内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第191回「罪の赦し」

2011-03-11 10:05:54 | 牧師のブログでコメンテーター

 アメリカのルース・ベネディクト女史が著わした「菊と刀」によって、欧米がキリスト教の影響による「罪の文化」であるのに対し、日本は「恥の文化」の国柄であるということが言われてきました。罪の文化は、倫理道徳の基準を聖書に置いているのに対し、恥の文化は、いわゆる世間様が自分をどう見るかということを基準にしているということでしょう。今回の記事は、その両文化を比較検討することではなく、そういった文化的背景があるということを前提にした上で、どちらかと言えば、欧米文化的、キリスト教文化的視点に立っての「罪の赦し」ということを述べてみたいと思います。

 聖書に基づいての「罪」は、創造主である神の戒めを破ることです。法律は最低の道徳とも言われますが、一般社会における法律を厳格に守っていても、聖なる神の前には罪を犯しているということは十分にあり得ます。例えば、自分の親に対して悪口を浴びせたとしましょう。それだけなら法律的には犯罪とは言えませんが、聖書の基準に照らせば立派な罪で、十戒の第五戒に違反します。この場合、本人に罪の意識は無いとしても、親に悪口を言って心に充足感を得るということは決してあり得ないでしょう。むしろ、言ってはいけないことを言ってしまったという後悔の念と敗北感が漂うことは間違いないでしょう。この敗北感と言いましょうか、何ともしがたい心の中の虚無感とか悲壮感など、そういったものの根源は、結局、その人のうちにある罪であり、罪の赦しを得ない限り、心の中に真の平和が訪れることはありません。

 イスラエル第二代目の王ダビデは、信仰的にも人格的にもすぐれた人物でした。彼の王権が安定した頃に、ダビデは彼の家来であるウリヤの妻バテシャバを王宮に召し入れ、不倫の罪を犯します。そののち、バテシェバが妊娠すると、それを隠そうとするのですが思い通りにいかず、結局、ウリヤを戦場の最前線で戦死するように仕向けます。ダビデは、それまで聖なる神とともに歩み、神の祝福の中にいましたが、それらの大きな過ちのゆえに、その心は平安と喜びを失い、みじめな状態に陥っていたのです。そのとき、神の人である預言者ナタンが彼に近づき、ダビデの罪を糾弾しました。このときダビデは、王という立場に寄りすがって自分をごまかすことなく、過ちを素直に認め悔い改めをしたのです。そののち、ダビデは、その大きな罪ゆえに数々の災いを自分の家に招くことになりますが、罪の赦しを得、神との和解を再び得ることは許されました。

 聖書には「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。(詩篇32:1)」とあります。罪の赦しを得ていないということは、神の怒りの下にあるということで、その人の霊魂は永遠の滅びに向かっているのです。逆に、罪が赦されるということは、創造主である全知全能の神と和解したということでもあります。神と和解することによって、他では得られない真の平和を得ることができるのです。実に、イエス・キリストは、私たちの罪を赦すためにこの世に来られ、十字架の救いを成し遂げられたのです。

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2 コメント

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Unknown (坂田 宏)
2011-03-16 07:00:33
内藤先生、のぞみさん!。ご無事でいらっしゃいますように!。
Unknown (のぞみ)
2011-03-25 21:22:33
坂田さん!私たちは無事です!みんな元気です!ありがとうございます!!

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