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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・構造の構造

2023-03-11 09:34:45 | …弁証法…
続・構造の構造




>▼ コメント ────

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>投球が止まって見える」とは?

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>・コメントを書いた人
>雲海

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>しかし「文は人なり」で書いてるものを読むと自由びとさんが何も考えていないことが了解されますね。



この上記の「自由びと…何も考えてないが了解…」の構造とは?

雲海お宅が、自由びと記述を自由びとの思考・思惟に則って理解していない。
そのお宅の理解の内容・結果が、非自由びと的であろう。
その理解が「自由びとは何も考えていない」。

「何も考えず」に、こんな事が書けるでしょうか?
この言葉は、不適切です。

この「何も考えない」の構造は?
お宅の「理解できない」自由びとの記述を、
「自由びと何も考えていない」結果だと考える事で…
結果的に、お宅自身を安心・安堵させている…



それは、その思考レベルであり、自由びとの思惟レベルではなかった。

私は・これまで散々に考え続けていた。
何故に、
私は子供を叱ってしまうのだろう?
この子は何故、そんな事を言うのだろう?
この子は、何故に怒っているのだろう?
この子は、何故に学校から脱走しようとしているのだろう?
この子は、何故に「面倒臭い!」を連発しているのだろう?

私の思い・考えとその子の思い・考えを合わせて思惟し続けている。
その子の日々の様子・言動、その時の言動…を総合的に思考…


他人の思考・思惟は、
その他人の現実・生活を知らないと…
なかなか理解し難いモノがあります。


>「成り切るの構造」って、構造という言葉をどういう意味で使っているのですかね?恐らくは既に指摘したように南郷さんの本に「現象論、構造論、本質論」という武谷三段階論の言葉や「論理構造」という言葉が書いてあったから意味も分からずに丸暗記したのでしょうけれど(嘆息)。

>私が考えるに「構造」というのは家や人体の構造と同じく「どういう部分がどのように構成されて全体を作っているか?」ということですよ。ですから「家の構造」でしたら玄関があってリビングがあって寝室があって応接間があって、それがどういう理由でどんな位置関係になっているか?というのが構造ですよ。

>だから南郷さんの武道論なら技を作るという稽古の箇所と実際に試合うという勝負の箇所という二大構造に分かれていて、足幅を広くとった騎馬立ちや前屈立ちはその稽古の初期の段階に位置づけられる、という位置関係が構造だと思いますけどね。

>「成り切る」というのは禅ですから所謂「平常心、不動心」で「打てなかったらどうしよう」だとか「ストレートに山をはっていてカーブだったらどうしよう」だとかの迷いも無く「無心」で来たボールを打つだけということですよ。それが練習だとか試合だとかの関係性に分けられるのが「構造」じゃないかと考えますけど「成り切るの構造」ってどういう意味?



「成り切るの構造」とは~

初めは、
役者が「自分的に勝手に」で演技するのではなく、
登場人物の生い立ち・性質を想像して、そ「の人物の言動・態度・認識」で演技する、ように…「成る」

次に、
その繰り返しから、役を演じのではなく、自分の言動そのものが、その役の人物そのモノになれた時「成り切る」となる。

子供がヒーロー・仮面ライダーに憧れて、それに「成り切って」遊ぶ…そんな感じです。




構造の構造

2023-03-11 09:03:30 | …弁証法…
<構造の構造>

>コメント ────

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>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
私は以前からお宅の「その構造は?」という問いに違和感を持っていたが、今回はっきりと、それは南郷さんの著書における「現象論、構造論、本質論」というのを暗記している、そこから阿呆丸出しの己れが見えない口から突いて出るのが「構造」という脊髄反射的な言葉なのだろうと判断できた。



全く「構造」の概念を理解できていないね♪
この雲海お宅!

例えば、上記の>「阿保丸出し」という認識が、発生している「構造」は?
それは、このお宅自身が>「南郷さんの著書における「現象論、構造論、本質論」というのを暗記している」から…である。

残念な事に、私は暗記が嫌いである。
暗記も必死にやれば出来るが…忘れるのは早い。

そもそも…「構造の構造」を問うから、それにもレベルが考えられる。
全体の構造、部分としての全体の部分・部分の構造。

これが「過程の構造・構造の過程」という師範の弁証法用語だろう。

構造とは、全体を、その全体までへの変化・運動の過程の一つ一つを、順番に並べた…ようなモノ。



>私のように己れの実力で対象の中や他者の文言の中に深く深く分け入ることが出来る人間ならば、その分け入っていることが直ちに「構造」なんてところに結びつかないことは自明のことでしかないが、南郷さんの本から「現象、構造、本質」という言葉だけ暗記している阿呆は、なんらかの事実を相手が述べたと判断したら、そこから直ちに構造へ行くものだと錯覚しているのだ。



山登り途中では、山全体は観られない。
山の頂上に登っても、山全体は観られない。
ヘリコプター・飛行機…遠くから眺められた時に初めて全体像が見える。

遠くから観ただけの「山」…
自力で頂上まで登った「山」…
登った後に観た「山」…

それぞれ…その山の認識・像が異なっている。
それば、どのように異なっているかは「認識の構造」の相違であろう。


>だから、何の必然性があって如何なる話へ展開するか?ということを地道に冷静に追っていくことが出来ずに「構造」などという陳腐な(自由びとが言うから陳腐になるのだ!)、この阿呆は「構造」という意味さえ解らないに違いない。

馬鹿だね!
雲海お宅は「自分が大将!」認識ですね。

>(自由びとが言うから陳腐になるのだ!)<ではなく、
<「雲海お宅が理解していない!から陳腐に思えてしまう」>のに…







対立関係と対立物

2023-03-11 08:34:18 | …弁証法…


▼ コメント ────

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投球が止まって見える」とは?

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>・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント
>何というか…

>基本の基本が解っていないように私には感じますね。弁証法の基本の「対立物の統一」ということが。


このお宅には、弁証法的「基本」が全く分かっていない…
化学の基本、物理学の基本、認識学の基本、論理学の基本、哲学の基本、変化・運動の基本、弁証法学の基本…

文字で書くなら全部が同じ「基本」でも、その「基本」の中身が、それぞれ違っている…のに


弁証法的な「対立物の統一」を考えるなら~
二つの対立関係のモノ⇒対立物の統一⇒一つの非対立関係のモノ

現実に存在する「水素と酸素」は、それぞれが酸素、そして水素、と独立に存在している。
ここで、この二つモノを一つに見よう・しようとするなら、
酸素でない「水素」と水素でない「酸素」という対立関係になる。

この二つを化合して「水」したなら、
水素と酸素は、水という新たなモノの中で一つのなり、そこに「対立関係」はなくなる。

言い換えるなら、
現実にそれぞれに存在する、酸素と水素には対立関係はない。
この二つを並べて二つの関係性を問うなら、そこに「対立関係」が発生する。
そして、「対立物の統一」(化合される)なら、対立関係はなくなる。

人間も一人一人が、それぞれが勝手に生きている時には対立関係はない。
二人以上が一緒に生活を始めたら、対立関係の発生である。




>酸素と水素の化合を持ち出してきましたか。酸素と水素とは確かに違う元素です。ですが「違う」ということが即ち「対立関係」ではありません。対立関係とは「反対の性格」をいうものですから、国家論でも武道論でも「違うもの」は即座に見つかるものですが、対立関係=反対の性格は専門分野を究明して行く過程で次第に発見されるものですから、酸素と水素という「違うもの(元素)」がくっついた(化合した)という事実(知見)がそのまま「対立物の統一」だと判断されるはずはないのです。


この思考が非弁証法的なのです。
弁証法的に思惟するなら、
酸素と水素の化学反応からが水が発生する事実を論理的に書くなら「対立物の統一」となるのです。



>水分子を構成している酸素と水素とが「対立関係」だと理解されるには、両者が陽イオンと陰イオンであり、一方が電子を余剰に放出していて他方が電子を余剰に受け取っているという、同じ「電子」を基準とした反対方向のものだという理解に至ってようやく「対立物」だと判断できるものです。


これも非弁証法的ですね。
水素が、酸素でない「水素」、酸素が、水素でない「酸素」、それだから「対立」。
「二つのモノ」が「一つのモノ」になる事が、「対立物の統一」なのです。




>ですが、その対立物、反対の性格を持つものがくっついた、結合したことが果たして「統一」なのか?です。
>私のように酸素と水素とをイオンという段階まで進めて電子を中心として対立関係を明らかにするのではなく、自由びとさんのように「違うものは対立関係」という阿呆な理解では、王様が冠を被っていたら王様と冠とは違う別のものだから、その別々のものがくっついている、接触しているということで「王様と冠とは対立物の統一」だという阿呆きわまる結論に至るのでしょう。


「違うものは対立関係」なのではなく、
違うモノを一つにしよう・仲良くしよう…とする時、
そこに「対立関係が発生・生じる」。

または、全体を部分に分解した時、それらは、「対立関係」に変化する。
「完成体としての全体が、個々の部分に分かれたなら」は、部分が一つの完成体と変化する。

人工物から、部分を分解しても、また全体に戻せるが…
生物なら、ここの分解に分解・解剖して、元の生物には戻せないでしょうが…

私からすれば、
この雲海お宅の個別科学的知識的な思考結果の正しいと確信して、
自由びとの弁証法的思惟過程・結果を否定し続けている姿が、「アホ」に見えます・思えます。



>ですが、人間の認識は歴史的なものですから、「対立物の統一」なる認識は物質の分子間結合で初めて問われたわけじゃないんです。ヘーゲルだって肉眼で見えない顕微鏡下での分子の結合など問題にはしていません。


馬鹿だ!阿保だ!

「物質的な対立物の統一」と「認識的な対立物統一」が、同じ訳ないしょ!
それでも、弁証法的には、「対立物の統一」なのですが…

人間同士の「対立物の統一」過程は以下です。
「子供同士の本気の殴り合いの喧嘩」

子供vs子供・対立物のぶつかり合い

互いに納得…「仲直り・統一の結果」



>ならば、そうした顕微鏡下での分子間結合を先人が社会関係において問うた論理と同一視して構わないか?が問われるでしょう。


自然の弁証法・自然的な対立物の統一、
社会の弁証法・社会的な対立物の統一、
精神の弁証法・精神的な対立物の統一、






>反対方向の異質なものを「対立物の統一」として捉える視点は、三浦つとむにあっては「あれも、これも」の組織論として「クラスを分けて両立させる」なんてことになり、それが「弱者のための空手、強者は弱者のために上達が遅れるのを我慢して貰いたい」という「あれか?これか?」の発想から「一般会員と達人コースの区分け」という「クラスを分けて両立させる」という方向に変化していったのだと思いますけど、その歴史的に導いてくれた人文学的な「対立物の統一」の構成・内容を、踏襲することなく「対立物がくっつくこと、酸素と水素とが化合することは対立物の統一なのだ!」と言える単細胞が理解できない。

反対方向は「異質」でも、異質だけが「反対方向」だけではありません。
思考法が、正しくありません。

上達のスピードが問題なのではなく、
上達の到達点の問題です。

三分で完成のインスタントカップ麺を食べたいか、
数十分待って、プロの激うまラーメンを食べたいか…違いですね。



>酸素イオンと水素イオンという陽イオンと陰イオンとが水分子という形で電荷的には中和することは、弁証法的には「止揚」という両者のイオン的性格は否定されながらも上の段階に至ったことだと理解できないか?

>空虚な単語を羅列している自由びとさんに私が説いていることは理解できまいが、他の読者で心ある方に伝わってくれれば幸いです。


>自由びとさんのいう「水に対立は無い」というのは、同じ組織に属したならば喧嘩・言い争いは無い、ぐらいの阿呆な中身のない文言なのだと私には理解できている。


やっぱりアホだね。

水の中では、水素も酸素もそれぞれ性質を発揮していない。
水素も酸素も水部分になっていて、それぞれの主張・対立はない。
それでも、水素も酸素もそれぞれに原子レベルの運動をしている。

組織も同様であり、
その組織に属しての互いに喧嘩・言い争い…は、組織内の活動である。

この記述は、自由びとの思惟を全く誤解して、
その誤解を持って、自由びとを「アホ呼ばわりしている」。


この雲海お宅、自由びと言説をお宅勝手に誤解して、
そのお宅の誤解をアホだと書いている。



投球が「止まって見える」とは?

2023-02-26 16:40:42 | …弁証法…
「投球が止まって見える」とは?


ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…

認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。

これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。

弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。


それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。

個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。

そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。

これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。