内藤牧師のブログでコメンテーター

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

第165回「最近の政局」

2010-04-24 17:12:10 | 牧師のブログでコメンテーター

 鳩山政権の支持率が20%台に落ち込み、政権存続の危険水域に入っていると言われています。その一番の原因はやはり普天間基地の移設問題が右往左往しているからでしょう。政治家として、他者の意見をよく聞くということは大事なことですが、物事を決断するときには、誰も彼もが納得するということは困難です。誰かが不利益を被るということはよくあることで、上に立つ者としては苦渋の選択をしなければならないことも少なからずあるのでしょうから、鳩山首相は、その点、強いリーダーシップを発揮すべきです。そもそも、この問題に関しては、戦後65年も経過しているにも関わらず、日米同盟とは言え、アメリカの基地を日本が提供しなければならないという発想そのものを見直す必要があると言えるでしょう。この件に関し、アメリカでわずかの時間オバマ大統領と会談した鳩山首相でしたが、大統領の前に、小さくなっていた姿を見た日本国民は、がっかりしたのでしょう。積極的に自分からアイデアを提案し、若いオバマさんの前に、むしろ主導権を取って巧みな外交手腕を見せつける機会とすれば良かったのです。

 民主党の支持率が落ち込む一方で、自民党が盛り返すのかというと、そうでもなく、最近、離党者が続出し、新しい新党が次々と誕生しています。結局、鳩山政権がアップアップしているのに、自民党が谷垣総裁の下で攻勢に転じ切ることが出来ないので、我慢しきれずの旗揚げということなのでしょう。自民党の戦略は、鳩山さんと小沢さんの政治献金問題ばかりをいつまでも追及していますが、これでは国民の支持は得られません。政治、経済評論家たちをうならせるような画期的な政策を発表すればよいのです。

 最近、名古屋市の河村市長が、議員定数の半減と議員報酬の半減案を議会に提出しましたが、議員全員がそれに反対したということです。議員さん一人一人の立場に立てば、その案が可決すると、最悪の場合、自分の仕事と収入が0になるか、もしくは、収入がそれまでの半分になって、それなりの生活をしてきた生活スタイルを変えなくてはならないので、反対することも本音であるし、分からないではありませんが、政治はボランティアであると主張する河村市長の考えに賛同する議員さんが一人もいないというのは寂しい話です。名古屋市だけの話ではなく、国会議員も本来はボランティアであるべきでしょう。高額な給与を支給するので、勘違いする人がいるのです。

 聖書に「わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。(伝道者の書9:14~15)」とあります。町が解放されることと、その貧しい人の名が記憶されることとどちらが大事でしょう。多くの人は、名を上げることや自分の利益を追求するものです。永遠から永遠に存在する真の神は全てをご覧になっています。政治家だけのことではなく、私たち一人一人が神の前にどうであるかが問われています。


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第164回「空気を読まないことに同感」

2010-04-13 20:43:14 | 牧師のブログでコメンテーター

 田舎の地域医療などに貢献し、テレビなどで話題となっている医師の鎌田實さんが「空気は読まない」という本を書かれたとのことですが、正直「やられた」と思いました。昨今、KYという言葉が流行し、小学生でさえも友達に「空気読めよ。」と言うのだそうです。何か、人に対してそんなに気を使わなくてはならないのかと思っていた矢先だったので、「空気は読まない」という言葉を聞いた瞬間、すがすがしささえ感じてしまいました。

 つい最近のことですが、妻から、私の電話の応対が悪いと言われました。と言いますのは、その二、三日前のことですが、私が電話に出ると、女性の声で妻に用事だから代わって欲しいと言われました。「営業ですか。」と聞くと「はい。」と言ったので、必要ないと判断して「けっこうです。」と言って電話を切りました。ところが、それは、妻のほうから要請したから電話をかけてきたということで、電話をしてきた女性は、私にガチャンと電話を切られて(正確にはプッシュボタンをピッと押した)憤慨したと、そのあと妻に言ったということです。私の立場からすれば、今までも営業系の電話を妻に取り次いで、妻に迷惑がられたことがあるし、事前にそういった電話があると聞いていなかったので仕方ないと思うのですが、妻に言わせると、私の電話の応対に問題があるとのことです。

 空気を読む、人に気配りする、そういうことは確かに悪いばかりではないし、良い点もあるのですが、相手に気配りしすぎて自分の考えを言わずに我慢しているのも問題です。前述の件ですが、私が電話をガチャンと切ったのは私の考え、私の判断に基づくもので、それをとやかく言われる筋合いはありません。もちろん、ガチャンと切られた人にとっては、ムッとなったのでしょうが、その程度のことはよくあることで、互いにそのくらいのことは想定内のことです。オレオレ詐欺とか振り込め詐欺にだまされるのは、結局、空気を読みすぎて、相手の言いなりになってしまい、自分の考えとか疑問を差し挟まないからではないでしょうか。相手に気を使いすぎて、自分が言うべきことも言わないということは、結局、相手のためにもなりません。

 新約聖書に登場する使徒パウロは、アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じました。アレオパゴスの丘に集まっている人たちを前にして、パウロは、まず、「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。(使徒17:22)」と言います。本当は、人の手によって作られた偶像を神々として拝礼することは愚かなことであるとパウロは言いたかったのでしょうが、そうは言わず、「宗教心にあつい方々」だと言って、彼らの心を閉じさせないようにと腐心しています。そのあとで、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(使徒17:24)」と主張しました。パウロがその場の空気を読んでいたら、沈黙するしかなかったでしょう。彼は、空気を読まないというよりも、むしろ、その場の空気を作り変えてしまいました。


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第163回「ポリフェノールの効用」

2010-04-02 10:20:46 | 牧師のブログでコメンテーター

 ポリフェノールというのは、ほとんどの植物の中に含まれている苦味とか渋味などの成分の総称なのだそうです。例えば、タンニンとかカテキンなどは、そのポリフェノールの一種というわけですが、タンニンはどちらかというと紅茶の苦味、カテキンは上手に入れた日本茶(緑茶)の旨み、と説明すると、その違いが分かりやすいと思います。ですから、日本茶のお茶屋さんなどは、そのカテキンのほうを強調すると思います。柿の渋などはポリフェノールの代表格で、バナナを剥いたときに出る細い帯状のものも食べると渋いのですが、やはり、そのポリフェノールの中の一種というわけです。

 子どもの頃とか若い頃は、野菜などの苦味や渋味を嫌がったものですが、年齢を重ねると不思議と苦い物や渋い物を好むようになるものです。年を重ねて体の中に老廃物が蓄積し、それらを取り除くためにポリフェノールが役立つので、体がそういったものを自然に要求するようです。紅茶、日本茶、あるいは中国茶にしても、世界中でお茶が飲み継がれてきたわけですが、お茶は、単に美味しいというだけでなく、食事のあとなどに、消化とか毒素を除去するといった作用があるようです。昔の人はそういったことを全て知っていて飲んでいたのかどうなのか知りませんが、お茶の効用というものは捨てがたいものがあると思います。実際に、お茶を飲むと、お腹がスッキリした気分になります。もちろん、コーヒーにもポリフェノールが含まれていて、香りを楽しむことはもちろん、消化などに効果があるようです。緑茶は歯にも良いようで、お茶の産地である静岡県のある小学校では、児童が給食の後、一斉に、お茶で歯をみがくのだそうです。

 最近、寿司屋さんでワサビ抜きの寿司を注文する若者が増えたそうですが、寿司は特に生魚を食べるわけですから、殺菌作用のあるワサビは抜かないほうが良いと思います。唐辛子も殺菌作用は抜群のようで、イメージ的には食べ過ぎると胃に良くないように感じますが、消化作用もあるようで、そのほか沢山の効用があるようです。苦かったり、渋かったり、辛かったりすれば全て良いのかというと、そこまで調べていませんが、おおむね、普通に食べられる野菜などの苦味などは、特に年を重ねた人には良さそうです。ですから、ちょっと癖のある野菜なども嫌がらずになるべく食べた方が健康に良いと言えます。

 今回は、専門分野ではありませんが、常々関心を持っていたことなので取り上げました。聖書には「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創世記9:3)」とあります。この自然界(実際は自然や偶然でこの世界は存在しているのではない。)にある植物あるいは肉や魚にしてもそうですが、私たち人間が食べるために与えられているのです。もちろん、そうかといって乱獲などは禁物です。創造主である神さまが我々人間のために与えてくれた色々な食べ物、それらは我々人間の健康を保持するためにも与えられているのです。ですから、許される限り、なるべく数多くの種類を創造主に感謝していただきましょう。


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