「思う⇒考えるへの変化」の話
「人間は考える葦と言われている」と言われているように「考える、考えられる」事が人間の特性である。
動物的に特化した戦闘機能がなく、最弱とも言える人間が、最強な理由は、道具の創造であろう…
その人類当初の道具は、自然に存在する眼前の物体の変形・使用法の工夫であった…
例えば、岩にぶつかって痛い・怪我をする。また転んで、そこに石・岩があると痛い・血が出る…
ならば…この岩を小さく鋭くすると…「???」とい問い掛けが生じ…そこから石器の生成へ~
南郷師範曰く~
「思うとは、その時々に頭脳に浮かんだ・浮かんでいる諸々を変化させる事」
例えば、今、私が友達(過去に喧嘩(殴り合い)なし)の事を思っていたとする…
そこで…私が、その友達を殴った事を思う…すると…そこから初めの「思い」は「考え」になる…
何故なら、私の体験・経験には、その友達を殴った事がない、「その思う喧嘩像がない」から、
そこで、その友達とケンカした事がない私は、他の友達(or他人)との喧嘩・口論を想い出し…
そこから考え、過去に無かった、その友達との喧嘩像を創出(創像)するから~
上記のような事に気付いて・そんな考えを始めたのは~
私は、何故・どうやってブログ「再考『バカ』の話」や「『感覚と感情』の話」を書いたのだろうか?!という問い掛け(殆ど無意識)から…
…と言うか…
私が「花粉症」の事を思い書く時に「師範の花粉症はない」という言葉が、ずっと気になっていたから…
世間一般的には、花粉症は神経過敏…一種のアレルギー症…と言われている…
でも…蚊に刺されて痒いのは、アレルギーではない…
しかし、痒くて掻き過ぎたら…皮膚が荒れる・傷つく…症状になり得る。
また、花粉症で強烈な痒みを感覚しても、掻かずに放置しておくなら…時間の経過とともに消失しているのも(私の体験)事実。
搔かなければ、目が痒くても、花粉症の症状は出ない…
あのブログには「花粉症はアレルギー症?」or「心の病?」という問い掛けが、私の中に、ずっとあったが故の記述であろう。
数日前「学城24号」を読んで、ビックリ・驚いた「問い掛け?」があった。
それは、「何故に人間(脊椎動物)の身体構造は左右対称か?」だった。
こんな問い掛け…
私は人間の肉体を68年間も保持していのに…
上記のような問いかけと、一度もなかった…
ただ…昔から~
「脱いだスリッパを左右揃える(一時は病的な程)」とか「右左の手足を同じように使おう」とか…
左右のバランスを気にしていたようだ…たぶん…それは当時に読んだ本の影響だろう~
そう~「思う⇒考える」には、自分が思いもしない・出来もしなかった「問い掛け」が必要なのだろう…
と言うか、問いかけが不味いと「思いが、同じ場所で堂々巡り」で「ただ思い続けている」事になり得る。
それは、「ただ思い続けている」だけなのに、それが「考え続けている」事のよう思えてしまっている…という事なのだろう。
これも…どこに書かれていた「哲学=愛智=智を愛し続ける学問」ですね…
論的な盗作・真似事?…否!「論理的な再措定」!
この思いの堂々巡りには、
「論理的」には
「現象論」レベルでの堂々巡り~
「構造論」レベルでの堂々巡り~
「本質論」レベルでの堂々巡り~
「人間は考える葦と言われている」と言われているように「考える、考えられる」事が人間の特性である。
動物的に特化した戦闘機能がなく、最弱とも言える人間が、最強な理由は、道具の創造であろう…
その人類当初の道具は、自然に存在する眼前の物体の変形・使用法の工夫であった…
例えば、岩にぶつかって痛い・怪我をする。また転んで、そこに石・岩があると痛い・血が出る…
ならば…この岩を小さく鋭くすると…「???」とい問い掛けが生じ…そこから石器の生成へ~
南郷師範曰く~
「思うとは、その時々に頭脳に浮かんだ・浮かんでいる諸々を変化させる事」
例えば、今、私が友達(過去に喧嘩(殴り合い)なし)の事を思っていたとする…
そこで…私が、その友達を殴った事を思う…すると…そこから初めの「思い」は「考え」になる…
何故なら、私の体験・経験には、その友達を殴った事がない、「その思う喧嘩像がない」から、
そこで、その友達とケンカした事がない私は、他の友達(or他人)との喧嘩・口論を想い出し…
そこから考え、過去に無かった、その友達との喧嘩像を創出(創像)するから~
上記のような事に気付いて・そんな考えを始めたのは~
私は、何故・どうやってブログ「再考『バカ』の話」や「『感覚と感情』の話」を書いたのだろうか?!という問い掛け(殆ど無意識)から…
…と言うか…
私が「花粉症」の事を思い書く時に「師範の花粉症はない」という言葉が、ずっと気になっていたから…
世間一般的には、花粉症は神経過敏…一種のアレルギー症…と言われている…
でも…蚊に刺されて痒いのは、アレルギーではない…
しかし、痒くて掻き過ぎたら…皮膚が荒れる・傷つく…症状になり得る。
また、花粉症で強烈な痒みを感覚しても、掻かずに放置しておくなら…時間の経過とともに消失しているのも(私の体験)事実。
搔かなければ、目が痒くても、花粉症の症状は出ない…
あのブログには「花粉症はアレルギー症?」or「心の病?」という問い掛けが、私の中に、ずっとあったが故の記述であろう。
数日前「学城24号」を読んで、ビックリ・驚いた「問い掛け?」があった。
それは、「何故に人間(脊椎動物)の身体構造は左右対称か?」だった。
こんな問い掛け…
私は人間の肉体を68年間も保持していのに…
上記のような問いかけと、一度もなかった…
ただ…昔から~
「脱いだスリッパを左右揃える(一時は病的な程)」とか「右左の手足を同じように使おう」とか…
左右のバランスを気にしていたようだ…たぶん…それは当時に読んだ本の影響だろう~
そう~「思う⇒考える」には、自分が思いもしない・出来もしなかった「問い掛け」が必要なのだろう…
と言うか、問いかけが不味いと「思いが、同じ場所で堂々巡り」で「ただ思い続けている」事になり得る。
それは、「ただ思い続けている」だけなのに、それが「考え続けている」事のよう思えてしまっている…という事なのだろう。
これも…どこに書かれていた「哲学=愛智=智を愛し続ける学問」ですね…
論的な盗作・真似事?…否!「論理的な再措定」!
この思いの堂々巡りには、
「論理的」には
「現象論」レベルでの堂々巡り~
「構造論」レベルでの堂々巡り~
「本質論」レベルでの堂々巡り~