃の節句にもかかわらず女性は一人もいない。それをおどけてみせた句なのだが、戦地に赴く子規の高揚感のようなものも感じさせる。

 だが長旅の末、4月に大連に着くと、戦争は日本の勝利でほぼ終わり、講和交渉が煮つまってきていた。子規の意気込みも空振りに終わってしまった。


 戦争は前年の明治27年8月1日、日清両国が互いに宣戦布告して始まったが、最初から日本が押しまくった。9月16日には朝鮮半島北部の平壌を攻略し、ほぼ朝鮮全土を制圧する。翌17日には「黄海の海戦」で清国の北洋水師(艦隊)を破り、この海域での優位を確立した。

 さらに10月、陸軍の第一軍が国境の川、鴨緑江を渡り満州(現中国東北部)に攻め込んだ。新たに編成された第二軍も遼東半島に上陸し、11月21日、北洋水師が拠点としていた旅順を陥落させた。


 翌明治28年になると、残った艦隊が逃げ込んでいた山東半島突端の港、威海衛(いかいえい)に攻撃の的をしぼった。陸軍が背後から要塞を攻めて砲台を奪い、海軍は表から水雷による攻撃で、北洋水師が誇る艦「定遠」に大打撃を与える。


 2月12日には艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督が降伏を表明した。これによりいよいよ清の心臓部である直隷(ちょくれい)(現河北省)地方が攻撃対象にさらされることになった。



 清は休戦を求めた。3月19日、全権を委ねられた北洋大臣の李鴻章が来日、山口県下関の料亭「春帆楼」で、日本側全権の伊藤博文との間で講和交渉が始まる。


 4月17日には、清が朝鮮の独立を認めるなどとした下関講和条約が調印され、日清戦争はわずか9カ月足らずで、日本の勝利として終わった。


 この戦争には、アジアの権益にあやかろうとしている西欧の強国も強い関心を持ち、多くの軍人らが「視察」にきた。その西欧列強の「見立て」では、圧倒的に「清国乗り」だった。

 何しろアジアの大国である。軍事的にも優位にあるはずだった。特に海軍は、7千トン級の装甲砲塔艦「定遠」「鎮遠」の2隻を持つ清に対し、日本は3千~4千トン級の巡洋艦が中心だった。

 それでも日本が「圧勝」したのは、海軍の戦術が優れていたこともあったが、何といっても「士気の高さ」が違っていた。


 ほんの四半世紀ほど前、日本は明治維新により新しい国をつくった。政治家から軍人、兵士に至るまでこの新しい国を守りたいという固い決意を持っていた。朝鮮半島から清を追い出さなければ、日本がいつかその手に落ちるという危機感を共有していたのだ。


 開戦するや明治天皇は広島の大本営(戦時の作戦本部)に行幸、半年間も泊まり込まれた。周囲が寒いからと部屋にストーブをつけようとしても「戦地に暖房があるのか」と許されなかった。こうした姿勢が、士気を一段と鼓舞したのである。



 一方、清はもはや老いていた。開戦に当たっても、李鴻章らは最後まで回避論に立っており、朝鮮への援兵は遅れた。

 開戦後も兵たちの士気は上がらず、威海衛の戦いでは陸軍はさっさと砲台を捨てて逃走する。海軍でも日本軍の攻撃を受けると、兵たちが艦長らに銃を突きつけ降伏を迫った。

 両国民の戦争への意気ごみの違いが勝敗を決定づけたのだ。

 作家、司馬遼太郎氏は著書『坂の上の雲』で日清戦争を次のように総括している。

 「老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだでおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた」



 
                        ◇



【プロフィル】李鴻章

 り・こうしょう 中国・清末期の外交、軍事をとりしきった政治家。1823年生まれ。曾国藩の幕僚として太平天国の乱鎮圧にあたり、その後、清国中枢の現河北省やその周辺を管轄する直隷総督兼北洋大臣として、大きな権力を握った。

 外国事情にも通じ「東洋のビスマルク」として国際的に知られ、ほとんどの外交を任された。日清戦争に負けたことで閑職に追いやられたが、その後ロシアと密約を結び、義和団事件後は、再び直隷総督兼北洋大臣に任命され、事態収拾に当たるなどした。1901年死去。

















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(3)清と戦う

2013-05-03 19:00:28 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(3)清と戦う


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130421/art13042108330001-n1.htm



■早かった先制攻撃の決断


 19世紀から20世紀にかけての東アジアでは、新興宗教団体が何度か歴史を動かしている。

 中国の清朝後期、大軍団で南京などの都市を占領し「太平天国」を名乗った洪秀全の拝上帝教がそうだった。やはり清朝末期に西欧列強に対抗して乱を起こした義和団も、白蓮教の流れをくむとされる宗教的な団体である。


 そして19世紀末、日本と清との戦いを呼び込んだのは、朝鮮半島に生まれた新興宗教「東学」だった。1860年、崔済愚(チェ・ジェウ)が起こした「東学」は儒教や仏教、道教を合わせたような教義だった。

 朝鮮にも伝わりつつあったキリスト教(西学)や、それに伴う西欧の文化に対抗する極めて排他的な宗教で、農民たちの支持を得て急速に広まった。「東学党」という政治結社までできた。

 その東学党を中心に、半島南西部の全羅道古阜郡というところで農民らが反乱を起こした。明治27(1894)年2月のことである。農民たちが郡による徴税の仕方に反発したためだが、「宗教一揆」だけに、団結は強い。5月には、とうとう全羅道の道都、全州を陥落させてしまった。

 だが当時の李氏朝鮮政府には鎮圧するだけの力がない。そこで半島に影響力を強める清国に助けを求めた。清の軍事、外交を握っていた李鴻章は、ただちに歩兵2千人に山砲8門をつけ全羅道の北、忠清道の牙山に派遣した。



 一方、日本である。全州陥落の情報を得るや、6月2日の閣議で混成一個旅団の派兵を決め、6日にはうち千人余りが広島・宇品港から首都・漢城(現ソウル)西方の仁川に先発した。日本人を保護するためとしていた。

 だがこの混成一個旅団は、邦人保護としてはあまりに立派すぎる陣容だった。しかも戦時に作戦を担当する「大本営」を、初めて広島に設置する。


 明らかに清の派兵に対し一戦を交える意志を示していた。このまま清が反乱を鎮圧すれば、李朝は完全にその軍門に下るだろう。そうなれば海峡を隔てた日本も危うい。この時代の日本人が共有していた危機感だった。


 しかも3月末に起きた金玉均暗殺事件も出兵を後押しした。金玉均は福沢諭吉らとも親交があった親日家で、朝鮮の開化派の代表だった。金が農民の乱に呼応するのを恐れた李朝政府が上海に誘い出し命を奪ったとされる。これが日本の世論をあおり、政府に強硬な対朝鮮政策を求めた。


 だがこうした日清両国の出兵を恐れた東学農民軍は11日には李朝政府と「和約」を結び、さっさと解散してしまった。振り上げたこぶしを振るえなくなった清は日本に対し、いっしょに撤兵しようと提案した。


 だがすでに戦時体制の日本は止まれない。清側の提案を拒否、逆に日清共同で朝鮮の「内政改革」にあたることを提案した。余計なお世話に見えても、「朝鮮が改革をしない限りまた反乱が起きる。それまで撤兵はできない」という理由からだった。



 清がこれを断ると22日、天皇臨席の会議で、内政改革協定が実現するまで撤兵しないことを決定した。そして25日には、仁川の部隊を首都・漢城南方の龍山にまで進出させる。何度も繰り返すが、当時の朝鮮が自立した近代国家となることは、日本の安全保障上どうしても必要だったからだ。


 さらに7月に入ると、李朝政府に対し、清軍の撤退を求めるなどの要求を行った上で23日未明、ついに軍事行動に出た。龍山の兵を王宮に突入させ、李朝政府を支配していた閔(びん)氏一族を追放する。これを受けて高宗国王は父親の大院君に政務を委ねた。


 日本軍はその大院君の「委任」という形で清軍を攻撃する。全て計画通りだった。海軍も黄海の豊島沖で清の輸送船を沈める。日清戦争の火ぶたが切られたのだ。

 両国の正式な「宣戦布告」は8月1日だった。日本陸軍は9月には再び仁川に上陸、北部の中心都市、平壌を落とし、優勢に戦線を広げていく。




                      ◇



【用語解説】清

 中国東北部の満州族による王朝。17世紀初め東北を統一、国号を「清」と改めた。1644年、李自成の反乱軍が北京を陥落させ「明」が滅ぶと、清は山海関を越えて中国本土に入った。李自成を追放して「清王朝」の成立を宣言、北京を都とした。

 18世紀までには、西の新疆(しんきょう)から南の雲南、東の台湾にまで勢力を広げ、中国の王朝史上最大の版図を得て隆盛を極めた。しかし19世紀になり英国とのアヘン戦争や、国内の太平天国の乱などにより衰退、日清戦争に負けたことが最後の打撃となり、1912年、辛亥(しんがい)革命で滅んだ。







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(2)大陸・半島そして日本 李朝の近代化求め清と対立

2013-05-03 18:50:47 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(2)大陸・半島そして日本 李朝の近代化求め清と対立


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130414/art13041408550001-n1.htm



 北朝鮮との国境を流れる鴨緑江の北側、中国遼寧(りょうねい)省に丹東という都市がある。戦前は安東と呼ばれ朝鮮半島から陸路、満州(中国東北部)へ行く入り口だった。

 対岸が北朝鮮の町、新義州である。上流部の国境は大半固く閉ざされているが、二つの都市は戦前に日本が架けた橋で結ばれ車や列車が行き来する。

 亡くなった北朝鮮の金正日総書記も何度かこの鉄橋を渡り、列車で北京などを訪問している。川幅は1キロ足らずで、中国大陸と朝鮮半島とが「地続き」であることを実感させる。

 この「地続き」ゆえに、朝鮮半島は有史以来、何度も北方民族の侵略を受けてきた。その都度これと戦うのか、従属するのかの決断を迫られた。

 一方、その朝鮮半島と海峡を隔てた日本はこの半島が「クッション」役をつとめたおかげで、中国大陸から直接の侵略を受けることはほとんどなかった。


 607年、聖徳太子が小野妹子を大陸の隋に派遣、煬帝に国書を渡したときもそうだった。

 「日出(いづ)る処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」という内容だった。「我々は対等なんだよ」と、中国からの自立を宣言したようなものである。


 煬帝は怒ったというが、日本を攻めることはなかった。当時隋は朝鮮半島の高句麗と抗争中で、そんな余裕はなかった。そうした国際情勢を的確につかんでいた太子の「外交勝利」だった。


 ただ13世紀に中国や朝鮮半島を支配したモンゴルの元(げん)だけは半島を伝うなどして日本に攻めてきた。2度にわたる元寇(げんこう)である。

 鎌倉武士による必死の国家防衛戦と、襲ってきた「神風」のおかげで元への屈服を免れたが、日本人は半島が大陸の強大国の手に落ちることの恐怖を味わった。


 その恐怖心は明治になっても生きていた。幕末に開国し近代化の歩みを始めた日本は明治9(1876)年、李氏朝鮮(李朝)と日朝修好条規を結び、李朝の近代化と清からの独立とを強く求めた。李朝が背後の清国やロシアと対等な国になってくれなければ、日本も危ういと考えたのだ。


 だが明治15(1882)年、朝鮮で「壬午(じんご)の軍乱」といわれる暴動が起きると、危うさが早くも現実のものとなった。


 高宗国王の妃、閔妃(びんぴ)を中心に一族が実権を握る「閔氏政権」が、日本の軍人を教官に近代的な軍を創設しようとして訓練を始めた。李朝では伝統的に武官より文官が優遇され、外国に対抗できるような軍を備えてなかったからだ。「それではだめだ」と、日本の要請に応える形で「強い国」を目指したのである。


 だがこれに職を失う旧軍兵士らが反発、市民を巻き込んで暴動を起こした。日本公使館も襲い、教官の日本人軍人らが殺害された。日本は軍艦4隻などを首都漢城に近い仁川に結集させ、高宗国王に謝罪や損害賠償を求める。


 しかしその間に清が大軍を派遣して乱を鎮圧してしまった。この結果、日本が恐れた通り清の李朝への影響力が増し、ことあるごとに干渉するようになる。明治17年には、金玉均ら朝鮮の開化派と日本兵とが閔氏政権に対しクーデターを試みるが、これもまた清の軍に潰される。


 翌18年、日本と清との間で「天津条約」が結ばれた。両国とも朝鮮から撤兵し、今後出兵することがあれば互いに事前通告することを取り決めたのだ。

 だが高宗国王は、それに乗じて日本でも清でもなくロシアと何度も秘密協定を結び、その力に頼ろうとし、緊張を高めた。


 こうした中、明治23年、日本の第1回帝国議会が開かれた。そこで施政方針演説に臨んだ首相、山県有朋は、日本が独立自衛するための「利益線」を保護する、と述べた。利益線とは朝鮮半島のことであり、半島を守り抜くことを宣言したのである。

 そして27年、朝鮮で「東学党の乱」が起きると、日本と清とがついに全面衝突する。




                        ◇



【用語解説】李氏朝鮮

 1392年、太祖・李成桂が仕えていた高麗を滅ぼして樹立した朝鮮の王朝。李朝ともいう。首都を開城から漢陽(後に漢城、現ソウル)に移し、儒教を事実上の国教とし、外交的には中国・明との関係を重視する親明政策をとった。15世紀までには官僚機構を整え、農業技術や文化も発展し隆盛期を迎えたが次第に衰退する。

 対外的には朝鮮国、大朝鮮国を名乗り、1897年からは大韓帝国と称した。だが1910年、日露戦争に勝った日本に併合され、520年近い歴史に終止符を打った。









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(1)大津事件 もう一つの顔

2013-05-03 18:50:31 | 歴史
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】

(1)大津事件 もう一つの顔


http://sankei.jp.msn.com/life/news/130407/art13040709290000-n1.htm



 ■募るロシアへの警戒心


 滋賀県大津市は日本一の湖、琵琶湖の南岸に位置する。市内には有名な瀬田の唐橋や紫式部が「源氏物語」を書いたとされる石山寺がある。京都に近いこともあってこの季節、観光客で賑わう。

 その大津市のほぼ中央、滋賀県庁近くの旧東海道の民家軒下に小さな石碑がたっている。「此附近露國皇太子遭難之地」とある。


 明治24(1891)年、日本を訪れていたロシアのニコライ皇太子が、警衛の警察官に斬りつけられるという「大津事件」が起きた場所なのである。

 この年の4月末長崎に到着したニコライ皇太子はその後、神戸から京都を経て5月11日、船で琵琶湖遊覧を楽しんだ。その後県庁に向かう途中、津田三蔵という元武士の警察官にサーベルで斬りつけられたのだ。

 皇太子の傷は浅くてすんだ。だがこのとんでもない事件に日本中が震え上がった。




 ロシアと言えば当時、世界有数の軍事力を誇る大国だった。その将来の皇帝である皇太子を傷つけてしまった。ロシアが本気で報復に出たりすれば、まだ近代化の途上にある日本など、ひとたまりもないからだ。

 明治天皇が直ちに京都へ行幸、皇太子を見舞う。ロシアに謝罪使の派遣を検討もした。しかし皇太子はこの後、東京へ向かう日程をキャンセルし日本を後にする。


 ロシアの報復を恐れる日本政府は、津田に刑法の皇室への罪を適用、死刑にしようとした。これに対し大審院長、児島惟謙(こじま・いけん)はこの政府の圧力を退け「皇室罪は外国の皇族には適用できない」と、無期徒刑の判決を下した。

 このため現代では「大津事件」と言えば、児島が司法の独立を守ったことだけが強調される。



 その陰で意外と知られていないのが、ニコライ皇太子が日本を訪れたいきさつであり、当時の日本を取り巻く国際情勢である。皇太子は実は日本海に面した沿海州の都市、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道の起工式に臨席するための旅の途中だった。


 前年の10月、首都ペテルブルクを鉄道で出発、オーストリアのウィーンを経てアドリア海のトリエステから軍艦に乗る。この情報を得た日本がロシア側と交渉、途中での日本訪問が実現したのだ。事件の後、皇太子はそのままウラジオストクに入り、予定通り起工式に臨席している。


 同じロシアの欧州とアジアとを結ぶシベリア鉄道の敷設はこの国の悲願だった。シベリアの開発ばかりでなく、その先の満州(中国東北部)や朝鮮半島にまで権益を拡大するには鉄道が必須だったからだ。1850年代から計画され、ようやくこの年、西側のチェリャビンスクと東のウラジオストクの双方から工事が始まった。皇太子とは別の船で千人を超える作業員が向かっていたという。


 日本にすれば、これは脅威だった。地図を開けば分かるように、ウラジオストクから陸続きに200キロも南下すれば、もう朝鮮半島である。シベリア鉄道が開通すれば、この半島は早晩ロシアの支配下に置かれるかもしれない。半島が落ちれば次は日本である。

 西欧の強国の力がアジアにも押し寄せる植民地主義時代に生きた日本人なら誰もが抱いた危機感であった。ロシアと戦う力などないと自覚する日本政府は「友好」を育むべくニコライ皇太子を日本に招いたのだった。



だが一般国民は、もっと強い恐怖感をもって受け止めていた。吉村昭氏の『ニコライ遭難』によれば、皇太子一行の来日の目的は遊覧ではなく、軍事偵察のためではないかという風評が広まっていた。いずれシベリア鉄道を使って日本を攻略するための一歩だというわけである。津田もその影響を受けていたのかもしれない。

 いずれにせよ日本は、朝鮮半島やその北の満州をめぐるロシアへの脅威から「富国強兵」策を進める。それが日清、日露両戦争や日韓統合などにつながっていくのである。

 

                 ◇



【用語解説】シベリア鉄道

 ロシアのモスクワとウラジオストクとを結ぶ全長9000キロ余りの鉄道の通称。このうちウラル山脈以東のシベリア横断部分は1891年、ウラジオストクとチェリャビンスクの東西2方向から着工した。アムール川沿いの現在の路線が完成したのは1916年だが、ロシアは途中のチタから満州を横断してショートカットする東清鉄道の建設を清国に認めさせ、1903年、いちはやくロシアの欧州と極東が結ばれた。







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