「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「考古学からみた島崎氏と城郭」講演録1回目

2021-06-24 06:54:31 | 歴史

平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。

はじめに

今から24年前の話ですが、今日の話の中心となります、島崎城の外側の部分の発掘調査を担当致しました。

私は遺跡の発掘調査、つまり考古学の調査を生業としておりまして、「お城が大好き」なんです。そして「国衆」と言いまして、戦国大名まではいかない、中規模の人々そういった勢力にすごく魅力を感じております。

この鹿行地方というのは、その国衆たちが割拠する、そういう地域の一つであります。その居城の一つを調査する訳ですから大変うれしく感じました。

調査は暑い夏に行ったのでが、充実した日々を過ごしたことを、昨日の事のように思い起します。そのご縁で、その後島崎城の外側で三回程、さらに、牛堀中学校の近くの大台城西出城、いわゆる砦の発掘調査を行っています。

その間、何回か講演をさせて頂いたり、当時の牛堀町史にあたる「ふるさと牛堀」に、「島崎城の想像図」そんなものを描かせて頂きました。ただですね、今日的な研究水準からみると、少し訂正をしなければいけない部分、考えなおさなければいけない部分も出て来ております。

さらに、長い月日が経ってきましたけれど、島崎氏あるいは島崎城の研究というものが残念ながら進化していない。周りにあまり知られていないということがあります。すごく寂しいし悲しいです。それは調査を担当した者として、私にも責任があるのかなあと思います。

ですから、興味のある人には一層興味を持ってもらう、興味のない人に興味を持ってもらえるような、一般の人に向けた島崎氏あるいは島崎城の歴史を、発信できたら良いかなあと思っていました。

そういった矢先に、今回のお話の機会を頂いたわけであります。そこで本日は、改めて資料を見直しながら、現時点で分かってきたことを整理しまして、当時の中世史の一旦を皆様にお伝えできればと思います。

本日は資料を配布しましたので、資料に基づき説明に入ります。

本日の島崎氏について、一つ質問いいですか?島崎氏ご存知の方、会場に何人くらいおりますか?(会場・挙手)

ああ、うれしいですね。大勢いますね。

さすが地元ですね、多くの方が知っていらしてありがたいです。

ここに、島崎氏と長山氏の系図をだしております。島崎氏の系図につきましては「島崎盛衰記」という軍記物語にあるのですが、その他いくつか知られております。

ここでは「新編常陸国史」という本をもとに書かれたもので、「ふるさと牛堀」に掲載された系図を中心に、話を進めて参ります。この島崎氏の系図につきましては、研究途上でして系図ごとに微妙に違います。

ただ、一貫していることは、桓武天皇の血を引いた平氏であるということ。「平氏」というと西の方という印象があるかも知れません。平安時代の終りに、平将門という人が反乱を起こします。それを鎮圧したのが平貞盛です。貞盛とその弟の重盛、この子孫が根を降ろしまして「常陸平氏」と呼ばれるようになっていきます。

ちなみに、何年か前に大河ドラマの主人公を努めた、有名な平清盛という人物がいます。この平清盛は貞盛の子孫でして、「伊勢平氏」と呼ばれます。私は千葉県に住んでおりまして、「千葉氏」が根を降ろしますが、この義文からの流れを受けております。

島崎氏の子孫の維幹が、茨城の「大掾(だいじょう)」という役職につきます。

大掾というのは国(県)には、一番上の長官にあたるのが「(かみ)」、次官が「(すけ)」そして三等官が「(じょう)」四等官が「左官(さかん)」と四階級に大きくわけられます。

なんだ、大掾になったって三等官じゃないかと皆さん思われるかも知れませんが、実は常陸の国の国府は石岡にあり、そこには守がおります。

ここ常陸の国は親王人国といって、天皇の息子が長官につくことになっています。

しかし、実際は茨城県には来ません。次官の介も形骸化しており、実質、この常陸の国を運営して茨城を切り盛りしているのが「大掾氏」という役職なのです。

その実質上の茨城県のトップにあたる役職に、代々、これ以降名字が大掾氏と呼ばれるようになり、戦国時代の終りまで勢力を張って行きます。

その大掾氏から行方、今の行方郡に土地を貰って「行方氏」というのが一族で分立していきます。

ちょうど、宗幹という人が源平の戦いで源義経とかが活躍して、平安時代から鎌倉時代の転換期の頃です。この息子の為幹が小高に所領を貰い、家幹が麻生、幹政が玉造そして潮来の島崎郷に高幹が領地を貰って、それぞれ地名をとって小高氏・麻生氏・玉造氏・島崎氏という家が起こってきます。資料をみてお気づきになると思いますが、皆、今の地名と同じです。

その土地を貰って、そこに住み始めるとそこの土地の名前を名字にしていく、根っこは皆一緒ですね。

だから、一族間の結びつきは大事にしていく。皆さん、幹(みき)という字が「もと」と言いますが、これを名前の一字に取り入れています。これを通り字というのですが、殆どが幹・幹・幹とついております。

そうすると、これは同族だなとわかる訳です。島崎氏はこの高幹を初代にして、約400年間勢力を伸ばして、そして戦国時代の後半には、行方の旗頭と呼ばれるまでに成長していきます。

今日のテーマはこの島崎氏を見ていくわけですが、

■初代の高幹さんはどこに住んだの?

■島崎城はいつ築かれたのか?

■島崎氏はどのようにして戦国時代を生き抜いたのか?

■城郭から見ると島崎氏はどう映るのか?

■島崎城の終りと言うのはどうなのか?

これを主なテーマとして見ていくことにしましょう。⇒次回につづく。

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿