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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

なんで?

2021-01-24 13:28:45 | 認識論
なんで?


なんで?
人は、同じモノを見ているのに、異なるモノを見てしまうの!

なんで?
人は、同じ言葉を発しているのに、その中身が違っているの?

なんで?
人は、同じ体験なのに、笑ったり、怒ったり、泣いたりするの?


我が家の柴犬マロンは、気まぐれである。
時に、私に首振り、尻尾振り振り…で走り寄って来るかと思うと、
時に、ウ~と唸りながら歯をむき出して私に近づいてくる。
時に、「マロン」と呼んでも、全く無視される。

それって、マロンの気まぐれなのか?
それとも、私の精神状態の相違なのか?


飼い猫のマニャは、陽だまりで寝転んでいる時、
私が首や頭を撫でると目を細めて気持ち良さそうに
「ニャー」と鳴いている。

マニャが歩いている時、寄って行って触ろうとすると逃げる。
追いかけて捕まえようとすると、その手を引搔こうとする。
マニャは呼ばれても、殆ど走り寄って来る事はない。

それでも、飯時は、向こうから「ニャー」と鳴きつつ、
いつもの餌皿置き場に向かう。



人間とペット・動物は、同じようでいて、違っている。

何時も同じような事に対して、
同じように反応するとは限らない。

異なった事に異なった反応をする時もあれば、
異なった事に同じような反応をする時もある。




言葉で考える?

2020-10-28 11:53:32 | 認識論
言葉で考える?


昔昔…そう~
三十代の頃、私は『言葉で考える』と思っていた。

その後、師範の
「人は、言葉ではなく、像で考える」という言葉に出会って、
『きっと!そうに違いない!』と信じるようになった。


今ここに、
「言葉で考えるとは?」と「像で考えるとは?」について
思った事・考えた事を言葉で書いてみる事にした。


例えば、道で突然に見ず知らずの人から
「輪っと隊務伊豆一都綯う?」と声を掛けられた時…

私は、『???』と思うだろう。
それを言葉にするなら
「この人!何を言っているの?」となろう。

「この人!何を言っているの?」は言葉である。
でも、この言葉を発する前には、私の頭脳の中には、
この言葉の元になる像がある。

それは視覚の映像ではなく、「思い」像=感情像であろう。
「輪っと隊務伊豆一都綯う?」と言う言葉を、
理解できないという感情像。


人間の認識は「五感情像」である。
それは、視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚からなる五感情像。

『言っている言葉がからない』とは、
聞いた言葉を、像に変換できなかった、という事であり、
この「言葉なのに像に変換できない事」が「分からない」という像である。

より正確には、
言葉を像に変換したいのに、
それが、どうやっても出来ない。
となろう。

「言葉が像にならない、ああ~そうですね!」では、
「分からない像」も「分からない」という言葉もでない。

これは、五感情の総合像であり、
統一・総合的な感情像である言える、のだろう。


「輪っと隊務伊豆一都綯う?」

「ワット・タイム・イズ・イット・ナウ?」

「What time is it now ?」

「今は何時ですか?」


そうです。
「人は言葉で考える」のが真実なら、
英語を知らない人でも、英語を聞いて考えられる筈である。

もっとも、初めからその言葉が日本語でない、と分かっていれば、
この言葉の意味は日本語ではどうなるの?と考える事は可能であるが…


人は、自分が理解できない言葉を使って考える事はできない。
人は、言葉を理解できて初めて、その言葉で考える事ができる。

この時の言葉で考えるとは、その言葉を理解して、
その理解した像を元に考えている、という事である。


なので、その言葉の意味・概念…理解が異なっていれば、
その考えた結果も当然に異なってしまうのだろう。


誰かさんのように「思う」も「考える」の同じ!
「思うと考える」を合わせた「思考」も同じ!


なんて…そんな調子なら、
その者の頭の中の聡明も馬鹿も阿保…
全部が全部同じで一緒なのだろう。

全部が漢字二文字で書かれた同じ言葉なのだから…





「運動と静止」について…

2020-10-10 13:28:46 | 認識論



「運動」も「静止」も言葉である。
どちらも、物・物体・実体のある状態を表現した言葉。

歩くのが運動ならば、
立ち止まるのは静止。

全力疾走も散歩も運動であるが…
この二つを同じ運動と表現していいだろうか?
「運動」で間違いはない、だろうが…

両者の運動強度・激しさには、大きな差…


歩行は「動く」に対して立ち止まるは「静止」。
しかし、人間は立ち止まっていても、内臓・血液・瞼・眼球…は動いている。

これは、全体的には「静止」と見えても、
個々の部分は運動している、という事である。


ここで、
歩行という位置の変化を「運動」とするので、
歩行から停止への状態変化も「運動」として表現できようか?


等速運動が、加速度運動に変化した時、
これは、等速運動という性質が、加速度運動という性質に、
変化した事になる。


変化とは、あるモノが別のモノになる・変わる事。
運動とは、その位置が変わる事。


変化も運動も同じ「変わる」である。
ならば、変化と運動の違いは?



変化はゆっくりした動き、運動は激しい動き、
どちらも「運動」と表現してもよい、のだろう。


さて…結お宅の以下のコメントによると、
>私は南郷さんの「乱取り、自由組手=運動、型=静止」という発言がどうにも理解できなかったのです。<


師範は、「自由組手=運動・型=静止」と表現している。
そして、結お宅は、その言葉を「どうにも理解できなかった」そうである。


この言葉の理解・解釈は、それ程に難しくない。


自由組手の動作は、相手の動作に即しての不規則的変化である。
それに対して、型は、型通りの全く同じ動き・動作を求めている。


このように
自由組手の不規則運動=運動、とするなら、
型の規則的運動=静止、と表現している、のである。



上記の師範の言葉を
結お宅が、「どうにも理解できなかった」のは、
「自由組手=運動・型=静止」という言葉・文字だけを見て、
現実の「自由組手と型」というモノから理解しようしなかった、からである。


これは、
言葉の相対性、
相対的な言葉表現、

言葉の弁証法的理解、
言葉の弁証法的解釈、
言葉の弁証法的把握、

が出来ないから…であろう。










腕の故障から気付いた事

2020-08-15 15:08:46 | 認識論
腕の故障から、
日頃の生活での「左右差」について思い考えた。


六月頃だろうか…
小学校の雲梯を子供達の真似をして、
同じようにぶら下がって移動した。

すると、右腕に少し痛みを感じた。
大したことないと思い、そのままにしていたら、
なかなか痛み取れず、最近は、曲げるとズキっと痛む事が多くなった。

そこで時々通っている整体院で診てもらったら
「生活の中での左右差に気を付けて…」といったような事を言われ、
最近の日常生活を思い出し、色々と考えてみた。
すると以下のような事に気付けた。



腕の痛みが、なかなか消えないのは何故?
また、今の痛い箇所が、初めと少し違っているのは何故?
それは、雲梯で痛みを覚えた後、雲梯のぶら下がり移動は止めても、
日々の鉄棒ぶら下がりを続けた、
その結果では、と考えていた…


また、雲梯でのぶら下がり移動では、
左右両手を使用していた。
なのに、右腕だけに痛み!とは何故だろう?


そう~
両手が痛むのではなく、
右腕だけという所に、日常生活での左右差、
右腕と左腕の使い方の相違があるだろう事に気付けた。


すると…日々の洗濯物干しをする時の右腕の酷使が思い出された。

今の家に引っ越してから洗濯物は二階に干している。
毎日三人分の洗濯物を一度に二階へ持っていくのに、
右手だけで抱えて左手でドアを開けての移動であった。

その都度、右手にかなり負担だったのだろう。
その日々の積み重ねが右腕筋肉を疲れさせていて、
その疲れた右腕が更に雲梯でも使われた結果の痛みなのだろう…

もしも…左腕も右腕同様に酷使されていれば…
今回のような、片腕だけの痛みとは、なり得なかったのだろう。
その時は、雲梯でのぶら下がり移動が出来なかったのだろう。







真理=「真理は二つ」!

2020-08-08 16:37:05 | 認識論



全ては変化・運動する。
変化・運動する事は変化しない。


全ての事物は変化・運動する。
全ての事物の変化・運動する性質は変化しない。

実体は変化する。
変化するという実体の機能は変化しない。


「二」とは、モノが2ある事。
「二」とは、数字「二」一文字。



二つの真理とは、
㈠  実体についての真理。
㈡  機能についての真理。



言葉の実体は、文字・音声・触覚…の形・型。
言葉の機能は、認識の表現である意味・内容。


「真理は二つ」は言葉・文字である。
「真理は二つ」の意味・内容は書いた人物の認識である。

運動とは、
あるモノが、ある一瞬にある点にある。
そして、次の瞬間には、その点にはない事。

変化とは、
ある瞬間に100.000000…%あるモノである。
そして、次の瞬間には、100.000000…%そのモノでない事。