「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

【寄稿文】武士の時代を築いた源氏の考証 第三編 (3/5 編構成)

2022-12-01 15:12:12 | 歴史
-第3編      第2編からの続きになります。 
令和 4年 10 月 25 日 森田 衛 (神栖市) 
生涯学習:源氏と平氏レポートより
武士の時代を築いた源氏の考証 第 3 編 
(源平の騒乱で活躍した東国武士団) 

第 1 節 源頼朝により鎌倉幕府の成立 
第 2 節 守護・地頭の設設置
第 3 節 頼朝と義経の対立 
第 4 節 義経襲撃と頼朝追討の宣旨 
第 5 節 こんどは義経追討の宣旨 
第 6 節 奥州合戦 
第 7 節 なぜ、源頼朝と義経兄弟は決裂してしまったのか?
第 8 節 坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府 
第 9 節 陰謀渦巻く鎌倉幕府 
第 10 節 亀の前事件
第 11 節 北条義時が鎌倉に残った理由 
第 12 節 北条政子は頼朝と並ぶ権力を持つ存在
第 13 節 源頼家(万寿)の誕生 
第 14 節 上総介広常の誅殺事件 
第 15 節 富士の巻き狩りと曾我兄弟の仇討ち 
第 16 節 謀反を疑われた源範頼 
第 17 節 未成熟な鎌倉政権・政策 
第 18 節 頼朝の幕府体制の変化 
第 19 節 大姫の入内問題と朝廷工作 
第 20 節 政子(尼御台)の悲願  
第 21 節 三左衛門(後藤基清、中原政経、小野義成)の変発生 
第 22 節 13 人の合議制 


源頼朝により鎌倉幕府の成立 
 治承4年(1180 年)12月、源頼朝は鎌倉に自身の邸宅となる「大倉御所」と御所の 西に十八間の広さを持つ「侍所」を設置した。 
侍所別当となった三浦氏一族の和田義盛が、頼朝の前で311名の武士たちの名前 を記帳する着到の義を行い、頼朝は鎌倉の主「鎌倉殿」となり武士達は「鎌倉殿」を主 君とする従者「御家人と」なった。
  頼朝は、寿永元年(1182 年)、伊勢神宮へ四海泰平、万民豊楽の願書を奉納した。 その中に「無事上洛を遂げ、朝敵を防ぎ、世務を後白河院に返す」という意味のこと を明文している。
 すでに院宣によって朝敵となった身であるのに、こう書き記す頼朝の 意志力は強力であったと言える。ちなみに、伊勢神宮では平家の報復を恐れて奉納 の品だけ受け願書は返した。 
 寿永2年(1183 年)には、朝廷より東国(関東)の支配権が認められ、文治元年 (1185 年)の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅ぼし武士の最高峰に上りつめた。 
 建久 3 年(1192 年)に、鎌倉幕府が開かれた」とされているが、これは、源頼朝が「征 夷大将軍」に任命されたのが建久 3 年(1192 年)だったために通説では、この年に鎌 倉幕府が開かれたとされている。 
 しかし、諸国の統治を行う「守護」、荘園や公領で税の取り立てをする「地頭(じとう)」 は、文治元年(1185 年「壇ノ浦の戦い、平家滅亡」)から置かれていたため、現在では、 頼朝による武家政権(鎌倉幕府)は文治元年(1185 年)に開かれていたと解釈されるこ ともある事も付け加えて置きたい。「イイクニ」なのか「イイハコ」なのか興味深い所です。 

守護・地頭の設置 
 平氏滅亡後,諸国では騒乱が多く、その度に東国武士を派遣して鎮定することは諸 国の疲弊につながった。そこで、文治元年(1185)年11月、源義経・源行家追討の院 宣を受けた頼朝は、両名の捜索を名目にして守護・地頭設置の権限の申請し、後白 河法皇から許可を得た。 
 このことにより、守護は国ごとに 1 人置かれ有力御家人が任命され頼朝の軍事・警 察権は全国的なものに拡大し土地管理・年貢徴収・治安維持にあたった。 頼朝はこの守護・地頭を設置することにより全国支配への布石を打つことが出来き、 貴族の政治から武士の政治への展開の第一歩であった。
  源義経・源行家追討の院宣を院から出させ、両名の捜索を名目にして全国各所に 守護・地頭を置いた頼朝は非常に賢い策士であった。しかし、自分の兄弟を追討の矛 先にするとは。

頼朝と義経の対立 
 平家の滅亡後、義経は建礼門院と守貞親王、それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼 は九州に残って戦後の仕処理を行うことになった。 義経は京に凱旋し後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官 させた。
 これを知った頼朝は激怒して頼朝の許可なく任官した者たちの東国への帰還 を禁じた。 さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の 驕慢と専横を訴える書状が届き義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ頼朝はさら に激怒した。 
 文治元年(1185 年)5 月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌 倉へ向かうが頼朝の指示で腰越にて足止めされてしまった。 そして宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面することとなった。
 義経は、兄・頼朝 への手紙(腰越状)を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年 6 月に宗盛父子とともに京へ追 い返されてしまった。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。  
 讒言を受けた義経が兄の頼朝との和解のため鎌倉に入るべく一時宿所とし兄・頼朝 への手紙を書いた寺が満福寺であった。その満福寺が「相模国腰越」にあったため、 この頼朝への手紙は後に「腰越状」と呼ばれるようになった。

義経襲撃と頼朝追討の宣旨 
 頼朝は京にいる義経を成敗するため、御家人達を召集しようとしたが名乗り出る者 がいなかった。その理由はいくつかあったのだろうが、まず、義経を討っても御家人が 恩賞として手に入る所領もなく、兄弟ケンカに興味が無く、へたに口を挟めば後々面 倒なことになると考えたのではないだろうか。  その折、土佐坊昌俊が進んで義経成敗を引き受けて頼朝を喜ばせた。昌俊は出発 前、下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託し、頼朝は彼に下野国の中泉荘を 与えている。 
 昌俊は弟の三上弥六家季ら 83 騎の軍勢で、文治元年(1185年)10 月 9 日に鎌倉 を出発し、同月17日、義経の家人達が出払っていて手薄となっていた京の義経の館 「六条室町亭」を襲撃した。義経は佐藤忠信らを伴い自ら討って出て応戦し、後に、源 行家の軍勢も義経に加わり昌俊らは敗退した。  義経は直ぐに後白河法皇のもとへ走って行き、事の次第と無事であることを告げた。 敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込んだが義経の郎党に捕らえられ、10 月 26 日、家人と 共に六条河原で梟首された。(『吾妻鏡』) 
 義経は襲撃翌日の 10 月 18 日に、「頼朝追討の宣旨」を後白河法皇から受け取る と、直ちに挙兵の準備を開始するのだが、思うように兵が集まらずに戦わずして総勢 200騎余りを引き連れて早朝に京を離れた。
 なぜ頼朝追討の宣旨を法皇が出したのか。 京を離れる際、木曾義仲の時とは違い略奪も火付けも一切無く、まことに美しき義経 の撤退であったと噂された。 

こんどは義経追討の宣旨 
 頼朝は、文治2年(1186年)11 月には、ほぼ朝廷を脅すような形で、こんどは源義 経追討の命を出させた。平家滅亡後の朝廷の力はすべて失われ、力のある武士団の 言いなりとなっていた。
 これは、木曾義仲と源頼朝の争いの時も同様で力の強い武士 団の言いなりとなり「追討宣旨」を乱発する朝廷となっていたことが目に見える。 信頼していた後白河法皇に裏切られた源義経は、失意のうちに没落して文治 3 年 (1187 年)奥州藤原氏(藤原秀衡)のもとへ逃れることになった。 
 源(木曾)義仲の場合は、法皇を攻撃し幽閉する暴挙に出て半分脅すような形で、 寿永 3 年(1184年)、朝廷から「征東(せいとう)大将軍(征夷大将軍と同格)」の官位を 受けた。ともかく当時は「むちゃくちゃ」な朝廷による政権であったというか、すっかり権 力を失った朝廷であった。

奥州合戦 
 藤原秀衡を頼った義経だが、義経が奥州入りした 9 ヵ月後の文治 3 年(1187 年)10 月に秀衡は死去してしまった。 
 翌、文治 4 年(1188年)2 月に、義経の奥州への潜伏が発覚すると、頼朝は朝廷か ら藤原氏に対して義経の追討宣旨を出させた。 藤原泰衡は父の遺命に従いこれを拒否し続けただ、業を煮やした頼朝は、文治 5 年(1189 年)、こんどは藤原泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上した。 
 追討宣旨に驚いた泰衡は頼朝の圧力に屈して、同年 4 月、陸奥国衣川館の義経を 500 騎の兵で襲撃してしまった。 義経方は「武蔵坊弁慶」など、わずか 10~20 の兵で抵抗するが、ことごとく敗れ、義 経は泰衡を憎むことなく官軍(追討軍)に討たれるよりはと一切戦わずに、正室の「郷 御前(さとごぜん)」とその間に生まれた娘(4歳)を殺害した後に自害した。
  奥州には来るべきではなかった義経であり、壇ノ浦の戦いの活躍からわずか 4 年後 の出来事だった。義経享年 31 歳。 鎌倉の頼朝に義経の首を送り、これで奥州の平和は保たれると思った藤原泰衡だ が、頼朝の目的は奥州藤原氏を討つことそのものであった。
  頼朝より「長い間、義経を匿った」、「源頼朝の許可なく源義経の首を取った」という 理由で、同年(1189 年)7 月に頼朝は奥州藤原氏成敗の追討軍を向けた。 頼朝軍編成の千葉介常胤(東海道軍)は、道々身方を召集しながら宇太・行方・岩 城・岩崎を回って阿武隈川の湊を経て大手軍と合流した。  もう一方の比企能員(北陸道軍)は、同じく身方を集めて越後から出羽国・念種が関 に出て合戦する作戦であった。 頼朝率いる大手(畠山次郎重忠軍)は、白河の関を越えて中道(東山道)を進み、その総数、約 284,000 騎「吾妻鏡」の襲撃を受け栄華を誇った奥州藤原氏は滅びた。 
 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、建久3 年(1192 年)、頼朝によって自害に追い 込まれた弟の義経と奥州藤原氏らの鎮 魂のため現在の鎌倉市二階堂に奥州平 泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを 模して永福寺(ようふくじ)建立した。 この寺院は、鶴岡八幡宮・勝長寿院と ともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。 (復元想像図 鎌倉市歴史文化交流館)

 「治承・寿永の乱」で平家が滅び、源氏内の抵抗勢力であった木曽義仲・甲斐源 氏・武田(一条)忠頼・弟の源義経など力のある武将がすべて消えて行き、更に北の王 者・奥州藤原氏を討って、敵がいなくなった源頼朝は征夷大将軍に任命され、いよい よ武士の頂点へと上り詰めることができた。 

なぜ、源頼朝と義経兄弟は決裂してしまったのか? 
 平家を討ち滅ぼし源氏の時代を果たした頼朝と義経は、もともとこの二人は、兄弟と はいえ母が違い年も離れていた。 
 平治の乱(1159 年)で、父の義朝が敗死したとき、義経はまだ乳呑み児で、すぐに 鞍馬寺に預けられ、頼朝は伊豆に流され、別々の環境で育ち顔を合わせたこともなか った二人であった。 
 頼朝は地方武士たちの社会でもまれながら政治家として成長するが、身寄りのない 環境で育った義経は、どうも自己欲求が強かったようだ。 そんな義経は、軍事の天才ではあったが、政治的には無頓着でもあったようだ。 
 とくに無断任官問題は鎌倉政権の根幹に関わる重大案件であったにも関わらず義 経はこの問題に気付いていなかったのかも知れない。 そもそも、頼朝の権力基盤は御家人たちとの主従関係で結ばれていて、御家人とな った武士たちは頼朝に忠節を誓い、頼朝の命令によって動き、そして、敵を討ち滅ぼ したなら敵から奪った所領や財産を恩賞として頼朝から御家人に与えられた。 
 これが、頼朝と御家人の主従関係の基本だった。義経が朝廷からもらった「検非違 使(けびいし)」のような官位・官職も戦功に対する恩賞に与えする。 頼朝の御家人たちが朝廷から官職を貰うには頼朝の推挙が必要であった。頼朝 の許しも推挙もなく御家人たちが勝手に朝廷から褒美をもらって朝廷のために働くこと になったとすれば頼朝と御家人との主従関係が維持できなくなる。 
 残念だが義経には、こうした問題を察するだけの政治的感覚がなかったのかも知れ ない。たしかに義経は、天才軍略家であり平家を滅ぼすことができたのは義経の策に 負うところが大きいのは間違いない。 
 しかし、天才であるゆえに彼のすばやく鮮やかな判断には独断専行の傾向もあった。 一ノ谷・屋島・壇ノ浦と三度の大きな合戦で平家を破ったにもかかわらず、安徳天皇と 三種の神器を奪還するという政治戦略上の目的が達成できなかったのも、義経が軍 事的な勝機を優先したから起こったことなのかも知れない。 
 軍事の天才ではあるが、政治的感覚がにぶく自己欲求が強い。そんな義経は、頼 朝から見れば無謀で危険人物にしか見なされなかったのかも知れない。  こうした義経と頼朝との微妙な関係に、たくみにつけ込んだのが後白河法皇だった。 
 もともと自前で武力をもたない貴族社会は、武士たちを互いに競わせながら都合よく 利用することで権力を維持してきた朝廷であった。 
 後白河法皇は、平家(清盛)⇒木曽義仲⇒頼朝⇒行家⇒義経といった具合に取り 込み自分の立場のみを考えていた貴族社会であった。 政治的感覚がにぶく自己欲求の強い義経をちやほやしながら、頼朝との対立に持 ってゆくのはそれほど難しくはなかったに違いない。
  一方、歴史専門家の新しい考えとして義経は政治的感覚がにぶいのではなく、 頼 朝からの鎌倉召還を拒み、京都で後白河院と密着する義経の行動に頼朝が危機感を 抱いていたことが対立の要因ではないかとの説も出ている。 

坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府 
 治承4年(1180 年)、源頼朝は鎌倉に自身の邸宅となる「大倉御所」と、武家政治の 中心となる「侍所」を設置し、文治元年(1185年)、平氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉に幕 府を開き武家の頂点を極め、後に征夷大将軍となったが、7 年後、頼朝は、建久 9 年 (1198年)12 月 27 日、稲毛重成が内室追善供養にと始めた相模川の橋の落成記念 式典に出席した帰路に体調をくずして落馬し、翌年 1 月 13 日に 53 歳で亡くなった。 
 落馬が原因でこの世を去ったのだが、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡(あずまか がみ)」からは、頼朝の死の前後の部分がごっそりと欠如していることから、北条家によ る暗殺説も根強くあるという。
 当時、戦場で駈け廻る武士がそう簡単に落馬などする事 はあり得ないとの見方をする。馬上で心筋梗塞、脳梗塞に襲われたのであれば別であ る。 強運とも言える頼朝の挙兵と坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府には、実はい ろいろな因縁、思惑が入り混じっていても不思議なことではなかった。  「貴種」とはいえ何も持たない流罪人の身から周りに担がれ、武家の棟梁として海千 山千の坂東武者たちを束ね、兄弟や御家人たちを猜疑心で粛清し続けた頼朝は何を思い描いていたのであろうか。
 鎌倉幕府ほど暗殺、陰謀の繰り返された政権はなかっ たのではないだろうか。それから見れば何が起こっても不思議ではない。 頼朝自身もそれに気がついていた。それは『玉葉集』に頼朝の詠んだ和歌が載って いる。 
 「偽りのことの葉しげき世にしあれば、思うといふも誠ならめや」 (偽りの言葉ばかりの世の中だから、あなたが私を信頼しますよと言っても、本当でしょ うか。) まさに頼朝の人生観を表しているような歌であった。 

陰謀渦巻く鎌倉幕府 
 日本の歴史上、鎌倉幕府ほど暗殺、陰謀の繰り返された政権は無いとされるが、も ともと源氏一族が親兄弟間で、血で血を洗う骨肉の争いをしてきた歴史があった。 
 治承 5 年(1181 年)に平清盛が病死。すると、源頼朝は軍勢を携えて「源義仲」を討 滅。平家追討(源平合戦)の功労者であるはずの異母弟の源義経が、兄頼朝に追放さ れた後に攻め滅ぼされ、もう一人の弟(異母弟)源範頼さえ、後に謀反の疑いで伊豆 修善寺に幽閉され梶原景時に攻められて亡くなっている。 
 源義経を匿い、勝手に義経の首を撥ねたとして奥州藤原氏をも頼朝の軍勢により 滅亡してしまった。 

亀の前事件 
 鎌倉幕府ができて、頼朝の妻(政子)の父である北条時政が重要視されたかというとそうでもなかった。
 治承 4 年(1180 年)の「富士川の戦い」以降、北条時政は一旦歴史 の表舞台からは降りたように見えた。 しかし一族の間では事件が起こり、寿永元年(1182 元年)、北条政子は自身にとっ て初めての男児となる「源頼家」を出産の際に事件が起こった。
 「亀の前事件」である。 このとき頼朝は愛妾の「亀の前」を伏見広綱の住居(逗子)に匿っていて、出産後こ の事実を継母の「牧の方」から知らされた北条政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に 命じて伏見広綱の家を破壊させてしまった。 
 亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れたと されるが、亀の前のその後は不明である。 亀の前は頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な 性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182 年)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼 び寄せて寵愛していた。 
 この「亀の前事件」に怒った源頼朝は、牧宗親を叱り付け、牧宗親の髻(もとどり)を切 って辱めた。 これに対して、今度は北条時政(政子の父)が自身の舅である牧宗親への仕打ちに 怒って頼朝に反発し、頼朝のいる鎌倉から一族を率いて伊豆国へ引き上げてしまった。 
 このことに頼朝は大いにうろたえて北条時政の次男・北条義時だけは引き止めた。 そして事件の始末として北条政子の怒りを鎮めるために自ら「亀の前」を匿うよう命じ たにもかかわらず伏見広綱を遠江国(静岡県西部)へ追放した。 

北条義時が鎌倉に残った理由 
 このとき、義時は父に従わず、鎌倉に残留していたことから「我が子孫を護る者」とし て頼朝から激賞された。 この時、なぜか息子の義時は父(時政)に従わずに鎌倉(頼朝の元)に残ったのか は不明だが、義時(北条小四郎)は時政の後継者とはみなされておらず、江間(江間 四郎(義時))という別の名を名乗っていたことも要因とされる。
 頼朝から江間の領地の 支配権を受けたため江間を名乗っていたことから、義時は分家して江間の領地の支配 権を受けていたために本家と別の行動をとったのであろう。 

北条政子は頼朝と並ぶ権力を持つ存在 
 このような処罰を下さなければならなくなったのは紛れもなく頼朝の失態であり、また 北条政子が強い権限を持ち、源頼朝と並び立つほどの存在であったことを知ることが できる。
 そのような存在感があったからこそ、のちに北条政子は頼朝亡き後、尼将軍と して幕政を仕切り家臣である御家人達をまとめ上げることもできた。 
 この打ち壊し事件は、政子の既成概念にとらわれず女性が現実において果たして いる役割を堂々と権利として主張した初めての女性であり、日本史上初めてのウーマ ン・リブであった。
 したがって、公の場に於いてもそれは貫かれ、鎌倉の御家人達の妻 は夫の隣に公然と席を用意されるなど、京における女性の立場とはすでにはるかに違 っていた。 

源頼家(万寿)の誕生 
 寿永元年(1182 年)8 月、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で頼 家は生まれた。鎌倉入り 3 年目に待望の後継者男子として周囲の祝福を一身に受け ての誕生であった。 
 政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を 行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなか で、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道。)を作り、頼朝が自ら監督 を行った。 
 頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母 には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)が呼ばれた。梶原景時の妻の他、 比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族関係から選ばれた。 
 頼家(万寿)は、18 歳で家督を相続し鎌倉幕府の第 2 代鎌倉殿、更に 3 年半後に征 夷大将軍となった。建久 9 年(1198 年)には長子の一幡が誕生している。 

上総介広常の誅殺事件 
 前述により、頼朝の挙兵と坂東武者の結束により誕生した鎌倉幕府には、いろいろ な因縁、思惑が入り混じっていた。そのため御家人となった彼ら同士の中でも、邪魔者 11 は、すぐに消される運命にあった。 
 最大の軍事力で頼朝の旗揚げに最も功労した上総介広常もその自負から不遜な ふるまいが目立っていたと言われている。
 上総介広常を、『吾妻鏡』治承 5 年(1181 年) 6 月 19 日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振 る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼 をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で接したとある。 
 その結果、寿永 2 年(1183 年)12 月、 御家人の中には謀反の企てがあるとの根拠 もない噂がではじめて頼朝に疑いを掛けられてしまい、結果的に広常は頼朝の命を受 けた梶原景時によって討たれ誅殺された。
 広常の死後は、上総氏は所領を没収され 千葉氏や三浦氏などに分配された。 その後、広常の鎧の裏から願文が見つかるのだが、そこには謀反を思わせる文章 はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を抹殺したことを後悔し即 座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。 

〈広常の鎧の裏からの願文〉 
 「前兵衛佐殿下 心中祈願成就 東国泰平」とあった。前兵衛佐殿(すけどの)とは 頼朝のことで、広常は頼朝の大願成就と、東国の平和を祈っていたのである。 
 頼朝はどこまでも「冷徹な政治家」、広常は坂東武者の典型である「不器用で荒削り 者」元来、源頼朝にとっての最大の武力基盤であった上総介広常がかえってその権 力確立の妨害者となってはと危険視され謀殺に繋がったといえる。 
 しかし、これは序章に過ぎずに、鎌倉幕府成立の功労者(御家人)たちは、その後、 次々と悲劇の運命が待っていたのだった。 

富士の巻き狩りと曾我兄弟の仇討ち 
 巻き狩りは、建久 4 年(1193 年)5 月 15 日から 6 月 7 日までの間、征夷大将軍たる 権威を誇示するためや軍事演習などの目的で行われた。 
 また巻狩りが行われた藍沢と神野の地は駿河国と甲斐国の国境付近に位置し、さら に甲斐国から東海道へ到るための主要な通過地点であった。 こ
 のように甲斐源氏が東海道に到る際に使用される交通路を掌握する意図があっ たという指摘もされている。 この間の 5 月 28 日に曾我兄弟の仇討ちが発生した。
 曾我兄弟の仇討ちは、頼朝 が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経 12 を富士野にて討った事件で、「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、 日本三大仇討ちの一つとも言われる事件であった。 

謀反を疑われた源範頼 
 曾我兄弟の仇討ちで、現場は大混乱となり鎌倉への使者は「頼朝も嫡子頼家も命 を落とした」と誤報が伝えた。 それを聞いて気を失いそうになった北条政子に対し、頼朝の弟・範頼は「私がいるか ら大丈夫です。」と慰めたという。 
 しかし、この言葉に頼朝は範頼の謀反を疑い伊豆修禅寺へ流罪に処し、永代鎌倉 への帰参は許さずとの厳しい物であった。 『吾妻鏡』によると、 曽我兄弟の仇討ちから約2ヵ月が過ぎた 8 月2日、頼朝に謀反 の疑いを持たれてしまった範頼は誓の起請文を書いて頼朝に提出した。 
 だだ、起請文の署名が三河守源範頼となっていたため、頼朝は「源の文字を使うの は、源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」 として激怒した。 その報告を受けた範頼は、あわてふためいたという。  伊豆に流された範頼がどうなったのか『吾妻鏡』から知ることはできないが、伊豆国 の修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時ら北条時政の軍勢により攻められて自刃 したのだと伝えられている。建久 4 年(1193 年) 曾我兄弟の仇討ちは「源頼朝暗殺計 画」だったという説も浮上する事件でもあった。 後に、これら一連の出来事について頼朝の娘・大姫は嘆き悲しんだと言われる。 
 頼朝の弟・範頼、従兄弟の木曾義仲、さらに義仲の息子・義高(11 歳)を騙し討ちに する父(頼朝)について「神仏を恐れぬ所業」をなさると嘆いた。木曾義高と大姫は許 嫁の中であったといが、実際には木曾義仲に謀反の心がない証しとして木曾義高は 人質として頼朝の館に来ていた。 

未成熟な鎌倉政権・政策 
 鎌倉幕府が開かれた初期は何もかもが手探り状態で実験的な政権とも言え、我々 現代人が想像するような「江戸幕府」というような完成形の幕府ではなく、未成熟な幕 府であったようだ。 
 頼朝が創った政権は全て真っ白な状態で、参考に出来るのは京都の朝廷だけであ ったから試行錯誤の武家政権であっても仕方が無い話でもある。 頼朝政権の前に、平清盛による武家政権はあったのだが、それは天皇を中心とした 貴族の身分制度の中に取り込まれた半官半民的な政権であった。 
 では、平清盛の政権と源頼朝による政権での環境的な違いは何かと言うと、京都(朝 廷)との距離であった。都から遠く離れた関東に本拠地を置くことで物理的に朝廷から の影響力を避ける事ができた。 
 そもそも、頼朝の権限が及ぶ範囲は、頼朝と個人的な主従関係を結んだ武士(御家 人)の土地のみで、当然、頼朝との主従関係にない武士団も全国に多くいて多くの土 地は皇族・貴族や寺社の支配下にあった。 
 鎌倉時代の頼朝と御家人の繋がりは、「御恩と奉公」という主従関係で出来上がっ た。御恩とは「将軍が御家人のこれまでの領地を認めたり、新たな土地を与えたりする こと」であり、奉公とは「御家人が将軍や幕府のために働くこと」だった。 
 いざ、戦(いくさ)ともなれば、御家人は将軍のために駆けつける。「一大事が起きたと き」という意味で使われる「いざ鎌倉」とはここから生まれた言葉で、戦乱の世にあって は自分の領地をいつ誰に奪われてしまう事態が起こっても不思議ではなかった。 土地を将軍から与えられるのは御家人にとってとても重要なことであった。 

頼朝の幕府体制の変化 
 乱世をかき乱すだけかき乱した、天狗と言われた後白河法皇は、建久 2 年(1191 年) の年も押し迫った年の暮れに床に伏した。そして翌年 3 月に崩御の時が来たのであっ た。
 源頼朝が「日本一乃大天狗」と評した策謀家として知られ、平清盛や頼朝と対立し たこの時代のキーマンの一人であった。(亨年66歳) 頼朝は法皇の死を待っていたように、一条能保からの飛脚により征夷大将軍を任命 する知らせが届いた。
 頼朝は建久 3 年(1192 年)に朝廷から征夷大将軍に任命された のであった。 頼朝は幕府体制をさらに整えるためには朝廷の力を上手く使うことが必要と考え、 晩年に自分の娘「大姫」を後鳥羽天皇の后とする朝廷工作に乗り出し、京都重視の姿 勢を鮮明にしている。 
 これらの体制作りは平家時代の政権と何ら変わらないものであり、その京都ばかり見 ている頼朝の行動が結果的に東国の御家人たちの不満へと繋がっていくことになった。 

大姫の入内問題と朝廷工作 
 建久6年(1195年)春、東大寺の大仏殿落慶供養に出席するため上洛した頼朝は、 妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴っていた。 頼朝の家族一同を同伴しての上洛には、都雀(みやこすずめ)の見物客が多く集まり、 牛車を廻せないほどの賑わいをみせた。 
 頼朝の子供たちは、初めて見る大仏に目を輝かせ、京のかぐわしい文化の香りを夢 14 中でかいだに違いない。 この上洛の真の目的は、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることだったともいわれ、この 上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っ ている。 
 当時、大姫は17歳前後(頼家・14歳前後)ではなかったかといわれ、頼朝は、 これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営しようと した。 
 特に、後白河法皇亡き後、征夷大将軍に任ぜられたのは兼実の力によるもの だった。 しかし、建久8年(1197年)7月14日、大姫は病によりこの世を去ったことによって頼 朝の京を制するために行った朝廷工作の夢は断たれた。
 更に、頼朝が行なった大姫 の入内運動の結末は、親幕派の兼実を失脚させ、反幕派の通親の権力を増大させる 皮肉なものとなった。 
≪源頼朝系図≫ 

政子(尼御台)の悲願 
 正治元年(1199 年)「絶対的な権力者」だった頼朝が、53 歳という若さで急死した。 頼朝の死後、長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれ る。
 頼家は、乳母夫の比企能員にすっかり取り込まれたことに危惧していた。 能員の娘三人のうち、二人が乳母となり、もう一人は妻室「若狭局」はすでに「一幡」 をもうけていて、このままでは比企氏に鎌倉を牛耳られると思い始めた。 

 三左衛門(後藤基清、中原政経、小野義成)の変発生 
 頼朝の死から10日もたたない内に世情不穏となり、正治元年(1199 年)2 月、京の 都では新右大将 権大納言・源通親(土御門通親)が院中に立て籠って警護の兵が集 まるという騒ぎとなっていた。
 騒ぎとなった原因は、源通親が自らの右近衛大将就任と頼朝の嫡子・頼家の左中 将昇進の手続きを取ったためであった。 一条家の二代が相次いで亡くなったことを良いことに勝手な振る舞いをし、一条家 を冷遇したと不満がでていた。
 彼を狙ったのは、「一条能保・一条高能」の遺臣であっ た。 そして、兵革(戦いの準備)の疑いあり」「京中騒動」の風説が駆け巡って緊迫した情 勢となり、鎌倉に京から飛脚が送られてきた。
 しかし、鎌倉では2代将軍・頼家の継承 もまだ落ち着かない中で対応に追われた。 将軍・頼家(18歳)は京のゴタゴタなどは捨て置けばよい。討ち合って双方が倒れ れば好都合だと言うものの、御家人・大江広元(鎌倉 13 人の一人)は、征夷大将軍とはこ のような騒ぎを治める義務があると進言した。 
 それでどのような手を打つかが問題であったが、どこをどうひっくり返しても、今の京 では「通親」の力を持つ者はいないとし、ひとまず、通親を立てて身方する他はないと して鎌倉から中原親能(13 人の合議制の一人、弟に大江広元)が上洛して騒動の処 理を行い、後藤基清・中原政経・小野義成という3名の御家人らが正治元年(1199 年) に乱を企てたとして捕縛され失脚し京都は平静に戻った。
  鎌倉では、源頼家は周囲の期待に応えようと、これまでの習慣を無視した独裁的な 政治を行うようになり、それに不満を募らせたのが御家人達だった。源頼朝が没した後 は、「御恩と奉公」の信頼関係が崩れた。 源頼家が将軍となってからわずか 3 ヵ月後、源頼家の独裁的な政治に危機感を抱 いたのが母・北条政子だった。 

13 人の合議制 
  将軍・頼家の権力を抑えなければ、と言う話が御家人達から持ち上がり、頼家の独裁政治を抑えるために北条氏を中心に作られたのが集団指導「13 人の合議制」だっ た。
 将軍に代わって政務を行うために作られたが、毎回 13 人全員が揃って会議を行 ったわけではなく、また話し合いによってまとめられた意見の最終判断は、将軍・源頼 家によって決定されたと言われている。 
 13 人の合議制の運用期間は、正治 2 年(1200 年)には解体し約 1 年と短いものだ が将軍の発言力を弱めるには十分な期間となった。 
  これがきっかけとなり幕府将軍の発言力は低下し、13 人の合議制は、後に「北条氏」 によって行われる「執権政治」の基盤となった。 

≪鎌倉殿の 13 人(1199 年制定)≫ 
1 梶原景時 (頼家乳母夫) 1200 年 一族ごと殲滅
2 三浦義澄 1200 年 病没(一族は宝治年間に殲滅(せんめつ)) 
3 安達盛長 (比企尼娘婿) 1200 年 病没(のち子孫が霜月騒動を起こす) 
4 比企能員 (頼家乳母夫) 1203 年 一族ごと殲滅 
5 北条時政 (初代執権) 1205 年 追放(1215 年没) 
6 中原親能 (政所公事奉行) 1208 年 病没 
7 二階堂行政(政所執事) 没年不詳 歴史舞台から消えている。 
8 足立遠元 (盛長の甥) 没年不詳 1207年以降歴史舞台に出てこない。 
9 和田義盛 (侍所別当) 1213 年 和田合戦で一族ごと殲滅 
10 八田知家 (源義朝十男) 1218 年 病没 
11 三善康信 (問注所執事) 1221 年 病没 
12 江間(北条)義時 (時政嫡男)1224 年 病没 
13 大江広元(政所別当) 1225 年 6 月 病没 
第3編 (完) 

以降、「武士の時代を築いた源氏の考証」の第 4 編に続く・・・・・。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――― ≪参考文献(引用文献)≫ 
・その後の東国武士団 :関 幸彦 
・鎌倉殿と執権北条氏 :坂井孝一 
・源氏と平氏 :渡邊 保 (明治大学教授) 
・源氏と坂東武士 : 野口 実 
・文藝春秋、ニッポン教育再生会議:出口治明、呉座勇一 
・文藝春秋記事 : 本郷和人(東京大学史料編纂所教授)、同、本郷恵子 
・源氏と平家の誕生 : 関裕二 
・月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』国立国会図書館デジタルコレクション 
・平氏と源氏」の人物
・合戦がわかる本 (PHP 文庫) 
・ベネッセ 教育情報サイト 日本の歴史特集 : 門川 良平 
・源氏と平氏 (日本歴史新書):渡辺 保 
・鹿島市ホームページ:源頼朝の台頭と鹿島氏  
・保元・平治の乱関係図 世界の歴史マップ 
・家系図作成専門会社 家樹 : 田代 隆浩(画像) 
・Yahoo 画像引用 ・玉川学園・玉川大学
・協同 多賀歴史研究所資料 ・鎌倉殿と執権北条氏 : 坂井孝一 
・鋸南町ホームページ ・フリー百科事典『(Wikipedia)』 
・一般財団法人 刀剣ワールド財団資料 
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 
・比企一族の歴史 郷土学部 B班 :木村誠 ・吾妻鏡 :竹宮 恵子 
・オレたちの鎌倉殿 :西股総生 
・清廉な武士なのに「畠山重忠」を北条が滅ぼした訳 :濱田 浩一郎 
・鎌倉幕府で栄華「比企能員」の滅亡招いた"大誤算 :濱田 浩一郎 尚、

  「島崎城跡を守る会」の会員様の内部学習の基礎資料の一部にお役立てできれ ばと作成したものであり、筆者は、歴史専門家でもなく、自己学習の範囲のもので あるため、種々の文献やイラストを大きく引用させて戴いておりますこと、ご了承下 さい。また、内容に誤った記述がされている部分等につきましてもご了承下さい。

令和 4年 10 月 25 日 
森田 衛 (神栖市) 「源氏と平氏」 生涯学習レポートより

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