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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・お宅コメントへの私コメント

2021-12-31 17:39:13 | 滅ぼし合う対立物の統一

以下が前回の「お宅コメント」の続きである~


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「お宅コメントへの私コメント」





>コメントを書いた人
>ドゥルガー

>コメント
>お宅、否、お前の認識ならぬ観念が南郷継正の武道家として、そして指導者としての全てなんだよ。


私コメント~
その通り?!なのでしょうかね…♪♪♪
「武道家としての指導者」だから、武道としての空手、武道居合、武道合気…
を指導者としての責任において、それらの指導を全うしている、のでしょう。

学者としての南郷継正は言うなれば「おまけ」であり、
武道修業・修行を弁証法的・認識論的・論理学的…に実践した結果の「おまけ」ですかね…
と言うか、弁証法・哲学・学問を求めた結果である「武道家」が「おまけ」なのかも…




>お前の嘘八百が、全国の武道家たちの南郷の著述に対する不満であり怒りの正当性を語っているのだから。

私コメント~
お宅の私への「お前」とは下品で乱暴な呼び方ですね!
私のお宅への「お宅」の呼び方の方が上品ですよ!




>「武道の定義」=だから何?



私コメント~

え?「だから何?」とは…
お宅って~それでも人類?人間?なの!

お宅には、人類・人間が「道具」を創る時の、
創出物の目的意識・「定義」の必要性認識が全くない…とは驚きですね!

誰が…「ハサミ」を作るのに、
「挟んでモノを切る道具」の定義を無視して、
「穴掘りの道具」(定義)の道具を作りますか?


>「生命を懸けた」=だから何なの?

私コメント~
またまた~「だから何なの?」とは、泣けてくるね…涙・涙・涙

それでも…お答しましょう!
いいですか~よ~く・目を大きく見開いて確り誤読・誤解のないようお読みなさい!
それはね~
「自分にとって自分の人生で一番大切・大事な生命」さえも失える覚悟・精神の創出・養成の為でしょうが…


>「南郷継正にも言いたいことがある」=だから何だって言うんだい?人間だったら誰にだって言いたいことぐらいあるだろう。

「だから教えてあげよう!」
「生命の賭ける・失える覚悟」を、普通には「必死」と言うでしょうが…
そして、「人が物事を必死に頑張りやり通す」事ができた時、
そこに大いなる結果・成果が得られる事は、誰もにとって「一般的常識」ですよね!
だから…言葉としての「必死」ではなく、論理として精神としての「必死」修得の為ですよ!

こんな普通の常識も失念してしまう程に
お宅は「南郷氏に恨みがある」のですね(…憐憫の情…)

問題は、「言いたい事を言う」ではなく…
その「言いたい事の中身」と「その正しい理解」なのでしょうね…



>そして戦後の日本で空手の道場として成立している以上は、南郷が批判した全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟のように「生命のやり取りなどない、安全性に気を配った道場経営をしている」のに変わりはない。


私コメント~

空手道場で「スポーツ空手」や「健康空手」を教えても問題はない…のでしょうね。
「スポーツ」空手なのに、「武道」としての空手を教えるなら…少々問題はありますが…
それでも…その空手組織・道場主が
「現代武道=現代スポーツ」とでも、定義して教えれば、特に問題ないのでは…

個人的・組織的に「穴を掘る道具」としての「ハサミ」を作って、
「穴掘りハサミ」として売る事に問題がないのと同じようにね…

そもそも…
その組織に所属する人達が問題を感じなければいいんじゃない?!



>南郷の言う「生命がけ」というのは「日本刀は美術品として鑑賞するものでなく人を斬るもの」ということであり、「空手の突きや蹴りは寸止めで筋肉を鍛えて健康増進するもの」ではなく人体を加撃して相手を殺すもの、という意味だからだ。自分が相手を殺そうとする以上、相手も自分を殺そうとしてくる。相手を殺せなかったら自分が殺される。だから「生命がけ」なわけだ。



私コメント~
これも誤解・誤読ですね!
南郷氏の武道の定義は、
「武技を用いて生命を賭けた命懸け勝負の道」であり、
決して「生命を賭けた殺し合い」ではありません。
あくまで、最悪・最難関の「勝負の道」が「敗北=死」となるのでしょう。
弁証法的に書くなら、「最悪の事態を想定して、最善の結果を求めていく」モノでしょうが…

お宅って…南郷氏の著書を読んでいるのに…
今に至っても全くもって「弁証法的思考」ができない…のですね!


>南郷は全日本剣道連盟や全日本柔道連盟、全日本空手道連盟を向こうに回して「お前ら皆んな間違ってる。俺が正しいんだ」と威張りたかったんだ。

私コメント…

「威張のたかった」とは…それは「お宅の意識・認識」でしょうね…
だから、私を「お前!」と偉そうで乱暴な呼び方でしょうが…
これって「人は自己の認識・能力の範囲内で他人を認識する」ですね…




>お前の持ってる自信なんかは「生命がけの勝負」なんぞしなくても普通の社会人として成長していく過程で養われるもので、普通に人と会って談笑したり自分の意見を言ったりする自信を持つのに空手の自由組手なんぞ経験する必要はない。


私コメント…

凄いビックリ!
お宅には、「私の自信の中身」が分かるんだ…
しかし、それは誤解ですね。

それに…私は「観念的な生命賭け」を他人との勝負で実践した事はありません。
それでも、何度か下手すれば、死ぬ可能性ある失敗や事故に出会っています。
その時に感じた事は、「現実の『死』を意識できなかった」から、
自然体に体が危険を回避していた…ようだという事です。

私の過去の経験から言って、
少林寺拳法の「乱取り」も、寸止め空手の「自由組手」も、
「生命賭け」を意識するには至難です。



>お前が仮に、玄和会の実戦部隊を代表する田島翔鷹だとしたならば、その玄和会代表が私の前で顔に恐怖の表情を浮かべた事実だけは指摘しておこう。

私コメント~
お宅の「前で顔に恐怖の表情…」それって!超納得できます。

「文は人なり」ですから…
お宅のような妄想狂・変人・狂人を現実界で目の当たりにしたら…
普通の正常な人々なら
『ヤバい!(恐怖!)』、
『こんな狂人と関わって勝負したら、自分の人生も狂ってしまう!』
『ここは、逃げるが勝だ!』と思うでしようね…

だって…
狂人が「勝利して人を殺しても無罪でしょうが…」
正常人なら「狂人を殺して『殺人者』となり、まともな人生からの逸脱」です。

そもそも…「生命賭けの勝負」とは、その当人が決定した勝負ですよ。
どこの誰が…お宅のような狂人相手に「生命賭けの勝負」をしますか…

お宅には、
「生命賭けの勝負の道」での、
相手の強さに「恐怖する表情」と、
自分が勝利した結果に対する「デメリットに対する恐怖する表情」と、
または、真剣に闘って「勝利して相手を殺してしまった時の恐怖する表情」と、
相違を分かってしませんね。

そもそも…
「生命の賭けた勝負の道」の意味が分かっていますか?
「道」ですよ!
過去の武道勝負・決闘は「敗北=死」であても、それは、勝負の道の過程的事実であり、
現代の勝負では、生命を賭けて負けても「現実の死」は皆無でしょうね…
そもそも…現代社会で~
真面目に「必死」に物事に取り組んで、失敗して現実に死んだ人がいますか?
現代の「必死」がこのレベルなら…現実の死は、非現実的です。

だから武道では、
観念的な「武道の定義」とは、観念的な「死」を修行するモノで、
現実的な「肉体の死」を通して「修業」するモノではありません。


>人間、誰しも恐怖心はあるものだから別にそれがどうしたわけでもないわけだが、玄和空手を真面目に稽古して飛翔隊の副長だとか肩書きはついたとて、見知らぬ相手に間合いを詰められたなら恐怖のために顔を引き攣らせる。

私コメント…
ヤッパリ何も分かっていない!
「勝負の道」とは、双方の同意の上の「勝負」であり、
勝負する必要のない相手に恐怖したから…何だっていうの?

「見知らぬ相手に間合いを詰められて恐怖」する人間のレベルを知らない!ね…
昔に読んだ漫画「男一匹ガキ大将」の中で以下のようなくだりがありましたよ。

ガキ大将(主人公)が、一人のただの老人と対面して恐怖した時、
その老人曰く、「お前は、鏡に映った、機関銃を構えている自分の姿」をみて恐怖した」

即ち、玄和空手達人達の恐怖とは、相手に映った己に恐怖している…
または、勝負する必要のない相手に襲われて瞬間的に倒してしまう…結果に対する恐怖かな…



>だが、そんなことは「だから何?それがどうしたの?」というだけのことでしかない。自信があろうが無かろうが、恐怖に顔を引き攣らせて小便をもらそうが、生命をかけていようが無かろうが、「だから何?それがどうしたの?」という唯それだけ。

私コメント…

そもそも普通の人々なら、道端で近寄って来た狂犬に恐怖するのは普通ですよ。
それでも、市役所の人なら、狂犬と確りと退治しますが…。

お宅が、他人から恐怖されるのは、
お宅の人間力ではなく、
お宅の狂人力なのでしょうね…


>そして全てを相手のせいにするウンコ南郷の配下。私に南郷の本を読まないように強要するのでなく、南郷に本の出版を止めるよう進言することもできないタワケうんこ。

私コメント~
高校時代も大学時代にも、各教科で先生・教授から教科書を指定され買ったモノです。
責任ある教育者や指導者なら役立つ・勉強になる書物・論文を指定するモノですよ。

それを買うか買わないかは、本人の意志の問題です。
組織に所属して組織指定の教書や論文を読むのが嫌なら、
その組織を脱退すればいいだけですよ。


過去に極真会館の通信教育を受けて時には、
高価な教科書や空手着を買わされましたよ!

玄和会に限らず…組織というモノは、そのようなモノです。
お宅は、玄和会以外の組織の実情を知らな過ぎますね。











お宅コメントへの私コメント

2021-12-30 10:38:46 | 滅ぼし合う対立物の統一

お宅コメントへの私コメント

以下のお宅コメントへのコメントは一言で書くなら~
それらは、全てお宅の妄想に次ぐ妄想の結果です。



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「武道」について…

・コメントを書いた人
ドゥルガー




>・コメント
>自由びとさんの心情としてご自分が学んでいるものや所属している団体を一足飛びに擁護したいのは理解できますが…。


私コメント~
これは、お宅の事実誤認でしょうね…
確かに過去に所属していた団体ですが…
今・現在は「所属している団体」ではありません。
私は、ただただ「武道の定義」に納得できているから取り上げたのです。
それに、お宅のような誤解・誤読する者が多いようなので…


>一応、そうした心情は置いておいて南郷さんが実際に書いて世に問うたものの価値というものを真面目に考えてみることも意味のあることだと思われますね。

私コメント~
お宅にとっての「価値」と私の「価値」の中身には相違があるでし…
お宅の「価値」が多くの人々の「価値」と一致するとは思えませんが…

また、「お宅の真面目に」と「私の真面目」の中身も雲泥の差かあるようだし…
このように誤解・誤読の多いお宅の真面目は、私の真面目ではありません!



>自由びとさんが言ってる「自分に自信をつけるための武道」というのは、おそらくは「現代武道」として南郷さんが否定したものと同じ考え方でしょう。


私コメント
「自由びとさんが言って」いません・書いていません!
これはお宅の誤解・誤読です。

「私にとっての武道」と「武道の定義」は違います。
「武道体得」を目的に頑張った、私の結果が「自信」なのです。
武道の定義の従って、武術修業・武道修行した結果が私の自信なのです。

南郷氏の否定しているのは、「現代武道」ではなく、
現代の「武道の捉え方・修得過程」ですよ。
これも誤解・誤読ですね。


>南郷さんが「現代武道批判」ということで「スポーツでもなければ人格陶冶でもない武道」というのは、南郷さんが具体的に挙げている事例を検討していけば自ずから見えて来るように思います。

私コメント
お宅~南郷氏の「現代武道批判」を理解できていませんね。
武道をスポーツ・人格陶冶的にするのは個人の自由です。
それでも「武道の定義」としては、武道はスポーツでも、人格陶冶でもない…という事です。

これは「本来の武道の目的」と「自己の武道の目的」の相違ですね。
ハサミは「モノを切る」為に作られたモノですが…
目的として、人を傷つける為にも使用可能です。

だから…「武道の定義」に従って武道を体得できても、
何も「生命を賭けた勝負」をする必要はありません。



>南郷さんが武道を説くに挙げている事例は「西部劇のガンマン」だとか「浅沼稲次郎暗殺事件」だとか「戦場」だとか「死刑囚」だとか「宮本武蔵」や「大菩薩峠の机竜之介」や「千葉周作」「清水の次郎長」「新撰組」といった本当に人が生命を失っていた時代の生命を失った事例ばかりなんです。

私コメント
だから…何なの?


>そして、生命がかかっていない勝負の中からは「五輪書」や「兵法家伝書」のような極意は生まれてこないと説いていたように記憶していますね。

私コメント~
だから何?



>ですから少なくとも南郷さんの頭の中では本当に負けたら命を失うような勝負の世界が思い描かれていたのだと思いますし、それは道場での習慣化された稽古(日常性)にではなく暴漢に襲われる(非日常性)などの事例を想定していたと思われます。

私コメント~
それで?



>それを考えたなら、ケガしないように防具をつけた組手だとか、個人個人に合わせた上達論的試合なんてものは全く生命に関わりませんから命懸けなんかではありません。

私コメント~
お宅は、「武道の理論」の「創ると使う」が、全く分かっていませんね。
自動車教習所で、安全に運転を習ったとしても、
現実の道路では、死にそうな事故にあいそうになります。
運転実技を習得したなら、事故を想定した運転も必要となります。

だから…武道は(修業ではなく)修行なのです。
現実の死を想定して、それをどれだけ本物・事実だと思える訓練して、
それでも平常心の維持が…

お宅って…小学校の避難訓練を馬鹿にしている不真面目小学生レベルですね。
そうそう…一人だけ避難訓練中に、
「先生…『怖い』…」と真剣に怖がっていた一年生男子児童がいましたが…
全ての児童が、その子レベルの恐怖で避難訓練ができれば…
本物の火事・地震…災害があっても安心なのですが…




>南郷さんが説いたような「現代武道ではなく歴史的な武道」といったなら、間違いなく日本では実際に剣術を用いて相手の生命を奪っていた時代がありますし、生命がかかっていたのでしょうが、それを復活させる必然性があるのは警察官や自衛官、要人警護などの実際に仕事中に殺される可能性があって家族に「殉職したときは覚悟しているように」と伝えている者たちだと思います。

私コメント

お宅は現代社会を分かっていません。
最近、一般人が通勤・通学・買い物移動中に電車内で殺されたり、死にそうな目にあっています。
それでも…一般人でも「死を覚悟」が可能な自己認識の創像を不要だと思いますか?!


>つまりは「プロフェッショナル」の場合であって、趣味でやってる人間に生命なんかかかっていない、と。


私コメント…

お宅の「プロフェショナル」って趣味でやれるの???
私は「プロフェショナル」とは、
それを仕事にして稼ぐ人だと思っていますが…

私は、趣味で武道をやっている・教えている場合は、
「プロフェショナル」だとは思いません!

もっとも…
スポーツ的武道や健康・体操的武道の「プロフェショナル」なら勿論「死の覚悟」は不要ですがね。


自由びとからお宅への忠告!

お宅は南郷氏の著書は読まない方が無難ですよ。
私からみれば、全く南郷氏の伝えたい事が理解できていない…
なのに…理解している・分かっている…と思い込んでいる。
そんなお宅には、私へのコメントも南郷批判も時間の無駄使いですよ!




「臨済義玄」コメントへ

2021-12-01 12:13:57 | 滅ぼし合う対立物の統一

「臨済義玄」コメントへ

以下のコメントへの問いかけを~
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「絶対矛盾」について…



「・コメントを書いた人」(2021 11 22 月)

「臨済義玄」
↑~
こいつは何者?



「・コメント」
「私が既に投稿している「ゼノンのパラドックスは絶対矛盾である」との南郷さんの考えへの反論が公開される前に次の投稿を送るのも「勿体ない」というレベルの慈善事業的・奉仕的な行為であるが、
自由びとさんには未知のこととして理解するのが困難ではあろうが、「打ち出の小槌」という知的見解をドンドンと量産してくれる「弁証法の技化」という現実の存在を示しておくことも後進のためにはなろう。む

自己満の塊!?




「自由びとさんが記述している「弁証法と弁証法性」との理解は全くもって駄論というか阿呆そのものです。私のことを「馬鹿だ、馬鹿だ」と書いてくれたから遠慮なく述べるが(敵に塩を送るが?ww)、「弁証法は変化・運動の科学であり、弁証法性とは現実世界の変化・運動する性格」という理解は阿呆そのものなんです。」

私の「馬鹿の概念」を知っていて、
私を「馬鹿」呼ばわりしているのだろうか?



「もしかしたなら「弁証法性とは?」についての概念規定に関わる発言をしたのは人類史において私が最初なのかも知れませんが(そんなことあるの?)、「現実世界の変化・運動する性格」が弁証法性ではありませんよ、人類の学問史から顧みたならば。」

本当に「上記のように信じているなら」~
即「論文・書籍化して出版する事を勧めます!」よ~




「「弁証法」というのは「人間の思考の中で」対立関係の事柄を云々する技術として発生して発展してきたもので、
それが即ち「人類の学問の内実」となっています。」

そうなのですか!?
弁証法も十人十色で千差万別ですね!



「だから自由びとさんでも理解可能なように?発言したならば、「アキレスが疾走して場所を移動している」ことは全く弁証法的ではありません。」

そんなの当たり前でしょうが…何を今さら書くの?
アキレスが亀との競争で、アキレスがゴールを目標とせず、
敢えて眼前を走行している自分より遅い亀を目標にしたからの「絶対矛盾」ですよ。




「「運動・変化と静止」という対立関係を合わせて取り上げる「対立物の統一」こそが「弁証法」であり「ソクラテスの産婆術」だったわけです。」

「静止と運動」から始まるのは物理学の世界ですね!
弁証法の始まりは、この世界の中での「運動とは?」「静止とは?」…ですね…!



「そのことが、例えば物理学における「運動と静止との区別」から「どうして運動するのか?」という運動の原因や「どうして静止しているのか?」という静止の原因が判断できていき、「運動するのは力が加わっているからだ」「静止しているのは力が加わっていないからだ」といった因果関係を特定できていき、
さらには「ダルマ落としで下の積木を弾いたならダルマは下に移動する」といった事実から、「静止していた物にも力は加わっていたのだ!ただ、他の力と釣り合っていたから静止していたのだ!」という理由が理解できていきます。」

そうそう物理学の世界ですよ!



「このように「人間の思考、観念の中で対立関係として取り上げることで現実世界の様々な事柄=構造?が把握されていくような《現実世界に秘められている性格》」を「弁証法性」というのです。」

そもそも~現代人なら兎も角…
過去の人類にとって、初めから「対立物」とは何か?分かっていた筈はないしょ!



「そこから三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』に述べているような「ここの弁証法的な関係を究明することで予測できることがある!」との能動的な思考活動が出来るわけです。」

「対立物の特定」ができ難い人類に、どんな「思考活動」が期待できるの?





「このことは、貴兄が書いた「弁証法は変化・運動の科学で、弁証法性は現実世界の変化・運動する性格」といった阿呆丸出しの話しではなく、哲学史的にはカントの「コペルニクス的転回」を踏まえた、
あるいは南郷さんの『武道への道』の「頭の働きとは」の「自分が認知したことを自分なりに整理しておくのが論理だ」といったことに関わる、
「頭の中にそのように整理できる性格が現実世界にある!」ということが「弁証法性」ということの根幹なのだと私は理解していますね。」

いいじゃない…それで~
お宅の自由びとの「弁証法性と弁証法」が、異なっていても別に問題ないでしょうが…




「もしも、阿呆丸出しの貴兄が南郷学派の悠季真理だとしたならば、『学城』の「ギリシャ哲学への招待」は皆んなが知らないギリシャ哲学の知識を知っていたというだけで、南郷さんが重要視していた「論理能力」を持ち合わせていない輩が書いたものだと理解できると思いますね。」

「馬鹿なお宅」と「阿呆丸出しの」自由びとの
記述が一致するのは至難の技ですね♪♪♪♪




そもそも…神にしても、絶対精神にしも、モノ自体論にしても…
それらの言葉は、人類が未知のモノへの命名であり、誰もその中身・内実を事実確認できていないでしょう…
それらは、全て人類の観念内でのモノ…とう事なのです。
ならば、それらの言葉を出発点として、
如何に現代科学の知識を総括・統合できるか…が問題なのです。

「神」概念を用いて、現代社会の全ての物事・事柄を全人類に納得できるか?
「絶対精神」を用いて…
「モノ自体論」を用いて…


お宅のように、部分的なお宅の自己満的な言説にも、なかなか面白いモノがありますが…
まあ…お宅は一生お宅のまま生きていく…のが宿命な運命ですかね…
でも~自由びとは、自由な者として、変幻自在化して一生を過ごしたいのですよ。

「一流」とういう言葉で書くなら、「一流の自由」獲得を目標としたのが「自由びと」的私なのです。
当然、それは、お宅が信じている「自由勝手」とは、異なっている「一流の変幻・自由自在」ですがね…




「臨済義玄」お宅へ…

2021-11-21 12:05:42 | 滅ぼし合う対立物の統一


「臨済義玄」お宅コメントへの自由びとコメント…



私は、妄想には、
自分に役立つ正しい妄想の仕方と、
自分をダメにする間違った妄想の仕方がある、と考えている。

正しい妄想とは、他人の事実と自分の事実を比較して、
異なっていた時、その他人の事実が自分の成長に役立つモノなら、
それが己の事実であるかのように妄想する仕方、
ダメな妄想とは、自分の事実を他人に押し付けて、それがその者の事実であるかのように妄想する仕方」

良い妄想の仕方、他人の事実は自分の事実(他人に出来るなら自分にも出来る)
悪い妄想の仕方、自分の事実が他人の事実(他人に出来ても自分には出来ない)


以下は、そのダメ妄想の見本の典型である。
私、この「臨済義玄」の現実生活を知らない。

この「臨済義玄」お宅も現実の私を知らない…
更に「臨済義玄」お宅は、このブログで書かれている私の事実を全て嘘だと信じている。
これで、以下のようなコメントが書けているとは…

「臨済義玄」お宅にとっては、有名人・学者・一流の人々の言葉・知識が正しい・事実…だと思い込んでいるようである。




以下のコメントは、内容があまりには、妄想が個人的・非社会的である。


・コメントが届いた記事
いのち歴史の弁証法性~

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/ab4f8737330803769809dd7627d3fa24

・コメントを書いた人
臨済義玄

・コメント


「ちょっと失礼な言い方になるかも知れませんけど、自由びとさんの生き方は南郷さんが説いて導いている生き方とは違うように思います。」


<こいつは馬鹿か?>
<何をもって「南郷さんの説いて導いている生き方と違うように思」ったか?>



「自由びとさんの「自由自在に生きる」という目標は抽象的すぎて私には皆目理解できませんけど、南郷さんが『弁証法・認識論への道』で説いていたのは「一流の人生」ということで、実社会で「一流の人」だと評価されるような人物になれということじゃないかと思いますよ。」


<ヤッパリ馬鹿だ!>
<私の自由自在を分かっていないのに…>
<南郷氏は、『一流を目指して努力・頑張れと書いていて、一流になれと書いていない』>



「そのためには自分が将来どうなりたいのか?の見本となるような師匠を見つけて弟子入りする必要があると思いますね。」


<ここも馬鹿な記述だ!>
<南郷氏には、現実に師匠なく、書物の中の人物を師匠としていた…>



「私も結構いい年齢までそのように自分のロールモデルとなる「この人みたいになりたい!」と思う人を見つけて真似をして生きるということをして来ずに自分の考えだけで生きてきましたから、大したレベルには到達できずに来てしまいました。」

<それは、その人の認識を学ぶべきであり、その人自身を学ぶ必要はない>
<どんなに真似ても、自分は他人そのモノには、なり切れないモノであろう>

「私は玄和会でも南郷学派でもありませんけど、見習うべきところは沢山あると思うんです。

自由びとさんは具体的な個人名を挙げることを嫌いますけど、やはり見習うべき個人をシッカリと見定める必要があると思いますね。「大志だ何だ」といったことは、そのもっともっと後のことで、さもなければ自分が頭に描いた大志とやらの重圧に負けて生きて行けなくなりさえしますから。」


<犯罪者を見習えば犯罪者化するだろうに…>
<その重圧に耐えるのが「オス!」=押して忍⇒重圧を押し返して忍び耐える>

「亡くなった××さんも就職した保育園の園長先生を目標に「あのような保育士になりたい」と頑張ったのだと思いますし、×××さんも業界で凄腕だと評判の治療家に弟子入りして目指し続けましたでしょう?」


<だから…私は南郷氏の弁証法・悟り・悟得の境地に到達したく南郷氏から学び続けている>
<南郷氏は精神であり、個人的実態でない>


「大体が『学城』に執筆してる人たちは専門分野で結構高い地位についてるみたいで、ネットなんかで見ると××さんなんかも大学教授になって放送大学なんかでも番組もってるみたいですしね。
放送大学で看護学の授業をするなんて、私はむかし薄井坦子さんの放送大学の授業を見たことがありますけど、看護学で国立大学の教授から学長になって全て自分の意向のカリキュラムにしたなんてのは、その分野じゃ最高の成功者・成功事例でしょう。」


<彼らは、南郷氏から南郷氏の弁証法を習得・体得し、それを現実世界へ適用・駆使した結果に過ぎない>


「××さんなんかは大学で学生に指導しつつも埼玉県の看護協会で現場で働いている看護師さんたちにも指導してるみたいですし、現場で管理職なんかやってる指導者を指導する「先生の先生」みたいなことしてるみたいですから、やはり目標をシッカリ見定めて歩いてきたのだろうと敬服しますよ。む


<これって、お宅と他人の比較? それとも自由びと他人比較?>


「『学城』の真似をしている『自由學藝』の執筆者さんたちも、それぞれの専門分野の超一流だと評価されてる人たちに実際に弟子入りして学び続けたみたいですし、私も自分の師匠はシッカリと見定めて学び続けています。」


<ならば問おう!>
<お宅は、その師匠から「他人を批判しろ!」精神を学んだの?>
<他人の言説を一々貶し、否定し、…続ける事を学んだの?>

<南郷氏は書いている…『私には師がいなかった』>
<だから…先入観なく、ここまで到達した!>


「自分なんかの独力なんかじゃ無理ですよ、たかが知れてますから、出来ることなんか(笑)。

だから南郷さんが何処かに「ヘレンケラーが凄いのではなく、サリバン先生が凄いのだ!」と書いていたように、みなそれぞれに自分の分野のサリバン先生を探して師事したのだと思います。む」


<分野別に学べるのは、専門的知識であり、その専門性・専門的な弁証法>
<一般的な弁証法・弁証法一般は学べません>
<上記の弁証法が学べないと、専門的知識・部分的知識のままで終了>
<だから…南郷氏の著書や南郷学派の記述に学んできたのだ…>


「××さんなんかは自分が師事した園長先生の実名を出してましたけど、名前を出してない××さんや××さん、××さんとか絶対に目標にして真似した医学・医療の専門分野の師匠がいたはずですよ。」

<は~は…お宅には理解でないようである…>
<彼らの師匠は、現実・事実の弁証法性である事が…>


「さもなければ、自分だけの独創で歩んだとしたなら到達した地位が高すぎます。」

<これって…お宅の嫉妬心?!>


「自由びとさんは南郷さんに憧れて「私は南郷継正である!」なんて書いていたことありますけど空手家を本職にする気はないのでしょう?南郷さんのように空手家として収入を得ていくのでしたら毎日の練習もしないといけないでしょうし、税務署の手続きなんかも学ばねばならないでしょ?」


<本当にヤッパリ分かっていない!>
<私の目的・目標は、初めから「玄和会・南郷・武道空手を通しての悟り」の体得である事が…>
<馬鹿!私は不動産・家賃・収入で毎年に確定申告を自分でやっているよ!>


「今は学校の教員ですから税金は天引きで自分で確定申告する必要もないでしょうけど、自分の道場を開いて月謝を取って教えるようになったら事業主として所得税の支払いも自分でやらねばならないでしょう。
おそらく南郷さんも毎年毎年、税務署に行って確定申告してたと思いますよ。」


<馬鹿・バカ・大馬鹿!お宅は自由びとの現実・事実を全く知らないのに…>
<お宅の自分勝手な妄想で自由びと現実を確定している>


以下は、お宅の妄想の発展的記述…阿保らしくなったので終了!
と思ったけど…
<私の考える「人間の強さ」とは、道具を駆使可能な人間の強さとは、その精神の強靭さ」







「そういう現実的な生業をしないで「ボランティア」なんて阿呆なこと言ってて一流の人生なんぞ見えないんじゃないかと思いますよ。

でも自由びとさんの文章を読んでると空手家として生きて行くような気概や覇気は感じませんねぇ。
何となく「今やってる教員補助の仕事は生活費のために仕方なくやってるけど、これが私の本当にやりたかった仕事なんかじゃ無い!」みたいな、南郷さんが書いてる本を読んでるほうが面白いから、それを題材に文章にしてるだけ、みたいな後ろ向きの人生を感じちゃうんですよね。」


<私が求めていたのは、人生を自由自在に生き抜く精神的強さと人生・世界・心・頭の「悟り」であり「悟得」>


「やっぱり××さんとか×××さんとか、×××さんとか××××さんなんかを見てると「一流の人生を目指す!」というのは教員補助を目指して教員補助の真似をして「将来は一流の教員補助、もしくは乞食」なんて思想にはならないのでは無いか?と思いますよ。」


<だから…私は一流を求めていません。それでも一流を使うなら>
<「一流>の「悟り」と「悟得」の体得ですかね…>


「義務教育の関係者だったら校長だとか教頭だとか、あるいはもっと別の腕のいい授業をしてる先生だったりするんじゃないか?と思いますね。」


<お宅の思いで自由びとの思いではありません!>


「そうした目標だとか師匠だとかが何をどうしているのか観察して真似をすれば、自分で一から考える必要がありませんから「大志」だなんだと空虚なことを考えなくても良いのでは?」

<馬鹿!バカ!大馬鹿!>
<過去に何も考えずに一流企業に就職した者達が、会社倒産でホームレスになったりしたのに…>
<「大志」とは、現実の理想像ではなく、論理的・観念的な理想像なのに…>



「私から見ると自由びとさんは弱いんだと思います。空手をやっても弱さを克服できなかったんだと思う。
それが南郷さんへの依頼心というか、自分の主体的な生き方を持っていなくて、自分より弱そうな人間を見つけて虚勢を張りたいのだと感じます。」


<お宅の幻覚ですね!>
<仮に自由びとが弱い者なら、お宅は弱い者をイジメている弱虫であろう>
<「弱い者」=人間以下の「弱虫」=虫レベルですよ!>
 
「南郷さんは自由びとさんがここに書いてあるようなことを書いてることを喜んでいるんでしょうか?

私にはそうは思えませんね。」


<南郷氏が、自由びとブログ=精神世界を除いて、一々喜ばないでしょうね…
<お宅は、私の精神世界へ土足で踏み込んで>
<お宅の勝手に妄想する事実を自由びとの事実だと思い込んでいる…>
<これが現実世界なら、精神異常者ですよ!>

<それって、お宅の観念内だけの「自由びと想い」が、自分の外の「現実的な自由びと」存在と思い込んでいる…>

もしかして…お宅って「自由びとに惚れているね♪♪♪
それって…「一目ぼれ」ではなく、「一読ぼれ」なのかもね…