ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ジャン・ギャバン年譜(1) Biographie de Jean Gabin(1)

2015-08-08 | ジャン・ギャバン年譜
(1)生い立ちから18歳まで

1904年
 5月17日、パリ9区ロシュシュアール通り23番地で生まれる。本名はジャン・アレクシス・ギャバン・モンコルジェ(Jean Alexis Gabin Moncorgé)。
 父フェルディナン・ジョセフ・モンコルジェ(1868~1933)は、パリではギャバン(Gabin)の芸名で知られたボードビリアンだった。母は元歌手エレーヌ、本名(旧姓)マドレーヌ・プティ(1865~1918)。
 ジャンは末っ子で、16歳上の兄フェルディナン=アンリ(愛称ベベ)、14歳上の姉マドレーヌと11歳上の姉レーヌがいた。(長男とジャンの間にはほかに3人の子がいたが、みな子どもの時亡くなっている)


 父ギャバン

 ジャン・ギャバンはパリ生まれであるが、生まれたのは知人の助産婦の家だった。両親の家はセーヌ=エ=オワーズ県(現・ヴァル=ドワーズ県)の小さな村メリエル(Mériel)にあった。
 ジャンは生まれて間もなく両親とともにメリエルの家へ行き、ここで育てられる。母エレーヌにとってジャンは望んで生んだ子ではなく(38歳の時の子)、子育ては長女マドレーヌに任せていた。母は病気がちで神経も弱く、物心つくや腕白ぶりを発揮したジャンを叱ってばかりいた。芸人の父もパリへ働きに出て、家にいる時間が少なく、子どもの頃のジャンは父とはほとんど顔を合わせることもなかった。
 メリエルという村はパリの北約30キロ、オワーズ川とリラダンの森にはさまれた丘陵にあり、石膏の産地だった。パリの北駅から直通の鉄道が通じ、駅もあった。当時の人口は約500人。(現在はパリのベッドタウンで人口数千人、ジャン・ギャバンが育った村として有名になり、ジャン・ギャバン記念館が立っている)
ジャンは、この田舎の自然豊かな村で幼少年期を過ごす。

1909年 
 5歳の時、最愛の姉マドレーヌが結婚。夫はジャン・ポエジーといい、ボクシングのフランス・フェザー級のチャンピオンだった。ジャン(ギャバン)はこの義兄を慕い、少年時代に彼からいろいろなことを教わり、大きな影響を受ける。


 姉マドレーヌとポエジーの結婚式で親戚一同と(前列左端に5歳のジャン)

1910年~
 6歳の時、メリエルの小学校へ入学する。


 メリエルの家の前で両親と

 ジャンは勉強が嫌いで、しばしば学校をさぼっては近くの野や森へ行き、一人で自由気ままに過ごした。親友の父が持っていた農場で、土地を耕したり、馬の世話をすることも好んだ。ジャンの将来の夢は、農場主になるか、鉄道の機関士になることだった。メリエルを通過する蒸気機関車をいつも眺めて、飽きることがなかった。


 9歳の頃

1914年
 ジャンが10歳の時、第一次大戦が始まり、兄ベベも義兄ポエジーも徴兵される。メリエルの村にもフランスの軍隊がやって来て、戦争を身近に感じるようになる。
 義兄ポエジーは戦争で片足を切断し、ボクサーの選手生命を終えたが、その後ボクシングのジムをつくり、トレーナーになった。ジャンは10歳の頃から彼のもとでボクシングを習い、数年間練習を続けた。ジャン・ギャバンの団子鼻はその時パンチを受けた後遺症だという。

1915年~1916年
 1915年12月、両親とパリへ移り住む。モンマルトルにあった叔母ルイーズの家に一時滞在後、モンマルトルのキュスティーヌ街のアパートへ引っ越す。すぐ近くのクリニャンクール街の小学校へ転校。勉強嫌いは変わらず、試験のたびに優等生だった親友の答案をカンニングして、12歳の時どうにか小学校を卒業する。
 しかし、学校を続ける意志はなく、両親とメリエルの実家に帰る。戦争が激しくなり、パリの芸能界での仕事がなくなった父といっしょに鉄道の線路工夫をして働く。

1917年
 13歳になり、兄ベベの斡旋で、兄の勤めるパリの電力会社の用務員となる。メリエルの家から毎朝パリへ通い、無遅刻無欠勤で働く。余暇には、サッカー、自転車、ボクシングを楽しんでいた。

1918年
 9月、メリエルの家で母が死去。
 一時期父と二人だけで暮らしていたが、急に父がジャンに学業を続けさせようと思い立ち、奨学金を得て、パリのジャンソン=ド=サイイ中高等学校へ入学。寄宿舎へ入れられ、学校嫌いで劣等生のジャンは監獄生活を送っているかのように感じ、鬱屈した日々を過ごす。(11月に第一次大戦が終わる)

1919年
 春、学校から逃亡し、義兄ポエジーと姉マドレーヌ夫婦の家へかくまわれる。父は激怒したが、結局復学することなく、中退。以後、自活して働くことになる。
 ラ・シャペル駅の保線工になり、叔母ルイーズのパリ・モンマルトルの家に下宿して通勤。

1920年~1921年
 メリエルに帰り、ボーモン=シュール=オワーズにある鉄工場の工員となる。
 その後、ドランシーの自動車整備工場で修理工として働く。


 ボクシングの練習中

 芸能界に復帰した父は、かねてから息子を自分と同じ芸人にしたいと望んでいた。時々劇場の楽屋へジャンを連れて行ったが、父と同じような芸人になりたいとはまったく思わず、反発したため、父とは疎遠状態になる。父に愛人ができたことも反発した大きな原因だった。



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