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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・偽りなき…

2019-05-12 12:41:44 | 弁証法



例えば、誰からプレゼントを頂いた時、

頂いた物が気に入った時、「嬉しい」と言った。
これは、偽りなき自分の気持ち?

頂いた物が気に入らなかったのに「嬉しい」と言った。
これは、偽りの自分なのだろうか?


「頂いた物は嬉しく」ても
自分が、その相手から物をもらえない立場なら、
「物を頂く事は嬉しくない」となり得る。

また、その頂き物は「気に入らなく」ても、
その相手の気持ちが「嬉しい」場合もある。


相手の気持ちが迷惑で、
その贈り物も気に入らない、のに~
「嬉しい」と言った場合。

自分の気持ちを相手に偽って表現した事になるが…
それでも、自分で偽らない自分を見つめているのも事実。

迷惑なのに「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
気に入らない物なのに、「嬉しい」と自分を誤魔化したり、
そんな時は、自分で自分を偽って捉えている事になり得る。


迷惑な事は、「嬉しい」コトではない。
気に入らない物は、「嬉しい」モノではない。


それでも、
気に入って・好きな人からの迷惑は「嬉しい」。
気に入って・好きな人のその気持ちは「嬉しい」。


贈り物は、「贈る気持ち」と「贈くられた物」の二重性がある。
それら二つをゴチャゴチャにする事無く、
分けて捉える事は、
一つの事を二つにして考える弁証法であろう。


コテハンをコロコロと変えて、
一つ一つが、さも別人の如く、
コメントを寄越すなら、
それは、偽りの者とも言えるだろう…

もっもと…
ネット界のコテハンを現実界の氏名と
同様に認識するなら…であるが




それでも、
その本質・人格が、偽れないなら、
それは、偽りのない自分なのだろう。




名前・コテハンを偽る事が可能でも、
その本質・人格を偽る事は至難だろう。

本質・人格が偽れるなら、それは二重人格だろうが…
それでも、その二重人格という本質は偽れない事になる。






素直に偽りなき

2019-05-12 10:50:08 | 想いのままに…




以下のコメントへのコメントを記事にした。



・コメントを書いた人
フロイト

・コメント
私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。

だって弁証法について書けないし書かないのに弁証法について書きたいというのは自然じゃありませんからね。
これが未成年でこれから自分がどこに向かっていくのかも皆目わからない子供でしたら分からなくもありませんが。

自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?

客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。

もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。


↑~
>私の質問はスンナリ了承されるのではないでしょうか?自由びとさんが素直なご自分を記述されているのなら。

↑~
「スンナリ了承」したからといって、「素直なご自分を記述」するとは限らない。


それは、質問者の人格に素直に心を開けるか否かがカギである。

児童と教師の関係も同様である。
教師がどんにに正しい指導をしていても、
嫌いな(心を開けない)教師の言葉は聴けないのが普通である。

でも、家庭での躾が確りできている児童なら、
自分の感情を否定して、「正しい指導」を受け入れられるモノである。


ここでの「フロイト」は、
私の教師でないし…
私への指導でもないし…
だから、
コメント・質問に素直に答える必然性は皆無である。




ブログの記事なら、
自分で自分の心を自分に対して素直に開いて書ける。
でも…「フロイト氏」コメントには、
本能的に素直に心を閉じてしまっているようだ。






>自由びとさんはご結婚されていて子供もいらっしゃるんでしょう?それなのに最大の関心事は自分でも良くわからないことだなんて変じゃありませんか?

↑~
「最大の関心事」の決定は、時に至難である。
それは、色々な事があり、その一つ一つに忙しく関わっている場合。
諸々の事から、「最大の」を限定する為には、
忙しい現実を一旦離れる必要がある、ようだ…


>客観的にみたならば、自由びとさんが弁証法について書けないし書かないのは弁証法というものに大して興味ももっていなければ必要ともしていないと結論づけて構わないように思いますし。

↑~
どうぞ!どうぞ!ご自由に!

これもフロイトさんの人格がなせる技なのだろう。






>もしも自由びとさんが偽りなき自分をブログに綴っているのなら、
>このブログに描き出された人格が自由びとさんそのものでしょう。


このコメントには、弁証法性が感じられない。

そもそも~偽るとは?自分とは?
「偽りなき自分」とは?

人間として、
社会的自分として生きる為に、
個人的自分を偽り生きる事は、
社会人として偽りなき自分である。






自分の迷いを素直書いた場合、
自分の意志を素直に書いた場合、
自分の感情を素直に書いた場合、

自分の実感する・した弁証法を書いた場合、
自分が、正しいと思う弁証法を書いた場合、
師範が正しいと思っている弁証法を書いた場合、
学問的に正しいと思われる弁証法を書いた場合、

全て弁証法に対する偽りない自分の記述である。
でも、その時々で、記述は異なってしまう。
それでも、それらは偽りなき自分である。