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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

一村氏へのコメント

2022-06-09 13:26:15 | 滅ぼし合う対立物の統一
一村氏へのコメント


・コメントが届いた記事
一村コメントへ~



・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
何だか掛け算や割り算を具体的な事例で表現し直すということで自由びとさんは今までのご自分が抽象的な話しばかりして「具体例は各自がそれぞれ考えよ」と言っていた姿を帳消しにしようとしているみたいな感じがありますね。


>…姿を帳消し……とは、笑える(ワ・ハ・ハ)

単に、いつも思いる・考えている事を今回は言語化しただけです。





>問題は「いま現在の実際の学校での算数教育はどうなされているのか?」ということだと思います。


↑~これも笑える(ウ・フ・フ)
現代の小学校の教育現場を知らないのに…この言葉とは…




>算数の計算で子供の思考をやりやすくする方法に「筆算」というのがありますね。横書きに書いた別々の数値を縦に並べて上下で計算していくものです。
足し算や引き算の筆算は小学校2年生の前期に学ぶんですかね?
      125
+238
>でそれぞれの同じ桁の数字を上下で足していくわけですよね。一の位の5と8を足して13、この上の桁に上がった「1」は10の位の2と3を足した数に更に足されていきます。
それで最終的に解答は「363」。




>子供たちはこの時、0から9までの足し算と「桁の違い」で区別するという演算の規則を既に学んで知っています。
そして、この「それぞれの桁(位)の0から9までの数」とは、以前、自由びとさんも述べていたように「10進数だから」で「それは人間の両手の指が10本だったから」なわけです。

↑~
驚いた事に、授業中に、小1女子の児童が、靴・靴下を脱いで、20本指で計算していましたよ。


>ですから小学校の子供たちも計算するときは両手の指を使います。私自身が児童のときはそうでした。「5+8」なら既に習慣的に記憶している現在なら即座に「13」だと想起されますが、まだそれが果たされていなかった児童のときは指でやっていたのを思い出します。


これもビックリした事ですが…
現代では、小1から「サクランボ算」を教えています。

「9+6」の計算から 

6を、1と5に分け、9+1で10、10+5で、15~
これを  9より小さい6の下に縦の「>」を書き、…

「15+8」なら、8を5と3に分け、15+5で20,20+3で23…
昔なら縦書きの筆算で教えていた足し算を、書きの式の下に「8<5・3>とサクランボして、そのまま計算させています。


>そこで肝心なのは「5+5=10」で上の桁(位)に上がるということで、「6から9までの数は5+1、5+2、5+3、5+4」であることを指を見ながら意識していたことでしょうね。

>0から9までの足し算や引き算を指を使って出来ることと、繰り上がりや繰り下がりの桁の理解でもって小学校2年生で既に一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億…という途轍も無い数量の計算(和と差のみですが)が可能となっています。

>この時の小学生の頭の中の「算数における数量の像」とは「鉛筆が百万本」だとか「林檎が一億個」といった具体的個物の像ではなく、自分の両手の10本指から桁が上がって桁が上がってを繰り返して大変に大きな数量となっている「1000000(百万)」とか「100000000(一億)」といった「文字の像」「記号の視覚像」です。それは実際に百万本の薔薇が咲いている姿でもなければ一億個の林檎の姿でもなく、自分の両手の10本指から発展した「一の位の上に十の位があり、その上に百の位があって…」といった「人間が作った社会的なルール、規則」ですから、それは言ってみれば国語で「あ行の隣にか行があり、その隣にさ行があって…」といったルールと同じことでしょう。



分かっていないね…
私は、百の概念を一円玉の縦に10個積み上げて=十円
その一円玉10個を10個並べい100円…で遊びました。
千は、一円玉百個の10倍をイメージしましたよ。

まあ~一万は、千円札10枚、10万は、一万円札10枚…




>南郷先生が言う「人間になるため」「社会的な個」という「みんなが守っているルールを知る」という視点でも理解できるわけです。



詐欺師・になる為の詐欺師社会ルール、学者になる為の学者社会ルール、会社員になる為の会社のルール



>ネットで検索したところ小学生が掛け算を学ぶのは2年生の後期、夏休みが明けてからだそうですが、やはり夏休み明けに「九九」をやるそうですね。「1×1=1」から「9×9=81」までを暗記して暗唱できるように。
私の児童の頃はまだ先生が体罰などしても世間から何も言われない時代でしたから、間違えると半ズボンの生の太ももを定規でピシャリと叩かれていました。


掛け算を覚えさせるには、「掛け算」の便利さ、有効性を実感させて、やる気にさせるのがベスト。

後は、強制的に、3+3=「さんにがろく」、3+3+3=「さざんがく」…
足し算の式を書かせながらの「九九表」の暗記・暗唱訓練ですかね…


>この小学校2年生の後期にやる九九の暗記ができていないと3年生でやる「割り算の筆算」ができません。
筆算の過程を見れば一目瞭然に割り算というのは割る数に何を掛ければ割られる数になるか?割られる数に近くなるか?を見ていく思考過程ですから、その埋めるべき解答欄が??で表記されていても「それは具体的な数値に変えた代数であって小学校の算数の範囲ではない」なんてことにはなりません。




掛け算・九九を覚えて計算は得意でも…
文章題が全く解けない児童の多いい事…

なんて~知らないでしょうね!!!


>それは屁理屈であり捻じ曲がった心がそう考えさせるのでしょうね。





捻じ曲がったお宅の心だから、ここの記事の中身が分からないのですよ…







一村コメントへ~

2022-06-07 21:36:52 | 滅ぼし合う対立物の統一



続・割り算について…

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>99が一気に代数にはならないでしょう。どう考えても。


代数とは、数式の代りに文字式を使う数学。
例えば、方程式A×3=12の場合~
機械的に、A=12÷3、A=4
算数でも、高学年になると□の入った式習う。

今、掛け算九九を使った除法を考えるなら

12÷3=?の場合は、「3×□=12」の九九表か、3×[4]=12が分かる。
この□の使い方…数字の代りに□を使っているから「代数」的な計算と言える。

>でも掛け算が代数の計算に繋がっていくのも間違いありません。


□を文字に置き変えたら「代数」です。
では、文字代数との相違は~
□式では、一つの数字の代りの□だが…
文字式なら、A+B-C…と異なった多くの数字表記が可能である。



>ここで大事なことは割り算の答えを割り算では無い方法で導くことは「割り算ではないし除法でもない」ということです。
.そして更に大事なことは小学校2年生で学ぶ99の暗記は必ず2年生のうちに果たして貰わないといけない、ということです。


九九表も未熟で…割り算の概念もない小3の子供に、
割り算を、九九表を使った方法で教える事は不可能です。

その理由は、子供にとって割り算と掛け算の区別と連関が未修得だから…

そもそも…割り算を教えるのは、モノを分配する時の計算の為。
現実生活でのモノの分配・分割が分からないなら割り算の必要性も感じられない。

現実的な分配・分割の体験を通しての割り算の習得が必要でしょう。
その答えが出せて、「割り算」でも同じ結果が出せる事を分からせる必要があろう。

>なぜなら99の暗記が成されていれば、その応用で桁違いの大きな数値の掛け算や割り算が可能となるからです。
自由びとさんが書いていた「算数は何のため?」というならば「小学生がお使いに行ってお釣りの計算をするため」とだって言えるわけです。



残念ですね。
「九九表」を暗記できても…
文章問題で問題を読めても、その計算式が立てられない子供が大勢いますよ。

今どきの子供は、小1でお金を使った事がないそうです。
親の買い物は、カードやスマフォ払いで…お金を見た事もない子供もいます。
そもそも…親が子供に「お使い」なんて…頼まない世の中のようですよ。



コメントへの私コメント~

2022-05-03 14:17:59 | 滅ぼし合う対立物の統一
コメントへの私コメント~


以下のコメントは、
勝手な思い込みでの実名入りだったので、
その部分を削除して掲載した。




▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>上達論と勝負論について…

>・コメントを書いた人
>一村隆滝



>・コメント
>自由びとさんが京都の『自由學藝』の執筆者の一人だと想像してから、ブログには直接に言語表現されていない部分と照らし合わせて色々と思索が深まってきましたね。


↑~
独りで想像を広げるには、とても良い方法ですね。
ただ…正確に「ブログには直接に言語表現されていない部分」が分かっているかが問題です。



>学校の授業の話しですか。それなら、自由びとさんは京都の〇〇〇〇さんですね?


間違っています!
これは非現実的・非事実的な妄想ですね、




>『自由學藝』の第3号が先日届きましてね。これまで読んでいなかった〇〇〇〇さんの「教職課程の大学生に説く人間観の歴史」に目を通したら興味深い「深い論考」が為されていることを初めて知りました。



耳寄りな情報を感謝です♪
早速、私も購入しないと…



>この〇〇さんも珍しい人で、京都大学を卒業なさって義務教育の教師になったらしいですが、東京大学や京都大学には教職課程が無く、つまりは教師になるのに東大や京大まで行く必要はないらしいですね。

>東大や京大を出て有名予備校の講師となって多額の収入を得ている人=優秀なビジネスマンは少なくないみたいですけど、安月給の義務教育の教師になるのは余程の変わり者なのでしょう。




「安月給」とは…何でもお金で判断するのですね。
人間にとっての「金」は、生きていく為の身体的な糧。
でも、それより心・精神の糧である生き甲斐・遣り甲斐が重要だと私は思いますよ。




>自由びとさんの今回のブログ記事で「上達論的試合と勝負論的試合」から学校教育の話しに移っていますけど、「空手論、武道論」と「学校教育論」とは、そもそもの「対象」が違いませんか?



「対象」は異なっていても、
「上達・勝負」の論理は、双方に見て取る事が可能です。




>南郷先生の玄◯会にも少なくない人数の義務教育教師が会員として在籍しているはずですが、『學城』はほぼ「医学系」の著者で占められて教育論を説いている筆者はいませんね?

>〇〇さんは義務教育の教師として向山洋一さんのTOSSの関係者として実力の向上に努めているようで、向山さんが「上達論」として南郷先生を認めてらっしゃる。しかし果たして向山さんは、その「(学校教育における)上達論」を「勝負論」とのセットで理解していたでしょうか?




教師は、教育を論理的に「勝負」とは、捉えないでしょうから…なかったでしょうね。
そもそも…「上達論と勝負論」をセットで問題とし、対立物の統一で考える試みをしたのは、南郷氏が初めてなのでは?




>「授業中に児童を怒鳴りつける」ことは勝負論的?空手だとか武道の稽古中に指導者が怒鳴りつけることは普通にありますよ。ですが、やっているのが自由組手でなく基本稽古や型稽古ならば、それは「勝負」ではないことになります。




武道での道場での「怒鳴り」と学校教育での小学生・児童への「怒鳴り」は別もでのすね。
より正確には、現在の学校教育過程では、です。


例えば、過去の学校教育では、教師への信頼感は絶対的です。
親も児童も教師の言う事・する事には、従うのが一般常識です。
教師に怒鳴られたら親は子供に「お前が悪い!」
現代では「子供を大声で怒鳴る教師が悪い!」


武道なら怒鳴られたら、その者は「もっと頑張る!」(上達目指す)
現代の児童なら「なんで怒鳴るの? 静かに言えば分かるのに!」(頑張る気持ちなし)




>ですので「上達論」と言ったときに「何の上達?何が上手くなること?」と問い返せば、「勝負の上達、試合の上達、勝ち負けのある闘いのスキルが向上すること」だとリフレーミングするならば、「上達論と勝負論」とは直接的同一のものとして区別されなくなります。




「何の上達」かって~
色々と、そのレベルはありますが…

一年生なら、
先生の話を静かに聞ける能力の養成・上達。
自分の疑問を先生の話が、終わるまで我慢する気持ちのコントロール能力の養成。
思った事をすぐ言葉にしてしまう癖の修正。

まとめて、授業を真面目に受けられる態度・行動・行為・認識力の養成・技化…ですね。

そうそう…南郷氏は、
何の勝負で、どのような勝ち方を求めるか…「勝負論」。
そのような勝負の為の実力養成課程に…「上達論」。

別言するなら~
「勝負論」は結果論。
「上達論」は過程論。





>南郷先生が「上達論と勝負論」として区別した「対象」は、「自由組手」と「その場突き、その場蹴り」「空手の型」という異なるものの「上達、上手くなること」が前提となっていると思いますね。




残念でした…分かっていないよ!

寸止め空手の判定の二重性での、「上達論的観点」と「勝負論的観点」の上達論と勝負論、
更には、勝負に勝つ・対手を倒す為の「勝負論」とそのような実力・養成の為の「上達論」。

同じ「上達論・勝負論」でも、違ってくる事を~

蹴り技で勝つ為(勝負論)に、
理想的蹴り技の基本型の習得・習得そして向上(上達論)


>そして、自由びとさんが揚げた「攻撃したときに相手にダメージを与えているか否か」ではなく「どういう姿勢で加撃したか?」が問われるのは、南郷先生の玄◯会だけに限った話しではなく、琉球から伝わった「唐手」を競技試合化した「伝統空手」に共通した「寸止めの芸術点」のような観点だと思いますね。



これも分かっていない…
ただただ…勝負に勝つためなら、どんな姿勢・形であれ、相手の致命的な急所に当たれば勝ち(勝負論)です。
一本でも二本指でも、どんな姿勢で…対手の目ん玉に入れば「勝利」(勝負論)。

決闘ができ難い現代武道だからの勝ち負けの判定・観点としての「上達論・勝負論」、
決闘に勝つ為の勝負論・上達論を区別と連関  で分かっていないね。

お宅の弁証法である「対立物の統一」の実力不足ですかね。

>つまりは「試合」が有っての「基本稽古」なのではなく、「型」が先ず有っての「型の保存」を中心とした「基本稽古」であり「自由組手試合」なのだ、と理解します。



現代ではともかく…
過去の武道? 空手は何の為?
それって決闘に勝つためでしょうが…


過去の「試合」は何の為、「技の試し合い」でしょう。
試合そのものが、上達論の適用結果ですよ。

過去なら、勝負論も勝負論的観点の不要です。
決闘して相手を倒した方が勝です」


健康な人間でも、時に「死」を考え・みつめる事は有意義です。
武道である以上は、現代社会に「決闘」は有り得なくても、
「死」を意識する事は必要でしょう。


どんな一本・技あり…にもならないヘボ技でも、
受けられないから、即「片輪」ってね…

あまり試合をしなかった私の大学時代の空手は、そんな風に考えたモノですが…





続・続・続お宅コメントへの私コメント~

2022-01-11 13:44:34 | 滅ぼし合う対立物の統一



さて…さて…お宅の真・本領発揮ですね♪♪♪
お宅は、こうでなければ、私は楽しめませんよ!


確か!お宅は、前回のコメントで以下のように書いていますね!
「>今後はこのようなコメントをすることもないでしょう。お時間を使わせて申し訳なく思います。
>御免」

それを~これまた超長文のコメントを書いてしらっしゃった!
この言動・行為・を「大嘘つき」と言わず、何と呼べばいいやら?

この事実から言える事は、
お宅にとっての言葉・記述は、全て感情的表現である。
お宅にとっては、お宅の、その時々の感情が全てであり、お宅にとっての真実なのでしょう。
だから、前回と今回の記述を比べて、私が「お宅は大嘘つき!」だと書いたとしても、
お宅は、胸を張って高らかに「お宅の俺の記述に嘘はない!」と叫べるでしょうね…

それは、「いま泣いた子が、もう笑った」レベルであり、
これは、今この瞬間が全てで、過去は全く記憶できないレベルですよ。

さて前置きは、ここまでで~以下のコメントを読み進めてみる事にしよう。



>ドゥルガー

>・コメント
>もういいよ、自称自由びと。

私コメント~

「自称」ではなく「コテハン自由びと」です。
言葉・認識・表現は正確にお願いします…
と書いても、お宅には至難ですね…失礼しました。
お宅には不可能な事が分かっていて~
それを強要するのは、大人ルール常識違反ですよね。

>お前の言葉には嘘しか無い。

私コメント~
それは、お宅に「論理的な理解能力」が皆無だからですよ。


>南郷の本は「科学として、専門としての武道を説く」として具体的な武道・武術の技を中心として論を説いているのは読めば分かる。

私コメント~

何回も説いてしますが…
南郷氏の「武道の定義」を否定しているお宅に、南郷氏の説いている事を正しく理解するのは「至難」ですよ。
それは、お宅の「科学として、専門としての武道を説く」と言う言葉そのものが間違っています。
そもそも南郷氏は書いています。
「私・南郷氏が構築・創出した学問一般」から、個々の何かを説いている…といった事です。
でから、「武道」も科学としてではなく、学問一般から説いた「武道」ですよ

宅は、お宅の思い込みで、分かっているつもり…なだけですよ。
何度いっても分からないお宅は、本当に分からん珍ですよ、



>お前のように「武道武術でなく何かを必死で頑張ること」などではない。

私コメント~
私が、真面目に頑張って南郷氏から学ぼうとしている事は、
初めから一貫して「南郷氏の弁証法」なのです。
その弁証法を正しく修得・体得…する為に、
その時々の何かを頑張っている、のですよ。




>だから竹刀で叩き合う剣道を否定しているのだし、頭から地面に落とさずに畳みの上に背中から怪我をしないように受け身を取らせる柔道を批判している。

私コメント~
え?お宅は、ヤッパリ南郷氏の言説を分かっていません。
南郷氏が否定しているように、私は説いただけです。

それは、「剣道は、剣・刀を扱う武道」、
それを「竹刀の叩き合い」で満足・終わっている、
現代の「剣道」は、その呼称が内容に即していない。
改名して「竹刀道」にした方が、実質・内容に合っていて科学的である…と。

柔道の然り、技ではなく、剛力頼っての技は「柔道」てはなく「剛道」が…なんて…
更に、多くの人々が理解していないモノが「南郷継正」の心・精神です。
南郷氏が書いているような「掌に世界を乗せ…」的な境地だとしたら~

世界と南郷氏は一体化した境地となり得ます。
その時、他人への批判、他の武術への批判…
それらは、己に南郷氏自身への警告・訓告…となりえます。


それを分からないから…
批判されたモノは、批判した南郷氏を不快に感じ、
批判されて事・事実を直視する事を避けてしまっていようです。


お宅の、どのような認識レベルで、南郷氏に何を期待しているのでしょうか?
それってもしかして…
高級服飾店へ行って、作業着・軍手・防寒着…を求め・期待している、ようなお宅なのかも…


>それでは命がかかってないというわけだ。
>防具の上から竹刀で100回叩こうとも死にもしなければ怪我もしない。それでは命がかかった武道でなくスポーツだ、と。


私コメント~
お宅には、「武道」の「武道への道」と「武道の道」の二重性が全くできていませんね
実際に「生命を賭けて闘う」なら、それは「武道の道」です。

さらに、「賭けるのは己の生命」であり、相手が「相手の生命を賭ける」とはが限りません。
例えば、相手は「一億円を賭けて」・「貧乏人のお宅はお宅の生命」を賭けた竹刀勝負も想定可能です。
この場合の「武技」とは、「竹刀術」であり、勝負心は「死即生的武道心」ですね。
トランプに負けたら「己の死」、相手に勝っても「相手の死」ではなく、お宅の「一億円の獲得」ですよ。
どうですか?生命を賭けた勝負=他人の死…とはなり得ません。





>だから南郷が少なくても本の中に書いていることを本当にやったなら死んでしまい得ることは間違いない。

私コメント~
だから、それは、「勝負論」の話、「武道の道」での勝負です。
全くもって…全く誤解している!
これで、よくもまあ~自由びとを低脳だと罵れるモノですね、



>お前が嘘をどれだけつこうが、そこは南郷の本を単行本化した三一書房の編集者にも確認を取ってある。確かに南郷は文筆家としてそのようなことを書いているが、それは南郷の団体内で実際に行われている事実ではなくフィクションだ、と。

>


私コメント~
「武道」とは、観念的な実態・実体で、現実に武道そのモノは存在しません。
空手即武道ではなく、空手の修業を武道として、武道的に修行する事が、武道・空手の修得・体得です。
初めから身体的に現実的に「生命的な危険がある練習・稽古」をするなら
、それは、お宅のような馬鹿ですよ。

この場合の「バカ」とは、上達論的練習・稽古と勝負論的な練習・稽古の区別が出来ない「馬鹿」です。
どこのバスケットコーチ・監督が「ダンクシュート」が最高・確実なシュートだから、と言って…
小学生らダンクシュートを練習させますか?


>お前は嘘に嘘を重ねている。京都の私淑している人(××××氏)が下位の色帯で退会しながらも南郷学派に私淑しているように、お前の発言の中には武道も武術もない。

私コメント~
だって、私が求めているのは、超一流の自由です。
その為に南郷弁証法の体得・修得を目指し~
武道・空手の体得・修得に求め~
南郷氏の「悟り・悟得」に求めています。

南郷氏の悟得境地とは以下です。
「己の死の覚悟=己の生」・「(己の生を求めて)己の死の覚悟=己の生」

この境地を体得できれば、空手技も柔道技…現代では武道と呼ばれている武技は不要です。
何故なら、己の死の覚悟が出切れで、周囲の全てモノが武器化・武器として駆使可能な精神状態となり得ます。

これは、道具を己の身体の一部として駆使可能な人類の「道具武器化心・精神」なのです。

それが、弁証法的な道具の使用法の一つでもありますが…
鉛筆で相手の急所を突けば致命傷。
小学校でも一年生が、時々ふざけて、鉛筆の先を友達に向けているのを目撃しますが…
それって…私からすれば「驚異」です。小学一年生で大の大人に致命傷を負わせられる…
これって…他の動物にない(道具が使える)人間だけの能力ですね。



>おそらくは武道の稽古は大してした事が無いのだろう。

私コメント~
ほれ!ほれ!

直接に武道を稽古する事は至難ですよ。

武道とは、[武技を用いての生命を賭けた勝負の道」ですから
空手技を武技としての稽古・修業の過程での武道・観念の修行なのです。

お宅の、いい加減な適当の超長文ですね。
教科書・ネットに書かれている事や他人言葉の盗用なら、
そのまま正確に書けるのに…
書かれていない事を、お宅の言葉で書こうとすると…
それもう~私から観ると支離滅裂ですね。



>武道の稽古をするときに死を考えるのは修行している人間ならば当然のことでしかない。なぜなら武道の技というのは相手を殺傷するように作られているのだから。

私コメント~

「死を考える」事と「現実の眼前の死を受け入れる」事は、別物ですよ。
そもそも…竹刀で一発叩かれて本当に「死ぬも思えますか?」

思えていて、簡単に前に出られて、打たれるのは何故?
だって…竹刀で撃たれた瞬間に「死」ですよ!
それこそ「進撃の巨人エレン」です。
彼は、仲間達から「死に急ぎ野郎!」と呼ばれています。

お宅の言葉には、
「死への恐怖」、「現実死の覚悟」、「現実死ぬ思いの体験」が感情がないのですね。



>弱い相手なら殺すこともなく手玉に取ることも可能であるが、自分と同等かそれ以上の相手ならば殺さなければ自分の身を守れないこともあるのは授業者ならば当然に知っていることでしかない。


私コメント~

お宅は時代錯誤ですね。
現代の何処の勝負に「負けたら死ぬ」、
「勝ったら相手の死」なんてモノがあり得ますか?

「武道の定義」は、「…勝負の道」ですよ。
そり道は、過去から現代の勝負への道です。
過去なら兎も角…現代で「生命賭けの勝負」は、現代日本では殆ど不可能です。
だから!そうであるからこそ~
現代社会で「観念的に生命賭け」が可能な認識・精神の養成・体得が、
「精神の最強化への道」なのです。


そもそも…勝負心・武道心…何も武道の勝負に限りません。
己の人生の過程での大勝負に、観念的な「死即生」は有効です。
本当にもう~何度も書くけど…お宅の「弁証法論理能力」は全くなし…ですね。

過去にも書きましたが、
普通に言われているでしょうが…
「必死」でやれ!
「人間死ぬ気になれば何でもできる!」
「死を覚悟してやれ!」
~そんな覚悟して現実に死んだ人間はいますか?


>それは現代の警察の仕事でも相手を射殺しても正当な義務上の行動だと判断されるのを見ても自明でしかない。

私コメント~
だから、と言って全ての警官が「仕事で相手を射殺」できますか?


>武道・武術の技は相手を殺せるものとして作り上げ、相手を殺せるものとして使うもの、当たり前の話しでしかない。

私コメント~
ほう~「当たり前」だったら、
現代の剣道家が、実際に真剣で相手を一刀両断できますか?


>お前の頭の中には武道は無い。お前が2chで空虚な文字を綴っても、それは武技でも武道でもない。

私コメント~

お宅の頭の中にあるのは、お宅の武道的な想い、空想・妄想ですね。
南郷氏の「武道の定義」も分からず…

偉そうに「武道」を語るお宅の姿には、自己満足の優越感が滲み出ていますよ。
まあ~どうぞ!そのまま!どうぞ!そのまま!自己陶酔して生きて下さいな!

どうぞ!自己満一杯のお宅帝国・世界で帝王して君臨していて下さい!






続々・私からお宅へのコメント

2022-01-08 11:13:12 | 滅ぼし合う対立物の統一

>・コメントが届いた記事
>2022年これが弁証法だ!


>・コメントを書いた人
>ドゥルガー

>・コメント
>新春から苦言を呈するのも好ましいことではありませんが、貴兄は南郷門下の中でも相当に変な人、というか頭の働きが普通じゃない人ですね。



私コメント
普通でない自分を普通だと信じているお宅=普通でないお宅からみた「普通じゃない人」という事ですね。
ならば、「普通でないの」が普通なら、「その普通でない普通」が普通でないなら、それは「普通の普通」ですね。

「不普通」が普通なら、普通でないは「不普通」でないから普通となります。
具体的に書くなら以下です。

「他人の物も自分モノ」と信じている人なら、
「自分のモノを他人が使ったら怒る」普通の人を普通ではないと思いますよ

異常者から見た異常は、正常人の正常ですよね。



>私は他流の先生の「活殺自在」という言い方は的を射ていると思いますし、武道というのは場合によっては殺してしまうことにもなりますから、武道の学びを通して「相手を殺さない」ということを知ることや「この場合は殺してしまったとしても致し方ない」という境界線を知るものだと思います。

>そうした意味で貴兄のような「武技を用いた生命懸けの真剣勝負」という規定は「絶対的に相手を殺さないのであり、」なんていう考えには賛同できません。

私コメント

何度も書きますが…
「生命を賭ける」事=「生命を無くす」事では、ありません。
「必死」に物事を取り組む事で「生命を無くす」
「死ぬ気」で物事に取り組む事で「生命をなくす」?
「死を覚悟」して物事に取り組む事で「生命をなくす」?

お宅南郷氏の「悟得」が「死即生」だと知ってますか?
これは、「生きる為に己の死を覚悟」して勝負する事です。
勝負に勝つ為に、相手を殺すのではなく「己の生きたい心を殺す」のです。

別言するなら、現実の勝負に勝つ為に、観念的に「己の欲望・雑念」を消すのです。
その雑念・観念を消す技を、武道・空手を通して修得するのです。

お宅には、「生命を賭ける」=「他人の生命を奪う」なのですね…
そもそも…人格者なら「己の生命を賭けて」勝てる相手なら「殺す」とは思いませすよ!
お宅は「非人格者」であり、「殺人願望者」ですね。







>それに南郷さんが「子供を一度も泣かしたことがない」なんて話しは大袈裟でしょうね。眉唾というか話半分に聞いとくのが正解でしょう。

私コメント…

お宅には、真面目に文章・文字が理解できないようですね。
先ず、南郷氏は、電車内・注射…時に、(条件付き・限定)で「子供を泣かせなかった」のです。

それに、例えば、自転車に一度乗れるようになれば、大きな身体的な変化がない限り乗れるモノです。
南郷氏からの何回かの訓練で、電車に乗る楽しさ、注射の我慢方法…を体得すれば…後は大丈夫。


>ネットで「子供が泣くこと」で検索すると何人もの専門家の方が「子供は泣くもので、泣くことで自分の気持ち・欲求を親や周囲に伝えている」と説いています。
>逆に言ったら「子供は泣かなければいけない」ということになりますよ。言葉が話せない赤ん坊のときは泣いて気持ちを伝えなければなりませんし、それが発展していって「言語で伝える」ようになるんでしょう。


私コメント…
だから、…電車内・注射…と限定なのです。
それは、親からすれば、泣きたい理由が明確に分かっている場合です。


以下のコメント省略…
真面目によんでいたら…頭がバカにかりそうなので…