内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第145回「キリスト教は排他的か?」

2009-11-30 19:47:23 | 牧師のブログでコメンテーター

 民主党の小沢一郎幹事長が仏教関係者と会談したあと、記者のインタビューに答える形で「キリスト教文明は非常に排他的で独善的な宗教だと私は思っている。」と言ったということです。「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますが、さすがの小沢さんも、仏教関係者から影響を受けたのでしょうか、たぶん、会談の中で語られた内容がそのままそこで発せられたのではないかと思います。

 それを聞いたキリスト教関係者の中には憤慨している人もいるようですし、実際に小沢氏に対して抗議文を送ったキリスト教団体もあったようです。歴史の中でキリスト教の名において、例えば聖地エルサレムの奪還を目指して十字軍を遠征させたというような本来のキリストの教えと整合性のない誤りを犯してきたことは認めざるを得ませんが、キリスト教、小沢氏の表現を借りるとキリスト教文明が世界に果たしてきた貢献がどれほどのものであったか、それはとても簡単に語り尽くせるものではないと思います。

 今年、プロテスタントキリスト教の日本宣教は150周年を数えました。150年前の1859年の日本はまだキリスト教禁教の高札が立てられていて、固い禁教の下で宣教師たちが少しづつ日本に上陸したのです。そして、1868年(明治元年)の新政府の誕生、その後、岩倉具視使節団の欧米視察旅行後の1873年(明治6年)になってようやくキリスト教禁教が解かれました。それまでは当然、信教の自由はない、葬儀すら仏教式以外では行なえなかったのです。禁教が解かれたと言ってもまだまだ旧憲法下です。その後の第二次世界大戦後、新憲法制定に先立って認められたのが婦人参政権です。このことは、創造主である神の前に人はみな平等であるとするキリスト教文明の影響があったということは認めざるを得ないでしょう。今日の世界で、キリスト教の宣教を認めているということは、同時に言論の自由もあるという証しでもあります。ものが自由に言える。実はキリスト教文明の故であると言っても過言ではないでしょう。

 ただ、本来、キリスト教はそういった文化面だけに貢献するために存在しているのではありません。人間の根本的な問題、つまり「人間はどこから来てどこへ行くのか、何のために生きるのか、死んだらどうなるのか。」といった人類共通の問題に対して明らかな解決を与えているのがキリスト教であり、聖書の教えです。小沢幹事長が「キリスト教文明は排他的で独善的だ。」と言ったのは、全く根拠がないとも言い切れません。すなわち、実際に聖書には「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」と書いてあって、他の宗教には救いはないということを明言しているのは事実だからです。太陽が東から昇って西に沈むのは事実であって、ほかには考えられないように、真理は一つです。その真理を宣言しているのが聖書であり、キリスト教なのですから、排他的、独善的とはまた違います。



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第144回「キリスト者が説く仏教」

2009-11-18 14:08:04 | 牧師のブログでコメンテーター

 仏教に関わりの深い人も、そうでない人も、日本に住んでいるかぎりにおいては、仏教に何らかの形で関わることが多いと思います。仏教と関わる場合、本来は、仏教とは何かを知った上で関わるべきだと思うのですが、正直なところ、多くの日本人の仏教についての知識は十分とは言えないでしょう。しかも、仏教ついての知識と言っても、各宗派によってその教義は大きく異なります。仏教のある一宗派について深い知識を持っていたとしても、それは仏教についての偏った知識しか持っていないということになるのではないかと私は思います。そこで、今回の記事では、仏教の代表的な各宗派の教義を歴史的に体系化することによって、仏教の本質に迫れるのではないかと考え、限られたスペースの中で、それをまとめてみたいと思います。

 仏教は紀元前500年頃にインドの釈迦から始まったことはよくご存知のことと思います。釈迦の教えは、この世における死や苦しみからの解放をテーマとし、結論は、人間誰でも死や苦しみを避けることは出来ない。避けようとするから苦しむ。それならば、むしろ、もがくことはやめて、死や苦しみを受け入れる。それが悟りである、というのが釈迦による原始仏教の基本的な教えです。

 その後、釈迦の教えが広まっていく中で、大乗仏教が生まれます。原始仏教である釈迦の教えを小乗と呼び、大乗、つまり、誰でも南無妙法蓮華経とお題目を唱えることによって成仏できるとする教えです。南無は帰依するという意味です。このころまでの教えは、あくまでも現世的であり、死後の世界については言及していないようです。

 そして、インドから中国、朝鮮半島を経由して日本にも入ってきた仏教は、特に平安時代末期から鎌倉時代にかけて、一大転機を迎えます。この頃は、政情不安、天災などが重なり、仏教の開祖が相次いで登場します。まず、浄土宗の法然の登場です。法然は南無阿弥陀仏という念仏を唱える、つまり、阿弥陀仏に帰依すれば極楽浄土に往生するという教えを説きました。当時の社会不安の中で、それまでの現世御利益だけでは説得力に乏しく、どうしても来世の希望を訴える必要に迫られていたのでしょう。その後、法然の教えを受継ぐ親鸞の登場、禅宗の一派である臨済宗の栄西、曹洞宗の道元が登場します。そして、日蓮が登場します。日蓮は、他宗派の教えを激しく攻撃し、南無妙法蓮華経と唱えれば成仏できるとする法華経に回帰すべきと訴え、立正安国論を著します。

 最後にこれらの流れをまとめてみますと、釈迦による原始仏教から始まり、南無妙法蓮華経の法華経に至り、その後、南無阿弥陀仏の浄土宗が生まれ、さらに、禅による修行を強調する禅宗、そして、浄土宗や禅宗を批判し、法華経を支持する日蓮の日蓮宗が起こったのです。もちろん、この代表的な流れからさらに細かく多くの宗派に枝分かれします。仏教、それは、真理を求めて止まない人々が残した数々の教えとも言えます。ところで聖書は「まさしく真理はイエスにある(エペソ4:21)」と言っています。



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第143回「巨人ファンの2009年」

2009-11-11 18:56:48 | 牧師のブログでコメンテーター

 今年の日本シリーズは巨人が日本ハムを下して日本一となりました。3月に行なわれたWBCでは、巨人監督の原さんが日本代表監督として采配を振るって世界一になりました。メジャーリーグでは、巨人に10年間在籍した松井選手が所属するヤンキースがワールドシリーズを制し、しかも、MVPは松井選手でしたから、まあ、たいていの巨人ファンにとっては三重の喜びというところでしょう。

 巨人は去年、日本シリーズで西武に、あと一歩のところで悔しい負け方をしています。それだけに、今年は、最後のアウトを取るまで気を抜くことができませんでした。結果的には巨人の4勝2敗でしたが、日本ハムとの力の差はなく、打線的には、日本ハムのほうが切れ目無く、選手一人一人がいやらしいと言いましょうか、相手チームに嫌がられる粘っこい打撃を見せていました。ダルビッシュ投手の体調が万全でなく、第2戦目に登場しただけでしたが、彼の体調が問題なければ、また違う展開になっていたでしょう。

 巨人の場合は、他チームから有力選手を金で買い集めてそれで勝ったという見方をする人が多くいます。確かにそういう面も否定できませんが、ただ、いくら有力選手をかき集めてもチームとして機能しなければなりません。有力選手は反面、個性的でもあります。チームとして束ねていくには監督としての人心掌握術的なものも必要でしょう。原監督は性格が素直で、反面、したたかさに欠けるようにも見えますが、案外、そうでもないようです。一ファンとして試合を見ていて、その采配に対してほとんどイライラすることはありません。むしろ、ファンが想定する以上の采配をすることがあります。今シリーズでは偽装スクイズを決めました。ランナー一三塁で、スクイズと見せかけて、キャッチャーが三塁ランナーに気を取られている間に、一塁ランナーが二塁に進塁しました。

 というようなわけで、巨人ファンとしての2009年は最高の年になりました。何か自分に割り当てられていた仕事を高いレベルで達成したような気分になっていますが、よく考えて見ますと、私個人が何かをしたのでも、何かの得をしたのではありません。巨人が弱いときもそうなのですが、巨人が弱いと気持ちが曇る。しかし、よく考えると、私が何か失敗をしたのでも損をしたのでもない。
 自分に直接関係ないことでも、私たちはこれほどまでに喜んだり沈んだりするのですから、まして、自分と関係あることで賞を取ったり、得をしたりすれば、どれほど喜ぶことでしょう。また逆に、失敗したり、損をしたりすれば心は大きく沈むものです。
 あるとき、イエス・キリストに遣わされた弟子たちが、成功して喜んで帰ってきました。彼らがキリストにその報告をすると、キリストは「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。この世で成功した、失敗した、実は、それらは、それほど大きなことではありません。天のいのちの書に名が記されるか、記されないか、このことが全て、と言っても過言ではないのです。



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第142回「日本人のアイデンティティー」

2009-11-03 14:58:58 | 牧師のブログでコメンテーター

 衆議院予算委員会を聞いていましたら、野党となった自民党から、加藤紘一議員が質問者として立っていました。加藤氏は、薀蓄(うんちく)のある学者風な味のある質問をしておられました。その中で、「日本人のアイデンティティー」という言葉を使っていました。アイデンティティー(identity)というのは、正体、身元、本質といった意味なのですが、加藤氏は、「日本人は、山や川、そういった自然そのものが神であると考える民族である。」と、まあ、そういうようなことを発言していました。この考え方は、汎神論とかアニミズムと言われる考え方で、確かに、そう考える日本人は多いのですが、それなら果たして、汎神論者であるということが、日本人のアイデンティティーと言えるのかというと、それはまた別問題ではないかと思います。

 あの聖徳太子自ら起草して制定したと言われる十七条憲法の第一条には「和を以って貴しとなし」とあり、今日も大方の日本人は和を重んじます。和を重んじる、一面、良いことですが、つまりは、お上に逆らうなということです。また、わびさびの文化と言いましょうか、俳句や和歌に見られる独特な風情があります。華道や茶道においても諸外国では見ることのできない趣があります。食文化においても和食は欧米料理に優るとも劣らないものがあります。そのほかにもまだまだ数え切れない分野で日本独特なものがあると思いますが、ここで、肝心要の日本人の心の中、すなわち宗教観について考えてみましょう。

 日本で宗教と言えば、やはり、仏教と神道です。ご存知ように、仏教はインドから中国、朝鮮半島を経由して日本に入ってきた外来宗教とも言えます。特に、徳川幕府になってから本格化したキリシタン禁制と連動して行なわれた寺請制度により、日本のどこの家庭も仏教徒でなければならなかったのです。もちろん、この場合、神仏混合、神道は問題ありません。ところで、神道のほうはというと、意外なことですが、神道の起源や歴史についての明確なものがあるとは言えないようです。神道は日本古来の独自の宗教ではあるのですが、外からのものを取り入れながら今日に至るまで形成されてきたようです。今日、日本のどの町や村にも神社があり、祭りもあり、神道は日本人にとって身近な存在なのですが、さて、神道とは何かと問われて簡潔明瞭に答えられる人が何人いるでしょう。

 というわけで、日本人のアイデンティティーと言っても何なのか益々分からなくなるというのが正直なところでしょう。しかし、聖書は「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(使徒17:24)」と言っています。もちろん、山や川に神が住んでいるのではありません。それは汎神論という考え方に過ぎません。確かに日本の素晴らしい文化は大切にしたいものですが、日本人のみならず、全世界、全人類のアイデンティティー、つまり正体(身元)は天地創造の神によるのです。そして、その神が私たち一人一人を愛するがゆえに、その御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。



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