「わたし」の歴史の物語
私が、私の弁証法を駆使して、弁証法的に思惟する、「わたし」の歴史の物語。
私が、私の概念化した南郷弁証法を駆使して、弁証法的に思惟・思索・思弁する、「わたし」の物語。
母と父⇒結婚⇒母の胎内で受精⇒受精卵⇒胎児⇒…
⇒「赤ちゃん」の私誕生⇒幼児・赤子の私⇒学生の私⇒社会人の私⇒今の私⇒…
私でなかった私・「私自体」・「卵子と精子の受精」⇒…
↓
私であって私でない胎児⇒…
↓
私の認識をもっていない私・赤ちゃん⇒この私の「弁証法性」⇒…
↓
幼児的認識の私⇒この私の「弁証法性」⇒…
↓
小学生時代の私⇒小学生的認識の私の「弁証法性」⇒…
↓
中学生的認識の私⇒中学生的認識の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
高校生的認識の私⇒高校生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
大学生的認識の私⇒大学生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
学生的・社会人の私⇒小学生・教師時代の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
社会人的学生の私⇒教育学部へ編入その「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
教師・社会の私⇒小・中学生教師時代の私「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
商売・修行中・社会の私⇒社会人見習いの私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
小学生・教師の私⇒母死去の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
商売人の私⇒雑貨店店長の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
店長・塾講師の私⇒商売人かつ私の「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
特別支援学級・補助員の私⇒発達障害児との関り「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
通常級学習補助員の私⇒通常級・学年と関わる「弁証法性・弁証法」⇒…
↓
今・パソコン入力中の私⇒自己の過去から現在を想っている私の「弁証法性・弁証法」
「わたし」の歴史の物語には、
私の加齢による身体的変化・運動の弁証法性があり弁証法がある。
私のある年齢には、その身体と環境の弁証法性があり弁証法がある。
私以前の父・母、祖父・祖母…弁証法・弁証法性がある。
………
人間以前には、「いのち」の歴史の物語の弁証法性・弁証法がある。
以上が、私の現在の認識を駆使して思考・思惟・思索・思弁した
「わたし」の歴史の物語を通しての
「重層弁証法」の確認・再措定…「なのだろう…」!?
結論は、私の体験・経験…事実の論理化は何とかできても…
そのそれぞれの論理レベルの分別・確認・認識・統一・統括…
そんな言葉で何とか表現しようと苦戦している私の頭脳内活動・認識が観えてきた…
上記の記述は、分かる人には、分かるし…分からない人には全く分からない、だろう。
南郷弁証法が分かる人には、その弁証法レベルで分かる。
現在までの私を知っている人には、私の事実として分かる。
南郷弁証法を学んでいる人・分かろうとする人には、何となく分かる。
雲海お宅には、全く分からない。
彼にとっては、唯の言葉・知識の羅列…に過ぎない。
でも私は一つ一つの言葉を見れば、過去の私の体験・経験・事実が浮かんでくる。
私にとっての、上記の私の記述は「私の連続・事実のそのモノ」概念である。
そして、今の認知症になっていない私には~
弁重層証法的な認識論で認識した
<「わたし」の物語>、である。
私が、私の弁証法を駆使して、弁証法的に思惟する、「わたし」の歴史の物語。
私が、私の概念化した南郷弁証法を駆使して、弁証法的に思惟・思索・思弁する、「わたし」の物語。
母と父⇒結婚⇒母の胎内で受精⇒受精卵⇒胎児⇒…
⇒「赤ちゃん」の私誕生⇒幼児・赤子の私⇒学生の私⇒社会人の私⇒今の私⇒…
私でなかった私・「私自体」・「卵子と精子の受精」⇒…
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私であって私でない胎児⇒…
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私の認識をもっていない私・赤ちゃん⇒この私の「弁証法性」⇒…
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幼児的認識の私⇒この私の「弁証法性」⇒…
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小学生時代の私⇒小学生的認識の私の「弁証法性」⇒…
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中学生的認識の私⇒中学生的認識の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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高校生的認識の私⇒高校生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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大学生的認識の私⇒大学生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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学生的・社会人の私⇒小学生・教師時代の「弁証法性・弁証法」⇒…
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社会人的学生の私⇒教育学部へ編入その「弁証法性・弁証法」⇒…
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教師・社会の私⇒小・中学生教師時代の私「弁証法性・弁証法」⇒…
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商売・修行中・社会の私⇒社会人見習いの私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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小学生・教師の私⇒母死去の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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商売人の私⇒雑貨店店長の私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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店長・塾講師の私⇒商売人かつ私の「弁証法性・弁証法」⇒…
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特別支援学級・補助員の私⇒発達障害児との関り「弁証法性・弁証法」⇒…
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通常級学習補助員の私⇒通常級・学年と関わる「弁証法性・弁証法」⇒…
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今・パソコン入力中の私⇒自己の過去から現在を想っている私の「弁証法性・弁証法」
「わたし」の歴史の物語には、
私の加齢による身体的変化・運動の弁証法性があり弁証法がある。
私のある年齢には、その身体と環境の弁証法性があり弁証法がある。
私以前の父・母、祖父・祖母…弁証法・弁証法性がある。
………
人間以前には、「いのち」の歴史の物語の弁証法性・弁証法がある。
以上が、私の現在の認識を駆使して思考・思惟・思索・思弁した
「わたし」の歴史の物語を通しての
「重層弁証法」の確認・再措定…「なのだろう…」!?
結論は、私の体験・経験…事実の論理化は何とかできても…
そのそれぞれの論理レベルの分別・確認・認識・統一・統括…
そんな言葉で何とか表現しようと苦戦している私の頭脳内活動・認識が観えてきた…
上記の記述は、分かる人には、分かるし…分からない人には全く分からない、だろう。
南郷弁証法が分かる人には、その弁証法レベルで分かる。
現在までの私を知っている人には、私の事実として分かる。
南郷弁証法を学んでいる人・分かろうとする人には、何となく分かる。
雲海お宅には、全く分からない。
彼にとっては、唯の言葉・知識の羅列…に過ぎない。
でも私は一つ一つの言葉を見れば、過去の私の体験・経験・事実が浮かんでくる。
私にとっての、上記の私の記述は「私の連続・事実のそのモノ」概念である。
そして、今の認知症になっていない私には~
弁重層証法的な認識論で認識した
<「わたし」の物語>、である。