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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

教育過程での体罰の意味・意義

2018-09-09 12:08:54 | 教育

体罰とは、体への罰である。
罰とは、罪を犯した時に受ける身体的苦痛。

教育とは、教え育てる事。
教育過程で、教育者が被教育者へ体罰を与える場面とは、
被教育者が何か当人の成長に不都合な事をしてしまった時、
しかも、当人がその不都合に気付けていない時、
教育者が、その不都合を理屈で説いても被教育者が分からない時、
上記のような条件が揃った時、
教育者が、被教育者の成長の為に敢えて加えるモノが体罰と言えよう。

「我が身を抓って人の痛みを知れ!」という言葉がある。
体罰は、この論理と同様である、と主張する者もいるが…

私は少々違うと考える。
その違いとは、
我が手で抓って感じる我が身の痛みと
他人の手で抓られて感じる我が身の痛み、である。


教師の児童・生徒への体罰は、他人の手で加えられたモノであり、
決して「我が身を抓って人の痛みを知れ!」ではない。

それでも、児童・生徒が教師を信頼していて、
教師の手=自分の手の如くに感じ取られモノなら、
結果的に、
己の行為・行動の結果に不都合を感じ得なかった被教育者も、
教育者の体罰を通して、己の行為・行動の不都合を実感・体感可能になり得る。


信頼感とは何か?
信頼して頼る感覚である。

信頼感の根底には、相手への好感がある、だろう。

好きな相手だから素直になれる。
嫌いな相手だから逆らう。

好きで気に掛けて欲しいから敢えて逆らう。
好きだから素直に甘えて逆らう。

嫌いだから黙って聞いている振りをする。
嫌いだから無視して素直な振りをする。


信頼感とは、そこに一体感が伴うモノだろう。
でも…一体感があっても信頼感になり得ない時がある。
それは、己自身への信頼感が未形成の時。

または、一体感はあっても、自己主導の一体感である時。
教師の思いへの自己の一体化でなく、
自己の思いへの教師の一体化である。


別の視点から体罰の効用は、
集団生活での不都合な行為・行動の明確化であろう。
言うなれば、「反面教師」的効果である。

体罰は、現象的には個人身体へ加えられているモノである。
しかし、本来それは、不都合な行為・行動への罰である。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが…
不都合な行為、そのモノは間違いであるが、
不都合を犯してしまった者は間違っていない。

間違っていない理由は、人間は動物である。
その行為・行動の結果は、その場では不都合で間違いであっても、
その行為・行動の実行があった事は、動物として間違いではない。


この間違えとは、全体の流れの中での、その時の「不都合」であり、
時と場所・状況と条件が異なれば、「不都合」ではなくなるモノである。


体罰否定の現代の教育現場では、
体罰ではない方法で、
不都合を自覚・実感させ得る事が求められるのだろう。

それは、体罰を体罰を感じさせない関係の構築でもある。
「体罰」があるのでない、
ある事を人が「体罰」認識するのである。
それは、教育者の指導場面での行為・行動を
人が「体罰」と認識・実感するのだろう。


体罰を体罰と認識させなければ、そこに体罰はない。
体罰を体罰と認識しなければ、そこに体罰はない。

それでも、身体に残るような大怪我をさせてしまった時、
当人が体罰と認識しなくても、周囲には体罰とされるだろう。









11 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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コメント ()
2018-09-10 07:47:12
相変わらず自由びとさんらしい文章で、もっと言うと自称「南郷継正バカ」の自由びとさんに相応しく『武道への道』といった本の記述にそっくりな思考だと思います。

それは「体罰とは?」「教育とは?」といった概念主導の思考の仕方ですし。私からすれば、どうにも「隔靴掻痒」というか、論点が不明瞭な感じが否めないわけですが。

おそらく一昔前は「体罰」って正当な行為だという意味合いで「罰」って名前をつけたんだと思うんです。それは教育という狭い領域に限った話ではなく、日本社会における「自由の条件」の話で。

例えば拳で相手の顔を殴ったりするのは他者の身体への暴力ですから「自由権の侵害」になるわけです、普通は。ですが、そうした「自由権」が認められるのは社会のルールを守っているという前提条件があるんだと思うんです。それが「監禁」と「拘留」「禁固」の違いじゃないのかな?と。

そうした「守られるべきルールを冒した」ときの罰として社会的に普遍的に行われる刑罰のように加えられたと判断された他者への鉄拳殴打などを「暴力」とは区別されたものとして、社会の必要悪として?の正当なものだと認識されたものが「体罰」ということだったんじゃないかと思います。

ですから、「体罰=暴力」ということで一般的な「自由権の侵害」「人権侵害」だと考えるとしたならば、他の刑罰すべてが例えば「監禁=拘置」だとして禁止されかねない話なのだと思いますね。死刑だって他人の命を奪うわけですから、刑法という条件を除外したならば人権侵害になってしまうわけですから。

昔の日本人は、普通はそう理解してきたんじゃないですか?先生から殴られても「そうだよな、殴られるようなことしたんだから仕方ないよな」とか「暴力ではなくて罰なんだ」と、刑に服する罪人のように?前後の事実関係で理解したでしょうし、昭和初期に左翼思想だからって憲兵に鉄拳制裁されたなら「こんなの、ただのリンチで理不尽なだけの行為だろ」とか判断して。

そこから考えるなら、体罰は体罰として理解することが加えられた側には求められるのだと思います。それは、ある意味「罪を認める」ということですから、体罰ではないと理解することは自分が悔い改める何らの間違いをもしていないと認識することと同じですから、法を犯して禁固刑にされても無理矢理に監禁されたと認識するが如しでしょうから。

というわけで、自由びとさんが言う「体罰を体罰とは感じない」というのは、正しくは「体罰を暴力とは感じない」が適当であって、「殴られたからといって自由権を侵害されたとか、人権侵害されたとかいった覚えは無い」ということではなかろうか?と思う次第ですよ。

まあ、過去の訴訟の事例を調べてみましたら、体罰=暴力?を加えられて訴えた生徒側が勝訴しているのは打撲や骨折といった人体損傷がある場合や、それを苦に自殺したと判断された場合のようで、他者の体に手を出した「自由権の侵害」「人権侵害」として裁かれたことは無いみたいですが。

そこから伺えることは、自由びとさんが言う「体罰を体罰とは感じない」というのは「生徒側が訴訟してこないように配慮せよ」という学校教育者側からのモノの見方ではないかと思うわけなんですが。
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真の教育者なら (自由びと)
2018-09-11 22:28:01
>そこから伺えることは、自由びとさんが言う「体罰を体罰とは感じない」というのは「生徒側が訴訟してこないように配慮せよ」という学校教育者側からのモノの見方ではないかと思うわけなんですが。

このように捉える事もできますが…

私の言わんとする事は以下です。

一つ、教育者たる者、被教育者との信頼関係を築くべし。
それは、お宅の言葉を借りるなら、
(私は「体罰」という言葉が好きではありませんが…)
体罰を正しく体罰と捉えられる関係であり、
体罰を暴力と誤解されない関係。

二つ、教育者は、必要以上に身体的なダメージを与えない事。

体罰は、
身体的ダメージを与える事が目的ではなく、
その児童・生徒の心・精神に響かせる為のモノです。

だから、教師が殴ってしまう行為へ至る過程での、
その子供への口調・言葉・態度…等での心・精神への揺さぶり、
悪いと思えていない心への揺さぶり=『自分は悪かったのかも…』、
その為の体罰行為なのです。

ただただ殴れば、それは暴力!
相手の心が、動かせれば体罰!



言葉の説明は難しいですね。

以上の言葉から私の認識が分かる人は、
私と似たような経験の持ち主、かね。


訴訟される事が問題ではなく、
体罰で、生徒の心・精神が揺らがす事ができなかった事が教師側の問題。
それは、実力不足と判断力不足…ですかね。


>「生徒側が訴訟してこないように配慮せよ」

↑こんな事を思っていたら、児童・生徒の心は動かせませんね。

恐れるのは「生徒側の訴訟」ではなく
「このままでは、この子の為にならない」という事ですね。本物の教育者なら…




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Unknown ()
2018-09-12 13:28:13
私は教員ではありませんから学校で教育する側に回ったことはないわけです。わずかに自分が児童、学生として学校で教育された経験をもっているばかりで。

それで、私も自分で体罰を一般社会的な「刑罰」で例えて考えてみたわけですが、やはりそれでは何か食い違いが生じると自分自身で気がつきました。

自由びとさんは学校の教員免許を持ち、学校での教育に携わりながらも「教育」と言ったときに学校教育よりも広い範囲のことを念頭に置いているみたいですね。いわば、空手の道場で大人が大人を指導するような場合ですら教育であり体罰なのだと。

ですが私は先ずは現実社会で問題とされている「学校教育における体罰」を考えてみたわけです。そこでは教育基本法第11条で「懲戒は構わないが体罰はダメ」だと規定されているわけですよね。

この「体罰はダメ」だというのは明治時代から日本の法令にあるそうですから、明治維新後の文明開化で取り入れられた海外の教育理念の中にあったものだと想像できますが、その「懲戒はOK、体罰はダメ」という考えが海外でどうした経緯で生じてきたのかも問題でしょうね。

私自身の経験でも小学生の頃に体罰を加えてくるのは体力に自信のある?体育教師が代表格で女性教員はむしろ言葉による辱しめを加えていた記憶がありますね。

小学生の低学年でも友だちのいる前で晒し者にされたりすることを恥ずかしいと感じる心をもっていますから、腕力のない女性教員にも十二分なる教育効果を上げられたのだと思いますよ。

その意味で貧弱な肉体をした女性教員の嫌味な口調は教育基本法第11条に正しく則っていたのだと言えますね。

自由びとさんの論法で言えば「信頼関係があれば体罰など加えなくとも言えば理解できる」とも言えますし、自由びとさんの言う「そのための体罰」というのが「どのための?」と全くの不明瞭なんですね。

「そのための厳しい叱責」だとか「辱しめと心の揺さぶり」だとかは理解できなくもないわけですが、「そのための体罰」って何も説明してないことをご自分で気がつきませんか?

教育の一貫として政治上の経済制裁のような強制力を働かせる必要はあるのでしょうが、その強制力が即ち「顔面殴打」であり「戦争」なのだという論調は短絡的すぎやしないかと思う次第ですよ。
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Unknown (自由びと)
2018-09-13 10:15:53

体罰について、暴力との区別と連関で、
今一度書きたいと思っています。

ただ…ここで一言~
確かに「絶対的な信頼関係」があれば
「言って分かる」でしょうが…

教育者を無条件に信頼する被指導者は、
現代社会では殆どいません。

それは、
モノを知りすぎ、自信がありすぎ、
だからなのでしょうね。

自分を信じすぎる者は、
自分が信じられない事を人が確信を持って言っても、
それを、なかなか信じないモノです。


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Unknown ()
2018-09-13 10:49:24
また間違えてしまいました。

第11条に「懲戒はOKだが体罰はダメ」だと規定されているのは教育基本法ではなくて学校教育法でした。

義務教育というのも一人の担任の教員と児童たちという狭い関係の中だけで行われるわけでなく、広くは文科省だとか県の教育委員会だとか多くの人間が組織的に関わっていくものでしょうから、どうあるべきかという定石のようなものがあるのではないかと思うんですね。

それを職種の専門家として、先輩として指し示してくれる人たちがいないことには大学出たての新人教員は何の判断基準も無くて途方に暮れてしまうのではないかと思います。

昨日、文部科学省のサイトに「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例」というページを見つけたのですが、ここにあるとおり暴力をふるう児童生徒を正当防衛的に押さえつけたことはあっても、就職してから定年退職するまでの教員生活の中で一度も体罰を加えたことのない学校の教師って普通にいるように思いますが…。

私も子供の頃には体罰を加えられて育ちましたから、いま同窓会で昔の仲間と会ったなら「◯◯先生のビンタは痛かったな~」とか笑い話のネタはいくらもありますけれど、それが本当に教育の上で必須のものだったかは分からないわけです。

場合によっては無くてもよかったけれど、あったらあったで人生のスパイスになる、大人になった寛容な心とともに思い出として振り返れる、そんか程度のものかも知れないとも考えるわけですが、自由びとさんは実際に義務教育の現場に教育者として立ってらして、体罰は教育に必須だと考えているわけなんですか?
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Unknown ()
2018-09-13 10:52:29
自由びとさんが言う「信頼」ということで言えば、教師が守るべきだとされている法令も守らずに体罰を加える教師に対して、雇用している側の国や地方自治体からの「信頼」を得ることが出きるのでしょうか?
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Unknown (自由びと)
2018-09-13 11:06:00

>教師に対して、雇用している側の国や地方自治体からの「信頼」を得ることが出きるのでしょうか?

この答えは簡単です。
それは結果次第です。

子供達や保護者達が、
その教師の体罰・行為を教育的指導だと受け入れ、
個々の子供が、クラス全体が、
より良く変わっていけてれていれば、
問題なし!です。

教育は、過程重視で、将来的な結果を考え視まが…
社会は、その場その場の結果重視です。

今の結果オーライで社会的な問題なし…です。
なので、結果的に「信頼」を得られます。

ただ、現代日本社会で、
体罰を加えて、正しく子供を教育しようとする教師に、
一人一人の子供の内面・心理、
そしてクラス全体の裏表を見通せる実力がないなら、
それはクラス崩壊・失敗への道ですかね。


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Unknown ()
2018-09-13 12:06:06
自由びとさんが「簡単」だと言うわりには私のほうは一向に釈然としない霧に包まれたような不明瞭な感じが否めませんね。

「結果」ということなら「体罰を加え」ても「体罰をもちいていな」くとも、何事もなく日常が過ぎていくなら結果オーライで信頼を得れるということですか?

なんだかマルクス主義が正しいのか間違っているのかを問われて「結果オーライで革命が成功したなら正しいし、計画経済が失敗したなら間違い」だと説明されてるようで釈然としませんね。

まあ、意図的なんでしょうけれど自由びとさんは
体罰が正しいとされる事例を全く挙げずに児童や保護者が泣き寝入りしたなら事なかれ主義でOKだと言ってるようにしか聞こえませんから、核心に迫っていかないんですよね。

ですが、まあそれが主体性のない大半の現場の教員の姿なのかも知れませんね。

学級経営という言葉もあるくらいで、それは教育現場で実際に児童を取りまとめた経験のない私にはとてつもなく大変なことだろうくらいにしか想像できませんが、学級経営において体罰をふるうことが容認される場面ってあるんですかね?

まあ、ここでいう体罰というのは顔へのビンタだとか鉄拳制裁だとかにしておきますがね。

私が児童生徒だった頃の経験では体罰が児童生徒のためになったことって稀で、逆に教員同士は仲間意識がありますから手を出してしまった同僚に対して情状酌量の「気持ちは分かる」的な恩情配慮していたような記憶がありますね。

でも、ルールを破った児童生徒にルールどおりのペナルティを加えるのではなく、私的な制裁としての殴打だとかしていたら、それこそリンチというか無法ということになるんじゃないでしょうか?

私が児童の親だったら「あなたが私の体罰を教育的指導だと受け止めれば問題ないんだ」という自由びとさんの説明に納得することは無いでしょうから。

いえ、本当に自由びとさんが学校を訪れた保護者に対して教員として職員室で上記のような説明をするのかどうかも分かりませんけどね。校長や教頭という責任ある立場で自由びとさんのような発言したら大変なことになりそうですし、やはりうだつのあがらぬ下っぱ教師ということでしょうか?
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Unknown (自由びと)
2018-09-14 21:18:59
>「結果」ということなら「体罰を加え」ても「体罰をもちいていな」くとも、何事もなく日常が過ぎていくなら結果オーライで信頼を得れるということですか?

「何事もなく過ぎていく」結果とは、結果は結果でも老人の結果でしょう。

お宅って、老人でしょう!

いつ死んでもおかしくない老人が、
日々何事もなく行き続けるのは結果オーライですね。

でも…ここでの「体罰」とは、子供の成長を求めて加えられたモノです。
その結果が成長ではなかったなら、その体罰で加えられた「身体的苦痛」は、子供も保護者も不満です。

保護者も子供も不満なら、教育委員会へ訴えられ、体罰教員は、それなりの処罰です。

しかし、体罰的指導の結果、子供が成長し保護者も大満足なら、その身体的苦痛は苦痛ではなく、「良薬口に苦し」です。

苦い薬も効き目がなければ、不満でしょう。
効き目があるから、進んで飲むのでしょう。

筋トレした翌日の肉体的苦痛と
他人との負け喧嘩の身体的苦痛、
どちらも苦痛ですが、
一方は快感、他方は不快感でしょう。

体罰による身体的苦痛も、人によって違うのですよ。


「結果オーライ」の中身は、体罰で求めていた結果、教育的結果を得られたから「結果オーライ」です。

結果とは、目的に対しての結果であり、
目的を考えず、ただの結果だけを視るのは…
私的には問題ですよ!
もっとも…お宅は問題としてないようですが…

そうそう無自覚的な目的もあるでしょう~
老人の事なかれ主義ですね。

これが若者なら、問題のない若者は問題なのです。
若さはバカさ、バカだから問題を起こす。
問題を起こし、
それを乗り越えて若者は成長していくモノ。

まあ~こんな事、老人に言っても分からないでしょうが…

どうか、「何事もなく日常が過ぎていく」事を求めて、
残り少ないお宅の余生を平穏に過ごして下さい。







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Unknown ()
2018-09-15 12:20:24
自由びとさんと対話をどれだけ繰り返しても無益だという実感、徒労感は否めませんね(苦笑)。

まあ、私と自由びとさんとどちらが正しくどちらが誤っているか正否を決しようとする必要もないとも言えるわけですが…。

ここで自由びとさんが持ち出した「老人」という表現は自由びとさんにとっては否定的な意味合いなんでしょうね。若者◯老人×みたいな感じで。

ですが、おそらく私は自由びとさんよりも実年齢でも遥かに若いと思いますし、おそらく思考的にも自由びとさんよりも新しいんだと思います。

ただひたすらに体罰を肯定し、それは児童・生徒のためなんだと強弁する自由びとさんの姿は、近年批判の的になっているアメフトの内田監督やボクシングの山根会長、体操の塚原さんなんかと同じですからね。選手のため、若人のためなんだ!と。

昭和の昔の学校教師ならいざ知らず、今の学校教員で自由びとさんのように匿名の陰ながらではあっても体罰を積極的に推奨する人がいるというのも驚きなんですが、自由びとさんは本当に学校教育関係者なんですか?

私は自由びとさんが示唆する「このままではこの子のためにならない」と判断した教師の体罰によって生徒が良い方向に成長したという事例を想い起こせないんですね。自由びとさんがご存知なら具体的に述べてもらえますかね?

私が想起するのは例えば柔道の山下さんやボクシングの村田選手のように暴れん坊の若い時期に先生が暴れても構わない柔道やボクシングを勧めて誘ってあげたような事例なんですね。

学校の校舎の裏や盛り場で誰かれ構わず殴ったり投げ飛ばしたりしているのと、社会的に用意されたルールある闘いの場で活動するのとでは天と地ほどの違いどころか、天国と地獄ほども違うでしょうからね。

そこで頑張って暴れ続ければ、片やオリンピックで金メダルや世界チャンピオンひいては国民栄誉賞という名誉も金もついてくる成功者で、片やせいぜいが暴走族の総長からヤ◯ザの組長になるほどの道の違いを、学校の先生が見極めて導いてあげるか否かじゃないかと思うんですよ。

それを、面と向かって鉄拳制裁して「この野郎!」って、それでどうなるの?という疑問があるわけです。山下さんや村田選手を導いた先生らは「お前は間違ってるんだ、心入れかえろ!」なんてブチのめしてなんかいないんじゃないかと思いますね。

むしろ、打ち込める何か楽しいことを探して教えてあげたんじゃないでしょうか?それって、何も柔道やボクシングといった格技に限らず、道を見つけられずにさ迷っている若人への指導として共通したものがあるのでは?

ですが、自由びとさんの場合は、とにかく体罰を加えたい、それも教師が訴えられることなく生徒のためになる形で!と。

生徒のために!との想いがあるならば、先ずは「体罰」という方法をお捨てになってみては如何です?

学校教育の場はもとより、中枢神経系の興奮を求められるスポーツ指導の現場でも指導者側が被指導者側に体罰を加えることは何の益もない、そんなもの必要なく競技力は高められるというのが今や世界的な常識となっているようですしね。

ひと頃、自由びとさんが敬愛する南郷さんが称賛していた戸塚ヨットスクールでも、その過激な体罰による教育で情緒障害やらうつ病が治るといった主張とは裏腹に実際には自殺者、他殺者を何人も出したデタラメ教育だったみたいですし、うつ病や情緒障害やらは戸塚ヨットスクールなんぞよりも臨床心理士だとかの専門家に任せるのが常道なんでしょう。

それだけ人間の成長には心の関わりが大事であって、埼玉で隠れて玄和空手やったからなんて理由で生徒を殴りたい自由びとさんの肚の内も分からぬではありませんが、それを「生徒のため」なんぞと包み隠されても臍で茶が沸きますよ。

そんなことは、殴られて育った男と、ほとんど殴られずに育った女とでどちらが立派な人間かを比較してみれば、殴られたとか体罰を加えられたなんて経験と人間としての立派さとは無関係だと理解できると思いますね。

それでも、殴られるという経験のない女性の育ちを観察すると、体罰はなくとも我慢するという過程を経ていることが分かるんだと思うんです。

何かを得るためには何かを我慢しなければならない、そうした教育を幼少期から受けてきて、聡いというか人の顔色をうかがうのが巧みな人間に成長してくるんでしょう。

だから女の子は小さいときから「言うこと聞かないとお菓子あげないわよ」とか「私に従わないと遊んであげないわよ」なんて交換条件を突きつけてくるんでしょう。

きっとそれは、家でお母さんが子育てに使っている方法で、見て育った女の子はママゴトでお母さん役になって「言うこと聞かないとご飯たべさせないわよ」とか「悪いことすると家から出て行きなさい」なんて飴と鞭を使いわけるんでしょう。

そうした「嫌なことを避けて欲しいものを得る」ことを覚えていくのが一つの教育で、あれ?これって自由びとさんが敬愛する南郷さんも著述のどこかに書いてませんでしたっけ?

合宿に来た道場生が欲しているのは稽古することだから、何よりの罰は練習させないこと、我が道場ではここ何年も鉄拳制裁など行われた試しが無い、みたいなことを…。

学校教育の現場でも児童・生徒がされたくないことは体罰以外に山ほどあるでしょうし、退学、落第を筆頭にテストで零点とるのも嫌だし、それを皆が見るところに貼り出されるのも嫌だし、そんな嫌なことと欲しいものを巧く使うということは、個々の生徒が何を好きで何を嫌いか教師は知っておかなければならないわけですよね。

児童によってはテストで悪い点とることなんて何とも思っていなかったりしますから、点数を皆の前で発表されたり貼り出されたりしても心の痛みにはなっていかないし、幼少期から武道や格技をやってきた子は小学生の高学年とか中学生の低学年でも相当に強いですから、先生に殴られるなんて何とも思わない。下手したら「先生の叩き方、弱いな」とか「動きが遅いな」とか舐められる原因になる。場合によったら先生が殴っていったのをヒョイヒョイと避けちゃったり(笑)。

本当、子どもでもそれぐらいの腕がありますよ。

だから体罰ウンヌンよりも、同じ棒切れ振り回すんだったら両親の頭を金属バットで思い切り振り抜く人間に育つよりも大坂なおみ選手のように200km/時速のサーブを打って全米オープンで優勝するような人間に育てたい、それが普通の学校教師の願いだと思うのですが、自由びとさんの思いはヒタスラ玄和空手を生徒に喰らわせたいという性格破綻者。

人生かけての学びの果ては、ああ無情…
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