「城びと」情報ですが…(一応会員登録させてもらってるので)
「【日本100名城・伊賀上野城編】「築城の名手」に託された、時代の転換を象徴する大改修」
<「伊賀文化産業城」として復興>項目より
前段
『現在の天守は、昭和10年(1935)に復興された建物です。
伊賀上野の代議士、川崎克(かつ)が中心となり、
支援者の協力を得ながら私財を投じて建てました。
当時はコンクリート造りを推す意見もありましたが、
木造3重の大天守と2重の小天守として復興されました。
文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられます。』
『大正4年(1915)、三重県から衆議院議員に初当選しました。
このとき、川崎克に資金援助をしたのが、実業家・渋沢栄一でした。
前年に川崎克が発行した「自治新聞」の題字を、栄一が担当しています。』
やはり、その人となりが応援したくなる人を呼び込むんではないのかと、
我らが克さん(ごめん、こんな書き方をして)、偉大なる人だと今更ながら感謝あるのみ。
新しいお札と伊賀上野には縁があった、ことが嬉しい、ただそれだけですが、
そもそもなんでハタと気がついたか…
「伊賀上野城の展示に『渋沢栄一』コーナーがあったから」。
もう一回、しっかり見てこようと思います。
ではまた
お城へ行って来ました…



書物での紹介も

追記、コメントに頂いた「渋沢栄一記念財団/三重県ゆかりの地」(ご参考に)
「【日本100名城・伊賀上野城編】「築城の名手」に託された、時代の転換を象徴する大改修」
<「伊賀文化産業城」として復興>項目より
前段
『現在の天守は、昭和10年(1935)に復興された建物です。
伊賀上野の代議士、川崎克(かつ)が中心となり、
支援者の協力を得ながら私財を投じて建てました。
当時はコンクリート造りを推す意見もありましたが、
木造3重の大天守と2重の小天守として復興されました。
文化と産業の振興の拠点として「伊賀文化産業城」と名付けられます。』
『大正4年(1915)、三重県から衆議院議員に初当選しました。
このとき、川崎克に資金援助をしたのが、実業家・渋沢栄一でした。
前年に川崎克が発行した「自治新聞」の題字を、栄一が担当しています。』
やはり、その人となりが応援したくなる人を呼び込むんではないのかと、
我らが克さん(ごめん、こんな書き方をして)、偉大なる人だと今更ながら感謝あるのみ。
新しいお札と伊賀上野には縁があった、ことが嬉しい、ただそれだけですが、
そもそもなんでハタと気がついたか…
「伊賀上野城の展示に『渋沢栄一』コーナーがあったから」。
もう一回、しっかり見てこようと思います。
ではまた
お城へ行って来ました…






書物での紹介も



追記、コメントに頂いた「渋沢栄一記念財団/三重県ゆかりの地」(ご参考に)
渋沢栄一記念財団>渋沢栄一>渋沢栄一ゆかりの地>三重県によりますと
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/24.html
関与した事業として参宮鉄道株式会社が掲載されています。
紀勢本線が全通する前は、亀山~鳥羽が参宮線で。さらに大昔は、亀山~津が関西鉄道、津~鳥羽が参宮鉄道で、
一円切手(消費税導入のころ使った?)になった前島密が、関西鉄道と関係があるらしいのは、以前から知っていました。
今、更に調べると、渋沢栄一は参宮鉄道の発起人の一人で、関西鉄道の社長を努めた前島密と親交が深かったそうです。
ということは、関西鉄道の後身の関西本線も渋沢栄一と縁(ゆかり)があるわけです。
そして関西本線にまで…
どこまで影響力のある人やったんかと、教えていただきました、ありがとうございます。
お城に掲示されていた渋沢語録に
「暇ができるのを待って書を読もうとするならば
必ずや書を読む時はやってこないだろう」
いろんなことに置き換えれば「やるなら今でしょ!」なんて、勝手に解釈しておりました(笑)。
moni5187様、いつも新発見コメントありがとうございます。