「犬が人間に噛み付いてもニュースにはならないけれども、人間が犬に噛み付けばニュースになる。」ということを以前聞いたことがあります。全国的に凶悪な事件が多い昨今、深夜、公園で裸で騒いだということ自体は大きな事件ではありません。しかし、騒いだ本人が超有名芸能人だった。しかも、多くの芸能人の中でも「いい人」と思われている人だった。そのためか、多くのコマーシャルにも出ていたということで、この件に関連する話題がテレビやネット上などで続いています。
この件に関しての主な論点となっているのは、警察が彼を逮捕して家宅捜査までしたのは妥当かどうかということです。公園の近隣の住民としては、深夜、人が大声を上げていれば、不安を覚えるのは当然でしょう。警察としては、家宅捜査までしたのは行き過ぎだったと見られていますが、駆けつけた警察官に抵抗し、異常な行動をする人間に対して、薬物を疑うのも無理もないと言ってもよいかもしれません。ただ、捕らえてみたら、危険人物とはほど遠い、お茶の間のテレビでお馴染みの芸能人だったということで、結果的には「なあんだ。」というところなのですが、確かに、最初から、草なぎさんだと分かっていれば、逮捕も、通報さえも無かったかもしれません。どういう人物なのか分からないゆえの恐れと予測できない危険、最悪の場合、死者やけが人が出ることを想定すれば、近隣の住民と出動した警察官の行動は、むしろ、当然と言っても良いのかもしれません。
さて、この事件に関して、最も関心を持たなければならないのは、警察の対応や鳩山総務大臣の言動ではなく、草なぎさんの心の奥に潜んでいた全人類共通の問題ではないかと私は思います。彼の場合は、数本のコマーシャルに出演するほど多くの人に親しまれ、それなりの収入もあり、誰が見ても恵まれた環境にあったにもかかわらず、なぜ、泥酔して公園で裸になって大声で叫んだのか。その、一見、理解しがたいアンバランスな部分を究明することこそ価値があることではないでしょうか。
旧約聖書に「野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。(ヨブ記6:5)」とあります。家畜が、目の前に食物があって満たされていれば鳴いたり、うなったりしないということです。彼は、泥酔したことによって理性による行動の制御が失われ、心の奥の深層心理が外にさらけ出されてしまった。何をもってしても埋めることのできない心の空洞が、あの常軌を逸した行動に向かわせたのではないかと推測します。人間の心の中には空洞があり、その空洞が埋まらない限り、どうにもならない虚無感がつきまといます。それは、莫大な富によっても、名声や栄誉によっても、消えることはないでしょう。この虚無感を解決すること、すなわち、この心の空洞を埋めることこそが、私たち人類が一番求めなければならないことです。天地を創造し、人間をこの地上に住まわせて、生かしておられる真の神のひとり子イエス・キリストは、実に、その問題の解決のためにこの世に遣わされました。このイエス・キリスト以外に、その解決の道はありません。