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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

発達障害についての仮説

2020-06-14 11:01:35 | 教育


発達障害とは、感情の発達障害。
人的な感情から人間的な感情への発達過程での障害。

人的な感情とは、動物的な感情。
それは、周囲の事を考えない自己中的な感情。

人間的な感情とは、社会的・集団的な感情。
それは、周囲の人達への気遣いを持った・含んだ感情。
その感情は、主に零歳から三歳までの間に発達する。

動物でもある人間が、動物的な人的な感情で、
どんな不都合があるのか?


人間以外の動物なら、その動物特有の本能がある。
なので、何も思わず・考えず感情?のまま行動しても、
その種としては何の不都合もない。


しかし、残念ながら、
人間には、
人間としての人生に必要な行動様式を可能にする
本能はない。


その人間としての人生を生きる為の行動様式は、
生後の教育によって、体得していくモノ、である。


その「行動様式」体得の為に必要不可欠な感情とは?

それは、
「変化に耐えられる」
「変化を嫌がらない」、
「変化を受け入れられる」、
「変化を受け入れる」、
「変化を喜ぶ」
「変化を喜んで受け入れる」…

このような感情・認識である。


ならば、感情の発達障害を起こさない為の、
零歳から三歳までの生活とは?


私の場合は、息子が生まれてから、育児書を読み
そこに書かれていた、「なるべく外へ連れて行く」…を実践した。


それは、歩けない息子を
抱っこ紐で抱いて時間があれば、
近くの多摩川・公園に散歩に行った。

当時、塾の講師をしていた私には、昼間結構時間があり、
まめに散歩へ抱きかかえて行った。

歩けるようになったら、今度は、
石がゴロゴロしている多摩川沿いの散歩へ連れ出していた。

また、マンションの二階から一階の階段で、ボールポン遊びを
よくしていた。

今、振り返ると、これらの息子との関わりが、とても良かったようだ。
その為だろうか?
今の息子は、スポーツも学業成績も非常に優秀である。


さて、人間にとっての人生を考えると、
それは「一寸先は闇」であり、
何が起こるか分からないモノ。

人生・生活は「変化」の連続である。

そんな人生を過去から現在まで人類は、
文明で、変化の少ない環境創りの為の機械を
文化で、変化を乗り越える為の手段・認識を創出してきた。


それでも、
自然の変化、
社会の変化、
人々の精神の変化は、

どんなに快適に変化の少ない生活・環境を求めても、
変化・変化は永遠に続くモノである。

だから、そんな変化に耐えられる認識・感情の養成・教育が必要である。





過去の大家族・兄弟たくさんの時代は、変化が激しかった。
また、貧しい時代は、少ないモノで工夫・変化させての生活が普通であった。



発達障害は、変化の少ない・恵まれた
零歳から三歳の生活過程で発生する、のだろう。

その過程で、突然に強烈な嫌な変化を強いられた結果、
変化から逃げる感情を慮質転化してしまった。


それは、
嫌だから嫌だ!
嫌なモノは食べない!やらない!…

そんな感情であろう。


では、
そのように慮質転化化されてしまった
感情を変化・変える方法や如何に?



補助員…

2019-09-26 11:13:31 | 教育



先日、副校長から補助員の生徒への指導についての再確認を受けた。


色々とあったが…
その中で気になったの以下の事である。

「生徒を叱るのは教師に任せ、
補助員は、注意だけに留めるように……」

以前勤務していた小学校では、
教師・担任が容認するなら、
児童を叱る事、諭す事、
時には強制的な指導も黙認されていた。
実際に、何度も担任・教師の前で、そのように児童と関わっていた。

しかし、今回の小学校では、
文章として、上記の文面の入ったモノを渡された。


優しく言葉だけで注意して聞く児童ばかりなら問題はない…のだが…
実際の現実は、そうは、いっていない。


子供は相手・大人・教師を観る。
優しいだけ、
厳しいだけ、
煩いだけ、
怖いだけ…

それだけでは、ダメであるようだ…


必要なのは、
子供達が喜んで従う、
自分から進んで従う、

そんな気持ちにさせる指導・言葉なのだろう。



学級崩壊が普通に起こっているのが、
現代の学校の実情なのだろうか?


それは、
特別支援学級だけではなく、通常級でも…なのだろう?


そもそも~
「学級崩壊」とは?


児童が教師の
言葉を聞かない、
指導に従わない、

それは、多くの児童が、
自分の感性が一番、
自分の考えが一番、

そんな
一番の自分に従って行動するのが一番正しい!
といった…認識なのだろう~











小三のエム君

2019-09-26 10:48:54 | 教育

先日、エム君について、算数の交流授業に行った。

その日の「めあて」は、
文章題で「式を考える・立てる」といった内容であった。

言葉で考える。。
図で考える。
数式を書く。

問題
16メート213円のリボンがあります。
3メートル買ったらいくらになりますか。

言葉で考える~
1メートル値段×3メートル=代金

図で考える~
数直線を書いて、下にメートル、上に値段を記入


数式
213×3=


早速、エム君は、
数式書いて、計算して答えを求めて終了である。

私が、
「エム君!言葉の式も考えようよ!」と言った所。

エム君の言葉は、
「そんなの無駄だよ!」
「もう~答えは出たでしょう!」、であった。


そう~
塾・公文に通っているエム君は、学校の先生の指導・言葉よりも、
公文・塾の指導・教えに従う方が楽なのだろう…










続・普通について…

2019-09-26 10:27:51 | 教育




通常級の五年生の担任が、児童達に以下のような事を言っていた。

「質問されて、『普通です!』では、答えになっていない!」
「例えば、『おなか減っている?』と聞かれ…」
「『普通です!』では、この質問の答えになっていない…」


この言葉を聞いてた時、私は思った。
私は、いつも「普通です!」と言われ、
「そう~普通なの…」と納得してしまっていた。

でも、今回改めて思い直してみると…
この「普通です」は、答えた当人の普通(の状態)という事であり、
それは、
「普通に腹減っている」とか、
「普通におなか一杯」とか、
「減ってないし、一杯でもなく、丁度よい普通」だったり…であろう。

この、「普通です」という言葉は、
答えは、「普通」で終わり、
それ以上は何も考える必要なし…

といったような
アバウトで適当・いい加減といった誠意を感じさせない言葉てある。


もっとも…
日常の挨拶としての言葉である「おなか減った?」と
子供の健康管理の一環としての「おなか減った?」とでは、
その答え方・心の込め方もも当然に異なってしまうが…


それでも、
日常的な質問としての言葉であっても、
先生の言葉に対しての児童の返事ならば、
「普通です!」は如何なモノだろうか?





月研ぎさんの宿題にいて…

2019-06-02 09:15:09 | 教育



月研ぎさん~

なかなか思い通りモノが浮かばず、考え出せず…
結構、考え悩み続けていました。
でも、ようやく、
それなりに納得できるモノが書けそうなので書いてみました。




月研ぎさんから、以前に頂いた以下の宿題について


せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。


1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育




例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。

つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。

学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。

自由びとさんの展開
楽しみにしています。




ずっと時々考えていました。


教師と児童の実力は?
その差である「距離」とは?
その「距離」の知縮め方は?
距離が縮めるとは?


そこで具体的な算数の授業を思い浮かべた。

先ずは数の概念を教える。
その為に、物の概念…
そこでは、物の数え方は、
一つ、二つ、三つ…であり、
決して、
一人、二人…一匹、二匹…ではない事。


そして気付いた・思い浮かんだ~
学校教育において、
教師と児童の間に「教材」が置かれている。
そして、教師には「教育指導要綱」と手引きがある。

その教員の実力を考える時、
その人物の
① 人間的実力と
② 教師的実力 の二重化で考える事で、
「距離」を縮める為の手引きとなり得る。


教師は、
人間力と教師力の養成・強化が距離を縮める方法である。


教師力には、教材知識と教育力に分けられ、
教育力には、人間一般の認識力と個別の人間理解力、


現実のクラス対応では、
先ずは、教材を確り自分のモノする努力。
次に、対象学年の一般的成長・発達段階を認識する努力。
そして、一人一人の成長・発達段階を認識する努力。
更に、クラスの集団力の現状の把握の努力。


教育力の土台に強力な人間力・人間性が求められる。
人間力と人間性の土台が科学的正しい「人間」理解である。


その教師の人間的実力を児童に近づける為に
「教材」・「教育指導要綱」を学び使い。

日々の授業目標と個々の児童の距離を縮める為に、
教材研究・工夫を行い。

その日に教えた目標との距離を縮める為に
教師の個別指導や同級生のミニ先生指導がある。



もう少し全体的抽象的に書くなら、

算数を教える目的は「数学的概念」の把握であろう。
だから、教師自身が「数学的概念」の把握を目指す。
その為に、過去に学んだ自分の「数学的概念」の認識レベルの自覚が求められよう。


更に書くなら、教員は「己の現状レベルを識る」必要がある。
それは、心理・感情認識、知識・概念認識、体力・実行力認識…




苦悩する事無く、正しく人を教えるには、
先ずは、「己自身の全てを識る」努力が求められる。
そして、「人間を識る」努力もであろう。


そうそう最後に教育全体に必要な事は~
「学ぶとは真似る」とも言われていて、
「形・型」を覚える。
「形・形」に慣れる。
「型・形の使い方」を覚える。
「形・型の使い方」に慣れる。
「形・型」を使って問題を解く。

だから、教師は、児童が素直に、
教師の話・指導を聴けるよう躾ける必要がある。


この躾が、現在の学校教育では至難である。
過去では、家庭で徹底的に出来ていた
「先生の言う事を聴く」が現在の学校では「?」である。

以上が、
月研ぎさんの宿題への取り敢えずの提出物です。
もっと突っ込んで頂けたら、
より深く掘り下げられるかも「?」です。


そうそう


1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育


これらも、
人間力の指導、
教育力の指導、
学ぶ力の指導、
学力の強化指導、

と分けて、教材・目標設定を的確にすれば…
もっとも「教育力の指導」は学生には不要ですが…
それでも、他人を教える過程で教育力は自然成長的に付くモノです。