私の中国投資・出張・旅行日記

約30前に香港より当時広州への航空便が難しく、汽車にて中国本土広東省広州に入国し、光景にビックりしたのが始まりです。

済南より淄博・濰坊へ

2014-05-05 22:50:53 | Weblog

斉南より淄博・濰坊へ

 

済南より淄博・濰坊市‐217    済南から出発し淄博では菓子工場等を見学し研修生の派遣に関連し会合を開きました。当淄博市は山東省中央部に位置し東に濰坊市に接します。陶磁器・絹織物の里とし有名で、春秋戦国時代の国家、斉の都とし有名な地方です。因みに友好都市とし新潟県加茂市があります。この地には釣り師の代名詞“太公望”という呼び名で知られている周の軍師、後の済の始祖である呂尚の出身地です。見学相談記念撮影後市の女性書記の方達と今後について相談をしながら食事をしました。そのおりに出された料理には驚きました。珍品との事ですが蝉の幼虫のアンカケ、サソリの揚げた品、サソリ入りのスープ等が出されビックリしました。その後思った事は中国では生きた物は基本的に全て食するということです。食事後一路青島市の西濰坊市へ向いました。濰坊市は歴史文化都市であり名所旧跡が多く観光資源が多くあります。その中でも“凧揚げの町”として世界にその名を知られています。濰坊市の人民政府はアメリカ人の提言に基づき濰坊国際凧揚げ大会を開催し、その後一年に一回世界凧揚げ大会が行われるようになりました。濰坊の民間工芸には長い歴史があり、凧・年画・切り紙細工・玩具等は数百年の歴史があるようです。其の中の凧博物館等を見学しました。此の頃の中国は発展する為に国家をあげ努力していたように感じられ、今日世界第二のGDPを有するようになり、中国流覇権主義が感じられるようになったようで残念です。      

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青島より済南-216

2014-03-05 11:16:46 | Weblog

青島より済南-216

青島より済南‐216      №.215より続き青島より済南への旅です。上海より青島へ飛行するにトラブルをへて、夜中に青島に到着し遅い夕食を終え翌日一路青島内の縫製工場等・旧日本人街を見学。写真の日本人街は海岸沿いの小高い処に位置し大変過っては風光明媚な処であったと思われます。近くには蒋介石の別邸が在り観光名所になっていました。因みに蒋介石の親衛隊は山東省民で後に台湾の外省人となったようです。日本人街の家に現在は中国人が住まいしているそうです。昼食をして一路高速道路等を経て済南へ向かいます。此の高速道路の乗車状況は過去に一部記載しております。この済南ご存知のごとく山東省の省都であり、古くは春秋戦国時代には濼邑と呼ばれ、済の国と都として栄えたところです。別名水の都と言われ水が豊富に湧き出ていたそうですが現在は工業用水確保の為公園の水を制限しているそうで有名な公園の庭の池も干上がったりし汚れていました。詳しくは当ブログ№99~105に過去に記載済みです。先日中国重慶での一大事件の裁判が行われた地方です。済南の有名な公園は写真にある趵突泉公園です。此の当時は中国も発展途上でこの地より研修生の派遣・蜂蜜の輸出を打診され当地を訪問しました。此の当時宿泊したホテルは過って毛沢東をも宿泊したと言われたホテルで、入口に銃剣をもったガードマンと思われる人物が監視をしたホテルで門の外は庶民が多く自転車(この当時は自転車が主流)で往来をしておりました。塀で囲われたホテルは低層階建てで長い広い赤絨毯敷きの廊下には所々詰め所が在り従業員が配されて監視をしていました。静寂で気持ちが悪いような雰囲気でした。この『南郊賓館』は現在改装改築変名されているようです。過ってはホテルの中に多くは外人向けの売店があり、此の当時は人民幣に比較し割高な『外換券』と称する貨幣に替えてのみ使用可能でした。その後、外人も『元』(人民幣)にても使用できように替わり『外換券』はなくなりました。私は其の売店での掛け軸を購入しましたが、其の購入した軸に描かれたのは虎です。虎の掛け軸は多く見られますが気に入るのはなかなかで此の軸は気に入り、帰国後日本式に表表装替えを致しました。中国の掛け軸は文化の違いで表装が違います。もう一方後方より描いた後ろ向きの虎は最近瀋陽で購入し表装替えをした物です。写真はアナログをスキャンしたものです。        

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上海より青島

2013-12-30 22:29:02 | Weblog

上海より青島

上海より青島へ-215   当ブログ№.214では上海・張家港を記載しました。今回は上海より青島・済南への旅です。日本より上海に到着したのは紅橋空港で其の当時浦東空港は開港していませんでした。上海での宿泊のホテルは東南アジアの国と合弁(其の当時中国では多い)で建築された建物で共用のトイレに入った時、隣との仕切りが下から40~50㎝程度の隙間があったのには暗いのと併せて驚きました。最近でも中国東北に旅すれば一般市民の入る市場ではトイレの仕切りはありますが扉の無い処があります。皆様も旅行をして経験した事があると思います。上海から青島へ飛行する為に空港に赴いたところ、出発時間になるも一向にアナウンスがない。問えば政府高官が空港を使用する場合一般乗客は待たされるそうです。何時間待っても出発の合図がありません、日も暮れて来るのにどうなるのか、此の当時は連絡手段が少なく行く先々で出発・到着時間を連絡しあい到着場所に迎え者が必ずおられました。それ故、時間が変わる事は大変でした。その内にアナウンスがあり集まって下さい、そして引率され空港外に出バスに乗りホテルへ、今日は便がありません明日搭乗します。今日はこのホテルに宿泊して下さい、部屋が割り当てられ私は台湾人と同室となり、同宿泊人はこの様な事はよくある早く寝た方が良いですよと言う。しかし、初めての事で如何するかと暫しベッドの上で過ごしていると、又、集まって下さい晩食です、食事を済まし部屋に帰り過ごし(台湾人は風呂に入る)如何なるのかと不安に思っていると支度をして集合出発します更にビックリ。青島に到着時23時頃で空港にて待ち人と一緒にホテルへ。今日は遅いので明日済南へと告げ帰り、早朝迎えに来られ一路済南へ。各地での待ち合わせの時間があるため少し遅れたりすると大変で、高速道路などでは大変で一度バウンドすると収まるのに時間が掛るぐらい高速で走りシガミついていました。すこし長文になりましたので次回青島より済南への旅を記載します。    

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張家港より寒山寺-214

2013-10-20 00:06:48 | Weblog

張家港より寒山寺-214

張家港より寒山寺‐214   1994年5月張家港への新規投資を希望され見学の為上海を経由し自動車にて張家港に向かう。此の頃の中国は発展途上で上海でも浦東地区の開発もなく国際空港は紅橋空港のみです。此の頃の空路・道路は要人が使用する場合、一般客は要人が通過するまでは全面使用禁止・通行止めでした。此の頃の中国は電気が不足し何処も暗く上海より張家港への往来道路は晩には大変暗く怖く感じた記憶があります。其の頃、張家港は大きな船が係留可能に長江を改良し外国企業の誘致をしており未だ未発展の地でした。現在は多くのホテルが建ち発展しているそうです。其の当時は上海より日帰りの為朝5時頃出発し張家港見学後寒山寺に立ち寄りを希望しました。私が高等学校の頃漢文の教科にて張継の七言絶句“楓橋夜泊”月落鳥啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘聲到客船 を習っていたので如何なる風光明媚な処かと思いきや壁だけが綺麗で大変朽ちていたのには驚きました。本堂の処では再建の寄付を募っていましたので私も記念に金一封を寄付しました。皆様ご存知のように門前では書道具等色々な物が販売されており、その一角で写真の如く長い筆を使い毛筆で希望の文面を書いてくれる書家がいました。新婚の娘の為に次の文面を書いて頂きました。大雁比翼飛万里 夫婦同心楽百年 写真の寒山寺の鐘楼の鐘は二つあり一つは日本の総理大臣伊藤博文が発起人となり寄付を集め唐風の銅鐘で寒山寺に寄付され銘文(姑蘇寒山寺・・・・・)が鋳されているそうです。この鐘は現在大雄宝殿の右側にあるようです。写真に通訳と写る『鉄鈴関』古関は現存する蘇州の唯一の関だそうです。      

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上海租界 ワイタン-213

2013-08-18 17:46:29 | 広東・上海・瀋陽

上海租界 ワイタン-213

上海租界-213    上海のバンド(海岸通り)は中国語で外灘(ワイタン)と称する。改革解放政策後は黄浦江沿いの中山東路一帯が外灘(ワイタン)地区で当時の租界を支配した英・仏等の商人が貿易拠点として構えた建物が並んでいます。対岸のテレビ塔がある近代的な都市様相をていする浦東地区とは相対したネオ・ルネッサンス様式、ネオ・バロック様式、アール・デコ様式の建築物は現在政府により保存建築に指定され夜間はライトアップして観光資源とし租界時代の面影を残しています。

英国租界はバンド地区や南京路を中心にし、フランス租界は淮海路を中心に西洋街が建設されました。日本租界は北部の虹口地区でしたが現在は魯迅公園等がありますが歴史的な建物は残っていません。外灘(ワイタン)は現在観光地であり、又、自殺の名所でもあります。上海語は南の言葉に比較すると少し巻き舌気味の早く口です。上海は直轄地であり過って上海人は特別な立場であったそうです。現在の中国では都市市民・農村市民と戸籍で別け、農村市民は都市市民になりにくく三峡ダムの立ち退きには上海市民権を与え移転させたり、20年程度前には上海に住宅を買えば市民権を与えるとゆうような施策が取られたとも言われています。日本では戸籍の移動は自由ですから農民工等の差別は理解できない点があると思います。現在の上海は国際都市でもあり日本に興味を持つ人達も多く、日本語を学んでいる人も多くいます。日本語を学ぶ人達は一般的には日本に興味・好意を持っている人達であると私は思います。 写真人物は通訳さんです。       

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上海青浦区朱家角鎮-212

2013-07-07 10:14:44 | 中国旅・旅行・出張

上海朱家角鎮-212

上海朱家角鎮-212    上海近郷青浦区に位置する鎮です。当ブログ№.54、82にも一部記載しております。『運河-水門-喫茶館-市』の商業施設の相関関係の構図や鎮の中心的場所としての廟寺も現存しています。放生橋(現在は此の橋の下より幸運を願い金魚を放す、写真あり)近くには古い茶館があり、古代の商業の仕組みを観る事が出来ます。鎮内では鶏肉入りの饅頭が有名です。

この地に行く日本人も多いようでバスで行くかタクシーですが、私は上海市内でタクシーの運転手と交渉し往復半額にて決着しタクシーにて出かけました。水郷鎮の周荘鎮を遥かに凌いでいたと言われます。中国では都市の新聞調査では外国人が訪れる50の名所に入選したそうです。私も此の時は他省から上海を訪れた中国人の推奨でこの地を訪れました。今回はチャンネル写真にて掲載します。 

当ブログに記載した写真に対する文面は写真描写を中心に記載しました。私自身の気持・感想はあまり書く事がありませんでした。それは長く中国を訪問したことによる思想への統制を強く感じていた為です。思想に対する監督は大変なものです。一党独裁による当地には必要な要件なのでしょう。私の当地での経験で公安・警察の取り締まりの強硬さを目の当たりにした事が度々ありました。それ故、中国に友人を同伴する時に出発前に伝えた事は大勢の居る街中で体制批判をしない様に、当地は日本ではない『壁に耳あり障子に目あり』ですと伝え注意をして頂きました。今後は少し体制への感想、中国人の思想等をもう少し記載しても良いのではと考えます。       

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上海南京路歩行者天国

2013-06-18 22:43:06 | 中国旅・旅行・出張

上海南京路歩行者天国

上海南京路-211    写真は10数年前の南京路歩行者天国の光景です。人民広場近くの南京西路から東の入口迄の歩行専用路を写したものです。季節は秋の終わり頃で有料の乗り物が南京西路を行来していました。一枚の写真は西路より東を写し、その東路は黄浦江沿いの外灘(バンド 海岸通り)に通ずる道路迄です。十数年前はまだ自転車も多く道路は自動車で混雑する事も少なかったです。今では南京東路は自動車で一杯です。

上海は有名な地域の為日本人も多く訪れ馴染みのある方も多いと思います。上海には旧日本租界(上海北部の虹口地区 魯迅公園あり)と呼ばれる地区があります。上海市は中国政府の直轄市で人口も多く常住人口は2400万人を超えると言われています。上海人の構成は南の江蘇省と北の浙江省からの移民が多いそうですし、商売関係には広東省の人間も多いです。上海人の姓名は張、王、朱、沈等の姓が多いようです。上海人は利にたけ我々日本人は騙される事が多く、私も最初上海を訪問する時はその様な名前の人には気を付けるように忠告されました。上海語は方言ですが私には会話が早く巻き舌に聞こえます。中国では人口問題で戸籍の移動は大変難しく上海・北京では中国では最も厳しい政策がとられ、大都市の戸籍を持つ人は多くの特権があります。過ってはマンションを建設しても売れず市内でマンションを買えば市民権を与えるとか、三峡ダムの建設立ち退き者には移民として受け入れたという経緯があるそうです。租界に関わる外灘(バンド 海岸通り)は観光資源とし残されていますが日本の租界と言われた地域には特にその面影はありません。          

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瀋陽機関車博物館

2013-05-01 10:50:36 | 中国旅・旅行・出張

瀋陽機関車博物館

瀋陽蒸気機関車博物館-210    満州国設立時の有名なアジア号に関する博物館があると言う元研修生の案内にて2002年の夏に当地を訪れました。その当時日本での報道で博物館に対し、日本の有志が多額の寄付をしたという記事を読んでいたので如何な所かと研修生の勧めもあり博物館に行きました。其の当時は近隣でもその所在がわからず、交通の便がなく取り敢えず瀋陽市内よりタクシーにて途中で尋ねながら出かけました。そこは蘇家屯という村のような所で人家もまばらな場所にあり、博物館らしき建物もなく、田舎の操車場的な場所に野ざらしの状態で写真の機関車が並べてありました。勿論管理人もおらずアジア号らしき機関車もなく其の当時は管理建物もありませんでした。少なからず期待を持って長時間かけ辿り着いたのですが大変失望した事が思い出されます。博物館といえば普段日本で想像する状況ではなく、放置された大きな鉄の錆びた塊のような状態でした。放置された機関車に搭乗する事も自由で記念に乗車し写真を写しました。

現在は博物館と称する建物もあり、色々な機関車が展示され、その中には博物館建設費用を援助した日本人達のプレートが据えられているそうです。

追伸:当時はフイルムによる写真のためスキャンしたものでサイズが少し異なります写真研修生は当ブログNo.173に記載した人物です。       

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店舗色々‐2

2013-03-13 10:57:54 | 中国旅・旅行・出張

店舗色々‐2

店舗色々 2-209         過去に写した店舗写真を掲載しました。ブログNo.208に掲載感想を書きましたが、店舗新築・改装に際し日本と大きく違う事は施主が施行者に日本では一般的に一括設計・施工をお願いする事が大多数です。しかし、中国では最近までその様な方式で発注する事が少ないのです。施行に際し図面を描く事も少なく大工・左官・電気工事・その他等を別々の業者に発注し施行の順序が決められなくチグハグな工事がなされます。それ故、完工した工事仕上げ内容が良くありません。最近まで百貨店の地階にそのような工具・部品等が色々売られていました。最初にその売り場を見た時は誰が購入するのか奇異に感じました。中国人の他人を余り基本的には信用しない気質・習慣により発注者が部品を購入し、工事業者に取り付け工事をお願いするのだそうです。色々中国人と接しその習慣風土等を考えるとそれが理解できるように思えます。最近日本に住む知人の中国人が住宅の改装をするに際し、私が何時もお願いしている業者に発注依頼の連絡あったそうです。後日其の業者が話をするには大工工事はA社、畳工事はB社、床工事はC社、クロス業者はD社等色々な工事をインターネット等で比較し工事が進まず工事をうけ大変だったといっていました。後日談ですが私に工事の内容を相談する事を中国人が嫌ったということです。私は予てより中国人の気質・状況を見て話をしているので、知人の業者(中国には何回となく同伴し、この中国人とは過去に上海にて紹介)も承知をしていたと思いますが、日本的に安易に考えたのでしょう。私に相談があれば中国人の気質を考え受注は慎重にと忠告したと思います。          

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市内新旧店舗

2013-03-01 16:11:41 | 中国旅・旅行・出張

市内新旧店舗

広州市内店舗色々 1-208     写真は旧市内の店舗の新旧です。昔ながらの店舗・改装した店舗等で真新しい店舗は日本とは変わらない店装で仕上げてられています。広州は年間を通じ温暖な地方のため、一昔前は店の入り口が開放されていなければお客さんは入らないという諺があり信じられていました。それ故、旧市街住宅地に隣接する繁華街の古い商店は入口が開放された店舗が軒を並べます。旧市内の店舗建物は4・5階建てにて1階が店舗となり2階から上は住宅で住宅部分は4~5メタ-通路にせり出し、そのセリでた部分の下が通路になっています。一般的に知られる北京路・南京路はその限りではありません。しかし、最近は空調施設が充実し扉を付ける店が増えたようです。大都市は発展が目覚ましく、新旧混在し新しい店は大変現代的です。古くからある商店街は道幅も狭く街路樹が茂り人口が密集し大変混雑をしております。最近は自動車にて行動する為、富裕層はその様な場所には出かけにくいです。それ故、郊外に広がり街は大変大きくなり、道幅も広く新店がオープンし自動車にて行動するにはそのような場所に出かける機会が多いです。勿論新店舗は扉も付き大変立派な内装です。      

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