談話サロン天寿堂で展開されている
タイトル「そもそも人権という概念は非学問的概念」の中の
[2918] 「観念論とは」
で以下の記述を発見した。
……………引用開始……………
愚按亭主 - 2018年09月13日 (木) 09時08分
観念論は、物事をその本質から解くことです。もっと言うならば、この世界全体の本質、すなわち絶対的真理から説くものです。ところが、滝村先生は、この絶対的真理を荒唐無稽だとして否定してしまっているのです。これは、観念論を否定することです。
……………引用終了……………
「観念論は、物体をその本質から解くこと」
「この世界全体の本質、すなわち絶対的真理から説くもの」
実に
「物体の本質…世界全体の本質…」
とは格好いい表現である。
そこに欠けているものは、
それは人間の唯物論的理解・把握である。
個体としての人間は無限の対象・世界を有限的に把握・理解していく。
個体としては有限であっても、類としての人類は、
個体に比して無限と言ってもよい存在である。
言葉としの「本質」・「物質の本質」・「世界全体の本質」は一言であっても…
その中身をモノにするには、類として人類の長く長い歴史的学問の積み重ねが必要。
ある時代の人類が捉えたその「本質」は、
次の時代では、今だ「本質」に至っていな事に気付かれ…
そして次の時代へ、また次の時代へと、「本質」が求められ続けられている…
そんな長い長い歴史の過程で生まれた「絶対的真理」?とは?
それは、本質へ至る手段・方法であろう。
ヘーゲルの言説を絶対的真理と捉えるなら、
それは、本質へ至る道・道筋・筋道の提示であろうか?
ヘーゲルが絶対的に正しくとも…
人類の認識は、今だ「物資の本質」・「世界の本質」レベルには至っていないようである。
現状に満足して、『今が最高!』と自己満足している…
そんな自己満人間の姿を、私は彼・愚案くんに視ている。
本質に達していない現代の「物質の本質」・「世界の本質」⇒
絶対的真理から解いた事物事象を説いて、
今は正しく思えても…
将来的に、それは誤謬となり得るモノであろう。
真理に至る道・道筋・筋道が、絶対的に同じであったとして、
それが、
絶対的真理だとして、
それを体得したとしても、
その道筋を歩かない者は、真の真理・本質への到達は不能であろう。
ヘーゲル絶対に正しい、絶対的観念論は絶対に正しい、
そんな事に満足・納得している自己満人間には、
真の真理・本質を語る事は絶対的に永遠に不能であろう。
自己満人間の今は、永遠に今のまま。
その今が過去の事になり得る事、
絶対的に永遠に来ない!