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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

真・「真理は二つ」は真理か?

2021-08-07 12:34:25 | 認識論
真・「真理は二つ」は真理か?

以下は前回の

「真理は二つ」は真理か?
2020/08/06

「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。

ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?
否!絶対に否!

「真理は二つ」の二つとは、
この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。
一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、

現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。
現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。

↑である。

そして、以下は上記の続編である。

七月から「”夢”講義(4)」を再読している。

P182  
第一章 第五編 第三節  
世界観から論じる二つの正しい「筋道(すじみち)」とは、

…では、以下のような事が書かれていた。

「論理とは、考え方の正しいすじみち」とするなら…
世界観から、「論理」には「観念論的な論理」と「唯物論的な論理」がある。
世界観は違っているが、この二つは、ともに正しい筋道であり、間違いなく「論理」である。

「真理」とは「真の論理」or「真の理論」とするなら、
「真理」には、「観念論的」な真理と「唯物論的」な真理の二つが考えられる。

これは、言い換えるなら~

「自分的な真理」と「みんな的な真理」、
「個人的な真理」と「社会的な真理」、
「哲学的な真理」と「科学的な真理」、
「学問的な真理」と「専門的な真理」、
「一般科学的真理」と「個別科学的な真理」、

「真実は一つ」でも「真実は一人に一つ」、
「真理は一つ」でも「真理は一人に一つ」。


新・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 12:02:09 | 認識論
新・「自分をみつめる禅問答」


P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。


ここでの「問い」とは、
この著者が、肉親を突然に理不尽になくした者から
「何故…?どうして…?」
と問われた時のモノであろう。




世の中に、明確な「答え」はあっても、全く納得し難い「答え」があるモノである。
それは、いつも他人事で済んでいる事実が、
ある日ある時、自分事になった時の「何故?どうして?」であろう。


ある日ある時、突然に宝くじの一等賞!これはビックリ!
「何故?」「どうして?」…
でも答えは、簡単明瞭「宝くじを買ったから…」である。
これは、答えに感情的に納得できずとも、
喜びの感情に溺れて「納得し難い感情」は全く問題外となろう。


しかし、突然の交通事故、突然の通り魔…
そんな不幸に対しての「何故?」「どうして?」の問いに対して、
「そこに立っていたから…」「車を運転していたから…」「あそこを歩いていたから…」
こんな答えに、誰が納得できよう…
アタマ・理屈で分っても…悲しみの感情で納得できない…

これは、「何故?」「どうして?」⇒「そうなったの」が問いではなく、
「悲しみと如何に関わるの?」
「この悲しみに耐えられないどうすればいいの?」


ここで、前回までの
「自己」と「非己」の関係性からの運動様式=「自己」…となろう。
その基本は、「ひどく悲しんでいる自己」を受容する事。

自分で『今とても悲しんでいるな~』といった
「自己の感情を観る」「非己」の創造であろうか…

自分には耐え難い「非己」的な大きな悲しみが自己のモノになってしまったなら、
その悲しみを自己ではない「非己」を創出して、
その「大きな悲しみ」を自己から意識的に分離した「非己」に背負わせる。

これは、言うなれば、
意識的な「二重感情の創出」であり、
大袈裟に書けば意識的・自覚的な「二重人格」の創出となろうか…



続・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 10:26:27 | 認識論

昨日の続編である。

> P147~
君は、その「自分でない何か」を「非己」と呼び、「非己」を受容し、これとの関係を編み出していく運動様式こそが「自己」なのだと言ったな。


今朝、昨日は気付かなかった事に、ふっと気付いた。
それは、以下のような事である。

自分の中にあるのに「自分でない何か」というモノについて…
昨日は、自分の中にあるなら「自分であり、自分でないモノとは言えない」と考え、
それは、自分全体と一部の自分とか、
または、外界でも出来事から沸き起こった感情とか、変異した癌細胞とか…
そんなモノをイメージしていた。

でも…全体と部分や感情以外にも、「自分の中の自分でない何か」・「非己」が考えられる。
それは、他人との関わりの中で、ある時から意識されるようになった考え方・価値観・認識…である。
その認識は、自分が関り続けた他人の言動・表情…から生じた突然の「量質転化化」と言えよう。

例えば、自分が、その人物に対して好意・敬意・尊敬・憧れ…を抱いて、
その人物の全てを受け入れ続けた時…それは生じる、のだろう。

ある時は徐々に、またある時は突然に、
今まで「自分の中になかったモノ(認識)」が自覚できるようになったり、
または自覚されずに自己の言動に出たり…

時に、今までとは異なった言動をする自分に気付いて驚いたり…
そんな驚きを自分は好意的に受け入れるか・拒否するか…
そこから問題になっていくのだろう。



そう言えば、私も中学生の頃、ある日ある時、突然に母から、
「『クチャクチャ音を立てて食べる』のをやめなさい!」ときつく注意された。
それまでは「クチャクチャ音を立てる」事はなかった僕なのに…何故???

その後、気付いたのは、
当時の家庭教師の大学生が勉強の中休みに
出されたお菓子を毎回「クチャクチャ」と美味しそうに食べている事である。


この「クチャクチャ音を立てて食べる」事は、
ここで問題となっている「非己」的な行為であろう。
その非己の裏には、「クチャクチャ」は美味しそう…快感…
といった感情像・認識があり得たのでは…

私の場合、母にきつく言われて、理由もハッキリしたので、
それ以後、「クチャクチャ」な非己は、受容され続ける事なく消滅したが…

これは、自己が、非己を一時的に受容した(クチャクチャ食べた)が、
結局、それを継続・維持する事なく消滅させた、という事実であろう。


さてさて…
この今日書かれた「非己」についての事・像は、
昨日の私・自己にはなかったモノ・「非己」である。

そして、今日の今、この「非己」を、ここに記述・言葉にして再確認した。
この「非己」は昨日の私・自己にとっての「非自己」であり、
今の私・自己にとっては自己そのモノである。


その今日の「自己」⇔昨日の「非己」の発生・誕生の理由は以下であろう。

昨日、私は「非己」という自分ではない他人の概念・認識を、
自己の体験・経験…に照らして合わせて、このブログで言語化に取り組んだ。
その過程は、言うなれば、自己認識化・像化に取り組んだ、と言えよう。

それは、
初めは、外にある概念「非己」を、自分の体験・経験「自己」とすり合わせた。
その結果は、非己であり自己である不明瞭なモノ…。

その不明瞭なモノが一日経った今日、
自己の頭脳の中でより練り合わせられ明確化していた、のだろう…

それを引き続き、ここで言語化しようとした結果、
今度は、過去の「自己」が「非己」を体験した事実が浮上した。

ここに、
「自己」と「非己」が、より明確に意識・自覚できるようになり得た、のだろう。








「先入観に囚われるな」は無理!

2021-07-04 12:20:32 | 認識論
「先入観に囚われるな」は無理!



「先入観に囚われるな」自体が「一つの先入観」と捉えられる以上、
これは矛盾している言葉・表現と言える。

もっとも…私は「矛盾」が悪い、とは思っていないが…
「矛盾を矛盾だ」と知って気付いて納得しているなら、であるが…

矛盾ではあっても、この言葉の意味は有益な指摘であろう。
そこで、この矛盾を解消して表現するなら~
それは「己の先入観を知ろう」であろうか…


そもそも…言葉の意味自体が「先入観」とも言える。
普通の会話では、
相手の話す言葉を自分の理解している意味で捉え、
相手の認識を分かったつもりになっている。


例えば「先入観」には以下のような説明があり、
「先入観」の意味の捉え方によって、矛盾なき表現ともなり得る。

「先入観」とは、「対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。」モノ。
でも、「先入観に囚われるな」が「誤っていない認識や妥当性にたる評価・判断であるなら、これは「先入観」足り得ない。
ならば当然に「矛盾」とは言い得ない。



(A)先入観(せんにゅうかん)の意味や使い方 Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/先入観
先入観(せんにゅうかん)は、対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。


(B)先入観(せんにゅうかん)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/先入観
先入観(せんにゅうかん)とは。意味や解説、類語。前もっていだいている固定的な観念。それによって自由な思考が妨げられる場合にいう。

(C)先入観・偏見・固定観念の違いとは。 | 先入観をなくす30の方法 ...
https://happylifestyle.com/20438
先入観. 先入観とは、最初に知ったことで作り上げられた、固定的な観念をいいます。 私たちは、最初に知ったことを正しいと信じやすい傾向があります。



前もって、自分の先入観に知る・気付く事は至難と言える。
先入観は対象との関りの中で、特に上手くいかない・失敗した時…
その事を反省して、成功と失敗を区別と連関で考察した時、初めて現象するモノだろうから…







「真理は二つ」について…の続編~

2021-03-17 10:05:49 | 認識論


~~~~引用開始~~~~

……前略……

 弁証法的に考えるとは(弁証法を学ぶとは)、全ての「モノ・コト」に関わる変化を知り、識ることですので、変わる面(変わらない面)、変わる性(変わらない性)を、必ず二面性(二重性)が分かることがとても大事なのです。

 しかし論理学としては、対象の変わる「面」・「性」を、変わらない「面」・「性」を、必ず二面性(二重性)で捉えること!が大事なのです。真理は一つではなく、真理は必ず二つ(二面性・二重性)なのです。ですから、初学者は自然の性質も、社会の性質も、精神の性質も必ず二面性・二重性だと分かることから学習を始めるべきです。

……以下省略…


今回、再度読んで視て気付いた事は、
初めに
正しい「弁証法的に考える」を
ミスして「弁証法を考える」と書いていた(今は訂正した)。


さて、今回は以下のように具体的に考えてみた。


「水を熱する」時、
水(液体)は水蒸気(気体)に変わる。
しかし「H2O」である事は変わらない。
その変わらない2「H2O」でも「電気分解」なら「2H2とO2」に変わる。


水の加熱では、

変わる面、個体から液体へ
変わらない面、同じ「H2O」。

変わる性質、液体の性質から気体の性質へ
変わらない性質、水素と酸素の化合物としての性質。

この[変わらない面]も「水の電気分解」では、
水素と酸素に変化する。