ふるさとの昔ばなしシリーズ 行方市
土呂之助と亀
むかし、矢幡(現在の行方市矢幡)の高台に、北浦が眺望できる「矢幡要害*1」がありました。
かつて島崎城(現在の潮来市島須)の家老*2職にあった土子土呂之助(泥之助)が廃城後、北浦の水上目付*3となり館を築いたことから、「土子の要害台」ともいわれています。
あるとき、村人たちが北浦の沖を眺めながら大騒ぎをしておりました。何事かと土呂之助が要害台から見やると、湖上に何やら怪しげな大きな物体が浮かんでいるのです。
「あれがこのあたりの水田を荒らしまわっている大亀か。よし、私が退治してやろう。」弓の名人でもあった土呂之助が大亀にねらいをつけ矢を放つと、矢は見事に亀の背中に命中したのです。
息をこらして見守っていた村人たちから、どっと歓声が上がりました。背に矢を受けた亀は次第に沖へ沖へと流され、やがて見えなくなってしまいました。
それからしばらくして、土呂之助が武者修行*4の旅に出、鎌倉の宿屋に泊まったときのことです。宿の床の間に見覚えのある弓矢が飾ってありました。手に取って見ると、矢に自分の銘*5が入っているではありませんか。
宿の主人を呼んで聞いてみると、「背中に矢をうけた大きな亀が流れ着いたので、何かわけがあるのだろうと思い大事に取っておいたのです。」という。「で、亀の方は。」とたずねると、亀は裏の洗い場においてあるというのです。
見ると、畳一畳分もある亀の甲が、洗い場の踏み台として使われておりました。『これがあの時の大亀か。なんという不思議な巡り合わせだ。』
なんとなくいやな予感がしたものの、土呂之助が亀の背に足をかけると、甲羅は突然パックリと二つに割れたのです。
その時、土呂之助は足をとられて転び、軽い怪我をしてしまいました。後に、その傷がもとで破傷風*6になり、旅先で亡くなったのだという話も残されています。
*1 要害地勢がけわしく、守りやすく攻めにくい場所。とりで。
*2 家老江戸時代、大名に仕えて家中を統率する最高位の家臣。また、その職。この名は鎌倉時代からあった。
*3 目付非法を検察し、これを主君に報告した監察官。
*4 武者修行武士が諸国を回って、武術の修行・鍛錬をすること。
*5 銘刀剣など器物に刻み記した製造者の名。
*6 破傷風外傷から体内に入った破傷風菌の毒素のために起る感染病。
参考資料「麻生町史 通史・民俗編」(麻生町)
「茨城県の歴史散歩」(茨城県歴史散歩研究会)
「旧麻生町老人会・代表 飛騨春雄氏文書」
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