内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第119回「草なぎさん泥酔事件の核心」

2009-04-29 16:30:47 | 牧師のブログでコメンテーター

 「犬が人間に噛み付いてもニュースにはならないけれども、人間が犬に噛み付けばニュースになる。」ということを以前聞いたことがあります。全国的に凶悪な事件が多い昨今、深夜、公園で裸で騒いだということ自体は大きな事件ではありません。しかし、騒いだ本人が超有名芸能人だった。しかも、多くの芸能人の中でも「いい人」と思われている人だった。そのためか、多くのコマーシャルにも出ていたということで、この件に関連する話題がテレビやネット上などで続いています。

 この件に関しての主な論点となっているのは、警察が彼を逮捕して家宅捜査までしたのは妥当かどうかということです。公園の近隣の住民としては、深夜、人が大声を上げていれば、不安を覚えるのは当然でしょう。警察としては、家宅捜査までしたのは行き過ぎだったと見られていますが、駆けつけた警察官に抵抗し、異常な行動をする人間に対して、薬物を疑うのも無理もないと言ってもよいかもしれません。ただ、捕らえてみたら、危険人物とはほど遠い、お茶の間のテレビでお馴染みの芸能人だったということで、結果的には「なあんだ。」というところなのですが、確かに、最初から、草なぎさんだと分かっていれば、逮捕も、通報さえも無かったかもしれません。どういう人物なのか分からないゆえの恐れと予測できない危険、最悪の場合、死者やけが人が出ることを想定すれば、近隣の住民と出動した警察官の行動は、むしろ、当然と言っても良いのかもしれません。

 さて、この事件に関して、最も関心を持たなければならないのは、警察の対応や鳩山総務大臣の言動ではなく、草なぎさんの心の奥に潜んでいた全人類共通の問題ではないかと私は思います。彼の場合は、数本のコマーシャルに出演するほど多くの人に親しまれ、それなりの収入もあり、誰が見ても恵まれた環境にあったにもかかわらず、なぜ、泥酔して公園で裸になって大声で叫んだのか。その、一見、理解しがたいアンバランスな部分を究明することこそ価値があることではないでしょうか。

 旧約聖書に「野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。(ヨブ記6:5)」とあります。家畜が、目の前に食物があって満たされていれば鳴いたり、うなったりしないということです。彼は、泥酔したことによって理性による行動の制御が失われ、心の奥の深層心理が外にさらけ出されてしまった。何をもってしても埋めることのできない心の空洞が、あの常軌を逸した行動に向かわせたのではないかと推測します。人間の心の中には空洞があり、その空洞が埋まらない限り、どうにもならない虚無感がつきまといます。それは、莫大な富によっても、名声や栄誉によっても、消えることはないでしょう。この虚無感を解決すること、すなわち、この心の空洞を埋めることこそが、私たち人類が一番求めなければならないことです。天地を創造し、人間をこの地上に住まわせて、生かしておられる真の神のひとり子イエス・キリストは、実に、その問題の解決のためにこの世に遣わされました。このイエス・キリスト以外に、その解決の道はありません。



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第118回「安ければ良いということはない」

2009-04-20 18:46:01 | 牧師のブログでコメンテーター

 昔のように好景気のときは、物価や地価が上昇する傾向にありましたが、ここ何年か前より、不景気と言われるようになってからデフレ状態と言いましょうか、物価が下がる傾向にあります。最近の家庭電化製品の安売りとか、コンビニエンスストアでのスーパー並の価格への値下げとか、いわゆる薄利多売の傾向が益々強くなっています。

 買う側の立場に立てば、物を買うときに安いほうが良いに決まっています。私自身、物を買うとき、品物の良し悪しよりも、安い物を選んで買うということが多いと思います。ところが、売る側の立場に立てば、薄利多売では、働きの割りに収益が少ないということになります。まだ、たくさん売れる店は良いかもしれませんが、そこそこの売り上げの店で薄利では、ちっとも利益が上がらないということになります。物事には、やはり、道理というものがあります。このぐらい働けばこのぐらいの収入があってしかるべきという暗黙の基準というものがあります。しかし、この頃、その道理が崩れて、いくら働いても楽にならないという人が増えてきたようです。不景気で物が売れない。売れないので安くする。他の店が安くすれば自分の店も安くしなければ売れない。そういった悪循環が今の経済状況を一層悪化させているようです。

 物を買う人は、多くの場合、自分も売る人の側にも立ちますし、その逆もあるでしょう。物を買うときは売る側の立場に立つという発想も必要なのではないかと思うのです。例えば、100円で売る品物を70円で仕入れれば、一つ30円の儲けです。しかし、他の店が90円で売っていれば、自分の店では80円で売る。そうすると、10円の儲けしかないというとになります。その場合、買う側の立場では、80円では安すぎるので100円でも構わない。売る側は商売が成り立つ適正価格で売るべきだという発想が社会全体にあってもよいのではないかと思うのです。また、一人勝ちして自分の店だけ儲かればよいという考えではなく、他の店のことも考えた価格設定をするべきでしょう。買う人、売る人、そして他の店も、商売をして皆が喜ぶ。誰かが喜べば、結局それが自分自身にも帰ってくる。そういう考え方が社会全体を支えていくのではないでしょうか。

 この問題とはちょっと違いますが、旧約聖書の中には「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたがたの収穫の落穂を集めてはならない。(レビ記19:9)」という記事があります。つまり、刈り残した分と落穂は、貧しい人のためにわざと残しておくということです。そこには、自分だけ良ければいいというのではなく、他の人のことも考えるという発想があります。別の言葉で言い換えると、競争原理社会ではなく、共存共栄社会です。もちろん、ある程度の競争も必要かもしれませんが、競争原理ばかりが横行するとき、格差とか差別が生まれ、そこからさらに悪いものが生み出されていくのかもしれません。人のことも考える。自分ももちろん、人も幸せになってほしい、そういった発想が社会全体に広がる必要があるのではないでしょうか。



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第117回「進化論は科学ではない」

2009-04-16 19:21:28 | 牧師のブログでコメンテーター

 今年は、チャールズ・ダーウィン生誕200年、また、そのダーウィンが種の起源を著して150年という記念の年なのだそうです。先日、NHKラジオの時事解説のような番組で、そのことを取り上げていました。その放送において、解説者が冒頭で、数十億年前に最初の生命が誕生して以来今日まで、あらゆる生物が進化し続けてきたというようなことを言っていました。そして、進化論が世界に貢献してきたというような発言とか、全体的には進化論を肯定する内容に終始していました。その中で、アメリカではキリスト教の右派が進化論を未だに否定しているということも付け加えていました。そうすると、私自身も、そのキリスト教の右派と同じく、未だに聖書の創造論を信じ、進化論を否定する非科学的な人間というレッテルを貼られることになるようです。

 半世紀も前の昔の話ですが、私が生まれた田舎の家は、十畳くらいの大きさのコンクリートの土間がありました。そこで、ある日の夕方、隣の同じ年のY君と土間の表面に炭で富士山と雲の絵を画きました。すると、Y君は、富士山は雲の上に乗っかっていると言うのです。山が雲の上に乗るはずがないので、私が否定すると、Y君は乗っていると主張して譲りません。たぶん、Y君は家族から聞いたことを勘違いして、そう思い込んでいたのでしょう。そのとき私がY君に感じた思いと同じ思いを、今日、進化論を信じている人に対して感じているのです。「信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)」と聖書は言っていますが、良い信仰ならともかく、誤った信仰も、聞くことから始まるのです。大学を卒業した人なら、学校で進化論を前提にした教育を16年も受け続けるので、進化論を信じるのも無理もないと言えます。だからこそ、私は、こうやって、進化論は仮説であって、科学ではないと一人でも多くの人に聞かせようとしているのです。

 当ブログでは、進化論を憂える記事を何度か書いていますが、あえて、今回も内容的に重複することを厭わずに進化論に対する問題点を指摘したいと思います。まず、第一に、進化論は証明されていない仮説であるということを忘れてはなりません。全く証明されていない仮説が、まるで事実であるかのような先走った扱いを受けているのです。第二に、進化論が事実であることを証明するためには、動物などが進化したということを裏付ける進化途上の化石が発見されなければなりません。もちろん、進化論支持者は、そういった化石が発見されていると言うでしょうが、進化途上を示す明確な化石は一つも発見されていないのです。それどころか、発見される化石は、現在生息している動物などと同じものばかりで、進化を否定するものばかりです。第三に、進化論はメンデルの法則と矛盾する。進化論では突然変異による進化を主張していますが、突然変異によって出来るものは劣性のものであって、突然変異を進化に結び付けるには無理があります。第四に、細菌学者のパスツールによって、自然発生説が否定されているにもかかわらず、最初の生命が自然発生したという、実に浅はかな前提に立って進化論が成り立っているのです。



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第116回「十字架と復活」

2009-04-10 15:18:16 | 牧師のブログでコメンテーター

 イエス・キリストの復活を祝うイースターは、春分の日以後の満月の次の日曜日とされていて、今年の場合、4月12日となります。一般的に、イエス・キリストが十字架で死なれたということはよく知られていると思います。しかし、復活したということはあまり知られていないかと思います。もちろん、一般的な常識では死者が復活するなどということはありえないことですし、荒唐無稽(こうとうむけい)と思われても仕方ないことですから、それも当然かと思います。

 しかし、それは、クリスチャンではない人々の間で通用することであって、クリスチャンが、この復活を信じていないと、使徒パウロに言わせると「すべての人の中で一番哀れな者(Ⅰコリント15:19)」ということになります。復活を信じないで、どうしてクリスチャンと言えるのか、ということになります。言うまでもなく、イエス・キリストの復活は蘇生ではなく、永久に死なない体に復活したのです。しかも、それは、弟子たちの前で焼いた魚を食べたように、肉体的にも復活したのです。復活を信じることによって、人から愚か者とか変わり者と言われようが、信じることによって得られるもののあまりの大きさゆえに、そういったマイナス面を問題にしないのが本来のクリスチャンです。

 さて、イエス・キリストの十字架と復活には、切っても切れない深い関係があります。十字架がなければ復活もないし、復活がなければ十字架も意味を持たなくなります。もし、キリストが復活しなかったなら、それはキリストではなく、ただの人だったということで、新約聖書も存在しないし、キリスト教も存在しません。そのことを、パウロは「神は、お立てになったひとりの人により、義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒17:31)」と、イエス・キリストが復活したことによって、聖書が言っていることが確かなことであると言っています。

 こういった論理の展開は、あくまでも、疑う人々のためのもので、本来は、キリストが復活するということは当然のことであり、無から有を生み出し、この世界と宇宙を支配している全知全能で唯一の神にとっては、復活しないことのほうが不自然なことと言えるでしょう。モーセが、自分の前に現れた神様に対して、その名前を尋ねると、神は「わたしは『わたしはある。』というものである。(出エジプト記3:14)」と答えられました。それは、神は永遠に存在するものであるという意味です。その意味において、神のひとり子として、この地上を歩まれたイエス・キリストが、十字架で死なれたということは、その後に当然のように復活されたということ以上に大きな意味を持つことであると言えるのです。十字架と復活、一見、復活が主役に見えますが、復活は十字架を確証させる脇役です。本来の主役は、十字架です。永遠の存在である神のひとり子が十字架で一度死んだということ、史上、このこと以上に大きな出来事はありません。



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