内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第235回 「バレンタインデー(愛について)」

2020-02-04 18:22:09 | 日記
   元々は欧米から始まったバレンタインデーですが、日本では、1958年ころから始まり、女性から男性にチョコレートを贈るという日本独自の習慣が定着したのは1970年代後半だということです。また、最近では、チョコレート以外のお菓子などを贈ることもあり、いわゆる本命チョコの他に、義理チョコ、友チョコ(女性同士)、逆チョコ(男性から女性に)、自己チョコなどがあるそうです。

   さて、バレンタインデー由来のバレンタインとはどういう人物だったのでしょうか。一般的な説によりますと、バレンタインはAD269年2月14日にローマ皇帝の迫害下で殉教しました。当時、ローマ帝国軍の士気が下がるという理由で兵士たちの婚姻が禁止されていたのです。それを知ったキリスト教の司祭だったバレンタインは、嘆く兵士たちのために内緒で結婚式を行なっていたということです。やがて、そのことが皇帝の耳に入り、バレンタインは捕らえられ、処刑されてしまいます。その殉教の日が後にバレンタインデーとなったとのことです。

   バレンタインデーが「男女の愛」に関わりのある行事になったのは、バレンタインが、婚姻を禁止されていた男女を結婚させたということが、一因となっているのでしょう。でも、バレンタインの行動そのものは、別次元の愛によるものであったことは言うまでもありません。日本語で「愛」というとき、色々な意味で使われるのですが、新約聖書の原語であるギリシャ語で「愛」は、四つの言葉で表現されます。①アガペー(自己犠牲的な愛、永遠の神の愛)、②フィリア(友愛、隣人愛)、③ストルゲ(親子愛、家族愛)、④エロース(男女の愛、性愛)、です。このうち、バレンタインの行動はどれに当たるでしょうか。①の自己犠牲的な愛でもあり、②の友愛でもあるでしょう。

   今日のバレンタインデーが、ただ、男女の愛だけに焦点が当たっているとしたら、ちょっと違うかなと思います。もちろん、健全な形の男女の愛であるなら、それは喜ばしいものです。ですから、無理のない義理チョコや友チョコなども、案外、本来のバレンタインデーのあり方に近い形と言えるかもしれませんね。
 
   「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」とイエス・キリストは言われました。そう言われた通り、キリストは、彼を信じる全ての人が永遠のいのちを得ることが出来るように、十字架でいのちを捨て、その大きな愛を自ら示されました。

 私たちは、そのキリストの愛を素直に信じ受け入れて、真のいのちを得ようではありませんか。そして、何か大きなことをしなくても、今、目の前にいる家族や友人に優しい言葉を掛けるだけでも、永遠の神の目にとっては決して小さなことではないのです。 朝、出掛ける時に「行ってきます」「行ってらっしゃい」、そして家に帰ってくれば「ただいま」「お帰りなさい」。なんでもないような一言です。でも、その一言がどんなにかその人を励まし、また心を温かくさせるのではないでしょうか。互いに人を尊敬し合い、大切にし合う。夫婦、親子、兄弟、家族、そして友人、知人、また誰に対しても、一人一人が天の神様に愛されている大切な存在なのですから。

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第234回 「クリスマスのお話し」

2019-12-23 15:30:28 | 牧師のブログでコメンテーター
クリスマスって何の日? 「クリスマスツリー」、「クリスマスケーキ」、「クリスマスプレゼント」、そして「サンタクロース」、どれもクリスマスには欠かせないほどクリスマスらしいものですよね。昔、ニクラウスというクリスチャンがいて、彼は、裕福な親から受けた財産をもって貧しい人々にこっそり援助しました。後に、ニコラウスはセント(聖)・ニクラウスと呼ばれ、そのセント・ニクラウスが訛ってサンタクロースのモデルとなったようです。クリスマスは英語ではChristmas。つまり、Christ + mass =Christmas、キリスト+マス(聖祭)ということは、イエス・キリストの降誕祭ということになります。

イエス・キリストって誰? この宇宙とその中にあるすべてのもの、月、星、太陽、そして地球とその中に住む私たち人間は偶然によるのではありません。全知全能の聖なる真の神がそれらを創造したのです。イエス・キリストは、その聖なる神のひとり子として、今から2019年ほど前、現在のイスラエル(当時ローマ帝国領ユダヤ)のベツレヘムでお生まれになりました。
西暦は、キリスト降誕を基準にしています。BC(紀元前)は英語でBefore Christ、キリスト以前、AD(紀元後)はラテン語でAnno Domini、主の年という意味です。世界史は、キリストの降誕を基準にしています。

クリスマスの意義って何?  一言で申しますと、全知全能の創造主である真の神様から、私たち人間に対して、これ以上ない最善、最高、最上の贈り物が与えられたことを記念して祝うときです。
私は東日本大震災の後、4台のクルマをいただけるチャンスを得ました。最初のクルマは震災直後のこと、当時クルマを1台所有していた私は、自分よりもっと困っている人がいて、その人にクルマをお譲りしました。2台目です。8人乗りの大型車です。今度はお受けしました。震災後は多くのボランティアや支援者などの来客があり、そのクルマが大活躍でした。しかし、その後、廃車にしました。3台目の話が来ました。知らない名前のクルマで、ポンコツ車だと思い込み、断りました。ところが、立派なクルマだったと後で知り、断ったことを後悔しました。でも、4台目のクルマの話がありました。2年の車検付きで、もちろん無償でいただきました。
 壮大な宇宙を創造した真の神様のくださる最上の贈り物は、クルマどころではありません。ダイヤモンド、金の延べ棒、豪邸、莫大な富、そういったやがて朽ちてゆくものではない、本当に価値あるものであることを是非知ってください。もし、これを受けたら、その喜びはどれほどのものになるでしょうか。

どんな価値があるのでしょう? 若くて健康的な状態で、しかも輝くような素敵な場所で永遠に楽しく生きられるなんてことは、信じられないかもしれません。でも、聖書はそういう希望があるということを明確に示しています。真の神様は、私たち人間を愛し、一人も滅びることなく、永遠のいのち、すなわち、天国で永遠に生きることを願っておられます。
しかし、ここで、問題があります。天国は聖なる場所で、罪人、汚れた人は、そこに入ることはできません。実は、天国に入るにふさわしい聖人など、この世に誰ひとりいません。聖なる神の前には全ての人が罪人なのです。
そこで、真の神様は、私たち人間が罪人のゆえに滅びてしまうことがないように、大きな愛を示されました。すなわち、神のひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。イエス様は、十字架で多くの人の罪をその身に負って、死なれ、三日目に復活されました。このイエス・キリストを信じ受け入れる者は、義人と認められて天国に入ることができるのです。その証拠にイエス様を信じ、心に迎え入れると、その人の心に喜びがわき起こります。そして、その喜びと希望を持って、目的のある充実した毎日を過ごすのです。ここに、クリスマスの真の意義があるのです。


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第233回 「仲良く暮らして生きましょうよ。」

2019-08-18 00:31:13 | 牧師のブログでコメンテーター
しばらく前ですが、毎日新聞系のアンケート調査で、日本が韓国に対してホワイト国除外したことを支持する人が68%だったという結果が発表されました。普通に考えて、隣国と不仲になることで何か良い結果をもたらすということはありません。それなのに、68%の人が日本政府の方針を支持するとは。たぶん、今の日本政府の方針に同調する大手マスコミに多くの人がその影響を受けているのでしょう。

日本は1910年から1945年までの35年間、日韓併合ということで、実質、朝鮮半島を支配していました。この間、何があったのか。インフラ整備などで貢献したという一部日本側の論調もありますが、韓国側から見れば、屈辱的な期間だったでしょう。ですから、これまで日本政府としては、戦後50周年の終戦記念日にあたって語られたいわゆる「村山談話」を踏襲してきました。村山談話には次のような文言があります。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

 私自身は、こういった謙虚な姿勢に対して、日本国家に対する誇りのようなものを感じますが、昨今、韓国や北朝鮮、あるいは中国に対して敵対的な論調や態度を表わすほうが支持を得るような印象が見受けられます。今年6月に岩屋防衛大臣がシンガポールで韓国の国防省と笑顔で握手をしたことで、自民党の一部の議員から怒りの声が上がったとのこと。つまり、昨年2018年12月に韓国海軍が自衛隊機にレーダー照射したことに対して怒りを表わすべきだということでしょうが、当の岩屋防衛相は「やり取りと挨拶は別物」と反論したそうです。

この頃、ドライブレコーダーを取り付けている車が多くなって、あおり運転をする人の映像をよく見ます。運転をしていて、相手の車にいらいらしたり、カッとなって危険な運転をするようですが、賢い運転の仕方ではないでしょう。特に運転は、自分の非は見えづらく、他車の落ち度ばかりが目に付くものです。やはり、運転も謙虚な姿勢を崩さないほうが安全で、結局、自分自身を守ることになると思います。

旧約聖書の創世記26章にイサクという人の穏やかな一面が描写されています。彼は富んでいて、周囲の他民族に妬まれ、自分たちが掘った井戸を3回も土でふさがれてしまいます。しかしイサクは争うことなく別の場所に4回目の井戸を掘ります。すると他民族の長がイサクのところにやってきます。イサクとしては、また因縁でも付けに来たのかと聞くと、そうではなく、却ってイサクを恐れて、平和条約を結びに来たのです。イサクはそうと知って、彼らのために宴会を催し、互いに平和条約を結ぶのです。最後に新約聖書ヤコブ3章13節です。「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。」


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第232回 「終末時代に起こること」

2019-03-12 12:24:01 | 牧師のブログでコメンテーター
当ブログの第213回で「70年、70年、70年?」という記事を書いています。その中で私は、イスラエル建国の1948年から70年を経た2018年にエルサレムにユダヤ教の第三神殿が建てられるかもしれないということを述べています。もちろん、その予言?は見事に外れてしまいました。

終末時代に起こることの一つとして、聖書は、不法の人と言われる世界的な政治指導者が現われ、彼がユダヤ教の神殿に「自分こそ神だ」としてそこに自分のために座を設ける、ということを言っています。それは第二テサロニケ2:3~4に「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」と書いてある通りで、そうなるためには「神の宮」が存在していなければなりません。

しかし、現在、その神の宮はありません。ですから私は、不法の人が現われる前に、まず、ユダヤ教の第三神殿が建てられるはずだと思い込んでいたのですが、その順番が逆かもしれないと考えるようになりました。現在、元々のユダヤ教の第二神殿が建てられていた場所にはイスラム教の岩のドームが建てられており、そこにユダヤ教の神殿を建て替えるということは両者の宗教的背景から見て、ありえないことです。しかし、もし、その不可能と思えるような建て替えを何らかの政治的な力で成し遂げたならば、その政治指導者は相当の力を持った人物と見なされるでしょう。現在、イスラエルと一部アラブ諸国の間にはテロや爆撃などの小競り合いが頻繁に起きています。そういった根深い対立を和平に導くことが出来る、もしそんな人がいるとすれば、救世主と仰がれるでしょうが、その人こそ、正に、聖書で預言されている不法の人の可能性大です。

ダニエル書9:27には「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」とあります。この一週間というのは7年のことのようです。不法の人は、最初のうちは世界の救世主のように振る舞いますが、7年の半分の3年半を過ぎると彼の本性を現わし、「自分こそ神である」と宣言するのです。

現時点で、まだ不法の人らしき人物は世界の政治指導者の中に現われていないようです。もちろん、不法の人は、その本性を現わして初めて不法の人とされるのですから、最初は救世主のように現われるでしょう。その人物が現われたら、イスラエルとアラブ諸国が平和条約を締結し、しかも、岩のドームのある場所(もしかしたら別の場所かもしれません)にユダヤ教の神殿、第三神殿が建つことになるでしょう。そのあたりまでは、全世界は平和の到来と救世主のような政治指導者の出現によって歓迎ムードになるでしょう。多くの人々は、不法の人を救世主と思い込み、彼の言いなりになるでしょう。しかし、それは破滅への道です。ここに、終末時代を生きる人の試金石が隠されていると言えます。


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第231回 「いつまでやるの?レーダー照射問題」

2019-01-07 21:35:31 | 牧師のブログでコメンテーター
かつては韓流ブームに沸いたときもありましたが、最近の日韓関係はぎくしゃくしています。日朝関係も、昨年、米朝会談も行われて、日本の拉致被害者家族の方々は大きな期待を寄せたのに、全く進展は見られず、相変わらずです。どうも、現政権に、日朝関係はもとより日韓関係にしても良好な関係を築こうとする意志が全く感じられません。北のロシアを除けば、日本から最も近い朝鮮半島に対する外交をないがしろにすることは賢明とは言えないでしょう。ただ、現政権がそういう姿勢を貫いているのは、たぶん、目的が他にあるからでしょう。日朝関係も日韓関係も不安定になって、いつ戦争が起こるか分からないというような緊迫した情勢になるほうが憲法改正の論議に進みやすいと考えているのでしょうか。平和のために憲法改正をするのではなく、憲法改正という目的のために平和を妨げようとしているのなら、言語道断です。

昨年末に起こった韓国軍によるレーダー照射問題についても、政府とマスコミと一緒になって、この問題を煽っているように見えます。自衛隊側はレーダー照射した、つまり危険行為をしたと主張し、韓国軍側は自衛隊の哨戒機が低空飛行で自軍の駆逐艦に接近してきたと主張しています。いずれにしても、現場にいた双方は互いに危険を感じたということでしょう。日本の大方の人々は戦闘行為に匹敵するような危険行為だと言いますが、中には大騒ぎするほどのことはないという人もいます。聖書には「 争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言17:14)」とあります。いつまでもずるずると、証拠を出せとかなんとかやって、出したところでどうなるものでもないでしょう。

聖書によりますと、人類最初の人間はアダムとエバです。この二人から地球上に人類が増えていったのですが、ノアの大洪水が起こり、一旦、地球上にはノアの家族8人だけとなります。現在のトルコの東、アララテ山に箱船が漂着し、そこから人類が再び増え広がって行きます。つまり、日本民族は、中国を経由して朝鮮半島から渡来してきた可能性は否定できないでしょう。その証拠に、日本人と韓国人は容姿が似ている。言語的にも漢字を使い、文法も似ています。日本から見れば朝鮮半島の人々は親戚のようなものです。尤も、全人類はアダム、そしてノアの子孫ですから、皆が親戚です。さらに韓国は親戚の中でも一番近い親戚です。

かつて日本は日韓併合の名のもとに、朝鮮半島を35年の間、事実上統治していました。インフラ整備など良い面もあったかもしれませんが、統治された立場から見れば、深い傷を負っています。そのことを日本は忘れてはなりません。慰安婦問題について、ある人々は「他の国でも同じことをしている」といいます。徴用工問題については「政府間で話し合いがついている」と言います。こういった問題が取り上げられたときに、日本政府の代表者は弱い立場にある人々の心情を思いやる言葉をまず発するべきでしょう。聖書に「平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9前半)」とあります。平和へのまず第一歩は、相手の気持ちを思いやることです。

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