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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

~一体化の為の二重化~

2019-03-10 14:10:07 | 教育

久しぶりの更新である。
家内と私の確定申告、父の準確定申告、
相続による不動産登記の移転手続き…等が終わって、
残るは相続税の申告書ひとつとなり、少々心の余裕が生じた。
だから、やっとのブログ更新である。

そこでそれなら、やっぱり月研ぎさんの約束だろう!と思い書くことにした。

以下は、月研ぎさんのコメント、である。

~~~~~~~~~~~

距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。

1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育

例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。

つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。

学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。

自由びとさんの展開
楽しみにしています。



~~~~~~~~~~~

ここで先ず思うべき事は以下であろう.

「教育とは何か?」⇒「教え育てる事!」
また、ここでは、人間に対する教育である、から~


人間が人間を教えるとは?
人間が人間を育てるとは?

教師が、教師に対する教育、
教師が、児童・生徒・学生に対する教育、
児童・生徒・学生が、教師に対する教育、
児童・生徒・学生が、児童・生徒・学生に対する教育、

とある程度の具体化が可能である。


人間が人間を教育するには何が必要か?


そもそも、動物が人間を教育可能か?
否!人間が動物から学ぶ事は可能であるが…

そもそも動物が人間を教育したいとは思うだろうか?

「教育」が成り立つ為には、教育可能な関係が必要である。
それは、教育したい者モノ⇔学びたい者モノ、という関係である。

もともと学校は、
学びたいから行く、学ばせたいから行かせる、
そんな所だったのだろう。

それが何時の頃から、義務教育となり、
義務として行かせねばならない所が学校となった、のだろう。


教育が教育として成り立つには、
教育者には教えたい想い、
被教育者には、学びたい想い、
この両者の想いが必要なのだろう。

しかし、現代社会では、被教育者が「学びたい想い」を
自然成長的に持ち得るのは至難のようである。

「学びたい想い」を別言するなら
「ハングリー精神」とも言える。

ハングリーとは、
食べたい!欲しい!
成功したい!成長したい!
知りたい!識したい!
上達したい!上手くなりたい!


優秀な教育者は
被教育者を「その気にさせる」のが、
とても上手なのだろう。

今の勤務校に、私が凄いと感じている教師が二人いる。

一人は、低学年担任の女性教諭で、
もう一人は、高学年担任の男性教諭である。

女性は、普通に優しいが、時にとても厳しい。
男性は、普通に厳しいが、関わり方に優しさが感じられる。

この二人の言動態度を言葉で表現する事は、私にとって至難である。
事実的に書けば、この二人の学級での日々の授業は、
非常に落ち着いたモノである、言える。

二人とも、クラスの子供たちの心・気持ちを掴むのが上手い、ようだ。


さてさて…本題である。

1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育

この四つを一つに一本化するなら、
それは「人間が人間を教育する」となり得る。

教えたい想いと学びたい想いがあるなら、
次に持つべき想いは以下であろう。

教育者は、自分の教えたいモノを相手に正確に伝えたい。
被教育者は、相手が教えたいモノを自分は正確に受け取りたい。

伝える為の必要なのは、言葉・動作・態度…であり、
受け取る為に必要なのは、それらの相手的な解釈であり理解であろう。

教育=教え育てる為には、
言葉で解説し、動作で示し見せ、態度で従わせる。
このよう事が必要だろう。

優しい時には、優しい態度の動作と優しい口調の言葉。
厳しい時には、厳しい態度の動作と厳しい口調の言葉。


言葉で書くなら、以上であるが…
問題は、人間が社会的である、という事。

それは、
先生の厳しい態度・言葉・動作を、
児童が、果たしてその通りに感じられているか?
また、感じていたとして、その理由を確り確認できているか?である。


以下は最近、今の特別支援学級で実際にあった話である。

ある母親が、
キレると必ず相手の髪の毛を思いっ切り引っ張るという、
息子の癖を直す為の家庭での行為が以下であった。

(私は、切れて担任を髪の毛を引っ張っているその児童を
何度も止めている、その際、
毎回その子の手に床に数本の髪の毛を発見している)

その息子が切れて母親の髪の毛を引っ張った時、
母親も、息子の髪の毛を引っ張りつつ、
「いい○○!」
「髪の毛を引っ張られた相手は、こんなに痛いんだよ!」
「…だから止めて!」と諭した。

その母親は、
「我が身をつねって人の痛さを知れ」を
痛感させ、実感さてせ、
その悪い癖を止めさせたかったのである。

でも!しかし!である。
私がその児童の担任から聞かされた、
その子の、その後は以下のようなモノであった。

それを聞いた時、私は驚愕した!
でも、同僚の補助員は以下のよう言っていた。

「それが彼ら情緒障害児でしょうね…」。
それを聞いた時、
成る程…と納得した私でもあったが…


さて、母親から
「我が身をつねって人の痛さを知れ」と
教育された筈のその児童であるが…


後日、ある日に学級でキレて、
やはり例の如く同級生の髪の毛を思いっ切り引っ張った彼が
担任から叱責されて言った言葉・弁明が以下であった。

「○○君の髪の毛を引っ張ったのは…」
「○○君に僕の痛みを教える為だよ!」

こんな内容だった、そうである。


母親は正しい教育を実行した筈である。
それは、その態度も言動も動作の合目的的であった。
しかし、息子は、母親の教育目的とは真逆の成果を得てしまった。

ここで何が問題だったか?
諺は、「我が身をつねって…」である。
でも、「この場合は、母親がつねって…」であった事…?

長くなってしまったが…
端的には、その原因は、
情緒障害児故に歪んで育ってしまった、
二重化能力が原因なのだろう。


教師から児童への教育が、
教師の意図・目的に反していまう理由は、
両者の認識・能力の大きな相違から、
互いに正しく二重化がなし難い、からであろう。

今回は、久々の記事の中に、
多くのモノを詰め込もうとし過ぎたようである…


今後は、一つ一つに分けて、
もう少し分かり易く文字・文章化したいモノである。















意地の引き方

2018-12-09 12:19:00 | 教育

以下のような、お宅くんコメントの記述に、
以下のコメントの下のような私コメントを書いた。


[A]>最近、近所のデパートで4歳ぐらいの男の子を連れたお母さんが「◯◯したからアイスは買わないと言ったでしょ!」と泣き叫ぶ子を怒ってる場面に遭遇しましてね。何か決まり事を破ったらアイスクリームは買ってあげないと約束していたみたいなんですが、あまりにその子がギャンギャン泣き叫ぶからそのお母さん「約束破ったんだからアイスは買わないからね!」なんて怒りながらもキャラメルコーンを買ってあげてるのを見て「ああ、約束したことをお母さんのほうから撤回してしまったなら子どもが何だ約束破ったって別に平気じゃないかと軽く見てしまいかねないから、あくまでも約束事を守りながらも子どもの感情をコントロールしていくのか!」と主婦という仕事は頭を凄く使うんだなと驚きの体験をしたわけです。<


<B>コメントありがとうございます。

親が子の手本・模範になる、
事は痛感しています。

よい手本を見せる事も必要。
悪い手本を見せる事も必要。

親が子に対して、
親の意地を引いてみせる手本も必要だと痛感しています。

今回の場合は親が子に対して、

「ゴメン!アイスを買ってあげたいけど、買えない。ゴメン!」
「だって、××とは、○○したら買わないって約束したでしょう!」
「ここで、アイスを買ったら、おかあさんが嘘つき・約束破りになっちゃう!」
「おかあさんは、××に嘘を付きたくないのゴメン!」
「××は、おかさんに嘘つきたい?嘘つきになりたい?」<>



今回、改めて<A>を読み返したら、
これは、これで、母親が自ら意地を引いている事に気付いた。

それは以下~

>「約束破ったんだからアイスは買わないからね!」なんて怒りながらも
>キャラメルコーンを買ってあげてる
……
>あくまでも約束事を守りながらも子どもの感情をコントロールしていく…



確かに、母親の心では約束―
>◯◯したからアイスは買わないと言った<ー
を守った事になる。


しかし…
その男の子にとっては、
それは
「○○しても…アイスはダメでもキャラメルコーンは買ってもらえる」
というモノである。

これでは、
「○○するという」ダメな事をしたから、「アイス買わないという」罰がある、
○○すると不快感・罰がある、という行為に対する感情・認識形成にはならない。

その理由は、アイスもキャラメルコーンも子供にとっては同じ「快」だから…

ならぱ如何にすれば、いいか?

ここで、言葉の登場・駆使である。

ここは、母親は「怒り」を収め、冷静に
「○○したからアイスはダメ!」
「でも…『頑張って○○しない』と約束できるなら…」
「今回はアイスはダメ!だけど…キャラメルコーンなら買ってあげれる」
「でも、また○○したらキャラメルコーンもダメだよ!」



もっとも…
「○○したらダメ」というより、
「●●しようね!の方が、
より理想的であるが…


確かに、このお母さんの努力は認められる。
しかし、今回は、それは、それで良しとしても…

次の時は、より納得・満足し得る行為が望ましい。
それは、過程は兎も角、結果的に母親も子供の笑顔で納得・満足し得るモノである。

この場合なら、子供が泣き止められて、
「うん、頑張る!約束する!」と確りと言えた、
なら…である。


そうそう…
ここでの問題は、
「『○○しない』という約束を守る」努力をしていない事。

これを一般化するなら、
「…努力をしていない(努力不足)」と言える。

さすれば、この場合に、
親がすべき行為は、
子供に「努力させる・努力を教える・努力を実感させる」
である。

その為には、
先ずは、親が子に努力を見せる事・努力。
それは、親の「怒り」を収める事・努力。

次に、子に「泣き叫ぶ」を止めさせる事。
そして、
親は冷静な状態で、
子に巻き叫ぶの止めた状態・維持で「約束を守る」努力の約束をさせる。


そう~
ここでの最重要課題は
感情コントロール・方法の体得・修得である。

○○しない約束を破って、○○してしまった時、
それは、「○○したい」感情が、「○○しない」約束を守る感情に勝ったからである。
もっとも…この場合「約束を守る」感情は、「約束破るとアイスはダメ」感情である。


これは、
「○○する」快感と、「○○したら」不快感、という対立である。
「快感を得たい」感情と「不快感は避けたい」感情の対立である。

この方法だと、快感の制止には、より強度の不快感が必要である。
それは、子供の失敗の度に、より強度の不快感を与える事になる。

だから、理想は「○○したいと思った時は●●しよう」である。

そして、
子供が●●にならずとも、
少しでも●●に近づけた時、
そこは大げさに褒め称える・快感を与える事である。

それは、お母さんの快感の全身表現であり、
そして、子供の身体への快感を表現でもある。
その時、母親の快感と子供の快感の共鳴で、
更なる快感の増幅が起こり得る。


○○しない約束では、したら快感、しないと不快感…
●●しよう約束なら、少し・一部でもできたら、快感…

コメントの例なら、
泣き叫ぶ事を、ほんの少しでもできたら褒める・快感。
次回の努力約束が言えたら、誉める・快感。

不快感は、一つの劇薬的モノである。
教育過程でも、使い方は、毒を持って毒を制す、的である。

これは、体罰の使用にも言える事であるが…


そうそう~
一つ忘れていた事を思い出した。
それは、
意地と意志の区別と連関である。


この場合、
母親が「怒り」を鎮めるのも、意志なら
子供が「泣き叫ぶ」を止めるのも、意志である。

母親は、将来子供の為を想い、自分の怒りを鎮め。
子供は、将来の自分の為に、自分の泣き叫ぶを止める。
…が理想であるが…



母親は、回りを気にして怒りを鎮め、
子供は、母親に叱られて泣き叫ぶを止める。

人間にとっての意志とは、
その始まりは、自分の為であり、
決して、それは人の為ではない、
のだろう。

自分にとって、対象がこの上なく大事な時、
己の感情に逆らう意志の誕生なのでは?


感情に従うのも意志なら、感情に逆らうのも意志。
意地になるのも意志なら、意地を収めるのも意志。

動物と違って、本能的でない人間にとっての意志とは?

意志の行使・停止の判断・決定や如何に?
そこには、
感情的な判断・決定と理性的な判断・決定とが、考えられる。

人間にとっての感情とは?
その個人の感情とは?

人間の理性とは?
個人の理性とは?


感情の裏には、
この感じが、俺だ!・正しい…といった理性的判定が…

理性の裏には、
この考え方は正しい・間違いない・過去に上手くいった感じ方が…


私にとって、
「意志と意地」は、
今後も考え続ける課題でもある。

自由びとコメント

2018-10-19 10:32:56 | 教育


自由びと的な想いとしては、
よく書けてけているのように思えるので、
以下のコメントを記事にアップする事にした。



認識論的解題


再度のコメントありがとうございます。

もっとも…
前回が「無門」で、
今回は「無門慧眼」なので、
全くの同一とは言い切れませんが…

これは、「無門」に過ぎなかったモノが、
私の記事を読んで、
「無門慧眼」化したのでしょう。
それは記事「禅問答の続編」にそれだけの力があった事の証明ですね♬♫



さて…
「禅問答」を「禅」の修行の過程としてのモノと捉えるなら…
「まる」とは、「悟り=仏性の体得」・表現だと、私は考えています。

でも…「禅問答」を日常的な私の問題として捉えるなら、
そこには、認識論的な解題が求められると思いました。

そのように捉えた時の問題は
「まるとは何か?」
ではなく、
「描かずに描けるモノとは何か?」
となります。


こう捉えた時の解答は、
「普通に『〇』を描く」事です。
その普通の「〇」に、真実の[まる]を込めるのです。
この真実の「まる」とは、現実界の「〇」の中・裏に存在する[まる]の事です。

真実のまるを描きたいが、その真実のまるは描けない、
だから、描けない真実・まるを描くために、真実・まるでない唯の「〇」を描く、という事です。

これは、現代の普通の人々が、日常的に普通にやっている事なのです。
しかし、その普通の事が、本当は普通でない、という事に気付いていません。
だから、「悟り」とは、普通の事・日常的な事が、
本当は普通でない事の実感・痛感の継続的体得=「悟る」事なのです。

ここから言える事は、悟得びとの言葉は、
その普通の言葉の裏に全ての「真実がある」という事です。

でも…普通の人には、
それが普通の事・唯の言葉にしか聞こえない・捉えられない、のです。





さて~
以下は、無門慧眼くんのコメントへの私の感想・回答です。

>もしも子供が経験知の乏しいままに理性だけを発展させようと頑張っていたとしたならば、それを「そうでは無い」と強引に改めさせてしまって良いのか?とも思うわけです。
↑~

子供にとってのみならず、大人にとっても…体験・経験は重要です。
そもそも…「経験知」とは何でしょうか?

「子供の…理性を発展させようと頑張って」ダメだった場合、
それは大人にとっての「失敗経験知」となり得ます。
また、発展できなかった子供にとっても、「未達成感の経験知」となり得ます。

この時、双方の経験知から新たな工夫を取り入れ、更なる発展を目指せばいいだけです。
失敗体験も成功体験も、それを自ら問題として捉えられた時、
それは成功への道となり、そして目的達成の暁には、成功への良い経験となり得ます。









>でもやっぱり、経験的なものって重要ですし、義務教育で「これだけは必須」とされているものだけはシッカリとやらせ、あとは自由にやらせてみるというのが良いのでしょうかね?

そうです。
子供がやれば失敗確実な事を意図的に体験させ、
それを成功への経験として生かせる教育。

また、
教師が意図的に失敗して、それを子供達に見せつけ、
教師の失敗を子供自身の失敗体験として実感させ、
それを子供達が成功への体験として生かせる教育。


<あとは自由にやらせてみる>
↑~
学校では、授業中も休み時間も絶対的自由はありません。
あるには、制限付き・範囲ある自由です。


>「悟性的な観念(経験論)がない理性のみだとこうなるよ」
↑~
そもそも>経験論のない理性のみ<って、ありえるのでしょうか?
経験のない理性って何なの?

理性とは経験から形成されるのでは?
経験論がないというより…
理性の中の経験が見えていないのでは?
または、経験から生まれる理性が分からない。

どっちにしても…
一体的だったモノを無理やり分離して、
再度の一体化達成が出来なかったのでしょうね。


体罰は嫌いだ!

2018-09-23 14:32:45 | 教育



私は、体罰が嫌いだ!
体罰という表現が嫌いだ!

罪を犯したから身体的に罰を与える!
間違いを犯したから罰を与える!

そんなの可笑しい!
人は人を罰する程に偉くない、と私は思う。


ネットの定義だと「体罰」とは以下のように書かれていた。
>体罰とは(国語辞典的定義) 体罰とは、「肉体的苦痛を与えるような懲戒」です。 懲戒とは、「特別の監督関係ないし身分関係にある者に対し一定の義務違反を理由として科する制裁」です。 つまり体罰とは、親、教師、監督などが、悪いことをした子を叩いたり、長時間立たせるなどして、こらしめ、指導することです。<



そう~「肉体的苦痛を…」と書かれている。
さて~ここで問題が…

人間には、サドディスとマゾヒストという者がいるが…
これらは、極端な者達ではあるが…

ここまでいかなくとも…
筋肉痛が快感と感じる者もいれば、
同じ筋肉痛を苦痛と感じる者もいる。


教育の過程において、親が与えた「肉体的刺激」を、
その子が苦痛と感じ得ない時、
それは「体罰」と言い得るだろうか?

その子が、親からの教育的指導の過程の身体への刺激を心の励み・糧…にでき得るなら、
それは、「体罰」ではなく、教育的指導であり、教育的な身体への刺激となる。

体罰も暴力も現象的には、どちらも同じ、身体への刺激である。
体罰と暴力の相違は、
刺激する者の立場と刺激を受ける者の感じ方あろう。

その違いによって、同じような身体的刺激が、時に体罰、時に暴力となり、
そして、時に何て事ない、日常の生活指導の一コマであったり、である。


私は、「暴力」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激には反対である。
同様に、「体罰」だと判断・認識・感じさせてしまうような身体への刺激にも反対である。

別言するなら、「体罰」とも「暴力」とも判断・認識・感じさせない身体への刺激…
それも相手の為になり得るような成長・発展を促す刺激には大賛成である。


だから、体罰・暴力には、時に反対、時に賛成である。

その反対・賛成の理由は、同じような身体への刺激でも、
それが、教育者と非教育者間では単なる指導であり、
当事者以外の者には、体罰と見られるな身体への刺激である場合である。




このように書いても…
体罰は体罰、暴力は暴力、としか思えないソクラテスには、
何の事やら皆目見当もつかないだろうが…


事実として存在しているのは、体罰でも暴力でもなく、身体への刺激であるのに…
それを、体罰?暴力?教育指導?…と分けるのは、人間の認識であるのに…


だ・か・ら・そんなソクラテスだから、
自由びとブログの記事の記述が、読んでも読んでも全く理解不能なのである。

理解不能な癖に、
イッチョ前にコメントを寄越して自己満足している自己満ソクラテスよ!
まあ~まあ~お宅はお宅で一所懸命に頑張り続けたまえ!
そうこうする内、少しは…まともに賢くなり得るかもしれないし…




















教育過程での体罰の意味・意義

2018-09-09 12:08:54 | 教育

体罰とは、体への罰である。
罰とは、罪を犯した時に受ける身体的苦痛。

教育とは、教え育てる事。
教育過程で、教育者が被教育者へ体罰を与える場面とは、
被教育者が何か当人の成長に不都合な事をしてしまった時、
しかも、当人がその不都合に気付けていない時、
教育者が、その不都合を理屈で説いても被教育者が分からない時、
上記のような条件が揃った時、
教育者が、被教育者の成長の為に敢えて加えるモノが体罰と言えよう。

「我が身を抓って人の痛みを知れ!」という言葉がある。
体罰は、この論理と同様である、と主張する者もいるが…

私は少々違うと考える。
その違いとは、
我が手で抓って感じる我が身の痛みと
他人の手で抓られて感じる我が身の痛み、である。


教師の児童・生徒への体罰は、他人の手で加えられたモノであり、
決して「我が身を抓って人の痛みを知れ!」ではない。

それでも、児童・生徒が教師を信頼していて、
教師の手=自分の手の如くに感じ取られモノなら、
結果的に、
己の行為・行動の結果に不都合を感じ得なかった被教育者も、
教育者の体罰を通して、己の行為・行動の不都合を実感・体感可能になり得る。


信頼感とは何か?
信頼して頼る感覚である。

信頼感の根底には、相手への好感がある、だろう。

好きな相手だから素直になれる。
嫌いな相手だから逆らう。

好きで気に掛けて欲しいから敢えて逆らう。
好きだから素直に甘えて逆らう。

嫌いだから黙って聞いている振りをする。
嫌いだから無視して素直な振りをする。


信頼感とは、そこに一体感が伴うモノだろう。
でも…一体感があっても信頼感になり得ない時がある。
それは、己自身への信頼感が未形成の時。

または、一体感はあっても、自己主導の一体感である時。
教師の思いへの自己の一体化でなく、
自己の思いへの教師の一体化である。


別の視点から体罰の効用は、
集団生活での不都合な行為・行動の明確化であろう。
言うなれば、「反面教師」的効果である。

体罰は、現象的には個人身体へ加えられているモノである。
しかし、本来それは、不都合な行為・行動への罰である。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが…
不都合な行為、そのモノは間違いであるが、
不都合を犯してしまった者は間違っていない。

間違っていない理由は、人間は動物である。
その行為・行動の結果は、その場では不都合で間違いであっても、
その行為・行動の実行があった事は、動物として間違いではない。


この間違えとは、全体の流れの中での、その時の「不都合」であり、
時と場所・状況と条件が異なれば、「不都合」ではなくなるモノである。


体罰否定の現代の教育現場では、
体罰ではない方法で、
不都合を自覚・実感させ得る事が求められるのだろう。

それは、体罰を体罰を感じさせない関係の構築でもある。
「体罰」があるのでない、
ある事を人が「体罰」認識するのである。
それは、教育者の指導場面での行為・行動を
人が「体罰」と認識・実感するのだろう。


体罰を体罰と認識させなければ、そこに体罰はない。
体罰を体罰と認識しなければ、そこに体罰はない。

それでも、身体に残るような大怪我をさせてしまった時、
当人が体罰と認識しなくても、周囲には体罰とされるだろう。