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2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

744) 私的岩手通史の旅 第25回

2010年06月27日 | 私的岩手通史の旅
 最近すっかり聞かなくなった話で、私も新聞を呼んで「へぇ、そうなんだ」と感じましたが、明日28日から高速道路の無料実験が始まります。岩手県内では釜石道が「社会実験」区間ですが盛岡からはまず利用しない高速道路なので、私の周囲での関心も低そうです。


第25回 東北38年戦争 12(宮城県栗原市 伊治城跡)

 くりこま高原駅からの多少起伏のある道を約1時間歩くと国道4号線との交差点に至りました。持参の地図によると伊治(これはる)城跡はこの付近にあるようです。さて探そうと思ったところ、斜め前に伊治城跡の説明札が立っていました。すぐ見つかってしまったので、ちょっと拍子抜けです。

 地図を見ると、伊治城は一迫(いちはさま)川左岸の高台に位置していますが、今までご覧いただいた遺跡同様、看板が無ければただの畑に過ぎません。説明板によると1977(昭和52)年から発掘調査が断続的に行われた結果、政庁の大きさは55メートル×60メートルで、築地塀で囲まれた中に建物が配置されていたことが分かりました。


(国道4号線に接する伊治城跡 -宮城県栗原市 2010/02/11-)

 この地で起こったのが「伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱」です。呰麻呂は今の宮城県栗原市一帯の有力者で俘囚(朝廷の支配に属したエミシ)であったとされていますが、780(宝亀11)年、按察使(あぜち)紀広純(きのひろずみ)と、同じ俘囚で対立していた道嶋大楯(みちしまのおおたて)をここで殺害しました。伊治城跡からは、この時のものと思われる火災の跡も発見されたそうです。

 国道を行き交う車が途切れれば静かな畑の前に立ち、1230年前の乱をちょっと想像してみました。かつてここにエミシ征討の拠点があり、人が斬りあっていたことは中々想像できませんが、説明板には「このこと(伊治公呰麻呂の乱)は、それ以後の律令政府とエミシの長期にわたる戦争の発端となった」とありました。

 紀広純らを殺めた伊治公呰麻呂は、更に多賀城も焼き打ちしてしまいました。主(紀広純)を失っていたとはいえ、故宮脇氏は「東北侵攻の重要拠点の多賀城があっさりと敗北するあたり、大和軍の戦意の乏しさを感じる」と述べています(日本通史の旅)。


(焼き打ちに遭った多賀城の模型 -宮城県多賀城市 2008/12/06-)

 朝廷軍は伊治公呰麻呂らに対する征討軍を派遣していますが討ったという記録は無く、呰麻呂はその後行方知れずとなっています。この頃の記録は朝廷側で書かれたものなので、もし呰麻呂を討ち取っていれば記録に残っていることでしょう。史実が残っていないので、「義経=チンギスハン」伝説のように「伊治公呰麻呂=阿弖流為」という想像も成り立ちますね。

伊治城があったのはこの辺です



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