内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第74回「『国家の品格』を読んで」

2008-06-27 13:17:02 | 牧師のブログでコメンテーター

 二年くらい前でしょうか。「品格」という言葉が流行語になるほど藤原正彦氏著の「国家の品格」という本が話題になりました。つい最近になって、やっと私も読みました。これまでの書物は、とかく欧米文化を礼賛し、自国文化を卑下する傾向にあったのですが、日本の文化や日本人の習性に誇りを持つことが、真に品格ある国家を建て上げるのであるという発想の転換を促そうとする書だと思いました。

 特に面白いと感じたのは、「国際人を育てるというなら、小学生に英語を習わせるのは止めて、国語をもっとしっかり教えるべきだ。」という主張です。国際人というのは自分の考えをきっちりと表現できなくてはいけない。つまり、人間は頭の中で言語によって考えるのであるから、自国語の言語をしっかりマスターしなければ物事を論理的に語ることができないというのです。また、「どうしても必要な自由は、権力を批判する自由だけである。」という主張もなるほどと思いました。自由がなかった時代の反動として自由ということが叫ばれてきたのですが、自由ということを悪意にとらえるならば、身勝手であるというのです。確かに自由だからといって、世の中に身勝手なことばかりが横行したら誰も平穏に暮らしていけないでしょう。

 そのほかにも、共感を覚える独創的な記事がありましたが、全体的に武士道精神と仏教と神道を支持し、どちらかというとキリスト教に対しては批判的な印象を受けました。記事の中でイスラム教原理主義とキリスト教原理主義を同列に置いて、「原理主義は危険思想である」とありました。アメリカにおいてはキリスト教原理主義という言葉がアメリカの世論に大きな影響を及ぼす政治的な集団を意味して使われているようですが、本来、キリスト教は原理主義(あるいは根本主義)でなければキリスト教ではありません。ただ、聖書=キリスト教原理主義者とは言えません。天地の創造主である神は完全であっても人間は不完全であり、当然、キリスト教原理主義者も間違ったことをしてしまうのです。

 確かに藤原氏が言うように、日本独自の文化や日本人としての独特な習性や感性に対して誇りを持つべきであることはよく分かりますが、キリスト教、すなわち聖書の教えが今日まで世界と日本にどれほどの貢献をしてきたかについては極力言及を避けているようです。私は直接的に武士道を教わったことはありませんが、日本人ですから自然に武士道の影響は受けてきたと思います。しかしあるとき、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」と書いてある聖書の一節に出会い、直感的に、地球上にこれ以上に高い倫理観はないと思いました。

 そして藤原氏は、「死んだ後どうなるか分からない。人類の究極の目標は真理の解明である。」と言っています。死後のことをまるで見てきたように語る霊能者や霊媒師よりも正直で良いとは思うのですが、初めから死の解決を人類に与え続けている聖書の教え、その救いに藤原氏もたどり着いてほしいと願っています。


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第73回「あなたは素晴らしい」

2008-06-21 16:58:55 | 牧師のブログでコメンテーター

 毎日の生活の中で、私たちは見たり聞いたり話したりします。その中で、「聞く」ということは私たちが考える以上に私たちに大きな影響を与えていると思います。例えば誰かに「あなたは素晴らしい。」と毎日のように言われ続けたとしましょう。どんな人でも悪い気はしないでしょう。それよりも、言われ続けているうちに、本当に自分は素晴らしい人間であると思い、与えられた能力をのびのびと発揮するのではないでしょうか。一方、「あなたは駄目だ。」と毎日言われ続けるとしましょう。そんなことを言われて良い気分になる人はいないでしょう。気持ちが落ち込むとともに、本当に自分が駄目な人間であると確信してしまうのではないでしょうか。今年も日本で3万人以上の人が自殺をしたという発表が最近ありました。多分、その方たちは直接ではなくても、「あなたは駄目だ。」というメッセージを聞き続けてきたのではないかと思うのです。

 実生活の中で、「あなたは素晴らしい」とか「あなたは駄目」などとはっきり言われるということはそれほどはないと思うのですが、人との会話やテレビだとかパソコンなどから聞こえてくる言語はどちらかというと「あなたは駄目」という類のものが多いのではないでしょうか。ニュースと言うと、事件や事故や災害といった破壊的な類のものがほとんどです。聖書の中に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(第一コリント13:13)」とあります。一般的にこの世は無神論の世界観です。この世界は全知全能の創造主である神が創造したということを否定して、存在するものの全てが偶然で成り立っていると考えます。そこには信仰はありません。偶然に、目的も無く生きているだけで、死んだら全てが終わりと考えます。ですから希望ということはなく、あったとしてもこの世の一時的な成功だけです。また、人と人とが互いに赦し合ったり支え合うことよりも、裁き合ったり、憎しみ合ったりすることが多いのではないでしょうか。聖書が言っている信仰と希望と愛ではなく、不信仰と絶望と憎しみに関する言語を聞く機会が多いのです。
 つまり、私たちは、この世の一般的な情報源から「あなたは駄目だ。」と直接言われているようなものなのです。もちろん、この世の様々な情報を聞かずにいるということは出来ません。むしろ、必要な情報を聞かなければなりません。ただ、この世の情報だけで生活している限りは、不信仰と絶望と憎しみのメッセージばかりを聞くことになり、信仰と希望と愛のメッセージを聞く機会は皆無であると言わざるを得ないでしょう。

 私たち人間は失敗の多いものです。でも、そんな失敗の多い罪深い者のために、創造主である天の父は、そのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架で、罪の赦しのための贖いを成し遂げられたのです。天の父は「もう一度やり直しができるよ。」「あなたは素晴らしいよ。」と聖書を通して私たちを励ましてくれます。ですから、聖書のメッセージを伝えるキリスト教会に集まること、聖書に聞くということが非常に重要なのです。

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第72回「父の日に寄せて」

2008-06-14 16:01:23 | 牧師のブログでコメンテーター

 6月の第三日曜日は父の日です。5月の第二日曜日の母の日に比べると認知度は半分弱といったところでしょう。実際、アメリカで母の日の始まりは1908年で、祝日となったのが1914年。一方、やはりアメリカで父の日の始まりは1910年だったのですが、祝日と認定されたのは1972年になってからとのことですから、母の日に比べて父の日は今ひとつ盛り上がりに欠けているということは否定できません。

 その理由は、父と母、男と女の違いということが言えると思います。特に女性は出産という大変な役割を担っているし、男性に比べて体力的にも弱いので、労わるという面から見て、母の日が自然に重んじられてきたのでしょう。しかし、そうかと言って、男性、父親の役割が家庭において小さいのかというと、決してそんなことはありません。

 一概には言えませんが、今まで私が見てきた色々な家庭の状況から、一つの基本法則のようなものが見受けられます。よく「子を見れば親が分かる。」と言いますが、特に男の子の場合、元気で自由奔放な子のお父さんは概して大人しく、家庭でもあまり子を叱ったりしないという傾向があります。また、割と礼儀正しく大人しい子のお父さんは厳しく躾けているという傾向があるようです。もちろん、そのバランスの問題もあります。

 最近、東京の秋葉原で無差別殺傷事件が起こりました。あの事件を起こした青年は、逮捕後、罪を悔やんで、誰かに事件を起こす前に止めて欲しかったと言ったということです。あんな大事件を起こしておいて「勝手なこと言うな。」というのが大方の素直な気持ちなのでしょうが、その彼の言葉の背景には、間違いに対して「間違っている。やめろ。」とはっきりと否定する存在の必要性を訴えているとも言えるでしょう。 

 一般的に「優しさ」というと、相手を受け入れ、肯定することだと思われていますが、相手が間違っていたら明確に間違っていると言ってやり、事と次第によっては怒鳴り飛ばすほうが相手のためになり、結果的には、こちらのほうが本当の優しさであると言えるでしょう。但し、子どもが大きくなれば、怒鳴ったりしたら逆効果の場合もありますので、それはちゃんと状況判断した上で適切な対処が必要です。

 聖書には「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言13:24)」「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(箴言27:5)」とあります。父と母は、その子どもに対して、その子の健全な成長のために、愛情を注がなくてはならないという当然の義務があります。愛とは優しさでもありますが、優しさとは子どもを我がままにさせることではありません。特に父親の役目は、子どもが家庭や社会の一員としてルールを守り、また、協力的に家庭や社会を築き上げる存在として自覚できるように、厳しく躾けなければなりません。と言っても、自分がしっかりしていないと、躾けることはできません。父の日に際して、日本の全てのお父さんたち、私自身も含めて、父親としての役割を一層認識し、それを担っていきましょう。

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第71回「麺食いな私」

2008-06-07 15:27:18 | 牧師のブログでコメンテーター

 当ブログで、私はまだ本格的に「麺」の話をしていないので、今回は麺について熱く語ってみたいと思います。タイトルは「めんくい」となっていますが、そちらの面ではなく、あの、うどん・そばの麺です。日本人なら大方の人は麺好きだと思います。但し、私の妻は日本人ですが、食べ物の傾向は欧米人です。麺やご飯よりパンやケーキが大好きなのです。もちろん私は大の麺好きですから、夫婦で合わないとお思いかもしれません。ところが意外と食べ物では競合しないので、食べ物に関する争いは全くないのです。でも、同じものを一緒に「美味しい。美味しい。」と共感しながら食べられないという部分は若干あります。ただ、私もパンやケーキが嫌いということはありませんし、妻も麺を全く食べないということもありませんので丁度良いかなと思っています。

 麺でも色々あります。うどん、そば、冷麺、ひやむぎ、そうめん、ラーメン、焼きそば、スパゲッティーなどです。実は、この並び方は、私の好きな麺類の順番通りです。正直、私としては麺と言えばうどん、うどんは別格です。うどんとの出会いの原点は、子どもの頃連れて行ってもらった田舎町では美味しいと評判の手打ちうどん店です。手打ちですから少しばらつきのある麺と、ポイントは鰹節とネギの融合です。今もその店があるかどうかは知りませんが、時々、うどんを食べるとき、鰹節とネギを入れて、その香りで、その昔の店の手打ちうどんを思い出すのです。

 私の知る限り、東北地方では秋田の稲庭うどん、宮城県白石市の白石温麺(うーめん)が有名です。温麺というのはそうめんを温かくして食べるのですが、長さはそうめんの半分くらいで、基本的にはそうめんとそれほど違いはありません。うどんの美味しさは、つるっとした食感とこしの強さにあると思うのですが、稲庭うどんは正にそれです。ただ、麺が細めで私のように太い麺を好む人にはもの足りないところもないではありません。でも、細ければ茹でる時間が短くて良いので、地球温暖化防止には貢献です。

 しばらく前のことですが、教会員のAさんが四国の高松に出張した折に讃岐うどんの生麺(茹でる前の状態のもの)をおみやげに買って来てくれました。それまで、名前は聞いたことはあったのですが、本場から直送の讃岐うどんは初めてでした。もちろん、自分で茹でて食べたのですが、驚きました。太麺でこしがあります。一口うどんを噛んだとき、噛んだところから美味しさが伝わってくるのです。なるほど、これが讃岐うどんかと納得しました。たぶん塩味を上手に効かせているのでしょう。料理には塩と良く聞きますが、うどんに塩とは目からウロコでした。
 聖書に「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4:6)」とあります。私たちの言葉が、いつも親切で、感動を与える美味しいうどんのように、適度に塩味のきいたものでありたいと願っています。 


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