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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

一村コメントvs私コメント

2022-06-15 20:06:54 | 滅ぼし合う対立物の統一

▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
お宅のコメントへの私コメント…



・コメントを書いた人


・コメント
>>科学の歴史は過去の仮説の否定・覆しからの新仮説の

>それは初めて聞きましたね。南郷先生が推奨していたシュテーリッヒの『西洋科学史』にもそんなことは書いてなかったように思いますね。

>自然科学の歴史は実験だとか実証だとか検証だとかで部分的な確かな知見が集積していって、それが結果として過去の哲学的な仮説や謬見が覆されることはあっても、科学そのものは既にある誰かの説を否定して覆えすためにあるのでも、覆すことを目的とするものでもないように思われますね。


私のブログ記述のどこに…「覆すことを目的」なんて書いていますか?!
そうか…お宅のコメント記述は、
私のブログ言説を覆る事を目的にしている…という事ですかね…
そもそも…科学者の前学説の否定は、
事実⇒真実⇒真理へ接近・到達する為の「滅ぼし合う対立物の統一」ですよ。





>私はもちろん真正の科学者なんぞではありませんけど、理化学研究所だとか大学の研究所での科学的研究を一般公開してるところに見に行ったりしますけど、科学の魅力は「今まで誰も考えなかったことを考えついて検証する」ところにあるように思いますし、実際の科学者・研究者がやってる研究には「え?そんなこと考えたんだ!」とビックリすることが多くて、「それは誰を否定しようとする研究なのかな?」みたいに思える研究者は少ないような気がしますけどね。
>ダーウィンの進化論なんかも結果としてラマルクの学説を否定する形になったのかも知れませんけど、重要なのはビーグル号でマダガスカルへ行って、そこで実際に見た生物から発想したというところじゃないかと思いますね。
>だから、そこに付随するのは「新しい事実の発見」で、医学の歴史なんかでも「既成の学説を覆す」よりも「新たな事実を発見する」ことが重要だった気がしますね。


W先生は、科学の歴史的な変遷・過程を俯瞰しての結論です。

お宅の言葉で書くなら、
W先生は、>科学史を新たな視点で俯瞰することで、「新たな事実を発見」しての言葉。
このように理解できないお宅の論理能力不足ですかね。




>その恩師のW先生の著書というのが公刊されているのなら教えてもらいたいものですね。

W先生は、渡辺康麿 - Wikipediaです。
御著書に書かれているかは、知りませんが…
私は、先生の御自身の生い立ち、就職、転職…
色々と苦悩した時の話の中でその言葉を聞きました。

まあ~先生の御本でも、お読みになって、
少しはまともな思考が可能なお宅化して下さいな!



お宅のコメントへの私コメント…

2022-06-14 16:59:39 | 滅ぼし合う対立物の統一


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
一村コメントへの私コメント
・コメントを書いた人


・コメント
>何かまた色々と言葉を書いてますね。



そうですね…
ネットで言葉ではない絵で描ける私だったら、
今よりもっと自由に表現できて、嬉しいのに…


>ネットからの引用でなく自由びとさん自身の言葉に戻ったことで自由びとさん本来の空虚な発言に帰りましたね。

↑~
お宅が「空虚」と感じるのは、私の言葉の内容内実を感覚不能で空虚と認識・像化するから
言うなれば、全てがお宅の誤解・錯覚…ですね、


>自由びとさんが書いているのは確かに文字であり言葉です。
>「ふーん、何か書いてるな」ぐらいが私の自由びとさんの記載を読んだ感想ですけどね。



この感想が、お宅の現在の認識能力ですね。
まあ~それは、それで、良いんじゃない…


>>「全面教育」でなく「全人教育」

>確かに「全人教育」という言葉はありますね。ですが、私が「全面教育」と記述したのは「庄司和晃の全面教育」を想起してですし、南郷先生が「子どもの理科教育としての仮説実験授業を宗教学を専攻していた庄司和晃が認識の3段階連関理論を構築しながら推進した凄さ」と述べ、薄井坦子先生の看護師教育の現場に庄司さんが招かれて認識論の手解きをした」という事実を想定しての「全面教育」という発言であり、小原國芳の「全人教育」ではありません。


そうそう大正解です>小原國芳の「全人教育」<!
だから、おこれは、宅と私の教育観の相違なのです。
私の教育を「全面教育」という言葉では、表現不能たからの「全人教育」なのです。
お宅って…このような、他人と自分の相違が理解不能なの?




>お宅は相手の発言を相手の立場に二重化して読み取る能力を持ってないようですね。


ここは私の個人ブログです。
お宅のコメントと私の記事に向かってのモノです。
お宅のコメントを求めていない私が!
何故に「お宅のコメント」と二重化する必要があるの?!
そんな事は、ここては、不要で無用なモノだと私は思っています。


私は、私の考えたい事の参考に「お宅の言葉」を利用している…です。
私が、お宅のコメントに二重化したら、私の書きたい事から乖離してしまう危険が大なのです。

>お宅は私がお宅の発言をお宅が伝えようと意図したとおりに読み取れていないと言う。ならば、お宅も私の発言を私の真意を理解せずに文字面だけで読んでるとは何故に思えない?


私は、お宅に、そんな思い・二重化は致しません!
何故に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思う必要があるのですか…

私に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思えない事に、お宅が不満を感がるなら、
コメントを寄越すのを止めれば、いいだけ…てしょう。

私は、個々では、私の自由に理解して、自由に書くだけです。
私の自由な言説が不満なら、お宅の自由・意志でコメント止めればいいだけです。

私は、お宅のコメントを「他山の石」として、使えるのでコメントを書いているだけです。
お宅が、私コメントを糞だと思えるなら、
こんなクソ臭いブログから避難・離れればいいだけでしょうが…

お宅は、お宅の自由意志で、ここへコメントを書き込んでするのです。
私は、そのお宅のコメントを廃品として利用させて頂いているだけです。



>私と言語の概念が違うお宅が、どうして私の言葉や文章を理解できるはずもないでしょう。
従って、私たちは互いに理解し合うことのない言葉の羅列をしているだけのことで、それにしてはお宅の文章は心の乱れがありありと読み取れるのは、お宅は私の書いていることを自分を偽り誤魔化しながらも理解できているということですよ。


↑~
私のコメントから、私に理解出来ない・理解しようとしてない…なんて思えるなら…
私に理解してもらえないお宅コメントを寄越し続けるのをやめれば…

糞は糞と理解して、トイレ・水に流す事も自己決定・自由意志。
自分の肥しとして、利用するのも自由意志・自己意志。



>私は理解できるように書いているのだから当然のことですけどね。


子供が、自分は大人に理解できるいる…と確信して話していても、大人が理解できない事は多々あります。
当然に、この逆もありますが…


>>南郷氏の言葉を人生で再確認して

>それはそれは、結構なことです。ですが、私はあらためて南郷先生という人は凄い人だと思っています。それは「一流の人生を生きる」というテーマで還暦すぎて若人に熱く語りかけて導くなんてことは生半可なエネルギーでは出来ないからですよ。
だから、その南郷先生の文章に応えるには「自身の人生を一流たらんとして頑張ること」だとも思えるのですが、私は嘗て自由びとさんが書いた「南郷氏は一流の人生とは書いたが、一流になれとは書いていない」という何とも阿呆らしき発言が記憶から消えませんし、そんな阿呆を放言しながら南郷先生が推薦した国語辞典に拘泥するくらいなら、「男は黙ってサッポロビール」で自分の人生の構築に努めることが「南郷先生の弟子」を公称できる条件だと思えますけどね。

↑~


「人生を一流たらんと…」という理解はお宅の誤解ですね。


私は、南郷弁証法を私のこれまでの「人生のその時々の仕事の変化」の内容から、
弁証法的な変化・運動を再措定しているのです。




>薄井坦子さんだとか本田克也さんだとか、紛れもなく「一流の人物」だと言って恥ずかしくない方々ですし、私も日暮れて道遠し、ではあってもと心中深く考えているんですけどね。


30年前私なら兎も角…
今の私は「一流」なんて求めていませんよ。
私が、今求めているのは、南郷弁証法の体感・体得ですかね…。


お宅は、最後の最後まで、馬と鹿の区別と連関が出来ずに、
知識を皇帝の言葉だと思い込んで、知識・現代学問の結果が全て正しい…
モノだと思い込んでの大馬鹿者ですね…

科学の歴史は、過去の仮説の否定・覆しからの新仮説の誕生の連続…だそうです。
これは私の恩師であるW先生が自力で科学の歴史から措定した科学観…ですが…


>自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。


もっとも…↑なんて思い込んで言語化しているお宅には、
W先生の言葉は信じられない、でしょうが…~
可哀そうに…お宅は書けば書く程に、
真理から遠ざかっているように…私には思えますが…

もっとも…存在・実存しない「真理なんてない…、求めても無駄!」思っている人もいるようですが…




一村コメントへの私コメント

2022-06-14 15:42:42 | 滅ぼし合う対立物の統一



「音」について…

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>国語の教科書を離れて理科の教科書へ、自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。



定説の「結果・結論は信じても」…その「過程に問題があるかも」…と疑う。



>つまりは南郷学派の浅野さんが書いていたような「南郷先生が様々な専門分野の定説を覆えす形で講義をした」といったところに、頑張って頑張って定説の正しさを証明しようとすること、「学的世界における社会的な個」となるべく踏み止まることが学者になっていく道だと思います。


学者のなる事を求めるか、真理の追究を目指すかの相違。
または、現代の学者を目指すか、将来・未来に
「あの人は真の学者だった」と評価される学者を目指すかの相違。




>「音」の話しでいったなら、私が前の投稿に書いたように「空気の振動のうち聴覚で感覚できる可聴域が「音」であり、それ以外の振動は「音」では無い」というのが「日常生活的で常識的な」考え方かと思います。


それ以外は、人間にとっての「音」ではないが…
他の動物達には、「音」である。
だって…よく~、人には聞こえない「音」とう言っています。




>ですが、自然科学(物理学)の世界では、人間の聴覚可能な範囲を超えて振動一般が「音、サウンド」だとなっています。



え~物理の世界ではなく、普通に「イヌ笛」で音を出しているでしょう。


>弁証法の「相対的独立」という言葉は「相対的」という「関係がある、繋がっている」という言葉と、「独立」という「関係がない、繋がっていない」という相反する意味の言葉をくっつけたものですけど、
自然科学(物理学)の「音」の理解も「聴こえる」と「聴こえない」という相反することを「振動」という共通することで繋げて連続させています。



う~ん…
「聞こえる・聞こえない」ではなく、「音」として、感覚可能なモノ・刺激と感覚不能モノ・刺激。




>おそらく、これは科学・物理学の長い歴史の中で獲得されてきた世界観・科学観で、コペルニクスの地動説が「動いている」と「動いていない」とを別々のことではなく連続させ、それはアインシュタインの相対性理論にまで繋がっていく話しだと考えますね。



何と…見事な自分勝手な解釈ですね。
 


>そして、それは現在では心理学で正常と異常とを全く切り離された別々のことと理解するのではなく、光のスペクトルのように連続したものだと理解するに至ったものなのでしょう。



問題は、どのような原因・理由で、正常から異常に変化するのか?ですね!



>そうした「音」に関する理解は「人間の耳に聴こえる」といった日常生活を超えて、「音波」を「電磁波」と区別するための概念としたり、テクノロジーの発展によって人間の可聴域を超えた振動を増幅したり変換したりして可聴化するに至るのでしょうね。


だから、人間に感覚可能か?不能か?の問題ですね。
耳の鼓膜を振動させていても、その刺激が神経を伝わって頭脳に届いても、それを音と認識していない。
だって、耳に聞こえない「低周波音」でも、人体影響を及ばしている…
それは、その信号が頭脳に届いていての影響。
これは、鼓膜ではなく、全身の触覚が感覚するモノなのでしょうね…
同じ、空気の振動でも、聴覚から伝わり音と認識する場合と、全身の触覚から頭脳に伝わり「不快感」と感覚する場合がある…という事です。


>ですから自由びとさんが脳天気に「何の事はない、事実的なことは」などと小馬鹿にして述べた事柄だけでも、「全くもって自明なことではなかった、科学の発展によってもたらされた人類の叡智」だということが、青春時代に学問に励まずに「青春とは何だ!」なんぞをテレビで夢中で見ていた干からびた感性では理解できないわけです。




ヤッパリ誤解している。
ネットの図解で、耳の構造がハッキリした事が「何の事はない」なのです。
だって…ひと昔なら、専門の医学書を紐解いて初めて、あそこまで専門的の詳しい「耳の構造」を知る事が出来たのでしようね。




一村コメントへの私コメント

2022-06-14 10:23:09 | 滅ぼし合う対立物の統一


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「音・光」と「変化・運動」について…



・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>自由びとさんが唐突に「音とは何か?」と問うている、この「問いかけ」自体も問題になりますが、


↑~
うん…これは、失礼!
もう少し細かく書きましょう。


因みは、私の問い記述・言葉は
<『「音」って、何だろう?』>ですが…


問い⇒「音」って、何だろう?
答え⇒「音」とは文字・言葉。

問い⇒この単語「音」の意味は?
答え⇒辞書によると…以下です。


「例解新国語辞典」 [第四版]三省堂
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
「大きい」「小さい」「高い」「低い」などの区別がなされる。
①  耳に聞こえる響き。 ➁ 世間に聞こえている評判。③ たより。通信。

 「岩波 国語辞典」[第八版]
<音>①物の動き、こすれ、また、ぶつかって出る空気の震え(=疎密波)が耳に届いて聞こえるもの。…物理的性質は同じでも普通は声も含めない。<音(オン)>・ひびき・こえ
➁ 「―に聞く」の形で。鳴り響くうわさ・評判で多くの人に知れ渡っている。「―に聞く桜の名所」

いや~失敗でしたね…ネットではなく、

「例解新国語辞典」なら一発でしたで
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。
<音>空気の振動が耳に入り、鼓膜を振るわせる事によっておこる感覚。


…またまた失礼…
間違っているお宅へは、「三度目の正直」で<音>三発のプレゼントです。




>>何て事はない、ネットで検索すれば「音」と「耳」に関する事実的なことは一発で終了

>というネットで得られる情報へのある種の蔑視というか軽視の感情が私から見たら「お粗末」というか、軽蔑されるべきはネットで得られる詳細な情報ではなく「自由びと」という己れの存在のちっぽけさだろうに、と嘆息しますね。


他人の説明・発言は一発で知り得ますが…
それを見て知るだけでは知識ですよ。

知り得た知識を自分の事実的経験・体験で再確認が必要です。




>「思考過程としては、まあまあかな」なんてところは私の発言を形式的に模倣したようですが、ネットの引用だけで自分の思考がほとんどない記述に「思考過程」なんぞ無いでしょう。私は、私のコメントをこのように使われることに侮辱され冒涜されたような軽い怒りを感じますね。





お宅は以下のような二を区別できない馬鹿者ですよ。

一つ、自己の思考結果の「音の概念」とネットでの他人の概念の比較。
二つ、私の思考結果の「音の概念」と私の知識としての「音は概念」の相違。


「私が何を言語化したいか」が読み取れないのに…
読み取ったと確信してコメント寄越す馬鹿者。



>私は自由びとさんが「ここは私の精神世界」だと逃げを打ったことで、ある種の軽蔑感を抱いたというか、この人物は義務教育で人を指導するような人間じゃないと明確に理解しました。



>「逃げを打った…」
ヤッパリ私の言葉が分かっていないのに確信して書いている大馬鹿者。

私の思う「精神世界」とは、他人の目を気にしないで、
他人に迷惑かける事無く、思いっきり自由に
空想・幻想・思考・思惟・思索…可能な世界…という意味合いです。




>「ここ」って何処だ?と私は一瞬当惑したんですが、「ここ」というのは自由びとさんの精神世界の中ではなく「スマホで閲覧できるインターネット上のgooブログ」というコンピュータのプラットフォームの上での話しで、
それは「ソーシャル・ネット」という「社会性」を共有する場所で、
「日記」にしろ「評論」にしろ私的な考えを私的な場所で隠しておくのではなく、他者に公開することによって他者からの感想やらコメントやらを期待する場所なんだと思いますね。



「現実のネット界ブログ」と「私の記述記事・内容」の区別と連関が分からない大馬鹿者。

私の書いている「ここは」とは、私の記述の中での「ここ」です。

だから…正確には、
このネット界の、
この個人ブログの中の、
私の記述に書かれた、
その内容が私の世界ですね。

他人の迷惑が掛からない範囲で、好きに自由に書けるのが個人ブログです。
だから、他人に迷惑が掛からない・個人情報の暴露にならない範囲で自由に書いています。
自分自身の事を自分自身で、そこに他人の嫌がる情報を含まず書く、自由です。






>そのことによって自由びとさんは自分だけでは期待できない思考の発展が望み得るのでしょう。

弁証法の「滅ぼし合う統一物の対立」ですね。
私が、ここで望んでいる発展とは、弁証法の発展であり、変化・運動性の発展…
その為なら、「期待できない思考の発展」~「結構毛だらけ、猫はいだらけ」ですよ。


>現に自由びとさんの最初の記述は奥さんが「掛け算は掛け算であって足し算ではない」と言ったのに対して自由びとさんは「掛け算は足し算」だと言ったというだけのことで、
>自由びとさん自身は「その奥に入っていく、構造に立ち入る」ということは出来ない人間なんです。


分かっていないね…
この私の言葉への家内の反論が、またまた私の思考を深めた事が…

私が立ち入りたいのは、弁証法の構造です。
その為に、掛け算を足し算で考えようとしていた私の言葉です。





>私がチョコチョコとコメントしたことで自由びとさんの思索が進んだことは明らかで、その面では私と自由びとさんとの関係は「私が先生で自由びとさんが生徒」であるのは間違いないと自負してますよ。



確かに、お宅は、私の弁証法学習での為の「反面教師」ですね。

「お宅が先生」?!
…お宅は、私に弁証法を教えている…自覚があるのでしょうか?
~私は、お宅の言葉を弁証法の学習として生かしている自覚はありますが…






>「ここは私の精神世界」なんて逃げの発言が、自分の観念の外にコンピュータのハードウェアがあって、そこに自分も書き込めるし他者もコメントできるという現実が把握できていませんし、換言するならここで唯物論的な理解ができていない、自分が「悟りを求めて」を書いているプラットフォームも全てが自分の精神で観念だという観念論だし独我論だとも言える発言ですよ。



相変わらずの馬鹿者よ!

ブログに書かれた文字・記述の内容・世界が私の精神世界で、
それ以外は、外の世界だと私は考えています。


記述の内容が、
他人を気付ける事がなければ、許される合社会的な精神世界。
他人を傷つける個人情報の暴露記述内容なら、反社会的な精神世界。



>まあ、「音とは何か?」という問いかけ自体が問題となりますけど、「音は空気の振動」だというのは言いたいことは理解できますけど正確ではないと思いますね。

>時間をかけて熟考したものではないから後で修正が必要かも知れませんけど、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の「直接と媒介」でいったなら「音の直接的な面」は人間の耳から脳に至る感覚でしょうね。
そして「空気の振動」というのは、その直接的な面を媒介する存在で、
「聴覚」という生物の特殊な感覚器官が無ければ空気が振動していても、そこに「音」は無いわけで、生物の感覚器官があってもそれが反応できる「可聴域」と呼ばれる周波数での振動がなければ「音」としては感覚されないわけで。相互規定的だと言うことも可能かも知れませんけど、弁証法でいう「相対的独立」というんですか?「ある範囲で繋がっている、関係性がある」ことを、その関係性で捉えずに人間の聴覚とは切り離して「空気の振動」だと言ってしまうところは「物質科学の対象としての周波数の研究」から来るのかも知れませんけどね。


↑~

「音」があるのではなく、「音」とう文字があるのです。
そして、文字「音」は、ある現象にたいしての言葉です。
その現象もあるのではなく、起こる・発生するモノです。
その現象を人間が感覚したモノを「音」と名付けました。




>ここで「音」には「感覚(sensation)」と「知覚(perception)」という区別されるべき認識がある、ということは注意が必要でしょうね。


区別と連関で書くなら以下です。

音も感覚も知覚も全て文字・単語・言葉です。
音は自然的・人為的の働きの結果・現象です。
感覚・知覚は生物の脳の働きです。



>ですから「音」というのは耳から入って鼓膜を振動させて聴覚神経を介して脳の聴覚野にいく、という脳で感覚されたものなわけですが、聴覚神経によって聴覚野にいく外的な刺激は「空気の振動による鼓膜の振動」ばかりでなく、鼓膜の奥の蝸牛が骨の振動を聴覚として感覚するということの理解が、感覚器官から切り離して「空気の振動を音だと認識すること」が一面的だったことに気づかせてくれるんでしょう。いわゆる「気導音」と「骨導音」というやつですか?



「空気の振動を音だと認識すること」が音ではなく、
空気の振動を感覚した結果を、人間が「音」と名付け・呼んでいる、のです。


あるはずのない「音」が入ってくるとは…
幽霊が、家に入ってくる…と同じですね。




>さらにいうと「幻聴」というものの理解も「空気の振動」からではなく「聴覚器から脳に至る過去の音の記憶」から考えることができるのかも知れませんね。


幻聴とは、
外界・自分の聞こえる範囲にない筈の音、
それを自分の内界・頭脳内で感覚してしまう。
そのような「外界の変化・感覚」ではなく、その時の外界とは無関係な頭脳内の認識・音感覚。

幻視は、現実には見えていないモノを、
頭脳内で感覚してしまう。
トラウマ、フラッシュバック…とかですね。



>私も、この「音とは何か?」という自由びとさんみたいな問いかけというか、思索を10代後半にしてましたけど、今の年齢まで生きてみて(勉強してみて)感じるのは、「私が知りたいことは国語の教科書には書いてない」という自由びとさんの思考が向かう方向が自然科学の方向だということですよね。



私の記述が、そのように読み取れました…
また~それは私の自己認識の言語化能力不足ですね。

「教書に自分の知りたい事が、必ず書いてある」と思えるお宅は幸せ者ですね。
教科書のない時代の人々は、どのようにモノを知・識って、「教科書」を創っていったのでしょうね…

禅問答・修行で、何故にあれ程に答えの求めて苦しんだのでしょうね…
禅問答で他人の解答が認められないのは、何故でしょうね…



>つまりは「全脳的では無い」というか、教育でいったなら「全面教育的では無い」というか。まあ、だからどうだということじゃありませんけど、自然科学という狭い範囲にしぼっても「それはどういう過程で解ってきたのか?」という歴史性に向かう意識も自由びとさんには有りませんね。


全面教育ではなく、全人教育ですね。

多くの知識で全面的に教育するのではなく、
世界の全てを丸ごと体感・感覚可能な全人にするの教育。

全人だから、全てを自分の頭脳から分かるのです、
外界からの感覚・体感した刺激の全てを、
内界・頭脳内で、それらの外界の五感覚情報を、
頭脳で外界と同じように組み立てる。



>南郷先生の弟子を公称していながら滑稽ですけどね(笑)



お宅が「滑稽」だと確信する理由は、
お宅が、南郷氏の教えを誤解・確信しているつもり…
だからですよ。

南郷氏の教えは、
全てのモノコトを言葉・知識から…ではなく、
その言葉・知識の意味・示すモノの始まりを考えみよ!…

そのモノ・コトを個別・部分的に見るだけではなく、
そのモノ・コト変化・運動として考える。
始まり・過程・結果…全体的に考える。

過程には、過程の構造、構造の過程…

私は、このよう知識的に理解しています。
だから、南郷氏の言葉を人生の中で、再措定・再確認して…いるですね…



一村コメントへのコメント~

2022-06-11 13:36:09 | 滅ぼし合う対立物の統一




▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
一村氏へのコメント




・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント

>頑張ってコメント書いたものが一気に消えるとガックリしますね(汗)。気を取り直して再び書いてみます。

>>実際の教育現場を知らないのに
 
↑私の書いたこの「実際の教育現場を知らない」とは…以下のような意味合いです。

現代の小学校での具体的・事実的な教育内容を知らずに、
ニュースや他人の書いた、教育についての言説…だけから、
教育を論じるのは、非常に危ないモノになり得る」という事なのです。






>確かに私は義務教育の教員ではありませんし、自分に子どもがいませんから現在の小学校教育の現場を知りませんね。
でも、自分が書いたコメントを読み返して「全てを知っているわけではない人間が必要なことを求めて方向性を探していく論理的想像力・羅針盤」の問題として意味のある発言をしてはいるな、と思います。


仮に、「論理的な理想像・羅針盤」が、今も昔も同じであっても、
昔と今とでは、現実の子供・両親・保護者…の認識像が異なっているので…
理想像の現実化の方法が大きく異なっています。また過去の羅針盤では、現代の理想点には到着不能です。


>全てを知っているわけではないけど、全てを知らないわけでもない、それがこの場合のポイントでしょうね。


成る程…興味深い表現です。
今、この瞬間に自分の感覚可能な全てを知っているが…
今、この瞬間に自分の感覚不能な事は知らない…

調べ、覚え、体験・経験した全てを知っているが…
調べなかった、覚えなかった、経験・体験しなかった全ては知らない…



>私としては自由びとさんの「相手を楽しませる」という発言に賛同したところがあるからこそ、こうして言葉を交わしていても何の面白味も生じてこない小学生の掛け算や割り算にコメントしているわけですけどね。



「相手を楽しませる」とは、チョット違いますね。
例えば、お宅が「私への誹謗中傷・攻撃目的でパンチ・コメントを出した」としても、
その内容の阿保らしさ・パンチする姿の無様さに、私が笑えた・楽しめた、なら~
それはそれで、当初の目的達成という意味では無駄でも、
私を「楽しませる」には有意義…という事です。


>もしかしたならご自分の姿しか見えていない自由びとさんのほうでは「ぐふふ、俺の得意な領域だぜ」と喜びを感じているやも知れませんけどね(笑)。


お宅は、このブログ・場所を大きく誤解していますよ。
ここは、私の観念・精神世界です。
ここでの記述は全て私の観念・精神で書かれています。
私は、お宅のコメントに、お宅が反映している私の観念・精神の姿形を見て、
お宅のコメント内容は、「私の観念・精神とは、異なっています」と書き続けているのです。

私が、見ているのは、「お宅が映し取った私の姿形」で、
決して、「私から観た私の姿形」ではないのです。


>ただ、実際に自分が職業として関わっている事柄の話しをする場合は「身近に良く知っている」という反面、社会的な義務感や責任感も付いてくるんじゃないかと思うんです。


確かに、個人情報として特定可能な表現では責任問題です。
だから、私は「論理的に書く」事で、特定し難くしている、のです。



社会における義務教育とは、
他人の為の社会的な労働に参加しないで、
将来に労働可能な社会人になる為の勉強です。


本来の税金の意味は、将来の自分を養ってくれる多くの社会人養成為。
言うなれば、自分の老後の人生への投資なのです。

もっとも…現代の政治家が、上記のように思っている、とは思えませんが…
それでも、ヨーロッパの国の何には、働ける時にバカ高い税金を払って、
老後は、労働収入が零でも、生活可能だ、そうです。
しかし、現代の日本社会では、年金だけの生活は無理。
従って、死ぬまで社会的な労働を強いられている、のでしょうね。


このお宅は、私の書いた上記のような思考結果をもって、
「相互扶助」なんて言葉を使っているのでしょうかね…

国家・教師には、
子供に「自分が将来立派に一人前の社会人になる義務がある」と
分からせる教育目的必要です。

それを「相互扶助」なんて…一般的な表現では、その具体的な手段が分からないでしょう。
なのに…このお宅記述のどこに、具体的な「理想像・羅針盤」がある、のでしょうね???

お宅のような、
具体的な方法・方法論のない論理・一般論の披露は、
「ソフィスト」であっても…「フィロソフィー」ではありませんね。


以下は、論外なので省略します。



>私は自由びとさんが「小学生の割り算の等分割」を使って何か別のことでも述べようとしているのかな?なんて少し考えたんです。
それで思いついたのが「相互扶助」という互いに助け合うことなんです。自由びとさんは「物々交換」なんてことも言ってましたしね。

>この「相互扶助」ということを調べてみると「競争」ということと対立関係にある弁証法的な構成の一翼を担うものとして理解されているのを知りましたね。
つまりは、世の中は互いに助け合う相互扶助の関係のみでは成り立っていない、という「全体的な理解」でしょう。

>考えてみたなら日本の学齢期の義務教育にかかる費用(お金)は、もちろん物々交換なんぞではなく、色々なものと等価交換できる「お金」として学校教員に支払われています。そのお金の出どころは住民の税金なんですね。

>ですから私のように自分に子どもがいない人間でも国税なり住民税なりで義務教育の教員に支払われる給料の一部を強制的に支払わされているんです。
>
それが「自由競争」で同業他社が沢山いる中から「それにお金を支払うか否か」を自分で選択して契約できる市民社会的な事柄とは区別される、国家的な強制性=「国家権力Macht」の領域なんでしょう。
空手の流派なんぞは玄和会でも極真でも全空連でも自分で好きなように選択できますし、空手や武道をやらないことだって自由に選択できますが、「自分には子どもがいないから」という理由で義務教育の学校教員に支払われる税金の支払いを拒否したならば「差し押さえ」という形で銀行の口座から強制的に引き落とされてしまいます。

>つまり「6歳から15歳までの日本の子どもの義務教育は全ての国民が相互扶助することを義務づけられている」わけで、おそらくその事は教えられている子どもの側にも「自分に利益があるや否や」では判断できない義務という意識として指導されている可能性がありますね。

>その「日本人の義務教育は全ての国民が担う相互扶助として為されている」というところまで理解して自由びとさんは「実際の教育現場を知らない人間のくせに」などと発言するんですかね?
15歳までの義務教育は親が多額の教育費を支払わなくとも他の住民の助け合いで成り立っているから、その教育現場にいる自分は義務教育を成立させてくれている全ての国民へ説明責任を持っているのだ!と理解するのか、それとも「実際の教育現場を知っている俺は、教育関係者でない人間よりも詳しく現場を知っているのだ!」と優越感に浸ってマウント取りに行くのか?が私の述べた「誠実」ということのように思います。