民主党の小沢一郎幹事長が仏教関係者と会談したあと、記者のインタビューに答える形で「キリスト教文明は非常に排他的で独善的な宗教だと私は思っている。」と言ったということです。「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますが、さすがの小沢さんも、仏教関係者から影響を受けたのでしょうか、たぶん、会談の中で語られた内容がそのままそこで発せられたのではないかと思います。
それを聞いたキリスト教関係者の中には憤慨している人もいるようですし、実際に小沢氏に対して抗議文を送ったキリスト教団体もあったようです。歴史の中でキリスト教の名において、例えば聖地エルサレムの奪還を目指して十字軍を遠征させたというような本来のキリストの教えと整合性のない誤りを犯してきたことは認めざるを得ませんが、キリスト教、小沢氏の表現を借りるとキリスト教文明が世界に果たしてきた貢献がどれほどのものであったか、それはとても簡単に語り尽くせるものではないと思います。
今年、プロテスタントキリスト教の日本宣教は150周年を数えました。150年前の1859年の日本はまだキリスト教禁教の高札が立てられていて、固い禁教の下で宣教師たちが少しづつ日本に上陸したのです。そして、1868年(明治元年)の新政府の誕生、その後、岩倉具視使節団の欧米視察旅行後の1873年(明治6年)になってようやくキリスト教禁教が解かれました。それまでは当然、信教の自由はない、葬儀すら仏教式以外では行なえなかったのです。禁教が解かれたと言ってもまだまだ旧憲法下です。その後の第二次世界大戦後、新憲法制定に先立って認められたのが婦人参政権です。このことは、創造主である神の前に人はみな平等であるとするキリスト教文明の影響があったということは認めざるを得ないでしょう。今日の世界で、キリスト教の宣教を認めているということは、同時に言論の自由もあるという証しでもあります。ものが自由に言える。実はキリスト教文明の故であると言っても過言ではないでしょう。
ただ、本来、キリスト教はそういった文化面だけに貢献するために存在しているのではありません。人間の根本的な問題、つまり「人間はどこから来てどこへ行くのか、何のために生きるのか、死んだらどうなるのか。」といった人類共通の問題に対して明らかな解決を与えているのがキリスト教であり、聖書の教えです。小沢幹事長が「キリスト教文明は排他的で独善的だ。」と言ったのは、全く根拠がないとも言い切れません。すなわち、実際に聖書には「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」と書いてあって、他の宗教には救いはないということを明言しているのは事実だからです。太陽が東から昇って西に沈むのは事実であって、ほかには考えられないように、真理は一つです。その真理を宣言しているのが聖書であり、キリスト教なのですから、排他的、独善的とはまた違います。