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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「わたし」の歴史の物語

2023-03-29 08:21:37 | …弁証法…
「わたし」の歴史の物語

私が、私の弁証法を駆使して、弁証法的に思惟する、「わたし」の歴史の物語。
私が、私の概念化した南郷弁証法を駆使して、弁証法的に思惟・思索・思弁する、「わたし」の物語。


母と父⇒結婚⇒母の胎内で受精⇒受精卵⇒胎児⇒…
⇒「赤ちゃん」の私誕生⇒幼児・赤子の私⇒学生の私⇒社会人の私⇒今の私⇒…

私でなかった私・「私自体」・「卵子と精子の受精」⇒…

私であって私でない胎児⇒…

私の認識をもっていない私・赤ちゃん⇒この私の「弁証法性」⇒…

幼児的認識の私⇒この私の「弁証法性」⇒…

小学生時代の私⇒小学生的認識の私の「弁証法性」⇒…

中学生的認識の私⇒中学生的認識の私の「弁証法性・弁証法」⇒…

高校生的認識の私⇒高校生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…

大学生的認識の私⇒大学生時代の私の「弁証法性・弁証法」⇒…

学生的・社会人の私⇒小学生・教師時代の「弁証法性・弁証法」⇒…

社会人的学生の私⇒教育学部へ編入その「弁証法性・弁証法」⇒…

教師・社会の私⇒小・中学生教師時代の私「弁証法性・弁証法」⇒…

商売・修行中・社会の私⇒社会人見習いの私の「弁証法性・弁証法」⇒…

小学生・教師の私⇒母死去の私の「弁証法性・弁証法」⇒…

商売人の私⇒雑貨店店長の私の「弁証法性・弁証法」⇒…

店長・塾講師の私⇒商売人かつ私の「弁証法性・弁証法」⇒…

特別支援学級・補助員の私⇒発達障害児との関り「弁証法性・弁証法」⇒…

通常級学習補助員の私⇒通常級・学年と関わる「弁証法性・弁証法」⇒…

今・パソコン入力中の私⇒自己の過去から現在を想っている私の「弁証法性・弁証法」


「わたし」の歴史の物語には、

私の加齢による身体的変化・運動の弁証法性があり弁証法がある。
私のある年齢には、その身体と環境の弁証法性があり弁証法がある。
私以前の父・母、祖父・祖母…弁証法・弁証法性がある。

………

人間以前には、「いのち」の歴史の物語の弁証法性・弁証法がある。


以上が、私の現在の認識を駆使して思考・思惟・思索・思弁した
「わたし」の歴史の物語を通しての
「重層弁証法」の確認・再措定…「なのだろう…」!?

結論は、私の体験・経験…事実の論理化は何とかできても…
そのそれぞれの論理レベルの分別・確認・認識・統一・統括…

そんな言葉で何とか表現しようと苦戦している私の頭脳内活動・認識が観えてきた…

上記の記述は、分かる人には、分かるし…分からない人には全く分からない、だろう。

南郷弁証法が分かる人には、その弁証法レベルで分かる。
現在までの私を知っている人には、私の事実として分かる。
南郷弁証法を学んでいる人・分かろうとする人には、何となく分かる。


雲海お宅には、全く分からない。
彼にとっては、唯の言葉・知識の羅列…に過ぎない。

でも私は一つ一つの言葉を見れば、過去の私の体験・経験・事実が浮かんでくる。
私にとっての、上記の私の記述は「私の連続・事実のそのモノ」概念である。
そして、今の認知症になっていない私には~
弁重層証法的な認識論で認識した
<「わたし」の物語>、である。








~「二人三脚」の話~

2023-03-25 20:27:09 | …弁証法…
「二人三脚」の話~


A君とB君が二人でペアになって、運動会二人三脚走に参加する事になりました。
二人は、言い合いをしています。
AはBに「俺の走りに合わせろ!」と言い。
BはAに「お前こそ俺に合わせろ!」と言い合っていた。
それを聞いたCは「じゃ~二人の全力走勝負で決めたら…」と言った。

そこで、校庭でAとBは、全力走対決・勝負をした。
結果、AはBより数段と早く走り勝った。

その時、
Aは思った「遅いBが、速い俺に合わるのは不可能…」と。
Bも感じた「速いAが遅い俺に合わせたら、運動会で勝てない…」と。

そこで、
AはBに言った「俺がお前に合わせる!」と…
BもAに言った「俺がお前に合わせる努力をする!」と…

そこで、互い相手に合わせる事にした。
それは~
AはBの全力より少し速め、Bがついてこられるだろう速さで走る事。
BはAのその速さに必死に合わせる・努力をする事。

このようなに互いに相手に合わせる努力をする、取り決め・約束をした。

さて上記の過程を以下のように捉えて・考えみよう。

初めの二人の認識は「俺に合わせろ!」―観念的対立。
一旦、観念界を否定して現実界へ
その対立の解決策として「全力走勝負」―現実・身体的勝負での解決。

結果、相手の走力の実感による互いの認識・観念の変化⇒二人とも「お前に合わせる」
結果、「互いに相手に合わせる」事になった。

初めの認識を否定して現実へ、
その現実の結果から、
初めの認識の否定が発生。

認識界の否定⇒現実界へ、その結果が「俺に合わせる」認識・観念を否定⇒「お前に合わせる」認識・観念に変化。

これは、弁証法の「否定の否定」と捉える事が可能である。
では、相互浸透は?
「早く走れる自分と遅い相手」…自分が相手より遅いと…相手に合わせられない。
「遅い自分と速い相手」…速い相手が遅い自分に合わせると勝てない。

それぞれが、現実の全力走勝負の過程で、
実際に、相手が自分に合わせた・合わせようした時の勝負の現実…が相互浸透した。

その結果・量質転化が、
「俺に合わせる!」から「お前に合わせる」…へ変化。
その統一が「互いに相手に合わせる」事。


弁証法の三法則は、言うなれば弁証法的思考・公式であり、
それを、公式をそのままに現実に駆使するのは、
不可能ではないが…至難である。

しかし…現実の変化・運動を、初め⇒過程⇒と全過程を、
客観的・法則的にみようと努力し続ければ、
それは、それで、難しいが、至難ではない。



「不思議な違和感」の正体!

2023-03-21 10:46:30 | …弁証法…
「不思議な違和感」の正体!

2022-03-19 11:58:49 | 悟得びと認識論に

以下のような記事を掲載した。


不思議な違和感…  


先日、小一学級で「お楽しみ会」でのゲームを決める為の話し合いがあった。

進行係の二人が前に出でクラス全員の提案を黒板に書いて決めようとしていた。
黒板に、ドッヂボール、椅子取りゲーム、鬼ごっこ、たか鬼…バスケット…と書かれ、
その内、二つを選択する事になった。

その最終的な決め方が、「ジャンケン」と「挙手による多数決」の二通り提案された。
そこで、「どちらがいいか手を挙げて決める事になった。
「挙手による多数決」の結果、お楽しみ会のケームは、
「挙手にする多数決」で決めると決まった。


私は…ふと思った。
お楽しみ会の決め方を「ジャンケン」or「多数決」の決定を「多数決」で決めている、とは…
何か不思議な違和感があった。

この話を息子にしたら、その場合は、
「くじ引き」とか「コインの裏表」とか…別の方法で決めるのが妥当では~と言っていた。


そう初めから「多数決」で決める前提で、
「多数決」か「ジャンケン」か、を決めるのは…少々変な感じだったのだろう…

今までは、「多数決」で決めていたの
今回の「お楽しみ会」は「ジャンケかor多数決」を旧来の「多数決」で決めた~という事だろう。

新たな考え・方法は、過去の考え・方法から生まれるモノで、
ある日、ある時、ある瞬間に、
過去とは全く無関係に突然、新たなモノの発生はない!という事なのだろうか…

この事を担任の先生に話した、
「矛盾ですよね~」
「子供達は思わないようですが…」と言っていた。




↑~

この「お楽しみ会」に限定した「ジャンケン決」or「多数決」の決定は、
個別事案の「決め方法」の決定と考えられる、なら、
個別の事案の決定法を、普段の決定方法で決めた事と言えよう。

「お楽しみ会の種目」という「個別事案決定方法」(ジャンケン決or多数決)を
普段の「一般的事案決定方法」(多数決)で決めた。

矛盾のように思える「決め方の決定」だが…このように、その意味・構造を考えるなら、
それらの以下のようなメリット・デメリットを分かっていたなら有効なのだろう。




「挙手による多数決」は、大勢の賛成が不可欠であるが…
「ジャンケンによる決定」なら人数の多・少に関係なく決定される


この場合に考えるべきは、「ジャンケン決」と「多数決」のメリット・デメリットであろう。

お楽しみ会でも種目が、十数種類も提案されていたなら、「ジャンケン決」のデメリットは少ない。
しかし、種目数が少ない時、少ない種目からの決定なら、「ジャンケン決」のデメリッドは多い。

これが、「クラスの係決め」…の仕事・学習に関する決定の場合は、「多数決」がデメリッドになり得る。
それは、大勢で結託?して、他の児童に嫌な係を押し付けてしまう…可能性がある。


だから、当然に教師・担任は、
これらのメリッド・デメリッドを考慮した上で「決定法の決定」を多数決・採決したのだろう。



弁証法とは!?

2023-03-14 22:04:17 | …弁証法…
弁証法とは!?

弁証法とは、弁証法性を法則化したモノ。
弁証法性とは、モノ自体の持っている変化・運動性。

物・物体の変化・運動性は、モノ自体の弁証法性が変化・運動した結果。
生物の変化・運動性は、物・物体の変化・運動性の本質である弁証法性の変化・運動…

全ての物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性は、
モノ自体の弁証法性の変化・運動形態…と考えられる。

弁証法とは、弁証法性の法則化とは、

モノ自体の弁証法性が、物・物質・物体・生命体・生物…の変化・運動性へと変化・運動する過程の明確化・法則化…と考えられる。

このように考えられるなら、
何故に師範が、「いのちの歴史の物語が自然の弁証法」と言った訳が分かり得る。

モノ自体を実体とするなら、物質・物体・生命体・生物の性質・本質・性質は、実体の変化である実態と言えよう。

モノ自体の弁証法性は見えずとも…物・物質・物体・生命体・生物…
それぞれの性質の変化・運動性の事実から論理的に弁証法性を知り得るのだろう…

モノ自体の弁証法性の変化・運動⇒
モノ自体⇒物の誕生⇒生命現象⇒生命体⇒生物までの変化・運動の法則化が可能なのだろう…

それが「弁証法」となり得よう。

弁証法性の二重性、
モノ自体の性質が実体の本質なら弁証法性の静止体。
他の性質は、弁証法性の運動体。

弁証法性の静止体の姿は見えずとも、運動体の姿は見る事が可能である。

運動体から静止体の弁証法性を見て取るのも弁証法なら
運動体のそれぞれの運動体の変化・運動の法則化も弁証法。

物体の状態変化も変化なら、物質の化学変化も変化。
状態変化から化学変化への変化も変化。



続・続・構造の構造

2023-03-14 10:35:56 | …弁証法…



>・コメントが届いた記事
>投球が止まって見える」とは?

>・コメントが届いた記事のURL
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/404e814180e2c65cac24c59474ba3a27

>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
>指導料なり原稿料なりを貰ってもいいくらいのことを自由びとさんに教えてあげてしまってますね。


「指導料を貰ってもいいくらい…」なのは、自由びとの方でしょうが…

>親切ついでに「そのものに成り切る」ということを具体的に言えば南郷さんの『武道への道』の永平寺の僧侶ですよ。
>修行者に成り切れなくてテレビの出演者としての自分を意識してしまうからダメだと南郷さんが指摘していた「あれ」ですよ。


それ正確には、「修行者に成り切れる実力がない」からダメなのです。
修行当初は、
誰もが修行者になり切れるモノではありません。
誰もが自分的な意識での修行です。
それなのに…当人は…
これが行者意識だと思い込んでいるのです。
また、当初は、実体・身体的な言動・行動・行為…が修行だと思い込んでいるのです。
でも、本来は、それらの言動・行動・行為を通して、認識・精神の養成が修行なのです。

端的には、「成り切る・成り切れない」ではなく、真の「修行」というモノを認識していない…のです。






>▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>投球が止まって見える」とは?

>・コメントが届いた記事のURL
>https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/404e814180e2c65cac24c59474ba3a27

>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
>発言が少し挑発気味になってきたことを反省し以後は自戒したいと思います。


雲海お宅の「反省・自戒」は全く意味がありません。
何故なら、雲海お宅の自由びと言説の理解・解釈…が、全く自由びと的でなく、首尾一貫して「雲海お宅」的だからです


そもそも…
言葉の概念(構造・哲学・弁証法・認識…)の中身が、自由びとと違っているのに…
正しく自由びと認識を理解できる訳がないしょ!

>自由びとさんも余り棘のある言葉はしないようにしていただけたなら有り難いです。


自由びとは、相手の言葉・語彙・認識…に即してコメントを書いています。


>私は自由びとさんの「構造」という言葉の意味合いを探るべく自由びとさんが信奉している南郷学派の文章に思いを馳せたんです。

>例えば瀬江千史さんの「常態論、病態論、治療論」という医学の三構造です。これを「構造」というわけは三角形を三つに区切ってそれぞれの部屋に常態、病態、治療を配置させるからで、建築物の構造と同様に「空間の配置」なんですね。

>ですから、三角形の下側に常態があって左側に病態があり右側に治療があるとしたならば(そういう建物の構造・構成だとしたならば)患者さんの診察をして熱や脈拍が正常だとかの「事実」があったなら、それは三角形の下側に配置されるとか、MRIで撮影したら脳に腫瘍が見つかったとかの「事実」があったなら、それは三角形の左側に配置されるとか、治療のために放射線を当てたなら、それは三角形の右側に配置されるとかの「足幅の広い騎馬立ちは部屋の何処に置いたら良いか?」という「ソファはリビングへ、薔薇の花は応接間へ」みたいな部屋の整理みたいな話しなんだろうと思うんです。

>これは唯物論的弁証法のマルクスだとかが「上部構造と下部構造(土台)」みたいな建築物のことを言って、「そのアダムスミスの話しは経済だから1階ね、そのビスマルクの話しは政治だから2階ね」みたいに整理して、重力の関係で2階は1階が無ければ成立しませんから、その建築物の1階と2階との関係で政治と経済との関係を語った、みたいな。

>だから自由びとさんの言う「構造」というのは、「その事実(ソファ)は家のどの部屋に置きますか?」とか「どういう引き出しに整理しますか?」みたいな外枠の話しなんだろうと思うんです。


全体と部分の関係ですね。

家を全体とするなら、
外から見た家の構造⇒屋根、壁、窓、扉…
中を見た時の構造⇒部屋の種類と配置…
各部屋のそれぞれの構造…
引き出しが全体なら、引き出しをどのように区切ってモノを入れるか…




▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
投球が止まって見える」とは?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/404e814180e2c65cac24c59474ba3a27




>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
>私は自由びとさんの見解を否定する気はありませんけど事実を集めて整理したところに自由びとさんの言う「(建物、外枠、学的体系?の)構造」と言うのが成立するのだとは考えています。

>それで、「ボールが止まって見えた」という話しに関わるんですが、早稲田大学の動体視力の研究で面白い話しがありました。それは動体視力の優れているアスリートと優れていない一般人の動体視力を調査したならば、目玉を動かさないで動くものを認知する能力はアスリートも一般人も大差ないということです。ですから、動くものを見慣れていて動体視力の優れたアスリートの高い能力は「対象を追って目玉を動かす能力」だということなんです。



「対象を追って目玉を動かす能力」…知識・結果…重視のお宅的認識・理解ですね。
それは「目玉を動かす能力」ではなく、変化・運動し続けるモノ・ゴトを見よう・捉えよう・認識しよう…続けた結果が「目玉が対象に即して変化・運動」するようになれるのです。


>川上哲治が「ボールが止まって見えた」のは、ボールを目で追いかける能力に優れていた可能性がありますね。


能力は結果です。
その能力の養成・形成は、ボールを全身で見よう・打とうとする努力の成果です。
ボールを見て打とうと努力・練習しない限り、
目で追いかけるだけから、仮に見えるようになれても、
そのボールを打てるようにはなれせん。


>座ってばかりいて体を動かさない人が運動能力が低いのと同様に、座って本ばかり読んでるような人は目玉を動かしていないが故に動体視力が低いのでしょう。


え?
>「座って本ばかり読んでるような人は目玉を動かしていない」

読書でも、目玉は、上から下・下から上、右から左・左から右…と必死に動かしています。
何しろ、速読法は、目玉の動きの速さが不可欠だそうです。

[動体視力」とは、変化・運動しているモノ・コトを的確に捉える視力です。
もともと変化・運動しない文面・記述…という静止文字を追いかけても、
目玉の運動にはなり得ても、動体視力の養成・鍛錬…にはなり得ない…と言う事です。


雲海お宅と自由びとの対象認識の違いは、上記の記述から明らかですね。
そもそも「弁証法」とは、
対象の弁証法性の法則化です。
それは、対象の変化・運動の法則化です。
現実の対象の「法則化とは、当人にとっての法則化」です。
当人が容易に自然に無意志に従える法則化です。

弁証法を空手・真剣勝負・決闘…でその対手技の変化・運動を法則化ができたなら、
その対手の技の変化・運動に即して、自己の身体を自己の勝負の目的に即して動かせる・闘えるのです。