久しぶりの更新である。
家内と私の確定申告、父の準確定申告、
相続による不動産登記の移転手続き…等が終わって、
残るは相続税の申告書ひとつとなり、少々心の余裕が生じた。
だから、やっとのブログ更新である。
そこでそれなら、やっぱり月研ぎさんの約束だろう!と思い書くことにした。
以下は、月研ぎさんのコメント、である。
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距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。
1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育
例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。
つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。
学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。
自由びとさんの展開
楽しみにしています。
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ここで先ず思うべき事は以下であろう.
「教育とは何か?」⇒「教え育てる事!」
また、ここでは、人間に対する教育である、から~
人間が人間を教えるとは?
人間が人間を育てるとは?
教師が、教師に対する教育、
教師が、児童・生徒・学生に対する教育、
児童・生徒・学生が、教師に対する教育、
児童・生徒・学生が、児童・生徒・学生に対する教育、
とある程度の具体化が可能である。
人間が人間を教育するには何が必要か?
そもそも、動物が人間を教育可能か?
否!人間が動物から学ぶ事は可能であるが…
そもそも動物が人間を教育したいとは思うだろうか?
「教育」が成り立つ為には、教育可能な関係が必要である。
それは、教育したい者モノ⇔学びたい者モノ、という関係である。
もともと学校は、
学びたいから行く、学ばせたいから行かせる、
そんな所だったのだろう。
それが何時の頃から、義務教育となり、
義務として行かせねばならない所が学校となった、のだろう。
教育が教育として成り立つには、
教育者には教えたい想い、
被教育者には、学びたい想い、
この両者の想いが必要なのだろう。
しかし、現代社会では、被教育者が「学びたい想い」を
自然成長的に持ち得るのは至難のようである。
「学びたい想い」を別言するなら
「ハングリー精神」とも言える。
ハングリーとは、
食べたい!欲しい!
成功したい!成長したい!
知りたい!識したい!
上達したい!上手くなりたい!
優秀な教育者は
被教育者を「その気にさせる」のが、
とても上手なのだろう。
今の勤務校に、私が凄いと感じている教師が二人いる。
一人は、低学年担任の女性教諭で、
もう一人は、高学年担任の男性教諭である。
女性は、普通に優しいが、時にとても厳しい。
男性は、普通に厳しいが、関わり方に優しさが感じられる。
この二人の言動態度を言葉で表現する事は、私にとって至難である。
事実的に書けば、この二人の学級での日々の授業は、
非常に落ち着いたモノである、言える。
二人とも、クラスの子供たちの心・気持ちを掴むのが上手い、ようだ。
さてさて…本題である。
1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育
↑
この四つを一つに一本化するなら、
それは「人間が人間を教育する」となり得る。
教えたい想いと学びたい想いがあるなら、
次に持つべき想いは以下であろう。
教育者は、自分の教えたいモノを相手に正確に伝えたい。
被教育者は、相手が教えたいモノを自分は正確に受け取りたい。
伝える為の必要なのは、言葉・動作・態度…であり、
受け取る為に必要なのは、それらの相手的な解釈であり理解であろう。
教育=教え育てる為には、
言葉で解説し、動作で示し見せ、態度で従わせる。
このよう事が必要だろう。
優しい時には、優しい態度の動作と優しい口調の言葉。
厳しい時には、厳しい態度の動作と厳しい口調の言葉。
言葉で書くなら、以上であるが…
問題は、人間が社会的である、という事。
それは、
先生の厳しい態度・言葉・動作を、
児童が、果たしてその通りに感じられているか?
また、感じていたとして、その理由を確り確認できているか?である。
以下は最近、今の特別支援学級で実際にあった話である。
ある母親が、
キレると必ず相手の髪の毛を思いっ切り引っ張るという、
息子の癖を直す為の家庭での行為が以下であった。
(私は、切れて担任を髪の毛を引っ張っているその児童を
何度も止めている、その際、
毎回その子の手に床に数本の髪の毛を発見している)
その息子が切れて母親の髪の毛を引っ張った時、
母親も、息子の髪の毛を引っ張りつつ、
「いい○○!」
「髪の毛を引っ張られた相手は、こんなに痛いんだよ!」
「…だから止めて!」と諭した。
その母親は、
「我が身をつねって人の痛さを知れ」を
痛感させ、実感さてせ、
その悪い癖を止めさせたかったのである。
でも!しかし!である。
私がその児童の担任から聞かされた、
その子の、その後は以下のようなモノであった。
それを聞いた時、私は驚愕した!
でも、同僚の補助員は以下のよう言っていた。
「それが彼ら情緒障害児でしょうね…」。
それを聞いた時、
成る程…と納得した私でもあったが…
さて、母親から
「我が身をつねって人の痛さを知れ」と
教育された筈のその児童であるが…
後日、ある日に学級でキレて、
やはり例の如く同級生の髪の毛を思いっ切り引っ張った彼が
担任から叱責されて言った言葉・弁明が以下であった。
「○○君の髪の毛を引っ張ったのは…」
「○○君に僕の痛みを教える為だよ!」
こんな内容だった、そうである。
母親は正しい教育を実行した筈である。
それは、その態度も言動も動作の合目的的であった。
しかし、息子は、母親の教育目的とは真逆の成果を得てしまった。
ここで何が問題だったか?
諺は、「我が身をつねって…」である。
でも、「この場合は、母親がつねって…」であった事…?
長くなってしまったが…
端的には、その原因は、
情緒障害児故に歪んで育ってしまった、
二重化能力が原因なのだろう。
教師から児童への教育が、
教師の意図・目的に反していまう理由は、
両者の認識・能力の大きな相違から、
互いに正しく二重化がなし難い、からであろう。
今回は、久々の記事の中に、
多くのモノを詰め込もうとし過ぎたようである…
今後は、一つ一つに分けて、
もう少し分かり易く文字・文章化したいモノである。