内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第91回「ダイエット」

2008-10-25 13:48:58 | 牧師のブログでコメンテーター

 ダイエットというと、一般的には痩せることを目的にした運動や食事の改善などを言うようですが、元々の意味は、健康や美容を目的とした食事のコントロールとのことで、少し本来の意味とは、ずれているようです。もっとも、痩せることが健康と美容に結びつく場合が多いので自然にそのような意味に変化したものと思われます。

 つい最近では、バナナにダイエット効果があるとテレビで紹介されると、スーパーなどの食品売り場でバナナが品切れになるという現象が起こりました。私は以前からバナナをよく買っていました。もちろん、ダイエットのためではなく、比較的安くて栄養がありそうで、しかも美味しくて食べやすいからです。先日のことですが、いつものようにいつものスーパーで買おうとしたら、完全に売り切れていました。常連のバナナ愛好者にとってはいい迷惑というところです。現在はもう元の平常の状態に戻ったと思いますが、それ以前は寒天、納豆もダイエット効果があるとテレビで紹介されると、瞬く間にスーパーなどから姿を消したようです。それだけ痩せたい、願望の人が多いということでしょう。そして、それらの食品が一時的に品切れになるものの再び回復するのは、それらの食品を試したけれども、結局、ダイエット効果が特に現れるということはないので、前と同じ食事パターンに戻ったということなのでしょう。

 ところで、自慢ではありませんが、私の体はおよそダイエットとは関係ありません。ダイエットどころか太りたいと思っているのですが太れないのです。ダイエットと言うとき、たいていは、体質的に太る人たちの間で問題にされていることだと思います。食べれば食べただけ体が栄養を吸収して太ってしまう人(私にとっては羨ましい)は、確かに食べる量に注意が必要でしょうし、栄養バランスもよく考えるべきです。これは、どんな人に当てはまるでしょう。ダイエットの元々の意味のように、美容はともかくとして少なくとも健康を第一に考えるべきです。時々、短期間で大幅な減量に成功した人の体験談などを見聞きしますが、体にかなりの無理をさせるので、健康面から見ると疑問です。どうしても体重を落としたい場合は、徐々にゆっくり無理なく痩せるようにしたらと思います。

 結論として、痩せたいとか太りたいとか、不必要に考えるべきではないと私は思います。天の神様が、一人一人に対して、その人にふさわしい体型を与えているのです。大事なことは、それぞれに与えられた体を管理することです。適度な運動、栄養バランスの良い食事、そして暴飲暴食を避け、与えられた食事に対して天の神様への感謝を忘れないようにしたいものです。少々太っていても、それはその人に与えられた特徴ですし、それがその人の魅力でもあります。健康でありさえすれば自分の体型に自信をもって過ごすことです。聖書に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。(ヨハネ第三の手紙2節)」と、あります。体型よりは健康です。そして、もっと大事なことはたましいの幸いを得るということです。

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第90回「不安定の中の安心」

2008-10-18 19:06:23 | 牧師のブログでコメンテーター

 ここ20年くらい前からのことでしょうか、「団塊の世代」などという言葉がよく使われるようになりました。戦後のベビーブームで生まれた世代の方たちが、いよいよ定年退職して、現役で働く人たちが少なくなり、この社会を支えられなくなる。つまり、少子高齢化社会の到来で、高齢者福祉がおぼつかなくなるということです。そのために最近は少子化担当大臣というポストも出来たくらいです。また、それとは別にアメリカの大手証券会社の破綻などの要因により、世界的に株価が大幅下落するなど、これまで安定と繁栄を誇っていた日本の社会と経済に不安定と不況が到来するようになりました。

 こういった社会不安や経済不況の時代を迎えて、私自身もなんとなく憂鬱な気持ちになっているのですが、その一方で、もう一つの見方というものがあるのではないかと思い直しているところです。と言いますのは、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(ローマ11:36)」と聖書が言っているように、これまでの社会の安定と経済の繁栄を与えてくださったのが天の父なる神様であったように、社会不安も不況も同じように天の父なる神様が与えて下さっているものだとすれば、何かそこに神様のご計画があるのではないかと思うのです。

 安定と繁栄は確かに良いものですが、それによって、見るべきものを見失ってきたのではないか。逆に、社会不安と不況は決して悪い事ばかりではない。今まで見えなかったものが見えてくるのではないかと思うのです。元々人間は裸で生まれて裸で死んでいきます。ところが、神様の恵みによって様々なものを所有するようになると、すっかりそのことを忘れてしまい、自分が何か偉い者であるかのような錯覚をしてしまうのです。何も持たない自分、つまり等身大の自分を意識できるということは実は幸いなことなのです。

 もう15年ほど前に亡くなった私の知人でMさんという方は、亡くなる直前、病院のベッドの横に50センチ四方くらいの板に大きな字で聖歌の歌詞を書いてもらって置いていました。歌詞は「御国に住まいを備えたまえり、主イェスの恵みをほめよたたえよ。やがて天にて喜び楽しまん。君にまみえて勝ち歌を歌わん。」です。イエス・キリストを信じ受け入れることによって神の子とされる特権が与えられ、自分が死んでも、天に永遠の住まいを持っているということを正に身をもって証ししていたのです。すると、そのMさんのベッドの向かい側の老人が「俺にも住まいがちゃんと用意してある。150万円出して墓地を買って、法名を書き入れして石碑を建ててある。」と大得意でしゃべり立てたということです。もちろん立派な墓を準備しているのは結構なことですが、まさか、墓で永遠を過ごすとでもいうのでしょうか。聖書が言っている死の定義は肉体と霊魂の分離です。私たちの肉体は、私たちの本体である霊魂の仮の宿に過ぎません。肉体はちりによって成り、ちりに帰るのです。私たちそれぞれの霊魂が永遠をどこで過ごすかという最も大切なことが見えてくるとするならば、この頃の社会不安と経済不況は悪いばかりではありません。


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第89回「八百長のかたち」

2008-10-10 21:03:15 | 牧師のブログでコメンテーター

 最近、相撲界で元力士が八百長を告発しました。「八百長」の意味を辞書で調べますと、昔、通称・八百長という八百屋さんがいたそうで、その人が相撲の年寄を相手に碁を打つとき、常に一勝一敗になるように手加減をしたという出来事から、この言葉が生まれたようです。今日、スポーツなどで八百長というとき、金銭がからんでいたり、もっと悪い意味で使われ、言葉としては暗いイメージがあります。元々の、八百屋の八百長さんが碁で一勝一敗になるように手加減をしたというような八百長なら、これは少しも悪いことではなく、相手が二連敗ではさぞ気分が良くないだろうと気を使い、一度はわざと負けるということで、むしろ思いやりを感じます。

 昔ながらのタイプのプロレスの試合で、空手チョップを打つと相手ががくっと膝をつくとか、相手をロープに投げて、はね返って戻ってきたところに技をかけるというような場面をよく見るのですが、ああいった派手な動きは両者が協力しないと成り立つものではないでしょう。プロレスの場合は格闘技+器械体操+演技といった感じで、あの躍動感を好む人もいることでしょう。当然、観客もそれを承知で一つの興行を楽しんでいるのであって、それはそれで、とやかく言うことはないかと思います。

 さて、相撲の場合、もう古い話しですが、あの花田兄弟の三代目若乃花と二代目貴乃花で優勝を決定する大一番がありました。実績と実力から見ても貴乃花のほうが強いと思って見ていますと、勝負はお兄さんの若乃花が貴乃花を簡単に寄りきって拍子抜けしてしまいました。弟の貴乃花がお兄さん相手に真剣勝負をする気持ちになれなかったように見受けられました。この場合は一般的に言う八百長とは別物でしょう。

 大相撲では元々、しょっきりという面白おかしく演技のように見せる相撲がありますが、これなどは公認の八百長というわけです。また、地方巡業などでは、本場所とは力の入り具合がかなり違っているのではないでしょうか。あと、統計を取ったわけではありませんが、昔から気になっていたのは、千秋楽で7勝7敗の五分の力士が勝って勝ち越しを果たす確立は非常に高いのではないかと思います。7勝7敗同士の取り組みですと全く問題ないのですが、それ以外の、7勝7敗の力士の取り組みを、そういった観点で意識的に見ていますと、どうも、何かあるのではないかと思ってしまうわけです。

 結論として申しますと、プロレスも大相撲も興行という面から見れば、八百長だろうが真剣勝負だろうが、興行主催者が自由にすればよいし、周囲が口を挟むことはないでしょう。但し、真剣勝負のはずが実は八百長だったとなりますと、見ている側とすれば興ざめしてしまうということになります。聖書に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)」とあります。結局、他人への迷惑というよりも、後になって自分自身がどういう結末を得るかです。大相撲に限らず、それぞれが真実且つ誠実に歩みたいものです。


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第88回「教育の土台」

2008-10-03 10:27:19 | 牧師のブログでコメンテーター

 発足したばかりの麻生内閣の閣僚の一人、中山成彬氏が失言問題で辞職をしました。中山氏は元文部科学大臣で、その頃から右翼色が強い人だと感じていましたが、かつて対峙する関係にあったと思われる左翼系の日教組を批判し、日教組が日本の教育を駄目にしたとする趣旨の発言をしました。私は、その辺の教育界のことはよく分かりませんが、このところ、長きにわたって文部大臣、文部科学大臣は自民党の議員さんから出ていますし、どちらかと言えば右翼系の方々ばかりではなかったかと思われます。もし、日本の教育が悪かったとすれば、それらの大臣さんが責任を負わなければならないと思うのですが、日教組が邪魔をして、良い教育行政ができなかったということなのでしょうか。

 ひとくくりには出来ないでしょうが、中山氏などの自民党の右翼系議員さんたちが持っておられる思想的な土台は天皇制や神道の基になっている日本神話でしょう。また、日教組に所属する方々の多くは無神論でしょう。表現を変えると、前者は歴代の天皇と日本古来の八百万の神々を崇拝し、後者はマルクスやダーウィンの崇拝者ということになります。つまり、日本の教育を主に司る人たちの思想的な土台となっているものが、神話と無神論ということになります。このためなのでしょうか、日本では、長いことダーウィンが提唱した仮説に過ぎない進化論を土台にした教育が行われつつ、一方で、イエス・キリストの降誕を起源とする便利な西暦を公文書では使えないとする元号法が制定されました。また、天皇を君とする君が代を国歌と定め、伝統、文化という言葉を使って神社とか祭りなどの神道色を徐々に学校の教科書に取り入れることが多くなっているようです。

 さて、教育ということですが、教えられる側の子どもたちは、一方で無神論思想を土台にしつつ、日本の文化と伝統というような意味合いで神道的なものの影響も受けます。一方で無神論、一方で日本神話です。もちろん、どちらか一方だけでも問題です。真の教育は真実なことを子どもたちに教えなければなりません。もちろん私は、真の教育は聖書に基づいてこそ可能であると信じる者ですが、真実なことは何かという議論を始めれば、これも収拾がつかないでしょう。そこで、公立学校における教育のあり方の妥協案として、少なくとも、無神論思想に基づく進化論だけを教えるのではなく、聖書が語っている創造論も平行して教え、神道だけではなく、仏教、キリスト教、そのほかの主な宗教も、その主張している教えや起源を公平に学校で教養として教えるべきだと思います。そうすることによって、多少なりとも怪しい宗教に惑わされるということも少なくなるでしょう。

 それにしても、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:1~4)」と語っている聖書を教えないことは大損失です。


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