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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

忙しい・「距離」…について

2019-03-17 15:10:49 | 弁証法

月研ぎさんから、コメントを頂いた時、本当に忙しかったのか?
確かに、忙しかったのは事実である。

しかし、それでも…
忙しいからと言ってブログを書けない程の忙しさだった…
と言えば、そうとは言えない。

その理由は、
テレビを視る時間はあった。
寝る時間もあった。
買い物へ行く時間もあった。
からである。

人間にとっての「忙しい」には、
二重性がある。

一つ、身体が忙しい。
二つ、認識が忙しい。

24時間休みなく、働き通しなら、それは身体的な忙しい…
しかし、普通に考えて、それはあり得ないだろう。

仕事せずに身体的に余裕・時間があっても…
仕事の事を思い続けているなら、それは忙しい、となり得る。

月研ぎさんからコメントを頂いた時の私は、
勤務中の学校では子供達の事を想い・考える事に忙しかった。

帰宅したなら、確定申告の事、不動産登記の移転手続きの事、
そして、相続税の申告書の書き方の事…等を想い・考える事に
心も頭も使われていて忙しかった。

そんな私には、教育について、
まともに思い考える頭脳の余裕は皆無であった。

そんな私だったが…
今は、
私と家内の確定申告も
亡き父の準確定申告も終わり、
不動産登記の移転手続きも終了して、
残るは最後の相続税の申告書を書くだけとなった。

そんな状態の私だから、
やっと、まともに月研ぎさんのコメントに応えられるのだろう。

それは、
「距離」についてである。

ここでの「距離」とは、
私の認識と月研ぎさんコメントとの「距離」である。

月研ぎコメントを読んだ時、
それまで思いも考えもし得なかった
(先生と児童の)「距離」というモノが身近に認識し得た。

しかし、そのコメントを読み終わった瞬間、
その「距離」は遥か彼方へと去って行った。

その大きな理由は、
初めて知り得た「距離」というモノは、
私にとって身近なモノではなかった。

それでも、心に頭に余裕があれば、
未知のモノでも、離さずにいられただろう。


ある子供にとっては、身近なモノでなかった先生の教え、でも、
別の子供にとっては、身近なモノ足り得たなら、その別の子は忘れない。
そして、忘れない子供の言動は、先生の傍でなら先生的足り得るだろう。

そんなミニ先生的な同級生・先輩が、傍にいれば、
先生の教えが身近ではなかった子供の身近に、
「先生の教え」が存在し続け事になり、
その結果、身近に先生がいないにも関わらず、
先生の教えが身近にあり続ける事になる。


先生の教え・言葉・認識は、高度で多彩、多義である。
それを子供は、自分の分かる範囲で習得していく。

他の子供が、習得できた範囲の事なら、
例え先生の言動から、その教えが分からずとも、
他の子供の言動から習得可能であろう。

先生の教え・目標・悟り…等は、
今の自分の位置からでは、
遥か彼方で見え難いモノであったとしても…

自分よりずっと先にいる者には、
その教えの微かな影が見えるのかもしれない…

そんな、
先に立っている先輩の言動・様子・態度から、
遥か彼方にあるだろう…先生の教えの位置を想定して、
歩み続ける事が肝心なのだろう。

今の目の前の先生は、別の先生の教え子かもしれない。
更に、その別の先生は、他の先生の教え子なのかもしれない。
そして、その先には、もっともっと先生がいるのだろう。

何しろ「先生」とは、先に生まれた人、なのだから…
最終的・究極的な先生とは、宇宙・世界・自然…であろう。



だから…
動物的な本能が消失した人間は、
宇宙から、世界から、自然から…
学問を学び習得し続ける必要があるのだろう…


続編「一体化の為の二重化」

2019-03-17 10:31:58 | 弁証法


以下は、空ちゃんにしては、
比較的真面で、
読みやすいコメントだったので、
ここで、記事として取り上げてみた。





「・コメントを書いた人
・コメントが届いた記事
~一体化の為の二重化~」

「・コメントを書いた人」
「空」


・コメント
「自由びと氏に理解してもらえるか分かりませんが私が十代の頃に南郷さんの武道講義や瀬江千史さんの医学論を読んだとき非常に面白く楽しく読み通せたのは考察すべきことでしょうね。」




ここで、「非常に面白く楽しく読み通せた」とは問題である。
それは、「武道講義や医学論」は、
読者を楽しませ・面白がらせる為に書かれてモノでないから…である。




「それは単に両氏の文筆力の為せる技で私はただただ「凄い…」と魂を鷲掴みにされたように呆然としていたのですから。」


更なる問題は、
「凄い…」のは、「両者の文筆力のなせる技」なのではなく、
両者の事実的な研鑽の深み…と言う認識にならなかった事、





「ですが月日は流れて私の頭脳も発展していきました。昨日の私の投稿からも私が南郷さんの『弁証法・認識論への道』を超えたレベルに到達していることが自由びと氏には理解できないですかね?」



確かに、「月日が流れて…脳の発展」でしょうが、
同時にそれは「凄い…」と感じ得る若さ・素直さ…感性の消失でもある。




「そして瀬江さんの「生理学はヒト(人間以外の動物)の生理学でなく人間の生理学とならねばならないし、医学はヒトの医学でなく人間の医学とならねばならぬ」との発想が「ヒト(人間以外の動物)から人間へ」という教育学の発想を接ぎ木したものだと理解できたわけです。」


教育学的に書くなら、それは「教育学の発想を接ぎ木」ではなく、
人間にとっての根本的な教育(学)の必要性の証明…なのに…




「それは瀬江さんの周辺人脈である薄井坦子さんや神庭純子さんが先ずは教育学を専攻してから看護学を学んだ行き方からの影響も想起されますが瀬江さんの「認識生理学」なる発想はそもそもが「心身医学」のような部分的で時に学際的な対象を生理学一般(全般)や医学一般(全般)にまで不当に押し広げるもので、学問的な内実は医学ないしは生理学が教育学支配下にされるがごとき発想なんです。」



後付け・こじ付け…自分勝手で自己正当化的な発想。



「それは薄井さんや神庭さんが大学で教鞭をとるという「生理学の教育学的な実践」といったものとは似て非なる「専門的な学問領域である生理学の内実が教育学に支配される」がごとき学的内実なのです。」



事実として「生理学の教育的実践」と書いているらなら、
それは、
「動物的・本能的な生理を人間的・認識的な生理」
への意図・意識的な変換を教え育てる為の実践…だろう…



「瀬江さんがあの「認識生理学」の文章を書いたのは、おそらく20代後半か30代前半なんでしょうが、頭脳が学的な実りを迎える時期というのは確かに存在するようです。」



「頭脳が学的な実りを迎える」には、
確りちゃんと学問の種を植えるのが必須だろう。
それには、種元から、
ちゃんと確り「学問の種」を譲り受けるのが必須。


空ちゃんは、若かりし頃に、きっと数多くの種を集め得たのだろう。
でも…残念な事に、彼の集めた種は余りにも雑多で多かった故に、
心を込めて確りちゃんと「学問の種」を育てられなかった、ようだ!


非常に残念な事に、それを残念無念とも思えずに、
あってはならないのに、あろう事か!
それを自己正当して
「…学問を学問ではない…」と、
言い切っている今の空ちゃんの言説は,
まさに「空虚・虚無」そのモノ!である。




空ちゃんは、一体化すべき対象を間違えた、ようだ。



私も「概念の労苦」に挑戦!

2018-09-25 11:53:31 | 弁証法



談話サロン天寿堂掲示板で展開されている
[2924]【南郷先生の錯覚にもとづく壮大なる徒労】について、
私も「概念の労苦」にチャレンジしてみようと思い、
この記事をアップする。


初め、読もうと一目見た時、
『いや~文字が多すぎ…』~
『~大変そう』~
と一度は止めてしまった。

でも、それでも「錯覚」、「壮大なる徒労」…
といった文字に惹かれて再度の挑戦である。


さて…

先ずは以下の疑問からである。


>南郷先生は、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問体系を捨ててしまいました。


南郷氏の「学問体系」、
愚案くんの「学問体系」、
ヘーゲルの「学問体系」、
これら、全てが同じ像「学問体系」なのだろうか?

愚案くんは、それらの相違を知った・分かった・識った…上で書いているのだろうか?



>つまり、南郷先生は、ヘーゲルを受け継ぐと云いながら、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問の方を捨ててしまって、受け継いでいないのです。


ヘーゲルの学問像と愚案くんの像は一致しているのか?
仮に一致していたとして、
絶対精神の自己発展で説かれたそヘーゲルの学問が、
誰にでも習得・修得・体得可能か?

ヘーゲルの個人的な観念論的学問像を、
誰にでも理解可能な唯物論的像への変換が必要なのでは?

唯物論では、誰にでも理解可能な学問像が求められるが、
観念論なら、己さえ理解していれば、その表現は自由なのでは?

同じモノ・コトの像が観念論も唯物論も同一なのだろうか?
また、その同じモノ・コトの表現・言葉…も同一なのだろうか?


絶対的観念論者は、己の説いて・書いているモノは絶対的に正しい、と思い込んでいる。
しかし、その表現は他者理解の為である筈、ならば、それは唯物論的であろう…

そもそも…
唯物論的に説かれている「南郷氏の認識」を、
絶対的観念論者の愚案くんは理解しているのだろうか?

その理解方法とは、<即自的存在とか対自的存在、自己同一性>である筈…
ヘーゲル哲学を肯定している自分<即自的自己>があり、
南郷氏の認識を否定している自分<対自的自己>がある。

二つの自己を自らの発展の為に<自己同一性>化する為には、
ヘーゲル絶対の自己で南郷氏絶対否定の自己を潰す事であろう。

その理由は、
観念論は、いくら頑張っても個人技。
唯物論は、人によっては一般技になり得るモノ。だから…















>不思議なことに、ヘーゲルの書を一生懸命まじめに研究しているどの人よりも、ヘーゲルの云わんとしていることが分かるようなのです。それは事実として、この談論サロンで展開してきた内容を読んでもらえば了解してもらえると思います。


この『分かるよう…』が、単なる愚案くんの思い込みでない証明は?
それは、ヘーゲルの言説からではなく、唯物論的な解説・一致なのでは?















>その元・土台となったのが、ヘーゲルとは関係なしに、自力で、唯物論の<相対的真理>根本論を大転回して、絶対的真理を根本として相対的真理をその構造とする真理論へと変えたことです。


この「真理論」が真理である証明・根拠は?














> 悠季真理先生は、唯物論の悪弊ですべて論理は事実から順番に這い上がっていくものとの思い込みから、このような解釈をしているのですが、これは全く違います。アリストテレスは、まさに自ら創り上げた<学問の冠石>つまり形而上学から「概念の労苦」を通して、事実的論理との相互浸透を図って時代の学問を創り上げていった、その過程を歩んでいたという事実を、この叙述は物語っているのです。

↑~
ここに書かれている「事実的論理」は、どのように生まれているの?

事実は事実で論理ではない。
それらの事実との関わり方の相違は?
観念論的か?唯物論的か?その相違は?











> ヘーゲルは、それをギリシャ哲学の三側面として論理化しています。

<抽象的悟性>→<否定的理性(弁証法)>→<肯定的理性(統体思弁)>

 解説しますと、抽象的悟性は形而下の世界の事実的論理であり、否定的理性はエレア派のパルメニデスやゼノンの世界全体の論理であり、統体思弁の肯定的理性は、その両者を概念の労苦によって統体止揚して一体化して体系づけることを云います。アリストテレスは、まさにその作業をしていたわけなのです。ところが、そういう事実を前にしても、ヘーゲルを否定して、唯物論にアタマが囚われてしまっているから、このような恣意的な誤った解釈をしてしまうのです。、



↑~
<抽象的悟性>は、どこから・どのように生じるの?
<否定的理性(弁証法)>が、本当に正しい「否定」である根拠?
この二つが間違っていれば、<肯定的理性(統体思弁)>はどうなるの?















>どういうことかと云いますと、唯物論は絶対的真理を認めないから、観念論的な絶対的真理の系譜・潮流を、そもそも認めるわけにはいかないので、カケラとして扱うしかなかった、ということです。さらに言えば、合宿での闘論とか、本読み奴隷の量質転化が、弁証法的な論理能力を作ったという物質的原因ばかりに注目して、肝心の観念の中身自体の発展を見ようとしない、という唯物論的な方法論の欠陥が作り上げたその弁証法形成の歴史過程論に、パルメニデスとゼノンを位置づけられなかった結果ともいえます。だから、カケラとして扱うしかなかった、ということだと思います。つまり、南郷学派の弁証法形成の歴史過程論は、現実とあっていないということをこの事実は示しています。



↑~
「観念の中身自体の発展」が、正しい「発展」である条件は?
「発展」は、変化である。
その変化が、真の発展・変化である、の証拠は?


















>と云いますのは、細かい生命の歴史の論理までは究明していなかったにもかかわらず、ヘーゲルは、<生命ー認識―学問>という弁証法的な三項の発展の論理を見事に措定しているからです。これが如何に見事かは、後世の南郷学派の生命の歴史論の発展を、自らの構造と化して発展できる発展性を持っている点に在ります。具体的に云いますと、生命の遺伝子の体系性に支えられた本能が、一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ、その認識の発展によって、即自的な遺伝子の体系性が、認識の発展を通じて対自的な体系性を持つ概念となって、「概念の労苦」を積み重ねていった結果として、学問の体系化が完成して、即自的な絶対精神が、対自的な絶対理念へと発展すると直接に自らに回帰する、という具合にその構造がどんどん進化してく見事さなのです。


↑~
「生命の遺伝子の体系性に支えられた本能」とは?
「…一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ…」
の具体的な置き換え方とは?

「その認識の発展」とは、どのような発展?
だれもが、そのような発展が可能なの?

まだまだ…あるが…
こんな・そんな疑問を投げかければ…切りがない。
例え、愚案くんが、絶対的に正しかったとしても、
その記述を読み解いても、
絶対的に全く正しい生き方・生活…
そんな日々が送れるとは思い難い!
















>[2928] 【「概念の労苦」によって「精神の王国」は更新・発展」する】
> いきなりの閑話休題ですが、何か誤解されているようですが、私は唯物論を否定してはいません。観念論を否定して唯物論だけで学問を創ろうとしていることに対して、異を唱えているだけです。そして、それが如何に間違いかを証明するために、唯物論だけだとこのように学問の歴史を正しくとらえられず、歪めてしまうことになる、という南郷学派が実際に犯している誤謬を指摘したのです。

↑~

あれ・れ…
南郷氏は、世界観としての観念論は否定していても…
世界観としての唯物論の保持を元に、その自らの観念を駆使しての論理展開は肯定しています。
愚案くんの認識内では、
世界観としての観念論と観念を駆使した論(観念論)がゴチャゴチャなのかも?
















> しかし、この滝村先生の評価は、マルクス主義の形而上学的発展史観に囚われた、まさに物理的・物質的要因を歴史の原動力と見て肝心な点を見ようとしない、唯物論者特有の欠陥がもろに現われたものです。では、その肝心な点とは一体何か?それは、日本は、「和を以て貴しとなす」という国家理念を憲法として国創りを行った、国家の本質論に則った世界で唯一の国だということです。しかも、その憲法制定は、近代国家を世界で最初に作ったと云われている西洋の憲法制定(それも本来の憲法とは程遠いものでしかなかった)よりも六白年も早かった、というまさに異次元の凄さでした。
>天下の国家論学者ともあろう者が、このような国家論の特筆すべき事実を知っていながら、ガラパゴスなどと、あたかも歴史に取り残されたような評価のしかたをするというのは、考えられないことであり、学者生命をゆるがしかねないレベルの失態!といっても過言ではないと思います。その原因は唯物論にあります。その唯物論が、ヘーゲルを学んでも、ヘーゲルを正しく吸収できなくしてしまうからです。

↑~「ガラパゴス…」とは、
世界的な激しい変化的な環境から隔離された、
世界とは異なった安定した変化の環境、という事で、
決して「歴史に取り残された」ではない、と私は理解しています。


それは、世界歴史とは、異なった歴史的発展をしたモノです。
ただ…そんな異なった環境での発展だから、
周囲・環境の状況が激しくなれば、その安定は崩れゆく宿命という事。


例えば、温室で育った植物は、どんなに美味しくても、
温室の外へ出されれば、全く異なったモノになり得る、というモノ。

そんな理解が愚案くんにはでき難いのでしょう。


これも、「絶対的観念論」とか言って、
他者の言葉を唯物論的に理解していない罰ですね、



















> では、観念論からこれを見ますとどうなるかと云いますと、全体を統括する一般論=学問の冠石=概念を主体と見ますから、まず最初に、これが生まれますが、こっれはまだ中身が空っぽですので、その中身となるべき事実の論理の成熟を待ってじっと待機しています。ある程度事実の論理が成熟しますと、学問の冠石は、そろそろとそのままでは全体の一部にはなれないよと否定的な干渉をはじめます。これによって、定有が対自有へとへと変化して、全体に組み込まれる準備が整っていきます。
>一方で、論理の論理である本質論の方も、部分性の全体と全体性の部分との統一が図られて組み込まれる準備が着々と進行していくことになります。その結果として、有論の中身と本質論の中身とが統一されて概念の実質となり、構造となった時、即自的な概念は対自的な概念へと更新されバージョンアップされて、発展していくことになります。

> これが本当の「概念の労苦」なのです。つまり、これらの一連の作業は、概念の統括の下に行われるということであり、それを論ずるのが概念論なのです。つまり、概念論は、概念が、概念の労苦を通じて学問体系として発展していって、絶対理念へと至る道筋を説くものなのです。ですから、南郷先生が批判した訳者の注の方が正しいのです。参考にその訳者の注を引用してみましょう。

>「ヘーゲルが『概念』という時、この言葉は非常に強い意味をもつ。事物について我々が抱いている一般観念とか、あれこれの言葉について辞書に書かれているような意味内容と言ったことにつきるのではなく、事物自身の内的本質とその関連を表わし、ほとんど、事物を構成している原理そのものと考えられる。やがて論ぜられるように、こうした概念の自己運動を把握することが、すぐれた意味での『学問』だというのである。」


> これは全くその通りです。なぜそれが分かるかといいますと、私自身その概念すなわち「精神の王国」を自らのアタマの中に創り上げることに成功したからです。すると、はじめは、直観的に捉えていたものが、その不動の骨格の下にその細部の構造が、自己運動のように概念の労苦によって、くっきりと明らかにされていくからです。これには自分でも驚きます。こういう観念論的な表現は決して間違いではないのです。否、むしろそうでなければ正しく表現できないものなのです。ヘーゲルは「大論理学」の序にそのことを書いています。つまり、まだ中身が何もないから思惟によって創られた現実性のない学問の冠石しか書けない、しかし、これが、基本的な骨格となり、これから概念の労苦によって中身が創られていくことになる、ということを述べています。

>個別科学が事実の究明を充分に明らかにしている今こそ、本当の意味での「概念の労苦」が可能な時代になっているのに、肝心の南郷学派が、「概念の労苦」は概念の論理化のことである、などと言っているようでは、何時まで経っても本物の学問の体系化など無理な話です。南郷先生は、認識学への修学なしには学問の体系化はないと豪語されていますが、概念=精神の王国も解けない認識学で果たして可能なのか?……









↑~
いや~「概念の労苦」とは非常に疲れるモノである。
私の場合、南郷継正的南郷氏私なので、
南郷氏否定の言葉の数々を読み続けるだけでも疲労困憊である。


絶対的観念論も絶対的真理も…
初めに絶対的に正しい観念・真理ありき。

でも…しかし…です。
ちっぽけな一人の人間が、
初めからそんな境地に到達できるのでしょうか?

確かに、歴史を歴史的に学べば可能なのかもしれません。
それでも…初めから完璧に歴史を歴史から学べるモノなのでしょうか?

人は、学んでも、学んでも…
絶対的に正しい真理に到達不能だと私は確信しています。

絶対的真理は、無限のモノ・コトの真理であり、
有限な人間には、無限のモノ・コトを絶対的に正しく理解不能です。
人・人類に出来る事は、
その絶対的真理へ到達し続ける労苦、
そう「概念の労苦」なのです。

絶対的真理とは、無限の相対的真理を集め切った時、
初めて形成されるモノなのでしょう。

だから、有限の人間には無理無理なのです。



これは、「ゼノンの絶対矛盾」なのです。
確かに、絶対的真理はある。
しかし、人類には体得不能。
だから、「ある」かつ「ない」絶対的真理。
なので、「絶対矛盾」なので~す。


そこを実感し得ない愚案くんに、変化・発達はあり得ても、
今以上の真の発展的変化は不能なのでしょう。


自己を完璧だと確信し切った老人に、
幼子のような未来発展はないだろう。

果たして、
老人化しつつある、
自称永遠の若者の私に、
明るい発展的未来はあるのか?
















何?に~二重化!

2018-09-21 10:39:06 | 弁証法

「二重化」とは、非日常的な難しい言葉である。

これを優しく書くなら、
物事の変化の予想・予測とも言えよう。
もっとも…これを厳密に書くなら、
その物事になりきって、その変化・運動を観念的に思い・考え…
予想・予測を立てる、という事であろう。

なんて…こ難しい事を書こうと思っていたが…
それは、取り敢えず置いておいて、思いのままに書く事にした。

例えば、以下のコメントに二重化するとは?

>沈黙は金 (unko@au.com)  2018-09-20 07:12:55

>愛の反対は憎しみではなく無関心


「沈黙は金」という言葉への二重化、
「愛の反対は憎しみではなく無関心」という言葉への二重化、
その為に、これらの意味を調べ自己の体験・経験に置き換える。


しかし…それは、これらの言葉へ二重化であっても…
この言葉を発した・書いた者の認識に二重化した事にはならない。


例えば、これらが
梅雨さんが発した・書いたモノならその認識は?
タマゴさんが発した・書いたモノなら?
ソクラテの言葉なら?
自由びと自身が思ったモノなら?

同じ言葉であっても当然に、
そこに込められている思い・考え…は異なっている。

一読した当初の私は、私の認識に二重化して、これらの言葉を捉えた。
それは、これらは「ソクラテス」が書いたモノで、
そのソクラテスの思いは
『これ以上は書けないギブアップだ!』
『格好よく黙れ!と書いてやれ!』である。

その後、もしかして…
善意の第三者が、自由びとの為に、
『人にはそれぞれの価値観・思い・考え方・捉え方がある!』
『だから、言って書いて分かり合えないなら、それ以上は止めて!』
とか…

タマゴさんなら、きっと!
『ソクラテスなんてバカ者、相手にする価値もない!』
『そんな無価値のモノは無視してほっておけば金である!』
とか…


以上~そんな・こんな事から分かった事は以下のような事。

人が、(他人の)言葉を使用する時、
その本来の意味・意義とは、異なったモノになり得る…という事。

「沈黙は金」の由来とは?

>イギリスの思想家・歴史家のトーマス・カーライルの
『衣装哲学』にあることばで、「Speech is silver, silence is golden.」から。
「沈黙」を、銀よりも高価な金にたとえていったもので、
よどみなく話せることも大事だが、
黙るべきときを知ることは、もっと大事だということ。
「雄弁は銀、沈黙は金」「沈黙は金」ともいう。


これは「よどみなく話せる」者に、とっての「沈黙は金」という事。
「よどみなく話せない」者にとっては、「沈黙は金」足り得ない事。

人は、言葉に二重化する時、
先ずは、自己の認識内の言葉の像を想起、
次に、言葉を発した相手の自己認識内の人物像を想起、
この二つの想起を統合・統一して、
相手の認識を理解・解釈・想像・創像している。

従って、
① 言葉の一般的意味・理解が正しくない場合。
② 相手の人物像の把握が不十分だった場合。
③ その言葉の発せられた条件・状況の把握が不十分だった場合。
上記の条件が一つ欠けても、正しい二重化・理解はでき難いモノである。


対象への二重化と言っても…
先ずは、観念(論)的である。
それは、自分の認識・観念内の対象像への二重化である。
しかし、その認識内の対象像・認識・観念とは、
現実の対象と関る過程で創像・形成されていくモノであり、
これは絶対的に唯物(論)的である。


端的には、言葉の理解は観念論的、
それでも、それ以前に対象との唯物論的関りあり。

唯物論的⇒観念的⇒唯物論的眼前の対象と関わる…である。
結局~
人間は、唯物論的⇒観念論的⇒唯物論的⇒観念的⇒………と
このような変化・運動を繰り返しながら対象との関係を深めていくモノなのだろう。









ヤッパリ可笑しい!

2018-08-26 16:46:56 | 弁証法


愚案君の「国民は国家の細胞論」はヤッパリ可笑しい!
以下は、談話サロン天寿堂からの転写である。



[2897] 大事な事は何か

愚按亭主 - 2018年08月21日 (火) 10時15分

というのは、本来国家の個々の成員すなわち国民の権利は、勝ち取るべきものではなく、当たり前のように守られるべきものだからです。人間の身体を想定してもらえば分かるように、個々の細胞が人権を主張して闘ってばかりいたらどうなると思いますか?日本の国家においては、天皇の臣民は、大御宝といって、とても大事にされました。これが本来の国家のあり方であり、国家第一主義のあり方です。







国民の権利が「当たり前のように守られて」いるモノなら、
誰が、何故にどうして「人権」を主張するだろうか?


彼の「国民が国家の細胞論」からすると…
細胞の癌化は、細胞の反抗・反乱で、その病化の責任は細胞だろう~
本当は、その人の認識・頭脳の生活・生き方が拙かった為なのに…

国民は国家の細胞論を展開するのに、
細胞は頭脳の統括下であるという条件を失念するとは、
これは、全くもって非学問的な論説と言えよう。


国家第一主義について…

革命によって誕生した新国家が、多くの国民の為のモノたり得た時、
それは多くの国民が、現国家を否定し「新・国家誕生第一主義」
だったから革命が可能だったのだろう。

愚案くんの「国家第一主義」には、現実の現国家が忘却されている。
それもこれも、絶対的観念論者たる彼には理想的人倫国家だけが国家であり、
他の国家は、国家たり得ないのだろう。


それは、現実界での精神は、
普通精神と絶対精神との混合体である事が分からない。

唯物論には唯モノ論と唯物論がありえる事も分からない。
分からないというより想定不能であろう。

それもこれも、
絶対的観念論は絶対的真理だ!との思い込みからであろう。