ZIP FM デールさん

2007-11-17 01:08:49 | 歯科
今日、ジップFMのDJデールさんと知り合った。素晴らしい人でした。
人を楽しませるホスピタリティが先天的に備わっている人です。結構綺麗どころが集まっていた中で我々3人の親父に本当にホスピタリティを感じさせるプロの楽しいお話をしてくれたのです。「凄いですね」っていったら「僕は小学校のときからこんなんです」ってさらっといわれたのです。聞き上手話上手の痺れる声をもった、鳥肌がたつほど最高の男でした。

名古屋就職センター志賀さんの経歴

2007-11-11 21:41:10 | 歯科
先日ある勉強会で志賀 実樹也さんと知り合いました。
凄い経歴と想いの持ち主です。
http://www.n-sc.com/keireki.html


以下 志賀さんのホームページからの抜粋

■幼児期に精神的虐待を受ける

祖母から聞いた話ですが、私が赤ん坊の頃、私が泣くたびに母が私を叩いていたそうです。祖母が「なんでたたくの?」と問いかけたところ「叩きたいから叩くんだ」と母は答えたそうです。

私の原体験(記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験)は、母との思い出です。母はアルコール依存症で、毎日のようにお酒を飲んでいました。

ある日、母が玄関でうつむきにうずくまっていました。私は何か大変なことが母に起こったと思い「おかあさん、おかあさん」と母の体をゆすりました。すると母は酔いながら起き上がり「なにするの!」と言って、ほうきの柄で私の体を何度も何度も叩きました。

私はただ母に向かって「ごめんなさい、もうしません。ごめんなさい、もうしません」と言うしかありませんでした。その頃に覚えていることは、母が手を動かすと、叩かれないように避けようとしている自分の姿。母に愛されたいと思いながら母を憎んでいました。

小学校の1年生の時の作文が引越しの時に出てきました。その時の題名を見て衝撃が走りました。題名は「かってにうごくあしやて」。いったい何が書いてあるのだろうと思い読みはじめました。

『ぼくは、ともだちをたたいてしまう。ともだちをたたきたくないけど、あしやてがかってにうごいてたたいてしまう』といったことが書かれていました。私は大変なショックを受けしばらくの間、動けませんでした。

■小学校3年生の時に両親が蒸発

父は建設業系の会社を経営していました。私が小学校2年生の時、オイルショックの影響で父の会社は倒産をしました。私には1歳下の妹と、7歳下の妹がいます。倒産をした際に、母は7歳下の妹を連れて蒸発をしました。

父は、春休みに祖母の所へ私と1歳下の妹を連れて行きました。春休みが終わっても父は戻ってこず、私達は祖母の家にいました。たまりかねた祖母は2学期に入る前に私達の転校の手続きを行ない、学校へ通うようになりました。

■いじめにあい不登校になる

小学校3年生の2学期から学校へ通うようになりましたが、勉強はぜんぜん分からず、性格もひねくれていました。当然のようにいじめにあいました。また、自分より弱い子を見つけていじめていました。

小学校の5年生になると、バラバラだった両親が戻ってきて家族で一緒に暮らすようになりました。その時も引越しがあり転校をしました。父は仕事がうまくいかず、家の中で心が不安定な状態でした。母はアルコール依存症がよりひどくなっていました。

私が学校でいじめられて泣きながら帰ってきた時がありました。父は「なんで負けてくるんだ!」といって私をどなり、「いじめたやつを連れてこい!」といって、家に入れようとしませんでした。

私は途方に暮ましたが、勇気を振り絞って、いじめっ子を待ち伏せして家に連れて行きました。父はいじめっ子に対して怒鳴り、「今度いじめたら許さんぞ!」と脅かしました。

私はそのことが原因で、よりいじめられるようになりましたが、父に二度と話すことはありませんでした。小学校6年生の時、再び父がいなくなりました。私と妹2人と母との生活が始まりました。私は小学校の卒業記念の言葉に「長い人生、平穏無事」と書きました。

■母が重度のアルコール依存症

母はアルコール依存症がますますひどくなっていきました。小学校の卒業式、中学校の入学式は酔って出席するありさまでした。警察から電話がかかってきて「お宅のお母さんが酔って寝ているので、迎えに来てください」ということもよくありました。

全く知らない男性が家の中に上がりこんでいることもありました。私はいつからか母に暴力を振るうようになっていました。ある日酔っている母に怒り「あっちにいってくれ!」と押したら、転倒をして家具にぶつかり目の上を3針縫う怪我を負わせたことがありました。

私は大変ショックを受けて、それから母に手をあげることはありませんでした。母は働きに出るのですが、1週間も経たずに毎回辞めていました。お酒を飲んでの出勤が原因でした。

私は中学校でもひどくいじめられていました。私の性格と、母の状況、貧困によるみすぼらしさがあったせいでしょう。いつしか私は目立たないことだけを考えるようになっていました。

私の中で「私は迷惑なんだ、私は嫌われ者だ、私は私でいてはいけない、私は目立ってはいけない、私は望んではいけない・・・」そんな言葉にならない言葉達が渦巻いていました。

■高校2年生の時、父が病死

高校2年生の時、病人となって父が戻ってきました。父は胃癌でした。手術で胃を切除し、癌は取り除けましたが体が痩せ細りました。その後、癌が脳に転移をし手術ができずに放射線治療を行ないました。

治療の影響で顔面神経痛になり、食事もまともに食べられず髪の毛も抜けていき、精神状態も不安定になっていきました。わたしは日に日に症状が悪化して行く父を何とか喜ばせることができないかと考えていました。

そこで思いついたのは、学校での勉強を頑張ること。良い成績を取ることで父を喜ばせ、私自身を父から認めてもらおうとしました。しかし、症状が悪化していた父は、ますます精神状態が不安定になり、言葉さえまともに話せない状況になっていきました。

お正月に父の兄弟の家に集まりました。父は発作が起きやすかったので、私は病院に入院させておきたかったのですが、最後になるかも知れないと、父も泊まることになりました。

そこで父の発作が起き、布団の上で排泄をしました。私は慌てて薬を飲ませていましたが、兄弟の誰もが排泄の処理をしようとしませんでした。私は叔父、叔母から排泄の処理を押し付けられました。

父の排泄の処理をしたことも高校2年生の私にはショックでしたが、父の兄弟のだれもが父に手を差し伸べなかったことが、本当にショックでした。その時に、誰にも頼れないんだと感じました。

父の様態はさらに悪化し、寝たきりの状態になっていきました。何を言っているのかも分からなくなり、お見舞いに行く事が苦痛でした。父が亡くなる一週間ほど前、突然父が私の手を握り、言葉にならない言葉で「死にたくないよー、死にたくないよー」と涙を流しながら、子供のように私にすがりついてきました。

それまで父のそんな姿を見たことがなく、私はただ父の手を握り、じっとしていました。私の中で力強い父のイメージが崩れていきました。私はこの先、何を信じ、何に頼ればいいのか、混乱していました。

父が亡くなった時、私は泣きませんでした。というより、泣けませんでした。悲しみよりも父を喜ばせる役割が終わった安堵感の方が実感としてありました。父が亡くなったことで、私が家族を守らなければという新たな役割を強く意識しました。

■23歳の時、母が衰弱死

私は高校を卒業すると、アルコール依存症の母と妹達の面倒をみるために、すぐに父方の親類の会社で働き始めました。最初は住み込みで働いて、家族に給料のほとんどを渡していました。

20歳になるとマンションを借りて、家族全員で住み始めました。母は毎日のようにお酒を飲んでいました。私はだんだん追い詰められていきました。母がお酒を飲む理由は分かっている。それでも母が許せない。

ある日、私が仕事から帰ってくると、母はテーブルの上で酔ってくだをまいていました。私はたまらず部屋に入って戸を閉めましたが、母の声が響いてきます。私は母に「いい加減に静かにしてくれ!」と怒鳴りました。

母は「うるさい!どうせ私が悪いんだ!私を殺せ!殺せ!」と叫んでいました。私は自分を見失うほどの怒りを覚えました。「こんなに家族のために働いているのに、どうして、どうして、こんなことになってしまうのか」

私は台所にあった包丁を握り締め、畳に拳を叩きつけ、泣きながら叫んでいました。「どうすればいいんだ、どうすればいいんだ・・・」このまま、母を刺して、自分も死のうかと、真剣に考えました。

自分の中で、耐えられないほどの感情のうねりに直面していた時、ふっと声が聞こえてきました。「どうしようもない・・・」その声は重く静かで、死んだような声でした。「どうしようもない・・・」

私は包丁を手から放し、母に近づいて言いました。「この家から出ていって欲しい」母を家から出すことは、私にとって母を殺すことと同じぐらい辛いことでした。母がこれまで、どれほどの苦労をしてきたのか。なぜ酒を浴びるほど飲んでしまうのか。働き始めた私には、感じるものがありました。

それと同時に、母を癒し、母から心から愛されたい、と思っている自分もいました。母を強烈に憎みながら、母からの愛を心の底から求めていました。母を家から追い出すことは、母を殺すのと同時に、母からの愛を受け取れなくなることでした。

母は出て行きました。その頃付き合っている男性がいて、その人の家に転がり込みました。それから、2年ほどたったある日、勤め先に一本の電話が入りました。「お母さんが亡くなりました・・・」市民病院からの電話でした。

私が一番最初に思ったことは、悲しみでなく不安でした。「新聞に載るような事件を起こして死んだのではないか」そんな思いが頭の中を駆け巡っていました。市民病院に着いて、母の死に顔をみて驚きました。

顔が別人のようにどす黒く、所々腫れ上がっている所がありました。私は死因を尋ねました。アルコールの取り過ぎと、栄養失調による衰弱死とのことでした。顔の腫れは男性に殴られていた痕ということでした。

私は、新聞沙汰にならないですんだ安堵感と、少しも悲しくない今の自分にとまどっていました。家に帰ってきて一番下の妹に母が亡くなったことを伝えると、妹は号泣しました。その涙を見て、母が亡くなった事を私は実感しました。そしてシャワーを浴びながら1人、泣きました。

■25歳まで二人の妹を養う

私が23歳の時母は亡くなりましたが、一番下の妹がまだ高校1年生でした。私は妹が高校を卒業するまで、妹の面倒をみようと決意していました。一つ下の妹も働きながら兄弟3人で暮らし始めました。

私は妹達に多くを求めるようになりました。「私がお前達の為に働いてやっているんだから、これぐらいやって当たり前だろう!」「なんでこんなことも、やっておけないんだ」気がつくと、父や母の嫌な部分にそっくりの私がいました。

両親は亡くなっていましたが、私の中に残した両親のメッセージはずっと残っていました。「お前は迷惑なんだ、お前は嫌われ者だ、お前はお前でいてはいけない、お前は目立ってはいけない、お前は望んではいけない、お前は我慢しなければいけない・・・」

私は自分を憎んでいました。そして、誰かから愛されたいと渇望していました。妹が高校を卒業してから私は1人暮らしを始めました。はじめのうちは開放感でいっぱいでした。やがて、強烈な空しさが自分を襲ってきました。

「このまま生きていても、自分に苦しむだけだ・・・。いったい何のための人生なんだ。もうやりたいことなんて何もない。空しい。今ここで、人生を終わらせることができれば、どんなに楽なことだろう。なぜこれ以上生きなければいけないのか・・・」

私は自分の発した問いに答えることができませんでした。自殺を試みようとしたこともありますが、妹達のこと、死の恐怖を考えると、できませんでした。私は自分に言いました。

「もう一回、もう一回だけ自分の為に頑張ってみよう。生きてみよう。もし、それでも辛かったら、耐えられなかったら、その時は死ぬ事を自分に許してやろう。だから、もう一回だけがんばろう」

私は、自分の死を生きるための選択肢の一つとすることで、生に向かい出しました。私には生きていくための理由が必要でした。いつも自分の隣には、生きることに対する絶望感がありました。

何のために生きるのか。私は何がしたいのか。私に何ができるのか。自分に問い続ける人生が始まりました。今でも、その問いかけは続いています。私があなたにお手伝いができることがあるとすれば、それは「問うこと」です。

■それからの私

私は私から発せられる自己否定のメッセージに苦しみながら、今でも自分に問い続けています。「何がしたいの?」と。私はこれまでの経歴から、私を愛してくれる人を渇望しました。

自分の事を役割ではなく、そのままの自分として受け入れてくれる人が現れる事を心から願っていました。しかし、自分にこだわり続けている時、残念ながら私の目の前に私を受け入れてくれる人は現れませんでした。きっと、私を愛してくれる人はいたのでしょう。ただ、私には気づけませんでした。

私はどうすれば愛されるかを真剣に考えました。そして、「何がしたいの?」という問いかけに対し「人から愛されたい、そのために人から愛される仕事をするんだ」が、その時の精一杯の答えでした。

できるだけ直接、人から喜ばれる仕事を選んでいました。仕事を一生懸命こなし、確かに人から喜ばれるようになりました。ただ、それは私が心から望んだ喜びとは違っていました。

私のことを喜んでくれる人は、私の役割を喜んでくれているのであって、そのままの私を喜んでくれているとは、感じることができませんでした。私は、行き詰まりました。再び「何がしたいの?」と自分に問いかけました。

私はとことん考えた末に、何もしないでいる事を選択しました。仕事を辞め、ただ生きているだけの生活をしました。役割を全て捨てました。何もしない、何もできない自分になってみました。

私にとって、心から辛く、心から癒される時間でした。何もしていない事を「許せない自分」と「許そうとする自分」。何もしなくてもいいという安堵感。そのはざ間の中で、少しずつ癒されると同時に自己嫌悪にもなっていきました。

そして、生きる意味を少しずつ失っていきました。「死」が私の中で大きくなっていきました。役に立っていない自分、愛を手にすることができない自分に意味があるのか。「どうすればいい・・・」私の中の無力感、空虚感と直面せざるを得ませんでした。

考えに考え疲れ果て、どうしようもなくなり、それでもお腹は減り、どうでもいいと思いながらも食べ物を買いに外に出ました。久々に外に出て、太陽の眩しさをうっとうしいと思いながら空を見上げました。

その時の空は、本当にぬけるように青く美しく感じました。涙が溢れてきました。私は自分のことが嫌いで耐えられないのに、空は美しい。私は自分のことが嫌いなのに、美しさを感じさせてくれる自分がいる。

いくら私が私のことを嫌いでも、私を生かそうとする力が私に働いている。これは理屈じゃない。私は私のことが嫌いで、死にたいと思っているが、それでも自分を生かそうとしている自分がいる。

私の生命力は私を生かそうとしている。静かに力強く。これまで、自分の外側に愛を求めて絶望をしてきました。自分の外側に愛があると信じ、愛を得るために努力をし、傷ついてきました。

でも、本当は違っていました。愛は外側にあるのではなく「今、ここで、生きていることが愛そのもの」だと、気づきました。本当に嬉しかった。捜し求めていたものをやっと手にいれることができたのです。

しかし、その喜びはつかの間の喜びでした。気がつくと私は無力感と空虚感の中でもがいていました。ただ、これまでと違っていたことは私には戻る場所ができたということ。生きる苦しみが襲ってきた時「今、ここで、生きていることが愛そのもの」だと自分に言えるようになりました。

私はそれまでいつも思っていました。「私を愛してくれる人が、私のそのままを愛してくれる、分かってくれる人がいてくれたら、どんなに幸せだろう」と。それと同時に絶望していました。「そんな人がいるわけはない・・・」

私は自分の内側にある愛に気づいた時から決意しました。「私のそのままを愛してくれる人は現れないかもしれない。それならば、私がそうなろう。私が私のできる範囲で、目の前の人のそのままを受け入れていこう」

それから、多くの人と話をしていくうちに気づいたことがありまた。「目の前の人の、そのままを受け入れることと、自分を受け入れることが同時に起こっている。私にとって本当に必要だったのは、許されることではなくて、許すことだったんだ」

今、私は名古屋就職センターで所長をしています。私にできることはあなたのお話を聴くことです。何に傷つき、何をあきらめ、何を夢見ているのか。私は信じています。心から信じてもらえる人と出逢えた時から、人は自分の夢に真剣に向き合い始めると。

私は随分と遠回りをしてきました。自分を信じるまでに、信じようとするまでに35年の月日をかけてきました。今、はっきりと分かっていることは、人には心から信じてくれる人が必要だということ。

ありのままの自分、そのままの自分を、信じてくれる人が必要だということ。もし、自分に迷っているなら「自分を心から信じてくれる人の所に行くこと」。自分探しをするなら、自分の事を心から信じてくれる人の所へ行ってください。きっと、自分がみつかるでしょう。

自分のことを心から信じてくれる人がいない人は、周りの人、自分の身近な人を1人でいいので、心から信じてあげて下さい。人を心から信じてあげることができれば、自分を信じてあげられます。

心から信じてあげられる人がいないのであれば、自分を信じてあげて下さい。あなたがあなた自身を嫌っていたとしても、あなたの生命力はあなたをいつでも見守り、生かそうとしています。少なくとも、あなたはあなたから愛されています。

そして、もし私が役に立てそうなことがあれば、ぜひ声をかけて下さい。わたしはあなたを待っています。あなたと出逢い、あなたと話し、あなたと関わり、あなたの夢を支え続けることは、同時に、私の夢を、私を支え続けることでもあります。

「無職」から「夢職」へ。「転職」から「天職」へ。自分の「やりたいこと」「自分らしさ」を仕事にするお手伝いをしています。そして、自分を信じてあげて下さい。私に手伝わせてください。あなたが夢を信じ、自分自身を信じることを。

あるブログからの抜粋、素晴らしい詩だとおもいませんか?

2007-11-03 17:17:54 | 歯科
『それでも・・・逆説の十戒 この狂った世の中で、あなたの生きる意味を見つける』
                       
                        ー ケント・キース -



(下記訳 神田昌典)

1.人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも愛そうじゃないか。

2.何かよいことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。
  それでも、良いことをしようじゃないか。

3.もしあなたが成功すれば、偽者(ニセモノ)の友人、そして、本物の敵が現れる。
  それでも成功しようじゃないか。

4.今日行った良いことは、明日には忘れられる。
  それでも良いことをしようじゃないか。

5.誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかもしれない。
  それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。

6.大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。
  それでも大きな理念を抱こうじゃないか。

7.人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。
  それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。

8.何年かかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかもしれない。
  それでも、築こうじゃないか。

9.助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかもしれない。
  それでも助けようじゃないか。

10.持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかもし
   れない。それでも、自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。


歯周病、顎関節治療、改善率日本一を目指して

2007-11-02 01:14:09 | 歯科
月見歯科では歯周病、顎関節治療において改善率日本一を目指しています。またすでにそうではないかと思っていますが。判断基準が無いためひとりよがりな思い込みの可能性もあり、これが社会にも認められる様努力していきたいと思っています。
またそれを一緒に目指してくれるスタッフ、歯科医師、衛生士を募集しています。