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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

なぜ基本なのか?

2018-08-06 18:02:38 | 弁証法


弁証法の三法則が基本である理由とは何か?

弁証法は知識ではなく論理である(そうだ)

知識と論理の違いは?

空手の型を知っている、が知識なら、
空手の型を演じられる、が論理であり、

空手の型が演じられる、が知識なら、
空手の型で敵を倒せる、が論理であろう…


弁証法が論理なら、論理を知らずに弁証法の修得はない。
ならば、弁証法の学びの初めは、論理を知る事であろう。

知識としての「量質転化・質量転化」の法則で対象と関わる事で、
論理としての「量質転化・質量転化」化を実感・体得する。
同じく「対立物の相互浸透」、「否定の否定」を……である。


「量質転化・質量転化」は、対象そのモノの弁証法・変化であり、
「対立物の相互浸透」は、対象と周囲・環境を含んだモノであり、
「否定の否定」は、変化の始まりから終了までの過程を含んだモノであろう。
これら一つ一つは、少々質の異なっている「論理」であろう。

弁証法の習得には、論理の論理的習得が不可欠であろう。
だから、「論理」を論理的に実感・体得するのが基本なのだろう。









無自覚と自覚・二重の意識…

2018-08-05 11:01:05 | 弁証法

普通に、僕は僕、私は私、俺は俺。
なのに、僕とは何?私とは?俺って?
それを知らない!

そう~
僕は本当の僕を知らない。
私も、そして俺も知らん。

僕も私も俺も、私を僕を俺を、知らないのに…
僕は僕、私は私、俺は俺として日々生きている。


しかも、
息子としての僕、
教師としての私、
父親としての俺、
他人としての私、的な日々生きている。



先日、久しぶりの大失敗をした。
それは、夏休みのプールの補助での事である。

教師の指示があったも関わらず、
プールからなかなか出ない一人の男子児童を厳しく叱ってしまった。

その男子は、教室での補助員としての私を知っていた。
しかし、プール・水泳指導補助員としての私は初めてだった。


教室という危険の少ない状況での補助。
プール・水の中、という危険な状況での補助。
その違いから、私は私なのに、
プールでは教室とは違う私だった、のだろう。


彼には、
彼の期待している私、
彼の予想している私、
があったのだろう。


でも…彼の中の私と、その時の現実の私は、大きく異なっていた。
それは、優しい私ではなく、とても怖い私だったのだろう。

優しいと確信していた人の態度が、とても怖くなっていた。
そのギャップを彼は克服できずに、自虐的になってしまった。
プールが終わったのに、
その場を動こうとせず壁を蹴ったり、扉を蹴ったり…であった。


現代の子供達、
その認識に柔軟性があまりないように私には思える。

未熟な子供は、失敗が当たり前、上手くなくて当然、
叱られて当然、叱られて伸びていくモノ…なのに~


この男子児童は、プールが楽しくて、全員が水から出ているのに、
一人で、潜って楽しんでいた。


彼には、回りが見えていなかった。
彼は、回りを視ようとしなかった。
彼にとって教師の指示が絶対的でなかった。


私が彼を叱った事に間違いはなかった。
でも…あの自虐的な反応をさせてしまった事は失敗であった。


叱り方、注意の仕方、指示の出し方…
全体に対する指示と個人に対する指示、
内容は同一であっても、その態度・言葉は変える必要があるのだろう。


私の叱り方も、
全体への叱り方と個人への叱り方、
A君への叱り方とZ君への叱り方、
それらに二重性を求め、二重化して、実践すべきなのだろう。

私の心の葛藤を、
正しいのに間違っていた、という心の葛藤を

相手の態度・言動を、
相手の成長・発展方向へ変える為の私の言動だったのに…

結果的に、楽しんでいた相手を不愉快にしてしまい。
休憩後に再びプールで泳げた筈なのに泳げなくしてしまった。


善意からの言動が、善意ではなく悪意と捉えられ、
素直に受け入れてもらえず、無視・反抗・暴走化してしまった。


それは、相手への善意が大きい程に、
受け入れてもらえないショックは大きい、のだろう。


普通、相手を思う善意の言動は、相手に伝わると予想・確信している。
でも、その予想・確信が外れる事もあり得る、という予想・確信はない。
持つべモノは、全ては変化・運動する、という予想・確信であろう。


自覚的に弁証法を意識して、
日々のモノ・コトを弁証法的に捉え、
それらと弁証法的に関わり…続ける。

その結果、少しずつ弁証法の無自覚化がなされ…
己の認識が自覚的弁証法と無自覚的弁証法の二重化される。

それでも…自覚的に弁証法を意識し続けるのが、弁証法なのだろう。





















二重の意識…

2018-08-04 17:00:58 | 弁証法





最近、洗面所に入って明かりを付け、目的を果たして出る時、
明かりの消し忘れが多い事に気付いた。

以前も消し忘れはあったが、
今ほど多いと意識した事がなかった。

今と以前の違いは何か?
それは、洗面所が変わった事である。
洗面所が変わった訳は、住んでいる家が変わったからである。

では、何故に洗面所変わったら、
明かりの消し忘れが多くなったのだろう?

明かりを消すには、電灯のスイッチを切る必要がある。
以前の家と今の家では、スイッチの位置が大きく異なっている。
以前のスイッチは洗面所の外にあるのに、今は中にある。

なので、以前の意識は、洗面所を出てから明かりを消す。
しかし、現在の意識は、明かりを消してから洗面所を出る。

以前の家には、二十年近く住んでいて、その行動が習慣化されていた。
でも、今の家には、まだ十四か月しか住んでいない。
だから、今の家のスイッチを消す事が習慣化されていない、とも言える。


それでも…私は考えた、本当に…
そう考えてよい!のだろうか?と…


洗面所から出る時の自分の意識を見つめると、
「さあ~○○やろう!」と次の行動を意識している事が多い。
この時、「明かりを消す!」とい意識はない。
また、当然に「洗面所から出る」という意識もなかった。

これは、未来の目的意識はあっても、
現在の目的意識も過去の目的意識も失念されている。

消し忘れを無くすには弁証法的な意識を持つ事が必要なのだろう。

この弁証法的意識とは、
初めは、洗面所に入る意識と目的意識
次は、目的意識と達成意識、
最後に、洗面所から出る意識と次の目的意識、

電灯を消さないのは、次の目的意識はあっても、
洗面所から出ようとしている意識がないからである。


だから、消し忘れを無くすには、自己の意識を
目的意識と現状認識に二重化する必要がある。


眼前の現実の反映を意識しつつ、
自己の認識を見つめる、
この二重性が必要であろう。


現実を反映した意識と発展させた意識、
今の目的意識と達成後の新たな目的意識、

意識の二重化が必要。
それは、私の意識と(著書から読み取った)南郷継正の意識、

子供の意識と両親の意識、
子供の意識と教師の意識、
国民の意識と国家の意識、


そんな意識の二重化、
認識は一つでも意識は二つ、
そんな二つの対立から変化・発展が起こり得る、のだろう。





超実感!絶対真理!

2018-06-16 11:41:30 | 弁証法



私は、真理とは現実と認識の一致であり、同一的運動状態とする。

そこで哲学を考えるなら、
哲学とは、その時代・世界に対する人類の認識であろう。

その哲学者の認識・学説が、
その時代の人類の認識・精神合致するなら、それは絶対真理と言える。

認識的であり、社会的な人類は、時代と共に変化・進化・発展して行く。
ある時代の哲学が、その時代の人類にって絶対真理であっても、

時代が変われば、人類が変わる。
変化した人類にとって、過去の絶対真理は絶対たり得ない。
過去の時代に合致した絶対真理でも、変化した現代には合致し得ない、から。


確かに絶対に正しい「絶対真理」はある、と言うよう。
それは、その時代で絶対的に正しいモノである。
そして、時代が変われば、その時代の「絶対真理」は生まれる。
しかし、それは、過去の絶対真理と同じ内容たりえない。

「絶対真理」という言葉として同でも、
その「絶対真理」の中身・内実は異なって行くものだろう。


絶対真理を遺言書に例えれば、
現代日本の法律に合致している限り、その遺言書は絶対的に正しく有効である。
しかし、国が法律が変われば、その遺言書は正しく足り得ず無効となり得る。
または、新たな遺言書が書かれれば、その遺言書は正しくなく無効である。


絶対真理を空手技の例えるなら、
絶対に相手を倒せる技=絶対技を持っている達人がいる。
そんな達人でも、その技の使い方を間違えれば絶対技足り得ない。

絶対技が絶対であるには、常に対手と絶対技の合致が必要である。
常にその技を対手に一撃必倒で使用できる状態の技が絶対技なのだろう。

愚案君はヘーゲルを絶対真理としている。
でも…残念な事に、それは彼の思い込みだろう。

彼の人生で絶対的に正しいモノでも、
他人の人生では正しいとは限らない。

私は、相対真理=絶対真理である、とは思っていない。

絶対真理は絶対真理である。
相対真理は相対真理である。

しかし、それらの内実をみた時、
絶対真理の中身・内実は相対的である。
相対真理の中身・体実は絶対的である。

これらは、
事物の構造の過程・過程の構造の表現の相違・問題である。







小学四年の道徳で~

2018-06-11 16:39:18 | 弁証法


小4の道徳授業で「きまり」について勉強していた。

それは、
小4の児童が目覚まし時計をプレゼントされて、
毎日、時刻通りに早寝早起きのきまりを作って、
それを破って後悔している様子であった。


担任は、授業で他人は児童達の「きまり」について聞いて板書した。
それら色々のきまり中に
「ゲームの時間は一時間以内」というものがあった。

別の児童が、
「時間を守れずオバーした時は一週間ゲームをしない」と言った所、
担任は、「ゲームは一時間以内と同じだね…」言った。
そこで私は「…本当に同じかな?」と思った。

それは、
この「時間を守れずオバーした時は一週間ゲームをしない」
というきまりは、
「第一のきまり」を守れず破った時の「第二のきまり」である。

自分が決めた「きまり」が守れず落ち込んだ時、
次の「きまり」を守る事で、
破った失敗を守る成功へと導けるようにする。

その事は、その子に新たなチャンスがうまれ、
それを守れるように努力すけば、
その子にとって自信に繋がるのだろう。

ゲームに関して同じに思える二つのきまりである。
でも二つのきまりには重層性・弁証法性があった。