自由から不自由へ、そして自由への道
自由とは、「例解新国語辞典[第四版]」によると以下~
じゆう[自由](名・形動)-他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事。
またネット検索だと以下~
>「自由とは己によること」とは、自らに由る(由己)ことであり、他人に与えられたものではない「自ら(の意思や考え)」を「行動の由(理由)」とすることを意味します。
>カントは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性を「自由」と捉えました。
>カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものなのです。 カントにとって人間の理性...
>ヘーゲルは、「生きた実体」としての「主体」が、「他のものの 中にありながら,ただ自己とのみ同一なもの」であることを「自由」と論じました。
>自由の在り方について
>自由は内側から湧き上がるものなので、外部の世界が私たちに与える何かではなく、自分自身の内側から生まれ出る真実の理解と、それによって得られる深い平和を表しています。
>自由とは必然性の洞察である」は、ドイツの哲学者であるヘーゲルの思想です。ヘーゲルは、自由と必然性の関係を正しく述べた人物とされています。
>自由と必然性の関係について
>ヘーゲルは『大論理学』において、自由とは「生きた実体」としての「主体」が、「他のものの 中にありながら,ただ自己とのみ同一なもの」であると論じました。
>ヘーゲルはまた、「必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。」と述べています。
>つまり、必然性は、事物や事柄の発展過程の法則性を系統的に捉えることにより様々な行動の方向性を与えることになります。
>自由の概念について
>自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいいます。
>自由な行動により生じた結果は本人が引き受けるべきという社会通念があり、自由と責任は併せて語られる事が多いです。
>自由は、人間が拘束されているものから開放され、あらゆる可能性が与えられることでもあります。
>自由と必然性
>『へーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。 彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。』 『自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にある ...
以上のように、過去から現在までに「自由」についての色々な言説が…
ここでは、辞書の自由「他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事」とネットの「行動の由(理由)」という二つの観点から考えてみよう~
例えば、
好きなモノ(食べたいモノ)を思いっ切り食べた時は「自由」なら、
嫌いなモノ(食べたくないモノ)を一口食べた時は「不自由or自由」?
自分の(食べたくない)思いに、反して(食べる)行為とは?
これは、自分の思いと自分の行為に矛盾が生じている状態…
この状態が「不自由」なのでは、ないのだろうか?!
動物は本能の反する事は、自分からは決して出来ない…
でも…人間が、その動物を躾ける事で、少し変える事は可能。
例えば、飼い犬は、幼少時から食べ物を目の前において、
「お座り、お手・お代わり、伏せ…まて!・よし!」と躾けるなら~
その犬は、どんなに空腹でも…食べるのを「よし!」まで待てるようになり得る~
当然に人間も躾によって、「嫌!やりたくない!」という、そんな思いに反して
よし!それじゃ~「やろう!やってやろうじゃん!」…となり得る~
自由とは「他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事」なら、
不自由とは「他から制限されたりじゃまされたりしても、自分の思いに反する事が出来る事」では?
例えば、児童Aが友達と遊んでいる際中に、見知らぬ大人からから「もう遅いから帰りなさい!」と言われたとする。
その時、児童Aは、まだまだ遊んでいたいのに…周囲の友達が引き留める事を聞けずに帰宅した。
この時の児童Aは、自由or不自由?
周囲の(帰宅)反対・(帰らない)邪魔があっても…
自分の思いに反しての帰宅を決めたのは、児童Aであり「Aの自由意志」の筈…なのに…
それでも…この児童Aの「まだ遊びたい・帰宅したくない」とは真逆の「帰宅する(べし)」思いの出どころは?
それは、飼い犬の躾け同様なモノであるが…このような児童の場合は両親・教師・周囲の大人達の(社会的な)思いであろう。
児童Aは、周囲の社会的な躾・思い(社会的ルール)を、自分の(自由・まだ遊びたい)思いより優先して(帰宅・不自由を)実行した。
でも…他の児童達は、自分達の「まだ遊びたい」思い(自由)を優先した。
そんな未帰宅の児童達も、周囲に親・教師・他の大人がいて、きつく注意されたなら…彼らも帰宅しただろう…
「不自由」状態にも、以下の二種類があろう。
周囲の見える感覚可能な「指示・注意」による消極的な(自己の思い・行動の不一致)「不自由な自由」状態。
周囲から指示・注意なく、自分から積極的な(自己の思い・行動の不一致)「不自由な自由」状態。
人間が「不自由」を感じる時には、そこには「自由」がある。
その理由は~
「まだ遊びたい!遊ぶ」行為は自由。
「まだ遊びたい!でも帰る(自由)」行為は不自由。
人間の「不自由」とは、
その人間が、自らの不自由な状態への自由な決断をして、実行し突き進んだ結果。
この二種類の「不自由な自由」状態とは、
どちらも自分の「不自由」状態を自分の(自らに由る)意志で継続している状態。
この非常な不安定さ「自分やりたくない事を、自分からやり続ける」…
この状態の継続・維持に必要なのが「己を虚しゅうする事」だと確信した。
その「己を虚しゅう」状態の維持・継続には、その嫌な事の継続・維持の自分対するメリットの確信が必要。
その一般的なモノが、自分の「夢」実現への思い・行為かな…
夢中と現実の自由・不自由?!
自由とは、「例解新国語辞典[第四版]」によると以下~
じゆう[自由](名・形動)-他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事。
またネット検索だと以下~
>「自由とは己によること」とは、自らに由る(由己)ことであり、他人に与えられたものではない「自ら(の意思や考え)」を「行動の由(理由)」とすることを意味します。
>カントは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性を「自由」と捉えました。
>カントにとって自由とは、欲求に支配されてやりたいようにやることではなく、自らルールを立て、そのルールを守るという自発性、つまり意志の自律そのものなのです。 カントにとって人間の理性...
>ヘーゲルは、「生きた実体」としての「主体」が、「他のものの 中にありながら,ただ自己とのみ同一なもの」であることを「自由」と論じました。
>自由の在り方について
>自由は内側から湧き上がるものなので、外部の世界が私たちに与える何かではなく、自分自身の内側から生まれ出る真実の理解と、それによって得られる深い平和を表しています。
>自由とは必然性の洞察である」は、ドイツの哲学者であるヘーゲルの思想です。ヘーゲルは、自由と必然性の関係を正しく述べた人物とされています。
>自由と必然性の関係について
>ヘーゲルは『大論理学』において、自由とは「生きた実体」としての「主体」が、「他のものの 中にありながら,ただ自己とのみ同一なもの」であると論じました。
>ヘーゲルはまた、「必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。」と述べています。
>つまり、必然性は、事物や事柄の発展過程の法則性を系統的に捉えることにより様々な行動の方向性を与えることになります。
>自由の概念について
>自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいいます。
>自由な行動により生じた結果は本人が引き受けるべきという社会通念があり、自由と責任は併せて語られる事が多いです。
>自由は、人間が拘束されているものから開放され、あらゆる可能性が与えられることでもあります。
>自由と必然性
>『へーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。 彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。』 『自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にある ...
以上のように、過去から現在までに「自由」についての色々な言説が…
ここでは、辞書の自由「他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事」とネットの「行動の由(理由)」という二つの観点から考えてみよう~
例えば、
好きなモノ(食べたいモノ)を思いっ切り食べた時は「自由」なら、
嫌いなモノ(食べたくないモノ)を一口食べた時は「不自由or自由」?
自分の(食べたくない)思いに、反して(食べる)行為とは?
これは、自分の思いと自分の行為に矛盾が生じている状態…
この状態が「不自由」なのでは、ないのだろうか?!
動物は本能の反する事は、自分からは決して出来ない…
でも…人間が、その動物を躾ける事で、少し変える事は可能。
例えば、飼い犬は、幼少時から食べ物を目の前において、
「お座り、お手・お代わり、伏せ…まて!・よし!」と躾けるなら~
その犬は、どんなに空腹でも…食べるのを「よし!」まで待てるようになり得る~
当然に人間も躾によって、「嫌!やりたくない!」という、そんな思いに反して
よし!それじゃ~「やろう!やってやろうじゃん!」…となり得る~
自由とは「他から制限されたりじゃまされたりしないで、自分の思い通りに出来る事」なら、
不自由とは「他から制限されたりじゃまされたりしても、自分の思いに反する事が出来る事」では?
例えば、児童Aが友達と遊んでいる際中に、見知らぬ大人からから「もう遅いから帰りなさい!」と言われたとする。
その時、児童Aは、まだまだ遊んでいたいのに…周囲の友達が引き留める事を聞けずに帰宅した。
この時の児童Aは、自由or不自由?
周囲の(帰宅)反対・(帰らない)邪魔があっても…
自分の思いに反しての帰宅を決めたのは、児童Aであり「Aの自由意志」の筈…なのに…
それでも…この児童Aの「まだ遊びたい・帰宅したくない」とは真逆の「帰宅する(べし)」思いの出どころは?
それは、飼い犬の躾け同様なモノであるが…このような児童の場合は両親・教師・周囲の大人達の(社会的な)思いであろう。
児童Aは、周囲の社会的な躾・思い(社会的ルール)を、自分の(自由・まだ遊びたい)思いより優先して(帰宅・不自由を)実行した。
でも…他の児童達は、自分達の「まだ遊びたい」思い(自由)を優先した。
そんな未帰宅の児童達も、周囲に親・教師・他の大人がいて、きつく注意されたなら…彼らも帰宅しただろう…
「不自由」状態にも、以下の二種類があろう。
周囲の見える感覚可能な「指示・注意」による消極的な(自己の思い・行動の不一致)「不自由な自由」状態。
周囲から指示・注意なく、自分から積極的な(自己の思い・行動の不一致)「不自由な自由」状態。
人間が「不自由」を感じる時には、そこには「自由」がある。
その理由は~
「まだ遊びたい!遊ぶ」行為は自由。
「まだ遊びたい!でも帰る(自由)」行為は不自由。
人間の「不自由」とは、
その人間が、自らの不自由な状態への自由な決断をして、実行し突き進んだ結果。
この二種類の「不自由な自由」状態とは、
どちらも自分の「不自由」状態を自分の(自らに由る)意志で継続している状態。
この非常な不安定さ「自分やりたくない事を、自分からやり続ける」…
この状態の継続・維持に必要なのが「己を虚しゅうする事」だと確信した。
その「己を虚しゅう」状態の維持・継続には、その嫌な事の継続・維持の自分対するメリットの確信が必要。
その一般的なモノが、自分の「夢」実現への思い・行為かな…
夢中と現実の自由・不自由?!