「事実」について思い考えていたら、
実体と機能について思うに至った。
昨日、喧嘩した。
昨日、私は、喧嘩した。
昨日、私は、友達と喧嘩した。
昨日、私は、友達の○○君と喧嘩した。
昨日、私は、友達の○○君と殴り合いの喧嘩をした。
「昨日」とは、令和元年六月十七日。
「私」とは、人から「××」と言う名前で呼ばれている人間の個体。
「○○君」とは、○○君と私が読んでいる人間の個体。
「喧嘩」とは、ここでは、手を対象に当てる行為。
「昨日」は、あるのか?・あったのか?
「昨日」は、五感で感覚可能なのか?
「昨日」とは「今日」からみた「昨日」であり、
それは具体的「時」の表現である。
「時・暦」とは何か?
「時・暦」は、あるのか?
私も友達も人間の個体として、感覚可能である。
喧嘩は、殴り合い。手の当て合いと言う状態として感覚可能である。
でも…「手を当てたから「喧嘩」とは限らない。
そこには、「相手に当てる」という意志・意識がある。
「意識がある」とは?
「意識」は五感で感覚可能か?
そんなこんな、問いを思っているうちに気付いた。
ここは、実体と機能で考えよう、と…
「昨日」は、具体的な「時」表現。
「私」は、特定の人間の個体の表現。
……
事実とは、
実体としてある。
機能としてある。
実体は、五感を通して感覚可能。
機能は、感覚した状態-実体の変化。運動を通して感覚可能。
結論として、
事実には、実体的な事実と状態・機能的事実とがある。
実体的事実を「モノ」、
状態的事実を「コト」、とも表現できる。
では、
事実を思い、
状態を思う、意味・意義とは?