goo blog サービス終了のお知らせ 

新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「真理は二つ」は真理か?

2020-08-06 16:50:43 | 認識論


「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。

ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?



否!絶対に否!

「真理は二つ」の二つとは、

この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。


一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、


現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。


現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。





行動について…

2020-08-02 13:15:26 | 認識論





㈠  不快を避ける為の行動。
㈡  快を求めての行動。
㈢  不快を避ける為に快を求める行動。

㈠ は、眼前の不快な物事を避ける為のモノ。
㈡ は、眼前に不快な物事はなくても行うモノ。
㈢ は、眼前の不快に囚われる事なく無視し快を求めてするモノ。


眼前に不快の対象がある場合の行動の二重性となると…

㈠と㈢となろう。


しかし、
不快が、眼前にある場合で、

その不快物事を回避可能か?
また快を求めての行動が可能か?


具体的に学校の勉強嫌いな場合、
授業中でも教室の外へ出る事は可能か?
でも楽しいゲーム妄想は可能!

ならば、不快な社会の勉強を避ける為に、
快を感じるゲーム妄想をして…
果たして良いだろうか?



児童の人間的の成長の為には、
不快を避ける行動も快を求める行動もでき難い場合であろう…
さてさて…では、どのように対応すべきか?

その方法は、
「不快な勉強」に頑張って「取り組む行動に快」
を感じるように育てる事。


これは、
人間にとっての「不快」とは、「不快と感じる物事」であり、
人間にとっての「不快そのモノ」がある、のではない、
という事である。


だから例え、
それが「不快な物事」であっても、
それに「関わる事を快」とする事は、
人間の場合は不可能でない。



もう一つの方法は、教育現場での教師の「精神罰と体罰」である。
勉強するという不快より、教師の精神罰・体罰の不快が重い時、
児童は、教師からの不快を避ける為に眼前の不快に取り組む事が可能である。

それは、眼前の小さな不快に取り組む事が、
より大きな不快を避ける手段になり得る、
という事である。


これこそが「体罰の効用」である。
過去の学校では、
この「大きな不快を避ける為に勉強する」
が一般的であった。


しかし…現代の先生は、
全ての児童に強烈な不快を感じさせられる行為ができ難くなっている。
当然に親も同様であろう。


ならば…如何にすれば、よいのだろうか?








「道・tao」について…

2020-07-25 13:46:51 | 認識論


 
「道」とは?

道 (哲学) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/道_(哲学) には

以下のよう書かれている~

道(どう・タオ・Tao・みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。

 老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。

 孔子は天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が窺える。

 道教における「道」の概念は、神秘思想の上に取り入れられ、道家のそれとはかけはなれた概念となっているとされていたが、近年はフランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。

 『中庸』では「誠者天之道也 誠之者人之道也」と「天之道」、「人之道」が「誠」であるとし、それに基づき孟子も「是故 誠者天之道也 思誠者人之道也」(『孟子』 離婁 上)と「天之道」、「人之道」と「誠」に言及している。

 『菜根譚』には、「道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時のことだ。権力にへつらえば居心地はよかろう。だが、そののちに来るのは永遠の孤独だ。めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだ」[1]と記し、洪自誠の主張として、一時の孤立を恐れ、永遠の孤独を招くのではなく、道を守る事が肝心と説く。


現代に存在する「道」から、
普通に考えるなら、
それは、人が「道」と認識してモノ。

「道」は、事実・実体としてはない。
あるのは、泥・砂利・土…等である。

しかも、初めにあるのは、
獣たちが通った後である「獣道」であろう…


では、人間は、何故にそれを「道」と認識したのか?
漢字としての「道」の語源・概念とは?

【道】の漢字の成り立ちを教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1264020672
 
には、以下のよう書かれている。

シンニョウ(辶)は道の交差路の一部と、歩行を進める足の形。そして、首の形が合わさって、「道」。

 古代中国の周時代に作られた、らくし卣(ゆう)という酒器に鋳込まれた金文の中に、「道」の字があります。小篆よりも、もっと古い時代の形ですよ。その形は、交差路と首の形。
 
 首の形が入っているのに、首とはまるで関係ないということなどあるはずはありません。字の成り立ちをさぐるには、古代人の残した文字と、その時代の文物をしっかり知る必要があります。

 周時代の家が出土しています。もちろんつぶれた状態で土の中にあったわけですけれど、その家の四方には、髑髏(どくろ)が転がっていました。つまりその家は四方に首を下げていたのです。邪霊、悪しき霊を家に寄せ付けないために、首を下げたのです。こういった文物を知った上で大昔の漢字の成り立ちを追わねばなりません。
敵の長を殺した時には、首を切ったのです。馘首(かくしゅ)といいます。力が強かった、敵の長の首には、死んだ後にも強いエネルギーはあったと考えた。その首を下げることで圧倒できると。

「道」といっても、今の道を思ってはいけません。漢字が出来たのは今から3000年以上昔なのですから。
敵がいつ出てくるかもわからない、保護してくれる神のいないところ、邪霊のうようよする道、そんな道を歩く時は、怖くて恐ろしくて仕方なかったと思うのです。
そこで、首の登場です。以前殺した敵の長の首を、ちょうちんのように、回しながら歩いたのでしょうか。乾燥した髑髏です。
塩をまいてお祓いしながら歩くといった感覚と同じです。
古代漢字書道家 安東麟

ここから言える事は、
初めに「道」はなく、恐れながら、
歩き通る・通ったモノを「道」とした…

では、何の為にその「道」を歩き通るのか?
それは、目的地に到着する為である。

「散歩道」というモノがある。
散歩では、目的地がない。
そこにある目的は「散歩」であり、
それは「歩く事」となろう。



そう「道」を考える時、
目的地・到達点と始まり・開始点を考える必要があろう。


人生を道に例えて「人生道」とするなら、
その始まりは「生」であり、
その到達点は「死」となる。

ならば、
生まれた目的は死ぬ事と考えてよいのだろうか?
否!
生れた目的は「生きる」事であり、
かつ「生き通す」事と言える。


「散歩道」の目的が、
歩く事であり、
歩き続ける事と同様に…


ならば…、
「人生道」での「生と死」の関係は?
「生」に対しての「死」とは何か?

人間以外の動物で、死を恐れるモノはいるのだろうか?
確かに動物は、死に直面した時、必ず死の回避行動をしている。
それは、死を予想してのモノではなく、
本能によるモノであり、他の行動と何ら変わりないモノだろう。

それに対して、人間が死に直面した時、
厳密には、『このままだと死ぬだろう』と予想・確信した時、
普通の人なら、その場合に日頃と同様な行動はでき難いのだろう。


動物にとっての「死」とは、
生命体からただの物体への変化であり、
それは、単なる物体の始まりに過ぎない。


しかし、その人間にとっての「死」は、
その自分の終わりだと思えてしまう…。


確かに個体としての「死」とは、
その個体の終了であり終わりとも考えられる。

しかし、考え方を替えるなら~

「死」とは、確かに
その個体・肉体としは終了であるが、
その人の認識・精神は、
その人が関わった多くの人達の中で、
その多くの人達の自覚・無自覚に関わらず、
必ず、彼らの認識・精神の中で生き続け、
そこにあり続けるモノとも言える。


人間にとっての個体・肉体の死・終わりは。
人類精神の一部としての生・新たな始まり。


だから、人生道では、
個体としての自分自身の幸せを求める為に、
また人類精神の見事な一部となり得る為に、
今を、より幸福に、より見事に生き抜くのだろう。


ここで問題は、
「幸福」とは?を
「見事」とは?を
どのように考えたらよいか!
であろう。




死ぬ気になれれば…

2020-06-21 10:54:10 | 認識論


人間、死ぬ気になれば、何でもできる…
という言葉を聞いた事がある。

言葉だけ知っているなら知識である。
この言葉の通りに、「死ぬ気になって」…行動出来るなら論理となろう。


これは、言うは易く行うは難し、
または、知るは易く行うは難し、

言葉・知識としてなら、「死ぬ気」も「何でもできる」も簡単であるが…
論理としての「死ぬ気」も「何でもできる」も至難であろう。



そもそも…真に「死ぬ気になった」人間なら、
その行動は「死への行為」であろう。

ならば、その人間にできる行動は何でもではなく、
死へ向かうモノだけであろう。

ならば…この言葉は嘘なのだろうか?


師範の言葉に、「生即死」がある。
それは、武道の真剣勝負において、
眼前の相手に対して「自らの死」を覚悟して、
向かっていく事で、「生」への可能性が生じる。
と、いった意味である。


ここでの「死」とは、「生」を求める為のモノであり、
決して死ぬ為のモノではない。

ここから言える事は、

「死ぬ気になれば、人間なんでも出来る」は、
言い換えるなら、

生きる為に、死ぬ気になれれば、
人間どんな至難も乗り越えられる、

となろう。

ここまでは、容易な言葉・理解であるが…
それでも、ここには、多いなる矛盾がある

以下からは至難な論理である。


そもそも…
「生きい」と思っている人間が、「死ぬ気」になるのは矛盾。
生きる為に死ぬ気になるのも、当然に矛盾。


その理由は、「死」とは「生」の対極にある概念である。
その生命体である生ある人間にとって、死とは予想不能なモノ。
生命体が死を意識する事は、ほほ不可能である。

もっとも…
何度も死に直面した者、
何度もその死への瞬間を感覚・覚悟できた者、
そのような者達なら、生の為の死も可能であろう。

ここに、言葉の論理化への道がある。


「死」への意識とは、
過去に数回は、瞬間的に、
死を覚悟できた者だけが持ち得る
生命体にとっては、特異な意識であろう。

「生」ある生命体で
「死」を意識可能なのは、人類だけであろう。























続・言葉による表現について…

2020-05-26 11:38:40 | 認識論




以下は、前回の続き、書き忘れである。

昨日、ダイソーの事を息子に話したら、

「別にいいじゃない!」
「黙って買い物すれば…」と、

私の感想・言葉には、否定的な反応であった。
その息子の言葉から、
私は、家内に同じ事を伝える事を止めてしまった。


息子と私の大きな違いは、
息子には、コロナウィルスの脅威が殆どない。
彼の感染予防対策といえば、マスクの着用・手洗い…くらいである。


彼にとって、
ダイソーの言葉は、
彼の感染予防対策の実施の否定とはなり得なかった。
だから、彼にとっては、
全く問題として、浮上しなかった、という事に
私は気付いた。


因みに、当初、ダイソーの放送の聞いた時の私の感想は、
『言いたい事は分かる…でも言い方がまずい!』であった。
その感想の言葉通りにレジの店員に伝えた。

その後、息子に話たり、色々と思い・考え続けた結果が、
前回の「言葉による表現について…」である。


この事を考える過程で浮上・思い出されたのが…
電話で、au、水道局…に問い合わせた時の、
その録音・言葉であった。

それは、
「…コロナ対策の実施…人員削減…」
は同じであっても、
だから
「…電話を極力遠慮して下さい」とは言わず、
「時間をおいて電話下さい」とか、
「○○や××という方法での確認も可能です」とか…

それらは、「するな!」「遠慮しろ!」ではなく、
別の方法の提示であった。


結論的には、ダイソー○○店舗の店長の認識・人間性が、

自己中心的であった…
真面目過ぎだった…
若すぎた?…
未熟過ぎた…  のだろう…